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海 ! :

ドキュメント内 真宗研究28号全 (ページ 37-46)

夫 ふ

光 夫

︵大阪府立今宮工業高校定時制﹀

序 親驚は﹃嘆異抄﹄十三で︑﹁うみ・かわに︑あみをひき︑つりをして世をわたるもの﹂を﹁われら﹂と﹁おなじこ

ζ

となり﹂とし︑﹃唯信抄文意﹄では﹁屠泊の下類﹂を釈して︑﹁屠﹂は﹁れうし﹂で︑﹁いし・かわら・つぶてのごと

③ くなるわれらなり﹂とした︒当時も﹁れうし﹂は︑漁民・猟民の両方を指した︒

親驚の門弟は︑﹃常陸国風土記﹄にも記された長い漁業の歴史を持つ常陸国霞が浦・北浦沿岸にも分布した︒親驚

の手紙に度々出る﹁鹿島・行方・南の圧﹂と︑信太荘・信田東︵後の東条荘︶の門弟によって︑この二つの湖は閉ま

れる︒これらの弟子や信者の中に漁民を想定しない方が︑

むし

ろ不

自然

であ

る︒

しかし︑親驚と漁民の関係についての研究は︑まだない︒他方︑漁民が当時の被差別民であったという歴史的事実

も︑まだ十分解明されていない︒本稿では︑この二点を明らかにし︑親驚と被差別民の研究の第一歩とする︒

殺 驚 と 海 夫

親 驚 と 海 夫

北浦東岸の鹿島神宮と︑

かつ

て北

浦と

霞が

浦を

つな

いだ

薗浦

︵寛

︑水

二1

一﹂

ハ二

五年

記﹁

湖水

全図

﹂に

よる

︶南

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下総

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千葉

県︶

香取

神宮

とが

︑三

一つ

の浦

の漁

民を

支配

して

きた

神社と漁民の関係では︑京都の鴨御祖神社と摂津園長州御厨︵兵庫県尼崎市長州︶の漁民との関係が︑多くの史料に

⑥ より明らかである︒長州御厨は︑寛治四︵一

O

O

︶年に﹁田島有ることなし﹂と言われた地で︑その漁民集団は︑

土地︵猪名荘︶の領主東大寺とは別に︑その人身が二条関白教通︵一

O

七五年没︶の領となり︑その娘皇太后職歓子

が伝領した︒応徳元︵一

O

八四︶年には︑鴨御祖神社が︑これと山城国の田地と﹁相博﹂︵交換︶し︑神社の所有とな

って御厨が成立した︒﹁相博﹂は︑当時における売買の一形態である︒その人身が他人の財産として伝領・売買され

た彼等は︑﹁散所・下部・寄人・神人・供祭人﹂などと呼ばれ︑または自称した︒神社は︑この漁民に官役・国役免

除の﹁特権﹂を保障し︑他との漁場争いでは宣旨を引き出して保護し︑﹁浪人﹂を集めて人員をふやした︒彼等は︑

﹁日次之御賛﹂として鮮魚を京都の神社に属けた︒︵彼等は水運にも携わったはずである︶︒それは︑﹁毎日朝暮の供祭︑

霜を

戴き

︑雨

を凌

︑ぎ

つねに備進するものなり﹂という厳しい謀役であり︑その他の﹁雑事﹂も勤めた︒彼等は検非

違使庁の取締りを受けない﹁特権﹂の代償として︑神社の私的警察権力によって支配され︑追放される者もあった︒

親驚がその著を引用した永観も︑その地の領主東大寺の代表として現われ︑鴨御祖神社と争う中で︑彼等漁民の生業

を︑﹁昼夜殺生を企﹂てる﹁悪業﹂だとののしり︑差別意識を顕わにした︒

関東でも︑漁民のいた伊勢神宮の下総国相馬御厨・安一房国東条御厨があり︑前者には親驚門弟が︑後者には日蓮が

いた

︵後

述︶

⑦ 

霞が浦や北浦においては︑鹿島神宮文書によると︑親臨滞在世中の建長七︵二一五五︶年に︑﹁先例に任﹂すべき﹁立 網・引網﹂の知行を記して︑鹿島神宮の伝統的な漁業支配を物語り︑﹁槍物等﹂の﹁備進・供祭﹂の伝統をも記す︒

