蘇北におけるプロテスタント宣教師の布教活動
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1 はじめに 2 中国におけるプロテスタント宣教師の布教活動の概況 第一期(前半)一八〇七年(モリソンの伝道開始) ~一八三九年(ロバーツの入華) 第一期(後半)一八四〇年(アヘン戦争) ~一八六〇年(天津条約) 第二期 一八六一年(同治初年) ~一九〇〇年(義和団事件) 第三期 一九〇一年以降~一九三〇年代 3 蘇北におけるプロテスタント教会とアブサラムの布教活動 アブサラム・サイデンストリッカーの中国における軌跡 アブサラム・サイデンストリッカーの中国における布教活動前史─中国入国まで 一八五二 ~ 一八八〇 一 ~ 二十八歳 杭州、蘇州での語学研修時代 一八八〇 ~ 一八八四 二十八~ 三十二歳 芝罘(烟台)での布教方法の学習時代 一八八四~一八八六 三十二~ 三十四歳 鎮江、清江浦、宿遷を拠点とした蘇北での布教活動 一八八六~一八九六 三十四~四十四歳 鎮江での活動─義和団事件まで 一八九六~一九〇〇 四十四~四十八歳 鎮江での活動─義和団事件以降から辛亥革命前 一九〇〇~一九一〇 四十八~五十八歳 鎮江での活動─辛亥革命以降 一九一〇~一九二一 五十八~六十九歳 南京時代 一九二二~一九三一 七十~七十九歳 4 宣教師の目を通してみた当時の蘇北社会 清江浦(一八八七~一八九一)及び宿遷(一八九二~一八九六)の情況 蘇北での伝道戦略─都市農村関係の把握 鎮江・南京での伝道方法(一八九六~一九三一) 蘇北の水害と飢饉 アブサラムにとっての蘇北社会 5 結びにかえて 引用・参考文献リスト
1
はじめに
ア ブ サ ラ ム・ サ イ デ ン ス ト リ ッ カ ー( Absalom Sydenstricker ) は、 一 八 五 二 年 に ア メ リ カ の ウ エ ス ト・ バ ー ジ ニ ア で 生 ま れ、 南 長 老 教 会( The Southern Presbyterian Church ) の 宣 教 師 と し て 一 八 八 〇 年、 二 十 八 歳 の 時 に 中国の上海に渡った。一八八〇年といえば清朝の光緒帝が在位していた時代であった。以後、江蘇省の淮陰や鎮江 などを拠点に布教活動を行い、中華民国期の一九三一年に七十九歳で療養先の江西省で亡くなるまで、中国に滞在 し続けた。その間に四回ほど休暇でアメリカに一時帰国してはいるが、五十一年間という人生の大半を、江蘇省で の布教活動に捧げた人物である。アブサラムは、江蘇省の中でもとりわけ蘇北における布教の開拓者として知られ ている。 日本でのアブサラム・サイデンストリッカーの知名度は高くはないが、パール・バックの父親といえば、容易に イ メ ー ジ が わ こ う。 パ ー ル は、 中 国 に て、 農 学 者 で あ っ た ロ ッ シ ン グ・ バ ッ ク と 結 婚 し た た め、 姓 が バ ッ ク に 変 わったが、彼女の中国名である賽珍珠の賽( sai )は Sydenstricker からきている。 私とアブサラムとの出会いは、一九八五年に南京大学に留学していた際、蘇北の淮安県車橋鎮で農村調査をした 時に遡る。自然災害の度に江南の都市に逃げていたいという農民の話を聞き、パール・バックの『大地』を思い出 し、 も し か し て 淮 安 が『 大 地 』 の 舞 台 な の で は な い か、 と 思 っ た。 こ の 推 測 は、 調 査 中 に 入 手 し た、 『 淮 安 文 史 資 料』第二輯に収められている「淮安基督教簡況」という一文を読んで確信へと変わった。というのも、蘇北に初め て 布 教 に き た 宣 教 師 は、 ア メ リ カ の 長 老 教 会 牧 師 の 賽 兆 祥 と あ り、 こ の 人 物 の 説 明 と し て、 『 大 地 』 の 作 者 で あ る 賽珍珠の父と記されていたからである 。 (注 ) 1こうした経緯から、蘇北での調査以降も、パール・バックやアブサラム・サイデンストリッカーについて資料を 集めてきた。その後のリサーチで、 『大地』の舞台は安徽省北部の宿州であるということが判明するが 、 同じ淮北平 原ということで、当初の推測はそれほど間違っていなかったことになる。 ア ブ サ ラ ム・ サ イ デ ン ス ト リ ッ カ ー に つ い て は、 パ ー ル・ バ ッ ク に よ る 伝 記、 Fighting Angel: Portrait of a
Soul John Day
(
1936
)がある
。また、
アブサラム自身による自伝として、
Our Life and Work: A Private Account
by Reverend Absalom Sydenstricker が あ る。 こ れ は 老 い た ア ブ サ ラ ム が 南 京 に 住 ん で い て た パ ー ル と 同 居 す る よ うになった一九二三年、パールに勧められて、個人的なノートとして書き記したものである。アブサラムが七十一 歳の時の回顧で、亡くなる八年前のことであった 。なお、パール・バックは、父がこの自伝を書いている間に、父 から多くの話を聞き、父の伝記を書く際の参考にしたということである 。 このほか、アブサラムの著作としては、一八八九年に An Exposition of the Construction and Idioms of Chinese Sentences: As Found in Colloquial Mandarin. for the Use of Learners of the Language と題する漢語テキストを、 上海の American Presbyterian Press から出版している 。また、聖書の新しい中国語訳も行っているが、これは公 開 出 版 さ れ る こ と は な か っ た 。 な お、 ア ブ サ ラ ム が 亡 く な っ た 一 九 三 一 年 に、 娘 の グ レ ー ス( G.S.Y. ) が 短 い 追 悼 文を
The Chinese Recorder
に投稿している。 な お、 ア ブ サ ラ ム の 宣 教 師 と し て の 中 国 に お け る 仕 事 を 総 括 し た も の に、 Jost Oliver Zetzsche 著 の Absalom Sydenstricker ( 1852-1931
): a ruling minority of one
という小冊子がある 。 中国におけるアブサラムの布教活動に ついて論じた論文としては、これが最初のものであろう。 (注 ) 2 (注 ) 3 (注 ) 4 (注 ) 5 (注 ) 6 (注 ) 7 (注 ) 8
本稿は、アブサラム・サイデンストリッカーに焦点をあてて、清末から中華民国期にかけての長老教会をはじめ とするプロテスタント各派の蘇北における布教活動について考察するものである。もっとも、筆者の関心は、長老 教会の布教活動のみならず、宣教師らの目を通してみた当時の蘇北社会にある。 注 ( 1) 費蘇一九八五「淮安基督教簡況」 『淮安文史資料』第二輯 淮安県文史資料研究委員会編 ( 2) パ ー ル・ バ ッ ク の『 大 地 』 の 舞 台 を 巡 っ て は、 拙 稿 二 〇 〇 一「 パ ー ル・ バ ッ ク と 江 北 農 村 」 を 参 照 さ れ た い。 ま た、 パ ー ル・ バックの中国での足跡を訪ねたレポートとして、二〇〇二「中国におけるパール・バックの足跡」がある。 ( 3) 本書は、邦訳がある。深沢正策訳一九三七『戦える使徒』 (第一書房版)/一九五二『戦える使徒』ダヴィット社版 ( 4) この自伝は一九七八年になって、娘の Grace による校訂を経て、 Peal S. Buck Birthplace Foundation から、同名のタイトルで 出 版 さ れ、 は じ め て 公 に さ れ た。 五 十 五 頁 ほ ど の 小 冊 子 で は あ る が、 本 人 が 書 い て い る だ け に、 貴 重 な 記 述 と な っ て い る。 残 念 な が ら 本 書 は 日 本 の 図 書 館 に は な く、 私 も 一 九 九 五 年 に カ リ フ ォ ル ニ ア 大 学 に 滞 在 中、 他 の 図 書 館( Fairmount State College Library )からとりよせてコピーをすることができた。リプリント版も今のところない。 ( 5)
Our Life and Work: A Private Account by Reverend Absalom Sydens
