司法権の独立とその擁護者-2-著者
鬼塚 賢太郎
著者別名
Kentaro Onizuka
雑誌名
東洋法学
巻
37
号
2
ページ
89-117
発行年
1994-01
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00003493/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja司法権の独立とその擁護者O
鬼 塚
賢 太
郎
六五四三二一
目 次 はじめに ﹁司法権の独立﹂と﹁裁判官の独立﹂ 大津事件︵湖南事件︶︵以上前号︶ ジュノ⋮号事件︵本号︶ 中野正剛逮捕事件︵以下次号︶ おわりに 四 ジュノー号事件 8 まえがき 当時﹁第二の大津事件﹂ といわれ.惣、 ﹁ジュノi号事件﹂ は 前に述、べたとおり、一九三五年︵昭和一〇年︶に発生 東 洋 法 学 八九司法権の独立とその擁護者口 九〇 しているが、この事件は、本土においてでなく、当時わが国の植民地であった台湾において起きたものであることに 注意する必要がある。 台湾は、周知のとおり、日清戦争の結果清国からわが国に割譲されたものであり、しかも軍がいわゆる﹁台湾征 伐﹂を行い、軍政を布いて民政に移行したのちも、強大な発言権を持っており、台湾で司法権を守るということは、 すなわち軍部の圧力に抗して、その独立を守るということであった。 ハ これがどんなに困難なことであったかは、今のように軍部というものを持たない日本国憲法のもとにおいて、しか も植民地をすべて放棄した現在のわが国においては、今や国民の大多数を占めるに至った戦後派の人びとにとって、 容易に理解しがたいことであろうと思う。 そこで﹁ジュノー号事件﹂に入る前に、その背景事情を知るよすがとして、台湾の初代高等法院長高野孟矩が、軍 部の圧力により、当時の大日本帝国憲法の明文に反し、時の政府により罷免を強行された、いわゆる﹁高野事件﹂に つき触れておくのが適切であろう。 この事件については、先に本稿一﹁はじめに﹂の注︵4︶の中で紹介した、菊池博﹁裁判官の罷免!裁判官の身 分保障を命がけで守った人1﹂︵朝日大学企業法律事務所叢書一九九二年︶の中に、コ、裁判官の罷免ー高野孟矩 の抗争ー﹂︵同書一頁以下︶、コ一裁判官の身分保障を命がけで守った人﹂︵同書一二頁以下︶の二編の文章があり、 ある程度内容的に重複して収録されている。前者は一九六一年︵昭和三六年︶法律時報三七二号に、後者は同年五月 岩波書店﹁世界﹂ 一八五号に、それぞれ発表された由である。
以下菊池氏の両稿に依拠して、事件の概略を紹介することにする。
口高野事件
高野孟矩は、一八五四年︵安政元年︶仙台藩の支藩︵現在の福島県相馬郡所在︶の武家に生まれ、一五歳で戊辰の 役に遭遇し、主家と共に一家没落して辛酸をなめ、苦学の末、最初検事ついで判事となり、札幌地方裁判所長を経て 一八九四年︵明治二七年︶新潟地方裁判所長になった、いわば立志伝中の人であった。 高野の新潟在勤中日清戦争が起き、翌九五年には下関条約で台湾膨湖島の日本帰属が決定し、九六年︵明治二九 年︶三月政府は軍政を廃止して民政を布くことを官言した。高野は、初代の台湾総督府民政部法務部長となり、つい で台湾高等法院長に任ぜられ、法務部長を兼任することになった。 そこで高野は、赴任に先立ち、台湾の判事として同行する一六名を東京に集めて初の会同を催し、 一、軍政時代に行っていた刑罰は、戦時下の一時的なものであるから、民政施行後は断然これを廃止すること、 二、政府が正当な手続を経て法律を発布するまでは、従来現地に行われていた法律・習慣によって裁判を行うこと、 を決議し、樺山台湾総督の承認を得た。 台湾は、日本にとって最初の植民地統治であったので、法的にも難しい問題が多く、第一に大日本帝国憲法の適用 があるのかないのかが問題となったが、高野は、当然台湾に適用があると主張した。 その結果政府は明治二九年の法律第六三号により、台湾総督府は律令という命令を発することができ、これが法 東 洋 法 学 九一司法権の独立とその擁護者口 九二 律と同一の効力をもつこととした。この反面解釈として、台湾にも憲法が適用されるという原則が確立し、高野らを 喜ばせた。 この律令第一号が、台湾の裁判所設置を定めた台湾総督府法院条例であって、台湾における各種の法院︵裁判所︶、 三審制度、民刑の裁判掌理が定められた。 高野は、一八九六年︵明治二九年︶六月七日、首相伊藤博文、海相西郷従道、樺山に代わった台湾総督桂太郎らと 共に、軍艦吉野で台湾に赴任した。 当時の台湾には、住民の意志と無関係に行われた割譲に反対する勢力が、台湾独立宣言を行い、日本支配に反抗し ていた。日本が三個旅団を派遺するに及び、元清朝の幹部たちは中国本土へ逃亡したが、帰るべき故郷を持たない入 たちは、公然と、またはゲリラで、日本軍を悩ましていた。 日本軍は、これらの勢力を匪賊と称し、討伐を行ったが、高野は、これをすべて匪賊とする見かたに必ずしも賛成 しなかった。しかも、日本軍は匪賊と良民の区別をせず、多くの良民を殺し、財産を奪って民家を焼き払い、婦女を 強姦する無法ぶりであった。 高野は、着任後法院設置のため台湾各地を視察し、こうした日本軍の横暴ぶりに深く心を痛めた。すでに、台湾の 統治形態は軍政から民政に移っており、犯罪の鎮圧は、すべからく司法警察・検察・裁判によって処理されなければ ならないのに、軍政どころか、戦場そのままの惨状が横行しているのを見て、高野は断乎軍部に向かって警告し、民 ハ ツ ハイマ 政局長を通じて軍部の処置を非難し、更に直接桂総督に意見書を提出した。
