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企業倫理と円了の倫理学的思考

著者名(日)

斎藤 弘行

雑誌名

井上円了センター年報

9

ページ

268-250

発行年

2000-07-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002848/

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企業倫理と円了の倫理学的思考

斎藤弘行

saite hiroyuki はじめに  企業活動のなかで今日とくに倫理性が求められているが、それは企業 の現場における種々な不正行為がなされ、それが表面化してきたことに 原因があるものと思われる。ということは広義での不正行為は経済活動 においても古来より存在したのであり、その程度はさしおくとして、場 合によっては隠れてきた(隠されていた)のかもしれないという意味を 含む。従って今更、倫理について語るのは考えようによっては時代遅れ かもしれない。ところが現実には昨今の経済活動(このなかに企業行為 が含まれるが)には多くの非倫理性ないしは反倫理性が目立つようにな ってきた。これは人間それ自体の退廃によるものであるのか(そうなら ば昔時の人ほど倫理的だということになってしまう)どうかわからないが、 どのように見ようとも、非・および反・倫理的企業行動が多く報じられ ている現実のなかで、企業倫理を再考することも必要から考えられる。  このような背景のもとで、通常ならば、多くの外国の企業倫理の解説 書を見れば済むことだと言えるかどうかが我々の関心事である。より日 本人に適した倫理思考があるかもしれないことを念頭に置いてみること も無駄ではない。そこでそうした思考形式を支えてくれると予想される のが、我々が土台とする円了の倫理思考である。そうは言っても円了の 倫理学も欧米からの知識の採り入を中心とするのであり、純日本的とは 言えないかもしれない。しかし、円了のように(他の倫理学も同じだが) 企業経営から遠くに存在する思考が、今日の企業倫理にあてはまる余地 企業倫理と円了の倫理学的思考 13(268)

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がかなりあることも事実である。そこで我々の意図は、企業倫理の解明 に当って、円了の思考(および用語)を組入れることができるかもしれ ないとする推測を通し、企業倫理の新しい(?)形成を試みることであ る。(円了思考の誤解があるかもしれないが。) 企業倫理と経済倫理  企業倫理を語るに当り、この二つの言葉がよく引合に出される。ま た、経済倫理と企業倫理というように経済を先行させることが一般的の ようである。これは説明の手順としてこのほうが都合がよいからであ る。より広い視点から狭い領域へと移行させる説明方式をとるといえ る。  出発点が経済の全体的事情にあるとすればそこでの危機的情況を先ず あげる。自然環境の破壊、人口増加、飢え、貧困(それにともなう)人 口移動、軍備拡張と戦争、失業などが人間の不安感をかき立てる。こう いう事象は経済活動のなかに滲透して行ったのか、逆に経済活動のため に生じたのかはっきりしないが、少なくともある部分は、経済行為のな かに原因を求められるかもしれない。例えば、経済行為の発展は一方の 極に富を生み出しそれの思恵にあずかる人をつくるけれど、その余波を 受けて、より貧困になる部分をつくり、人口移動をもたらすかもしれな いのである。そのために経済行為がそうした事象に目を向けて、貧困を 生じないようにする要請に応じる努力はもはや正常な経済行為のドメイ ンにあるのでなくて、倫理的行為に踏込むことになる(D。  このような説明形式はあたかも倫理が不必要だとする立場を強調する かに見えるが、その逆のことを語っている。つまり、多くの人々が道徳 的な感性を失なっていないのであって、経済行為の純粋性に何かを加え たいと願望するようになっていることを、その事実は知らせているのに ほかならない。説明の経過としての経済行為の非定義性のなかに、道徳