tricker ( 1978 )にある、 Grace の記した序文より。 ( 6) 本 書 は、 日 本 の 図 書 館 に は 所 蔵 さ れ て お ら ず、 筆 者 は カ リ フ ォ ル ニ ア 大 学 滞 在 中 に オ リ ジ ナ ル 版 か ら の コ ピ ー を 入 手 し た。 現 在、 本 書 の リ プ リ ン ト 版( ISBN 978-1-44468-831-3 ) が、 Amazon.usa を 通 し て 購 入 可 能 と な っ て い る。 筆 者 も 参 考 ま で に こ の リ プ リ ン ト 版 を 購 入 し た が、 印 字 は 鮮 明 と は い え な い。 本 書 は、 ま た 一 九 七 八 年 に な っ て、 Miscellaneous works on China と い う 本 に 再 録 さ れ て い る よ う で あ る。 こ れ は ア ブ サ ラ ム・ サ イ デ ン ス ト リ ッ カ ー の 他 に、 四 名 の 宣 教 師 ら が 一 八 八 七 ~ 一 八 九 七 年 の 十 年 間 の 間 に 記 し た 文 章 を 集 め た も の で あ る( John Lawson Stoddard, Absalom Sydenstricker, Paul Carus, George T. Candlin, Stewart Culi 共 著 Miscellaneous works on China: A collection of pamphlets on China, all of which were published between 1887-1897 McClain Print. Co )。 な お、 Google books に よ る と、 発 行 年 を 一 八 八 七 年 と し て い る が、 こ れ は 副 題 か ら 判 断 し て 誤 り と 思 わ れ る。 本 書 も 日 本 の 図 書 館 で は 所 蔵 が な く、 筆 者 は 入 手 し て い な い が、 本 書 は、 以 前 に 出 版 さ れ た も の の リプリント版というよりは、一九七八年になって編集、刊行されたもののようである。
な お、 本 書 に 対 し て は、 筆 者 に よ る 解 題 と、 例 文 の 分 析 が あ る。 ま た 研 究 者 の 便 を 考 え、 原 書 を 再 録 し て い る( 拙 稿 二 〇 一 一「 資 料 紹 介 ア メ リ カ 人 宣 教 師 の 著 わ し た 漢 語 テ キ ス ト ─ Absalom Sydenstricker 著 An Exposition of the Construction and Idioms of Chinese Sentences: As Found in Colloquial Mandarin. for the Use of Learners of the Language ( 1889 )を巡っ て─」 『武蔵大学人文学会雑誌』四十三巻二号) 。 ( 7) アブサラムの自伝を校訂した Grace によると、この新しい中国語訳の聖書は、一九六三年に、パール ・ バックによって、ニュー ヨークにある
American Bible Sosiety
に寄贈されたという。 ( 8) Jost Oliver Zetzsche 著 Absalom Sydenstricker ( 1852-1931 ): a ruling minority of one University of Cambridge. North Atlantic Missiology Project 本書は一九九八年に North Atlantic Missiology Project によって組織され、 Pasadena にて開催さ れ た フ ォ ー ラ ム で 発 表 さ れ た も の で、 二 〇 〇 五 年 に な っ て、 Kathleen L. Lodwick & W.K.Cheng eds. The Missionary Kaleidoscope: Portraits of Six China Missionaries と題した論集の中に収録されている。 Zetzsche にはこのほか、聖書の漢訳の 歴史を詳細に研究した、 The Bible in China: The History of the Union Version or the culmination of Protestant Missionary
Bible Translation in China
(
1999 Steyler Verlag, Monumenta serica monograph series 45
)という著書がある。
2
中国におけるプロテスタント宣教師の布教活動の概況
アブサラム・サイデンストリッカーの蘇北における布教活動を見ていく前に、中国におけるプロテスタント宣教 師の布教活動の概況を整理しておきたい。この問題を扱った研究書としては、日本人によるものでは、比屋根安定 の『支那基督教史』 (一九四〇) 、および佐伯好郎の『支那基督教の研究』全四巻(一九四四 ~ 四九)がある 。 比屋根の『支那基督教史』は景教の伝来から説き起こし、明清代のカトリックの布教を論述し、最後に清末民初 におけるプロテスタントの布教活動を概述している。中国における基督教の布教の歴史の概略を知るにはコンパク トな一冊である。一方、佐伯は景教研究の開拓者としても著名な研究者であるが、中国における基督教に関しては (注 ) 1 (注 ) 1全 五 巻 か ら な る『 支 那 基 督 教 の 研 究 』 の 大 著 が あ る。 第 一 巻 が『 唐 宋 時 代 の 支 那 基 督 教 』、 第 二 巻 が『 元 時 代 の 支 那基督教』 、第三巻が『明時代の支那基督教』 、そして第四巻が、清代から民国期にかけてのプロテスタント宣教師 の布教活動が含まれる『清時代の支那基督教』となっている。第五巻は『付録』と題してプロテスタント宣教師の 漢 文 著 書 が 紹 介 さ れ て い る。 こ の う ち 第 四・ 五 巻 を 合 わ せ た も の が 一 九 四 九 年 に『 清 朝 基 督 教 の 研 究 』 と し て 別 途、刊行されている。 比屋根、佐伯とも、清代におけるプロテスタントの布教活動を論じるに際し、それに先立つカトリックの布教活 動との比較の視点が十分にいかされていること、クリスチャン(プロテスタント)としての批判的精神をもって論 じ て い る こ と、 第 三 者 と し て の 日 本 人 の 立 場 か ら、 「 客 観 的 」 に 記 述 さ れ て い る こ と、 彼 ら に と っ て の 同 時 代 で あった民国期の状況で記述が終わっていること、などの共通点がみられる。とりわけ佐伯の論述の質と量は圧倒的 であり、今日読み返してみても非常におもしろく、宗教を通してみた比較文明論としても示唆に富む。 こ の ほ か、 近 年 の 英 語 圏 に お け る 関 連 す る 研 究 と し て は、 Stross, Randall の The Stubborn Earth : American Agriculturalists on Chinese Soil 1898-1937 ( 1986 ) が あ る。 こ れ は パ ー ル・ バ ッ ク の 夫 と な っ た Lossing Buck など、アメリカから農業技術の指導のために中国に派遣された宣教師や技術者らの活動を総括したものである。 ここでは、佐伯をはじめとするこれらの先行研究をもとに、清代から民国期にかけてのプロテスタントの布教活 動を概観してみたい。 佐伯は『清朝基督教の研究』の中で、中国におけるプロテスタントの布教活動を、三つの時期にわけている。即 ち、第一期を、清の嘉慶十二(一八〇七)年、イギリス人宣教師のロバート・モリソンの中国伝道の開始から、咸
豊十(一八六〇)年、英仏連合軍が北京に侵攻し天津条約が結ばれるまでの、約五十年間としている。この間には 一八四〇年のアヘン戦争、一八四二年の南京条約と香港割譲など、布教活動にとっても大きな影響を与える事件が 起こっていることから、佐伯はこの第一期をさらに、南京条約の前と後とで二つに細分化している。第二期は、同 治帝の初年(一八六一)から光緒二十六(一九〇〇)年の義和団事件までの、約四十年間、第三期は、義和団事の 議 定 書 が 交 わ さ れ る 光 緒 二 十 七( 一 九 〇 一 ) 年 か ら「 現 代 」( 一 九 三 〇 年 代 ) ま で の 約 三 十 年 間、 と し て い る。 こ れは至極、理にかなった区分である。もしその後の展開を加えるなら、一九四九年の中華人民共和国の成立をもっ て、第四期となろう。これも一九八〇年代以降の改革開放政策の前後で、二つの時期に細分化されよう 。 さて、佐伯はプロテスタントの布教の歴史を振り返る前に、カトリックとプロテスタントの異同について論述し ている。これを知らなければ、清代におけるプロテスタントの布教活動が、どうしてあのような形態になったのか の根本を理解することができないからである。プロテスタントはカトリックから分離、独立したもので、いわば一 分派であるため、教義や教会組織において、カトリックの遺風から完全に脱しきれていないが、それでもいくつか の異同がある。それらを整理すると以下のようになる。 ( 1) 教 理 上 の 徹 底 性 と 不 徹 底 性。 カ ト リ ッ ク に お い て は 神 と 人 と の 間 に あ っ て 神 に 取 り 次 ぐ 人 と し て、 イ エ ス の 他に、聖母マリヤ、聖者、ローマ法王および法王が任命する僧侶を認め、かつローマ法王の権限を維持するために は 実 力 行 使 も 辞 さ な い の に 対 し、 プ ロ テ ス タ ン ト が 認 め る 仲 介 者 は イ エ ス の み で、 ロ ー マ 法 王 の 命 令 に 屈 服 し な い。これは聖書の解釈権にいついても言え、プロテスタントはローマ法王の解釈に従うことをしない。プロテスタ ントが聖書を非常に重んじるのはこのためである。後述するように、聖書の漢語訳においてプロテスタントが大き な貢献をなしたのもこれで頷ける。このように、カトリックがローマ法王の徹底的な統制下にあるのに対し、プロ (注 ) 2