しかるに、軍部の行政官は、高野の提言を聞き入れないのみか、いたずらに軍部を中傷するものとして、高野の直 言や非難を白眼視し、これが高野の排撃罷免運動に発展して、中央政府を動かし始めた。 こうして、高野と軍部行政官との意見が対立し雲行がわるくなっているところへ、一八九七年︵明治三〇年︶六月、 突如総督府部内に汚職容疑の捜査が開始されるに及び、高野排撃の火の手は、一挙に表面化した。 汚職の捜査そのものは警察がやったことで、高野とは何も関係がなかった。しかし、高野は、札幌の所長時代汚職 の裁判に厳格であったという定評があり、これまでの高野と軍部行政官との経緯からみて、高野の存在が不当に恐れ られたようである。 ハら 同年九月上京した高野は、松方首相や高島前拓相︵拓植省大臣︶から、台湾の高級官吏を入れかえるから辞表を出 してくれといわれたが、その理由については全く説明がなかった。高野は、裁判官が理由なくしてやめることはでき ないと言って、辞職を拒んだ。 すると、一〇月一日政府は、一方的に高野を非職︵待命︶とする辞令を郵便で送ってきた。高野はこれを送り返し、 自分は今なお台湾高等法院長であるから、用事がない以上、一〇月一七日発の列車で出発し台湾へ帰任するとつけ加 えた。これに対し政府は、非職の辞令が出た以上帰任に及ばずという指令を出した。 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ しかし、剛直な高野は、裁判官を一方的に罷免することは憲法上できないとし、予定どおり一〇月一七日午前六時 新橋駅発の下り列車で出発し、帰任した。 当時の毎日新聞が、高野に対し、次のようなはなむけのことばを贈っている。
東洋法学
九三司法権の独立とその擁護者口 九四 ﹁高野孟矩君司直の職を以て魑魅跳躍嘗て光明の照映せざる台湾の暗黒界に居り腐敗の気中に卓立し、権勢に屈せ ず、情実に擁まず、其公明なる行動却って奇禍を招き突如中央に召還せられ非職の命に接するに至れり。而して君は ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ この惇理的命令に抗し一身を賭して台湾司法権の独立を擁護せんがため決然台湾の任地に帰らんとし吾人に告げて日 く“余の去就如何は憲法上に関する国家の大問題たるは勿論、延て三百万人民の生命財産に関する重大事件と確信す、 余は如何なる逆境に遭遇するとも国家人民のためを思へばこの五尺の微躯は軽きこと鴻毛に似たり”と。何ぞその意 気の壮烈にして其語句の沈痛なる、天下清議一に当局の処置を非難して高野君に同情を寄せざるはなし、孟矩たるも の国家の憲法法律将た社会の正理公道は縦横に一身の周囲を続りて擁護すべきことを量念し以て其職分を固守するこ とを努め、法政改善の端緒を啓くべきなり﹂︵傍点筆者︶ 一〇月二八日台湾総督府は、高野を台湾高等法院から警察力をもって追い出し、高等法院長の地位を去らせること にした。剣をとっては人後に落ちない高野に対し、総督府側は、特に剣道に熟達した警察官を選んで派遺することに したという。 午後三時、磯部台北県警察部長は、多数の部下を従えて台北城外大稲堤にあった台湾高等法院に集まり、前後の門 を固め、各部屋の交通を遮断したのち、院長室に入って高野の退去を求めた。 総督の命令で退去を求めるという磯部に対し、高野は、総督の命令なら、その命令書を示せと言ったが、磯部は、 制服着用の自分には命令書はないと言った。 高野が﹁強窃盗のような極悪者を逮捕するにも令状を示すのが法規の命ずるところである。自分は勅任官で台湾裁
判官の首席であり、ここは台湾の最高法院である。しかるにそこで諸君が法規の何たるを論ぜず、理不尽にも公権力 を用うるという以上もはや憲法、法律を説く用はない。後は勝手にせられよ﹂というと、磯部は呼笛で部下を呼び入 れ、﹁法院長を担ぎ出せ﹂との命令一下、二名の警部が高野の左右から、四、五名の巡査が背後を擁して、文字どお り高野を実力で追放した。 高野は、やむをえず高等法院を出て、川田台北地方法院長の官舎に入った。 かくて、時の松方内閣は、大臼本帝国憲法第五八条第二項﹁裁判官ハ刑法ノ宣告又ハ懲戒ノ処分二由ルノ外ソノ職 ヲ免セラル㌧コトナシ﹂の明文に反し、何ら正当なる理由を示すことなく、現職の勅任判事を警察力で追い出すとい う非違をあえてしたのであった。 高野が非職処分に応ぜず、これに抗議すると、政府は抗命を理由に、同年一二月二八日高野を懲戒免官として、位 記の返上を命じ、高野が公務員として約二〇年間勤務したことから得られる恩給権も剥奪した。 この事件に対し、台湾の判事や書記の中で抗議して辞表を提出したり、抗議して懲戒免官となる者が続出し、その 中には、加藤台湾覆審法院長、戸口新竹法院長をはじめ、台北、台中、台南、嘉義、苗栗の各法院長、台湾高等法院 判事、書記長、書記多数が含まれていた。 政府の憲法躁躍は、世論を強く刺戟し、高野に対する激励会や激励の文書電報が続き、新聞論説も皆高野を支援し ハ た。 しかし、政府は、台湾にはまだ憲法上の裁判官の身分保障を具体化した法律が施行されていないこと、台湾法院条 東 洋 法 学 九五