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的感性をもつ人間の存在を組入れる作業が、現実の社会の上記のよう な、いわば不正、不公平な現象の解明と解決にとって不可欠だとみなさ れるようになって来たのである。この場合にはまだ倫理の負担者として の企業という思考には到達していないように思われる。  一般的には経済倫理はどのように捉えるかは難しいがひとつの説明様 式を示す(?)。それは伝統的な哲学および神学に関連するのであり、道 徳的および道徳にかなった、善き経済行為は何かを考慮することであ る。そうした規範的構えをつくっておいて、経済行為者にある要請がな される。経済行為者はこの際その行為のなかで一定の価値、原則、目標 および規範を守るという要請である。より具体的には生存の確保、幸福 および福祉の拡大、財貨をできる限り正しく供給すること、乏しい手段 を投入しては持続的需要充足をはかること、社会もしくは国家の福祉の 改善、神の御名のもとでの実りのある経済行為および魂の救済の実現の ための経済行為、社会的正義の形成、個々人の自己発揮の実現、人を欺 き、喰いものにするような、また情容赦のない行為の禁止などがあげら れる。  このような行為を求めることは早くから欧米、とくにヨーロッパにあ ったことは誰もが知るところである。それは余りに立派で、その上に苛 酷な要請といわざるをえない。もちろんこうした思考方法はカトリック の社会論やプロテスタント社会倫理のなかで、キリスト教の教会が経済 的思考および要請として示したものであることもすぐに察知される。そ してこのことが政治並びに経済形成にかなりの影響を及ぼしていること もまたよく了解できる。  そうはいっても我々は、企業行為がキリスト教的教義や要請通りにあ らゆる場面で問題なくなされると信じるほどに素朴にはなっていない。 善き経済行為の幻からすぐに目覚めてしまうのが今日の我々の感覚であ る。もちろんだから善き行為の反対としての悪を空想しているのではな 企業倫理と円了の倫理学的思考 15(266)

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い。言葉の使用慣習における善と悪との対比において物事を観察すると いった便宜主義をとらないことにしている。キリスト教的神学の指導 を、「それはそれとして」受取るこことはするけれど、それがそのまま 経済行為一企業行為の図式のなかに組入れられるかどうかの結論を知ら ないという意味を強調したいのである。  西欧において歴史的には17および18世紀に、小規模で相対的に孤立し た経済単位としての自営業(家庭経済)が寄せ集まってひとつの近代的 な国民経済へと成長、拡大して行ったことは経済史の初歩的知識であ る。その結果として、分業およびそれと結合した専門化並びに、そこか ら生じる生産性の長所がますます広範囲にわたって利用されるようにな った。この考え方は経済行為は所詮、分業だということを教えているの にほかならない。それに国民経済であろうと、世界経済であろうと変り はない。市場の拡大をグローバル化などとハイカラの表現をするけど、 その本質は古典的分業思想のバリエーションに過ぎないと我々はみる。 その低辺には経済行為が何らかの力により調整メカニズムを有し、給付 能力を向上させるようなものでなくてはならないし、現実にそのように なっているという事実がある。それは世界政府が形成されたとか、世界 を統合する何らかのパワーが予めあって、経済行為があるのではないと いうことである。  経済の拡大とその世界的規模の現象はもはや否定できないし(理由は どうであれ)避けられないのである。1つの国の内部で、また世界規模 でのなかで分業がなされていて、それが何となく調整のとれたかたちを しているのは市場と競争によるのだと経済学者はいう。確かにその通り であって、例えば18世紀においてA.スミスが示した、経済にたいする 道徳哲学的意味はその限りで今日の経済行為には欠けている。利己心を 認めることが人々の共感を獲得するのだが、それは決して良くないもの ではないと把えているのであって、その局面に目を向けるならば、経済

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は共感や同意にもとつく感情のような動機をもとにして理解されること になる。しかるに今日の経済事情は市場と競争の自由性が主張されるに もかかわらず、統制および数値測定過程の組込みをともなった、規制並 びに制度拘束的交換過程を示している。この経済事情に欠けているのは 明らかに共感(感情)なのである。そして現段階では今日の経済状況を 良いとも悪いとも断定できないこともはっきりしている。  経済を単純にメカニズムとしてでなく、より人的気質あるいは感情 (もしくは動機)を含めた存在として把えるところに、倫理的ニュアン スを含める余地があることに我々は気づく。そのことを次のような2つ の問題のなかに集約することができるという(3)。 (1)個人ないしは個別の(個々の)企業では全体的な成果をこれまで生  み出さなかったといえる。言いかえると全体的な成果とは、倫理的に  最も重要な、多くの人の豊かさのことであり、財貨を自由に手に入れ  ることができ、職場における活動が保証されることである。そしてこ  のことを重要な意義ある事実として認める慣習は近時においてやって  正当性を得るようになったのである。従ってこれまで個人も個々の企  業もこの全体成果に何の責任をもつことはなかったのである。とは言  うが、この成果の評価をするのはどこなのか、誰なのかということが  未解決であり、そこに倫理の問題が潜んでいることを推測できる。 (2)分業、プロセスの無名性、相互依存関係の増大のために個々人およ  び個々の企業の成果の役立は上位に存在する権威ある決定機関によっ  て規定されることは極めて難しいか、全く不可能である。共感や愛他  主義のような道徳的動機を操作しようとしてもできない。いわゆる自  分のものにたいする感情をどうするかという点で、当事者(パートナ  ー)の友交関係を優先しなければ、先ずもって自己の産出物を維持で  きないことになっている。こうなると分業の進展は友人・知人の如き  人たちのグループのなかにとどめられてしまい、市場拡大の長所は無 企業倫理とFirの倫理学的思考 17(264)

