ISSN 02880911
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員宗連合事曾研究紀要
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\、J薩摩藩の封建支配と真宗禁制政策
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︵ 鹿 児 島 県 立 短 期 大 学 ﹀ は じ め に 衆知の如く、薩摩藩は他の諸藩にくらべてとくに強固な封建支配が行われた。近世封建社会を通して目立った一授 が一件も発生していないことも、その事実の一端を物語っているといえよう。その要因を板当一目すれば、封建支配の根 幹たる民衆の分割統治に成功したこと、換言すれば外城制度・門割制度・真宗禁制政策等の薩摩藩独自の制度と政策 をもって、疑心暗鬼の社会を醸成して、民衆の連帯を撤低的に阻止した点にあったと考えられる。 小論ではとくに日本仏教史上他に類をみない近世封建社会を一貫した薩摩藩の真宗禁制政策が、封建体制の維持に 如何に機能したか、薩州内場仏飯講の動向を検証しつつ考察してみたい。それにさきだって、薩摩藩の真宗禁制政策 を 概 観 し て お こ う 。 護 摩 藩 の 封 建 支 配 と 真 宗 禁 制 政 策薩 摩 藩 の 封 建 支 配 と 真 宗 禁 制 政 策 薩摩地方に真宗が伝幡したのは室町時代中期の蓮如・実如の頃であった。ところが真宗が流布するとまもなく為政 者の聞に一向一撰を畏怖して真宗排斥の気運が生じた。島津家中興の祖といわれる島津忠良ハ明応元・一四九二
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永禄 十一・一五六人。号日新︶は﹁魔のしよいか天眼おがみ法華しう一向しうにすきのこさしき﹂と詠じ、キリスト教・日 ① 蓮宗・真宗に対して嫌悪感をあらわにしている。そしてこの歌を﹃日新菩薩記﹄︵慶長二年・一五九七編纂﹀に紹介した 曹洞宗日新寺八世泰円は﹁諸所に一向宗起って、父母を軽んじ、仏神に疎ずる者、人間の作法にあらず、是等の徒党 成敗に根を断ち葉を枯さる事、悪逆無道は天魔の所行、天下国家を乱す、此の魔賊を諒滅する政道は、身を忠孝に仇吋 き、心を寺社に繋きて、子孫長久の隠徳を積む人道ぞ云んことの論評を加え、 一向一撲という事態を想起して真宗を 排 繋 し て い る の で あ る 。 事実、島津領内においても一向一挟の萌芽があった。永禄五年︿一五六二︶、日向佐土原の伊東義祐と日向真幸院 ︵宮崎県えびの市︶の北原民部少輔の争いで、北原民部少輔は領民を強制的に真宗に改宗せしめて、その結束力を利用 ② して伊東義祐に対抗しようとしているのである。このような在地における真宗の展開は三州統一を急務とする島津氏 にとって充分に危機を感じるものであったと考えられる。その後、島津義久の老中上井覚兼の日記、天正十コ一年︵一 五八五︶九月十五日条には﹁次に当所なと皆々一向宗と聞得候。然者此前より之事に候条、無届ニ御成敗はいかかに 候、先々彼宗旨を替可 ν申之由、開被仰、其後も一向宗に候いずる者ハ、是非以生害させ申候て可 v然 之 由 被 ニ 仰 出 一 候 也﹂とあり、真宗信者を摘発し成敗するにあたって、まず宗旨替を命じて、その後もなお真宗に固執する者は生害せ しめるという厳しい方針がうちだされており、上層家臣団の中で真宗の禁圧が話題にのぼってきたのである。このようにして真宗排斥の気運はいよいよ高まり、遂に慶長二年︵一五九七︶、島津義弘は再度の朝鮮出兵に際して二十二ケ ③ 条を置文して、その最後の条でご向宗之事、先祖以来御禁止之儀ニ候之条、彼宗駄になり候者は曲事たるへき事﹂ として真宗禁止令を発布した。ここに真宗は正式に禁止されたのであった。その後、 しばしば禁止令は発布され、ま た宗門取締りの制度も確立整備され真宗禁止政策は明治九年に至るまで一貫したのであった。 ところで真宗信者の処分の実態が具体的に明らかなのは、寛永十一年︵一六三四︶、日向山之口︵宮崎県北諸県郡﹀の ④ 郷土四人が一向宗の科によってそれぞれ持高没収のうえ、移百性︵所替︶の処分を受けたのを初見とする。その後、 明暦元年︵一六五五︶、宗門取締りのために宗門座が創設されて本格的に信者の摘発が行われ、明暦・万治・寛文初年 ⑤ にかけて、主に郷土層の信者が持高没収・名跡剥奪・移百姓の処分を受けている。﹁一向宗統領﹂といわれ薩摩の初 ⑥ 期真宗の展開に重要な役割を果した宮原真宅が謀殺され、はじめての殉教者がみられるのもこの頃である。ところで、 この時期は﹁明暦
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寛文のころまで外城の分合・新設を完了して家臣団の所替︵所日外城から別の所に移住させる﹀を断 ⑦ 行して在地的・同族的視帯を断ちきり近世的家臣団を編成した﹂といわれる時である。この頃とくに士族の真宗信者 が摘発されて持高没収・名跡剥奪・移百姓の処分が行われているのは薩摩藩の兵農分離政策と無関係ではなかったと ③ おもわれる。その後、江戸時代中期にもしばしば禁教令が発布され、取締りの制度も整備されているが、信者の摘発 ⑨ と弾庄は後期のそれと比べてはるかに軽いものであった。 ところが幕末期の天保六年︵一八三五︶に至ると門徒の取締りが大規模に行われて本尊二千幅・門徒十四万人が摘 ⑮ 発されて弾圧も苛酷を極めた。門徒はその情況を﹁南国諸講々、去未年御法難蜂起仕、国中不 ν漏根葉を枯、厳重の札 明、誠に以前代未聞の振に座候。先男子は宗門塵︵中略︶の庭に木馬を筋り、割木の上に座しめ、膝上に五六拾斤の 石を乗、或は隠門に大縄を挟ませ、双方前後より挽倒し、棒掲いたし、町責に逢ひ候得共、元来堅固の族は不惜身命 護 摩 藩 の 封 建 支 配 と 真 宗 禁 制 政 策覚 悟
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告 政 し 策 て し 、 る 四 そしてこのような弾圧の直接の原因を、本願寺使僧妙光寺等は﹁此節は先例有 ν之候法難とは違候由、元来東目姻 草講井浦生の白和に去春鰍法難の翻、御改革上納帳被ニ奪取一、猶又於コ諸所一御印書類彼方より吟味住候より事起り、 ⑫ 莫大に国財他国へ漏候に付、自然と国中及ニ困窮一と申吟味根跡に相成候由、誠に以苦々敷存申候事﹂と本願寺に報告 している。また門徒も﹁仕置当職家老津所庄左衛門︵調所笑左衛門﹀、国財のけんせん事を嫌、中村新助と申候役人 を同行となし、長々京地に置、御献上の金子高井に人名一・一にしらベ、夫より吟味に相成先年の大変に及候間云吋﹂ といい、天保六年の大弾圧の原因が本願寺の財政改革と薩摩藩の調所広郷による財政改革とが相侠ったことを指摘し ている。幕末期に門徒を弾圧したのは、門徒が本願寺に上納する金品を阻止しようとする経済的理由もあったといえ るであろう。また門徒の信仰組織である議は数ケ村にわたり連絡を有するものであり、それは薩摩藩の支配組織であ る外城制度をおびやかすものであった。