テ ス タ ン ト は 全 く の 自 由 主 義 で あ る。 ま た そ れ 故 に、 聖 書 の 解 釈 を め ぐ っ て、 さ ま ざ ま な 支 派 に 分 派 す る 結 果 と なった。そうした状況は、そのまま中国での伝道においても持ち込まれることとなった。 なお、佐伯は、欧州において宗教改革の運動が旺盛であったのは運動が始まってから半世紀ほどの間で、その後 は 反 宗 教 改 革 の 運 動 に よ っ て 終 焉 を 告 げ よ う と し て い た が、 新 大 陸 の 発 見 に よ っ て プ ロ テ ス タ ン ト は 息 を 吹 き 返 す。多くのプロテスタントがアメリカ大陸に移住し、ここにプロテスタント国家を築き上げたおかげで、欧州のプ ロテスタントもかろうじて成立するにいたった、としている。カトリックが明末(マテオ・リッチの澳門上陸は一 五八〇年)に中国伝道を開始したのに対し、プロテスタントがそれから約二百三十年も遅れて中国伝道を開始(ロ バート・モリソンの広東上陸は一八〇七年)したのも、当時の欧州のプロテスタント国家には中国伝道をするよう な余力もなく、また熱烈な信仰もなかったからである、としている。この点においても、新興のプロテスタント国 家、アメリカの果たした役割は多大であった。 最初に中国入りした宣教師はイギリス人であったが、その手助けをしたのがアメリカであったこと、彼に続くプ ロテスタント宣教師の多くがイギリス人とアメリカ人、および少数のドイツ人で占められていたことには、歴史的 な理由があったのである。 佐伯は、イギリスやアメリカのプロテスタント宣教師が中国伝道の中心となったのは、この時期のイギリスの膨 張 と「 太 平 洋 時 代 」 の 到 来 が 背 景 に あ り、 そ れ は あ た か も 明 末 に カ ト リ ッ ク の 教 士 ら が 中 国 に や っ て き た 背 景 に、 ポルトガルとスペインの膨張政策があったのと同一であるとし、両者の違いは、カトリックでは宗教が領土拡張政 策の具に利用されたのに対し、プロテスタントではそうではない点である、という重要な指摘を行っている。 ( 2) 布 教 活 動 に み ら れ る 統 制 と 無 統 制。 中 国 に お け る カ ト リ ッ ク( 天 主 教 ) の 僧 侶 ら は、 ロ ー マ 法 王 の 統 帥 権 の
も と、 一 糸 乱 れ ず、 長 期 的 な 戦 略 に 基 づ い て 布 教 活 動 を 行 っ て い る の に 対 し、 プ ロ テ ス タ ン ト は 全 く の 無 統 制 で、 新教各派は十人十色、それぞれが勝手に土地を選び、自分流の手段で伝道を行っている。組織性や永続性に欠ける やり方では、とりわけ中国のような非キリスト教国での布教がうまくいくはずもない。 欧米におけるプロテスタントの分派は歴史的なもので仕方ないにしても、各宗派をそのまま中国に持ち込むのは 全 く 意 義 の な い こ と で あ る。 中 国 人 か ら し た ら、 カ ト リ ッ ク の 教 士 と 接 触 し た ら 誰 し も カ ト リ ッ ク の 信 者 と な る が、プロテスタントの宣教師と接触したら、会った宣教師の宗派の信者になる、ということが生じてしまう。 宣教師の質も、カトリックが長年の修行を積んだ優秀な人材を送り込むのに対し、プロテスタントは大挙してい くものの、素質にはばらつきがある。というのも、プロテスタントの場合、中国伝道を志した者は、所属する教派 の伝道組織に志願すれば、すぐに中国に派遣されたからである。天主教の僧侶が漢文を学び、中国の伝統文化にも 精通しているのに対し、プロテスタントの場合、中国の古典を読めないばかりか、漢字の読み書きができない者も いたような状況であった。 さらに言えば、布教の目的も手段も異なった。カトリックの場合、伝道地において天主教会の「教民」を作るこ とが最終目的であるのに対し、プロテスタントの目的は、非キリスト教国においてキリストの福音を宣伝すること にある。福音を聞いて入信するかどうかは、宣教師の仕事ではなく、本人の判断にゆだねられる。 こ の た め、 天 主 教 で は、 布 教 は 信 者 を 介 し て 秘 密 裏 に 行 わ れ る の に 対 し、 プ ロ テ ス タ ン ト で は 演 説 会 方 式 を と り、公開でなされる。そして入信を希望する人数を本部に報告すれば仕事を終えたことになる。信者のその後のこ とをあまり考えないため、プロテスタントでは信者が数年後には信仰を捨てるということもしばしば起こった。一 村 落 を ま る ご と「 教 民 」 化 し よ う と し た 天 主 教 で は、 こ の よ う な こ と は 起 こ り え な か っ た。 も っ と も、 逆 に 言 う
と、中国の伝統文化をも「破壊」してしまう天主教に対し、プロテスタントは中国人たることを変えることは求め ないので、中国側からみたら「無害」な宗教であるとはいえる。 以上が、佐伯の論述から要点を整理したものであるが、プロテスタントの中国における布教活動に対しては、厳 しい見解が述べられている。もちろん、これは歴史学者としての冷静な評価ではあるが、加えて信仰を持っている 者だからこそできる苦言ともいえよう。 プロテスタントが中国での布教活動に際し、カトリックの布教経験から学ぼうとしなかったのは意外な感じを受 けるが、互いに反目しあっていた状況では、当然のことでもあった。くわえて、以上のような教義、目的、手段に おいて大きな差異が存在していたわけであるから、無理もなかったと思われる。 こうしたプロテスタントの特徴を踏まえた上で、以下、清末から民国期にかけてのプロテスタント宣教師らの布 教活動を簡単に整理したい。なお、以下は基本的に佐伯の著書によるもので、比屋根の著書から補足として補った 文章は〔 〕でくくった。 第一期(前半)一八〇七年(モリソンの伝道開始) ~一八三九年(ロバーツの入華) 中国におけるプロテスタントの伝道の必要性は、十八世紀に入ってから、ドイツのライプニッツによって説かれ て は い た が、 実 際 の プ ロ テ ス タ ン ト の 中 国 伝 道 は、 The London Missionary Society ( 一 七 九 五 年 創 立 ) 所 属 の イ ギリス人宣教師、ロバート・モリソンが一八〇七年に広東に渡ったことに始まる。もっとも東インド会社は宣教師 の中国伝道を許可せず、乗船を認めなかったため、先述の如く、彼はアメリカに渡り、アメリカ政府の支援を受け
て 米 国 籍 船 に て 中 国 入 り を 果 た し た。 佐 伯 は、 最 初 に 中 国 入 り し た 宣 教 師 が ア メ リ カ 人 で は な く、 イ ギ リ ス 人 で あったことはむしろ不思議であるが、彼がアメリカ政府の支援を受けたことを考えれば、実際にはアメリカによっ て開始されたとみなしてよい、としている。 興味深いことに、モリソン(中国名、馬礼遜)が所属した The London Missionary Society は、新教各派を包括 す る も の で、 英 国 国 教 派 で は な か っ た。 第 一 期( 全 半 ) に は、 こ の ほ か、 American Board of Commissioners for Foreign Missions, American Board of Baptists Forign Mission, American Episcopal Board of Forign Missions な どに所属する宣教師らが中国入りし、その数は三十二 ~ 三十三人に達したが、同時期のカトリックの教士の数に比 べると十分の一にもならなかった。モリソンの場合、一八三四年に広東で亡くなるまで、二十七年間、中国に滞在 し た が、 布 教 活 動 よ り は、 中 国 に 関 す る 研 究 や 聖 書 の 中 国 語 訳( 一 八 一 九 年 に 新 約 聖 書 の 漢 訳 を 完 成 )、 外 交 上 の 仕 事 が 多 か っ た た め、 彼 か ら 洗 礼 を 受 け た も の は 十 人 に 過 ぎ な か っ た と い う。 〔 比 屋 根 は、 モ リ ソ ン よ り 洗 礼 を 受 け た 者 は 三、 四 名 に 過 ぎ ず、 中 国 に 一 つ の 教 会 も 学 校 も 建 て る こ と が で き な か っ た、 と し て い る。 〕 と は い え、 モ リソンをはじめとする第一期のプロテスタント宣教師らのなした大きな事業は、新旧両約聖書の漢訳を完成させた ことであった。ちなみに、モリソン親子の収集した中国に関する貴重な図書(モリソン文庫)が一九一七年に日本 側に譲渡され、これが東洋文庫(一九二四年設立)の蔵書の根幹をなしていることを考えると、彼は日本にとって も関係の深い人物である。 なお、佐伯は、中国や日本にきた宣教師の子供で宣教師になる人は比較的少なく、外交官になるものが多いとの 指 摘 を 行 っ て い る。 確 か に、 パ ー ル・ バ ッ ク も、 大 学 卒 業 後 は 宣 教 師 と し て 中 国 に 戻 っ て く る も の の、 そ の 後 は、 教育に携わりながら作家へと転向し、最後には長老教会とも決別することとなる。
