夫 ふ
河
田
光 夫
︵大阪府立今宮工業高校定時制﹀
序 親驚は﹃嘆異抄﹄十三で︑﹁うみ・かわに︑あみをひき︑つりをして世をわたるもの﹂を﹁われら﹂と﹁おなじこ
①
② と
ζ
げ る い と
となり﹂とし︑﹃唯信抄文意﹄では﹁屠泊の下類﹂を釈して︑﹁屠﹂は﹁れうし﹂で︑﹁いし・かわら・つぶてのごと
③ くなるわれらなり﹂とした︒当時も﹁れうし﹂は︑漁民・猟民の両方を指した︒
親驚の門弟は︑﹃常陸国風土記﹄にも記された長い漁業の歴史を持つ常陸国霞が浦・北浦沿岸にも分布した︒親驚
か し ま な め か た
④
の手紙に度々出る﹁鹿島・行方・南の圧﹂と︑信太荘・信田東︵後の東条荘︶の門弟によって︑この二つの湖は閉ま
れる︒これらの弟子や信者の中に漁民を想定しない方が︑
むし
ろ不
自然
であ
る︒
しかし︑親驚と漁民の関係についての研究は︑まだない︒他方︑漁民が当時の被差別民であったという歴史的事実
も︑まだ十分解明されていない︒本稿では︑この二点を明らかにし︑親驚と被差別民の研究の第一歩とする︒
殺 驚 と 海 夫
親 驚 と 海 夫
北浦東岸の鹿島神宮と︑
かつ
て北
浦と
霞が
浦を
つな
いだ
薗浦
︵寛
︑水
二1
一﹂
ハ二
五年
記﹁
湖水
全図
﹂に
よる
︶南
岸の
下総
国︵
千葉
県︶
香取
神宮
とが
︑三
一つ
の浦
の漁
民を
支配
して
きた
︒
か も み お や み く り ゃ あ ま が さ き な が す
神社と漁民の関係では︑京都の鴨御祖神社と摂津園長州御厨︵兵庫県尼崎市長州︶の漁民との関係が︑多くの史料に
⑥ より明らかである︒長州御厨は︑寛治四︵一
O
九O
︶年に﹁田島有ることなし﹂と言われた地で︑その漁民集団は︑土地︵猪名荘︶の領主東大寺とは別に︑その人身が二条関白教通︵一
O
七五年没︶の領となり︑その娘皇太后職歓子が伝領した︒応徳元︵一
O
八四︶年には︑鴨御祖神社が︑これと山城国の田地と﹁相博﹂︵交換︶し︑神社の所有となって御厨が成立した︒﹁相博﹂は︑当時における売買の一形態である︒その人身が他人の財産として伝領・売買され
た彼等は︑﹁散所・下部・寄人・神人・供祭人﹂などと呼ばれ︑または自称した︒神社は︑この漁民に官役・国役免
除の﹁特権﹂を保障し︑他との漁場争いでは宣旨を引き出して保護し︑﹁浪人﹂を集めて人員をふやした︒彼等は︑
ひ つ ぎ の み に え ぐ き い
﹁日次之御賛﹂として鮮魚を京都の神社に属けた︒︵彼等は水運にも携わったはずである︶︒それは︑﹁毎日朝暮の供祭︑
い た だ し の
霜を
戴き
︑雨
を凌
︑ぎ
︑
つねに備進するものなり﹂という厳しい謀役であり︑その他の﹁雑事﹂も勤めた︒彼等は検非
違使庁の取締りを受けない﹁特権﹂の代償として︑神社の私的警察権力によって支配され︑追放される者もあった︒
親驚がその著を引用した永観も︑その地の領主東大寺の代表として現われ︑鴨御祖神社と争う中で︑彼等漁民の生業
を︑﹁昼夜殺生を企﹂てる﹁悪業﹂だとののしり︑差別意識を顕わにした︒
関東でも︑漁民のいた伊勢神宮の下総国相馬御厨・安一房国東条御厨があり︑前者には親驚門弟が︑後者には日蓮が
いた
︵後
述︶
︒
⑦
霞が浦や北浦においては︑鹿島神宮文書によると︑親臨滞在世中の建長七︵二一五五︶年に︑﹁先例に任﹂すべき﹁立 網・引網﹂の知行を記して︑鹿島神宮の伝統的な漁業支配を物語り︑﹁槍物等﹂の﹁備進・供祭﹂の伝統をも記す︒
永仁四︵二九六四︶年には︑地頭の﹁濫妨﹂により﹁日次の御供欠如し︑すでに三ヶ年に及ぶ﹂として︑時代は少し 下るが︑﹁日次の御供﹂の伝統の古さを物語る︒﹁備進・供祭﹂や﹁日次の御供﹂は魚の事と限らないが︑長州御厨の
