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『宗教研究』季刊第5年第4輯(*118号)

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(1)

――目次――

1,

伝承に現れたる日本民族の生活理念,松村武雄,Takeo MATSUMURA,pp.1-15.

2,

国家的公教と個人的私教,加藤玄智,Genchi KATŌ,pp.16-22.

3,

歴史と信仰,島原逸三,Itsuzō SHIMABARA,pp.23-38.

4,

支那仏教における国民思想,横超慧日,Enichi ŌCHŌ,pp.39-59.

5,

古代祭祀の本質について,渡辺正一,Masakazu WATANABE,pp.60-95.

6,

「神道」考,上代神仏関係の一齣,井上薫,Kaoru INOUE,pp.96-106.

7,

布教における教会と国家,小林珍雄,Yoshio KOBAYASHI,pp.107-124.

8,

聖トーマスにおける宗教の社会性,ハインリッヒ・デュモリン,Heinrich DUMOULIN,pp.125-149.

9,

聖アウグスチヌスにおける理性と信仰(承前),精神史的宗教哲学序論の一章,吉満義彦,Yoshihiko

YOSHIMITSU,pp.150-172.

宗教関係主要論文目録,pp.173-174.

Posted in 1943

(昭和18)年

(2)

︵こ 希級の■盲紳話に音ふ、サル亨ネウス王は、おのれを目して雷紳ゼウスと倣し、侍臣等をして供犠し秤穐させた な ぼかりでなく、乗車に鍋釜を崩し、車を駆って騒音を立てては、雷の裁くとなし、また草上から稔明を基裡に投 げて、電光の閃くとなした。ゼウスがこれ定見てその不敬慶を索少、雷火を投じて王を焼き滅した主。 野口本営紀﹄推古天皇二十六年の條に嘗ふ、 ﹁河連臣を安拳固に達して舶を造らしむ。山に室わて舶の材を寛ぐ。健ち好き材を得て伐らむとす。時に人有 あゎて日へらく.霹靂木なか、伐るべからすと。河連臣の日く、其れ笛紳なゎと蝕も.豊島命に逆はむやとい 嘗は 轟− とりしば ひて、多紀幣南を奉少て、人夫を過して伐らしめしに.大雨降少雷電す。霧に河遼臣働を案少て日く.零細人 夫をな犯しそ。昔に我が身を傷れといひて、仰ぎて待つ。十能霹靂すと堆も、河凌臣を犯すことを得す。即ち 小魚k化薗て、樹枝に挟垂れり。即ち魚を取Dて焚く。途に共の轡去っ﹂ 停永に現れたる日本民族の生括理念

停承に現れたる日本民族の生活理念

稔 村 武 雄

479

(3)

と。 洋の東西に於けるこれ等二伸の鱒承を併せ統めるとき、吾人は太だ興味ある示唆を感受せざるを得ない。希猟 人を始めとして他の諸々の民族にとつては、王者といへども紳そのものではなかつた。紳の儀裔ではあゎ得ても. 紳白閣とは考へられ得なかつた。羅馬の皇帝その他に.肖らを紳となすものがあつたにはあつたが、それは白ら 紳に擬し紳を侍したのであつて、廉く萬艮の共通意識に確聞不動の信をかち得たものではなかつた。希轍の盲哲 は﹁人にして紳たらむと巽ふこと勿れ。﹂ と言った。王者の尊貴を以てしても、自己を以て紳となすことは、紳 に封する大きな胃済である。かくしてサルモネウス王は笛甜の繹運火に敢なく∵鱒を要はねぼならなかつた。自 然民族の乏一工吉家真 の靭念信仰にあつては.王者は屡々紳であつた。しかし文化民族に於ては、王者といへ ども紳以下の存在態であると観ぜられるのが通則である。 あきっかみ しかし我が日本民族にとつては、天皇はまさしく紳であつた。天皇は現紳にまします。萬英人は、 たはふば舞やこ 皇は紳にし坐せば赤駒の蘭画ふ田井を京師となしつ。︵奄十九︶ ņ亡 大王は沖にし坐せば水鳥のすだく水沼を皇都となしつ。︵巻+九︶ 皇は紳にしませば天雲の雷の上にいほりするかも。︵竜三︶ 皇は紳にしませぼ厚木の立つ荒中山に滴をなすかも。︵竜三︶ など詠ひ出でて、現紳としての天皇に絶大の黍能・紳威を戟じてゐる。かくして天皇はなべての細々よゎ言も更に 高い慶梅にましまし、なべての静々は寧ろ天皇に奉仕すべき存在態とされた。希職にあつては、王者の不敬虔を 博承に魂れたる日本民族の生活強食 !「 430

(4)

恨んで.普請がこれを撃殺した。我が国にあつては、雷紳といへども、﹁其れ雷諦なゎと搬も豊皇命に遭はむや﹂ の一言に摺服せざるを得なかつた。﹃日本吾紀.也旋略天皇四年春二月の條にもー二百軍前の行動を記Lて, ﹁鮎旨晩れて狩霞みぬ。紳−天皇を紆紆畏ま誓−軒耶根茎る。是の時轟ことごとに冒さくl徳ま

します天皇にます。﹂

となしてゐる。いな.萬葉人は更に、山の神や川の紳が天皇に奉仕することを歌って一 旦つぎ ﹁やすみしし吾が大王、紳ながら紳さびせすと⋮⋮たたなはる青垣山の山祀の奉る御調と.春ぺは花かぎし

持ち、秋立てば黄葉かざせヵ。野紆用の紳も、大御食に仕へ奉るとー上つ瀬に鵜川を立て・下つ瀬に小網さ

蚤つ

L渡し、山川もよカて奉れる紳の御代かも。︵巻こ

となしてゐろ。

︵〓︶ 上代日本民放は.白然紳と人文紳とに封して頗る異った心的態寧竺不してゐる。雨.風、山、川、潅など自然 現象若くは自然物素を蟄生原橙とする両に封Lては、どちらかといへば寧ろ畏怖を感じ、ささげ物と祈りとによ

る義ひ﹂を以てその意を宥めその災を免れようと努めて晋、人文紳に封しては、寧ろ喪仰と親警の情念を

以てこれを迎へてゐる。固よD人間の心の動きもーはた紳なるものの職能も共に複雑であるが故に、自然紳と人 文雨とに封する心的態度が常にかやうに裁然と封立してゐるとは限らないが、その主調を規準とLて云へばー為 停永に現れたる日本民族の生活理念 48工

(5)

のづから如上の区別が存してゐるのである。

上代日本民族はまた同左紳に封しても事情のいかんによつて異った心的態度を揮つた。一は依展・順碓の情

念た基調とするところの整垂一︶≡i乳つ=の心的態度であり・他はおのれ・乾主張する情念を基底とするところの 毒享垂茎呈;≡の心的態度である。上代日本民族は、 もl、り 山城の石田の杜に心鈍く手向したれや殊に逮ひ難き。︵鉛画業集﹄巻十二︶ と歌ひ.

孟づらふ君が卿苧﹂、玉梓の使基ねば、憶宗む吾が身三ぞ、千早警紳にもな負せ⋮去墓声稔

雀十六︶

こひの と歌ってゐる。愛人に逢ひ難くて悶々の情に堪へない。紳に所求んだがーそれでも甲斐がない。しかし紳が惑い

のではない。紳に封する吾が﹁≠向け﹂の憐鵡のやゎ方が間違ってゐたと歌ひ刑たところに、赫を恨ます・紳の

霊験を衆はぬ心持が竺の歌に明かに現れてゐる。更に吾が病薪長かなる紳の崇むとも考へず、わが身を内省し

とが

て、紳に科を着せぬ心持が.第二の歌に鮮かに漆み出てゐる。吾人はそこに紳への信頼・依屠・順従の心的態度

を詔瀬せざるを待ない。

しかし他の二風紀於ては.自己を主張する情念が主調となり.紳に封するをのれの所求が欝現しない場合にはl 沖を黄あるといふ態度が搾られることも稀ではなかつた。﹁まひ﹂︵幣︶とトて知られてゐる儀鰻の底には・少く ともその一部とLて蓮殿の心持が潜在してゐる。﹁ま旦Lは確か軒二種の交換穀念を含んでゐゐ。謂ふところか 侍凍に現れたる日本梅漬の生活珊念 482

(6)