第一期の宣教師で特筆されるべきは、 American Board of Baptists Forign Mission が一八三六年に広東に派遣し た宣教士の中に、 若き日の洪秀全にキリスト教を教えた、 Issacher Roberts (中国名、 羅孝全)がいたことである。 洪秀全は結局、洗礼を受けることはなかったが、一八四六年に一ヶ月に渡って広東にて羅孝全からキリスト教につ いて学んだとされている。 なお、アブサラムとの関連でいうと、米国長老教会伝道団( American Presbyterian Mission )所属の宣教師も、 一八三八年になって代表を(シンガポールに)派遣し、広東での布教の足がかりとした。このように、第一期の布 教活動は広東が中心となっていた。 第一期(後半)一八四〇年(アヘン戦争) ~一八六〇年(天津条約) アヘン戦争の結果、一八四二年にイギリスと清国との間で締結された南京条約により、中国での布教活動は新し い時代を迎える。即ち、清国政府は宣教師を含む西洋人に対して治外法権を認めたこと、活動の拠点となる香港が 割譲されたこと、広州、福州、廈門、寧波、上海の五港が開港されることになった。しかも五港以外の地に外国人 が 入 っ た 場 合 は こ れ を 処 罰 せ ず、 保 護 し て 最 寄 り の 開 港 地 の 領 事 に 引 き 渡 す こ と と な っ た。 こ れ を 利 用 し、 カ ト リックの教士は、独身という身軽さに加え漢語にも精通していたので、内陸部へと入っていった。妻帯し漢語に弱 いプロテスタントの宣教師はこの点で出遅れた。 もっとも、南京条約にはキリスト教に関する規定がなく、これが加わるのは清米間の望厦条約と清仏間の黄埔条 約(共に一八四四)からで、礼拝堂や学校、病院の保護を規定し、アロー号事件によって清国と英仏露米間に結ば れた天津条約(一八五八、仏英の批准は一八六〇)によって、プロテスタント、カトリックを問わず、キリスト教
の布教の自由と、宣教師と信者の保護が規定された。 プロテスタント教団の中には、武力による理不尽な条約の特権を使って布教活動をするべきではないと主張する 一 派 も あ り は し た が、 こ の 条 約 の 結 果、 多 く の プ ロ テ ス タ ン ト 宣 教 師 が 中 国 に 渡 る よ う に な っ た。 一 八 四 〇 年 に は、三十三名の宣教師だったのが、一八五八年には、二十二の伝道組織と八十一人の宣教師に、一八六四年には二 十四の伝道組織と百八十九名の宣教師に増加した。なお、宣教師の数はその後も増加し続け、一八八一年には二十 九の伝道組織と六百十八人の宣教師、一八八九年には四十一の伝道組織と千二百九十六名の宣教師に増加する。信 徒の数も、一八四〇年が百人、一八五七年が三百五十人、一八六九年が五千七百五十人、一八七六年が一万三千三 十五人、一八九三年が五万五千九十三人と増加の一途をたどる。但し、その多くは農民か商工業者であって知識人 ではなかった。一方、カトリックも南京条約以降、教士の増加派遣を行っている。 第 一 期 前 半 の 布 教 活 動 の 拠 点 が 広 東 で あ っ た の に 対 し、 後 半 は 将 来 を 見 越 し て、 拠 点 が 上 海 に 移 っ た。 例 え ば、 米国長老教会伝道団も当初は広東に拠点を設けようとして、一八四六~四七年にかけて三名の宣教師を広東に派遣 するが、広東は排外思想がつよく、困難を極めた。そこで一八五〇年は上海に宣教師を派遣し、印刷所も上海に移 動 さ せ た。 一 八 五 四 年 に は 山 東 伝 道 の 開 拓 者 と し て 知 ら れ John Nevius が 来 華 す る。 〔 比 屋 根 に よ る と、 米 国 長 老 教 会( American Presbyterian Church ) は 一 八 三 八 年 に シ ン ガ ポ ー ル に 宣 教 師 を 派 遣 す る が、 中 国 へ の 派 遣 は、 一 八 四 三 年 の 広 東 が 最 初 で あ る と し て い る。 し か し、 伝 道 は 不 可 能 で あ っ た。 そ の 後、 一 八 五 〇 年 に J.K.Wight と M.S.Cullberston を 上 海 に 派 遣 し、 一 九 六 〇 年 に 教 会 が 組 織 さ れ る。 杭 州 で の 布 教 は 一 八 五 九 年、 蘇 州 で の 布 教 は 一 八 七 一 年 と な っ て い る。 ま た、 一 八 五 〇 年 に 寧 波 に 派 遣 さ れ た William Martin は、 一 八 九 七 年 に 北 京 大 学 が 設 立されると初代学長となった。 〕
The Protestant Episcopal Church in the USA に よ っ て 一 八 四 三 年 に 中 国 に 派 遣 さ れ た Boone は 上 海 で 学 校 を 設立するが、これが後の聖約翰大学となった。なお、彼は一八六一年に布教しようとした山東の芝罘で暴徒によっ て 殺 害 さ れ た。 〔 比 屋 根 に よ る と、 ブ ー ン の 死 後、 彼 の 息 子 が 父 を 引 き 継 ぎ、 江 蘇 の 鎮 江 や 安 徽 省 の 蕪 湖、 安 慶、 湖北省の漢口などで布教を行った。 〕また American Board of Baptists Forign Mission も一八四七年に宣教師を上 海 に 派 遣 し、 江 蘇 一 帯 に お け る バ プ テ ィ ス ト の 地 盤 を 築 い た。 〔 比 屋 根 に よ る と、 バ プ テ ィ ス ト 教 会 と し て は、 イ ギリスも一八五九年に芝罘にて布教活動を開始する。資金面の理由から他の教団からの転入者も加わる。転入希望 者の中には、ハドソン・テーラーもいたが、調整がつかなかったために加入しなかった。このことが彼が後に内地 会を設立する遠因になったという。 〕 一 八 五 三 年 に は、 内 地 会( China Inland Misson ) を 設 立 す る ハ ド ソ ン・ テ ー ラ ー も イ ギ リ ス か ら 来 華 す る が、 内地会については後述する。 伝道組織や宣教師の数が増えると、宗派を超えた協力関係の必要性が認識されるようになり、多少の提携もみら れ る よ う に な っ た。 し か し 長 い 歴 史 の 中 で 分 派 し た 各 派 が、 異 教 徒 の 住 む 中 国 と い う 土 地 で 再 統 合 さ れ る こ と な ど、 不 可 能 で あ っ た。 そ う し た 対 立 は、 聖 書 の 漢 訳 に お け る 用 語 問 題 と し て 表 面 化 し た。 God に 対 し、 「 天 主 」 の 文 字 を 避 け、 「 神 」「 上 帝 」「 天 帝 」 な ど の 文 字 を あ て た。 プ ロ テ ス タ ン ト 各 派 は 天 主 教 の 用 語 を そ の ま ま 採 用 し て 「天主教」と称することはできなかったため、モリソンによって「耶蘇教」と称され、 「天主教」との区別がなされ た。また清国側も「天主教」と「耶蘇教」の違いを認識するに至る。そして天津条約において「基督教」の名称が 使われるようになり、以降、 「耶蘇教」に代わって「基督教」の名称が定着することとなった。 第 一 期 に お け る 二 大 事 業 と し て、 佐 伯 は( 一 ) 聖 書 の 漢 訳、 ( 二 ) 漢 文 古 典( 四 書 五 経 な ど ) の 欧 州 語 訳、 を あ