それに加えて講の中心人物である講頭は下級士族が多く、そのような講の組 織は兵・農が連帯する可能性が内在しており、兵農分離が不完全であった薩摩藩の村落構造にあっては憂慮すべきも の で あ り 、 とくに支配体制が弛緩してきた幕末期には一層の危機を感じて弾圧したものとおもわれる。また思想史的 には排仏論の興隆も念頭におかなければならないであろう。 このようにして薩摩藩の真宗禁制政策は、 一向一撲の勃発を危倶して禁止され、また兵農分離政策の一翼を担って いたのであった。そして幕末期には経済的理由や、講の組織が支配組織をおびやかすものとして弾圧したのである。 つまるところ真宗禁制政策は門徒の連帯を畏怖して近世封建社会を一貫して断行されたものといえよう。事実、薩摩 門徒は禁制下にもかかわらず講を結成して本願寺と連絡を密にし信仰を保持しつづけようとしたのである。それは瞥 見するとき門徒が強聞な連帯を遂げた形態ともみることが出来よう。しかしながらそのような為政者の危供とは別に真宗禁制政策は封建支配にきわめて有効に機能したのであった。す なわち真宗信仰が非合法であったが放に信者の聞で種々の問題をめぐり互いに猪疑心が生じてくる。 初期においては、慶長十一年三六
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六︶、島津氏の重巨大口外城主新納武蔵守の家臣五十人は三カ条の起請文を提 出しているが、その初条に﹁今度一向宗就ニ御糾明一、互心底不 ν存候。我々事は彼宗に不ユ罷成一候。勿論向後別心有 ⑬ 間敷事﹂とある。ここに﹁互心底不存候﹂とみられるが如く、士族の聞に真宗信仰の有無をめぐって互いに猪疑心が 生じていることを知ることが出来る。真宗信仰有無の糾明は家巨団の分離に有用であったといえよう。 そして前述の如く幕末期に至り弾圧が厳しくなると門徒は互いに懐疑的になってくる。とくに文政年間三八一 八i
︶以降、本願寺使僧が法義引立と本願寺財政改革のための募財を目的として入薩すると、上納金や手次権をめぐ り、本願寺使僧・手次寺・講員の聞に内−証が惹起し連帯は阻害されたのであった。ここで比較的史料が残存している 薩州内場仏飯講の動向を検討してみよう。 薩州内場仏飯講︵以下仏飯講と略す﹀は現在でも本願寺直属の講として活動しており、﹁本願寺講社台帳﹂には次の ように現況が報告されている。 薩州内場仏飯講一番組 所在地日宮崎県小林市直方新田島 設立認可日文政元年七月十九日 法物日御本尊、本如・広如両上人御影、祖師・蓮師連座御影 薩 摩 藩 の 封 建 支 配 と 真 宗 禁 制 政 策 五薩 摩 藩 の 封 建 支 配 と 真 宗 禁 制 政 策 一 」 ノ 、 議員居住範囲い小林市、同直方、同提、西諸県郡高原町、西麓横折、高原町後川内、北諸県郡高崎町大牟田、岡山 田町中霧島 講員数日一六
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人 沿草川天明元年頃仏飯講の講名を賜り、寛政十年一・二・三番組のひとつとなり現在に至る 常例の行事日毎月二十日永代経上納金集め、三月二十七日彼岸会、七月二十三日色干︵虫供養︶、十一月三十日報 恩講︵各寺を巡回参拝する︶ 薩州内場仏飯講二番組 所 在 地 日 宮 崎 県 北 諸 県 郡 三 一 股 村 設立認可日永正十年十月十八日 法物日御真筆六字名号、親驚・蓮如連座像、文如・本如様各御影 議員居住範囲日鹿児島県肝属郡・姶良郡・噸朕郡以上の一部、宮崎県北諸県郡・西諸県郡の一部 議員数日五OO
人 沿革 u 本講は明和三年頃に始まり、寛政五年五月上旬上京し講名を賜り祖師・蓮師の御影を下付される。尚大幅の 名号一幅を下付されたり 常例の行事口正月・報思議・春秋彼岸会を在家で勤める。法物は三年毎に預る。 薩州内場仏飯講三番組 所在地口明瞭郡財部町南俣 設立認可日天明元年五月二十四日法物日本如・文如御影、祖師・蓮師連座御影 御 消 息 日 安 政 七 年 四 月 一 一 一 日 下 付 議員居住範囲一鹿児島肝属郡・姶良郡・幡映郡 講員数日一三
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人 沿革日明和三年より始まり現在に至る 常例の行事日報思議、春秋彼岸会 右の如く仏飯講は講員三四OO
人、その範囲は二県一市五郡にわたり、一二組に分れて宗教活動を行っている。 ⑮ ところで﹃仏教飯講系図﹄はその来歴をおよそ次のように伝えている。すなわち明和一二年︵一七六六︶頃から日向 諸県郡勝岡郷萎池の藤左衛門を中心に信者が結集し、安永二年︵一七七一二﹀に仏飯講を結成した。その後、寛政五年 ︵一七主一一︶には本願寺から親驚・蓮如連座御影、本如筆六字名号を下付された。そして寛政十年には一・二・三番組 に分かれ、各組に二名の惣代がおかれた。文化三年︵一八O
六︶には一番組強代高原邑の四元次郎右衛門が上山し御 裁断御書を受け、同十二年に本如御影を下付された。天保六年三八三五︶は前述の如く、麗摩藩全土にわたり信者 の取締りが断行された時であり、仏飯講もその例外ではなく三人の惣代が次の如き法難にあった。 二番組惣代桑畑熊次郎︵藤岡新馬場︶!都城会所−一被引出、無言訳切復シテ死ス 三番組惣代山崎七左衛門︵財部末吉深川村柳谷︶l
宗門改役中村新尉殿歳計ニ値ヒ一通リ申伸置、終ニ同七年申三月 相果候、御年六十三才病死 三番組惣代徳峯直右衛門︵財部末吉村深川新原︶l
我家ヲ外シ欠落居候得共、同十二年ノ四月被召捕、都城会所−一於 テ致切復相果候 薩 摩 藩 の 封 建 支 配 と 真 宗 禁 制 政 策 七薩 摩 藩 の 封 建 支 配 と 真 宗 禁 制 政 策 /¥ なお、この他にも数名の殉教者がいたようであり、本願寺は嘉永三年三八五
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﹀ 三 月 に 薩州仏飯講同行九人 御 板 形 法 名 右 は 至 て 強 信 の 者 に 候 処 、 一昨夏以来、法難の閥、国法より厳敷拷問有 v之候得共、白状不 v 致 、 終 に 其 節 致 ニ 命 終 一 候段、奇特の至に付、思召を以被 ν下 ν 之 候 ︵ 薩 摩 国 諸 記 ﹀ と 、 ﹁ 御 板 形 法 名 ﹂ を 下 付 し て い る 。 このような信者の取締りは弘化元年ハ一八四四︶に至る九年間断続し﹁仏法も絶々﹂になったが、ようやく嘉永三 年の頃平静をとりもどした。しかし安政四年三八五七︶再び取締りが開始され一番組惣代四元長八・同広木清右衛 門の二人が﹁宗門改役川口市左衛門厳敷歳計ニ付、驚キ無ユ詮方一ト格護相極メ、御真影様身代リト思ヒ、同六年未四 月切復シテ死ス、清右衛門事ハ被 v揚、鹿児島会所へ被引出三年ノ苦ミ﹂との法難にあい、また二番組惣代筆成十右 衛門・原口嘉市も﹁御絵伝様御友シテ我家ヲハズシ、訣肥領辺逃去リ居候得共、同ク五年九月被ニ召捕一、鹿府会所エ 被引出、永ノ苦ミ、十右衛門事ハ相果テ、嘉市事罷帰候﹂との弾圧に遭遇した。またこの時、仏飯講の親驚・蓮如連 座御影、本如筆六字名号等の法物は野尻甘柏山の建札十次郎宅に隠匿したが安政六年に露顕し没収された。このよう な札明は慶応元年︵一八六五﹀まで継続して行われたという。 かくして、仏飯講は再々の摘発を受け、数名の犠牲者を出し、法物等を没収されながらも本願寺と連絡をとり執勘 に組織を維持したのであった。