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 効とみなされる。無名性の大きな社会を倫理や道徳(のような動機)  を通して方向づけしようとするならば、サンクション(4)は実践的に  はできないとみなされる。例えば、粗悪な品物を良いものとして売却  するものにたいする何らかのサンクションはやろうとすればできない  こともないが、それを発見し、それを防止するためのコストが余りに  高くなるかもしれないのである。(しかし現実の、今日の社会ではそう  いう行為にたいして、たとえ高いコストがかかってもサンクションを実行  していることも他方ではあるのは承知している。)  このような2つの問題は明らかに経済行為が個人からも個々の企業か らもある種の規範性思考を奪っていることを知らせているとみてよかろ う。つまり繰返しになるがモデルとしての経済行為はかなり能率性と、 効用の効果をもたらす筈なのだが、その中に隠されたあるものが存在 し、そのことが人間の生活自体を脅かしているのではないかという感情 を生み判出しているのである。そうした隠されたものははっきりと、不 正行為として社会事象のなかに現わされればよいのだが、必ずしもそう なっていないことは我々の経験するところである。また現われたものは いくらコストを要しようとも除去しなければならないという社会的コン センサスを通し、政治や法律のドメインの課題とされるけれども、表面 化しない悪もしくは不正(?)はどのようになっているか、つまりどの くらい人々に負担をかけているかのコスト計算さえもできていないので ある。 企業倫理的問題  先の陳述は主として経済倫理を中心に語られたが、企業の中心的役割 は慈善ではなくて経済行為であることは否定できない。ここでは企業を 中心とした経済行為と、それにかかわる倫理的事象を考えてみる。一般 的には経済倫理と企業倫理(またはわが国では経営倫理という表現をよく

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使うが)の明確な区分をしない傾向にある。それは逆に、それぞれの課 題について異なる見解もしくは相反する見解があるし、学問的な討議の ための基準がなかなか見つからないことも理由としてあげられる。大企 業の経営者のなかには(日本のことではないとしても)、「倫理的および社 会的ざわめき」と表現したり、「コンフリクト解決のための独自のメカ ニズムとしては証明されない」と、企業倫理について語るものもある。  我々はこうした事情に流されるのではなくて、少なくとも2つのドメ インについて次のような説明に耳を傾けることにする。「経済倫理もし くは企業倫理は、現代の経済および企業の社会の条件のもとで、いかな る道徳的規範および理念が認められるかといった問題を扱う」(5)と。こ の定義はもちろん両者の区分をしていないけれど、経済と企業に存在す る人間の種類と性質を知ることにより、その定義からのバリエーション を得ることができる。  それは道徳を負担するのは誰か、誰にたいして道徳を期待し、要請す るのかという視点をとることから始まる。(またこの時、要請する側は一 体誰なのかといった次元も含まれるのはいうまでもないが。)この企業倫理 においては企業が「倫理の配達先」である。企業に向って何らかの道徳 的呼びかけをするのがひとつの立場である。しかしまだこの時点では呼 びかけの主人は不確定である。さらに企業といっても、その中での誰か という質問に当り、企業家ないしは経営者(マネジャー)だとする答え も出てくるに違いない。さらに企業に活動するあらゆる人間ということ も考えに入れてもよい。しかるに、経済倫理と称するときにはかなり広 い意味での経済的行為者の集合(および全体)が呼びかけと要請の対象 となっている。しかも、この全体的集合は国家の行政管轄体制が代表者 となっているとみなされる(しかし現実には当該国家の中における各個人 ということに最終的にはなるのだが)。  ここでまたどちらの用語法をとるかという問題に戻ってしまうけれ 企業倫理と円了の倫理学的思考 19(262)