永仁四︵二九六四︶年には︑地頭の﹁濫妨﹂により﹁日次の御供欠如し︑すでに三ヶ年に及ぶ﹂として︑時代は少し 下るが︑﹁日次の御供﹂の伝統の古さを物語る︒﹁備進・供祭﹂や﹁日次の御供﹂は魚の事と限らないが︑長州御厨の

ような魚の備進もあった事は︑十分考えられる︒また︑治承四︵二八

O

︶年の文書には︑霞が浦に面し︑漁民のい

た︵後述︶﹁鹿嶋神領橘郷﹂で﹁先例に任せ︑神領のため︑国役・雑事を免除す﹂とあり︑長州御厨に似た支配形態

がう

かが

える

︒ 香取神宮では︑明治四︵一八七一︶年頃の著書であるが︑本宮録司代︵祭典奉行︶呑取豊敏著﹃香取官年中祭典記﹄

③ 

が︑神前への大量の魚や鳥の供え方を︑図で詳細に記し︑その伝統の古さをうかがわせる︒中世では︑﹁海夫﹂がこ

うした魚を備進したのである︵後述︶︒

﹁海

夫﹂

の初

見は

︑﹃

権記

﹄長

保一

万︵

九九

九︶

年十

月二

十六

日の

次の

記事

であ

る︒

大弐奉ニ上九穴抱↓松浦海夫取出也云々︒

﹁九穴のあわび﹂を採る海夫は漁民であった︵少なくとも︑水運等とともに漁業もした︶︒この肥前国松浦と霞が

⑮ 

浦周辺の海夫の研究では︑網野善彦氏の業績がある︒それに依りながら︑以下︑海夫の社会的位置を検討する︒

まず︑松浦︵長崎県︶の海夫は︑親驚在世中の寛一万四︵一二四六︶年の肥前伊万里文書﹁さいねん譲状案﹂が︑次の

よう

に記

す︒

続 驚 と 海 夫

親 驚 と 海 夫

︵譲︶ハ与︶ゆづりあたふみなもとのとむるがところに

ひぜんのくに︑うのの御くりやの御しゃうのうち︑

みゃうのうちのでんばく︑おなじき︑

︵ 浦

まい

りの

うら

の四

郎丸

たひらのうちのかまたのあみば︑あをさきかいふらの事

ふく

しま

なら

びに

みっ

しゃ

のけ

︿

みや

き︑

くだ

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::

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でん

ばく

せんぞさうでんのしりやうなり︒

なら

びに

ふく

しま

かい

ふ︑

あをさき・かまたのあみば午︑しやみさいねんが︑

︵次

の二

史料

とと

もに

濁点

・ふ

り漢

字は

河田

︶ 海夫は︑先祖相伝の﹁私領﹂であり︑譲渡の対象である︒先に﹁あをさき海夫﹂と言い︑次に﹁あをさき・かまた の網場︵庭︶﹂と言う︒網場の海夫は︑確実に漁民であり︑

さらに︑同じ地の網場と海夫の人身とが︑それぞれ独立 した財産であった︒﹁ふくしま﹂︵島名﹀と﹁ふくしま海夫﹂も同じである︒他方︑﹁田畠﹂と農民は並記しない︒農民 と異なり︑海夫が人身的に従属した事は明らかである︒ここも﹁宇野御厨﹂と呼ばれたが︑漁民の社会的地位も︑前 出の長州御厨と同様である︒

⑫ 

霞が浦周辺の海夫も︑同様に譲渡された︒香取文書﹁大禰宜長一房譲状﹂二通の中︑至徳田︵一三八九年︶付譲状は︑

次の

よう

に記

す︒

ゆづりあたうるしもっさのくにかんどりの御神領ならびに所職︑

︿

おなじきしりゃう田畠等事・

. . . . .   五 回

ケ 畠

Q

き巴の の 事 事

てうちのうみのかいふ︑ぐさひれうの文じょに見えたり

︵ 町

一当社まちの事

右︑この所々は︑長一房がぢうだひさうでんのしよりやうなり︒:::ちゃくしたる問︑

ぎんで︑ゆづりあたうるところなり︒:::