司法権の独立とその擁護者口 九六 例には、老朽または心身に故障のある判事を退職させる規定とか、判事懲戒法がないから、その反対解釈として、台 湾の判事は行政官並みに罷免できると主張して、高野の罷免を撤回しなかった。 他方議会のほうは、同年暮の第二回帝国議会において、高野を支持する候爵久我通久、子爵谷干城、同曽我祐準、 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 元検事総長松岡康毅、富田鉄之助、元大審院長児島惟謙らが、発議者または賛成者となって政府に質問書を出し、翌 年には、衆議院議員大竹貫一、首藤隆三、石原半右衛門、鈴木重遠、安倍井盤根、中村弥六、喜多川孝経ら多数の者 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ が、台湾の裁判官の身分保障問題を取り上げ、数次にわたり政府を追及し、その建議を決議し、遂には政府をして、 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 台湾の裁判官にも身分の保障があると言明させるに至った。 しかし、高野については、後任者がすでに決まっているのでどヶしようもないという答弁を政府が繰り返し、最後 ヘア まで高野の復職は実現するに至らなかった。 以上が﹁高野事件﹂の概略であって、これ自体司法権の独立に関わる大事件であるが、先の大津事件と異なり、こ こでは高野の大奮闘にもかかわらず、台湾の最高の地位にある裁判官が行政官並みに扱われて、なんら正当な理由な く一片の通知により罷免されるという形で、司法権の独立が行政権により踏みにじられ、本土における朝野の批判は 高かったけれども、地元の台湾においては、軍部行政官側の圧倒的勝利に終っていることに注目したいと思う。 その後、一八九八年︵明治三一年︶台湾総督に就任した児玉源太郎、台湾民政長官に就任した後藤新平が、遅れば ハ せながら高野の建策を実質的に取り入れ、治安の向上や民政の安定に努力して、成果を挙げている。 しかし、台湾統治の最初に、目の上のこぶであった司法部の代表者高野を葬り去ったことが、軍部に過剰な自負と
司法部への軽侮をもたらし、これが伏流水となってジュノー号事件まで続いたとみるのは、筆者のひが目であろうか。 国 ﹁ジュノー号事件﹂資料の執筆者について ﹁法曹﹂二一二号︵法曹会、一九六八年︶に、﹁ジュノー号事件﹂を執筆した鈴樹忠信氏について、簡単に触れて おこう。 同氏の略歴は、次のとおりである。 一九〇五年︵明治三八年︶ 一九二七年︵昭和二年︶ 一九二八年︵昭和三年︶ 同 年 一九二九年︵昭和四年︶ 同 年 一九三一年︵昭和六年︶ 同 年 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 一九三二年︵昭和七年︶ 一九三九年︵昭和一四年︶ 東 洋 法 学 二月二五日生 一二月高等試験行政科合格 ゴ百東京帝国大学法学部卒業 八月台湾総督府属 二月野砲兵第二連隊入隊 一二月高等試験司法科合格 三月陸軍砲兵少尉 五月台湾総督府理事官 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 四月台湾総督府地方警視 三月興亜院事務官 九七
司法権の独立とその擁護者口 一九四一年 一九四二年 同 年 一九四四年 一九四七年 一九五九年 同 年 一九六六年 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 一九六七年 一九六九年 一九七五年 ︵昭和一六年︶ ︵昭和一七年︶ ︵昭和一九年︶ ︵昭和二二年︶ ︵昭和三四年︶ ︵昭和四一年︶ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ︵昭和四二年︶ ︵昭和四四年︶ ︵昭和五〇年﹀ 六月興亜院調査官 八月台湾総督府事務官 二月台湾総督府書記官 二月台東庁長 三月弁護士登録 九月同登録取消 同月熊谷簡易裁判所判事 八月墨田簡易裁判所判事 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 一月渋谷簡易裁判所判事 八月久喜簡易裁判所判事 定年退官 鈴樹氏は、﹁ジュノ!号事件﹂を﹁法曹﹂ ジュノ⋮号事件︵以下本件という︶ 九八 以上の略歴でわかるように、 誌に執筆した一九六八年︵昭和四三年︶当 時、渋谷簡易裁判所判事であったが、 が起きた一九三五年︵昭和一〇年︶当時は、 台湾総督府の地方警視であった。 本件は、後に述べるように、憲兵隊が検挙して検察庁に送致したものであり、警察が直接関与したものではないが、 同氏が当時行政の中枢である総督府の警視として本件の推移に強い関心を持ち、情報に詳しかったであろうことは、
