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〈研究ノート〉ハンセン病をめぐる史料の見落としと目配り 国立療養所大島青松園をフィールドとした史料論にむけて

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Academic year: 2021

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【研究ノート】

ハンセン病をめぐる史料の見落としと目配り

―国立療養所大島青松園をフィールドとした史料論にむけて―

阿部

 

安成

はじめに   わたしたちが生きる社会におけるハンセン病をめぐる事態は、二〇世 紀末から二一世紀初頭にかけて、おおきくかわった。その変容をあらわ す重大な事態が、一九九六年の「 らい 0 0 予防法の廃止に関する法律」の公 布と施行、そして、二〇〇一年の「ハンセン病国家賠償請求訴訟熊本地 方裁判所判決」である。   前者については、その公布にさきだって、参議院厚生委員会において 「 らい 0 0 予防法の廃止に関する法律案に対する附帯決議」 (一九九六年三月 二六日)がまとめられ、そこには、ハンセン病をめぐってはその 本 ほんせい 性 に 反 し た 予 防 法 体 制 が 継 続 さ れ、 そ れ に よ っ て、 「 長 年 に わ た り ハ ン セ ン 病患者・家族の方々の尊厳を傷つけ、多くの痛みと苦しみを与えてきた こ と に つ い て、 本 案 の 議 決 に 際 し、 深 く 遺 憾 の 意 を 表 す と こ ろ で あ る 」 と 明 記 さ れ た。 ま た 後 者 を う け て 衆 議 院 と 参 議 院 は、 「 ハ ン セ ン 病 問 題 に関する決議」 (二〇〇一年六月七、 八日)を発表し、長期にわたるハン セ ン 病 者 へ の「 隔 離 政 策 」 に よ り、 「 多 く の 患 者、 元 患 者 が 人 権 上 の 制 限、差別等により受けた苦痛と苦難に対し、深く反省し謝罪の意を表明 す る 」 こ と、 「 多 く の 苦 し み と 無 念 の 中 で 亡 く な ら れ た 方 々 に 哀 悼 の 誠 を 捧 げ る 」 こ と、 「 患 者、 元 患 者 の 方 々 の 今 後 の 生 活 の 安 定、 な ら び に これまで被った苦痛と苦難に対し、早期かつ全面的な解決を図るよう万 全を期するべき」ことを、そこに明示し た ( 1 ) 。適切な措置も改善もおこな われなかった幾重もの過誤をめぐる遺憾、謝罪、哀悼の思いや考えが表 明され、 当事者がうけた「苦痛と苦難」 の「解決を図る」 との姿勢を、 「全 国民を代表する選挙された議員」たちがみせたのである。   ここでもういちど参議院厚生委員会の当該附帯決議をみよう。さきに 引用した箇所は、そのまえにある「ハンセン病は発病力が弱く、又発病 しても、適切な治療により、治癒する病気となっているのにもかかわら ず、 「 ら い 0 0 予 防 法 」 の 見 直 し が 遅 れ、 放 置 さ れ て き た こ と 等 に よ り 」 と の文言をうけた一文だった。ここにはハンセン病をめぐって記される言 述 の ひ と つ の 典 型 が あ る。 そ れ が、 「 に も か か わ ら ず 」 や「 そ れ で も 」 な ど の 接 続 詞 を も ち い て 記 さ れ る 逆 接 の 言 述 で あ る ( 2 ) 。 こ う し た 言 述 で は、接続詞のあとにおかれた、被害者としての「ハンセン病患者・家族 の方々」をめぐる、 「傷つけ」られた「尊厳」や、 「与え」られた「多く の痛みと苦しみ」については熱心に記録され、くりかえしその加害性が 非難されてきた。その一方で、接続詞のまえに配され、 「発病力が弱く、 又発病しても、適切な治療により、治癒する病気となっている」と説か れ た、 「 病 気 と な っ て い る 」 と は い つ か ら そ う な っ て い た の か 0 0 0 0 0 0 0 0 0 は 極 め て 不明瞭であるし、さらには、伝染病にして感染症であるという「ハンセ ン 病 」 に 罹 っ た 人 び と が そ の 生 を ど う 生 き た の か に つ い て は、 充 分 に、 適確に、その全体を想定したうえで記述されてきたとはいえない事態が つづいているのである。   べつにいうと、その生がどう生きられたのか、をいまに伝える手がか りが、歴史学がいうところの史料である。本稿では、わたしがここ十数 ハンセン病をめぐる史料の見落としと目配り 八五

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年にわたって調査と研究のフィールドとしている国立療養所大島青松園 がおかれた、香川県高松市庵治町の大島に残る史料の現在を、そのひと 齣 を と り あ げ て 説 く こ と と し よ う( 以 下、 療 養 所 名 で は「 国 立 療 養 所 」 を略す) 。       「 ハ ン セ ン 病 国 家 賠 償 請 求 訴 訟 熊 本 地 方 裁 判 所 判 決 」 の の ち、 厚 生 労 働 省 と 日 弁 連 法 務 研 究 財 団 と の あ い だ で、 「「 ハ ン セ ン 病 問 題 に 関 す る 事 実 検 証 調 査 事 業 実 施 要 領 」 に 基 づ き、 委 託 事 業 を 行 う 」( 「 契 約 書 」 二〇〇三年六月六日) ことが決められ、 その要領が定める「目的」 が、 「ハ ンセン病患者に対する隔離施策が長期間にわたって続けられた原因、そ れによる人権侵害の実態について、医学的背景、社会的背景、ハンセン 病療養所における処置、 「らい予防法」などの法令等、 多方面から科学的、 歴史的に検証を行い、 再発防止のための提言を行うこと」とかかげられ、 これにより検証会議が設置され、その報告が、ハンセン病問題に関する 検 証 会 議 編『 ハ ン セ ン 病 問 題 に 関 す る 検 証 会 議 最 終 報 告 書 』( 日 弁 連 法 務研究財団、二〇〇五年)にまとめられた。   「 二 年 半 と い う 短 い 期 間 で あ っ た が、 国 立 及 び 私 立 の す べ て の ハ ン セ ン病療養所を訪問し実施した現地検証の成果も踏まえて、被害実態調査 報告や胎児標本調査結果報告をはじめ、予防法の廃止がかくも遅れた理 由 な ど、 多 く の 事 実 を 明 ら か に す る こ と が 幸 運 に も で き た 」( 「 は じ め に 」 ) と の 成 果 を み ず か ら 讃 え る、 日 弁 連 法 務 研 究 財 団 ハ ン セ ン 病 問 題 に 関 す る 検 証 会 議 に よ る 報 告 書 は、 『 ハ ン セ ン 病 問 題 に 関 す る 検 証 会 議 最終報告書』 (二〇〇五年)八八六ページ、 『ハンセン病問題に関する検 証 会 議 最 終 報 告 書( 別 冊 ) ハ ン セ ン 病 問 題 に 関 す る 被 害 実 態 調 査 報 告 』 (二〇〇五年)四二一 + 一八 + 一七 + 三四ページ、 『ハンセン病問題に関 す る 検 証 会 議 最 終 報 告 書( 別 冊 ) 胎 児 等 標 本 調 査 報 告 』( 二 〇 〇 五 年 ) 一五 + (一七) ページにのぼる厖大な紙数が費やされての上梓となった。   最終報告書本編収載の「資料二 検証会議設置及び活動等関係」 に「検 証会議設置等関係文書」がおさめられ、さきにみた「ハンセン病問題に 関 す る 事 実 検 証 調 査 事 業 調 査 実 施 要 領 」 や、 「 ハ ン セ ン 病 問 題 に 関 す る 検証会議運営要綱」が載り、後者では、事業遂行のためにハンセン病問 題 に 関 す る 検 証 会 議 を 設 置 す る と 定 め、 「 ハ ン セ ン 病 問 題 に 関 す る 検 証 会議・検討会の検討課題」のひとつに「ハンセン病政策の実態に関連す る寺領〔資料または史料の誤りか――引用者による。以下ルビもふくめ て同〕の収集・データベース化」をあげていた。   この、おそらく資料または史料の収集とデータベース化は、一一項目 ある検討課題の最後におかれていた。末尾に添えたていどということで は な い だ ろ う が、 「 資 料 一 近 現 代 日 本 ハ ン セ ン 病 関 係 年 表 及 び ハ ン セ ン 病 文 書 等 」 の「 第 二 国、 自 治 体、 園 の 所 蔵 資 料 」 に は、 報 告 書 三 冊 全 体で一四〇〇ページをこえる紙幅のうち、わずか一四ページしか割りあ て ら れ ず、 し か も、 そ の「 四 療 養 所 の 資 料 」 は た っ た 三 ペ ー ジ と い う 貧弱な報告でしかなかった。とりあげられた国立療養所は一三あるうち の七か所にすぎず、もっとも記述量が多い長島愛生園で一八行、大島青 松園は三行のみでかたづけられてしまった―― 「入所者自治会の書庫に、 一九三一( 昭 〔 マ   〕 和一一 ) 年の自治会結成以来の「日誌」 が保存されている。 保存状況も良好で、自治会運動 に 〔マ   マ〕 み ならず、入所者の生活実態の変化な ども知ることができる貴重な資料である」との調査結果と資料の評価が 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十二号 八六