げている。とりわけ聖書の漢訳はプロテスタント宣教師らの偉大な功績としている。というのも、カトリックは明 末 か ら 中 国 に 伝 道 を 開 始 し て い る に も 関 わ ら ず、 新 約 聖 書 の 漢 訳 を 完 成 さ せ た の は、 日 清 戦 争 後 の 一 八 九 七 年 に なってからであった。 一 方、 プ ロ テ ス タ ン ト に よ る 聖 書 の 漢 訳 の 試 み は、 早 く も マ ル シ ュ マ ン に よ っ て 一 八 二 二 年 に イ ン ド で な さ れ、 中 国 で は 一 八 二 四 年 に な っ て モ リ ソ ン ら に よ っ て 漢 訳 さ れ る。 そ の 後、 旧 約 聖 書 も 含 め、 い く か の 漢 訳 が 試 み ら れ、一八四三年には在華プロテスタント各派が聖書改訳委員を出して改訳にあたった。しかし意見の対立から一八 五三年になってやっと完成する。その後も新旧聖書の漢訳が続けられ、一八九〇年以降には、文語体のほかに、口 語体および官話体での漢訳もなされた。 この結果、中国人に最初に聖書を配布したのはプロテスタント宣教師らの手によってであった。こうした背景に は、聖書に対するカトリックとプロテスタントのスタンスが根本的に違うことがあげられる。マテオ・リッチの漢 語力からしたら、明末に漢訳聖書を完成させることは可能であった。 四 書 五 経 や『 孝 経 』『 小 学 』『 三 字 経 』『 千 文 字 』 な ど の 欧 州 語 訳 も、 早 く も 一 八 四 〇 年 代 か ら プ ロ テ ス タ ン ト 宣 教師らによってなされた。これらの仕事によって、欧米諸国に中国文明の優秀性を認識させることとなり、半開化 人と見なしていた中国人に対する誤解を解くこととなった。この結果、宣教師らも、自らのキリスト教神学や教理 に対し、再検討を迫られることとなった。 第二期 一八六一年(同治初年) ~ 一九〇〇年(義和団事件) 第 一 期 が、 中 国 に お け る 伝 道 の 開 拓 期 で あ る な ら、 第 二 期 は 大 い な る 発 展 と、 そ の 反 動 が 巻 き 起 こ っ た 時 期 で
あった。第一期の後半から、清国は、洪秀全の太平天国やアロー号事件など「内憂外患」に悩まされていた。この 機 に 乗 じ て、 条 約 上 の 権 利 や 布 教 権 を 活 用 し、 さ ら に 多 く の プ ロ テ ス タ ン ト 宣 教 師 ら が 入 華 し、 信 者 を 増 や し て いった。即ち、一八六一年には、英米宣教師二百一人、中国人信徒約五千人だったのが、一八九三年には信徒数が 五万五千九十三人に急増し、一九〇〇年の義和団事件当時になると、宣教師千二百七十二(妻子を除く)人、信徒 数八万六百八十二人にまで増加する。 こ う し た 宣 教 師 と 信 者 の 急 増 の 背 景 に は、 内 地 会 が 深 く か か わ っ て い た。 内 地 会 は ハ ド ソ ン・ テ ー ラ ー( 中 国 名、戴公)によって一八六七年に中国で設立された組織である 。内地会の伝道方針は(一)中国全土に福音を宣伝 すること。その際、学校教育や慈善事業を手段とせず、宣教師の口を通して伝える。開拓者として中国内地の重要 な 地 点 に 十 字 架 を 立 て れ ば よ い。 ( 二 ) 本 部 を 中 国 に お き、 内 地 会 の 宣 教 師 ら は、 所 属 す る 英 米 本 国 の 教 団 の 指 令 に 従 わ ず、 内 地 会 所 属 の 先 任 宣 教 師 に 服 従 す る こ と。 ( 三 ) 伝 道 組 織 か ら 俸 給 を 保 証 さ れ ず、 与 え ら れ る だ け の 生 活費でもって伝道に従事すること、となっている。 当 時、 五 つ の 開 港 地 以 外 に お け る 外 国 人 の 居 住 権 が 問 題 と な っ て い た が、 テ ー ラ ー は 布 教 活 動 を 優 先 す る た め、 これを武力でもって押し切った。即ち、一八六七年、五開港地以外の十一カ所での布教活動を開始する。その一つ で あ る 揚 州 に て 教 案 事 件 が 起 こ る と、 砲 艦 四 隻 で 南 京 に 乗 り 込 み、 曾 国 藩 に 強 行 談 判 し、 揚 州 知 府 ら を 処 分 さ せ る。この結果、内地会所属の宣教師らの内地進出の基礎が築かれることとなった。テーラーは中国滞在中の五十余 年の間に、合計、八百二十八人もの宣教師を招集した。 〔 内 地 会 に つ い て、 比 屋 根 の 記 述 を 補 足 し た い。 テ ー ラ ー は 一 八 五 三 年 に 来 華 す る も、 一 八 五 七 年 に 自 分 を 派 遣 した教団から離脱し、独力で浙江省にて布教活動を行う。結婚後、イギリスに帰国し、一八六五年に内地会を設立 (注 ) 3
す る。 一 八 六 六 年 に 中 国 に 向 か い、 杭 州 に 住 む。 一 八 六 八 年 に は 蘇 州、 揚 州 に て 伝 道 を 行 う。 ( 佐 伯 は 内 地 会 の 設 立を一八六七年の中国としているが、会そのものは一八六五年に帰国中のイギリスで設立され、中国で立ち上げら れたのが再入華後の一八六七年ということであろう。揚州で教案事件を起こすのは一八六八年で佐伯の記述と矛盾 は な い。 ) 一 八 七 〇 年、 夫 人 の 病 死 に と も な い、 一 時 帰 国、 再 婚 後、 再 び 一 八 七 二 年 に 入 華 し、 上 海 を 内 地 会 の 本 部と定める。なお、テーラー夫妻は、山西でも布教を行い、一八七六年の飢餓では救済活動も行っている。華中に お け る 内 地 会 と し て の 伝 道 と し て は、 浙 江 が 一 八 六 五 年、 江 蘇 が 一 八 六 七 年、 安 徽 が 一 八 六 九 年 に 開 始 さ れ て い る。内地会の特徴として、本部を中国において本国の指示を受けないこと、内地会所属の宣教師らは欧米各国にま たがること、伝道方針として、できる限り迅速にキリスト教を中国全土に普及させること、そのためには抵抗の少 ない地方から布教を行い、一度布教をしたところでこれを引き受ける他の教団があれば、これを譲渡してさらに内 地へ入って伝道を行った、としている。実際、内地会のその後の展開をみると、湖北が一八七四年、四川が一八七 七年、甘粛が一八七八年、山東が一八七九年、陝西が一八七九年、雲南が一八八一年、河南が一八八四年、新疆が 一九〇八年に、それぞれ内地会としての布教活動を開始している。なお、ドイツの長老教会伝道団は一八九八年に 内地会と協力して宣教師を江西に派遣するが、翌年には内地会との関係を絶ち、広東での布教にあたった。 〕 し か し こ う し た 強 行 姿 勢 は 中 国 人 の 反 キ リ ス ト 教 感 情 を 助 長 し、 一 九 〇 〇 年 の 義 和 団 事 件 へ と 至 る。 〔 義 和 団 は 一九〇〇年の五月、先ず山東省で起こり、鉄道を破壊し、教会堂を焼き払らい、キリスト教徒を殺害していき、そ の勢いはすぐに山西と直隷(北京および河北省)に及んだ。比屋根によると、北京では四つの教会堂が襲撃された ほか、マテオ・リッチの墓地も破壊されたが、一九〇五年になってこれらは再建されることとなった。 〕事件当時、 中 国 内 地 四 百 カ 所 に 千 二 百 ~ 三 百 人 の プ ロ テ ス タ ン ト 宣 教 師 が い た が、 こ の う ち 百 三 十 四 ~ 五 人 が 殺 害 さ れ た が、
うち五十八人は内地会所属の宣教師であった。内地会所属宣教師の妻子も二十七人が殺害されている。また、内地 会所属の中国人信徒千九百十二人も殺害された。従って、プロテスタント教団中、最大の犠牲者を出したのが内地 会であった。 第 二 期 に お け る 特 徴 と し て は、 医 療 伝 道 の 進 展 が あ る。 こ れ は イ エ ス の 言 葉 で あ る「 病 を 治 し 福 音 を 宣 べ 伝 え よ」に従ったもので、学校教育には反対であった内地会のテーラーも、これだけは認めていた。中国における医療 伝 道 の 歴 史 は 一 八 三 八 年 に 来 華 し た Peter Parker ま で 遡 る。 一 八 四 三 年 当 時、 在 華 宣 教 師 三 十 二 人 の う ち 医 師 は 一人であったが、一八五九年当時、在華宣教師二百十四人のうち医師は二十八人と、増加傾向にあった。一八八七 年には女医も含め、八十八人の医師宣教師がおり、義和団事件当時、プロテスタントは各地に百以上の病院を運営 していたが、うち二十二個所が破壊された。一九一五年には、英米の医師は三百八十三人、看護婦百四十二人、病 院三百三十にまで回復、拡大した。 また 、学 校教育の 拡大もこ の時期 の特徴と してあげ られる 。も っとも 、学 校教育に 対しては 英米で大 きな考え 方 の 隔 た り が あ っ た 。 即 ち 、 十 九 世 紀 に お い て は 、 イ ギ リ ス の 学 校 教 育 は 富 裕 層 の た め の も の で あ り 、 国 民 教 育 が 普 及 す る の は 第 一 次 大 戦 後 の 一 九 一 八 年 以 降 の こ と で あ っ た 。 従 っ て 、 イ ギ リ ス か ら 来 華 し た 宣 教 師 ら が 、 中 国 人 教 育 に 対 し 、 関 心 を 示 す ど こ ろ か 、 む し ろ テ ー ラ ー の 如 く 、 こ れ に 反 対 し た こ と も う な ず け る 。 一 方 、 ア メ リ カ は 学 校 教 育 を 非 常 に 重 視 し 、 学 校 設 備 も 充 実 し て い た 。 そ の 理 由 を 佐 伯 は 、 欧 州 各 国 か ら 言 語 や 習 慣 の 異 な る 移 民 か ら 成り立っているアメリカでは 、学校教育によって合衆国の良民に教化する以外に名案がなかったからであるとして い る 。 こ う し た 教 育 観 を も っ た ア メ リ カ 人 宣 教 師 は 、 来 華 す る と す ぐ に 学 校 運 営 に 乗 り 出 し た 。 な お 、 同 様 の こ と は 開 国 後 の 日 本 に も い え 、 多 く の 学 校 が ア メ リ カ 人 に よ っ て 設 立 さ れ た が 、 イ ギ リ ス 人 に よ る も の は 殆 ど な か っ た 。