それは真宗信仰を中心とした紐帯の強靭さを示すものとも評価されるであろう。しかしながら外面強固な連帯を逐げたかのように見られる薩摩の諸講にも種々の内註があった。仏飯講の場合も本 願寺の使僧重誓寺︵明勝寺探玄︶の言行をめぐり講内に軌離が生じ、また重誓寺と直純寺︿宮崎市柏田﹀とは仏飯講の 手次権をめぐり対立し、仏飯講は分裂し、直純寺は東派への転派を画策するにいたったのである。その聞の事情は複 雑であるが慎末を概観すれば次の通りである。 嘉永四年三八五一︶、仏飯講惣代久太郎、金助・徳次の三人は上山して本願寺使僧重誓寺の言動を﹁元来、御畑草 講・焼香講・仏飯講等、信明院様御書御染筆被ニ成下一、右三講一和仕、御法義相続仕来申候処、重誓寺依惜の取計 有 v之 講 内 機 辺 損 、 相 互 に 争 、 一 和 不 ν仕、終に法難の基にも可ニ相成−と歎ケ敷奉 v存候問、不 ν得 ν止 事 泰 一 一 申 上 一 候 旨 申居候、然処余国とも違、国政厳密の所に御座候へは、難ニ捨置一御用状を以、早々被召登候ては如何御座候哉、此段 ⑮ 奉伺﹂と言上した。御姻草講・焼香講・仏飯講は互いに緊密な連絡が保たれてきたが重誓寺の﹁依枯﹂によって亀裂 が生じたのである。重誓寺の依悩が如何なるものであったか不明であるが、ともかく重誓寺の言行によって三講は不 和となり、それが原因となって法難の恐れがあるので、重誓寺を召還するように歎願したのである。 一 方 、 重 誓 寺 は ﹁内場仏飯講・内場畑草議、右両講の所講三つ四つに相分、互に相論止時なく、依て和談の取計致呉候様、度々歎願 等差出候、右議内は法談杯致者数多有 v之故、互に嫉妬心狭、夫故の事ニ候へは、御殿へ向如何様に申立事難 ν計 候 へ ⑫ は、為ニ御心得一奉ユ申上一候﹂といい、三議分裂の原因は講員の﹁嫉妬心狭﹂きところにあると本願寺に上申するので あ っ た 。 また仏飯講の手次寺であった直純寺と使僧重誓寺は手次権と本願寺への上納金をめぐって対立した。安政三年︵一 薩 摩 藩 の 封 建 支 配 と 真 宗 禁 制 政 策 九
薩 摩 藩 の 封 建 支 配 と 真 宗 禁 制 政 策
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︵ 箱 脱 力 ﹀ 八五六︶、重誓寺は直純寺の行状を﹁日向直純寺江御下文御附早々差送置候得共、乍 ν致ニ承知一偽御使杯申立、且御皆 ︿ 道 ︶ 済ノ名目ヲ難シ、種々相妨言語同断ノ儀ニ候。寛畢同寺事従来ノ不行状一一付、寺内必至ノ困窮ニテ、内場三講江時々 ⑮ 無心申越、昨冬モ御堂修覆申立、金品川両ッ、無心申越、夫ユ相障候故カト被ニ相考一候﹂と厳しく批判し本願寺に報告 するのであった。これに対して直純寺も重誓寺の素行を 一重誓寺殿御巡在御立ノ節、酒焼酎等過分一一呑、濃ニ丸裸ニ相成、踊リ廻リ候様ノ振舞、毎々有 ν之候 一同寺儀、山ニ入獅子狩被 ν致、終ニ獅子ヲ打留、巡在先へ持被 ν巡候 一同寺事、七昼夜御講座ノ節、狼ニ酒狂不如法成算引杯被エ相催−候 一御殿様用ト申、伽羅査斤、但シ萱斤−一付弐両弐歩位、沈香半斤、但シ萱斤ニ付萱両弐歩位、大黄七斤、但シ査斤ニ 付査両ッ、、右ノ口問買入、内金五両焼呑講ヨリ為ニ差出一、右ハ上納物ニ差引ニ相成候様被 ν申 ν之、右品々当正月九 ⑮ 日 伴 僧 − 一 為 ν持 被 ニ 差 登 − 候 、 実 ニ 御 殿 ノ 御 用 一 一 御 座 候 哉 、 猶 又 右 金 子 五 両 ハ 如 何 被 ユ 成 下 一 候 哉 、 奉 ニ 何 上 一 候 と、内申するのである。両者の争いは憎悪に満ちたものであった。 そして、直純寺と重誓寺の紛擾は仏飯講を二分した。安政三年、仏飯講の荒井直左衛門ら六人は左記の歎願書を本 願 寺 に 提 出 し て い る 。 @ 乍 ν恐 奉 ニ 歎 願 上 一 口 上 覚 一私共儀、従来内場仏飯講々頭ノ人数ニ被ニ仰付一在、日向宮崎直純寺殿取次ニ候処、同寺事先代ト相替リ酒熔博突公 事等邪行計ニテ、朝夕ノ勤行モ無 v之、御影様迄入質被 ν 致、寺門悉及ニ廃壊一候得ハ、立入候門徒無 ν 之、誠以浅間 敷事ニ候。夫故年々無心申来、御本山ヨリ御使僧御差向ノ節ハ、種々故障申立、講内ノ悪者ヲ相カタラヒ御請不ニ 出 来 一 様 被 ν致、同行一同深相歎申事−一候。其上御本山ノ御称号ヲ借リ、偽附箱を講中へ廻シ、或ハ嘉市・源六・長八・新兵衛等悪者ヲカタラヒ、御使僧重誓寺へ無実ノ悪名ヲ及日二マ一口上九入真一房殿ヲ種々被 ν致ニ迷惑二奉 v対 ニ 御 本 山一奉ニ恐入一事候。当春重誓寺殿ヨリ厳敷御掛合ニ相成、始テ御使僧御差入−一相成、同行一同難 v有奉ニ存上↓御手 伝方金五百両大御請成上置候処、御使僧御引取ノ後へ嘉市・源六・新兵衛・長八申合、以ニ廻文一御皆済方決テ御取 持不 ν及工中上一旨触流シ、自身御堂修覆料トシテ金品川両申付、門徒査軒一一付百五十文ッ、出金仕候事−一候。然ニ直純 寺ノ触書、且悪者共種々悪口ニ付、人気両方へ跨リ、御取持不 ν任 ニ 心 底 一 、 右 ノ 駄 − 一 テ ハ 、 以 後 御 用 ノ 御 妨 − 一 相 成 、 且美敷御正意ノ御法義聴聞難ニ出来一候得ハ、後生ノ一大事一一候得ハ、誠以歎敷奉ニ存上一候。右ノ訳合ニ付如法ノ同 行丈申合、当度少々季一献上一候事ニ候。然処嘉市・源六・長八・新兵衛杯中者申合、直純寺卜相計、御講様ヘハ御 拝礼モ不ニ出来一様仕侯得ハ、同意ノ同行丈申合、仏飯講ヲ引分、南方仏飯講ト仕、直純寺ノ取次ヲ離レ、御本山へ 直上納仕度、且御新借御手伝ノ儀モ五百両ハ右ノ者共へ任置、私共ハ別ニ百両丈御講仏様無−一御座﹂テハ、同行中モ 相歎可 ν申候問、御本尊様四百代、御開山様御影四百代、信明院様御影四百代、当度以ニ思召一御差向奉一願上一候。 尤明春ハ御献上ノ節、右三尊様御冥加ハ御定式通急度上納可 v仕候。御時節柄奉ニ恐入−仕合−一候得共、国柄ノ事ニ 候得ハ、格別ノ以ニ御慈悲一願ノ通被ニ仰付一被 ν下候ハ、難 v有之奉 v存候。以上 六 月 廿 六 日 仏飯講 荒井直左衛門 土 日 蔵 助四郎 鉄袈裟 荒井伝五左衛門 薩摩藩の封建支配と真宗禁制政策
薩摩藩の封建支配と真宗禁制政策 新 蔵 島田様御役所 こうして、仏飯講は直純寺を支持する嘉市グループと、直純寺の手次を拒否する荒井直左衛門のグループに分れ、 荒井直左衛門の反直純寺派は南方仏飯講を別立し、 ついに仏飯講は二分されたのである。そして、隣講の焼香講︵義 助・重助︶、歓喜講︵盛右衛門・新助︶・御畑草講︵新八︶らも連名して、本願寺に﹁仏飯講ヨリ言上ノ次第相異無 ν 之、願ノ通出格ノ思召ヲ以、御免被ニ成下一候ハ、、同講ハ勿論、隣講ノ私共、爾今迷惑ノ筋モ多ク有 ν之候処、美敷 ⑧ 御法義相続出来可申侯通、御聞済ノ通奉二願上一候﹂と、南方仏飯講の別立を認可するように歎願しており、仏飯講の 註争は隣接の講にも影響を及ぼしたのであった。 @ ちなみに内場焼香講においても深刻な内証があった。その経緯は次のようなものであった。 此度ノ始末内場焼香講・内場畑草講・内場仏飯講右三講ハ直純寺先々代ヨリ帰依ノ上、御殿向万事取次代上納ノ内、 半丈乎或三乎一乎同寺へ寺納仕来、其外正月・盆・両度彼岸・報恩講杯度、寺納多分ノ事ニ御座候。然処七・八ケ 年前焼香講ヨリ献上上京ノ節、講頭津右衛門其瑚ハ忠朗ト申者居候。同寺ニテ凡三百両計金子逢ニ盗難一、其筋不正 ニ付、津右衛門ヲ講内ヨリ追出候。然ニ五十寺計ノ内五寺丈津右衛門ニ組シ、別ニ相成在、然処出役度当時議頭ヲ ︵ 都 ︶ 退テ如 v本自分講頭取立呉様願出候得共、只今迄同人議頭中御取持薄、且出役ヲ相コパミ不津合ノ人故不ニ取上九 依 ν之 以 ν計御議仏井講中ノ宝物悉奪取、議中ヲ横領可 ν仕 企 候 故 、 講 内 大 − 一 混 雑 イ タ シ 、 昨 年 一 一 一 月 頃 致 ニ 上 京 一 以 ニ 書 付一当時議頭井出役ノ拙寺迄ノ事様々ニ御殿へ申立候得共御取上無 ν之、依 ν之東本山へ出入願立候得共、東派ニハ 不二取合一由、昨年惣代上京焼香講儀助ヨリ承リ偽 嘉永二・三年の頃、焼香講講頭津右衛門が上納金三百余両を直純寺で盗難にあい、その嫌疑が直純寺と津右衛門に