疑いの余地がない。 ただ、先の大津事件も、後の中野正剛逮捕事件も、共に直接の関係者による資料が残っているのに対し、本件につ いては、資料がやや間接的︵伝聞的︶であるのは、残念である。 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ しかし、後に述べるように、﹁一審、二審を通じ、法廷の警備は、軍法会議さながら憲兵が担当し、警察は法院周 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 囲の警備に当った。そして、軍人、在郷軍人以外の傍聴人には、憲兵が一々、住所・氏名・何のために来たかを尋ね ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ハ たことは、私じしんの目撃したところである﹂ ︵傍点筆者︶として、警視である鈴樹氏自身が、当時法院の警備に関 わっていたことを推認させる叙述のあることは、本件資料の信懸性について強い裏づけとなるものであろう。 四 本件の発生から起訴まで 一九三五年︵昭和一〇年︶四月七日オランダ船籍のタンカi﹁ジュノi号﹂が、台湾海峡のほぼ申央部にある膨湖 へれ 島の馬公港に入港した︵以下次頁地図参照︶。当時同港は、海軍の要港であり、不開港であった。オランダ人の船長 は、台風を避けるためであったと述べたが、その第二報から、島内新聞紙は、いずれも﹁スパイに違いない、船は没 パなソ 収されるであろう﹂と繰り返し書き立てた。鈴樹氏は、その報道源は軍部であると断定している。 四月九日朝、ジュノー号は、中堂参謀が便乗する駆逐艦汐風に護送されて馬公を発ち、夕刻高雄に着いた。 馬港憲兵隊は、台南地方法院高雄支部検察局に事件を送致したが、その際の意見書は、次のような趣旨であったと へだ いう。 東 洋法 学 九九
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司法権の独立とその擁護者口淡水e/\
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げ 台南 高雄 一〇〇 ﹁被疑者ジ⋮・ディアリングは、ジュノ⋮号の船長 で、四月六日正午淡水港を出帆し、スマトラに向い航 行中、気象電報により、ヒリッピンの東方に台風起り、 更にマニラ付近に他の台風の発生したのを知り、翌七 日午前には気圧の下降を認め、午前八時四〇分、台風 を避くべく、馬公港は不開港場なることを知りながら、 馬公の西方六〇カイリの地点において進路を馬公に向 け、四月七日午後四時五十六分、馬公港小池湾に入港 投錨した。 ちなみに、馬公入港を決意せる海上より危険区域に 至る距離遠く、八・五マイルの速力で南進を続くるも、 尚数十時問を要するので、当時不開港場たる要港に投 錨を決意したのは当を得ない。また、避難の必要あり としても、何故に、支那沿岸の開港場に入港しなかっ たか、マニラ付近の台風を淡水港出港後に知ったとい うけれども、該台風は、六日午前五時の気象通報によって、出港前に既に熟知せるものと思われる。 これらの点から、被疑者の行為は、馬公の状況を探求せんとする意図の下に決意したものと見えるから、船舶法違 反として、厳重処分の必要がある﹂ この事件送致の直後から、馬公要港部の木幡参謀長と中堂参謀は、再三にわたり、台南地方法院高雄支部検察局の 石橋検察官長に対し、﹁憲兵隊から船舶法違反で送ってあるが、軍機保護法違反のスパイとして起訴し、かつ、処断 ハお されたい﹂と強く要望したという。 また、この事件につき、ジュノー号所属会社と取引関係のある者が弁護人を依頼しようとする動きがあると、﹁非 ハねマ 国民しと決めつけて、断念させた事実もあるという。 ハお 四月一二日船長ジー・ディアリングは勾留され、同日船舶法違反︵不開港場に入港︶で起訴された。起訴状の公訴 事実は、次のとおりであった。 ﹁被告人はオランダ国人にして、英国会社たるアジア石油株式会社の傭船なるオランダ国汽船ジュノー号︵総トン 数二三四五・二八トン、乗組員三九名︶の船長なるところ、昭和一〇年四月六日午前二時頃、英領シンガポールヘ 帰航するため、台北州淡水港を出帆して、スマトラ島パレンバンに向い南支那及び台湾間の台湾海峡中央部を航行中、 翌七日午前八時四〇分頃、ルソン方面に台風発生の無電に接し、当時航海に堪えざる風波なかりしも、暴風の襲来を 恐れ、事前に避難せんと欲し、約六五浬を隔てたる膨湖島が、帝国軍事施設にして入港を許されざる事情あるを知り ながら、約七〇浬を隔てたる貿易港厘門に寄港せず、正当の理由なくして右台風避難に名を籍り、同月七日午後四時
東洋法学
一〇一五六分、 司法権の独立とその擁護者口 馬公要港部第三区に属する不開港場たる膨湖庁馬公港小池湾に、 一〇二 右船舶を入港投錨せしめたるものなり﹂
国第︸回公判
第一審の第一回公判は、同年四月一七日台南地方法院高雄支部単独部法廷で、上田幸治判官係、松岡良俊検察官関 与、長尾景徳弁護人︵元判官︶立会で開廷された。 英語の通訳だけであったので、被告人は、蘭英・英蘭の辞典をくりながら、時に筆談をまじえて応答した。 審理の焦点は、ジュノi号が馬公に入港した時の約二時問前に、台湾の南端鷲攣鼻︵ガランビ︶無線電信所から発 信された﹁台風は徐々に解消しつつある﹂との気象通報を、船長である被告人が受けたかどうかにあった。 ﹁右電報をメモした紙片を、船橋︵ブリッジ︶で船長に渡した﹂と証言する同船無電局長と、﹁ノーノi﹂を連発 しながらいきりたつ被告人との対質尋問において、切迫したやりとりが展開された。 四月一八日の第二回公判では、高雄港の水先案内人で、船長として台湾海峡を往復した経験をもつ川井彦三郎が、 鑑定を命ぜられた。 鑑定事項は、船長および乗組員の素養、船舶の性能、航海に耐えうる状態の気象、船長が四月七日馬公に入港した 処置の当否、失当なる処置とすればその程度いかん、馬公入港の二時間前台湾解消の報告を接受すれば一般航海者の とるべき処置いかん、というものであった。 四月二四日の第三回公判では、川井鑑定人から、﹁馬公に向け針路を変更したことは不当である。被告のとるべき道は、ほかにあったと考える。