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記 さ れ て い る。 こ こ に い う「 日 誌 」 は 調 査 当 時 も い ま も、 「 書 庫 」 に は ない。 「日誌」は事務室のロッカーにならんでいる。   「 ハ ン セ ン 病 政 策 の 実 態 に 関 連 す る 寺 〔 マ   マ 〕 領 の 収 集 」 は、 た と え ば 大 島 青 松園では、検証会議が実施された二〇〇二年一一月の二日間で終わった の だ ろ う か ( 3 ) 。 こ の と き す で に 刊 行 さ れ て い た、 『 閉 ざ さ れ た 島 の 昭 和 史 ― 国 立 療 養 所 大 島 青 松 園 入 園 者 自 治 会 五 十 年 史 』( 大 島 青 松 園 入 園 者 自 治 会( 協 和 会 )、 一 九 八 一 年 ) や『 わ た し は こ こ に 生 き た ― 大 島 青 松 園 盲人会五十年史』 (大島青松園盲人会、一九八四年)を手にとれば、 「自 治会運動 に 〔マ   マ〕 み ならず、入所者の生活実態の変化なども知ることができる 貴重な資料」が、 「自治会結成以来の「日誌」 」以外にもあると容易にわ か る は ず だ。 た だ し、 大 島 青 松 園 で 結 成 さ れ た 自 治 会 の 記 念 誌 で あ る 前 掲 書 を め ぐ っ て は、 そ の 編 さ ん に お い て 閲 覧 も 参 照 も さ れ な か っ た と 推 測 さ れ る 史 料 が あ る。 そ う し た 史 料 の い く つ か を、 わ た し た ち は 二〇〇八年から目録やリプリント版などをとおして公開してき た ( 4 ) 。   近現代資料刊行会から発行されたリプリント国立療養所大島青松園史 料 シ リ ー ズ は、 そ の 一『 報 知 大 島 』 が 二 〇 一 二 年 刊、 そ の 二『 藻 汐 草 』 二〇一四年刊、その三『霊交』同前、その四『青松』が二〇一九年の刊 行 予 定 で あ る( す べ て 監 修 と 解 説 執 筆 は 阿 部 )。 い ず れ も 大 島 で 編 集 発 行された逐次刊行物のリプリントで、 創刊年は、 『報知大島』一九三二年、 『藻汐草』同前、 『霊交』一九一九年(ただし現存分は一九二二年以降) 、 『青松』 一九四四年(ただしここにいう『青松』 は手書き手づくりの「廻 覧雑誌」で厳密にいえば刊行物ではない) 。   わたしはこれらの原誌を、順に、二〇〇九年と二〇一一年、二〇〇四 年、 二〇〇七年、 二〇〇九年に手にし、 デジタルカメラで撮影していた。 わたしの最初の大島調査は、二〇〇四年三月のことだった。それから上 記四誌の現物すべてを手にするまでかなりの年月を要したわけで、 ただ、 だからといって、二〇〇二年に二日にわたっておこなわれたとみなせる 「ハンセン病政策の実態に関連する 寺 〔マ   マ〕 領 の収集」において、 「自治会結成 以 来 の「 日 誌 」」 を 確 認 し た だ け で「 現 地 検 証 」 を 果 た し た と い わ れ る と、わたしはその成果の貧しさに戸惑ってしま う ( 5 ) 。上記四誌の所在を確 認できなかったとしても、二〇〇二年当時は月刊だった逐次刊行物『青 松 』 を み れ ば、 そ の 一 九 九 四 年 八 月 刊 行 号 が「 通 巻 五 〇 〇 号 記 念 特 集 」 を組み、同号の表紙見返しに「手綴じの〝青松〟第一号~四号。表紙は セメント袋等、原稿は薬袋の裏等に書いた」の説明がついた写真がある と気づき、 そこに写る「昭和二十年」 の文字からその「手綴じの〝青松〟 」 をみようという気になってもおかしくないとおもうのだが、それすらも 目にとまらなかったということか。さらには、二〇〇二年の時点で通巻 第 五 八 〇 号 を こ え て い た『 青 松 』 そ の も の が、 「 入 所 者 の 生 活 実 態 の 変 化なども知ることができる貴重な資料」だと把握しなかったということ なのか。   これでは、まず『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』を手 にしてハンセン病をめぐる史料の調査を始めようとする、それはそれで 真 面 目 な 学 徒 が い た ば あ い、 『 日 誌 』 し か な い こ と を 理 由 に 大 島 青 松 園 が調査先として弾かれてしまいかねないことを、わたしは危惧する。も とより限定された「目的」と「期間」での「現地検証」であったとして も、それならばなおのこと、その限ったところがなにであり、それはな ぜなのかを記録する必要があったとわたしはおも う ( 6 ) 。いいや、その「目 的 」 は は っ き り と し て い た。 そ れ は、 「 隔 離 施 策 」 が も た ら し た「 人 権 ハンセン病をめぐる史料の見落としと目配り 八七

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侵 害 の 実 態 」 の「 検 証 」 と、 「 再 発 防 止 」 だ っ た の だ。 療 養 所 内 で、 療 養者があつまり詩人会を結成し、詩集を編集発行した――これは「人権 侵害の実態」といえるのだろうか、報告書をまとめた検証会議は、たと えばこの事実を、 どうとりあつかうのだろうか。検証会議の手にあまる、 守備範囲ではない、管掌外だ、だから、そうした史料は「検証」をおこ なうものたちの視野に入らなかった、入れなかった、ということか。   くりかえせば、限られた「目的」と「期間」のもとで把握できたり管 掌できたりする史料もまた限られてしまう。では、それを、だれが、ど うやって広げてゆくのか。       ハンセン病をめぐる国立療養所がある大島の現在を考えるとき、瀬戸 内国際芸術祭(以下、アートセトウチ、とする)のようすを見遣ること は 必 要 だ ろ う。 「「 地 域 の 活 性 化 」 と「 海 の 復 権 」」 を テ ー マ に か か げ て 二〇一〇年に始まったアートセトウチ は ( 7 ) 、三年に一回の開催が実施され、 第四回となる二〇一九年のポスターについては、 それを「手がけ」 た「グ ラフィックデザイナー」が、 「「今までは青いきれいな自然を表現したが、 平 穏 な 瀬 戸 内 海 も 海 の 中 は 暗 く、 不 気 味 さ や 怖 さ も 自 然 の 魅 力 の 一 つ 」 と 意 図 を 説 明 」 し た と 報 じ ら れ た( 『 朝 日 新 聞 』 二 〇 一 八 年 六 月 一 三 日 朝 刊 香 川 全 県 版 )。 瀬 戸 内 海 は つ ね に「 平 穏 」 な の か、 海 で あ れ ば ど こ もあるていどの深度では「暗」いはずだとおもうわたしは、こうした先 入観や、一面だけへの凝視や、型にはまったものの見方が、アートセト ウチ全般におよばないよう願う。またこうした表現は、二〇一〇年代後 半 の い ま、 い く ら か、 ひ と の 口 の 端 に も、 の ぼ り や す く な っ て い る と、 みうけられる、ダークツーリズムなるものとのひそかな結託をうかがわ せる気配を感じてしま う ( 8 ) 。   なぜ、 芸術祭とハンセン病をめぐる療養所なのか――これについては、 第 二 回 の 公 式 記 録 で あ る 坂 井 基 樹 ほ か 編『 瀬 戸 内 国 際 芸 術 祭 二 〇 一 三 』 (美術出版社、二〇一四年)で、総合ディレクターによって、 「第一回目 の瀬戸内国際芸術祭の準備段階から、大島が入らない瀬戸芸はあり得な いし、また大島の住民の皆さんの願望を叶えられないならば、芸術祭の 基本的な目的に近づけないだろうと思っていた」と過去にさかのぼって 説 か れ て い た し( 「 総 合 デ ィ レ ク タ ー の 話 ⑥ /「 大 島 の 在 り 方 を 考 え る 会 」 が 始 ま っ た 」 )、 ほ か で も、 「 瀬 戸 内 の 島 々 の 中 で、 特 に 大 島 へ の 思 いが強い。ハンセン病回復者の療養施設があり、 かつて隔離されていた。 「 自 由 な 海 の 自 由 な 島 を、 隔 離 の 場 所 に 変 え た。 な ん た る こ と か。 芸 術 祭を引き受けるとき、この島でもやることが条件でした。島に人が来れ ば、忘れられていないと実感してもらえる」 (『朝日新聞』二〇一三年八 月一〇日朝刊週末 b e )との意気込みから始まったのだと、あとになっ て示されたのだった。   そ し て あ と か ら み れ ば そ の 目 的 に 沿 う か の よ う に、 う ま い ぐ あ い に、 第一回アートセトウチでは、療養所で使用されていた「解剖台」が展示 さ れ た と 報 道 さ れ た。 た と え ば、 『 読 売 新 聞 』 は、 二 〇 一 〇 年 七 月 二 一 日( 大 阪 朝 刊、 香 川 ) で「 歴 史 伝 え る 解 剖 台 展 示 大 島 青 松 園 三 〇 年 ぶ り 海 か ら 引 き 揚 げ 」 の 見 出 し に、 「 展 示 さ れ る 解 剖 台( 大 島 青 松 園 で ) 」 のキャプションつき写真を添えた記事で、 「旧治療棟横の解剖室にあり、 亡くなった患者の遺体が横たえられたといい、約三〇年前に 治 〔 マ マ 〕 療室 が建 て替えられた時に海中に捨てられたとみられるという」と解剖台を説明 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十二号 八八