ような魚の備進もあった事は︑十分考えられる︒また︑治承四︵二八
O
︶年の文書には︑霞が浦に面し︑漁民のいた︵後述︶﹁鹿嶋神領橘郷﹂で﹁先例に任せ︑神領のため︑国役・雑事を免除す﹂とあり︑長州御厨に似た支配形態
がう
かが
える
︒ 香取神宮では︑明治四︵一八七一︶年頃の著書であるが︑本宮録司代︵祭典奉行︶呑取豊敏著﹃香取官年中祭典記﹄
③
が︑神前への大量の魚や鳥の供え方を︑図で詳細に記し︑その伝統の古さをうかがわせる︒中世では︑﹁海夫﹂がこ
うした魚を備進したのである︵後述︶︒
﹁海
夫﹂
の初
見は
︑﹃
権記
﹄長
保一
万︵
九九
九︶
年十
月二
十六
日の
次の
記事
であ
る︒
︵ 肥 前
︶
・
・
⑨
大弐奉ニ上九穴抱↓松浦海夫取出也云々︒
けつ
﹁九穴のあわび﹂を採る海夫は漁民であった︵少なくとも︑水運等とともに漁業もした︶︒この肥前国松浦と霞が
⑮
浦周辺の海夫の研究では︑網野善彦氏の業績がある︒それに依りながら︑以下︑海夫の社会的位置を検討する︒
まず︑松浦︵長崎県︶の海夫は︑親驚在世中の寛一万四︵一二四六︶年の肥前伊万里文書﹁さいねん譲状案﹂が︑次の
よう
に記
す︒
続 驚 と 海 夫
親 驚 と 海 夫
四
︵譲︶ハ与︶ゆづりあたふみなもとのとむるがところに
︵ 肥 前 回
︶
︵ 宇 野
︶
︵ 厨
︶
ひぜんのくに︑うのの御くりやの御しゃうのうち︑
︵ 回 品
﹀
︵ 同
︶
みゃうのうちのでんばく︑おなじき︑
︵ 浦︺
まい
りの
うら
の四
郎丸
︑
︵ 綱 場
︶
たひらのうちのかまたのあみば︑あをさきかいふらの事
ふく
しま
︑
なら
びに
︑
みっ
しゃ
のけ
︵ 右
︶
︵ 件
︺
︿ 回 畠
︶
みや
き︑
くだ
んの
::
:の
でん
ばく
︑
︵ 先 祖 相 伝
︶
︵ 私 領
︶
⑬
せんぞさうでんのしりやうなり︒
なら
びに
︑
ふく
しま
かい
ふ︑
︵ 網 場
︶
︵ 沙 弥
︶
あをさき・かまたのあみば午︑しやみさいねんが︑
︵次
の二
史料
とと
もに
濁点
・ふ
り漢
字は
河田
︶ 海夫は︑先祖相伝の﹁私領﹂であり︑譲渡の対象である︒先に﹁あをさき海夫﹂と言い︑次に﹁あをさき・かまた の網場︵庭︶﹂と言う︒網場の海夫は︑確実に漁民であり︑
さらに︑同じ地の網場と海夫の人身とが︑それぞれ独立 した財産であった︒﹁ふくしま﹂︵島名﹀と﹁ふくしま海夫﹂も同じである︒他方︑﹁田畠﹂と農民は並記しない︒農民 と異なり︑海夫が人身的に従属した事は明らかである︒ここも﹁宇野御厨﹂と呼ばれたが︑漁民の社会的地位も︑前 出の長州御厨と同様である︒
⑫
霞が浦周辺の海夫も︑同様に譲渡された︒香取文書﹁大禰宜長一房譲状﹂二通の中︑至徳田︵一三八九年︶付譲状は︑
次の
よう
に記
す︒
︵ 譲
︶
︵ 与
︶
︵ 下 総 国
︶
︵ 香 取
︶
ゆづりあたうるしもっさのくにかんどりの御神領ならびに所職︑
︿ 私 領
︶
おなじきしりゃう田畠等事・
. . . . . 五 回
ケ 畠
せQ等
き巴の の 事 事
︵ 内 海
︺
・
・
・
︵ 供 祭 料
︶
︵ 書
︶
てうちのうみのかいふ︑ぐさひれうの文じょに見えたり
︵ 町﹀
一当社まちの事
︵ 重 代 相 伝
﹀
︵ 所 領
︺
︹ 嫡 子
︶
右︑この所々は︑長一房がぢうだひさうでんのしよりやうなり︒:::ちゃくしたる問︑
っ て
﹀
︵ 譲
︶
︵ 与
︶
ぎんで︑ゆづりあたうるところなり︒:::
︵ 満 珠 丸
︶
まん
しゅ
まる
に︑
︵ 限
永代をか
海夫に関する﹁供祭料の文書﹂とは︑海夫支配で現地豪族との争いがあったために︑呑取神宮の﹁所領﹂である事