ー一三l三⋮宇F∴われ輿ふ、故に爾も輿へよ﹂の碗念を以て貫かれてゐる熊頑とLて﹁まひ﹂があ■る。この儀躇 を茸修した上代日本民族は、ぉのれ等が時とLて紳に封して積極的に自己主張売なし、一種の強制、一種の﹁黄 め﹂を敢てしかねなかつたことを示してゐる々 千早根紳の杜にわがかけし幣はたぼらむ、殊に達はなくに。︵鶉萬菓集.〓苛四︶ と、一価の常葉人は歌ひ出てゐるゥ愛人に達はせてもらうつもりで前に﹁まひ﹂をささげたのに、その節求は更 に欝現しない。かくては何のための終ぞ.ささげた﹁まひ﹂は返却してまらはうといきまいてゐるところに、白 己主張の情念がよく現れてゐる。 それならば現紳たる天皇に封んては、日本民族はいかなる心的態度を探つたであらうか。それは決Lて 芸子 妻彗tぎ1 の冊︰鮭ではなかつた。信頼・依馬・帽碓の態度であつた。しかし決してそれだけで喝きてゐるのでは なかつた。 かネ かネ 天皇は、﹁帝﹂にまLますと共にまた﹁上﹂にまします。﹁紳﹂として永速賓の現れであると共に.﹁上﹂とし て現貨世界の統治者−謂ふとことろの﹁上御一人﹂であ烏。日本民族は∵でこに単に単に信頼・依展・帽碓だ ヽヽ けに留ることを得ない或るものを感得した。よわ積極的に﹁上御一人﹂とおのれ等とを結びつける生き方をぉの れ等に要求せすにはゐられなかつた。そLてその要求モー言にして悉すなら、天皇に奉仕することを以ておのれ の生き方の最終最高の理念とすることであつた。 停承に現れたる日本鱒族の生活義念 五 イ83

(7)

このことは、古き世の我が宗教・挿話によく現れてゐる。いな、宗教・神話が最もカをこめて語ってゐるもの

の随一がこれであつたと青ふことが田乗る。吾人は尭に絡英人が、﹁春べは花かざし持ち、秋立てぼ黄葉かざ﹂

みつぎ

すことによつて天皇に御調する山の紳を歌ひ、また﹁上つ柄に鵜川里芋、下つ瀬に小網さL渡﹂すことにょつ

て、天皇の大都食に仕へ奉る川の紳を歌つてゐる、ことた説示した。即ち上代日本民族の宗教的観念・信仰に於て

は、諸々の自然の紳の虞正の生き方は、天皇に奉仕することであつた。Lかし自然の赫々だけがさうした生き方 をすべきであるとしたのでは決してない。園民のすべてがまさしくさうLた生き方をおのが生活の理念とすべき

であると堅く強く信じてゐた。萬英人の右の歌は、畢尭するに生き方に関する囲民自身の斬念・信仰を赫々の世

界に投影させたものに他ならぬ。

邁般の投影を、吾人は到るところに見出すことが出奔る。讐日本欝紀﹄雛略天皇四年秋八月の備に、天皇が書

弟も 野宮に行事あゎ、河上小野に於て狩猟を催し給うて、﹁窮ら射むと欲ほして待ち給ふ﹂時に、一匹の虻が飛んで

あ蕾つもト 釆て、﹁天皇の腎をくふ。ここに蹄蛤忽然に飛び発て、虻をくひて脾て去聖﹂かくて天皇が﹁験がために婿蛤を

戒め歌よみせよ﹂と仰せられたが、群臣の中に敢てよくよむ者がなかつたので、天皇窮ら、

﹁やまとの、をむらのたけに、しし伏すと.散がこのこと、大前に自す。大君はそを聞かして・たままきの、 ぁぐら鱒たたし、Lづ空きの、あぐらにたたし、Lし待つと、善がいませば、さゐ待つと、吾が立たせば、 樽東に現れたる日本民族の生前理念 ︵三︶ _■_ ノヽ ヰ84

(8)

量う たくふらに、虻かきつきつ、その虻を.蝉蛤はやくひ、蓬ふ島も.大君に奉らふ、ながかたは置かむ、あき つしまやまと。﹂ と歌み給うたとある。Lかしこの御歌だけを挑める者は、輯蛤が雄略天皇の御食めに虻を取むくふたといふ一事 よつ は﹁大君に奉らふ﹂たのであつたとしても、輯蛤のその他の行動がすべてさうであるとは断じ難いとなし、また 婦蛤のこの特定の行動を目して﹁大君に奉らふ﹂ものであると撤すのは、堆略天皇の童謡であつて、寓居が同じ く這般の瞑想を抱持してゐたか香かは不明であると考へるかも知れぬ。しかLさうした爵ひは他の多くの事賢を 併せ考へることによつて、おのづから消失せざるを得ない。 言明葉菜一一点巻十六に見ゆる﹁乞食者詠二首﹂の歌は.この鮎に於て太だ興趣と示唆とに富んでゐる。一首は辰 の■ため・、他の一首は蟹のために痛みを遊べて作ったとなつてゐるが、その内容の資際は.これ等の動物が、大君 のためにさまざまの御役に立つことに白焼した心持である。 ﹁吾が肉は御鰭料,吾が肝も御給料、吾がみげは御盤の料、老いたる板書が身一つに七重花咲く、八重花咲 くと、Lさね・自し質さね。﹂ とある如き.よくさうLた心持を表出してゐる。即ち鹿や蟹は、大君の御食費となることに喜悦し.おのれ等の 存在・生活がさうしたことに役立つための存在・生治であることを自認し、而してさうした自認の下に、大君に 封する奉仕を誇かとなしてゐる。 ﹃古事記.d及びm.日本音紀﹄に見ゆる溶事務・山幸彦の諦話の一節は、同一の貌想を更に明白に且つ更に痛切 停承に現れたる白本鱒族の生活痩念 七 4g;

(9)

俸承に現れたる8本民族の生活理念

に詮裳して■ゐる。準∵も知ってるるやうに、山車潅が薄審轟の釣針た借りて海に釣されると、或る魚がその釣針

をくひ辞つて逃げ去る。ところで竿日本者紀﹄一番によると、海紳が釣針を呑んで逃げ道つた口女魚た呵表して、

﹁酎口女碓レ今以荏不レ得一春許可又不レ待レ琴l天孫之傑ご

と′、に

と育つてゐる 外つ囲人がこの青葉を積んだとしたなら、必ずや怪訝の隈をみはるであらう。なぜなら、彼等の

理念からすれば、清紳が口女魚に対して輿へた呵責は少しも呵斉となつてゐないからである。海神の青葉が魚族

に封する手痛い呵責であることを解し得るのは.わが日本民族だけである。そこに深甚な意味が潜んでゐるとL

なくてはならぬ。

飯田武判翁はその昔芦.日本書紀通輝﹄巻乏二十一に於て、海神の青笹の意味するところ鞋解Lて. ﹁餌た再て入に釣るるが、中々に彼が身に甚Lき事と見え、天神御子の餞に預奉わ∴▲人の食用と成る尊は・ ケ 彼が本意となる亭にて.此た人に琶へて云はば一再レ解は食祓を得るが如く.僕土成は、勤仕を重く為るに

等しき道理有ることと所見たゎ。﹂

となしてゐる。この僻繹はまさしくその嘗を得てゐる。上代日本民族の考ふるところでは、魚族にとつては、天

神の御子の御領と成ることこそ、魚となつて生れ釆つた身の幸であわ、この世に存在し生冷する所以の本道であ

る。かくて魚旗のためには、釣針にかからないといふことは限わない不幸であゎ、その生き方の本道に管長Lた

行篤とされたのである。さうでなくては、海綿の官業は、魚族に封して何等の宋罰ともなク得ないのである。

忘義幸湊・山車薄型の紳騎は、決Lて我が同額特のものではないっ凄くの民族の間に見される詮話の二些唇 右折

(10)

すること、既に若干の単著の櫓没してゐる通タである。セレ∴ヘスのミナハッサに於けろ俸承やカイ島に於ける倖

承の如きは、殊によく渉事務・山幸彦の紳諸に類同してゐる。これ専の説話に於ては、いづれも或る男が友達苦

くは兄から偉力受けた釣針で港町漁して、魚のためにそれを喰ひ取られる。そして元の釣針を返せと責めはたら

れ、困却の末或るものの助けによつて海中に入わ、泉の囁から釣針を探し出して、韓奔責めはたった者に復仇す

るといふ筋になつてゐる。

かくて泰西にあつては、フリードリッヒ︰、エラー︵ヲi已ri已J W・戸害己l且や.エマヌエル・コスカン ︵苧妻ぎーldつ■室︼己︼−︶やlユザウス・アイゼンシュチッテル︵J己il−罪≡誇−1峯宣言r︶などが、我が国にあつて