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し、それを「瀬戸内国際芸術祭の大島での企画を指揮」する大学准教授 と「 入 所 者 ら が 話 し 合 い、 「 島 の 歴 史 を 語 る 象 徴 」 と し て、 供 養 し て 展 示 す る こ と を 決 め、 今 月〔 七 月 〕 八 日 に 引 き 揚 げ た と い う 」 と の 経 緯 」 を記した。 「一九歳で大島青松園に来た〔中略〕 入所者自治会長(七七) 」 が 発 し た「 こ の 台 に し み こ ん で い る 悲 し い 歴 史 を 少 し で も 知 っ て ほ し い」との談話も報じられた。   『 朝 日 新 聞 』 も ま た、 同 年 七 月 二 二 日 朝 刊 香 川 全 県 版 の「 瀬 戸 内 国 際 芸 術 祭 」 報 道 で、 「 解 剖 台 は 瀬 戸 内 国 際 芸 術 祭 二 〇 一 〇 に 合 わ せ て 展 示 さ れ て い る 」「 今 回 の 芸 術 祭 開 催 に 合 わ せ、 入 所 者 の 暮 ら し な ど を 紹 介 する〔中略〕ギャラリー前で展示」と、七月二一日におこなわれた慰霊 祭 の 写 真 と と も に 紹 介 さ れ た。 解 剖 台 は、 「 同 園〔 大 島 青 松 園 〕 関 係 者 に よ る と、 〔 中 略 〕 一 九 六 〇 年 代 初 め ご ろ ま で、 入 所 者 の 遺 体 の 解 剖 に 使われ、八五年ごろに解剖室の取り壊しに伴って島の西側の海岸付近に 捨てられたという」とのこと。   こ の 解 剖 台 に つ い て、 「 入 所 者 自 治 会 会 長 」 は「 治 療 薬 を 開 発 し て 飲 ませるなど、薬の作用を見たかったのではないか。モルモットと同じ扱 い だ っ た。 数 百 人 が 台 の 上 に 乗 せ ら れ、 見 て い ら れ な か っ た 」 と 話 し、 見 学 者 も「 言 葉 が な い。 ひ ど い 時 代 が あ っ た ん だ と わ か っ た 」「 入 所 者 には人権がなかったんですね」と語ったと報じられた。こうした記事の 見 出 し が、 「 ハ ン セ ン 病、 悲 し い 歴 史 」 と つ け ら れ、 そ の 悲 し さ を も っ と も 象 徴 す る 遺 物 と し て 解 剖 台 が 海 岸 か ら 引 き 揚 げ ら れ、 「 芸 術 祭 」 で 「 展 示 」 さ れ た と の 報 道 が、 ア ー ト セ ト ウ チ 二 〇 一 〇 を め ぐ っ て 残 さ れ たのだっ た ( 9 ) 。   大 島 青 松 園 協 和 会( 自 治 会 ) が 発 行 す る 逐 次 刊 行 物『 青 松 』 通 巻 第 六五四号(二〇一〇年一〇月)の表紙見返しに「瀬戸内国際芸術祭」の 見出しのもと二葉の写真が載り、そのうちの一葉、解剖台が写る写真に は「二五年前北部海岸に廃棄された解剖台が今年七月に再発見され、海 岸から引き上げられた。入所者自治会とやさしい美術プロジェクトの相 談のもと、 瀬戸内国際芸術祭にて一般公開している」 との説明がつく(記 事の署名なし) 。   同 号 に は、 さ き の 解 剖 台 報 道 で、 「 瀬 戸 内 国 際 芸 術 祭 の 大 島 で の 企 画 を 指 揮 」 す る と 紹 介 さ れ た「 や さ し い 美 術 プ ロ ジ ェ ク ト デ ィ レ ク タ ー」 が執筆した「 {つながりの家} 」と題された稿が載るも、ただしそこでは 解剖台についてはまったくふれられていない。   同 人( こ こ で の 肩 書 は 大 学 准 教 授 ) に よ る「 〈 高 松 テ ル サ・ ハ ン セ ン 病を正しく理解する講演会において〉/「大島での取り組み{つながり の家} 」」と題された稿(同誌通巻第六五八号、二〇一一年六月)におい て は、 「 取 り 組 み の 内 容 を 紹 介 し ま す が、 ま ず、 最 初 に お 伝 え し た い の が大島で再発見された解剖台です」と切り出し、ついで、 こ れ は 大 島 の 入 所 者 で あ り 写 真 家 の 脇 林 清 さ ん の 撮 影 し た 写 真 で す。大島の美しい景観を見て取ることができますが、写真中央に注 目してください。自然物にしては違和感のあるコンクリートの塊が 海面から顔を出しています。 近づいて見ましょう。 これがコンクリー トの塊の正体です。脇林さんにはこれが何であるかがすぐにわかり ました。大島でかつて使われていた解剖台だったのです。 とのべたとのこと。講演会で提示した写真に「大島の美しい景観」がど ハンセン病をめぐる史料の見落としと目配り 八九

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う 写 っ て い た の か、 「 コ ン ク リ ー ト の 塊 が 海 面 か ら 顔 を 出 し て い ま す 」 というそのようすが写真にどう写っていたのかも、それらの写真が掲載 さ れ て い な い の で、 『 青 松 』 の 読 者 に は わ か ら な い。 こ こ に 名 が あ げ ら れ た 脇 林 を 共 著 者 と し た 稿「 コ ン ク リ ー ト 塊 の 牽 引 」( 後 注 9) に わ た したちは、脇林が二〇一〇年七月に撮影した解剖台の写真五葉を載せて いた。さきの引用箇所からは、講演会のそのあたりで提示された写真は 二葉と推測され、おそらくそれはわたしたちの前掲稿に載せた写真とか さなっているのだろう。   なお、この講演録末尾には一葉の写真が載る。これが講演会で提示さ れた写真かどうか、まるで説明がなく、なにもわからない。ただ、わた したちが前掲稿に「写真①」として、撮影者も撮影年月日も明示した写 真とおなじ一葉だった。 『青松』誌掲載写真は、講演者が撮ったのか。   どの写真を講演会で提示したのかはともかくも、さきの引用箇所には とても不思議な記述があるとわたしにはおもえてならない。それは、 「近 づいて見ましょう。これがコンクリートの塊の正体です。脇林さんには これが何であるかがすぐにわかりました」という三つの文によってあら わされる事態の推移がおかしいのだ。 コンクリート塊にちかづいてゆき、 それがなにであるかわかったから、撮影者はシャッターを切った、とう かがえるが、 実際はそうではない。撮影者は、 解剖台がそこにあるとずっ とまえから知っていて、 それを撮りにいったのだ。また、 「再発見」とは、 どういった事態をさしているのだろう。 なぜ「発見」 ではないのか、 では、 「再発見」者はだれで、 「発見」者はだれなのか――そうした疑問に応え られる記述になっていないので、わたしは不思議だとの感想を記した。   講 演 会 で は、 「 私 は 当 時 大 島 で の 展 示 の 準 備 の た め に 入 所 者 の 記 憶 や 痕跡、 生きてきた人の気配を感じる古いもの、 遺されたものを探し求め、 集めていました。そのような状況でしたので解剖台の再発見の情報は入 所者自治会を通じてすぐ私の耳に入ってきました。私はこの解剖台を可 能であれば、展示したいと呼びかけました」とものべたとのこと。ここ でもまた「再発見」の語がもちいられている。では、解剖台展示のきっ かけは、この講演者がつくったのか。わたしたちが大島での聞き取りで 確認した解剖台展示の経緯は、前掲稿に記録した。   こ の 講 演 録 の 末 尾 に は、 「 解 剖 が ど の よ う に 行 わ れ て い た の か、 今 後 の 調 査 を 待 た な け れ ば な り ま せ ん が、 こ の 解 剖 台 を 目 の 前 に し て 人 間 の尊厳について考えざるを得ません」と記されている。解剖台はいまに いたるまでアートセトウチ二〇一〇のときとおなじ場所に置かれている も の の、 そ の 後 の、 二 〇 一 三 年 の と き も 二 〇 一 六 年 の と き も、 ア ー ト セ ト ウ チ で 話 題 に な る こ と は ま ず な か っ た と お も う。 解 剖 台 に つ い て の「 調 査 」 結 果 が ア ー ト セ ト ウ チ 関 係 者 か ら 発 表 さ れ た よ う す も な い。 二〇一八年四月まで、解剖台についての案内や解説を記した銘板すらな かった。 アートセトウチは、 解剖台のなにを明らかにしたのだろうか、 「人 間の尊厳について考え」る手立てを、どのように整えたのだろうか、そ し て、 「 人 間 の 尊 厳 に つ い て 」 な に を ど う 考 え て き た と あ ら わ し た の だ ろうか。   講演者はつぎのとおりのべていた――「解剖台の展示は現在も賛否両 論 あ り ま す。 ま た 解 剖 台 は 作 品 で は あ り ま せ ん。 し か し、 芸 術 祭 に 向 けての動きのなかで浮かび上がってきたことも紛れのない事実です。わ たしが展示を決断したのは大島で暮らしてきた入所者の生き様を映し出 すものと考えたからです。説明がなくともそのものが雄弁に物語るとい 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十二号 九〇