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ど、そのことにこだわらない。これについて我々はただ次のような陳述 を引用することにとどめる(6)。先ず経済か企業かのどちらかに対象を 決めるかとする以前の次元にもどってみると、どのドメインであろうと 人間的行為の平和的、円満な調整努力がなされることを目指すとすれ ば、そのことは純粋に経済的合理性の原則だけでは済まされないとする 認識が確認されるべきである。そうした努力は非公式的ないしは個人的 なことではなく、政治的なものなのである。つまり、行為の調整は相互 関連取引および協同生活の基本的ルールに関連することが確認される必 要があるのだということである。円満解決努力はいかなるコンフリクト 情況においても個々人の判断基準による、個々人の計算に委ねられるの ではどうにもならないのであってその限りでは、自由裁量的ではないと いうことになる。そうした次元を強調するのが「政治的骨折り」という わけである。経済の領域に関連してみると、分業化の進展した高度社会 に存在する事象である。その際にどのような経済体制であろうとも経済 行為の調整の全体経済的関連づけレベルがどうなっているかが重要なの である。このことは経済ドメインが企業ドメインに先行しないならば問 題解決の糸口はつかめないのだと教えてくれる(当り前のことだが)。関 連づけレベルは厳しいか緩やかかはその経済を含む国もしくは領域 (?)によって異なるとしても、そのレベルのもとで、全体的な経済シ ステム(たとえ世界経済というフィクションのもとにあろうとも)の部分と しての個々の企業にたいし、どのような枠組条件が、企業のイニシアテ ィブにとって設定されるべきかの判定がなされる。  従って企業倫理は全体経済的システムの確立と、それが示す関連づけ レベルに応じて決ってくるということができる。先行する経済秩序の形 成を経由した倫理的反応が経済倫理である。このようにして企業倫理の 概念は経済倫理の概念に合致するようになるとすれば、企業倫理を余り に狭く解してよいものかとする問題に我々は直面する。

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企業倫理における基本用語について  企業倫理は全体経済的枠組レベルに合致するようになるかもしれない が、だからといって企業固有の広義の価値観を放棄しない。このことに 触れる前に我々はいくらか倫理そのものの知識を入手しなければならな い。  その場合にどのような倫理の理解を採用するかは自由である。そこで 円了のいう「善悪の標準、道徳の規則を論定して、人の行為挙動を命令 する学問」が倫理学である。(ここで我々は敢えて倫理と倫理学を混同させ る。)人の行動を決めるルール(らしきもの)を設定するには、どうして そういう行動がなければならないかを説明することができなくてはなら ないのに、古くからの種々な教えはその理由づけをきちんとしないか、 できないものが多いと円了は指摘する。孔孟の教義やキリスト教の道徳 も何ら正しい標準を説得的に示していないというのである。  このような円了の指摘は確かに西欧の倫理(学)のなかにもあるか ら、そういう視点からすると特に円了でなくても倫理の説明にはそうし た方法をとるであろう。そして他の倫理学の書物において同様なことを 見出すことができる。そこで例えば次のような説明を同時に聞くことに するの。「アリストテレスの道徳論は実践的哲学である。というのはそ れは人はいかなることを為すべきかという質問への解答を求めているか らである。カントの倫理学について、この質問についての解答は定言的 命令を通して与えられる。倫理学は、倫理学(道徳的)に正しい行為を 可能にするためにそのときどきの事情を判断することを教える。倫理は 人間を教育して、この世の中を完全なものにする仕事をするようにする けど、そのためには現在の生活者の領分を、あるべき姿の人の領域をも って組立てることをしなければならない。倫理学は生活や世界において 何が価値あるかを研究する。というのは倫理的行為は倫理的価値の実現 にあるからである。この価値はそのときどきの情況の中に、また個人の 企業倫理と円了の倫理学的思考 21(260)

