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ドキュメント内 真宗研究28号全 (ページ 49-63)

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料・考

親 驚 と 海 夫

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︑ 知 行 者 か ら

一一一一見て東条荘︑誌・網野氏の比定は信太荘な一美浦村舟子?

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﹁親驚面授﹂の門弟︵直弟子と一部の孫弟子︶とその弟子を︑本稿で﹁親驚門弟﹂と呼ぶ︒その居所を知る史料と して︑これまで主に使われた﹃交名牒﹄は︑康永三︵二三四四︶年の奥書を持つ妙源寺本と︑その系統に属する光明 寺本・光薗院本・万福寺本等であった︒ところが︑大した理由もなく退けられてきたが︑最も高い価値を持つのは︑

⑨ 

親驚在世中の寛元三三二四五︶年の奥書を持つ別系統の江戸時代写本︑西念寺本である︒この本には︑弟子の中に︑

建長八三二五六﹀年に親驚から義絶された慈信一房善驚がいて︑後世︑コ一代伝持︑本願寺二世とされた親驚の孫如信 がいない︒このように︑後の真宗の権威や伝承を損うものが︑宗内で偽作されるはずはない︒明らかに普驚義絶以前 に成立し︑直弟子の書き足しは︑如信が成人して一人前の弟子となる以前︵ほぼ親驚没年以前︶に完了した事を示す︒

しかも︑鎌倉時代に消滅した地名を多く記載し︵後述︶︑その史料的価値の高さは動かし難いものがある︒詳しい検

⑧ 

討は別稿に譲るが︑その史料的価値は本稿の論証の正否にも関わるので︑以下で︑いくつか触れる︒

西念寺本は︑直弟子は勿論︑全門弟の居所をつぶさに記し︑親驚門弟の地理的分布の研究では︑欠く事のできない

貴重

な史

料で

ある

︒ 西念寺本によって初めて︑親繍鳥の子紙にもあり︑海夫の津が密集する市児島・行方の︑親鷲直弟子を長とする次の五

集 団

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信量確

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嶋 富崎 陥

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lt 真信

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順性

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浄 性

||信浄

||信証

,  

常州手賀ノ

常州トミタノ

常州ヰタクノ

常州鳩道ノ

常州荒井ノ

常州大行方ノ

︵﹁同面授﹂は親驚面授の意︒仮名書き地名の清濁音考は保留する︒以下も同じ︶

,  

長の順信房の﹁鹿嶋﹂は︑唯浄の﹁荒井﹂と並ぶので︑﹁鹿嶋郡﹂ではなく︑それぞれ︑﹃和名鈴鹿島郡の鹿島郷

︵現

︑鹿

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島郷

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海夫

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前掲

表 一

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︵ 表 一

1

・ 二

9﹀

︒ 境願・真言の﹁嶋崎﹂は︑鹿島・行方両郡のいずれの島崎とも決め難いが︑

親 驚 と 海 夫

いずれであっても海夫の津があった

四五

親 驚 と 海 夫

ノ、

順性の﹁トミタ﹂も︑両郡に富田があり︑

いず

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が海

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津で

ある

︵表

一幻

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時︶

︒ 順慶・妙性の﹁ヰタク﹂は︑行方郡の海夫の﹁いたくの津﹂に当たる︵表二

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︒ 真信の﹁手賀﹂は︑行方郡の海夫の﹁ひらはまの津﹂に近い霞が浦沿岸である︵表二

7︶︒網野氏がその成立は中世

︿

にさかのぼれるとした江戸時代初期の霞が浦四十八津に︑﹁富田・板久﹂とともに属す︒親驚当時も漁民がいた可能 性が強い︒手賀には︑他に慧光もいた︒

来性の﹁嶋道﹂は不明である︒

信浄・信証の﹁大行方﹂は︑﹃和名抄﹄行方郡の行方郷︵現︑行方郡麻生町行方﹀であり︑霞が浦に面す︒﹁大行方﹂

 

