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理性の神秘と自然の先在――初期フォイエルバッハの思弁的アプローチに関する一考察 利用統計を見る

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Academic year: 2021

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の思弁的アプローチに関する一考察

著者

川本 隆

学位授与大学

東洋大学

取得学位

博士

学位の分野

文学

報告番号

32663乙第214号

学位授与年月日

2015-07-27

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00008440/

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川本隆氏の「理性の神秘と自然の先在――初期フォイエルバッハの思弁的アプローチに 関する一考察」の学位本審査を主査河本英夫、副査長島隆、永井晋、柴田隆行(社会学部) の4名で3回にわたって行った。この本審査はすでに5月20日に研究科委員会において も予備審査が承認されたことを受けて行ったものである。またこの本審査の過程で、公開 審査(公聴会)を、柴田隆行教授を特定質問者に立てて行った。6名の出席者を得て活発 に議論を行った。 川本隆氏はすでに日本哲学会、ヘーゲル学会及び実存思想協会に査読つき論文を掲載し、 さらに国際フォイエルバッハ学会の機関誌にドイツ語の論文を掲載しており、学位を請求 する資格を十分に満たしている。 以下に川本氏の論考についてその概要を報告し、審査会の評価を述べることにする。 【論文の概要】 [課題の設定] 川本氏の本論文は、ドイツの哲学者ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach, 1804-1872) の 思 想 の 歩 み を、 特 に ヘ ー ゲ ル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)と対比しながら解明することを課題とする。 この課題を達成するうえで、川本隆氏は、ヘーゲルの徒として学んだフォイエルバッハ がなぜ恩師に反旗を翻すような事態に及ぶのかという問いを立てる。川本氏によれば、フォ 氏   名( 本 籍 地 ) 川 本   隆(東京都) 学 位 の 種 類 博士(文学) 報 告・ 学 位 記 番 号 乙第214号(乙文第84号) 学 位 記 授 与 の 日 付 平成27年7月27日 学 位 記 授 与 の 要 件 本学学位規則第3条第2項該当 学 位 論 文 題 目 理性の神秘と自然の先在 ―初期フォイエルバッハの思弁的アプローチに関する一考 論 文 審 査 委 員 主査 教授 博士(学術) 河 本 英 夫 副査 教授 長 島   隆 副査 教授 博士(文学) 永 井   晋 副査 教授 博士(社会学) 柴 田 隆 行

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イエルバッハの思想のルーツを訪ね、ヘーゲルの精神の批判的継承の意味を改めて問い直 すことになるこのような作業が、(晩年をも含む)フォイエルバッハ思想の全体をとらえ るためにも、あるいは19世紀ドイツの精神史における重要な転回(唯物論的・人間学的 転回)の意味を問いなおすためにも、不可欠であるとされる。このような認識のもとに上 記の課題が立てられるわけである。 [課題の解決のための方針] 「序論」において以上のような課題の設定を行い、先行研究を批判的に精査したうえで、 川本隆氏は上述の課題を追求する際の4つの問題を以下のように掲げる。 第1に、フォイエルバッハの言う「本質的・理想的ヘーゲル主義」とは何か。この問題 は、初期のフォイエルバッハはヘーゲルのいかなる思想を本質的核心と見なし、受容しよ うとしたのかという問題である。 第2に、フォイエルバッハの神学批判・宗教批判と彼の「ヘーゲル主義」とは、どのよ うなつながりがあるかという問題である。 第3に、1839年以降、フォイエルバッハが唯物論的・人間学的転回を遂げるのは何故か。 フォイエルバッハはヘーゲルの講義を熱心に聴講し、その思想を核心部分で受容しようと した。だが、その後ヘーゲルに批判的になっていく。したがって、恩師ヘーゲルを含めた 観念論批判に転じていく事情は、フォイエルバッハのヘーゲル誤読に由来するものか、そ れとも何か別の理由があるかが問題となる。 第4に、フォイエルバッハの行う人間学的見地からの観念論批判は、妥当かどうか。ま たこれに基づく彼の人間学は、今日どのような意義があるか。 そして、論述の方針としてとりわけ、「理性論」の研究にさいしては、川本隆氏はヤノ ウスキーの研究および全2巻におよぶ大部の半田秀男『理性と認識衝動――初期フォイエ ルバッハ研究』(計1400ページを超える)を踏まえ、それらを批判的に摂取する。そのう えで、自らの「論述の方針」上の留意点を次のように整理している。 1)過去の思想家・哲学者になるべく多く語らせ、発展的に理念を引き出そうとするフォ イエルバッハ特有の解読法にそくして、年代史的にそのつどの彼の問題意識を探る。 2)1846年の「自伝的断片」などフォイエルバッハ自身による回想、すなわち、反省的 に書かれた「自伝的断片」を二次資料として扱う。 3)初期フォイエルバッハの用語法を忠実に再現することを心がけ、それに応じて訳語に ついては配慮する。 4)川本氏の論考が分析の対象とするフォイエルバッハの『理性論』と『死と不死』の性 格の異同には配慮しつつ、問題になる執筆順序については判断を保留する。また、後年の