経験ある船長ならば、かかるばかげた処置をとらない。すなわち、当時の気象および 四囲の状況は、決して切迫していない。台湾解消の通報に接したなら、直ちに針路を他に転ずべきである﹂との鑑定 結果の報告があった。 馬公要港部先任参謀中堂中佐は、右第三回の公判においては参考人として、四月二六日の第四回公判においては鑑 定人として、それぞれ法廷に立ち、﹁われわれは、理由のいかんを問わず、大事な帝国の要港に入って来た事実に対 し、細かいこと等は眼中にない。ただこれを罰すべき信念を持っているだけである﹂と前置きして、﹁被告の意図は ハ ツ 軍機を探るものと信ずる﹂と述べた。 四月二七日の第五回公判で、上田判官は、無電局長の証言、川井鑑定書、中堂鑑定人の供述を総合して、被告人を スパイと認定し、罰金二千円と船体没収の判決を言い渡した。 検察官の求刑は罰金一一千円だけだったので、予期しなかった船体没収を聞いた瞬間、被告人は失心せんばかりに驚 き、ワナワナ震えていたと、新聞は報道した。 軍部は、起訴状記載の公訴事実と第一審における検察官の論告が、前記木幡・中堂の要望に添わなかったので、 ﹁石橋をやめさせろ﹂との要請を上層部に出し、上田判官が、スパイと認定して船体没収を言い渡すや、﹁昭和の大 び 岡裁きで名判決﹂と賞揚したという。 東 洋 法 学 一〇三
司法権の独立とその擁護者ロ 一〇四 ㈹ 控訴審の管轄移転 控訴審の第一回公判は、同年五月一三日、台南地方法院合議部法廷で、裁判長波多野行蔵判官、丸尾美義、杜新春 両判官陪席、松村勝俊検察官立会のもとに開かれた。 担当弁護人は、安保忠毅︵台北弁護士会長、元判官、台湾総督府評議会員︶、岡田庄作︵元東京弁護士会長、明大 教授、法学博士︶、金子保次郎︵元判官︶、前記長尾景徳、蓑和藤次郎︵台北弁護士会員︶の五名であった。同日午後、 弁護団から、﹁蘭語の通訳を﹂との申立があり、次回公判から、総督府調査課勤務の山岸祐一がこれにあたることに なった。 第二回公判の前日である五月一九日に、弁護団一行は、緒方台南地方法院長および波多野裁判長を歴訪し、﹁主任 判官である丸尾判官をこの事件から回避させてもらいたい。若い将来のある人だから、忌避の申立はしない。もし回 避しないなら、この管轄移転の申請を提出する﹂と、タイプした申請書を示して申し出た。 同夜波多野裁判長は、丸尾・杜両判官を官舎に招き、丸尾判官の意見を求めた。同判官は、﹁回避しない﹂と答え ハぬレ て翌日の公判に臨むことになった。 へ 五月二〇臼第二回公判の開廷冒頭、蓑和弁護人が、﹁刑事訴訟法第一六条第二項︵現刑訴第一七条と同旨︶により、 被告人から管轄移転の申請書を提出してあるので、右申請書を高等法院に送っていただきたいしと申し出た。 裁判長が、合議の末、﹁本件の裁判は急速を要するので、当法院では引き続き裁判することにする﹂と宣告したと ころ、まず安保弁護人が、﹁急速を要するとはどういうことか﹂と釈明を求めたうえ、﹁刑事訴訟法第二二条但書︵現
バめ 刑訴規則第六条と同旨︶にょって裁判をやられるとは、法律を無視した処置であり、また、重大な理由なくしてそう せられることは、直近上級裁判所の審理権を侵害することともなる﹂との発言をし、これに続き各弁護人が、かわる がわる異議を申し立てた。 いったん休憩の後、裁判長は、﹁弁護人の異議申立は却下する。合議の結果、急速を要するものと認め、本件は引 き続き当法院において審理するが、今日は異議の申立につき多くの時間を要したから、次回のことは追って決定す る﹂と、なんら事実審理に入ることなく、次回期日も指定せず、午後二時閉廷した。 被告人が申し立てた管轄移転申請の理由は、次のとおりである。 ﹁ジ⋮・ディアリングは、台南地方法院合議部船舶法違反事件の被告人として、同合議部の控訴公判に係属中のと ころ、高雄・台南両州下の海友会・在郷軍人・海軍々人その他民衆中、同被告事件における被告人の、オランダ国に 籍を有する油送船ジュノー号に船長として乗組み、馬公要港に寄港したる所為を目し、我が国の軍事上の機密を探知 するの目的を以て要港内に闘入せるいわゆるスパイ行為にして、単なる海難を避けるための寄港にあらずとなし、こ れを憎悪するの極、団体を組織し、または個々に、或は法院に対して嘆願書を提出し、或は神社に参拝し、或は刊行 物又は演説の方法により、或は殊更に軍服を着用して公判廷に出入する等、各種の行動を開始し、以て我が国の軍機 を保護するため、被告人を厳罰に処するの要あり、と盛んに宣伝し、民心刺戟の上、所轄法院を牽制し、以てその目 的を達せんとするの状、まことに顕著なるが故に、これがため、同法院合議部において裁判をなすも、到底公平を維 持すること能わざる恐れあるにより、本被告事件を他の同等なる法院に移転の決定相成りたく、刑事訴訟法第一六条 東洋法学 一〇五