の呼称は︑﹁弘安田文﹂︵行方郡を欠く︶と並んで鎌倉時代の重要な地名史料である﹁嘉元田文﹂と︑室町初期とされ

⑧ 

る無年記の税所文書﹁常陸国行方・鹿島郡切手郷注文﹂の二史料のみに残る︒﹃常陸国郡郷考﹄は︑後に﹁八甲村﹂

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と呼んだと伝え︑江戸時代の﹃一冗禄郷帳﹄は﹁行方村﹂とする︒西念寺本が︑鎌倉時代から短期間だけ使われた呼称

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常州大生ノ

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常州金丸ノ

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称念の﹁延方﹂︑誓信の﹁大生﹂は︑行方郡の海夫の洋の名であった︵表二

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道信の﹁桓ノ岡﹂は不明である︒

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石岡

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︒ 順慶の﹁コタカ﹂は﹁嘉元田文﹂行方郡の﹁小高﹂︵現︑行方郡麻生町小高︶で︑海夫の﹁橋門津﹂︵表二時﹀があった︒

この地の﹁おたか﹂氏は︑橋門のほか海夫の船子津・山田洋・西蓮寺船津も知行した︵表二

5・6

・ げ ︶ ︒

ここに記された門弟の下には︑更に信者がいたはずである︒﹃消息集﹄六によれば︑﹁オホフノ中太郎﹂の下に﹁九

十ナム人﹂がいた︒﹃交名牒﹄他本は︑右のような集団の長のみに居所を記すので︑その下の門弟は皆︑同じ場所に いたと考えられて来た︒西念寺本で初めて︑これらの門弟が一人一人別の地で活躍した事が明らかになった︒彼等は それぞれ︑周辺の信者を組織していたと考えられる︒︵中太郎の﹁オホフ﹂は︑前出海夫の津大生の可能性があるが︑

別の門弟がいた﹃親驚伝絵﹄の﹁常陸国那珂西郡大部郷﹂の可能性も残る︶︒

以上の父子二集団は︑確実に海夫の津があった四地に六名︵富田と︑海夫の津を含む鹿島・小高を加えると七地に 十名︶の門弟がおり︑漁民がいた可能性の強い手賀等も含めて︑これら門弟自身や︑彼等が組織した信者の中に海夫