は堀維孝氏や棟木信廣氏がこれ等の説話と薄幸売・山車彦紳静との比較考察を試み、自分も亦嘗て這般の狩同を

考祝し空﹂L﹂がある。しかL吾人が今回試みんとするところはさうした此絞紳詩趣的考察ではない。海事彦・山

車売神話のみが一つの特異鮎之持つことを指摘し、而してその特異鮎が持つ民族精締約意義を明かにすることが、

吾人の意園するところである。

今宵つたやうに、海幸彦・山車直前話は南方の諸民族の間に幾つかの兄弟分を持って居カ、説話を構成してゐ

るモチーフ及び話廠の殆んどすべてが日本と甫洋とに於て共有されてゐる。その意塊からすれば、我が国の侍承

は決して物珍らしいものではない。それは一つの﹁世間並み﹂な観想の表Ⅲに過ぎないと云ふことが出奔る。し

かしその﹁世間並みしの底に潜ってよくよくこれた凝成すると、そこに日本的な或る特徴が閃めいてゐることに

東がつく。海幸彦・山車車軸話は、釣針を呑んで逃げ去つた海魚に関する一段に於て、耗日本的な粧想を展開さ

≠承に視れたる日本鱒篠の金治洩念 .●_ = ノ■▲ 4S7

(11)

竺漂遠れたる計本民放の生終理念 −0 せてゐる。上代日本民族は他の民族のそれから明確にこの紳話を抵糾するに足る猥臼のスタンプを捺Lてゐるの である。 第一に.他の民族は.釣針た呑んで逃げ去つた涛魚の行動を不都合とも何とも考へてゐない。いな魚族の立場 からすれば正しく嘗然な行勤であるとなしてゐる。然るに日本民族のみは、これを不届き至極な行動として非難 呵責の限を以て眺めてゐる。そして日本民族の立場に立つとすれば、這般の非難呵賀は拘に嘗然である。なぜな ら、日本民族の靭念・信仰に程へぼ、魚族にとつてもまた天神の御子に奉仕することがその存在・生活の本道で あ少、而して釣針を呑んで逃げ去ることは、さうした奉仕の本道に背廃すること以外の何物でもないからである。 γメノウ一︵J 雪盲事記.﹄紳代巻の︼の紳諦・によるると、天宇受章命が、或る時、 ﹁悉に繍贋物緒秋物を追ひ衆めて、汝は天紳の御子に仕へ挙らむやと間ふ時に、諸乍の魚ども皆仕へ奉らむ と自す中に、薄鼠自さす。かれ天草受章命、海鼠に謂ひけらくl此の口や答へせぬ口と云ひて、耗小刀以て 其の口をホきき。かれ今に海鼠の口布けたり。﹂ とある。吾人はこの紳話に於て、魚族も亦国民と同じく皇皇に奉仕すべく存在するものであるといふ堅い信念の 閃めきを看取せざるを待ない。そしてさうした信念の下に生きてゐたことが、日本民族をして港幸彦・山車透の 紳話に於ける涛魚の行篤に関して、他の民族の帝話に見るを得ないhぎdぎ品を敢てせざるを得ざらしめたので あつた。 第二に、劣くの民族の新想によると.動物は人間に食はれるのが苦痛ではない。いな食はれるのが本道である。 ヰ8各

(12)

中に敬畢があが少、漁人ほさまざまの穐物を輿へられて、明界に迭少還されたといふ。 この型の統語は、多くの民族の間に存し、中には、 Ⅰ 双物を抽き取らせた複、漁人に迫って爾後魚獲を止めることを誓約させる。 若くは、 Ⅱ 匁物で傷けた行常に対して県債を要求する。 停東托観れたも日本民族の塵括理念 経って人間に挿はれるのを煉って逃げ去ると.釣針や授槍などのおのが襟にささつたのを解り去ることが銅系な

いで、大いに苦しまなくてはならぬ。そしてその苦悩を祝するの道は、人間の助けを借りてこれを披き取つて貰

ふだけであるとされてゐる。たとへば、ハイランドの民間説話の一によると、海豹捕獲を業とする一人の男が、

或る日海上で一匹の海豹の餞に小刀を突き刺したが、海豹はその俸逃げ去った。その夕方馬に跨った一人の男が

彼を呼び留めて、藩豹の皮を繋ク汚いといふ者があるから紹介しょうと云ふ。漁人が勝誇の意を示すと.見知ら

ぬ男は、彼を馬の背に抱き上げて一散に駈け出した。やがて清適に発たかと息ふと、見知らぬ男は、いきな少抽

入を抱いて断崖の上から海中に飛び込んだ。気た失つた浪人がふと眼を開くと、いつの閥にか海底の涛豹の鮮に

凍てゐた。見知らぬ男が、彼を一つの贋間に案内すると、そこには一匹の藩豹が唸き苦しんでゐた。見るとーそ

の餞に小刀が突きささつてゐる。見知らぬ男は、漁人に封って﹁これは御身の小刀であらう﹂と尋ねた。漁人が

冷汗をかきながら然カと答へると、﹁どうか御身の手で抜き取つてもらひたい。さうでなくてはどうにもしやう

がないから﹂と、見知らぬ男が暦数に頼んだ。漁人は直ちに小刀を抜き取つた。と、忽ち薄約の傷がいえて、館

j8ウ

(13)

停乗に現れたる日本鱒族の生活強食

ことそ挽くものがあるが、それ等はみな木原的な戟念・信仰から逸睨した後部の停承型に過ぎぬ。

嘗て郡稿﹃常葉集に於ける宗教・紳話﹄に於て考改したやうに.白庶民族は、おのれ等の食素過程む平滑安全

にしたいといふ強い欲求から、動物を嚇した少、欺いたゎなだめすかしたむして、人間に捕はれ且つ食はれるや

ぅに導く多くの呪術的方法を案出してゐる。動物は人間に食はれるのが寄びであゎ、その事びを無にして逃げ廻

ると、大きな災ひや苦痛を蒙るといふ親念の如きも、畢発するに自然民族に於ける這般の人間中心的な考へ方の

毒物に他なら喝。海事苧山車彦神話も木原的には−さうした戟念信仰の産物であつたかも知れぬ。冷本信東

氏が雪日本紳許の研究﹄に収めた論考蒜芸姫偉詮の一考察一也に於て、

﹁要するに豊玉姫の偉詮は、本葬狼しそこねた動物を尋ねてその固にゆき、彼が自ら傷けた・その異族の女

を暫して之と結婚し、これによつて異放と縁故を待て富を保語されて摩るといふ形式であつたのだらう。此

統語の奥底には、動物が本国で人間の様な生活を迭少.之を殺し食ふことは動物にとつて苦痛でない。ただ 途中で柵つき釣針つきのまま逃げ出すと、却って苦しまねばならす.之を助けるため人のカを待たねばなら

ぬといふ原始的な思想が存してをるらしい。﹂

と乾かれたのは、この鮎から云つて.まさに首肯すべきであらう。 Lかし日本民族はこの鮎に関しても、更に進んで珊特な考へ方にまで到達してゐる。即ち冒本書紀﹄一書日

が啓示するやうに、日本民族の観念し信仰するところによると、動物は解く人間に食はれることを尊びとしてゐ

るのであるよりは、寧ろ天紳の御子・天皇といふ特定の御方に食はれまつることをぁのれの喜びとし−光発とLl 490

(14)

生清の本道としてゐる。﹃萬集集﹄に詠はれた辰と蟹とは・普く人間の食料となることの喜びを述べないでl皇

室の御食料となることの光粂を祝いてゐるし、天字愛東命に呼び集められた鮨贋物・鰻秋物も、すべての人間に

ではな′㌧て,天秤の御子に革へまつることを誓って居る。更に釣針を呑んで逃げ去つたロ女魚も、廣く人間の食 物となることの喜びを失ふぞと叱られたのではなくて.特に﹁天孫之僕﹂に預るの光柴をなくするぞと叱られて

ゐる。吾人はそこに日本民族滞日の額念・信仰を認取せざるを得ない。

日本民族にとつては、おのれ等の本営の生きる道は、唯一つしかなかつた。天皇に奉仕すること・!それが生 き方の理念であつた。そして上は自然の静々から下は鹿・蟹・魚族・虻.に至るまでが天皇の御集めに存在し生括 すること⊥て尊びとしてゐると観じたのほ、窮畢する三言、日本民族が抱持Lてゐる生き方の理念の、他の存在

藤への擁充に他ならぬのである。

︵四︶

日本民族がおのれ等の生き方・在ク方の理念を天皇への奉仕に求めたことは、頗る礪異な現象であるが、しか

とくにひと Lそれが濁異と映するのは、外つ囲人の心眼に封Lてであつて、日本民族にとつてはまさLく三の必然でなく

てはならなかつた。

第一に、日本兵族の輩固な戟念・信仰に従へぼ、国土は単に前によつて造ら・れたものでなくて.親しく生み成 されたものであり、而して国土の生みの親は、同時に圃を治める者の生みの親である。竺す本番紀−mは、 偉承に現れたる日本鱒族の生活瑠令 49Ⅰ

(15)

停承に現れたる日本拭族の鹿清理念

︼四

﹁伸葬詳密伊弊再宜共議日。吾己生二大八洲及山川草木?何不レ生ュ天下之主著一欺。於是共学一日紳再挙大日

寧貴可此子光華明彩照ェ稀於六合之内ピ

とあゎ.﹃古語拾遺﹄にも.