司法権の独立とその擁護者口 一〇六 第一項第二号、第二項に基き本請求に及びたり。﹂ 管轄移転申請書の送付を受けた高等法院検察局では、上京中の伴野同検察官長に打電して指揮を仰いだうえ、検察 局としての意見書を作成し、高等法院上告部に提出した。 高等法院上告部では、部長池内善雄、姉歯松平、古賀岩蔵、中野峯夫、岩淵止の五判官が審議し、五月二二日﹁台 北地方法院合議部の管轄に移転す﹂との決定が下された。 被告人からの管轄移転の申請は、日本による台湾統治の五〇年間を通じ、本件が唯一のものであった。 この管轄移転決定後、台北地方法院における控訴審公判の開始前、大野馬公港部司令官から大里台北地方法院長に、 へぬ 台湾軍司令部土橋高級参謀から枡山総督秘書官に、それぞれスパイとしての裁判の要請があった、といわれている。 軍部は、これと並行して、一審当時から、右の目的を達成するため、在郷軍人会、右翼団体、在野法曹会の一部等 を動員し、軍機擁護、国防安全の名のもとに、マスコミを利用し、また、中央部にも働きかけ、団体の力による暴圧 をはかった。公判の前後には、必ず馬公要港部参謀らの裁判批判的な談話が新聞紙に発表され、公判の前日または当 日の朝、地元在郷軍人会の神社参拝が行われた。法廷は憲兵が警備してあたかも軍法会議のようであり、軍人と在郷 軍人以外の傍聴人は、憲兵の厳重なチェックを受けた。 他方、検察官の論告は、一、一一審を通じ、﹁スパイと断ずる証拠はない。船は没収すべきでない﹂の二点を強調し ており、本件事件処理の全体を通し、司法の生命線を守り抜くことについて、検察当局は一本の太い柱となっていた ことがうかがわれる。
また、事件が台南地方法院に係属中、伴野高等法院検察官長は、﹁大国民の襟度を望む﹂との趣旨で、現に行われ ている裁判批判は処罰の対象にもなりうる、と相当手きびしく全島民の自重を要望した。 このため、同検察官長に対する軍部の風当りは最も強く、いろいろなデマの対象とされた。山本総督府法務課長も ﹁法匪﹂といわれ、安保弁護士と並んで、反軍思想の持主として、国会にまでビラをまかれたという。 控訴審で、オランダ語の通訳をした総督府調査課の山岸祐一は、知り合いの軍人や中堂参謀から﹁なぜ通訳を引き 受けたか、通訳なんかやめちまえ﹂といわれただけでなく、一九三七年︵昭和一二年︶に公務出張でシンガポールに 行った際には、二日にわたって警察に呼び出され、いろいろ取調を受けて結局上陸禁止となった。総督府官吏でこの あじ ような取扱を受けたことは、他に全く例がない。 ㈹ 控訴審︵台北地方法院︶の公判 移管を受けた台北地方法院刑事合議部では、裁判長山脇正夫判官、樺島益生・鍛治四郎両判官陪席、中村八十一上 席検察官関与と決定され、被告人は、高雄・馬公等への証拠調に連行された後、同年八月三日保釈を許された。六月 七日控訴審公判が開かれた。 当時の新聞記事にょると、午前四時、豪雨のさ中、建功神社に国防強化の祈願をこめた台北在郷軍人会員は、その まま傍聴に押し寄せたので、午前六時ごろには法院前は黒山の人だかりとなり、豪雨の中で炊き出された握り飯をほ おばりながら開廷を待つという非常時風景。法廷は、平林憲兵分隊長の指揮のもと、憲兵二十余名が出動して警戒にあ
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一〇七司法権の独立とその擁護者口 一〇八 たり、一審のときと同様、軍人・在郷軍人以外の傍聴人には、憲兵がいちいち住所・氏名・傍聴の目的を尋ねたという。 午前中は審理、午後に検察官の論告二審求刑どおり罰金二千円︶と五弁護人の弁論が行われたが、右論告中﹁一 審で冊台風解消のメモを船橋︵ブリッジ︶で船長に渡した﹄と証言した無電局長は、その後尋問する度ごとに供述を 変えていて何ら信ずべきものがないばかりでなく、更に他の証人を調べた結果、同時刻には、被告人は船橋にはおら ず、寝室にいたことが立証された﹂とある点が、注目を引いた。 判決言渡しは六月一〇日、山脇裁判長は、﹁被告人は︵中略︶汽船ジュノー号に船長として乗組中、昭和一〇年四 月七日午後四時五六分頃、不開港場たる膨湖島小池湾内︵位置省略︶に投錨し、以て同汽船を不開港場に寄港せしめ たるものなり。︵証拠・適条省略︶﹂という理由のもとに、﹁被告人を罰金五百円に処す﹂と主文を富一告した︵船体の 没収なし︶。 山岸通訳にょりこれを聞いた被告人は、まっ青だった面上に歓喜の色が輝き始めた。これに対し、廷内はあっけに とられ静まりかえっていたという。 右判決に対し、検察官が上告するかどうかが全島民の関心のまとであった。上京中だった伴野検察官長が六月一三 日帰台したが、上告期限最終日の六月一五日中に上告手続はとられず、右判決は確定した。 ㈹ ジュノー号事件の余波ーー関係者に対する圧迫 判決に失望した軍部は、裁判に関与した在朝在野の法曹人を追放、 失脚させるため、 あめい デマを飛ばしては圧迫を加えた。
中でも、民間人である弁護人に対する圧迫は、すさまじかった。 判決確定の翌日である六月一六日に台湾軍司令部桑木参謀長の談話が新聞紙に発表された。 ﹁判決の結果は余りに寛大にして、此の種事件の絶滅を期するに充分ならず、甚だ遺憾であるし ﹁弁護人が殊更に軍部を誹諺するが如き言動を弄し、また、一部人士の中には、国防観念著しく吾人の期待に添わ ざる感あるを遺憾とす﹂ 六月二二日に開かれた在郷軍人会全島大会で、弁護人の非難決議が行われ、右翼団体は弁護人の公職追放に狂奔し た。 安保弁護士に対する圧力は、弁護士会内部にも及び、一〇月二六、七日に行われた施政四十周年記念台湾弁護士大 会で頂点に達した。右大会の直前、台南の弁護士一三名が台湾弁護士協会から脱退し、二六日夜行われた祝賀晩餐会 では、反安保派の古屋貞雄弁護士と渡辺弥億弁護士との聞に乱闘事件が起きた。 鼓・松田・柏原三弁護士によるジュノ⋮号事件調査報告書の取扱いについて、議論が沸騰したが、調査項目中に、 官吏の官紀に関する事項、裁判の合議に関する事項等を含み、弁護士本来の職分を超えるとの意見が採択され、その まま司法部両長官に提出された。結局台湾弁護士協会︵安保理事長︶は解散となり、機関紙﹁法政公論﹂も廃刊のや むなきに至った。 安保・長尾の両弁護士は、同年六月陸軍大臣から、軍法会議の指定弁護士であることを取り消された。 安保弁護士が受任していた台湾軍関係の民事事件については委任が取り消され、同弁護士が出席する一切の宴席を