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う点においてこの解剖台は大島の象徴とも言えるものではないでしょう か 」。 は た し て そ う か。 浜 に あ っ た と き も 引 き 揚 げ ら れ た そ の 後 も、 そ こ に あ る コ ン ク リ ー ト 塊 そ の も の は な に も 語 っ て は い な い。 こ れ で は、 ひ い て は、 大 島 そ の も の も「 説 明 が な く と も そ の も の が 雄 弁 に 物 語 る 」 と な り か ね な い。 コ ン ク リ ー ト 塊 を 解 剖 台 と し て 語 れ る も の、 そ し て、 打ち棄てられた解剖台の歴史を大島の療養所と療養者の歴史として説け る も の は、 そ れ を き ち ん と 調 べ、 考 え た も の だ け で あ る。 当 然 の こ と、 大島そのものも、そこにある療養所も、そこを生きた――生きてゆく療 養者をめぐっても、おなじことだ。アートセトウチ関係者は、それをし たのだろうか。少なくとも、大島を訪れたものたちの目にみえるように は、調べたこと、考えたこと、そうして明らかになったこと、その根拠 となるもの、を残してはいな い )(( ( 。   ここにいう、根拠となるものを、史料といいかえてもよい。その台帳 ――おうおうにして史料目録という、それをだれがつくるのか。わたし は、かつて、ハンセン病とはべつな史料をめぐって、目録はつくれるも のがつくればよい、と書いたことを忘れてはいない。ただ、さきに参照 し た 稿 で 披 露 さ れ た、 「 こ れ が 大 島 で の 取 り 組 み{ つ な が り の 家 } の 構 想の全貌です」という五項目の最後に、 「入所者の皆さんの記憶・生活・ 文 化 を の こ し て 伝 え る 」 と あ っ た。 な に で あ れ、 「 の こ し て 伝 え る 」 と いうとき、いわばその財産目録は必要ないのだろうか。わたしにはよく 理解できないところだ。台帳もなしにどうやって「入所者の皆さんの記 憶・生活・文化をのこして伝える」ことができるのだろう。よもや、 「探 し 求 め、 集 め て い 」 れ ば、 「 の こ し て 伝 え る 」 と い え る と い う こ と で あ れば、それでは噴飯ものだ。   さ き に 参 照 し た「 総 合 デ ィ レ ク タ ー の 話 ⑥ 」 で は、 「 こ こ に 居 住 者 の 思いを掲げ、わたしたちが伴走する際のスタンスを記しておきたい」と あ げ ら れ た 四 項 目 の 第 二 が、 「 島 の 記 憶 を 遺 し 伝 え て い こ う と い う 願 い を受けるならば、 葬儀、 盆供養をしっかりとやれる体制をつくる。記憶・ 記録のための施設を用意する」 だった。 「居住者」 にむかって、 葬儀をしっ かりやる、とは思いやりあふれるあたたかい言葉のようにも聞こえるか もしれないが、他方で、生きているひとにたいして失礼だとわたしは感 じ る。 そ れ と、 「 施 設 を 用 意 す る 」 と い う 姿 勢 で あ れ ば、 目 録 作 成 な ど 二 の 次 三 の 次 と な る わ け が よ く わ か り、 さ ら に、 「 伴 走 す る 」 と い う の だから、あくまで主体は「居住者」ということにして、わが身を脇へと 退かせていることがはっきりとつかめたのだ。もとより外からやってく る部外者があれこれと手を出しすぎては当事者をかえって蔑ろにするこ ととなるとの配慮は当然のこと理解できる。だが、総合ディレクターが 記しているとおり、 「現在八〇人、 平均年齢八一歳」 (ここにつづいて「島 の存在感は薄くなっているが」と記されているが、これはいったいだれ にとって「薄くなっている」 というのか。 当人たちにとってはけして「薄 く」などないはずだ)のいまの「居住者」に、なにをしろと迫るのだろ うか。ずいぶんとつごうのよい「スタンス」とみえてしまう。そしてそ の総合ディレクターが大島で「島の記憶」をめぐる目録ひとつつくって いないこともまた、当然のことなのだろう。それはディレクターのもと で動く丁稚か使いっ走りのやることか。   大島に出入りするアートセトウチ関係者は、まるで口うら合わせでも したかのように、似た物言いをあちこちで発している。だが中身はなく 実態が伴わない掛け声にとどまっていると聞こえてしまう。 ハンセン病をめぐる史料の見落としと目配り 九一

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  ところで、 「生き様」 とは、 どう使われるべき言葉なのか――不 様 ざま 、とか、 てめー、 様 ざま あねえな、とか、てやんでえ、ぼけ、 様 ざま あみろ、とか、それ みろいったとおりじゃねえか、なんてえ 様 ざま だ、とかであれば、相手を謗 る、嘲る、罵る、ときの常套語ではないか。おお、なんとすばらしい 様 ざま なんだ、 あなたのその見上げるべき 様 ざま を忘れはしません、 などというか、 いいや、いわない。様のまえに「生き」がつけば用法がかわるのか。本 来は輝く言葉だったそれを、蓮っ葉な住民番号八九三のひとたちが貶め てしまったのだろうか。   『 国 語 大 辞 典 』( 小 学 館 ) で「 ざ ま 」 を 引 く と、 「【 様・ 態 】 一( 「 さ ま ( 様 ) 」 の 変 化 ) 様 子、 格 好 を の の し っ て い う 語。 て い た ら く。 醜 態。 ざ ま あ 」 と あ っ た。 同 辞 典 に「 い き ざ ま 」 は な く、 「 し に ざ ま 」 は あ っ た――「①死ぬ時の有様。死にのぞんでの様子。また、死んだ様子。し によう。②まさに死のうとする時。しにぎわ」とのこと。とくだん罵り の意味合いはないようだ。これが「いきざま」にも転用されたか。わた し は ど う に も こ の 語 に 馴 染 め な い。 そ の 語 が 指 し 示 し て い る と こ ろ が はっきりしないのにもかかわらず、重宝されてなにかしら相手を尊重し て い る か の よ う に み せ て し ま う 魔 法 の 言 葉 と し て、 「 生 き 様 」 と い う 他 者の生をあらわす語が多用されている。   ところで、ひとは自分の「生き様」をどう語るのだろう。そこに照れ や恥じらいが籠められるばあいがあるのだろうか。   アートセトウチは会場によってはうまくいっているところもあるのだ ろう。会場となったある島の首長が、金が落ちる、と顔を崩すようすを わたしは目の当たりにした。大島にとってアートセトウチはなんだった のかをアートセトウチ側はきちんと検証しなければならないし、アート セトウチにとって大島はなになのかを大島ではしっかりと点検したほう が よ い。 「 他 者 が 感 じ て い る「 痛 み 」 や「 苦 し み 」 を 自 分 の こ と と し て 捉える」 が「進むべき方向」 だという「やさしい美術プロジェクト」 (前 掲「 「{ つ な が り の 家 }」 」 ) が 大 島 に や っ て き た。 「「 何 の た め の、 誰 の た め の 美 術 か。 」 を 真 剣 に 考 え な け れ ば な ら な い と 思 い ま し た 」 と も い う 「やさしい美術プロジェクト」は、その考えをどのように、ここ大島で、 あ ら わ し た の か。 他 者 に む か っ て、 あ な た の「 痛 み 」 も「 苦 し み 」 も、 わたしはわがこととしてとらえました、というために「美術」があると して、やはり、それをどう表現するのか、それとあわせてわが身をどう 動かすかが問われるはず だ )(( ( 。ただ、 それよりもまえに、 他者にむかって、 あなたの「痛み」 も「苦しみ」 も、 わたしはわがこととしてとらえました、 といい得るわたしを、よくよく見つめ直したほうがよい、とわたしはお もう。わたしには、大島在住者にむかって、あなたの「痛み」も「苦し み」も、わたし自身のこととしてとらえました、などということは、と てもできない。   「他者が感じている「痛み」や「苦しみ」を自分のこととして捉える」 とまでわが身の姿勢をみせるものが「入所者の皆さんの記憶・生活・文 化をのこして伝える」というとき、それがだれの目にもみえるようには 示されてこなかったという 態 ざま がある。仮に、アートセトウチのたびにみ せているというのだとしたら、そうした三年に一回の期間限定でよいの か。いいや、アートセトウチ開催期間外であっても、不定期ながら展示 室 は 開 け て い た と い う の で あ れ ば( た だ し 有 料 閲 覧 )、 そ こ に は ど の よ う な 解 説 の シ ー ト や パ ネ ル が あ り、 ど う い っ た 説 明 を 伝 え て い た の か。 そうしたあれこれをきちんとみずから点検することを怠ってはいけない 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十二号 九二