一八九〇年、内地会所属宣教師の総数は三百六十六人もいたにもかかわらず、内地会所属の学校生徒数は宣教師 数の半分の百八十二人であった。当時、プロテスタント宣教師の総数が千二百人前後で、運営する学校の生徒総数 が一万七千 ~ 八千人であったことを考えれば、その差は歴然である。 一八八五年に武昌に武漢大学の基礎を築いたのも、一八八六年に広東で嶺南大学を設立したのも、一八八八年に 山東の芝罘(烟台)に師範学校を創設し、上海ほか各地に女学校を設立したのもアメリカ人宣教師であった。一八 六三年に米国長老教会伝道団から派遣されて入華した Calvin Mateer が、山東の済南府に大学を創設するが、これ が 後 の 斉 魯 大 学 と な っ た。 ま た、 聾 者 に 対 す る 教 育 と し て は、 同 じ く 米 国 長 老 教 会 伝 道 団 の 宣 教 師 で あ っ た Mr. Mikks が山東の登州(蓬莱)で訓聾院を開設したのが最初である。 な お、 華 中 と の 関 連 で い う と、 米 国 長 老 教 会 伝 道 団 か ら 派 遣 さ れ た John Nevius ( 中 国 名、 倪 維 思 ) の 名 前 を あ げておく必要がある。彼は一八五四年に来華し、山東の芝罘に本拠をおいて華北一帯の布教活動に従事した。その 間、一八七六 ~ 八年の華北(山東、直隷)における大飢饉の救済活動で活躍し、これを機に、アメリカ種の果樹を 中 国 に 紹 介 し、 中 国 に お け る 果 樹 園 の 創 設 者 と な っ た。 〔 比 屋 根 に よ る と、 米 国 長 老 教 会 伝 道 団 か ら 派 遣 さ れ た 宣 教 師 と し て は、 ネ ビ ウ ス の 他 に D.B. McCartee が 寧 波 か ら 一 八 六 二 年 に 芝 罘 に 移 り、 一 八 六 五 年 に 山 東 長 老 会 を 組 織 す る。 一 八 七 二 年 に は 済 南 で の 伝 道 が 始 ま る。 南 京 へ は 宣 教 師 を 派 遣 す る も 迫 害 に あ い 布 教 で き な か っ た が、 一 八 七 〇 年 に C. Leaman と A. Whiting が 南 京 に 住 み、 布 教 活 動 を 開 始 す る。 ま た、 こ の 時 期、 芝 罘 で 活 動 し た イ ギ リ ス 人 宣 教 師 と し て、 比 屋 根 は、 中 国 に お け る キ リ ス ト 教 文 学 の 発 展 の 基 礎 を 築 い た Alexander Williamson を あげている。彼は一八五五年に The London Misshon Society から派遣され上海に上陸、帰国後の一八六三年に今 度 は The National Bible Society of Scotland か ら 派 遣 さ れ て 再 入 華 し、 芝 罘 を 中 心 に 華 北 を 旅 行 す る。 帰 国 後、
Journeys in North China を 著 し、 一 八 七 一 年 に 再 度 入 華 し、 華 北 で 飢 餓 救 済 に あ た り、 一 八 九 〇 年 に 芝 罘 で 没 し た。イギリスの The Chinese Evangelisation Society から派遣された C.P. Scott も一八七四年に芝罘に入り、一八 七 八 年 の 飢 饉 の 救 済 事 業 に あ た っ て い る。 こ の ほ か、 イ ギ リ ス の バ プ テ ィ ス ト 教 会 か ら 派 遣 さ れ た Timothy Richard も 一 八 七 六 ~ 八 年 の 山 東 や 山 西 の 飢 饉 で 救 済 事 業 を 行 っ て い る ほ か、 イ ギ リ ス の Methodist 教 会 も 一 八 七 八年に J. Cox を武昌から山西に派遣し、飢餓の救済事業にあたらせている。 〕 飢饉はこのほか、一八八八年の湖南、安徽や山東、一八九三 ~ 四の山西でも発生し、宣教師らが救援活動に従事 した。また、アブサラム・サイデンストリッカーとの関連でいうと、一八六七年に、米国南長老教会伝道団のエリ ス・ イ ン ス リ ー( Elias Inslee ) が 上 海 に 上 陸 し、 鎮 江 や 杭 州 に て 布 教 活 動 を 開 始 す る。 〔 南 長 老 教 会 の 宣 教 師 と し て は、 比 屋 根 に よ る と、 イ ン ス リ ー の 他 に、 H.C. DuBose が 蘇 州 に て 布 教 し よ う と し た が、 た び た び 妨 害 に あ っ た と い う。 〕 後 述 す る よ う に、 長 老 教 会 は 南 北 戦 争 後、 南 北 に 分 裂 し、 南 部 出 身 の ア ブ サ ラ ム は 正 確 に い う と、 南 長 老教会から派遣された宣教師であった。 第三期 一九〇一年以降~一九三〇年代 第三期には、一九一一年の辛亥革命により、清朝が倒れ中華民国が成立するという大事件が起こるが、キリスト 教の布教活動は社会の混乱をこえてさらに拡大していく。義和団事件が匪賊側の敗北に終わると、事件処理の議定 書により、清国側から四億五千万テールの賠償金が支払われたほか、カトリック、プロテスタントを問わず、天津 条約ほかで規定された布教権と布教上の保護とを完全に獲得することとなった。天主教はこの機を巧みに利用した が、プロテスタントもこれを機に内地での布教活動を本格化させた。
一九〇〇年当時、中国天主教徒の総数は七十四万千五百六十二人とされるが、一九三七年の統計では三百五十三 万四千七百六十一人と三十七年間の間に五倍となっている。一方、プロテスタントの場合、一八九八年の時点で宣 教師数千三百三十五人、信者八万六百八十二人であったが、一九〇五年には宣教師数が三千四百四十五人、信者数 が十七万八千二百五十四人に、一九一〇年には宣教師数が五千百四十四、信者数が二十万七千七百四十七人に、一 九三〇年には宣教師数が六千三百四十六人、信者数が四十四万六千六百三十一に増加しており、プロテスタントの 場合も三十年間の間に五倍になったことになる。なお、宣教師数のピークは一九二六年の八千三百二十五人で、以 降、反キリスト教の気運の高まりや戦乱から、中国を去る宣教師が増え、一九三八年には宣教数は五千九百七十二 人まで減少するが、信者数は五十三万六千八十九人と増加している。 国民党政府が反キリスト教的になっていくに従い、一九二五年に湖南で、一九二七年には福建にて宣教師に対す る暴動が起こる。決定的であったのは、一九二七年に国民党軍が南京を占領すると、政府軍は南京大学副総長ウイ リアムを校庭で射殺し、対外強行姿勢を示し、宣教師宅に侵入し略奪を行った。こうして義和団事件から二十七年 を経て、再び宣教師らは国民政府や民衆から排斥されることとなった。この結果、八千三百二十五人の宣教師のう ち、約五千人は中国の内地から引き上げて帰国し、残りの三千人のうち、約五百人は殺される覚悟で内地に踏みと どまり、約千五百人は上海に逃れて待機し、約千人は香港など比較的安全なところに避難した。 第三期の布教事業で言及されるべきは、学校運営が進展したことである。義和団事件以降に設立された著名な大 学をあげれば、蘇州大学(一九〇〇) 、斉魯大学(一九〇四) 、上海大学(一九〇六) 、杭州大学(一九一〇) 、南京 大学(一九一〇) 、西南大学(一九一〇) 、金陵大学(一九一五) 、福建大学(一九一六) 、燕京大学(一九一八)な どがある。うち、杭州大学は長老教会、上海大学、西南大学はバプティスト教会による。時間の経過とともに教育