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司法権の独立とその擁護者口 二〇 軍はボイコットした。更に、同年末総督官邸で行われた話し合いの条件として、同弁護士は総督府評議員を辞任させ られただけでなく、帝人事件等で内地出張の際は、護衛と称し特高刑事︵思想犯係︶の尾行がついたという。 しかし、鰯毅な安保弁護士は、これに屈せず、﹁第一線に於て司法の生命線を確保すべき天職を有する弁護人の悪 戦苦闘も、正義により酬いられるしとした。 ハむ 次の所感を読むと、司法権擁護の熱情において、軍部に抗した高野孟矩に通ずるものがあり、感銘をいっそう深く する。 ﹁顧みるに、ジュノ⋮号事件は、台湾司法部の一大試錬たりしことに於て、天の声たり。不肖、弁護人の一人とし て之に伍し、殿誉褒疑の外に、司法権の第一線に、其の天職の為に微力を致したり、天地の公道に殉ずること、男子 の本懐之に過ぎず。自ら顧みるとき、亡父が、明治初年、郷党に於て、勤王の義挙に先鞭をつけ、死後、皇室の恩寵 に浴したるの往時を追懐し、心密かに亡父の霊に、孝道を守り、其の愛国心に報い得たるものあるを欣快とす。不退 転の信念に生きるものに於ては、千万人と錐も吾行かんのみ。 “風吹けど動かず 天辺の月” とは、裁判の神聖を表彰するに足らんか。 心眼を開きて喝破すれば 大道無門 千差有路 透得此関 独歩乾坤 ﹂
㈹あとがき
﹁大津事件﹂は、裁判に対する時の内閣の露骨な干渉に対し、司法部の最高責任者であった児島惟謙がただひとり 身を挺して司法権の独立を守り通したものであるのに対し、この﹁ジュノi号事件﹂は、裁判官・検察官・弁護人の 法曹三者が一丸となって、軍部・右翼・マスコミの重圧から司法権の独立を守り抜いたところに、その特色がある。 [大津事件﹂では、担当の各裁判官を大臣が呼びつけ、内閣の法解釈に従うよう裁判官に対する直接的な説得が行 われたが、﹁ジュノー号事件﹂では、そのような膝詰談判的干渉はなかったようである。しかし、マスコミを利用し ての働きかけや、公判前後における参謀らの裁判批判的な談話発表、在郷軍人会の神社参拝、法廷における憲兵の厳 重警備、軍服着用者の傍聴等、愛国心の名のもとに裁判官に加えられた精神的重圧は、すさまじいものがあったろう。 これまであえて触れなかったが、第一審において被告人をスパイと認定しただけでなく、求刑になかった船の没収 ハわぜ まで言い渡し、軍部から﹁昭和の大岡裁きで名判決﹂と賞揚された上田判官が、後に自殺をはかったという事実があ る。その理由については資料上明らかでないので、コメントをさしひかえたいが、当時裁判宮に加えられた前記精神 的重圧と全く無関係であったとは考えられない。 検察当局に対しては、軍部から、終始﹁スパイとして起訴し、処断せよ﹂との強い要望があったが、一、二審を通 じ、各関与検察官は、一貫して﹁スパイとして断ずる証拠はない、船は没収すべきでない﹂と強調し、前記重圧下の もとで司法の正義を貫いたのは、みごとである。この検察当局の毅然たる態度が、どれだけ弁護人の支えになったか、 はかり知れないものがある。伴野高等法院検察官長はじめ検察の要人が﹁好ましからざる在朝法曹人﹂として、軍部東洋法学 二一
司法権の独立とその擁護者口 二二 により免官や転勤運動の対象とされたのも、故なしとしない。 弁護人に対する非難・排斥に至っては、軍部がいかに裁判というものを理解していなかったかを如実に示すもので ある。弁護人として当然の職責を果たしたにすぎない、安保弁護士に対する事後の迫害は、多分に犬糞的で、彼らに とっては﹁軍の栄光﹂が唯一至上のものであったとしか思われない。 この思い上がった軍部の支配が、後に未曽有の敗戦をわが国にもたらし、五十年の台湾統治にもピリオドを打つに 至らせたのは、歴史の審判ともいうべきであろう。 ヤ しかし、台湾に対する植民地支配という、わが国の﹁負の歴史﹂の中で、司法権の独立を守り通した、この﹁ジュ ヤ ノi号事件﹂は、あくまで﹁正の史実﹂として、わが裁判史の中に語り伝えられなければならない。 ︵王︶ ︵2︶ ︵3︶ 鈴木忠信﹁ジュノ⋮号事件︵いわゆる第二の大津事件︶﹂法曹二一二号㎜”二三頁︵法曹会、一九六八年︶のまえがきに、次の とおり記してある。 ﹁昭和十年四月、台湾において発生したジュノー号事件を、﹁第二の大津事件﹂というのは、あえて私の潜称するところで はない。当時の法律新聞︵昭一〇・七・二五第三八六六号︶に、﹁新湖南事件 判決特報﹂と大書し、新湖南事件たるゆえん を略説して、一、二審判決全文が掲載され、また同新聞︵昭一Q・九二八ー二三第三八八七ー九号︶に、前長崎控訴院 長石井豊七郎氏が、[司法生命線の固守﹂と題し、大津事件と肩を並べて論評しておられる。﹂ 現在憲法九条違反かどうかは別として、実質軍隊とみられている自衛隊の存在があるが、文民統制︵憲法六六条二項、自 衛隊法七条、八条︶が堅持されるかぎり、かつての軍部のような存在とはなり得ないであろう。 高野は、民政局長に対し、軍隊に対し次のような訓示を行なって守らせるよう交渉している︵菊地前掲書一六頁以下︶。