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はず だ )(( ( 。       二〇一九年四月に全面開館予定の大島青松園社会交流会館の準備にか かわることとなったわたしは、その一斑として、屋外の史跡などにその 案内や解説となる銘板をたてることを同館展示準備委員会に提案し、そ れが了承され、二〇一八年四月までに園内一六か所にスタンドサイン・ ステンレスシリーズによる銘板一六基が設置された(さきの解剖台をふ く む )。 一 基 の 銘 板 に 記 せ る 文 字 数 は 多 く て も 二 五 〇 字 て い ど だ っ た た め、 そ れ ぞ れ の 史 跡 な ど に つ い て の 追 加 情 報 と 出 典 を 別 稿 に ま と め た )(( ( 。 「 国 立 療 養 所 大 島 青 松 園 史 跡 め ぐ り と 史 料 」 と 題 し た 稿 を 執 筆 す る に あ たって、 前記逐次刊行物四誌を活用したことはもちろん、 くわえて、 「手 綴 じ の〝 青 松 〟」 の 継 続 後 誌 で あ る お お よ そ 活 版 印 刷 の 逐 次 刊 行 物『 青 松 』 と、 「 統 計 年 報 」 ま た は「 年 報 」 と い う 名 称 の つ い た 冊 子( 以 下、 大島統計年報、とする)が役立った。これらふたつの史料のとりわけ後 者は、これまでのわたしの調査研究においては、ほとんど参照したり活 用したりしてこなかった記録だった。 この史料になにが示されているか、 その一端をここに記すとしよう。   現在、大島統計年報をまとめて閲覧できる機関は、国立ハンセン病資 料館図書室だけである。ただし、同室ではコピー製本版を閲覧に提供し ている。本稿では同室製本版をもちいた。同室配架分の書誌情報などを 後掲別表にまとめた(判明する原本の所在を別表「所蔵」欄に記した) 。 この大島統計年報への着目点は、 ひとつに配置図、 ふたつに写真である。   配置図については、別表にみえるとおり、いまに残る大島統計年報の すべてに収載されているわけではない。おおよそ、一九二〇年代なかば から一九三〇年代なかばまでと、 一九四〇年前後の時期の配置図がある。 大島では、造っては壊し造っては壊しのくりかえしだったと在園者はよ く語る。そうした建造物の変遷、いわば島土がどのように利用されてき たのか、その移り変わりの一部を配置図から知ることができる。   写真については、記されたキャプションをここに転載する。   昭和六=一九三一年大島統計年報: 「大島療養所全景」 「大島療養所研 究 室( 右 ) 及 標 本 動 物 室( 左 ) 」「 大 島 療 養 所 会 館 」「 大 島 療 養 所 患 者 家 族舎」 。   昭和七=一九三二年大島統計年報: 「大島療養所全景」 「大島療養所研 究室」 「安達元内務大臣来所(昭和七年十二月十二日) 」「患者ノ野球」 。   昭和八=一九三三年大島統計年報: 「大島療養所全景」 「大島療養所本 館 」「 皇 太 后 陛 下 御 歌 伝 達 式( 昭 和 八 年 一 月 十 日 ) 」「 患 者 ノ 芝 居( 太 閤 記十段目) 」。   昭 和 九 = 一 九 三 四 年 大 島 統 計 年 報: 「 大 島 療 養 所 全 景( 北 方 ヨ リ 眺 メ タ ル モ ノ ) 」「 大 島 療 養 所 本 館 」「 皇 太 后 陛 下 ヨ リ 外 島 保 養 院 患 者 ヘ ノ 御 下賜品伝達式」 「大島保育所患者学芸品及農産品展覧会」 「外部ヨリノ慰 問 舞 踊 」「 患 者 芝 居 」「 大 島 未 患 児 童 保 育 所( 楓 寮 ) 居 室 」「 大 島 未 患 児 童保育所(楓寮)静養室」 。   昭 和 一 〇 = 一 九 三 五 年 大 島 統 計 年 報: 「 北 方 ヨ リ 眺 メ タ ル 大 島 療 養 所 全景」 「研究室」 「本館」 「治療室全景」 「物理的療法室」 「大手術室」 「楓 寮( 未 患 児 童 保 育 所 ) 」「 静 養 室 」「 居 室 」「 患 者 住 宅 」「 御 下 賜 の 赤 阪 御 苑楓実生」 「赤阪御苑楓実生伝達式」 「皇太后宮大夫入江為守子爵(中央) 慰 問   昭 和 十 年 九 月 二 十 三 日 」「 多 久 岡 山 県 知 事( 中 央 ) 慰 問   昭 和 十 ハンセン病をめぐる史料の見落としと目配り 九三

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年十月二十二日」 「財団法人修養団蓮沼主幹慰問   昭和十年五月二日」 「外 部ヨリノ慰問童踊」 「患者ノ相撲」 「患者ノ作品展覧会」 。   昭 和 一 一 = 一 九 三 六 年 大 島 統 計 年 報: 「 北 方 よ り 眺 め た る 大 島 療 養 所 全景」 「研究室」 「本館」 「皇太后陛下御歌記念碑」 「御恵の家(雲井寮) 」「恩 賜 記 念 講 堂( 患 者 小 学 校 ) 」「 恩 賜 記 念 治 療 室( 物 理 的 療 法 室 ) 」「 癩 予 防 協 会 理 事 大 久 保 利 武 侯 爵 慰 問( 昭 和 十 一 年 五 月 三 十 一 日 ) 」「 修 養 団 大 島 支 部 六 周 年 記 念 大 会( 演 壇 に 立 て る が 蓮 沼 主 幹 )( 昭 和 十 一 年 十 一 月 二 十 五 日 ) 」「 治 療 室 全 景 」「 物 理 的 療 法 室 」「 大 手 術 室 」「 未 患 児 童 保 育所(静養室)/居室」 「患者住宅」 「患者娯楽   芝居/野球/ラヂオ放 送室/運動会/相撲」 。   昭 和 一 二 = 一 九 三 七 年 大 島 統 計 年 報: 「 北 方 ヨ リ 眺 メ タ ル 大 島 療 養 所 全景」 「本館」 「研究室」 「皇太后陛下御歌記念碑」 「御恵ノ家(雲井寮) 」 「恩賜記念講堂(患者小学校) 」「恩賜記念治療室(物理的療法室) 」「治 療室」 「大手術室」 「物理的療法室」 「患者住宅」 「未患児童保育所(居室) /( 静 養 室 ) 」「 前 小 林 所 長 胸 像 除 幕 式 記 念 」「 全 国 癩 療 養 所 事 務 打 合 会 記 念 」「 慰 霊 祭( 神 式 ) /( 仏 式 ) 」「 慰 安 及 娯 楽   患 者 芝 居 / 患 者 盆 踊 /ラヂオ放送室/患者作品展覧会/患者角力」 。   昭 和 一 三 = 一 九 三 八 年 大 島 統 計 年 報: 「 北 方 ヨ リ 眺 メ タ ル 大 島 療 養 所 全景」 「研究室」 「本館」 「皇太后陛下御歌記念碑」 「恩賜記念治療室(物 理的療法室) 」「御恵ノ家(雲井寮) 」「恩賜記念講堂(患者小学校) 」「治 療室」 「大手術室」 「物理的療法室」 「患者住宅」 「楓寮(未患児童保育所) 静養室/楓学園(小学校) /居室」 「貴族院議員関屋貞三郎閣下視察記念」 「 予 算 協 議 会 出 席 者 視 察 記 念 」「 上 水 道 貯 水 池 工 事 ノ 完 成 」「 庵 治. 大 島 間 海 底 電 力 線 布 設 状 況 」「 慰 安 及 娯 楽 状 況 / 患 者 芝 居 / 患 者 盆 踊 / ラ ヂ オ放送室/患者作品展覧会/患者相撲」 。   昭和一四=一九三九年大島統計年報: 「皇太后陛下御歌記念碑」 「皇太 后陛下ヨリノ御下賜品」 「北方ヨリ眺メタル大島療養所全景」 「本館」 「研 究室」 「上水道貯水池」 「治療室」 「貴族院議員関屋貞三郎閣下視察」 「予 算協議会ニ出席ノ聯合各県視察者」 「第三回癩専門講習会 記 〔 マ マ 〕 会 」「香川県 神職会員慰問」 。   昭 和 一 五 = 一 九 四 〇 年 大 島 統 計 年 報: 「 大 島 神 社 」「 大 島 療 養 所 本 館 」 「御歌記念碑」 「北方ヨリ眺メタル大島療養所全景」 。   昭和一六=一九四一年大島統計年報: 「大島青松園正門」 「大島青松園 本 館 」「 畏 く も 皇 太 后 陛 下 御 写 真 を 拝 戴 す 」「 御 下 賜 の 菴 羅 樹 」「 国 立 移 管式臨席者」 「厚生大臣訓示(高野局長代読) 」。   昭 和 二 六 = 一 九 五 一 年 大 島 統 計 年 報: 「 大 島 全 景 」「 大 島 丸 」「 患 者 夫 婦舎」 「患者夫婦舎」 。   昭和二七=一九五二年大島統計年報: 「大島全景」 「松風」 「少年少女室」 「薬局」 。   昭 和 二 八 = 一 九 五 三 年 大 島 統 計 年 報: 「 大 島 全 景 」「 本 館 玄 関 」「 学 友 会館」 「池田厚子夫人」 。   昭 和 二 九 = 一 九 五 四 年 大 島 統 計 年 報: 「 大 島 全 景 」「 重 病 棟 」「 受 配 電 室」 「受配電盤」 「解剖室」 「庵治第二中小学校養護学校校舎」 「更衣室」 「縫 工室」 。   昭 和 三 〇 = 一 九 五 五 年 大 島 統 計 年 報: 「 大 島 全 景 」「 独 身 軽 症 舎( 改 造) 」「温床」 「医官官舎」 「保育所」 「保育所」 。   ここで、大島統計年報に収載された配置図と写真をめぐる着目点をあ げよう。療養所内施設の変遷についてである。 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十二号 九四