活動が実を結びだし、プロテスタント教団が運営する学校において、多くの新中国の人材を育成した。彼らに言わ せれば、国民革命の立役者である孫文もプロテスタント信者であった。確かに、彼が広東やハワイ、イギリスにて プ ロ テ ス タ ン ト の 教 育 と 保 護 を 受 け た こ と は 事 実 で あ る。 馮 玉 祥( 国 民 軍 指 導 者 ) や 宋 子 文( 国 民 政 府 高 官 )、 宋 美 齢( 宋 子 文 の 姉、 孫 文 夫 人 ) ら も プ ロ テ ス タ ン ト 信 者 で あ っ た。 学 校 教 育 は、 信 者 ら の 識 字 率 の 向 上 に も 貢 献 し、男性で六割、女性で四割が漢文で新約聖書を読めるという。また、宣教師らは中国の学生を欧米に派遣留学さ せ、海外で教育を受けさせたことも忘れてはならない。 医療伝道事業も拡大し 、一九一〇年では病院総数が百七十であったのが 、一九二〇年には三百二十六に増大して い る 。 医 学 校 も 一 九 一 〇 年 で は 十 五 校 で あ っ た が 、 医 学 専 門 学 校 が 六 、 医 科 を 含 む 総 合 大 学 が 十 四 に ま で 増 大 し た 。 また、聖書の配布、普及においてもプロテスタント各派は大きな貢献をなした。一九三七年までに、配布された 新旧両約聖書およびその抜粋の合計は九百十三万百七十冊に達するという。これはプロテスタント各派が如何に聖 書を重視したかを反映するものとなっている。佐伯は、プロテスタントの伝道はこれを配布しながら、公開のもと 公明正大に行われたが、これが逆に伝道が成功しなかった一因でもあり、また反キリスト教運動においても、天主 教よりもプロテスタント各派の方が多大な打撃を被った原因でもあろう、としている。四億の人口に対し、プロテ スタント信者は五十余万人に過ぎず、未だ中国においてプロテスタント神学を起こし得ないでいる、としている。 最 後 に 佐 伯 は、 キ リ ス ト 教 青 年 会( YMCA ) に 言 及 し、 プ ロ テ ス タ ン ト の 中 国 伝 道 の 歴 史 の 記 述 を 終 え て い る。 キリスト教青年会は、香港占領二年後の一八四四年にロンドンにおいてウイリアムスによって設立された、青年に 対 す る 信 仰 の 刷 新、 責 任 の 覚 醒、 奉 仕 の 奨 励 な ど を 目 的 と す る 組 織 で あ る。 救 世 軍( Salvation Army ) な ど と 共 に、 欧 米 キ リ ス ト 教 国 に お い て は 意 義 の あ る 運 動 で あ る が、 非 キ リ ス ト 教 国 で あ る 中 国 に こ れ を そ の ま ま 持 ち 込
み、せっかく発達しかけたプロテスタント各派の勢力を分散させてしまっているのは、問題であるとしている。中 国で最初にキリスト教青年会が組織されたのは一八八五年の福州であったが、一九〇二年には上海に青年会連盟の 本部が設立される。一九二二年、北京にて世界キリスト教青年会の大会が開かれ、大会後、各代表は中国各地に講 演旅行に出かける予定であった。これを阻止しようとして起きたのが、同年の反キリスト教運動であったことを考 えると、中国のような非キリスト教国において、キリスト教青年会のような社会活動はかえって誤解を招きかねな い、と苦言を呈し、本論を結んでいる。 〔 欧 州 大 戦 が 中 国 の キ リ ス ト 教 に 与 え た 影 響 と し て、 比 屋 根 は、 ド イ ツ 系 の 教 会 が 資 金 的 理 由 で 衰 退 し て い っ た のに対し、国力を増したアメリカの存在感が高まったことをあげている。一九〇五年の時点では、プロテスタント 宣教師のうち、イギリス人の割合が四十五%と最大で、アメリカ人は三十五%にとどまっていたが、一九二二年に な る と 形 勢 が 逆 転 し、 イ ギ リ ス 人 の 割 合 は 十 八 % に 減 少、 代 わ っ て ア メ リ カ 人 の 割 合 が 五 十 一 % と 最 大 と な っ た。 また、従前と比べ、中国でのキリスト教事業そのものに対する熱意も冷めてきたことは否定できない。こうした背 景には、キリスト教国自身が必ずしもキリスト教的理想に達していないのに外国伝道をする立場にあるのかという 自問、中国の伝統文明を理解するにつれキリスト教が絶対にして唯一の宗教ではないということの自覚、さらには キリスト教と科学との衝突から宗教に対する懐疑論的な考えの台頭、などをあげている。比屋根は終章にて、一九 三 五 年 に 北 京 の 朝 陽 門 外 に 嵩 貞 学 園 を 開 設 し た 清 水 安 三 な ど、 日 本 人 宣 教 師 に よ る 中 国 で の 布 教 活 動 を 紹 介 し て、 本書を終えている。 〕 こうし てみると 、 中国にお けるキ リストの 布教活動 の展開は 、 中国側の 事情のみ ならず 、布 教が始ま った時が そ う で あ っ た よ う に 、 常 に 世 界 の 政 治 経 済 的 な 、 あ る い は 思 想 史 的 な 動 向 と 密 接 に 結 び つ い て い る こ と が 理 解 で き る 。
注 ( 1) 佐 伯 好 郎 一 九 四 四 ~ 四 九『 支 那 基 督 教 の 研 究 』( 全 四 巻 )〈 東 方 文 化 学 院 研 究 報 告 〉 春 秋 社 松 柏 館。 第 三 巻 ま で の 奥 付 裏 の 頁 の予告では、 全五巻となっているが、 オリジナル版の第五巻は実際には刊行されなかった。春秋社に問い合わせても不詳であっ た が、 筆 者 な ら び に 京 都 大 学 図 書 館 の 調 べ に よ り、 刊 行 さ れ な か っ た こ と が 確 認 さ れ た。 予 告 で は、 第 五 巻 は『 付 録 』 と な っ て お り、 「 明 の 末 よ り 中 華 民 国 の 初 ま で の 新 旧 基 督 教 宣 教 師 の 漢 文 著 書 の 主 な る も の を 網 羅 す 」 と あ る が、 こ れ に ほ ぼ 相 当 す る 内 容 が 第 四 巻 に 収 録 さ れ て い る。 即 ち、 第 九 章、 「 新 教 宣 教 師 の 漢 文 著 書 」 が そ れ で あ る。 し か し こ れ に は カ ト リ ッ ク の 宣 教 師 に よ る 漢 文 著 作 が 含 ま れ て い な い。 ま た、 オ リ ジ ナ ル 版 の 第 四 巻 の 書 名 は、 予 告 で は「 清 時 代 の 支 那 基 督 教 」 と な っ て い る が、 実 際 に 刊 行 さ れ た 第 四 巻 は、 表 紙 お よ び 奥 付 の 書 名 と も『 清 朝 基 督 教 の 研 究 』 と な っ て い る。 装 丁 も 第 三 巻 ま で 統 一 さ れ て い る 黒 色 で は な く、 白 色 の 背 表 紙 と な っ て い る。 ( 所 蔵 図 書 館〈 例 え ば 東 洋 大 学 〉 に よ っ て は、 傷 ん だ 第 四 巻 を 製 本 し 直 す 際 に、 第三巻までの装丁に統一し、背表紙もそれにあわせて『支那基督教の研究四』としているのもある。 ) ま た、 『 支 那 基 督 教 の 研 究 』 は、 一 九 七 九 年 に な っ て、 名 著 普 及 会 よ り、 『 支 那 基 督 教 の 研 究 』( 全 五 巻 ) と し て 復 刻 版 が 刊 行 さ れ て い る。 但 し、 こ の 復 刻 版 で は、 第 一 ~ 四 巻 が 原 著 か ら、 第 五 巻 が 原 著 に は な か っ た『 元 主 忽 必 烈 が 歐 洲 に 派 遣 し た る 景 教 僧 の 旅 行 誌 』 の 復 刻 と な っ て い る。 な お、 復 刻 版 の 第 四 巻 は、 奥 付 が「 支 那 基 督 教 の 研 究 四 」、 表 紙 が「 清 朝 基 督 教 の 研 究 」 となっているほか、背表紙に原著の予告で使われた「清時代の支那基督教」の書名が使われている。 ( 2) 中 国 に お け る キ リ ス ト 教 の 布 教 の 歴 史 に 関 し て は、 研 究 者 に よ っ て さ ま ざ ま な 画 期 に 分 け ら れ て い る が、 大 ま か な 区 分 と し て は、 佐 伯 が 行 っ た 分 類 と 大 差 な く、 彼 の 分 析 が 極 め て 妥 当 で あ っ た こ と に な る。 例 え ば、 ア メ リ カ に お け る 新 し い 研 究 と し て は、二〇一二年に刊行された Daniel Bays の A New History of Christianity in China がある。本書は八章に分けて、時代別に 中 国 に お け る キ リ ス ト 教 の 布 教 の 歴 史 を 概 説 し て い る。 七 世 紀 に 遡 る ネ ス ト リ ウ ス 派 の 布 教 や、 明 代 に お け る カ ト リ ッ ク の 布 教 活 動 を 別 と す る と、 Bay は 十 九 世 紀 以 降 の キ リ ス ト 教 の 布 教 活 動 を、 六 つ の 時 期 に 分 け て 記 述 し て い る。 即 ち、 ① 一 八 〇 〇 ~ 一 八 六 〇 年( プ ロ テ ス タ ン ト の 布 教 活 動 の 開 始、 カ ト リ ッ ク の 再 建、 中 国 人 キ リ ス ト 教 徒 の 誕 生 )、 ② 一 八 六 〇 ~ 一 九 〇 二 ( 王 朝 末 期 に お け る キ リ ス ト 教 の 拡 大 と 教 会 制 度 の 建 設 )、 ③ 一 九 〇 二 ~ 一 九 二 七( 布 教 活 動 の「 黄 金 期 」 と「 在 華 プ ロ テ ス タ ン ト の 体 制 化 」) 、 ④ 一 九 二 七 ~ 一 九 五 〇( 中 国 キ リ ス ト 教 の さ ま ざ ま な 危 機 )、 ⑤ 一 九 五 〇 ~ 一 九 六 六( 新 中 国 の 成 立 と キ リ ス ト 教 )、 ⑥ 一 九 六 六 ~ 現 在( 文 革 終 了 後 か ら 二 十 一 世 紀 初 頭 ま で ) と な っ て い る。 こ の う ち、 中 華 人 民 共 和 国 の 成 立 か ら 現 在 ま で は 佐 伯 の 研 究 対 象( 一 九 三 〇 年 代 ま で ) 以 降 と な る た め、 ④ ⑤ ⑥ を 除 外 す る と、 三 つ の 画 期 が 残 る こ と に な る。 一 九 三 〇 年 代 ま で の 時 期 を 三 つ の 画 期 に 分 け た 点 は、 佐 伯 の 分 類 と 一 致 す る う え、 そ の 画 期 を、 天 津 条 約 が 結 ば れ る 一 八 六 〇 年 と、 義 和