﹁未開闘之和。伊弊諸伊辞世頑英軍夷鮨再生二大八洲及山川草木可攻生三日紳月沖叫辟後生二葉箋囁紳ご

とある。而して目顔なる天照大神こそは、我が亀皇の御組尭でおはし豊㌔かくて日本民族にとつては・治めら

るべき闘士は冶むペき者と同胞であゎ、かくて国家に整,ことは、やがて重宝に轟すことであか、重宝に奉仕す

ることは、即ち囲家に奉仕することに他なら鞄。他の諸々の属族も固よむぉのれ等の団土を愛し且つこれに藷す

ことを念願としてゐる。しかし彼等にとつては.園土に忍すことと統治者に壷すこととは一度々意義を具にLて ゐる。意鶉を異にしないまでも.これ等二つの﹁壷すこと﹂の間には或る程度の開きがあゎ、ギャップがあるこ とを奈何ともすることもⅢ釆ぬ蕃偶の下にある。これに反して我が囲にあつてはl今云つたやうに、陶土に壷す

ことと皇室に黍すこととはー二つの﹁志すこと﹂ではなくて重く一つの﹁毒すこと﹂である。日本民族は・尭づ

第一に、この意味に於て天皇に奉仕することを以ておのれ等の在か方・生き方の本道とせざるを待ない。

第二に、我が囲に於てはー皇皇と臣民とは単に統治する者と続治される育との闊係にあるのではない。二者は

芸ヤケ ’十ケ 本葬同じ﹁宅﹂であると信ぜられてある。重宝は﹁大宅﹂であ旦l民衆はこれに封して轟く蒜﹁小宅﹂である。 †カラ かくて皇室が臣民を統べ治め給ふのは.畢尭するに﹁宅﹂の最尊貴者がその家族高の福祉のために亭を行ひ給 ふに他ならぬ。それが即ち﹁おほやけ﹂︵公︶であわ、﹁トらす﹂冨る。皇皇は民衆を﹁うトはく﹂のではなく 492

(16)

て、﹁Lらすしのである。或る単著たち−庭とへぼ清原貞姓博士が、﹁うしはくしには私的な意味が含まれてゐ

るに封し、﹁しらす﹂には公的な意味があると云ってゐるのは、頗る示唆に富むといはなくてはなちぬ。かくし

て我が囲に於ては、皇室に奉仕することは﹁宅﹂に奉仕することであゎ、而して臣属もまた﹁宅﹂の一構成素で

あるが故に、天皇の御蔦め一に生きることが、どうしても日本民族の生き方の華南最善の理念とならざるを得ない。

第三に、尭に緯改したやうに.天皇は紳にましますとされてゐるが.LかLその意味は、他の諸々の属旗のそ れと全く異ってゐる。他民族にあつては、諸々の紳はそれぞれ切少韓された紳である。その間に親子.兄弟姉妹、 夫妻等々の関係はあるにせよ.兎に角各々の紳が一個璃自の存在態左なしてゐる。ゼウスはどこまでもゼウスで あつて、決Lてアポロンではないゥこれ等の紳が轟く或る﹁共通達した磯承Lてゐるとは考へられてゐない。然 るに日本民族の翫念・信仰では.天皇が雨でましますのはーその御組宗の蚕と不可分の関係に於てである。御租

采の震であゎ、同時に御絶宗を穏承し給う方々に通する一の﹁永遠襲﹂に生き給ふところに、浅紳としての天皇

がまします。かくして天皇に奉仕することは.やがてまたその御租宗及びその場承者の方々に奉仕することを意 味する。そLて御組宗は即ち囲土とその生みの親を同じうしておはす。かくしてこの意味に於てもー我が国に於 ては民衆の在力方・生き方の理念が他の諸民族把見出し難.い濁特のもの・−而して我々にとつては極めて自然な ものー・iとならぎるを得なかったのである。 停承に現れたる日本鱒族の生活姦念 4ウニl

(17)

宗教の研究上から神道を眺めてー彼の神社神道とか、固醸紳道と・か.宗派的細道とか.名づけられるものに、

まだ分岐して居らない前の神道、見れ等の紳遣がまだ揮然として一髄としてその機能を働かしてゐた時分の紳道

を惟押遣と呼ぶならば、此惟神道の研究から見る時は、宗教は之牽一つに分類して.閲家的公敦と個人的私教と に分別して考へるのが便利だと息ふ。此分将を用ゐる時は.惟紳道の性質た.宗教夢的に餃程分明ならLめるこ

とが班乗ようと恩ふ。そこで、今幼く、此親鮎から一般に宗教又は惟神道の考察を述べようと息ふ。

こゝで余の所謂園家的公教とは、稚爽の宗教単著からは、開展的宗教と呼ばれたもの.個人的私敦とは.その 朗詳個人的宗教、即ち菅通約︵世界的︶宗教に緑営するものである。故に個人的私敢は、国家と閲聯して考へれ ば、そを信すると倍ぜざるとはー一価人一倍人の自由探量直垂せられたものであゎ.その宗教億道も−宣教者伴 遺著が、一価人相手にその道を億へて信仰させ、改宗もさせて行く朗の宗教であつて、彿基二敢の如く−其博通

者を四方に渡して、その宗教の道を世界萬開の人々の間に宣布して、その一人⋮人たその宗教に引き入れてゆく

厨の宗教である。道程の傭人的宗教は、又.普通的宗教、世界的宗教とも呼ばれることは、余の繹詭左要さない

国家的公敦と個人的私故

国家的公教と個人的私数

加 藤 玄 智

ヰ9ヰ

(18)

朗である。遭種の宗教は.英借不信、採用不探用は全く個人々々の自由選樟に一任されたものであつて、国家の 縛力などに由つて.官樺からその倍不信を左右されないことを一般性質とする。勿論それとても観象の立場から 見て、無條件的自由に放任しておく朗と、或一定の保件を附して、其普遍的宗教、即ち個人的宗教たる余のこ1

で謂ふ桝の個人的私敢の採否が行はれてたる斯と二種の囲家がある。ベルギーの如きはその囲の憲法の規定上前

者に屡し.日本の如きは其後者に屡する。国家の取扱上斯る二様の甚別があつて、一は條件附の自由.他は無條

件自由の二色に分れてはをるが、要するに、普遍的宗教、即ち個人的宗教は、一個人一個人の私事として、園家

からは取扱はれてをる。是れ、西洋ではその宗教へ即ち基督教が個人の冬草.即ち︼宣一手芸︼︼〇として取扱は れてゐる所以である。我が国でも.沸教は、大牌此性質を有った宗教として取扱はれてをる。是れ俳教が紳敢行 政と逢って内枠省で取わ政はれす、基督繋と同じく、文部省の所管であ少、日本人にLて紳祀参葬を拒否する如 きは、事資上精輝の的となるが、日本人だからと云つて、皆が皆−京都に行けば東西本筋寺の御堂に参拝しょう

としまいと、それは銘々の勝手であゎ、束京に衆た所謂御上りさんが一々皆駿河茎のニコライの魯堂に御請わを

せねば、政府から叱られるといふ様な事は葦末もない。見れ個人的宗教︵普遍的宗教︶が一個人一個人の私事に 爵する明かな澄楳である。然るに、邦人が一度伊勢雨宮の紳域に入つて神宮に参拝せねぼ.非囲属の毀を男ひ、