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『キリスト教の本質』で提示される人間学の立場を、本来性に基づく「類」「人類」への安 易な還元論と見ないためにも、神秘説に対する若きフォイエルバッハの思弁的受容の態度 を、宗教に隠された自然の新たな意味の解読・発見の姿勢として評価する。 [各章の概要] [第1章の概要] 以上のような論点と論述の方針に基づき、川本隆氏は先ず第1章で、『理性論』の全体 像を描くことを行い、この書が汎理性主義に貫かれていることを明らかにする。そして、 川本隆氏は、理性と自然、思惟と感覚の間に走る神秘的緊張に注目し、その緊張が何に由 来するのかを考察している。 とりわけ第1章第1節では、フォイエルバッハが神学から哲学の領域に進み、ヘーゲル 哲学に潜む無神論的傾向(人格批判)に感化され、この批判を徹底するという目論見で『理 性論』を執筆したと推測される事実を明らかにする。第2節では、ヘーゲル哲学の人格批 判を『理性論』でどのように継承・発展させているかを吟味している。とりわけ、川本隆 氏は、ヘーゲルが『エンツュクロペディー』初版の「精神哲学」、「法」論の箇所で論じて いる「私自身からの私の絶対的排斥4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4」という言葉をフォイエルバッハが重視し、「現実的 人格」の実現を肯定的に見ようとしている点に注目している。この点を川本隆氏は、フォ イエルバッハがキリスト教的彼岸信仰批判を徹底させ、キリストという「人格」を周到に 避けながら論じようとした結果であると読解する。ただし、この「現実的人格」の実現は、 ヘーゲルの論理そのものではないと川本氏は考える。そのうえで、川本氏は、感覚を「個 別的制約」と見なす思弁哲学のマイナス評価だけではとらえきれない側面が、フォイエル バッハにおいてはヘーゲルとは異なる位相で現れていると主張する。第3節では、「感覚」 が自然の制約を表わす否定的傾向の強い『理性論』のなかで、唯一ヤコービの「共感」概 念だけがフォイエルバッハによって肯定的に評価されている点に川本隆氏は着目し、その 意味を探ることになる。川本隆氏は『理性論』においては、思惟しない自然の個体性に制 約された「共感」(=否定的評価)と、「現実的人格」の生成(思惟の飛翔)を促す動因と しての「共感」(=肯定的評価)とが両義的に並存している事情を指摘している。 第4節では、川本隆氏はこのヤコービの「共感」概念と連動する重要な概念「何かある もの aliquid」を考察する。この概念をフォイエルバッハはヘーゲルと対比してみる場合 でも、共通性と差異性の両義的意味があるとし、川本隆氏は、この節では『理性論』にお けるヘーゲルの「感覚」論との共通性を見ることになる。そこで川本隆氏が確認したこと は、次の4点である。①ヘーゲルが批判した「道徳的宗教的感情の見方」をフォイエルバッ ハも「主観性の哲学」批判として共有していること。②フォイエルバッハがヘーゲル『エ ンツュクロペディー』初版、第390節で指摘される「対自存在」を範とし、おそらく第2