一 戦闘線内又ハ哨兵線に於テスルニ非サレハ濫リニ人民ヲ逮捕スルコトヲ得ス モシ此線内二於テ土匪ト認ムル者ヲ逮捕 シタルトキハ必ス臨時法院又ハ管轄地方法院ノ検察官二之ヲ交付スヘシ ニ 土匪ト認ムル者ヲ逮捕セントシ又ハ逮捕シタルトキ抵抗ヲ受クルモ其抵抗強大ニシテ已ムヲ得サル場合二非サレハ之ヲ 殺傷スヘカラス 三 若シ已ムヲ得ス殺傷シタルトキハ検察官又ハ予審判官ノ其ノ殺傷事項検証ヲ終了スル迄ハ其死体又ハ傷所ノ績様ヲ維持 スヘシ 但傷所二救急治療ヲ加フルハ此限二在ラス 四 偵察上土匪ト認知シタル者アルトキハ臨時法院又ハ管轄地方法院検察官二之ヲ報告シ其処置二任スヘシ 但時機緊急ニ シテ寸時ヲ猶予シ難キトキハ一面報告シ一面ハ其逃亡ヲ予防スルノ措置ヲ施スヘシ 五 被告人逮捕ノタメ検察官ヨリ授助ヲ請求シ来リタルトキハ直二之二応シテ其逮捕ヲ授助スヘシ 逮捕の手続のみに関することではあるが、軍隊が土匪と良民の区別なく、みだりに現地人を逮捕し、しかも過剰に殺傷し て顧みなかった実情がほうふつと浮かんでくる。 司法の立場からする、このような高野の最小限度の要求さえ、受け入れられなかったのである。 ︵4︶高野が総督にあてた意見書は、長文であり、菊地前掲書︸四頁以下に詳細掲載されているが、そのうち﹁良民の惨状﹂に ついて述べた部分だけを引馬することにしよう。 ﹁暴動被害地中鹿港台中ヲ除ク外ハ村落概ネ焼殿セラレタルノミナラス偶㌧家アルモ住民ハ重病者保護人ナキ老衰者ヲ除 ク外ハ村内無人ノ有様ナリ 又村落ノ荒廃田畑ノ荒蕪見ルニ涙ノ種ナラサルハナシ 就中成熟シタル稲ヲ収穫セスシテ腐敗 セシメタルモノノ如キ惨中ノ又惨ナルヘシ 予ハ予テヨリ我々同胞ハ義気二富ミ信ヲ守リ仁心深キ人種ナリト自ラ深ク信シ タリキ 我同胞数千万人台湾良民力此塗炭二苦シムヲ見テ一片哀憐ノ心起ラサルカ 果シテ土匪タランニハ国二法アリ素ヨ リ法二糾シテ刑二処セラル、其責任ニシテ自ラ期スル処タルヘシト難モ天真欄漫タル年少子女老衰疾病盧ラ持スル能ハサル 不遂者ハ何ノ罪カアル 雨露ヲ凌クノ屋舎ハ勿論所蔵財産及屋外二収穫シアリタル穀類ヲ迄併セテ焼却セラレ為メニ廃屋ノ 傍側二於テ餓死スルモノ少ナカラサルニ至ル何ノ悲惨ソヤ 一村落ヨリ真ノ土匪ヲ出シタリトセハ其村落二多少ノ落度アル 東 洋 法 学 一三 一
︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ 司法権の独立とその擁護者口 一一四 ハ知ラサルモ其村落ヲアケテ土匪トシテ斬殺ノ非況二沈マシムルトハ何ノ惨状ソ 土匪既二去リテ帝国軍隊各所二屯所スル ニ拘ラス良民ノ帰リ来ルモノ極メテ少キハ是果シテ何故ソ 終歳田畝ノ間二膏血ヲ絞リテ我熟セシメタル穀果ヲ収穫スルタ メ田畝二帰ルコトヲ得サルハ何ノ悲況ソヤ 此数百千町歩ノ田畝二一署ノ労ヲモ費サリシ小宮二於テスラ此廃棄セラレタル 収穫物此農期ヲ失シ荒廃二帰シタル闘野ヲ見テハ我ヲ忘レテ働巽スルニ至レリ﹂ そして、高野は、台湾人と親しく接してみれば、彼らはりっばな文化を持ち、最下層の者でも読み書きに不自由しない者 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ が多く、勤勉で納税の義務感旺盛な民族であるから、善政を施して帝国の臣民に育て上げるべきで、西欧諸国にみられる搾 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ モ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 取主義の植民政策を採るべきでないとし、種々の具体的な方策を進言している。 この建策が、前記のように、高野の罷免後になって、ようやく後藤新平により実施されたのである。 時の首相は、大津事件当時と同じ松方正義である。大津事件当時は、第一次松方内閣、高野事件当時は、第二次松方内閣 の首班であった。 この事件は、国内だけでなく、外電により一八九八年︵明治一三年︶のアメリカン・ロ⋮・レヴュ⋮︾簿鼠o塁い睾幻砂 く一箋の一、二月号︵く○囲﹄N20■こ磐︺男魯。︶に、﹁日本に於ける憲法論争﹂と題し、W・E・ウェールズ︵マサチューセ ッツ州ケムブリッジ︶によって報道された︵菊地前掲書一頁以下︶。 同氏は、事実関係を詳細に記したのち、次のようなコメントで結んでいる。 ﹁この問題は、もちろん今月の帝国議会における大臣への質問となるであろう。またその他の点でも注目すべきものとな るであろうが、それが高野氏の法院復帰ををもたらしそうにはない。それは早晩、新しい内閣が天皇の現在の補佐職を承継 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ する時にやってくるかも知れない。外国人の同情は、田本人のそれと同様、国家を固有且つ永久のものと考えたりする人や ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 淡々とした立憲政府をもつ力のない人は別として、裁判所本来の姿と憲法擁護のために戦う高野院長の側にあることを附け ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ モ ヤ ヤ ヤ 加える必要はあるまい﹂︵傍点筆者︶ 高野の罷免後内閣の首班は、松方から伊藤、隈板、山県、伊藤、桂と五回も変わった。高野は、内閣の変わるたびに抗議 書を提出して、処分の撤回を求めたが、撤回する内閣はなかった。