等の

漁民

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た事

は︑

ほぼ

確実

であ

る︒

第三の﹁富田﹂の明教房順智の集団は︑﹁冨田﹂の明信︑﹁鹿嶋﹂の智濯・随智がいた︒

第四の﹁鹿嶋﹂の真快一房随念の集団には︑﹁トミタ﹂の了念のほかに︑﹁片岡﹂の明智︑﹁イナヒサ﹂の是信がいた

︵ 抄 出 ︶

﹁片岡﹂は︑両田文の北郡の ︒

δーとかたれか

﹁片

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︵現

︑新

治郡

八郷

町片

岡︶

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国府

の北

西方

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親 驚 と 海 夫

四 七

親 驚 と 海 夫

﹁イナヒサ﹂は︑両国文の在庁名﹁稲久﹂で︑現在地は不明︒国府近辺と思われる︒在庁名は︑国府在庁官人の給

与とされた団地を︑その官人の名で呼んだ地名で︑両田文記載の十三の中二つしか現存しない︒両国文以外に稽久を

記す唯一の史料西念寺本の価値は高い︒

第五の﹁鹿嶋﹂の真浄房乗然の念仏集団は︑﹁田木・小井戸・大谷・荒張・イナサ・ヰナヒサ﹂︵抄出︶の地名が並

みなみどおりび︑﹁田木﹂が﹁白木谷﹂なら︑前回つは両国文の南郡に見える︒

正信・妙願の﹁田木﹂は︑両国文の﹁田木谷﹂︵現︑新治郡玉里村田木令﹀である可能性が強い︒海夫の﹁大ゑたの

津 ﹂

︵ 表

一 一

1﹀のすぐ北︑霞が浦に注ぐ園部川の河口である︒

一円・西円の﹁小井戸﹂︵石岡市小井戸︶も︑その北︑すぐ近くの沿岸にある︒

実妙の﹁大谷﹂は︑その上流西北方の沿岸︑東茨城郡美野里町大谷︑または小井戸・田木谷の西方︑霞が浦に注ぐ

山玉川沿岸の石岡市大谷津である︒後者の﹁津﹂は注目される︒

寂円の﹁荒張﹂︵現︑新治郡千代田村新治﹀は︑霞が浦西岸に注ぎ︑康治二︵二四一二︶年の文書に旧南野荘の北限と

ある荒張川︵現︑天の川︶南岸︒対岸の両国文南郡﹁土田﹂︵同村上土田・下土田﹀に門弟道円房本明がいた︒

念信の﹁ヰナヒサ﹂は前出の在庁名で︑順智の﹁イナサ﹂も︑両国文に稲久と並ぶ在庁名﹁稲貞﹂である可能性が

強く︑注目される︒現在地は不明であるが︑国府の近くであろう︒

なお︑法衝房教念の集団には︑﹁常州鹿嶋・信田東・馬渡﹂︵抄出︶がある︒

唯観の﹁鹿嶋﹂で︑海夫の大船津があった鹿島の門弟は計七人となる︒他に聞転もいる︒

証安の﹁信田東﹂は︑霞が浦南岸の東部で︑海夫の津が密集する後の東条荘である︵表五︶︒

D仏道の﹁馬渡﹂は︑海夫の津がある山田︵表二6︶の中︑﹁康永鹿島領﹂行方郡の﹁馬渡﹂︵行方郡北浦村山田馬渡﹀と

思わ

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以上︑鹿島・行方郡を中心に見て︑専光一房・真快一房・真浄一房の集団は︑霞が浦北岸を経て国府︑旧南野荘に至り︑

法衝一房の集団は︑霞が浦南岸へと広がった点で注目される︒

次は︑南野荘・信太荘・信太束を中心に見る︒

@ 

直弟子教忍は﹁南圧田中﹂に居た︒もと霞が浦沿岸の石岡市東田中︵﹁元禄郷帳﹂・﹁天保図﹂の﹁田中﹂︶と思われ る︒︵霞が浦に注ぐ桜川沿岸の土浦市田中は︑﹁元禄郷帳﹂にもないので採らず﹀︒田中の︑山王川を隔てた西南が国

あまおとめ

府の津︑高浜︵石岡市︶である︒江戸時代は霞が浦四十八津に属し︑﹃常陸国風土記﹄には﹁漁嬢﹂が集まり︑商人等

が﹁舶艦に梓さして往来ふ﹂とあり︑漁民も居る上︑この港を中心に古くから霞が浦水運が発達した事も一示す︒高浜 神社の側に︑親驚の遺跡瓜書阿弥陀堂がある︒伝説の内容は別にして︑地理的には︑親驚が高浜に来た可能性は強い︒

なお︑﹁南庄田中﹂のほか︑西念寺本の﹁奥郡田中﹂︑﹁弘安田文﹂の﹁田中庄﹂のいずれか不明の﹁田中﹂の門弟

六人

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︵現

︑東

茨城

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川町

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口影

︶で

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ある︒北浦に注ぐ巴川沿岸︑前出鹿島郡富田の西北方約二キロで︑江戸時代には巴川水運の河岸であったという︒

右の三史料は︑上士口影を﹁南郡﹂とした︒前出の﹁南庄田中﹂も︑その東南に接する﹁高浜﹂を両国文が﹁南郡﹂

とするので同様である︒西念寺本が︑これらを﹁南圧﹂としたのは重要である︒﹁弘安田文﹂は︑﹁南野牧千百九十

親 瞬 間 と 海 夫

ドキュメント内 真宗研究28号全 (ページ 49-63)

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