日本の固豪から御叱を蒙少、国展金牌から指揮すれるのである。是れ、前者が個人的私教であつて一倍人の私事

に属し.後者が所謂囲豪の宗祀であつて、国家的公教.即ち全国民の行事である共用から乗る結果である。此に

個人的私教と国家的公教との相異と斯る二穫群の宗教事象の現存に閲する尊貴が能く把起されると息ふ。

婚家的公敦と個人的私敦 495

(19)

帥家的公敦と個人的私政 一八 宗教啓上の考察からすれぼ、かう云ふ次第だから.惟紳道は、日本に於ける関豪的公敬おと詞ふことの結論た ヽヽ 今この事穿からも尭づ薄すぼんやりと気柱かしめると恩ふ。香惟紳道は.宗教撃上からは、資に一種の宗教︵普 遍的個人的宗教に非す︶ であつて、個人的私教に封して一国家的公教と名づけられる宗教の位置を占めてをるの である。今此鮎之.少しく左に詳論してみよう。 惟細道が宗教畢上.一種の宗教であることは、宗教単音間には異論の無い所だと息ふから、今更此に管々しく 惟神道は一環の宗教なりなどと云ふ論明に紙数を賛すことを避けるが︵胡著神道精嚢蓼照︶−岩L紳と人との関 係を梼準にして宗教塾上の宗教を分弊すれぼ.宗教は.細入懸隔敢と細入郎一致との両者にー荒つぽく云へぼ、 分類される。その中で、惟神道は紳人懸帖教では無いが、紳人即一敢と云ふ一種の宗教であると概論することが 出奔る。それだから惟細道は、坊間市井に倦へる様に、宗教で無いと云ふ考へ方は宗教噂上成立しない。惟神道 は明かに一種の宗教である。そこで今日かう云ふ時勢になつた薦め、世間でも之を宗教と云ひたくなつたが政治 上の倖統もあゎ、之を避けて閲饅信仰などゝ呼ぶに至った。若し又宗教を稚爽の宗教単著の慣例に随つて国民的 宗教に封し普遍的即ち世界的宗教と置分してみるならば、惟紳道は、普遍的又は世界的宗教ではなくして、囲民 約宗教である。一個人一個人を軍使と見す、一国民仝駿︵或は国家的宗教の名稀之用うるも可ならん︶を萄げて 一軍伐として考へる所の宗教である。即ち個人的宗教︵郎ち個人教であつて別名普遍的宗教︶ に封して、一国の 政治組繊と密着せる国饅的宗教即ち国領教である。是れ惟紳邁が固慣信仰なじ㌧の名ある所以であつて−人によつ て按、閣僚宗教とも呼んでをる所以である。一国民全部奉って.期せずして自然に︵即ち惟紳に︶邁種宗教の奉 ヰ〆・

(20)

戴者所有者である。欲し求めて︵即ち同心して︶その信者となづたのではなく、生れ落ちるよむ嘗該園長の血を 受けてせの中に田て発た以上、文一園民の精神上無形の血液として、生死敦宗教の奉穀看たるものである。是れ 恰も鳥は飛び、獣は走り.鳶飛んで天に庚わ魚は躍ると同様である。鳥に走らせ獣を飛ぼすことの出奔ないと同 じである。是れ又水高に驚らす必ず卑に就くと同様である。此意味にて何人教︵普遍教、世界的宗教︶は後天的 であゎ、飽から吹き込まれた宗教で、習得教であるし︵彿基二敢闘係に於ては、輸入教︶、日本の国民的宗教︵園 豪的宗教︶たる惟紳遣は日本の全国民に亘って尭天的であゎ生得的であるとも云へる。是れは輸入教に封しては 固有軟と名づけられる所以である。惟細治定この性質があるから、此れに余は囲豪的公教の名を命する所以であ る。この囲家的公教と個人的私敦との二種群が彿華一教のみならす、宗教単上、色々の宗教現象を辟納的に事資 に基づき比較研究して行くと分かるのである。是れが今日宗教拳上宗教と命名する所のものであゎ.又我が惟紳 造が宗教車上に謂ふ所の宗教上に占むるiE嘗な位置である。然るに今礪って明治以後西洋語の芽露ぎ:品諾 して宗教の文字にて表出せしむる紅至った起源とその慣用例を史的に考査して葬ると、明治二年に日額通商條約 の公文の文面に此宗教の文字が見えるものなどが恐く維新史上背いもの1一つであらうと鳳はれるが、それに由 って見れば、こゝでは宗教と云へぼ基督戦︵即ちそれは普遍的個人的宗教に属する宗教︶を指してをるし、後ち 基督軟と同様に、普遍的個人的宗教セある沸教もその中に入れて考へられる辟路を取わ.以て宗教の文字が使用 されて苑てをる︵その史的評論は繋を避けて此には略す︶。故に明治初年に欧米及本邦で宗教拳の研究が今日の 将に進歩してをらなかつた頃に於て、邦人の宗教なるもの1概念は主として鱒孝一軟を宗教の標準と見て、換言 囲家的公敦と個人的都政 ヰ97

(21)

鯛家的公敦と個人的私数

二〇

すれば∵普遍的個人的宗教女廠て宗教そのものと見−之を宗教の警養警せl歯髄教たる団居的宗警lこれ

に関らしめなかつたの冨る。香その圃倍数売る観虔的宗教が某教として厳存してをる事警へ束が注かなかつ

たの冨る。然るに本邦宗教畢の研究の進歩は−普遍的個人的宗教に封して圃常数たる歯虐的宗教が存立し、前

者は偶人々々の私事に屠する個人的私警あるがー綬者は国家的公教と挿する性質の宗教であると云ぶことが分

って禿たのである。明治二十二年に帝開音法が聾布される頃に於示ても、侍宗教とし云へば普遍的個人的宗教の

こ与あつて.則ち個人的私警−意味するものだと考へられてをつた。言で帝圃憲法の第二十八條に警

日本毘艮は安寧秩序を妨けす及臣民たるの兼務に背かさる限に於て信教の自由を有す。

晶雪・完。その信教の語中に含まれる教、即ち宗教は,普遍的個人的宗警雪雲て、日本の蜘民的宗教

である国領教たる惟紳道は含まれてゐない。然るにそれたも宗教の語中に含ませて宗教は個人的私教と囲豪的公

敢との両者から成立するものと考へる様に莞たのは一本邦の宗教単研究が蟄達した今日此頃の事で雪と息ふ。

何て憲法の第二十八保の信教白由の條文中、その所謂信教の幣たる宗教庶普遍的個人的宗教射ち個人的私警み

売精Lたもので、国家的公教は開らないものと見る可きであ毛否、千首不欒の我国撃でのものの意味たる開家

的公軟即ち惟神道の本位に封してその頃然たる本位モ明にせんが薦めに傍位に在る智東的宗教個人的私警占む

べき位置を明示したのであ為。則ちその私信仰は、国家的公専たる惟細道を寄せざる限に於て信教自由の許容と

云ふことになつて苑たのである。それを惹警は、悼辞道などの文字を使せすして、もつと廉く抽象的に安寧絆

序を妨げす及臣民誓の寮特に背かざる限と、かう制限し一條件附けたのである。而て我が国蒙的公敢たる憺蕗

⊥:tb

(22)

道は、一度斯る宗教軍的限定た以て我が憲法の第二藤條東

天皇は諦空にして存すべからす

を讃下す時、その紳人釦一致であゎ、国家的公教セあることがこの佃條に於て.能く云ひ表されてをると息ふ。 蓋し此備文の天皇は単なる人間としての天皇に在さすして、資に紳にして皇.皇にして紳たる紳皇に在すことを 規定して、天皇は紳畢.即ち紳.神明に衣すことを公示してをるのである。蓋し我国の盲諸には、之を明津紳− 漢人紳、又は現︵顆︶紳などと申し上げてをつたのである。是れ則ち憶神道の特色である。箕に天皇葬戴に−人