かかり、津右衛門は講を追放されたのである。その時、宮崎近在の本願寺末寺約五十寺のうち五ケ寺が津右衛門に組 し対立した。津右衛門は再び講頭に復帰すべく画策したが拒絶された。そこで淳右衛門が講の法宝物を奪い取り、議 の横領を謀計したので講中は混乱した。さらに津右衛門は安政三年︵一八五六﹀コ一月頃、上山して当時の出役寺や講 頭の悪口を陳述したが無視された。この期に及び真純寺と津右衛門は東派への転派を企てたが、東本願寺はこれを受 けつけなかったというのである。そしてこの内一証で犠牲者がでた。 昨 春 津 右 衛 門 江 被 ニ 奪 取 一 候 御 宝 物 為 ν願、喜左衛門始十萱入金子彼是三百両相調上京仕候処、筑前松崎ニテ両人被 ν 捕、壷人ハ切復、其内壷人ハ直ノ口御本山逃込居候事御座候。全直純寺、津右衛門申合、嘉左衛門同行ノ内向方ノ 者入ヲ置、役人共ト馴合、金子ヲ始書類前以取受置、後捕方仕候趣、国境小野番所ノ者共ヨリ内々申来候。猶追々 @ 上京講中ヨリ右ノ次第申出候 法宝物の一丹下付を受けるために上山を企てた焼香講の講員二人が筑前松崎において捕縛され、 一 人 が 切 復 し た の で あった。そしてこの事件の背後には直純寺と津右衛門の謀計があったというのである。ことここにいたってはまさに 闘静堅固の社会であったというべきであろう。
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に
かくして、薩摩の門徒は厳しい弾圧のもとに多くの犠牲者をだしながらも講を結成して、本願寺と連絡を密にして 信仰を保持しつづけたのであった。それは政治権力に対するひとつの抵抗ともいえよう。そして薩摩藩の真宗禁制政 策は徒労の政策であったともみられるであろう。 しかしながら、上述の如く講の内実をみるとき、講頭の職をめぐり争い、あるいは本願寺使僧と隣国末寺とは手次 護 摩 藩 の 封 建 支 配 と 真 家 禁 制 政 策薩 摩 藩 の 封 建 支 配 と 真 宗 禁 制 政 策 四 権をめぐり陰険な一証争がくりかえされたのであった。換言すれば、彼らは目前の利害を追い闘争し、このような陰湿 な社会を生み出す原因となった真宗禁制政策に批判の目を向けることはなかったのである。こうして一見徒労の政策 であったとおもわれる真宗禁制政策は、その効果が為政者の意識にあったかどうかはベっとして結果的に門徒の連帯 を阻止していたのであった。 それは外城制度・門割制度にも同様なことが指摘出来よう。 外城制度は、諸藩にくらべて異常に多い士族人口を擁した︵たとえば明治初年、薩摩の士族は全人口の二六・三八 ⑧
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をしめている。これに対して全国的には士族は五・七M m
である︶薩摩藩が士族を鹿児島城下に集中して居住させる ことなく各郷︵外城︶に配置し、給地を自作させ、各外城主の下に掌握した屯田制的行政組織である。外城の数は時 ⑧ 代により若干異なるが延享元年︵一七四四︶には百十三の外城があった。そして各外城には地頭館︵仮屋︶があり、 これを中心として麓とよばれる郷土の居住地があった。また下級土族は在︵村︶に百姓と共に生活し村方郷土とよば れた。このようにして薩摩藩の村落構造は士族と百姓・町人・漁民が各郷で生活の場を共にするといった特異なもの であった。このような村の形態は瞥見すれば下級士族と百姓が授を一にした抵抗が惹起する恐れがあるとも考えられ ト ﹂ 町 九 ノ 。 しかしそのような連帯は身分の差別意識から遂げられることはなく、逆に郷土と百姓とは牽制しあい封建体制 を補完したものと考えられよう。 ほ う ぎ り 門割制度は一村を数方限︵組又は部落にあたる︶に分け、方限をまたいくつかの門という百姓のグループに分け、 百姓の作職地を門単位で班給し、門の連帯責任によって貢組するという土地制度である。一門は普通四、五家部︵戸︶ で構成され、作高は二O
石から四O
石であった。門地は各門の用夫︵十五才 J 六十才の壮丁︶と家族数に応じて配分 し、また原則として検地の際に交換されることになっていた。そして門割すなわち各門の名子に作職地の配分を行うの 一 のは門の代表者である名顕であった。それは一見、門の自主性を認めた制度ともおもわれる。 しかし、ここに作験地 の配分権をもっ名頭と名子の聞に不信感が生じるのである。そこで、 た と え ば 享 保 ︵ 一 七 二 ハ
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﹀の内検中には 依 v所名頭計円高請取、名子之者江は一向作職地不相渡所茂有 v之、此節之儀は用夫姐リニ作高銘々被ニ仰付一候、名 頭之儀者依 ν所手隙を費之儀有 ν之候付、名子2
は用夫士宮人前之当高五部一程度相重配分高被ニ仰付一候、名頭重作職 ⑧ 望無 ν之所は平等三角割を以相渡候、用夫迦幼少老人ニ茂名頭筋ニ而候は諸名頭並可ユ申付一候 と達している。従来は名頭ばかり門高を受けとり、名子に作職地を渡さないところもあるので、用夫の人数に応じ て作職地を配分すること、名頭は場所によっては手隙がかかるので名子一人分の配当高の五分の一を多く受けとるこ とを認めるーとして、名頭の円高の独占を禁止するとともに、その職種︵役得︶を再確認しているのである。このよ うな布達がなされたのは名頭と名子の聞に乾聴があったがためであろう。 また耕作地の配分にあっては土地の品質をめぐって名子相互間にも不満が生じたであろうことは相像に難くない。 むしろ耕作地の配分が上意下達であれば名子も納得せざるおえない。あるいはそれが不満であれば不満は上意に向け ら れ る の で あ る 。 しかし、直接、耕作地の配分に当るのが、同じ耕作者仲間である名頭であったが放に、不満は上意 に向けられることなく、門内部の問題にすりかえられて不信感に満ちた共同体が成立したのであった。 こうして、薩摩藩独自の制度である真宗禁制・外城制度・門割制度は民衆に精疑心をうえつけ、疑心暗鬼の社会を 醸成し、近世薩摩藩の封建支配体制をより強固なものとし、その維持に有効に機能したのであった。 ② ① 註 ﹃ 日 新 菩 薩 記 ﹄ ︵ ﹃ 島 津 氏 史 料 集 ﹄ 第 二 期 戦 国 史 料 叢 書 6 ︶ ﹃ 島 津 国 史 ﹄ 、 ﹃ 一 向 宗 御 禁 制 由 来 ﹄ ︵ 鹿 児 島 県 史 料 集 W ︶ ④ ③ ﹃ 島 津 家 文 書 ﹄ ︵ ﹃ 大 日 本 古 文 書 ﹄ 家 わ け 第 十 六 ﹀ 日 州 山 之 口 地 頭 所 旧 記 肥 泣 計 ︵ 小 野 寺 鉄 之 助 ﹃ 近 世 御 仕 置 集 成 ﹄ ︶ 薩 摩 藩 の 封 建 支 配 と 真 宗 禁 制 政 策 一 五薩摩藩の封建支配と真宗禁制政策 ﹃ 一 向 宗 御 禁 制 由 来 ﹄ ﹁ 薩 藩 例 規 雑 集 ﹂ ︵ 宮 崎 円 遵 ﹁ カ ヤ カ ベ 教 の 系 譜 ﹂ 、 ﹃ カ ヤ カ ベ ー か く れ 念 仏 | ﹄ 所 収 ︶ 原 口 虎 雄 ﹃ 鹿 児 島 県 の 歴 史 ﹄ 初期真宗禁制政策については、拙稿﹁薩摩藩の初期真宗 禁 制 政 策 ﹂ ︵ ﹃ 仏 教 の 歴 史 と 文 化 ﹄ 所 収 ﹀ で 詳 述 し た が 、 こ こ で は 文 脈 上 再 び 略 述 し た 。 福間光超﹁禁教下の薩摩門徒﹂︵﹃カヤカベーかくれ念 仏