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版「小論理学」予備概念 第20節の「我」の規定 „Ich ist Jeder“ とあわせ、『理性論』にお いて「純粋思惟」の規定に応用したこと。③ヘーゲルはその「感情」に思惟と同じ否定す る力が「決定する bestimmen」意志として「内在」しており、「感情」という主観的、偶 然的なものが「理性的なもの」に転じうる可能性があると見ていたこと。④この「決定す る」作用に、フォイエルバッハは、「措定する作用 Ponere」を読み取って持論に取り込ん だこと。それによって、「何かあるもの」に関する「私」の主観的判断が、普遍者たる理 性に向かって無限に開かれる可能性を見たこと。川本氏は、以上4点において、フォイエ ルバッハがヘーゲルの「感覚」論を共有していたことを確認している。 第5節では、川本氏は、第4節で確認された4つの共通理解とは対照的に、フォイエル バッハのいう「何かあるもの aliquid」に宿る神秘性を、ヘーゲルと相違する直観的性格 として問題にしている。川本氏によれば、フォイエルバッハは、本質が判然としない「モ ノ res」に〈不在の内在〉という意味が隠されていると考える。すなわち、その本質が判 然としない「モノ」は「姿 species」・「像 imago」・「影 umbra」という、言わば〈普遍者 の痕跡〉であると考えていることになる。だから、川本氏によれば、これは〈在るべきも のがない〉という「欠乏 penuria」の感覚を抱かせるものであることになる。川本氏は、 この感覚から発せられる「隠れた力 obscura vis」に導かれ、人間は理論的には無限者を「熱 求 studium」する「衝動 Trieb」に駆られ、実践的には他者愛へと向かい、自らの現実的「人 格」を実現しようと努めるようになるとフォイエルバッハが説いていると主張する。しか し、このような「現実的人格」の生成は「自然死よりも神聖な死」においてであるところ に、フォイエルバッハの汎理性主義に付随する神秘性――ザス、イェシュケ、ウィルソン らによって「全体論的―神秘的」と呼ばれる特性――があると川本隆氏は考えている。川 本隆氏によれば、この点が、ヘーゲルと初期フォイエルバッハの大きな相違点であること になる。問題は、この神秘性をどう評価するかだが、川本氏は、先に示唆したように、若 さゆえの性急さやヘーゲル弁証法の無理解とは解さず、自然のなかに隠された意味を解読 するための積極的アプローチとして読み直す。 [第2章の概要] 以上のような文脈で、川本隆氏は第2章では、30年の『死と不死』を大きく取り上げ、 この書における自然の位置価を問題とする。川本隆氏は、分析に先立ち、この著作は『理 性論』に比べるとかなり自由奔放に筆が走っている書であり、「思惟」「精神」と並んで「感 覚」「愛」という用語が多用され、「精神」に加えて「神」という概念が登場しているため、 解釈には注意を要することを指摘している。だが、川本隆氏によれば、『理性論』と異なり、 「愛の何たるかを知っているのは真の汎神論者のみである」と――匿名とは言え――主張 する点でも、自然の意味を積極的に論じる点でも、重要な著作であるとされる。 第1節で川本隆氏が注目したのは、神のなかにある「場 Ort」という概念である。川本