間以上の細入即一教と云ふ一種の宗教が現存してをるのである。それは紳人懸摘敬し﹂云ふ宗教ではないが、紳人

即一教と云ふ央張り景教輝上一種の景教であるし、而て之は則ち我国に於ける国家的公教である。苛も日本闊民

ならば、率習−レて始めて知り得た宗教、詮津を聞いて聾心し、入信し.宗教たる借入的私教ではない。日本人は

は惟紳道と云ふ某敢は、さう云ふ宗教奉戴者七して生れ附いたもので、それは日本人の生得的宗教である。日本

人であるならば−何人も遭穏の宗教奉戴看である。日本人なら、常人奉戴の圃民約宗教、重囲民を奉げて其葬戴

者とせる国家的公敢である。憲法第二十八條の所謂信教白由なるものも、これは保件附きの自由であることは、

その條文に明記されてある通わであつて.悼辞邁主茶ふ斯る国家的公教を隷想し之を服管した上に於て、その上

で如何なる個人的私敢の信者℡あつても美女無いと云ふことに綽着されてくる次第である。

以上国家的公敢と傭人的私教との直別は日本圃家と結び附けて宗教を研究し、我が園懐の痕ざせる惟諦道の研

究に賛するものがあることを息ひ受に之を一首した所以である。今日能く耳にする公葬問題なども斯る研究を参

拘家的公敦と個人的都政 499

(23)

拘家的公敦と個人的私敦

(24)

ま へ が き

国民生清の先安し向上してゆく複雑な過程は到底一律の原理を以て爽留め得べきものではない。少くとも、手 許を歪曲することなく把捏しょうとする単的良心にとつて、か1る絆みが不可能なることは蓋し嘗然のことであ らう。もしそれ、基虚なる概念を羅列して即ち畢的認抽の能事畢れゎとする人々があるならば暫く措いて間はす、 こゝに我々が畢一なる理念を提げて国民の歴史に近づき得るのは、たゞ何事か己み難き資践への意蘭を懐いたと きのみである。即ち、境づ資践への意閻あカ、而して園民の凍意を結集してその賓現に進まうとするとき、歴史 は恰も一角に支はれた挺子によつて推進しっゝあるもの1如く信じられて葬るのである。これ必ずしも不可では ヽヽヽヽ ない。いな、強力なる賛践は.かゝる一元的信念から生れる。しかしながら、故に草間と野際との距離のあるこ とを忘れてはならない。ま汽これら二つのものを歴史の原動力として、互に相補ひ補助くるものたらしめてゆ く方途が示唆されてゐることをも知らねばならぬ。元釆、単的親祭の前に見糾されてくる歴史は多元的動因を内 推 tこ岱佃

歴 史 と 信 仰

島 原 逸 三

5つⅠ

(25)

歴史と信仰

二田

査せLめてゐる。なるほど、一囲豪の歴史は、これを痩hつ1ある囲民の生酒カが旺盛であれぼあるほど・讐 なる同家理念を中核として展開してゆくこ土は事鉾である。即ち・確固不抜の思想と感情L意志左欲望とによつ て一貫された推進を試みてゆくのである。トかしながら、それは、かゝる理念が単一なる原理として・礪h自ら 塵取的蟄展の稜々相を規定してゆくといふ意味ではない。交叉し錦綜し、淳喝し交渉しっ1、歴史の内面に働く これら多元的動因中の一元として、か1る理念がその基調を形逢ってゆくのである。トかも歴史最高のこの推進 ヽヽ 力は、か1る交叉や錯綜や,楼閣や交渉の故に、その括動の方向や様相を縫えす欒化してゆく。啓開はか1る全

ヽヽ 標的見地からどこまでも専坪の虞相を見失はぎらんとする試みであり、坪際はその光場竺領域に求めて具餞的

目的を達成しよう七する企てゞある。両者は五に鼎阻む性質のものではない。山上に立って四通八達の野路を酵

撤する者は山下の一街道を進む者の妨げとはならない。いな、旗人が道を英はうとするときーそのjEトき方向患 指示するものは山上の鳥撤によつて成つた璃圃である。埋間と賛際L﹂がl各々その所に立ち・互にその分を守っ

てゆくならば、雨音の間には扶助の途こそあれ決して妨害となるべき理由はない筈である。

さて、これを近代闊豪としての新日本建設の歴史に徴すれぼどうであらうか。我々はこの八十年の蟄展過程の

ぅちに、先づ,一貫した生命の躍動を見る。即ち袈鞄なる閲豪意隷がその諸々の推進力の根抵に働いてゐるので

ぁる。殊に幕末から明治にかけての四十年間がそれであつた。また昭和五六年の頃から今日に及ぶ十年鮫がそれ

51)2

(26)

である。かの日清.日課の戦役に於て、脹のあたり・にモの成果を見た新時代の建設、如ち、教育制度の創設、政 治憶制の確耳.経済機構の租絆、観防軍備の皐備、絶てこれらのものゝ背後に動いてゐた帯勃たる国家意識を見

るのである。更に清洲事襲、支部事攣さては大東韮戦争と、いよいよ出でゝ愈々堆大なる歯豪目的の連行にま

で費展し来ったこの旺盛なる国家意論を見るのである。たゞこゝに看過すべからざることは、所謂﹁島囲日本﹂

の明治維新を成就せしめたかの精細と、所謂﹁大東亜日本﹂の昭和維新を推蓮せしめつゝあるこの精紳とは.同

じ閲豪意識であゎ、同じ国民精細であつても、必ずしも同一の内容を持ってゐないことである。試みにこれを嘗

閣家主養ならびに新開家主裁と呼ぶならば、前者に於ては、圃豪は主として国際関係から見られてゐる。即ち、

列強の間に立つべき国家である。﹁囲利尻謁﹂といひ、﹁富国強兵﹂といふも、それは他国の間に伍して劣らない

囲振として考へられたのである。この嘗囲家主寮のかゝる性格は.いふまでもなく、西洋文化とその背後に動い

た西洋諸国の勢力との前に立った閣民の胸裏に醸しだされた図表意論に由布してゐる。即ち外連から現れた動因

がこれに携つてゐるのである。かの﹁鹿鳴館風景﹂に見る欧化主義や、﹁雑婚奨励論﹂に見る西洋崇拝の風潮も、

これを裏面から見るならば.囲よカ我が囲をして欧米に劣らざる﹁閑地﹂の圃たらしめようとする囲民精細の現

れでもあるが、そこにはまた顛著なる欧米文物からの制約のあることを否定出凍恵からう。菩国家主義は﹁国際

場裡に立つべき日本﹂への関心として蟄勤したのである。ところが新国家主義はさうではない。勿輪そこ紅は. 国家主我として−仝僅への関心が動いてゐることに襲わはない。しかし今やその内容には前者に見出し得ないも

のが盛られて釆たのである。このことは、この南関家主萬の時代の中間に∵一つの時代が介在してゐる粘から明

歴史と信仰 503

(27)

歴史と信仰 二大 自である。即ち.一つは明治阿十年の頃から第一攻世界大戦の前夜に亙る一時間である。かの﹁自然主義文蓉﹂ が年若き国民屠を風靡した時代である。国家的踊心は個人的関心紅移動し−生活の外面的保伴を建設せんとする 興味は生清の内面的條件を直税せんとする興味によつて置換へられれたのである。我々はこの時代が第一次世界 大戦によつて切断されたことを審ぶべきか僻また悲しむべきかを知らないが、とにかく、こ1年擾頭し凍ったも のは、何人と、彼の内面生活とに関心の的を見出してゆかうとする精神であつた。仮にこれを個人主義及び内面 主我と呼ぶならば、我々がこの傾向の中絶を書ぶといつたのは、か1る精紳の横溢にもか1はらサー更に時代の 縛換したことによつて、新日本建設の原理たる国家意識は、その本質に於て、撹乱されなかったことであゎ、ま た我々がこの傾向の頓挫を悲むといつたのは、外連の事情によつてより多く制約されてゐた圃家主鶉が.未だ十 分に.個人的にLて内面的なる要求によつて一瞥の損蒐を見るべき械骨に通過しなかったことである。従って. この時代の傭人主義、内面主我は、多くの人々にとつて一軍に享欒主義と相去ること遠からぎるものに止まつた のである。﹁牛獣主義﹂、﹁悪魔主薬﹂といふやうな言葉さへ営然の人生割としてロにされたこともあつた。幾分 の理想主義的生酒態度を取庚してきたときでも、それは伺﹁摺愛至上主我﹂といふが如き人生歪曲の息想や感情 を出でなかつたのである。しかしながら、こゝに注目すべきことがらがある。眈にこの時代を通過して邦た我々 は、国家建醍の間麿が、個人建鰐の問題と切離すべからざるものであることを拳んだ鮎である。生括の外面的僕 件を整備せんとするエ作はl生清の内面的條件を十全ならしめんとする作発と表裏一鰭の開係にあることを知っ た鮪である。かくして新顔家主義は今やこれ専のことがらを意諭せざるを得ざる立場に置かれてしまつたのであ 504

(28)