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⑩、⑪、⑫、⑬﹃薩摩閏諸記﹄︵﹃日本庶民生活史料集成﹄ 第 十 八 巻 ︶ ﹃ 一 向 宗 御 禁 制 由 来 ﹄ ﹃ 近 世 御 仕 置 集 成 ﹄ 。 な お 仏 飯 講 の 組 織 に つ い て は 千 葉 乗 降﹁真宗の道場と道場主|とくに薩摩地方の講道場につ い て ! ﹂ ︵ ﹃ 寵 谷 大 学 論 集 ﹄ 第 三 九 一 号 ︶ に お い て 論 究 さ ⑥ ⑤ ③ ⑦ ⑨ ⑮ ⑭ 一 六 れ て い る 。 ⑬、⑫﹃薩摩国諸記﹄ ⑬ 、 ⑬ 、 ⑧ 、 @ ﹁ 安 政 コ 一 丙 辰 年 窺 書 控 ﹂ ︵ ﹃ 日 本 庶 民 生 活 史 料 集 成 ﹄ 第 十 八 巻 ︶ ⑫日向大隅内場焼呑講も現在本願寺直属の講として活動し ている大講であり、本願寺の﹁鹿児島地区講社台帳﹂に は、講員居住範囲宮崎県︵日向市・小林市・飯野町・加 久藤町︶、鹿児島県︵大隅町・栗野町・加治木町・姶良 町 ﹀ 、 講 員 数 五 五OO
人 と あ る 。 ⑧⑫﹁安政三丙辰年窺書控﹂ ⑧原口虎雄﹃鹿児島県の歴史﹄ ⑧﹁薩藩政要録﹂ ③原口虎雄﹃鹿児島県の歴史﹄ ⑮﹁享保支配全書﹂﹁正信念仏偏﹄の研究
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己能難破元明閣に関して
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浜
田
耕
生
︵ 同 朋 大 学 ︶﹁
己
能
﹂
の句に関する懸念
第一にこの一句は﹁すでに能く無明の閣を破すと雄ども﹂と訓読されていて、﹁難己能破無明闇﹂という文章の訓 読と同様によまれる。﹁難﹂の位置が問題視されしばしば論議され、﹃説約﹄﹃帯保記﹄などには臥雲老人なる人の﹃蓮 ① 窓塵壷﹄という古人の書の用法をのベて転位していても誤ではないと会通している。今日はそれが確認されず、また それが確認されても極めて稀な例となろう、単にそうした用例が認められるというにすぎないであろう。そうした特 殊用例としてみるのでなく一般的な用法として理解することはできないであろうか。﹃偽﹄の訓読において奇異に思 われるものに﹁警如日光覆雲霧﹂、﹁諸有衆生皆並日化﹂がある。前者の場合は﹁覆はるれども﹂と宗祖自身の訓が施さ れていて容認せざるを得ない。後者の場合は﹁諸有衆生皆な普く化す﹂であって句面の如く理解すれば﹁諸有衆生﹂ ② は主語であり﹁化す﹂は﹁化転する﹂であって﹁楽邦に帰す﹂の言に対応する。このような合理性が﹁己能難破克明 闇﹂に見出されないであろうか。 ﹃ 正 信 念 俳 偏 ﹄ の 研 究 七﹃ 正 信 念 傍 傷 ﹄ の 研 究 入 このように伺っていくと、第二に﹁己能﹂と表現されてくるものは何かということがあげられる。﹁能﹂は先に ③ ﹁能発一念喜愛心﹂とあり、その﹁能﹂について﹃愚禿抄﹄の﹁対不堪也﹂の解釈を引用して、欠け目なく、すっか り丁載する、という意に解することができるとする。若しそれと同じ﹁能﹂であるとすれば﹁能発一念喜愛心﹂を承 ④ けているとも考えられる。これに対して、﹁摂取心光常照護﹂につづく句であるところをみて、摂取の光明におさめ ⑤ とられるときに元明の闘がはれることとなるので然前の句を承けているとみているものもある。この二つの見解があ る。いずれが合理性にとむかを見定める必要があろう。 第三一に﹁難﹂であらわされる意味がとりあげられる。﹁すでによく無明の閣を破すと難ども﹂とは、無明の閣を破 すという既存の条件を出し、そうであっても破し切られずに貧愛膿憎の雲霧がある、このことを表現するのである。 すなわち、摂取の心光常に照護したもう、それによっても貧膿があるということで、通常の考えではないであろう。 更にその雲霧が真実信心の天を常におおうと続けられている。その信心はどうしてここに出されねばならないか、そ の環境は見出し得ない。無明を破す、破し切れないでのこる、というだけでは信心はいいえない。 しかしながら宗祖 には信心をいうべき環境が設けられであった筈である。それは一体何であろうか解明されねばならぬところである。 第四にあげたいことは、﹁警如日光一五々﹂の讐説が何をたとえているかということである。日光が何を意味するか も問われるが、警説全体がはっきりすれば解決するところである。陸直説の意志は﹁明らかにして闇きなし﹂を主張す るにあるといえよう。﹁明らか﹂は無明の闇に光がさしこんだところ、そこには﹁くらさはない﹂ということである。 ﹁無闇﹂は﹁闇﹂という実体の存在を否定するのではない。訓からいえることで﹁闘い思い﹂の否定である。そうした ありょうは爾前の文としてはどこにあるであろうか。常に照護するところにあるともいえるのであるが、﹁闇い思い﹂ は聞かった状態においであるのであって、それが破られ安らぎを見出したときにいえる。これは何を警によって表現
されたのであろうか。﹁警如﹂といわれる前にある筈である。 かくの如くあげてみると、﹁己能﹂の一旬の意味すると ころを厳密にするにはかなりの句とのかかわりを検討し、語のもつ意味を再吟味する必要があるのである。
﹁
己
能
﹂
の意義を求む