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中にも見出される。倫理は価値意識の覚睡に役立つ」と。そしてこの説 明はまだ続くけれど、倫理は歴史的な説明経過と共に、生活のなかのあ るべき姿に、現実の姿を合わせるようにしてやることにその役立がある のを知る。そのことは円了の最初の説明内容と変るところはない。  この段階ではまだ倫理の示す価値について触れないけれども、その前 に円了が何らの倫理的説明なしに倫理を説くことを言ったと先に示した が、それを「仮定憶想」と呼んでいる。これに対して筋道の通った説明 および標準を示すのを「論理上の考定究明」としている。もちろん西欧 の倫理学が後者の経過をとることは衆知のことであり、初歩的知識であ る。そして倫理的説明(推論すること)は道徳哲学としての倫理学にお いても欠くことのできないものである。倫理の領域における推論も他の 領域におけるそれと変るところがない。例えば誰がその犯罪を犯したの か、どんな品物を購入すべきか、どのようにしてある問題を処理すべき かといったことについて人は推量したり推理したりする。そのために質 問を明快にし背景となる情報を収集する、あるいは他人の表示したこと を検討する。代りになる意見および反対の考えを考慮する。そのように して行って自己の立場を確立し、それを正当化しようとする。解答はこ れこれである筈であると説明し、そのほかの事実を示して解答の正当化 をはかるのである。これが正に論理的推理(推論)なのである。従っ て、倫理的見解を開発するには、推論と個人的立場(上の拘束)が重要 となる。推論だけではすべての討議が解決しないことも確かである。こ の場合、双方の側での論証をした後で、ようやく自己の決定(決断)を しなければならない(8)。こうして我々の円了の論理上の考定究明の解 釈を得ることになる。  論理的考定究明の手法のひとつとしてしばしば引用されるもののなか でよく知られているのは結果主義(コンセクエンシャリズム)とデォント ロギーである。ここでは前者について説明する。といってもほとんどの

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ことは既に倫理学のテキストが示していることであって特に新しいこと ではない(9)。  この考えは、人間にとって価値あるものは何かということについての 主張と、ある行為が倫理的に許されたり許されなかったりするかは、そ の行為が価値を最大にするかどうかとする事柄だということを含む。例 えば幸福が価値であるとする。行為がこの幸福を最大にするとき、ある いは最大にする限りで、行為が許されるということになる。換言する と、ある行為がどれか他の行為と少なくとも同じくらいの幸福を生み出 す限りで、また少なくともそうである限りで行ってもよいということを 意味する。幸福を最大にしない行為は倫理的に許されないということに なる。例えば3つの選択肢があって、2つの種類(a、b)が行っても よくて、1つは(c)はいけないとすれば、当該行為者は許される2つ の種類しか行いえないということが倫理的に決められてしまうことにな る。さらに、倫理的にその2つのどちらかを行うことを余儀なくされて いることになる。他の倫理的に許される行為があっても、行ってはいけ ないということになってしまうか、当該者が利用できないこととされて しまう。  現実の状況でもちろんこういう窮屈の選択の考えは見出されない。人 はそうしたことが許されようとどうであろうと別の選択肢グループを探 し求めるし、まして、許されざる選択肢の中に入る行為でさえも敢えて 行われる状況を我々はしばしば生活の中で見る。そのほうが後になって 良かったという事実もしばしば見られる。経営者の判断が当初は批判の なかにあり、場合によっては悪とされることもあるけれど、ある期間の 後に却って良かったと評価されるのも我々は経験的に知っている。結果 はある時間経過がないとわからないのであるから、予めどれが最大の幸 福をもたらすかは本来ははっきりしないのである。ということになる と、この思考方向が破れて何でも(たとえ極悪であっても)行ってよい 企業倫理と円rの倫理学的思考 23(258)

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ということになり、論旨が循環してしまう。これについてはここでこれ 以上の説明は行わないが、倫理の相対性、主観性の危うさを垣間見る思 いがする。  それにしても我々は結果主義を捨ててはいない。それは西欧の倫理思 考の基本の一方を支えているからである。倫理における結果主義の考え は2つのカテゴリーに区分されることに触れる。価値は誰のために最大 化されるのかということ、もうひとつは、どんな種類の価値が最大化さ れるべきかということがそれである。結果主義のバリエーションとして の、「倫理的利己主義」があげられる。例えばある行為が、aなる人物 のための価値を最大にする限りで、そのaなる人物にとって道徳的に許 されると主張する考えである。結果主義のもうひとつの(これに反対す る)考えは、aなる人物を含む人たちのより大きな集団のために価値が 最大化されるときに、またその限りで、ある行為は道徳的な許されると することである。この後者の思考は効利主義として哲学のテキストに登 場する。このように倫理的価値の限界を狭めるか広めるかによって一方 が場合によっては印象を悪くし、批判にさらされかねない。狭い領分で の価値がよくなくても、より大きな領域の価値が高いもしくは許される のかは一体誰が決めることなのだろうか。  これについての解答を我々は保留する。そしていくらか横道にそれ て、最大化されるべき価値は本質的(固有の)なものと、用具的ものと をみる。本質的なものとはそれ自体で価値あるものであって、何かほか のものにたいする手段としてでは価値がない。美、真、愛、楽しみ、幸 福、友情などがこれに入る。用具的ものはそれ自体には価値がないが、 他の何らかの目的にたいする手段だとする理由で価値がある。例えば金 銭が典型的である。このようにみると、どのような価値にするかは決し て特定の人物や機関(制度)が決められないか、少なくとも今日の社会 生活の拡大(グローバル化もこの中に入るだろうが)にともなって、倫理