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隆氏によれば、フォイエルバッハはこの「場」が神の意識的な「人格」の背景をなすもの であり、「人格より無限に多くのもの」としての神を指し、全被造物が「消尽され廃棄さ れているところ」としている。別の文脈でフォイエルバッハが人間精神の「区別作用の可 能性」の所在を問うとき、その答えを彼は「人格であること」にではなく、「自然・魂 Seele・存在者 Wesen であること」に求めている。錯綜している議論をあえて単純化する と、『死と不死』では自然の地位が復権され、精神と対等な関係で論じられるところがある。 すなわち、ヘーゲルにおいて「神は人格なり」のテーゼが「人格あっての神」ととらえら れていたとすれば、これに対しフォイエルバッハの場合は、「背景あっての神」ないし「場 あっての人格」と読み替えられ、力点が自然のほうに移される。この文脈で第2節では、 キリスト教の三位一体の潜在化とベーメの神秘的汎神論への接近を問題にした。注目すべ きは、ベーメに賛辞を捧げながら、フォイエルバッハが「愛の偉大さは神よりも大きい」、「愛 は何かあるもの Ichts(etwas)よりも深い」と述べている1節を長々と引用し考察してい る点である。『理性論』ではマールブランシュの理性の神からの「独立性」が注目されて いたが、『死と不死』のベーメ論では神が住まわないところにまで愛が入り込むという愛 の遍在性が注目される。特に、ベーメの „Ichts“ という概念を „etwas“ と呼んでいる点は、 ヘーゲルが25/26年の『哲学史講義』で „Ichheit“ と解釈したことと対照的で、精神性よ りも「場」を重視するフォイエルバッハの問題意識を表すものと推察される。第3節では、 自然の真に捉えた姿を「魂」と見なすフォイエルバッハが、『死と不死』において「有機 的身体」をどのようにとらえたか、また「感覚」と「魂」の関係をどのように見ていたか を問題にした。『死と不死』では、全苦痛と全歓喜の矛盾(遍在的な普遍的感覚の矛盾) の只中での飛翔を説く神秘的性格が『理性論』とは異なるものとして現れるが、しかし無 限者への移行を目指す思弁的関心という点では共通し、両著作は相互補完的関係にあると 考えられる。ただし、『死と不死』では、「自然の深淵 Abgrund」や「神における闇夜 Nacht in Gott」など、ベーメを思わせる自然に対して強い神秘的関心が示され、トマソー ニの指摘する「自然の先在」が指摘される。先に述べたように、この思弁的アプローチは 当時のフォイエルバッハが解明されざる自然の謎を解こうと努めたことに由来するもので あろう。フォイエルバッハの思想的転回は、その測りがたい自然の謎を解明すべく30年代、 すなわち哲学史の研究を進めるところから始まるのである。 [第3章の概要] 第3章では、30年代以降の問題意識の推移を見えやすくするために、第1節でベーメ・ モメントを、第2節でライプニッツ・モメントを取り上げて、その重要な論点を検討し、 第3節で初期フォイエルバッハの「人格」批判に由来する「自然」の復権の意味を、唯物 論的・人間学的転回を視軸にして考察し、まとめとした。 第1節で重要なのは、ベーメにおける「無 Nichts」の理解である。まず、33年の『近

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世哲学史――ヴェルラムのベーコンからベネディクト・スピノザまで』を見るかぎり、〈そ れ自体において絶対的な無〉なるものを想定せず、存在の「潜勢態」、または動の「潜勢態」 と見た点でフォイエルバッハはヘーゲルと共通したベーメ理解を示していた。ただし、先 に指摘した „Ichts“ について、ヘーゲルが顕在的な自己意識の視点から論じようとするの に対し、フォイエルバッハが〈場〉としての自然の視点から考察しようとするところに、 恐らくは微妙な相違が現れていた。フォイエルバッハは、その自然の意味を求めて、「神 における闇」と言われる「永遠の自然」を遡源的に追究する。しかし、理解しようと努め たフォイエルバッハだったが、この「永遠の自然」については、「もっとも不明瞭かつもっ とも難解な箇所」と言って判断を保留していた。その後、47年の改版では、無からの創 造を積極的に行う「積極的神学」と、意識の根底に根源的な自然があると見る「自然神学」 の矛盾と割り切るようになる。 しかし、このような唯物論的解釈をするようになるきっかけは何だったのか。その問題 を解くために第2節では、「永遠の自然」における矛盾が「質料」概念にあると見た37年 の『ライプニッツ論』のモナド理解を検討した。問題となったのは、ライプニッツの「第 一質料」の「原始的受動力」に伴う「混濁した表象」という原理であった。ヘーゲルにとっ ては、モナドには「受動性がない」とされていたが、フォイエルバッハは「抵抗を受ける 原理」がモナドの本質的な規定としてあることをライプニッツの著作から読み取り、そこ に積極的な意味を認め、「一性のなかにある他性の原理」と位置づけた。この考察によって、 人間学的考察の地盤、つまり自己意識の外にある実在する他者の意味が開示されることに なる。 第3節の結論部では、先の〈繊細な感覚〉論が「混濁した表象」の分析から生まれたこ とを明らかにした上で、この洞察がヘーゲル哲学をも相対化する「自然の先在性」の洞察、 実在する自然というもうひとつの極点を設ける立場へと深化することを問題とした。問わ れているのは、自然の声を聞き入れない理性のあり方である。41年の『キリスト教の本質』 では、どんな些細なものに対しても公平なまなざしが「一切を包括する極めて慈悲深い本 質、宇宙の自己自身に対する愛」とされ、自然との和解が目指されているが、理性の円環 が常に揺るがないのであれば、対話は困難に陥るにちがいない。案外、われわれはこの落 とし穴に気づきにくいのではなかろうか。だからこそ、後にフォイエルバッハは支点を2 つ設け、シンボルを楕円とした。彼の観察眼は、自然を「無力」とし、奇形を「欠陥」と 見るヘーゲルの見方とは異なるものである。たとえ無力に見えても、フォイエルバッハの 場合、自然は思弁的円環に収斂されることなく〈神なき自然に内在する固有の価値〉とし て開かれた姿でわれわれの前に提示されるのである。