一﹁日﹂の語義及び宗祖の用例 ⑥ 宗祖は﹁すでに﹂には﹁己に﹂と﹁既に﹂とを使用されるが﹁己に﹂の方が多い。この﹁己﹂は﹁この上に言いた ⑦ る趣にて、その事の誼義にかかる筋はもはや跡へのこらず蒋の明きたる事にせんとて置く字﹂ともいわれる。この場 オ ハ ル 合はつ・・己﹂の意味であって、句のはじまりに使用される﹁己﹂の場合﹁既に﹂がたくる義であるのに対し﹁詑 ⑧ ⑨ 也﹂といわれる。これは﹁ある所までいきついて止まる﹂と解されるが、つまって屈曲しながら出てくるさまを描い ⑩ ているとされ、﹁按ずるに己は尽きて又始まるの義なり﹂といわれる。円乗院は﹁おわるとおわらざるとの聞におく ⑬ 字ときこえる﹂と諒解して釈しておられる。 このような﹁巳﹂の義は宗祖の用法に妥当であろうか。使用例をみることとしよう。﹃信巻﹄に次の用例がある。 イ フ ト ハ ス ル ガ ノ ヲ 一 一 シ ト シ テ ユ ク ヲ シ ト ジ テ マ タ ベ キ ル ニ ク 言 ν断者発ニ起往相一心日故、元ニ生而当 v受 ν生、元ニ趣而更応 v到趣↓己六趣・四生因亡果滅、故即頓断ニ絶三有 ベ キ 生死↓故日 ν断 也 ︿ 聖 全 二 、 七 四 頁 ︶ これをみれば﹁己﹂の前段で断の義がのべられているのであるが、後段でその理由を詳しくし、断の義を確かにし ている。断について前段でっきているわけであるが、﹁己﹂を使ってまた始めて詳しくしているのである。 ﹁ 如 来 本 願 己 発 ニ 至 心 信 楽 欲 生 誓 一 何 以 故 論 主 言 一 一 一 心 也 ﹂ ︵ 信 巻 、 同 五 九 頁 初 ︶ も 、 本 願 の 中 に 三 つ の 誓 も ふ く ま れ る の こ の 他 、 であるがこの三心をいうことにより本願の浬襲の真因なることを具体化するのである。このように実例をみると字義 ﹃ 正 信 念 仰 偽 ﹄ の 研 究 九﹃ 正 信 念 傍 偽 ﹄ の 研 究 二
O
をそこなうこともなく使われていることが知られるのである。こうした使い方は﹃大経﹄にしばしばみられるのであ るが、宗祖が﹃論証﹄を﹃証巻﹄にひくところをみると特色が知られる。﹃証巻﹄の訓と﹃論註﹄の訓とを比較して み る と 是故先観 ν 座。既知 v 座、己宣 v 知 ニ 座 主 刊 是 故 次 観 ヨ 仏 荘 ニ 厳 身 業 刊 ︵ 聖 全 二 、 是故先観 v座。既知 v座己宜 ν知 ユ 座 主 刊 是 故 観 ニ 仏 荘 厳 身 業 一 ︵ 聖 全 一 、 三 三 四 頁 ︶ ﹃ 論 註 ﹄ 一O
九 頁 ︶ ﹃ 証 巻 ﹄ この両者をみると、後者の場合は座を知ることが座の主を知ることの前提でしかないものが、前者においては、座 を知ること自体に座主を知ることが内にあらわれていることを表現しているのである。すなわち前段の内景をあらた めて表現する役割を果たすこととなっているのである。 経典あるいは宗祖の用例には以上の使い方とは多少異なるものがある。 。法蔵菩薩今己成仏現在コ西方一︵大経、聖全一、一五頁一二行︶ 。 汝 従 ニ 無 数 劫 一 来 修 一 一 菩 薩 行 一 欲 v 度二衆生一其己久遠。従 ν汝得 v道 至 − 一 子 泥 恒 一 不 ν可 − 一 称 数 一 ︵ 同 、 同 三 四 頁m
行 ﹀ 0 . 而 彼 衆 生 未 v 尽成仏菩薩巳自成仏云々︵論註、同三四O
頁 三 行 ︶ などがそれであって、これらは﹁己﹂ ノ ユ ジ テ タ リ コ ト ヲ シ テ ユ タ リ ヲ ト ヲ 域師釈難 ν遇今得 ν遇、難 v聞己得 ν聞 ﹂ ︵ 聖 全 二 、 の後段は前段の内容を承けつくしたことをあらわしている。宗祖は ﹁ 東 夏 目 二貝十行︶とのべておられる、その﹁己﹂はこの意を物語っている。 これらは先の内景をあらわすものの変形であると考えられて、ある状態の成り立ってきていることを意識しての用法 ⑫ であるといえよう。その場合、﹁今一一﹂がつけられたりして﹁もはや﹂の義に解されるのである。 司﹁巴能﹂をみる二つの立場 前項において﹁巳﹂以下は先行の概念をうけてその内景をあらわしたり、なかには全体をうけたことを示していると考えたのである。こうした一般的にいえることを参照して﹁己能﹂以下の句を検討したい。特に﹁己に能く一五々﹂ とは先にどうした概念があって、それか︸どううけとめているか、こうした点に注目したいのである。 回﹁すでによく無明の闘を破すといえども一五々﹂と一般的に訓ぜられていることをまず考えてみよう。この場合﹁す でに﹂は﹁よく無明の閣を破す﹂に関係するのみである。所謂法の徳を一不すのである。 い か な る 法 徳 か に つ い て は 、 先の﹁能発一念喜愛心﹂であるとするもの Q 会 抄 句 義 ﹄ 、 ﹃ 帯 保 記 ﹄ ﹀ 、 ﹁ 不 断 煩 悩 得 担 繋 ﹂ で あ る と す る も の ︵ ﹃ 怠 記 ﹄ 、 ﹃ 略 述 ﹄ 、 ﹃ 丙 午 記 ﹄ 他 ︶ 、 ﹁ 摂 取 心 光 常 照 護 ﹂ で あ る と す る も の ︵ ﹃ 顕 通 記 ﹄ ﹃ 講 義 説 約 ﹄ 香 月 院 ﹃ 講 義 ﹄ 開 悟 院 ﹃ 乙 未 記 ﹄ ︶ の 三 様 になるが、科のたて方からいえば﹁摂取心光常照護﹂が有力である。仏力住持を強調することが目立つのである。し ⑬ かしながら﹁破﹂して﹁難ども﹂が使われていて奪われていく。破しつくされず貧臓が遺るのである。遺った貧眠は 常照護に眼をつぶるのである。真実信心を常に覆う状態となるのである。これは法に対して機のありょうを強調する こととなり﹁常照護﹂に対して﹁常覆﹂を出す結果となっているといえる。すなわち法の深信の内容を先にし、機の 深信を知らしめることとなりかねないのである。先輩の釈にはこのような見解は見出し得ぬところ、存覚師は﹃論 ⑬ 註﹄の盲者不見の替を引いているが大悲無倦の摂護をあらわすのである。﹁常照護﹂に対する﹁常覆云々﹂を出され たとするならば、﹁己能﹂以下の二句は法の尊とさを対象にして機の罪悪深重性を知らすつなぎの句ということにな ろう。こうすることによって﹁常覆真実信心天﹂と示して、回向の信心を拒否しつづける機のすがたと顕はすのであ る。さて、法と機を確認したのにつづく﹁警如日光云々﹂は何を意味するであろうか。先輩もここはただ警説のみに ⑮ して法説はないと指摘しているが、そこから法説を引出してみると、﹁雲霧におおわるれども﹂とあるは前の﹁常覆 云々﹂をうけての言葉にして覆はるるは直実信心、これは仏力住持の光照であって日光にたとえる、この信心は機の 煩悩を往生にとっての障りとはせず明るくかがやくというのである。こういうのをふりかえるに、二種の深信あれば ﹃ 正 信 念 併 偽 ﹄ の 研 究
﹃ 正 信 念 併 偽 ﹄ の 研 究 往生疑いなしというが如く、 しかも起承転合のバタ l ンによっていて十分注目されるところである。 しかしながらそれはこの六句を単独に考察したときの見方であって、前後を配慮するときどうなるであろう。まず ﹁摂取心光常照護﹂はどうして説き出されたかが問われる。この句は念仏衆生摂取不捨といわれる如く、二尊の勅命 にしたがうときの真実の利のすがたをいうのであって、﹁能発一念喜愛心﹂からの一連の句の結句である。宗祖は教 えを明かしつつ必ずわが身の往生にとっていかなる意味があるかを聞いつづけておられ、それを最後に明かされるの である。依経分は勿論、依釈分においても然りにして、自信をもって﹁唯可信斯高僧説﹂と仰せられるのである。か ような全体的な構成からながめていくと﹁雲霧之下明無闇﹂は更に次の句において結ぼれると見られるのである。次 に、先輩の多くは﹁能発一念﹂以下の句について、諸種の益をあげられたと解するのであるが、何ら順序性が見られ ない。﹃六要紗﹄、﹃正信偏大意﹄の考え方は基本的に信心をあきらかにされたという見方に立っているのである。 以上、二つのことを考慮していくとき、﹁己能﹂を﹁摂取心光云々﹂を承けたものと考え、﹁摂取﹂以上六句を一科 としてみることは、摂取の心光が無明を破するとすること自体疑問であって、﹁巴能﹂をみなおすと共に﹁己能﹂以 下のまとまりを検討すべきである。 団われわれは次に﹁己能﹂を﹃偏﹄の如く﹁雄﹂の外にして考えることとする。﹁雄﹂でゆるされたり奪われたりし ないところに﹁己能﹂を考えるのである。この場合考えておくべきは﹁能﹂がいかなる義であるかということである。 ﹁能﹂は力を出してはたらくことを一示すムを中心にした字であってねばり強くたえてはたらくを義する、そこで﹁己 能﹂は﹁すでに力を発揮している﹂を内容とすると考えられ、 いかなる力を発揮したかは具体的には次にゆずるので あ る が 、 ﹁ 難 ν聞己得 ν聞﹂︵総序﹀の用法と同様前段の用がはたらいているとせられるのである。先に考察した如く ﹁己﹂は前段をうけてその内景をあらわしていることを示すのであるから、﹁巳能﹂のあとの語から具体的な力用を求