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的利己主義は不利になるかもしれない。といっても我々はそのことを断 定していない。我々の注目することは、あるものが手段として役立つこ とに社会が熱中しているという現象である。それは市場という機構の中 に人は置かれているせいである。それ以外の素晴らしき世界は人間の知 恵ではいまのところ見出せないといった事情もある。  そこでは明らかに心理的利己主義が作用している。(もちろんすべての 人が利己主義を信奉するとはいわないが。)その善悪の証明は難しいが、少 なくとも自己の利益に関連しないことは行わないのが良いとすることは 何となく疑わしいと思われる。このことは証拠物件をとり出して、明白 に示すことによって判断されることではない。人はいくらでも心理的利 己主義になれるのであり、それを探し出して非難することはできない。 市場における行為でどれが善でどれが悪かを見分けることができないの である。倫理(や道徳)はこういう領域にまでふみ込んでいることを知 らせる。円了が倫理学は理学研究の方法によらなければならないという が、さらに、「確然たる基祉標準を要する学問」とはいうけれど、標準 を一定にできないというのはもっともなことである。  円了の言い分は倫理学が宗教的思想にとらわれてはならないことを指 摘し、その外部に位置する学問とならなければならないという。我々の 参照する西欧の倫理学も円了の指示の通りの傾向をしているし、その努 力をしていることを知ったことになる。 ビジネス・エシックスの用語をめくらて  英語圏の言語使用ではビジネス・エシックスが一般的であるように思 われる。これがわが国での企業倫理の訳語と同じのようである。とくに ビジネス・エシックスの領域では、自由主義、社会主義および保守主義 (ネオ自由主義)の相克を通して、今日保守主義的思想方向へと経済も 誘導されているように思われる。それは市場経済における純粋の全く自 企業倫理と円了の倫理学的思考 25(256)

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由で規制なき「場」を前提としてしまうかもしれない。このなかで先に あげた効利主義的現象は明らかに自由主義おのびネオ自由主義的思想と 結びつきやすいことがわかってくる。  このような背景のもとでビジネスおよびビジネスエシックスをどのよ うに把えることができるかを課題とする。しばしば言われるのはビジネ スエシックスはオキシモーロンだということである(10)。その前提とし て(a)ビジネスは自己利益を奨励するものであり、(b)倫理は他人の利益を 奨励するものだとすることがあげられる。人は古来より何らかの倫理的 なものにより、これに加えて宗教的なものから採用された仮定もしくは 前提を持って生活し、そのなかに通常の文化に生まれた(ポピュラー・カ ルチャー)ものに従っているのは否定しえない。ビジネスといった(企 業活動といっても同じことだが)行為に、倫理が加わることはもともと不 可能なのかと思わずにはいられない。  しかし言葉の上でとやかく言うレベルから離れて企業行為が成熟する につれて人々はどのように考えるようになるかを経験的に語る必要もあ る。すると企業に従事する人の行動は必ずしも純粋に自己利益に把われ ていないことが知られてくる。従って次のように上記2つの前提を書き 換えることができる。(a)企業の人間は4つの関心事により動機づけられ る、つまり自己利益、人的関係(家族や友人)、国家利益および公平。(b) 倫理は上記の4つの関心事がどのように相互に適合するかを検討するも のであると。  このようにしてビジネス・エシックスのオキシモーロンの性質が克服 されるのであり、企業行為にはむしろ倫理がなくてはならないことを知 る(そのヒントはネオ自由主義的思考傾向のなかに隠されていることを思い 起せばよいであろう)。  そこで改めてビジネス・エシックスの定義のどれかを聞くことにする  (といっても大抵の定義はかなり類似するのでどれをとってもそう大差はな