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  一九二五年大島統計年報収載の配置図には、 「有毒無毒境界柵」 「標本 室 」「 解 剖 室 」 が み え る。 こ れ ら 三 施 設 は、 一 九 二 六 年 大 島 統 計 年 報 収 載配置図、一九二七年同、一九二八年同(柵のみ異なる)でもおなじ場 所にある。 いずれもいまはすでにない療養所内施設である。 標本室は「無 毒」の領域にあり、 解剖室は「有毒」のところに描かれているとみえる。 解剖は「有毒」で、 それをすませたのちの標本は「無毒」という判別が、 一見したところ、理にかなっていそうで、それが隔離や「有毒無毒」の 識別の納得につながると怖ろしい。   一九二八年の図には「火葬場」と「納骨塔」が記されている。この納 骨塔が、いまもある「南無仏」の碑とみてよい。ただし、南無仏の建立 は 一 九 一 一 年 だ っ た。 南 無 仏 の し た に 物 故 者 の 遺 骨 を 納 め 始 め た と き は、 碑 の 建 立 と 同 時 で は な か っ た と 在 園 者 か ら 聞 い た。 時 間 差 が ど の くらいだったかは、在園者も知らなかった。配置図に納骨塔が記された 一九二八年ころになって、碑が「納骨」の「塔」とみなされたのかどう か、それ以前にもこの「碑」のしたに遺骨を納めていたが配置図にはそ の所在が記されなかったのか、よくわからない。ただ、南無仏をおいた ことと、そこを納骨の場としたこととのあいだに時間差があったことは 確かなようだ。   ここで、 『大島療養所二十五年史』 (大島療養所、一九三五年)をみよ う。同書の章「二十五年史概要」の節「地誌」の項「敷地、建物、設備 並に人口」には、大島に療養所がおかれた一九〇九年の三月一八日に竣 工 し た 建 物 な か に、 「 屍 室 」 が あ が っ て い る( 「 六 坪 二 〇 」 )。 遺 体 安 置 室、霊安室、というところか。一九一九年度に「死体解剖室」 (「一〇坪 五 〇 」 ) が、 一 九 三 二 年 度 に「 死 体 解 剖 室 」( 「 一 二 坪 」 ) と「 死 体 安 置 室 」( 「 一 六 坪 三 五 〇 」 ) が つ く ら れ、 一 九 三 四 年 度 予 算 の 見 込 み と し て 「火葬場改築」 (建坪数記載なし)と記されている。一九三四年末時点で の 建 物 の な か に、 「 標 本 並 動 物 室 」( 「 二 八 坪 」 )、 「 死 体 解 剖 室 」( 「 一 二 坪 」 )、 「 死 体 安 置 室 」( 「 一 六 坪 三 五 〇 」 ) が あ っ た。 療 養 所 当 局 が 編 集 発行した最古の記念誌の記載によると、療養所開所にさきだって、あら かじめ「屍室」をつくっておいたものの、 遺体を焼く満足な施設はなく、 遺 骨 を 納 め る べ き 場 所 も な か っ た と わ か る。 さ ら に は、 「 死 体 解 剖 室 」 がつくられたのちに、ようやく「火葬場改築」に手がつけられたのだっ た。 「 有 毒 無 毒 境 界 柵 延 長 二 五 〇 間 」 お よ そ 四 五 〇 メ ー ト ル も、 す で に一九一二年にはつくられていた。   「ものがたる」――「ある事実がそのままある意味をはっきりと示す」 (『 国 語 大 辞 典 』 ) の 語 を あ え て 使 え ば、 火 葬 場 や 納 骨 堂 な ど ひ と の 死 を めぐるこうした療養所を構成する建物の推移が、ハンセン病をめぐる過 度の酷さをものがたっている、となる。しばしば指摘されるとおり、 癩 らい をめぐる予防法に退所の項目がなかった(とはいえ実際には軽快退所も 社 会 復 帰 も あ っ た )。 そ う で あ れ ば、 療 養 所 内 で の 療 養 者 の 死 亡 が 当 然 のこと想定され、それにみあうように大島では、療養所運営開始にさき だって屍室が設けられていた。だがそのあとへの備えがなかった。療養 所開設時には、火葬や納骨の設備がなかったのだ。火葬施設ができるま で、亡くなったひとの遺体をどのようにしていたのか、納骨の場が整え られるまでその遺骨をどうあつかっていたのか、それらを報せる充分な 史料を大島では欠いている。療養者の死への配慮を欠いた施設は人道に 悖り、その記録を適切に残してこなかったことは歴史を蔑ろにしたこと となる。さらには、そうした事態を把握せず、つぎへと動かす努めを怠 ハンセン病をめぐる史料の見落としと目配り 九五

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るものは、謙虚に、歴史にかかわる場から身を引いたほうがよ い )(( ( 。   ハンセン病診療所での死をめぐる酷さは、たとえば、火葬場や納骨堂 と い う 施 設 を と り あ げ て、 「 説 明 が な く と も そ の も の が 雄 弁 に 物 語 る 」 とはいえない。火葬場や納骨堂の歴史をつかんでようやく、そう指摘す ることができ、指弾し得るのだ。解剖台もまたおなじ。   一九二九年の図では、 標本室が二か所となり、 解剖室が明瞭に「有毒」 の領域に入ると図示され、以前のままの場所に火葬場と「納骨所」が描 か れ る。 一 九 三 〇 年 の 図 で は、 「 無 毒 」 の 領 域 に「 標 本 並 動 物 室 」 が ま とめられ、解剖室、納骨所、火葬場は前年のまま、一九三一年の図では 納骨の施設の名称がまた「納骨塔」にもどり、図にも塔のかたちが図示 され、 ほかは前年のまま、 一九三二年の図で上記施設はそのまま、 とんで、 一 九 三 五 年 の 図 で 解 剖 室 が 南 西 に 移 動 し、 そ の 分、 「 有 無 毒 境 界 」 も 移 動 し( 「 有 毒 」 地 帯 が ひ ろ が っ た )、 あ ら た に、 「 夜 伽 室 」 が、 納 骨 塔 が ある丘のしたに描かれた。   一 九 三 七 年 の 図 で は、 「 納 骨 塔 」 と「 納 骨 堂 」 の 二 施 設 が あ り、 夜 伽 室はそのまま、解剖室は有無毒境界の外にいくらかはみ出しているとみ える。納骨のための堂宇の建立は一九三六年だったから、一九三七年配 置図に納骨堂が載ったことは、そのとおり。一九三八年の図で上記施設 は 前 年 の ま ま、 一 九 三 九 年 の 図 で は、 「 納 骨 塔 」 と「 解 剖 室 」 の 文 字 が 消え、ただし、当該箇所に施設の図示はあり、一九四〇年の図で、文字 の表記がない解剖室は「有毒境界」の外に出てしまい、一九四一年の図 ではさきにみた施設の位置はそのままだった。   夜 伽 室、 火 葬 場、 解 剖 室、 標 本 室 の 写 真 は 少 な い。 夜 伽 室 の 写 真 は、 協和会館となってからの一葉があるも( 「園内レポート」 『青松』通巻第 三 五 七 号、 一 九 八 〇 年 四 月 )、 そ れ 以 前 の 写 真 を わ た し は み て い な い。 火葬場は、一九七九年に旧養豚場跡地につくられた「新火葬場」の正面 を 写 し た 一 葉 が あ る( 「 園 内 レ ポ ー ト 」 同 前 第 三 五 二 号、 一 九 七 九 年 九 月 )。 解 剖 室 に つ い て は わ た し の 知 る か ぎ り で は 唯 一、 さ き の 一 九 五 四 年大島統計年報に収載された一葉の写真があるのみ。 標本室の写真には、 「 標 本 室 内 部 」( 『 国 立 療 養 所 大 島 青 松 園 五 十 年 誌 』 国 立 療 養 所 大 島 青 松 園、一九六〇年)と「 (脱器)標本保存室」 (『創立六〇周年記念誌』 [国 立療養所大島青松園] [一九六九年] )のキャプションがついた二様があ り、おなじような角度で撮影しているが、被写体のようすは異なる。   いまもまだ、大島の療養所における死者の火葬施設が、いつ、どのよ うにつくられたのか、きちんと確かめられていない。解剖室がいつ取り 壊されたのか――これは一九八五年に新治療棟第一期工事にともなって 取り除かれたとみるむきがある。有毒無毒境界柵については、それがい つ撤去されたのか、まるでわからない。在園者がいうところでは、徐々 になくなっていったようだ。療養者の死をめぐる施設の展開も、療養所 内の隔離をあらわす装置の解体も、まだわからないことが多く残されて いる。   も と も と つ く ら れ な か っ た 記 録 が あ り、 い ま に た る ま で に 残 さ れ な かった史料がある。それを知ったところでその事態をどう動かすかにつ いて、知恵をはたらかせくふうをめぐらすところに、歴史というものに かかわる練達のどあいが量られることとなる。 おわりにかえて   か つ て わ た し は、 「 図 書 と 図 書 室 の 生 」 と 題 し た 稿 を 書 い た( ワ ー キ 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十二号 九六