め る こ と が で き よ う 。 ﹁己能﹂の直後には﹁雄彼無明閤﹂といわれている。この﹁破無明間﹂については先輩も苦心し、その無明とは何 か、何によって破なる状態がもたらされるかと論ぜられたところである。 しかし、単に一言葉・文の解釈だけでは容易 に論述の筋道は見出し得ない。依釈分をみれば各祖師の実践行蹟を官頭にたたえ、そこに見出される浄土の念仏的意 義を解明していかれる。勿論それは各祖師が顕わされたところの念仏義であって、依経分の最後に﹁難信﹂とされた ところをそれによって導びかれたとされるものである。 かように体験と教義とをきわめてたくみに結び合わせて正信 念仏の教法を説きたたえているのが﹃偽﹄であって、依経分にもいいうるところである。特に依経分では宗祖が法然 のもとにいたって師から弥陀の本願の念仏の義、それは善導によって開顕せられた念仏する仏法を法然の眼によって 選択された教法である、それを讃仰し信楽受持せんとせられるところの文である。しかれば仏道体験が、或いは念仏 環境が組み込まれているとみなければならない。単なる言葉、教義の展開だけでは解明し得ぬものを含んでいる。 般に詩や歌などの類がある環境雰囲気における感情を言葉に托すのと同類である。 宗祖は法然によって浄土の法門に入った。それまでは法然の存在に耳をかさずにいた。道悼が玄中寺に参って曇驚 の帰浄を知るまでと同様である。それが法然にあうことにより弥陀の誓願に目覚めることとなった。その機微をいい ⑬ つくしているのが龍樹章ではないであろうか。弥陀仏の本願を憶念するところに今まで有無の邪見を破すべく努めた ことを問うこととなったのである。先輩は無明が破せられるのは信楽があらわれ信心決定することと解し、つづいて ⑫ 煩悩の用が説かれることとの調整に苦慮された。﹃会紗句義﹄は﹁信解を発した﹂ところとし、﹃講義説約﹄では﹁摂 ⑬ 取照護の初位﹂﹁報心いまだ転ぜざるところ﹂などと会通する。これによれば信の一念においての不断煩悩得浬繋と いう直前の義があやしいものとなってくる。われ/\は宗祖の意識の中から求めてみたい。﹃偽﹄には﹁得浬襲﹂﹁成 ﹃ 正 信 念 傍 僑 ﹄ の 研 究
﹃ 正 信 念 併 偏 ﹄ の 研 究 四 等覚証大浬襲﹂をはじめ、﹁得至蓮華蔵世界即証真如法性身﹂﹁証知生死即浬襲﹂﹁証妙果﹂﹁即証法性之常楽﹂など、 語そのものからは直ちに仏教共通の証を示す表現が目につく。これらは聖道門にあればすべての行者が目標とし、そ の達成の条件として無明を破することが必須である。宗祖自身もそれのための修行があった。にもかかわらず法然に あって弥陀の悲願を聞くことによって、無明を破することの意義を聞いなおさざるを得なくなった。そこに﹁難破無 明闇﹂といわれてくる理由があると考えられる。信心発したから無明が破られたとか、弥陀の常照護によって無明を 破することがあらわれたということではない。むしろ破無明を否定的に見て、聖道的仏教を看破することとなるので ある。ここに一つの﹁己能﹂があると見ることが出来よう。 次に﹁貧愛眠憎之雲霧 常覆真実信心天﹂を考える。 いうまでもなく、前句にあるように無明を破することを見直 すことによっての発言であるが、どうしてこのような結論を出してこられたかを推察するに、宗祖が法然の下で弥陀 の本願を憶念するようになった頃をふりかえると、﹃化巻﹄末の記述などに見られる宗外からの弾圧或いは法然門下 中の議論等からいえる如く、そこには凡聖逆誘斉回入の道をさえぎるものがあり、貧眠の惑が渦まくものと眼に映っ たことであろう。何ら破無明の仏教本来の道は見当らないのであって、あるものは貧臓の煩悩であった。 この煩悩を雲霧にたとえられた意味は何であったであろう。この雲霧の轍は宗祖独自のものと評価されるところで ⑩ ある。さりながら拠りどころがあったのではないかと考えられる。﹃本朝文粋﹄第十二巻﹁西方極楽讃﹂︵後中毒王﹀に ズ ル ヲ ハ キ ヲ ズ ル ヲ ハ ヲ ル ユ ド モ ト 侭 ス ジ リ モ ノ タ ヲ ⑫ ︵略︶六八弘誓変成地。観 v之 者 皆 除 コ 塵 労 一 念 ν之 者 悉 至 ユ 覚 位 叩 難 ニ 十 悪 一 令 猶 引 摂 甚 ν於 z疾 風 排 ユ 雲 霧 一 ︵ 略 ﹀ 。 とあるのをみる。平安期の文章の典範でありこれが唱導家の引用するところとなったといわれ、宗祖は当時臨一の唱 導師聖覚を先輩として尊敬していたことを思うとき、耳の端にとどめていたかも知れぬ。特に﹃無量寿経﹄をよりど ころとしての﹁西方極楽讃﹂であることは注意させられるのである。ここでは十悪が弥陀の誓願にいとも簡単に引摂
ひ ら されていくのをたとえて雲霧を排くというのであって、雲霧は頑間に居坐わるものではなく、 たやすく押しのけられ る、誓願の前にあってはあってもなきが如き存在であることをいうのである。宗祖の﹁煩悩﹂には﹃正像末和讃﹄な どに出ているところの悲嘆述懐の対象となる﹁煩悩﹂と、﹃末灯紗﹄二条、﹃高僧和讃﹄に説かれるところの誓願には 問題とならぬ﹁煩悩﹂とが考えられる。前者は﹁暴風蹴雨にことならず﹂とも、﹁煩悩のこおり﹂ともいわれて、煩 悩の悪性を強調するところである。これに対し後者は往生には邪魔にはならぬところ、薄手のカーテンの如く容易に 披らかれるところをいう。雲霧は後者であって、﹃歎兵紗﹄九条に﹁よろこぶべきことをおさえてよろこばせざるは 煩悩の所為なり﹂とあるがそれで、﹁いそぎ浄土へもまひりたくさふらはんには煩悩のなきゃらんとあやしくさふら ひなまし﹂ハ同︶とある如くになるところを指すのである。しかれば既に同様の鳴が存在することとなるのである。 この煩悩を雲霧に喰えることは誓願の功用不思議を知ることにおいていいうることであって﹁己能﹂の思いの中にあ ら わ さ れ た こ と で あ る 。 次の﹁常覆真実信心天﹂はその雲霧にたとえられる煩悩の所為を明かすのであるが、 かえって悲願をみつめさせる こととなっている。﹁覆﹂はかざさってふせる、 おおうであって、﹁蓋う﹂がふたをするようにするのとは異なる。 そこで﹁天におおう﹂とされ、真実の信心の輝きを認めて
i
これ﹁巴能﹂といわれた理由である。それの輝きをさ えぎろうとすることを指す。それは日蝕の太陽を見ょうとするに黒いガラスで光をさえぎって見る如き貌である。こ れは宗祖が意をつくして用いられる﹁顕﹂l
ア ラ ハ スl