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い)。しかしここでも倫理の意味から出発している。  基本的意味で倫理とは正しい行為と誤った行為とを定めるルールと価 値との組合せである。広義では、倫理とは事実と信念(考え方といって もよいが)とを区別し、あらゆる問題を道徳的用語で定義し、ある情況 にたいして道徳的原則を適用することである。この場合に、道徳的原則 とは不公平にならないように意図されていて、それならよろしいとして 認められる行動についての一般的なルールのことである。この原則は社 会にとって重要であり、権力ある個人の決定によるだけでは設定できな いしあるいは変更されない。あるいは、この原則はただ、コンセンサス に訴えたり、伝統によったりしてだけで「真なるもの」として設定され ない。企業の現場においてこの原則のあるものは広く人々に共有される が、他のものはそうでないものもある。ということはそれぞれの企業に おいて固有の道徳的原則が存在することを示唆しているのにほかならな い(11)o  さらにこの基本的倫理思考をビジネスに適用して、ビジネスエシック スとは、「ビジネスの意思決がそれに従って行われる行為のルールのこ とをいう」と述べることができる。こうした倫理は上に触れたように、 特定のコンテクストにおいて適用されるべき、特別なクラスの行為ルー ルにすぎないということができる。ところが今日経済活動が時間、規 模、および範囲においてあらゆるところに広まってくるから、ビジネス のとり入れるにふさわしい倫理問題は倫理の広範にわたる問題、例えば 道徳(性)、個人の信念、価値、宗教、文化などから切り離すことはで きなくなっている。  他方で円了の倫理学の説明をみると、倫理学は一種の理学であるけれ ど、理論学と実用学の下位区分となる。それは通常社会科学で用いられ るザインとゾレンの関係に似ている。実用学は「器械学のごとき物理の 規則を実際に応用して人を命令するものは実用学なり」といっている 企業倫理と円了の倫理学的思考 27(254)

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が、確かに倫理問題を単に倫理学の理論学でのみ処理していたのでは、 ビジネス世界との結びつきを生み出さない。それ故に我々は円了の倫理 的実用学を受入れざるをえなくなる。要するに「人に命令するのは実用 学」の領域なのである。行為ルールを定めて、人がそれに従うようにな ることがビジネスの世界ではなくてはならない。  実用学におけるゾレンの性質は、例えばカントにあるようにみえる (円了はそうはっきり言わないが)。それは内心的意志、超経験的な道徳 的規範を通しての駆動力ある意志を含むものである(定言的命令)。これ によってあることを求める衝動を設定することであり、人はそれにより あたかも命令されたように動くことができる。今日的には、道徳的行為 へと導く価値の実現のための意志の内心的要求をゾレンと表現できる。 それは同時に、知性によってはっきりしてくる性質をもち合わせている ことも含められる(12)。この種の説明では実用学における命令の特色を 解明したことにはならないが、倫理学がただそれだけに理論性としてと どまらないようにする装置としてのゾレン性質を加えることが役に立つ と知るであろう。  こうした知識をもとにして、倫理のビジネスにおける特色を次のよう に表すことができる㈹。(1)倫理は、個人もしくは組織の目標および価 値と関連し、それを反映する。もしもビジネスが利益を価値あるものと し、他のあらゆる価値を排除すれば、このことはビジネスの行為ルール のなかに反映されるであろう。(2)倫理は公式的であるか非公式であるか (または、文書化されているかそうでないか)である。とすると、倫理は、 それを破ったことにたいするペナルティと結びつくこともあるし結びっ かないこともある。従って倫理は文字化した法律を超えているといえ る。(3)倫理はその適用範囲のローカル化がなされるであろう。それぞれ 異なる国、制度(組織)、個人が自分自身の倫理を持つかもしれない。 集団によっては、その集団を支持する部分(単位)の倫理をある程度反