の証明として掲げた文書と思われる︒これで︑海夫が長州御厨のように︑魚を備進した伝統も明らかになる︒
︵ 常 陸
︶
︵ 下 総
︶
・
・
・
︵ 重 代
また︑至徳二︵一三八五︶年付譲状でも︑各地の﹁田品等﹂と﹁ひたち・しもつきの両国のかいふ﹂を︑﹁ぢうだひ
相 伝
︶
︵ 私 領
︶
︵ 譲
︶
︵ 渡
︶
さうでんのしりゃう﹂として﹁ゆづりわたす﹂とする︒
ここでも︑海夫は田畠・関・町︵市場﹀と並記され︑その人身が財産として譲渡された︒九州松浦・長州御厨を含
めて︑これは︑漁民一般の社会的存在形態であったと思われる︒
漁民の子日蓮は︑自らを次のように語る︒
ょ が き ノ ノ か た う み あ ま
日蓮
は:
::
安一
房園
長狭
郡東
条郷
片海
の海
人が
子也
︒︵
﹃本
尊問
答抄
﹄︶
か た う み い そ な か
日蓮
は安
一房
国東
条片
海の
石中
の賎
民が
子也
︒︵
﹃善
無畏
一二
蔵抄
﹄﹀
せ だ ら
⑬
日蓮
は日
本国
東夷
東条
安一
房国
海辺
の栴
陀羅
が子
也︒
︵﹃
佐渡
御勘
気抄
﹄︶
この地は︑伊勢神宮の安一房国東条御厨であったと思われる︒すなわち︑﹃吾妻鏡﹄一克暦一五︵二八四︶年五月三日の
⑭
文に
﹁外
宮御
分安
一房
国東
条御
厨:
::
在安
房国
東条
﹂と
ある
︒
せ ん だ ら
日蓮の文は︑当時﹁齢ん﹂︵漁民﹀が﹁賎民﹂とも﹁献恥骨﹂とも言われた事を示す︒﹁栴陀羅﹂︵チャンダI
ラ︶
は︑
親 驚 と 海 夫
五
親 驚 と 海 夫
一 ︷ ハ
﹃マヌの法典﹄や仏典に出る古代インドの被差別民であり︑実態は異なるが︑しばしば日本の被差別民の呼び名に使
ト ッ ャ
︑
︑
⑮
われた︒日蓮と同時代の﹃塵袋﹄は︑﹁天侍一一ニ栴陀羅ト云フハ︑屠者也︒イキ物ヲ殺シテウルエタ体ノ悪人也﹂とす る︒江戸時代以後の同名の被差別民とは異なるが︑当時の﹁エタ﹂も被差別民であった︒﹁エタのような悪人﹂と言 われた﹁センダラ﹂の語が︑当時︑漁民に対しても使われたのである︒
後白河法皇︵親鴛二十歳の二九二年没﹀編集の﹃梁塵秘抄﹄には︑次の今様がある︒
は か な こ す う み や ま か せ ほ ど よ る づ ほ と け う と わ み い か
⑬
停き此の世を過ぐすとて︑海山稼ぐとせし程に︑万の仏に疎まれて︑後生我が身を如何にせん ここに描かれた漁民・猟民には︑全く救いがない︒
ただ絶望を叙情化するのみである︒﹁後生﹂にも救いがないと する差別は︑現代人の想像以上に重みを持ったはずである︒貴族などが狩や釣をしても差別せず︑﹁この世を過ぐす﹂
生業としてそれをする者だけを差別する不合理さは︑殺生が差別の原因でない事を物語る︒彼等が被差別民であるか ら︑その行為を救いのない悪だ︑被れだとするのである︒では︑なぜ彼等は被差別民であったのか︒それを探るのは 本稿の目的ではないが︑本稿で明らかにした漁民の社会的存在形態ーーその人身が財産として譲渡され︑国役等を免 除されて私的に支配された事等ーーーこそ︑彼等が差別された原因と深く関わる筈である︒
現存
する
香取
神宮
の海
夫文
書は
南北
朝時
代の
もの
であ
るが
︑貞
治五
︵一
一一
一六
六︶
年の
﹁大
繭宜
長一
一安
堵申
状案
﹂は
︑
⑫
香取神宮の海夫管領を平安末期の﹁応峠・長寛・治承﹂︵一二ハ一
l
二八一年︶以来の伝統だとする︒親驚が建保二
一 ︑ ゆ
︵三二四︶年に常陸固に来て︵恵信尼の手紙五︶︑霞が浦・北浦沿岸に念仏集団を築いた時︑そこには︑確かに海夫が
︑ − −
G
hu vφ
心