とは逆の作用を意味するのである。 かような﹁覆う﹂の内容については直接的には﹃偽﹄の上ではふれられてはいない。覆うことは依経分の最後に指 摘された難信に通ずる、その難信を信へ導びいたのは三国の祖師であった。就中、﹁顕﹂を使って師教をのべるとこ ろには偽主が誓願の光を見出すこととなった点が示されていると見られるのであって、ここから逆観すれば覆うてい ﹃ 正 信 念 併 偏 ﹄ の 研 究 二 五﹃ 正 信 念 併 偽 ﹄ の 研 究 一 一 六 ⑫ たことであるといえよう。﹁顕﹂が使われているのは竜樹章・天親章・曇驚章である。竜樹章では﹁顕示﹂である、 有無の見を破すことにおいて易行の信方便の世界がクローズアップされ、弥陀仏の本願を憶念せざるを得ぬのである。 有無の見を破すことにのみ止まるは覆うの第一の失である。天親章では﹁依修多羅顕真実﹂。何が真実かを知らざる もののため大誓願を光闇して真実の仏法のすがたをあらわされたのである。仏法について虚仮真実を知り得ぬのが第 二の失である。曇驚章では﹁報土因果顕誓願﹂。覆われている時、誓願に凡夫の滅度が成就しているのを知らず、他 力に目覚め得ぬのである。これ第三の失である。要するに、自力の用のはたらかざる世界に展開する他力の功能にふ れえぬのであって、そこに﹁覆う﹂がいわれていると考えられるのである。 次いで﹁陸自如日光覆雲霧、雲霧之下明無闇﹂を考えよう。第一旬のみなら﹁常覆真実信心天﹂を警で示したことに なろう。しかし、﹁雲霧に覆はるれども﹂と訓がつけられていて覆われていることが問題とならないことを意味し、 その結果、﹁雲霧之下明無闇﹂といわれてくることとなり、二句によって何かを警えることとなっているのである。 直前の文章とは真接的なつながりはないとすればこの﹁誓へば﹂と出てくる事情を考慮すべきであろう。思うに宗 祖は師法然の下の状態をふりかえっておられる。その中で師法然を憶念し、﹁真宗教証輿片州、選択本願弘悪世﹂と 讃嘆し、真宗に遇うよろこびを表明している。そのうちには法然の流罪、同輩の死罪、自らの遠流もあった。しかし それも縁でこそあれ念仏するよろこびを消滅させるものではなかった。こうした宗祖自身の語らいが作偏に影響して いることは当然考えられるのである。 す な わ ち 、 ひとたび本願に目ざめたところでは、﹁たとひ法然聖人にすかされまひらせて念仏して地獄におちたり と も 、 さらに後悔すべからずさふろう﹂︵歎異抄三条﹀である。﹃銘文﹄の釈には﹁やみはれて﹂という言葉が入れて ある、こうした条件があって﹁貧愛眠憎のくもきりに信心はおおわるれども往生にさわりあるべからずとしるべし﹂
となっている、この点を注意しなければならない。﹃偽﹄ではそれが﹁覆はるれども﹂の﹁ども﹂に見出されている。 ﹁ども﹂は﹁難﹂の義で、覆いつくせないことをあらわす。覆いつくせないのはそこが往生決定の世界であるからで あ り 、 ﹁ 悲 願 如 − 一 日 輪 光 一 破 二 切 凡 愚 痴 闇 一 出 二 生 信 楽 一 故 ﹂ ︵ 行 巻 、 聖 全 ② 必 ず 貝 ︶ と あ る 如 く 、 如 来 回 向 の 信 心 に 住 む か ら である。どうしてそれが知られるであろう。﹁難破無明闇﹂もそうであり、﹁常覆直実信心天﹂でも確認されたところ で あ っ て 、 一連の思索が信心の世界を舞台にして語られることが諒解されるのであって、ここも然りである。そうし たありょうをこそ﹁讐えば﹂と讐説せられるのである。その信心の世界を確認せしめるのが﹁巳能﹂の二字である。 以上、二つの立場を考えてきた。前者にはいくつかの疑問がもたれ、﹃偏﹄の中での存在理由もはっきりしないの である。後者には一つの世界が浮かび上るのである。ただし先輩の釈にはこうした﹁己能﹂を独立の接続語としてみ る見解は見出し得ないのである。更に検討を加えねばならないのである。
﹁ 雄
﹂
の確認と五句の意義
われわれは﹁巳能難破﹂を﹁すでによく無明を破すと難ども﹂とよむことに疑問をもったのであった。この﹁巳能 難﹂と同じように﹁難﹂を使った文章を、宗祖が尊敬せられた聖覚の説法の一文の中に見出すのである。 ︵略﹀夫、前仏後仏唱正覚応化雲悉散、四向四果断煩悩泥垣煙終空。実、雄知凡聖必滅之理一猶迷生死別難之悲 ⑫ 惟 聖 霊 五 智 、 上 乗 秋 水 湛 気 岸 一 底 深 入 云 々 伏 中道春花開意樹薫芳実 是仏家梁棟也 量非釈門鑑鍵哉 この文の﹁実﹂は﹁雄﹂によって制約を受けることなく、上に語った﹁雲悉散﹂﹁煙終空﹂を確認し、﹁伏惟聖霊 五智﹂と更なる仏道の歩みの深化を表わしている。この場合、﹁実に凡聖必減の理を知ると難ども云々﹂とよめば、 上の句の義を必滅の理を知った段階に解し、教法、仏道の何たるかを解知せるを無視して、解知から真の覚智を求め ﹃ 正 信 念 傍 偶 ﹄ の 研 究 七﹃ 正 信 念 俳 偽 ﹄ の 研 究 二 八 ていこうとするところを断ずる結果となる。 かような意味ではなく、解知における入門的意義から脱却していくとこ ろに﹁雄云々﹂の義がある、 かく解釈することによって全体が通ずるのである。 われわれはすでに﹁己能、難破無明闇云々﹂の立場で文を考察してきたが、こうした実例を見出すことによりて確 実なる﹃偏﹄の流れを確認せしめられるのである。 それには前との関係と、後への展開とが考えられる。先ず前との関係である。﹁己能﹂の意味は前述の通りとすれ ば、或る用を受容することであって、前にはそれがなければならない。 しかもそれは﹁応信如来如実一吉﹂に応ずるも のであり、且、無明の闘を破することともなり、真実信心を含むものでなければならない。それは﹁能発一念﹂以下 ﹁常照護﹂の五句である。この五句はまとまりをもつであろうか。宗祖の﹃偽﹄作成上の留意点をみるに、願建立で は聞十方をいい、並日放十二光では裳光照という。如来の出世では応信云々とする、これら一つ一つに結びを出し、機 の上での意義を示してある。能発一念、信がおこれば﹁摂取云々﹂の真実の利にあずかるとのべるのであって、この ⑫ 一句を加えることは認められ、これによって﹁至心信楽之願心﹂を顕はされたと知られるのである。 この五句を承けて﹁巳能﹂というは如何なることか。真実信心おこりて摂取の心光に照護されたことを指すのであ る。それは光明名号のえにしがあらわれたことであり、信心のものが本願の大智海に開入せしめられたところである。 宗祖は善導章で善導は仏の正意を明したとした上で﹁開入スレバ行者正シク金剛心ヲ受ケ﹂と説いておられる。宗祖 @ における金剛心は真宗がそこで結実し成就している境界であって、当然の如く他力回向により五悪趣を横超する果を うるのである。それがあらわれる相を﹃偏﹄では﹁獲信見敬大慶喜﹂とする。すなわち、﹁明無関﹂が本願の用がは たらき心に闇さがなくなったのを表現しているのに続いて信心決定をいうのである。 しかれば﹁己能﹂以下は、破らんとした煩悩が何であるかを含めて弥陀の本願に目ざめさせれれ、真実心中回向の
功徳にあずかることを明かされたといえるのである。このことは前立五匂にて誓一願の不思議をのベて真実の利にあず かることを明らかにしたのをうけ、﹁己能﹂とその不思議にあずかることを示して凡夫における信心の展開をのベひ れきされたのである。 かくの如くにみてわれわれは﹁己能﹂以下七句をもって一科とするのである。