る。かくするうちにも時代は移っていつた。この第二の時代は第一次世界大戦の終結後満洲事襲勃事の前後に至 る十数年である。この時代の前牛は、所謂﹁社食意識﹂覚醒の時代であり、更に所謂﹁経済史額﹂高唱の時代で あつた。而してその後牛に入つては、所謂﹁持たざる囲﹂の生括樺を如何にして確立すべきかの問題が異常の関 心た以て取上げられて死たのであつた。前者は自由主鶉的資本主義産業制度の下に置かれた国々の揮済生活のう ちから生れた新情勢であり、後者は英米の世界制覇鰻袖の下に浸かれた国々の政治生活のうちから接頭してきた ヽヽヽヽ 薪精繭であつた。人間生活の問題は、社命的諸制度のよりよきに向つての建設なくしては解決の途なしとカ籠せ られ、而もこれ等の諸制度は一つに経済機構の如何によつて決定せられると強調されたのはこの前郷のことであ り、また没国家的な世界主莱運動が時庭せられ、﹁大陸政策﹂としての日本主兼が昂揚せられたのはこの後堺の ことであつた。今にして顧みれば、この明治末斯から昭和の初年に及んだ二十数年間は、我々にとつて寒心すべ き思想混乱の時代であつたが、しかも能くこの激浪のうちに相して国家の進路を誤らしめなかったものは国民生 活の板紙に動いた取扱なる国家意識であつたのセある。だが前にいつたやうにかゝる閲豪意識は既に薯痍のもの ではなかつた。即ち嘗固家主藻の時代が新国家主義の時代に移入してゐたのである。国家主事に新たなる内容が 盛られたのである。一言にしていへば、﹁国際場裡に登場すべき新日本﹂ への開心た中頼とした嘗閉家主我が、 ﹁固民生括の充穿と向⊥とに向つて托蓮すべき薪白木﹂ への意蘭を中壕とする新国家主義によつて置換へられた のである。﹁島開口本の囲威を蟄揚すべし﹂との要望が.﹁大陸建設の豊栄に挺身すべし﹂との城聾に欒縛して禿 たのである。而もこれ等の時代を通過Lて釆た同居の前には更に新たなる時代が待ってゐたのである。その国家 接史と償抑 51>5

(29)

歴史と信仰

二八

憲治は今や﹁日清支一博化﹂の意園を寧み:大東亜共粂圏﹂の構想を宿し、﹁世界新秩序建設﹂の理想を癒して

ゐるではないか。かく、隆史は単一なる原理によつて展開してゆくものではない。鮭史た推進せしめつゝある動

因は多元である。交叉し錯綜し、凄廃し交渉しっゝ歴史の内外両面に働く多元的原理が、その基調たるペき放本

理念を制約し改婆し、決定し支配してゐるの一である。国家的意囲と遊園家的構想、査醒的関心と個人的興味、外

面的要諦と内面的希求、穐静的憤愕と物質的欲望、総てこれ等のものを結合してゆく国民精細.国家意志の力強

い満劫が国民の歴史を創造してゆくことば興隆国家の革質の示すところである。

国民生治と宗教借仰との問題は、歴史た形迫ってゆくこの多元的動因と、その中棲たるべき一元的動因と毅如

何に結合してゆくかの問題として取上げられるL妄最も切貨である。育換へれぽ、一律単調なる囲艮理想の昂揚

は、国民生治の内面を潤渾ならしめ盟靡ならしめ・てゆく宗教信仰を凝滞せしめることとはならないだらうか。ま

た自由奔放なる宗教思想の横行は国民生前の建鰐を強固ならトめ健欝ならしめてゆく国家理念を阻零するもので

はなからうかの問題である℃我々はこゝで発づ三つのことがらに注目Lたい。弟一は、乙の問題を前にするとき、

東西両津の宗教に見出される一般的傾向た翫察する必要がなからうかと考へられる鮎である。即ち、この間庵忙

対して両津の宗教が自らその立場を異にするものゝやうに観察されるのである。勿論、それはその俸舜と同化と

の歴史が既に久しきに亙つてゐる沸教が、同居生括に港透し、また観民生治によつて溶透せられてゐるといふ意

50ふ

(30)

昧のみではない。更にまた、渡弗日倫湧き基督教が、その事蓮の頚境たゎし欧米の思想と感情とを保有してゐる

といふ意味のみではない。こ1にも問題があることはいふまでもないが、それは更にこれら鞘宗教の浪板に横は

るそれぞれの性格と共に戟奏さるべき問題ではなからうか。元茶菓渾宗教の多くは、人間生括の椒瀕に徹してそ

こに見出される本能の深みを凝成しょうとする。勿論この内両生蒋の把握も単に皮相の欲望や感情の水準にとゞ

まつてゐることも少くない。しかしそれらも亦同じ傾向の種々粕として碗察さるべきであらう。東洋的信仰の問

題は純然たる何人の内面・に見損されてゐるのが著しい傾向である。﹁四門蓮野の物語に象徴されてゐる生郎苦

の人生額がそれであるっ煩悩、迷語、性情、執着が問題として取上げられてゐるのは人生を本能的欲望の浪砥ま

で見届けようとしてゐるからである。かゝる東洋宗教の傾向に比較するならば西洋宗教はその詳題を人間生活の

上原に見出してゐるやうである。茸俵への意欲が築いてゆく道徳の額域を凝成しょうとするのである。なるなど・

こゝにも一律的解繹をもつて臨むことの出衆ない場合はある。生の悩みや死の恐怖甲西渾宗教転とつて間顧とな

らないわけではない。だが傾向は三である。個人内面の問題よわも社食生活の問題が取上げられようとする。

原始基督革の第壷は﹁紳の囲は近づけゎ﹂であつた。博愛、奉仕、献身、犠牲が論鱗せられるのはそれである。

こゝに東西南洋の宗教が、その姦的傾向から見て、園長生括の具饅的建設の問題に封して、必ずしも同横の立

場に置かれてゐない理由が窺はれる。元釆、個人内面の問題を第表とする人生親は、他の社食理念と結合する

ことが容易である。理由は簡単であらう。即ちーか1る人生碗は、何人の内面生活を精強すべき原理として把墟 7 されてわるのであるから、彼の社食生活を如何に掃導すべきかの問題は.未知数のまゝ壊されてぁるからである。㌍ 歴史と信仰

(31)

巌曳と信仰

三〇

一二の宗門は別とLて.東洋宗教の多くは、その宗教信仰と、観蒙理念との開聯が明確でない。それは人間生

清の娘頗にあつて未だ戟念化されない原始的本能治効の領域に、信仰の出費鮎を求め又その綺着鮎を見出してゐ

るからである。こゝに純然たる傭人的にして且つ内面的なる信仰が生れてゐる。又こゝにさまざまなる社食思想

や園豪痙念と融合L魚ぺき性格が生じてゐる。しかLながら、基督教はこれと趣きを異にしてゐる。殊匹華督新

教に於て然わである。そこには明瞭なる社食理念がある。国家理想に想到せざるを得ない思想と感情とがある。

従つて観民生冶と宗教信仰の問題が、か1る西洋宗教にとつて一骨切茸な問題となつて凍るのは嘗然のことであ

る。だがこゝで第二の鮎に注目することが必要であらう。我々は一人間生活の諸相を態察するとき、とかく主知

主譲の態度た取らうとすることである。即ち、初めに言葉あつてしかる後生命があるかの如く考へようとする。

今我々の問題についていへば、尭づ注目すべきは、それぞれの宗教転於ける朝食形態であると考へるのである。

蓋し、割念形漕が先づ組織されてしかる後その上暦に宗教生活が成立し、更にか1る宗教生活の成立が.人間生 清一投を制約するものL妄へられるからである。即ち朝食の如何によつて生活の如何を云点しょうとする態度で ぁる。しかしながら手箕は正に反封である。宗教生清は戟念形慮よクも根源的であゎ.人間生活は真狩宗教生活

よかも農務的である。我々は宗教的観念の故に、宗教生活の債値を云点することの出奔ない場合の少からざるこ

とを知らぬぼならぬ。宗教生汚の故に、酵民生清が直ちに左右せられるとは限らないのである。社食生清と没交

渉な信仰は、そのまゝで直ちに、没社台的生活を生むものではない。園豪理念と闊聯なき世界叡直立つ宗教法官

接洩園哀的行動の母胎となるものではない。素数は、正常なる曹展を途げ発つたものであればあるほど、前足座

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満と歩調を合せてゆく。而して宗教的漑念は、眞に宗教生蒋のうちに把持されてゐるものであればあるほどー閑