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映させなくてはならないことも生じる。ビジネスは例えば株主の倫理を 反映させるのか常に決断を迫られている(ということはこの決断は時間経 過で別の決断になることもある)。企業独自の倫理といっても、この点に ついてだけみてもかなり脆い基盤の上にあるといわざるをえない。実用 とはそういうことなのである。  ビジネスにおいて(多分他の組織においても同様であろうが)どんな意 思決定がなされるかに従った行為のルールが良いものになったり悪いも のになったりする。ある企業の倫理は例えば「いかなる犠牲を払っても 勝利を得るような方法で事業をする」ということであるかもしれない。 この内容が倫理的ルールになるには慎重でなくてはならない。何故な ら、そのルールに沿った行為が道徳的に望ましからざる結果を生むこと はよくあるからである。倫理さえ作ればそれでよいということ、倫理は 何事にも勝るという考えは反省されねばならない。「企業倫理は良いこ とだ」と表現するのは不正確である。「良い企業倫理が良いことだ」と しなければならないと指摘される。良い倫理は「これから」決めねばな らないことであるが、倫理そのものは初めから良いとは限らないのであ るご決められて、良いと思われた倫理もやがて良くないものに変質する かもしれない。倫理はニュートラルなものだと説明される理由がそこに ある。敢て良い倫理とすることに意義を見出すべきであろう。それが実 用論としての本質である。初めから良くない倫理をつくることは実用に 適しないのだと、誰もが認める。当然のことである。論理、さらには科 学の筋を追って行くと、こういう発想は決して出て来ない。 終りに  この小稿は企業倫理もしくはビジネス・エシックスをめぐる用語およ び考え方の基本について、円了の思考をも加えて述べたものである。企 業倫理の考えは、倫理そのものの知識を土台にするのはいうまでもな 企業倫理と円了の倫理学的思考 29(252)

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い。そこで各所で倫理の説明をしたがその中で円了からの倫理の説明を 引用した。円了の場合には倫理学であって、「仮定憶想」によらず、「論 理的な考定究明」をもとにする。倫理はそのとき人の行為に命令するも のであり、一種の「実用学」となるべきとする。この考えは、ビジネ ス・エシックス(とくに英語圏)によくあてはまるが企業行為は放ってお くと、どのような行為に行くかはっきりしないから、それにほどよき命 令を与えるのが倫理の適用である。市場活動が自由になればなるほど倫 理の規則に従わせるようにあることが要請されるのが今日のビジネス行 為である。  我々はまだこの段階ではビジネス(企業)における倫理の内容である道 徳原則そのものには立ち入っていない。また問題として、例えば利益それ自 体の倫理性、より広く経済行為における倫理性など全く手をつけていない。 それ故に、そちらの方向に行くとき、円了の思考を応用しても説明できるこ とを期待している。

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注−

︻︵

Homann, K、/Blome・Drees, F., Wirtschafts und Unternehmensethik, Gottingen, Vandenhoeck&Rupnecht,1992, S.9−10. (2)Hillmann, K.・H., W6rterbuch der Soziologie, Stuttgart, Krδner, 1994,S.937−938. (3) Homann/Blome−Drees, a.a.0., S.21−22. (4)サンクションについて例えば,Johnson, A.G, The Blackwell Dic’  tionary of Sociology, Cambridge, Massachusetts,1995, pp.242−243.  サンクションには肯定的および否定的なものがあることに注目しなけれ   ばならない。 (5) Homann/Blome・Drees, a.a.O., S.14. (6) Stelnmann, H./L6hr, A.(Hrsg.),Unternehmensethik, Stuttgart, C.  E.Poeschel,1990, S.6. (7)Schischkoff, G.,(Hrsg.), Philosophisches W6rterbuch, Stuttgart,  Kr6ner,1978, S.165−167.ここではとくにS.165から引用した。

(20)

(8) Gensler, H. J., Ethics:AContemporary Introduction, London/New    York, Routledge,1998, pp.3−4. (9)Hoffman, W. M/Frederick, R. E., Business Ethics, New York, et    aL,1995, pp.16−17. (10)Dienhart, J. W./Curnett, J., Business Ethics, Santa Barbara, ABC−    CL10,1998, pp.1−2. (11)Hellriege1, D./Jackson, S. E./Slocum, J. W. Jr., Management, Cin−    cinnati, South−Western College Pub.,1999, p. 181. (12) Schischkoff, a、a.0., S.624. (13)以下については次のものから多く引用する。Jones/1./Po11itt, M.,    (eds.),The Role of Business Ethics in Economic Performance, Lon−    don, MACMILLAN,1998, pp.5−6. 企業倫理と円了の倫理学的思考 31(250)

参照

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