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ング・ペーパー・シリーズ第一六三号、滋賀大学経済学部、二〇一二年 三 月 )。 副 題 は「 癩 そ し て ハ ン セ ン 病 を め ぐ る 国 立 療 養 所 の 図 書 と 図 書 室が活きる」 。山下道輔が著した稿をまとめた著作『ハンセン病図書館』 ( 社 会 評 論 社、 二 〇 一 一 年 ) を 読 ん だ う え で の 考 え を、 そ こ に 書 き と め ておいた。   二〇一八年現在の国立ハンセン病資料館図書室につながるその始まり を手がけた多磨全生園在住者が山下で、彼は図書をめぐって交流した他 園の在住者に、長島愛生園の双見美智子と大島青松園の土谷勉の名をあ げ た。 山 下 は、 「 相 当 の 蔵 書 家 」 だ っ た と い う 土 谷 の も つ 図 書 の 寄 贈 を 望んでいたのだが、 土谷の没後その蔵書は焼却されてしまったとのこと。 さきの稿に記した山下と双見の言葉を、ここにまたおくとしよう――療 養 所 と そ こ に 生 き た 療 養 者 た ち の「 実 態 を 残 」 し、 ま た、 「 見 え な い も のを想像する」ための「実物も図書も全部資料」を「全部丸ごと残」す 施設がほかの国立療養所にもないなかで、 それを多磨全生園内につくり、 うごかし、はたらかせて、かつ、それ自体を療養所とそこに生きた療養 者たちの「本当のこと」を考えるときの手がかりや導きとせよ。   山 下 が こ う と な え た こ ろ と 違 い、 い ま で は 国 立 療 養 所 一 三 園 の う ち 一 二 園 に「 社 会 交 流 会 館 」 な ど と い う 名 称 の 園 内 施 設 が で き つ つ あ る。 国立の資料館とはべつに一二園が個々に史料をまるごと残せる可能性が 高まるかもしれないのだ。そうしたいわば器が整備されようとしている いま、そこが、どれだけ史料の保管庫となり得るのか が )(( ( 、わたしは気に なってしまう。在園者や自治会の史料はもとより、とくに園が保有する 行政文書のゆくえが気がかりなのだ。展示設営や交流事業はどこでもあ るていど手がけるだろうが、文書や図書の整理保存をしっかりと日々の 通常の業務として組みこめるかどうかが、社会交流会館などを名乗る園 内 施 設 の 重 要 な 課 題 で あ る。 さ ら に は、 双 見 が の べ た、 「 入 所 者 で な け れば価値を見出さない紙くず」との警句ともいえるひと言がいまや、入 所者でも価値を見出さない紙くず、となりかねない事態の現出が懸念さ れるのである。これにはどこの園でも直面している在園者の高齢化と人 数減少が背景や根底にあるといえる。史料を紙くずとして処理しないた めにも、いまは「価値」を判断基準にすえるのではなく、まずは史料と なり得るなにがあるのかをきちんとつかみ、できるかぎりそれを残す手 立てを整える必要がある。   い ま か ら 未 来 へ と 残 し 伝 え て ゆ く も の は 在 園 者 の 記 憶 や 文 化 な ど と いった曖昧で抽象度の高いなにかではなく、一見するとまばゆい輝きを 発しているかのように勘違いをしてしまうアートに療養所のいまと未来 を 委 ね る の で も な く、 ま た、 「 生 き 様 」 と い う 耳 あ た り の よ さ そ う な 言 葉をつかって、その語の指し示すところをしっかりと考えようとしない 態度に惑わされてはいけない。紙などをくずとせずに、かたちある 造 も の 物 を 残 し 伝 え る た め に、 人 材、 場 所、 予 算、 仕 組 み を 整 え て ゆ く こ と が、 いまの療養所に必要な事業なのである。その事業の経過や展開を記録す ることも忘れてはならない。さらには、かたちをとりづらい、ひとのこ ころのなかや胸のうちにある思いもまた、それを残し伝えてゆくために は、それにみあった適確な仕法をつくりだすことが大切なのだ。そうし なければ、ひとの思いなど、つかむことすらできない代物なのである。 ハンセン病をめぐる史料の見落としと目配り 九七

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   注 ( 1)   ハ ン セ ン 病 に か か わ る 法 律 な ど に つ い て は、 国 立 ハ ン セ ン 病 資 料 館 編『 ハ ン セ ン 病 関 連 法 令 等 資 料 集 』 国 立 ハ ン セ ン 病 資 料 館 ブ ッ ク レ ッ ト 二( 国 立 ハ ンセン病資料館、二〇一〇年)を参照した。 ( 2)   こ の 逆 接 の 言 述 に つ い て は、 阿 部 安 成『 透 過 す る 隔 離 ― 療 養 所 で の 生 を め ぐ る 批 評 の 在 処 』 滋 賀 大 学 経 済 学 部 研 究 叢 書 第 四 八 号( 滋 賀 大 学 経 済 学 部、 二〇一四年)を参照。 ( 3) ハ ン セ ン 病 問 題 に 関 す る 検 証 会 議 の よ う す を 伝 え た『 全 療 協 ニ ュ ー ス 』 の 記 事 を ま と め た 書 籍 に、 全 国 ハ ン セ ン 病 療 養 所 入 所 者 協 議 会 編『 検 証 会 議 ― ハ ン セ ン 病 と 闘 っ た 人 達 に 贈 る 書 』( 曽 我 野 一 美、 二 〇 〇 五 年 ) が あ る。 同 書 第 二 章「 隔 離 の と り で 」 は 四 か 所 の 国 立 療 養 所 に お け る 検 証 会 議 の 記 録 で、 そ の 第 一 に 二 〇 〇 二 年 一 一 月 二 六、 二 七 日 に 実 施 さ れ た 大 島 青 松 園 で の 検 証 会 議 が と り あ げ ら れ て い る。 た だ し 残 念 な こ と に 記 述 に 誤 り が 散 見 さ れ る( 「 集 水 溝 」 は 絶 対 に 間 違 い と い う わ け で は な い が「 集 水 路 」 と 記 さ れ る ことが多い。 「手術室の地下室」 というが 「地下室」 があったか。 「防空壕跡」 について 「横穴が一か所だけ残っており」 というが二本の横穴が現在もある。 「 八 十 八 カ 所 」 を「 一 か 所 に 集 め た 」 と い う が そ う い う に は 広 く 長 く 連 な っ て い る。 船 名 は「 ま つ か せ 」 で は な く「 ま つ か ぜ 」) 。 本 稿 で は 引 用 に あ た っ て、原文のアラビア数字を漢数字にかえた。 ( 4)   阿 部 安 成『 島 の 野 帖 か ら ― ハ ン セ ン 病 を め ぐ る 療 養 所 が あ る 島 で の フ ィ ー ル ド ワ ー ク か ら 歴 史 を 縁 ど る 試 み 』 滋 賀 大 学 経 済 学 部 研 究 叢 書 第 五 一 号( 滋 賀大学経済学部、二〇一八年)を参照。 ( 5)   わ た し た ち は 大 島 青 松 園 入 所 者 自 治 会( 協 和 会 ) の 許 可 を 得 て、 こ の 日 誌 の 目 録 を 公 開 し た( 阿 部 安 成、 石 居 人 也、 松 岡 弘 之「 自 治 の オ リ ジ ン ― 瀬 戸 内 海 の 大 島 に お け る 自 治 活 動 の 手 書 き 日 誌 」 ワ ー キ ン グ・ ペ ー パ ー・ シ リ ー ズ第一七二号、滋賀大学経済学部、二〇一二年九月) 。 ( 6)   さ き に み た「 ハ ン セ ン 病 問 題 に 関 す る 検 証 会 議・ 検 討 会 の 検 討 課 題 」 を す べ て あ げ る と、 「 検 討 一 / 一 九 〇 七 年 法「 癩 予 防 ニ 関 ス ル 件 」 か ら 一 九 五 三 年 ら い 予 防 法 制 定 に 至 る 経 緯 / 検 討 二 / ら い 予 防 法 が 一 九 九 六 年 ま で 改 廃 さ れ な か っ た 事 情 / 検 討 三 / 優 生 保 護 法 第 三 条 第 三 号 制 定 の 経 緯 / 検 討 四 / 上 記 一。 二。 三 に 関 し て、 諸 外 国 政 策 と の 比 較 / 検 討 五 / 上 記 一。 二。 三 に 関 して、 医学界が果たした役割/検討六/ハンセン病に関する偏見差別が作出 ・ 助 長 さ れ て き た 実 態( 無 ら い 県 運 動、 マ ス コ ミ の 役 割 等 ) / 検 討 七 / 断 種・ 堕 胎・ 重 監 房・ 強 制 労 働・ 貧 困 な 医 療 等 の 療 養 所 実 態 / 検 討 八 / 被 害 の 全 体 像の解明(家族との断絶、 家族被害、 社会復帰の困難、 隔離の精神的影響等) / 検 討 九 / 沖 縄 及 び 日 本 占 領 下 地 域 に お け る ハ ン セ ン 病 施 策 / 検 討 一 〇 / 上 記 一 な い し 九 を 踏 ま え た 再 発 防 止 の た め の 提 言 / 検 討 一 一 / ハ ン セ ン 病 政 策 の実態に関連する 寺 〔マ   マ〕 領 の収集・データベース化」 。 ( 7)   永 峰 美 佳 ほ か 編『 瀬 戸 内 国 際 芸 術 祭 二 〇 一 〇 公 式 ガ イ ド ブ ッ ク ア ー ト を め ぐ る 旅・ 完 全 ガ イ ド 』( 美 術 出 版 社、 二 〇 一 〇 年 )。 た だ し こ の テ ー マ は 文 献 に よ っ て 異 な る。 た と え ば、 坂 井 基 樹 ほ か 編『 瀬 戸 内 国 際 芸 術 祭 二 〇 一 〇 作 品 記 録 集 』( 美 術 出 版 社、 二 〇 一 一 年 ) 巻 頭 の ア ー ト セ ト ウ チ 実 行 委 員 会 総 合 プ ロ デ ュ ー サ ー に よ る「 瀬 戸 内 国 際 芸 術 祭 を 終 え て 」 に も 同 実 行 委 員 会 総 合 デ ィ レ ク タ ー に よ る「 長 い 道 の り の 始 ま り 」 に も 全 体 の「 テ ー マ 」 の 記 載 は な く、 後 者 に「 こ の 芸 術 祭 の 目 的 が「 海 の 復 権 」「 島 の 元 気 」 で あ る 」 と記されている。 ( 8)   ハ ン セ ン 病 を め ぐ る 療 養 所 と ダ ー ク ツ ー リ ズ ム に つ い て は、 阿 部 安 成「 展 示 の 刹 ― ハ ン セ ン 病 を め ぐ る 国 立 療 養 所 園 内 施 設 の 現 在 」( 『 彦 根 論 叢 』 第 四一六号、二〇一八年五月)でふれた。 (9)   アートセトウチ二〇一〇における解剖台については、 阿部安成、 石居人也、 脇 林 清「 コ ン ク リ ー ト 塊 の 牽 引 ― 瀬 戸 内 国 際 芸 術 祭 二 〇 一 〇 の 解 剖 台 展 示 と ハ ン セ ン 病 療 養 所 で の 死 を め ぐ る 生 活 環 境 」( 『 滋 賀 大 学 環 境 総 合 研 究 セ ン ター研究年報』第八巻第一号、二〇一一年)を参照。 ( 10)   「 私 は 当 時 大 島 で の 展 示 の 準 備 の た め に 入 所 者 の 記 憶 や 痕 跡、 生 き て き た 人 の 気 配 を 感 じ る 古 い も の、 遺 さ れ た も の を 探 し 求 め、 集 め て い ま し た 」 と い う「 集 め 」 ら れ た「 古 い も の、 遺 さ れ た も の 」 に な に が あ る の か、 そ の 記 録 が だ れ も が 閲 覧 で き る よ う に い っ さ い つ く ら れ て い な い こ と が、 二 〇 一 八 年の大島青松園社会交流会館の準備過程で明らかになった。 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十二号 九八