居生活の埼外に逸脱するものではない。傭人的にして内面的なる東洋宗教如、その洩社食的・超国家的傾向の故

に、反つて社食的セあゎ、また国家的であることは尭にいつたところである.敢合点想を包蔵し・国家理念を示

唆する基督敢が、異なれる性格を有するさまざまなる囲民生冶のうちに遽透し得るのは怪しむべきことではない。

こ1で第三のことがら空曹すべきところに達した。即ち、前段に見た近代国家としての新日本建設の過程に於

て、この西洋宗教の一たる基督新教が如何なる位置を占めて禿たかの茹である。

幕末から明治の初夢にかけて顛箸なる観象意識の昂揚と旺盛なる国民精紳の蟄動とがあつたことは既に述べた。

この新興先遣は、一面,近代国家の基礎たる立憲代議政硬の建設を促トたのであ互㌔我が囲の代議政治は所謂. ﹁翼賛政治﹂であつて欧米のそれとは本質的に類を異にしてゐることはいふまでもない。しかしながらlそれが

団居の聞からカ環く珪頭し乗る政治的意欲を結集して国家目的の達成に向はしめんとする慣制であることも亦明

かである。こゝ些園長各自の﹁園民としての自覚﹂が要請されてゐる。即ち、教華の問題であゎ、道義の問題で

ぁる。無知を克服し屈従を排除することである。欧米昔流の﹁自由民権﹂の思想は、その日本的性格を妖如せる

鮎に於て誤れるものであつたが、封建政治め健制下にあつて而もよく﹁大政英軍の政治的意欲を取戻して茶た

過慧ら見れば、か1る思想基反動の激流として己むを得ないものであつたかも知れない。量的雲意慧 弼

歴史と信仰

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歴史と信仰

三二

かゝる欧米的政治理念に座倒されるほどしかく脆弱なものではなかつた。いな、これを日豪葵籠中のものとして、

こゝに今日の政治的基礎を確立Lて釆たのである。基督新教は、この薪気運に封して、直接に開壕に、その槍ふ

べきところを措つてゐる。﹁花岡山の盟約﹂に見る初斯基督教徒の萎は純度なる愛固着の姿であつ挺。彼等は組

歯の園豪的大事業を外に.して信仰に赴いたのではない。基番数を提げて新日本の建設に馳せ参じようとしたので

ぁる。新島宴が囲骨開設を前にして﹁基督教主義大挙設立趣意書﹂を公にしたのもそれである。基督教が彼等に

国家意隷を輿へたのでは・ない。彼等のうちに動いた日本橋紳が基督教を掴んだのである。従ってその宗教借仰は

既に欧米者流のもので漂し、純然たる日本的性格によつて貫かれてゐた。たゞ閲民をして新政治倍制を把遺し

得べき教華を得せしめんとしたのである。たゞ観民たして大政の翼賛に柵應はLき道徳の人たらしめんとしたの

である。即ち、新日本建設のために、百らの足によつて眞寧に立ちあがり得る国民を盛らうとしたところに彼等

の宗教運動の第一幕があつたのである。しかも基客数のかゝる園長運動への参加は単に補佐役としての立場に止

まつたのではなかつた。彼等は彼等自らの創意によつて、国民生括の先発と向上とに寄輿するところのあつたこ

とも赤々見逃すべきでなからう。例へぼ、女子教育や社食事業の如きはその顕著なる賓例では.往いか。今日国民

生活建設の意蘭が、女性日本の向上と、厚生機関の充質とを外にして達成し耗きものと考へられるに到つたのはー

少くとも英和割に於て基督教の示唆に負ふところ大であつたといふべきであらう。さて、か1るうちにも時代は

移っていつた。日裔戦役の終結後、南東の青年暦を形遭つね人々は、かの明治初年に於ける軒昂たる歯家意隷の

桑勤怠のあ衆参に見た着ではなかつた。彼等は、既に功戌む名遼げた家庭の子女の如き立場にあつたのである。

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(34)

辞表的関心が傭人的関心に彩動し、生蕗の外面的傭件を塵設せんとする興味が生清の内面的偉件を直観せんとす

る興味によつて置換へられたと前段に述べたのはそれセある。との闇・基督新教竺一つの意味に於て園長生活の

ぅちに織込まれてゐる。第一は、基督数的信仰は、その包蔵するところの﹁個人尊重﹂の精細の故に、また従つ

て、﹁僻性祓諌﹂の思想の故に、時代の風潮たる個人主義的にトて且つ内面主養的なる傾向と興に進んでいつた

ことである。彼等の聞から、この時代の青年骨壷徹するかの如き﹁自然主義文撃の創作に携はらうとするも

のが陸練として現れた。途直披若き基有数徒の間にか1る時代精神に伴ひ素る感傷主撃呈は享巽主撃三浸潤

していつたのであ宅第二は、基督数的信仰が、更にその包癒するところの﹁人道主薬﹂の故にー従つてまた、

﹁世界主聾しの故に、ある程度時代是正の立場に立ったことである。勿論、それは狭輩に於ける囲豪意識と必ず

しも一義するものではなかつたが∵言には、やがて顛現さるべき﹁大陸日本﹂、更に﹁世界日本﹂への精紳的

準備とも見るべきものが争まれてゐたこと疲見逃すことの別奔ないところであ・らう。かの自然主義文馨が人間の

本能生清の描寛に向はうとしてゐたとき、モこに清新なる道徳生活の領域を持込んで∵﹂れに﹁理想主我﹂若く

ば﹁漁獲主我﹂の色彩を附興した﹁白樺﹂議の人々の如きは、所謂﹁致命人﹂ではなかつたが、その頃、既に

﹁晩成敢讐の外に溢れ出てゐた基督数的思想感情と無縁の者ではなかつた。しかもか1る事象は単に文垂方面

のみのものではなかつた。彼等のうちには、モの人造主義の故に、理想敢骨の建設にまで棄由した青もあつたの

である。こ1にも観点生満と宗教信仰との交渉を見る。即ち、宗教信仰は、結局−観点生蒲をその母胎としてゐ

るのである。たゞ雨音の関係は生命の関係であつて物質の関係でないだけである。宗教信仰が園民生清の喝外に

腱史と信仰 5ⅠⅠ

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三四 巌史と僻伸 ヽヽ ヽヽ 険し去つたかの如く考へられるのは、常によゎ盟富にしてよ少盟億なる内容の創造に向つて進展しっゝある蟄居 的なる園民生命に繋がつてゆかうとするからである。更に第三のことがらについて速べて見よう。それは、この 頃から基番数の思想や感情が次第に晩成救国たる基督散骨の外に逸脱していつたことである。これは基暦数魯か ら見れば、基暦数の敗亡とも見えるかも知れない。しかL国民生蒋のふ凡場に立って概察するならば、寧ろ基督教 の勝利である。我々は今日我が開に於て見る基督教命の諸形式が、またかゝる形式のうちに抱擁し得る内容が、 果して圃民生清と如何に開聯してゐるかた知らない。基督教☆は、そのま1の細耗、制度、風俗.習慣を提げて 能く固民生蒋のうちに生命的閥聯を保持しっゝ展開しゆく宗教信仰の機脚たゎ得るや否やは伺疑問の存するとこ ろである。しかしながら、我が国の基督教命が欧米の宗教文化を盛つたそのま1の器であることー又そこに盛ら ヽヽヽヽ れた内容が閉居生括の中頗から遠ざからんとしてゐることに、この基督教命と基督教との秀雄があることは革質 ヽヽヽ であらう。同時にこれは、基督教がその本質に於て観民生活に湊透し、圃民生清がその流動しゆく生命を以て基 督軟に濠透しっゝあつたことを意味する事賓でも−あらう。さても時代は更に碑同してゆく。即ちこの傭人的にし て且つ内面的な関心に燃えた一時間は、かの社食思想が高唱せられ社食遅効がカ祝せられた∵時研に挙っていつ たので哲雪勿論、この時代的性格は、新日本建設の全歴史から見て、挿話的なものでなかつたが決して本流と すべきものではなかつた。その没国家的意圃や.その茎虚なる世界主義精細に.建設遅効の原動力たるペき国家 意識と相容れないものがあつ・たことも亦否定出来浸からう。しかしながら.この一時代が、国民生治の嘗然の蟄 展過程に不可妖なる一薪生面鞋附具したことは前段にも見たところである。即ち、閲兵生清の充資と向上とは、 5エ2

参照

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