まん

しゅ

まる

に︑

︵ 限

永代をか

海夫に関する﹁供祭料の文書﹂とは︑海夫支配で現地豪族との争いがあったために︑呑取神宮の﹁所領﹂である事

の証明として掲げた文書と思われる︒これで︑海夫が長州御厨のように︑魚を備進した伝統も明らかになる︒

また︑至徳二︵一三八五︶年付譲状でも︑各地の﹁田品等﹂と﹁ひたち・しもつきの両国のかいふ﹂を︑﹁ぢうだひ

さうでんのしりゃう﹂として﹁ゆづりわたす﹂とする︒

ここでも︑海夫は田畠・関・町︵市場﹀と並記され︑その人身が財産として譲渡された︒九州松浦・長州御厨を含

めて︑これは︑漁民一般の社会的存在形態であったと思われる︒

漁民の子日蓮は︑自らを次のように語る︒

日蓮

は:

::

安一

房園

長狭

郡東

条郷

片海

の海

人が

子也

︒︵

﹃本

尊問

答抄

﹄︶

日蓮

は安

一房

国東

条片

海の

石中

の賎

民が

子也

︒︵

﹃善

無畏

一二

蔵抄

﹄﹀

日蓮

は日

本国

東夷

東条

安一

房国

海辺

の栴

陀羅

が子

也︒

︵﹃

佐渡

御勘

気抄

﹄︶

この地は︑伊勢神宮の安一房国東条御厨であったと思われる︒すなわち︑﹃吾妻鏡﹄一克暦一五︵二八四︶年五月三日の

⑭ 

文に

﹁外

宮御

分安

一房

国東

条御

厨:

::

在安

房国

東条

﹂と

ある

日蓮の文は︑当時﹁齢ん﹂︵漁民﹀が﹁賎民﹂とも﹁献恥骨﹂とも言われた事を示す︒﹁栴陀羅﹂︵チャンダI

ラ︶

は︑

親 驚 と 海 夫

親 驚 と 海 夫

一 ︷ ハ

﹃マヌの法典﹄や仏典に出る古代インドの被差別民であり︑実態は異なるが︑しばしば日本の被差別民の呼び名に使

われた︒日蓮と同時代の﹃塵袋﹄は︑﹁天侍一一ニ栴陀羅ト云フハ︑屠者也︒イキ物ヲ殺シテウルエタ体ノ悪人也﹂とす る︒江戸時代以後の同名の被差別民とは異なるが︑当時の﹁エタ﹂も被差別民であった︒﹁エタのような悪人﹂と言 われた﹁センダラ﹂の語が︑当時︑漁民に対しても使われたのである︒

後白河法皇︵親鴛二十歳の二九二年没﹀編集の﹃梁塵秘抄﹄には︑次の今様がある︒

停き此の世を過ぐすとて︑海山稼ぐとせし程に︑万の仏に疎まれて︑後生我が身を如何にせん ここに描かれた漁民・猟民には︑全く救いがない︒

ただ絶望を叙情化するのみである︒﹁後生﹂にも救いがないと する差別は︑現代人の想像以上に重みを持ったはずである︒貴族などが狩や釣をしても差別せず︑﹁この世を過ぐす﹂

生業としてそれをする者だけを差別する不合理さは︑殺生が差別の原因でない事を物語る︒彼等が被差別民であるか ら︑その行為を救いのない悪だ︑被れだとするのである︒では︑なぜ彼等は被差別民であったのか︒それを探るのは 本稿の目的ではないが︑本稿で明らかにした漁民の社会的存在形態ーーその人身が財産として譲渡され︑国役等を免 除されて私的に支配された事等ーーーこそ︑彼等が差別された原因と深く関わる筈である︒

現存

する

香取

神宮

の海

夫文

書は

南北

朝時

代の

もの

であ

るが

︑貞

治五

︵一

一一

一六

六︶

年の

﹁大

繭宜

長一

一安

堵申

状案

﹂は

⑫ 

香取神宮の海夫管領を平安末期の﹁応峠・長寛・治承﹂︵一二ハ一

l

二八一年︶以来の伝統だとする︒親驚が建保二

一 ︑ ゆ

︵三二四︶年に常陸固に来て︵恵信尼の手紙五︶︑霞が浦・北浦沿岸に念仏集団を築いた時︑そこには︑確かに海夫が

︑ − −

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