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( 11)   と も か く も ひ と ま ず、 「 他 者 が 感 じ て い る「 痛 み 」 や「 苦 し み 」 を 自 分 の こ と と し て 捉 え る 」「 「 何 の た め の、 誰 の た め の 美 術 か。 」 を 真 剣 に 考 え な け れ ば な ら な い と 思 い ま し た 」 と み ず か ら の 姿 勢 を 表 明 す る 態 は、 「 寄 り 添 う 」 と語る日本国内閣総理大臣を想起させる (高橋純子 「(政治断簡) 首相が 「ヨ リ ソ ッ タ 」 の は 」『 朝 日 新 聞 』 二 〇 一 八 年 一 一 月 二 六 日 朝 刊、 「( 社 説 ) 辺 野 古に土砂 政権の暴挙認められぬ」同紙同年一二月四日朝刊) 。 ( 12)   ア ー ト セ ト ウ チ 二 〇 一 三 か ら「 北 海 道 書 庫 」 と い う 名 称 の 展 示 が あ っ た。 これについての点検、検証を別稿に記す予定。 ( 13)   阿 部 安 成「 国 立 療 養 所 大 島 青 松 園 史 跡 め ぐ り と 史 料( 一 )」 (『 彦 根 論 叢 』 第四一六号、 二〇一八年五月) 、 同「同(二) 」(同前第四一七号、 同年九月) 、 同「同(三) 」( 『滋賀大学経済学部研究年報』第二五巻、 同年一一月) 、同「同 (四完) 」( 『彦根論叢』第四一八号、同年一二月) 。 ( 14) こ う し た 事 態 を 知 る こ と が、 療 養 所 が ど の よ う な 施 設 だ っ た の か の 理 解 に も つ な が る の で、 大 島 青 松 園 の 納 骨 堂 を「 一 九 〇 九 年 の 開 園 以 来、 こ の 場 所 に あ る 」( 前 掲 長 峰 美 佳 ほ か 編『 瀬 戸 内 国 際 芸 術 祭 二 〇 一 〇 公 式 ガ イ ド ブ ッ ク 』) と 記 し て し ま っ て は、 こ れ は た ん な る 間 違 い で す ま せ ら れ る 誤 記 で は なく療養所を理解し損ねる失態なのである。 ( 15)前掲阿部安成「展示の刹」を参照。 表 紙 編著者 発行者 発行年 配置図 写真 押 印 印 刷 所 蔵 頁 数 大正十四年統計年報/大島療養所 * * * 「大島療養所配置図」 * 「東京市神田区美土代町三丁目/東京基督教青年会内/日本 M TL /振替口座東京 七一二一九番」の押印 活版 長島 愛生 園歴史館 表紙 + 地図 + 目次 2p+30p 大正十五年/昭和元年/統計年報/大島療養所 * * * 「大島療養所配置図」 * * 活版 * 表紙 + 地図 + 目次 2p+29p 昭和二年統計年報/大島療養所 * * * 「大島療養所配置図」 * * 活版 長島 愛生 園歴史館 表紙 + 地図 + 目次 2p+32p 昭和三年統計年報/大島療養所 * * * 「大島療養所配置図」 * * 活版 * 表紙 + 地図 + 目次 2p+34p 昭和四年統計年報/大島療養所 * * * 「大島療養所配置図」 * * 活版 * 表紙 + 地図 + 目次 2p+37p 昭和五年統計年報/第四区大島療養所 * * * 「大島療養所配置図」 * 園長「光」のサイン、医務課長「林」などの押印あり 活版 * 表紙 + 地図 + 目次 2p+39p 昭和六年統計年報/第四区大島療養所 * * * 「大島療養所配置図」 あり 園長などの押印あり 活版 長島 愛生 園歴史館 表紙 + 地図 + 写真 2p+ 目次 2p+43p 昭和七年統計年報/第四区大島療養所 * * * 「大島療養所配置図」 あり * 活版 * 表紙 + 地図 + 写真 2p+ 目次 2p+44p 昭和八年統計年報/第四区大島療養所 * * * * あり 「長島愛生園印」の押印 活版 * 表紙 + 写真 2p+ 目次 2p+72p 昭和九年統計年報/第四区大島療養所 * * * * あり 園長「光田」などの押印 活版 * 表紙 + 写真 4p+ 所歌 1p+ 目次 2p+79p 昭和十年統計年報/第四区大島療養所 * * * 「大島療養所配置図」 あり 「供覧」などの押印 活版 * 表紙 + 写真 7p+ 地図 + 所歌 1p+ 目次 2p+107p 昭和十一年統計年報/第四区大島療養所 * * * * あり * 活版 * 表紙 + 見返し + 写真 6p+ 附図 2p+ 所歌 1p+ 目次 2p+105p 昭和十二年統計年報/第四区大島療養所 * * * 「大島療養所配置図」 あり * 活版 * 表紙 + 見返し + 写真 7p+ 附図 2p+ 地図 + 所歌 1p+ 目次 2p+100p 昭和十三年統計年報/第四区大島療養所 * * * 「大島療養所配置図」 あり * 活版 * 表紙 + 見返し + 写真 7p+ 附図 2p+ 地図 + 所歌 1p+ 目次 2p+100p 昭和十四年/統計年報/第四区大島療養所 * * * 「大島療養所配置図」 あり * 活版 * 表紙 + 見返し + 写真 5p+ 地図 + 目次 2p+55p 昭和十五年/統計年報/大島療養所 * 国立癩療養所 大島青松園 昭和十六年十二 月十五日 「大島療養所配置図」 あり 園長「光田」などのサインや押印 活版 * 表紙 + 見返し + 写真 2p+ 地図 + 目次 2p+ 所歌 1p+54p+ 奥付 表 大島統計年表書誌情報一覧 ハンセン病をめぐる史料の見落としと目配り 九九

表 紙 編著者 発行者 発行年 配置図 写真 押 印 印 刷 所 蔵 頁 数昭和十六年/統計年報/国立大島青松園***「大島青松園配置図」あり*活版*表紙+見返し+ 写真 3p+ 地図 +目次2p+所歌1p+56p「統計年報(国立療養所大島青松園)M 昭和17年」*「大島青松園」「1944.7」******昭和十八年/昭和十九年/昭和二十年/統計年報/大島青松園*大島青松園昭和二十二年一月二十日**園長「光田」などの押印ガリ版*表紙+目次1p+44p+奥付昭和二十一年度年報/国立療養所大島青松園*****園

参照

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