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【審査結果】 以上のように川本隆氏の議論は展開するが、この議論は序論における「課題設定」とそ の課題の解明の方針が鮮明に氏の主張を打ち出すことになっている。論述の方向は、明晰 であり、審査でも指摘されたように「極めて完成度の高い」論文となっている。 その先行研究の処理にせよ、精査の結果に一貫性を持たせ、「理性論」へと議論を絞り、 すでに指摘したように、先行研究の中でも半田氏の大部の論考を踏まえながらそれを超え る明晰な「理性論」の了解に達している。さらにヤノウスキー及びトマソーニの先行研究 にたいしても川本氏自身の到達点から論評を加え、自らの到達点を明確にしている。先行 研究の精査は、十分すぎるほど詳細であり、処理を間違うと、ややもすれば先行研究の紹 介に終わってしまう危険性をはらむものである。だが、川本氏の論考においては、このよ うな先行研究がフォイエルバッハの丹念な読解を前提しているがゆえに、一見すると煩瑣 に見える先行研究の精査は、明確に整理され、焦点を結んでいる。いくつかの表現のあい まいさ、あるいは分かりにくさについても審査では指摘されたが、そのような点を超えて 高い水準に達していることが審査にあたった4人の一致した意見である。これが本論考に たいする審査委員会の評価の第1点である。 くわえて、本論考の水準が国際的なフォイエルバッハ研究から見ても、決して劣らず、 むしろ本論考が国際的にも理解できる言語で公表されれば、現在の国際的な水準を押し上 げるだけの水準に到達しているというのが審査委員会の評価の第2点である。 この点でも、川本隆氏の論述は、読解に自信を持ち、よく自らの研究を研究史において、 また現在の研究動向のなかに位置づけることができるだけの、明確なものになっている。 この点は、問題の立て方、論述の方法からみて、フォイエルバッハを丹念に読解している ことが背景にあり、苦労を重ねて到達した川本隆氏自身の研鑽の賜物であると評価できる。 この点で、今日のフォイエルバッハに関する国際的な水準から見て、川本隆氏の議論は固 有の位置を占めることになるだろうと考えられる。 公開審査会(公聴会)においても、氏は柴田教授の特定質問を受けて応答し議論を行っ たが、氏の応答の態度もまた、質問の趣旨をゆがめることなく、現在氏が答えられる限り での応答を行った。この質疑応答に見られる川本隆氏の態度は、研究者としてふさわしい 態度であると言えるだろう。そこで行われた議論は、他の審査員の質問および議論にたい しても、川本隆氏の問題の深さと広がりを示すことになり、時間の制限のなかで、共感を 呼び起こすものとなり、参加者にも満足を与えたのではないかと公開審査会(公聴会)を 主催した審査委員会は確信を持っている。 以上、「完成度の高さ」及び研究の国際的水準への到達という二つの点で、審査委員会 では本論考が学位請求論文として十分なものであり、学位を授与するにふさわしいと判断 したことを報告する。

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