団 事 件 が 起 き た 一 九 〇 〇 年( 前 後 ) と し て い る 点 も 同 じ で あ る。 な お、 本 書 に は、 パ ー ル・ バ ッ ク へ の 言 及 は あ る が、 ア ブ サ ラム・サイデンストリッカーへの言及はない。 なお、 Daniel Bays には、一九九六年に編集した Christianity in China: From the Eighteenth Century to the Present がある。 本 書 は「 中 国 に お け る キ リ ス ト 教 の 歴 史 」 を 巡 る 共 同 研 究 の 成 果 を 活 字 に し た 論 文 集 で、 中 華 人 民 共 和 国 の 成 立 を も っ て「 消 滅 」 し た か に 見 え た 中 国 に お け る キ リ ス ト 教 が、 社 会 主 義 改 造 の 試 練 を 経 て 改 革 開 放 の 進 展 す る 現 在 に お い て「 復 活 」 し て い る 現 状 を、 歴 史 も 含 め 多 方 面 か ら 考 察 し た も の で あ る。 現 在 の 中 国 に お け る キ リ ス ト 教 徒( と り わ け プ ロ テ ス タ ン ト ) の「 復 活 」、 及 び 急 速 な「 増 加 」 の 理 由 を、 Bay は キ リ ス ト 教 が 真 に 中 国 化 し た 結 果 で あ り、 海 外 の 影 響 と い う よ り は、 中 国 人 キ リ ス ト教徒の存在そのものが「核」となっていた、との重要な指摘を行っている。 ( 3)内地会のイギリスでの設立は一八六五年のようである。テーラーに関しては、参考までに Ralph R. Covell の評伝を以下に紹介 したい。 James Hudson Taylor ( 一 八 三 二 ~ 一 九 〇 五 ) は、 一 八 三 二 年 に イ ギ リ ス の ヨ ー ク シ ャ ー で 生 ま れ た。 十 七 歳 の 時 に、 中 国 に 赴 き な さ い と い う 神 の 思 し 召 し を 感 じ、 準 備 の た め に 中 国 に 関 す る 書 物 を 読 み あ さ っ た。 最 初 の 中 国 で の 奉 仕 は、 一 八 五 三 ~ 一 八 六 〇 年 の 七 年 間 で、 Chinese Evangelization Society の も と で 東 南 中 国 に 滞 在 し た。 こ の 間、 一 八 五 八 年 に 寧 波 で Maria Dyer と 結 婚。 健 康 上 の 理 由 か ら 一 八 六 〇 年 に イ ギ リ ス に 戻 っ た が、 彼 は 未 だ 宣 教 師 が 入 っ て い な い 中 国 内 陸 部 の 中 国 人 の こ と を 気 に か け て い た。 そ れ を 実 現 す べ く、 限 ら れ た 資 金 な が ら 大 き な 信 念 を も っ て、 一 八 六 五 年 に China Inland Msssion を 設 立 し た。 当 初 は 二 十 二 名 の 宣 教 師 し か い な か っ た が、 組 織 と 数 は 急 速 に 拡 大 し て い き、 テ ー ラ ー が 亡 く な る 一 九 〇 五 年 ま で に は、 China Inland Msssion は 国 際 的 な 組 織 と な り、 宣 教 師 は 八 百 二 十 五 人 と な り、 中 国 全 て の 十 八 省 に 行 き 渡 っ た。 拠 点 も 三 百 を 数 え、 五 百 人 以 上 の 中 国 人 助 手 を か か え、 二 万 五 千 人 の 改 宗 者 が い た。 テ ー ラ ー の 哲 学 は、 神 の み に 従 属 し、 保 障 さ れ た 給 与 に 頼 ら な い こ と、 中 国 人 の 生 活 様 式 に 密 着 す る こ と、 イ ギ リ ス で は な く 中 国 に 行 政 の 基 礎 を 置 く こ と、 福 音 書 の 教 え に そ い、 無 教 派 で あ る こ と、 可 能 な 限 り 広 範 囲 に 福 音 を 届 け る こ と、 な ど で あ っ た。 こ の た め、 女 性 一 人 で も 中 国 奥 地 に 派 遣 す る こ と を 奨 励 し、 他 の 教 団 か ら 批 判 を 浴 び た。 テ ー ラ ー は 組 織 維 持 の た め、 中 国 内 外 を 飛 び 回 り、 新 た な 宣 教 師 を リ ク ル ー ト し て ま わ っ た。 彼 は、 一 八 七 七 年 と 一 八 九 〇 年 に General Missionary Conferences を 上 海 で 開 催 す る 際 に 重 要 な 役 割 を 担 っ た。 一 九 〇 一 年 に 組 織 の 管 理 か ら リ タ イ ア し、 一 九 〇 五 年 に 湖 南 の 長 沙 で な く な り、 江 蘇 省 の 鎮 江 に 埋 葬 さ れ た( Ralph R. Covell 著
'James Hudson Taylor' Biographical Dictionary of Chinese Christ
ianity, http://www.bdcconline.net/en/stories/
より)
3
蘇北におけるプロテスタント教会とアブサラムの布教活動
アブサラム・サイデンストリッカーの中国における軌跡 中国におけるプロテスタント宣教師らの布教活動の歴史を概観したところで、以下、アブサラム・サイデンスト リッカーの蘇北での活動をこうした歴史の中に位置づけていきたい。その前段階として、まず、アブサラムの自伝 をもとに、年譜を整理する。アブサラムは一八五二年、ウエスト・バージニアにて生まれる。その後、宣教師を志 し、それを実行していくのであるが、年譜は中国に渡って以降から開始する。なお、見やすいように、十年単位で 区切ることにする。 〔一八八〇年代〕 一八八〇年七月Caroline Maud Stulting
(一八五七年生)と結婚 一八八〇年八月 二十八歳の時、中国に向け出発。サンフランシスコから乗船し横浜へ。ここで船を乗り換えて長 崎経由で上海に到着。数日後、杭州へ移動し、南方方言を覚える。 一八八一年六月 上海へ移動。七月、長男エドガー、上海で生まれる。人員の移動にともない蘇州へ転勤。年会に 参加するため杭州へ行く。 九月、蘇州に戻るも発熱し、意識不明になり、治療のため上海へ。回復後、蘇州に戻る。 一八八三年 南京に新しい拠点を作るため人事異動があり、杭州に転勤。十二月、長女フランシス、杭州で生まれ る。 中 国 人 協 力 者 Mr Yu を 得 る。 夫 婦 で マ ラ リ ア に 苦 し ん だ た め、 夏 の 間、 避 暑 の た め 長 崎 へ 移 動。 上 海 に 戻
る船上で長女フランシス病死、上海に埋葬。杭州へ。再度、マラリアに苦しみ、季候のよい北中国に行くことを 許される。 一八八四年十二月 山東の芝罘(烟台)へ。北方語を学ぶ。 各地の拠点を訪問、済南府へ旅行(ロバで十二日かかる)青州府(益都) 、登州府(蓬莱)経由で芝罘へ戻る。 避暑用に芝罘で部屋を借り、結核に感染した妻がアメリカへの帰国勧告を無視し、夏の間、涼しい芝罘で療養す る。この頃、王阿媽(乳母)を雇い、以後、家族の一員となる。一八八六年五月、次女エディス、芝罘で生まれ る。健康上の理由から、華北に残ることを希望。 一 八 八 六 年 鎮 江 へ 移 動。 鎮 江 に つ く な り、 二 回、 蘇 北 訪 問( 二 回 目 は 徐 州 ま で 行 く )。 冬 に 再 び、 Rev.Woods ( Rev. は 聖 職 者 に つ け る 尊 称、 ア ブ サ ラ ム は 敬 意 を 払 っ て い る 牧 師 に Rev. と つ け、 他 は Mr. と し て い る ) 牧 師 とともに清江浦 まで行き、清江浦が拠点として最適であると判断、二階建ての煉瓦造りの家を借り、引っ越しの 準備をする。 Rev.Woods は委員会に清江浦への移転を要請。 一八八七年秋 Rev.Woods 家 族 と と も に、 家 族 で 清 江 浦 へ 移 動 す る。 周 囲 数 百 マ イ ル に わ た り、 未 開 拓 の 土 地 に 興 奮。 県 城 や鎮を調べ、目標はすべての県城に教会を、すべての鎮にチャペルを建設することと設定。周りの中国人に珍し がられ、訪問者絶えず。 一八八八年春 従 来 の よ う に 定 期 的 な 江 蘇 省 の 北 部、 と り わ け 徐 州 府 訪 問 を す る。 Rev.Woods も 大 運 河 で 十 マ イ ル 南 の 淮 安 府を訪問するようになる。 (注 ) 1