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『宗教研究』新第6巻第5号(*50号)

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――目次―― 1,組織神学の方法についての一考察,大塚節治,Seiji ŌTSUKA,pp.1-20. 2,唯識三十頌の立場,広瀬文豪,Bungō HIROSE,pp.21-38. 3,古典文学におけるエリュシウム,主としてウェルギリウスの,黒田正利,Masatoshi KURODA,pp.39-48. 4,社会の進化階段とカトリシズム,プロテスタンチズム及びソーシアル・クリスチヤニチー,中島重,Shigeru NAKAJIMA,pp.49-74. 5,イエス奇蹟の歴史性とその信仰,三枝義夫,Yoshio SAEGUSA,pp.75-94. 6,北方民族の巫術の起源について(承前),赤松智城,Chizyō AKAMATSU,pp.95-104. 7,円頓戒につきて,常盤教授及び二宮氏の所説を読む,横超慧日,Enichi ŌZYŌ,pp.105-127. 8,宗教経験における智と情と,岸本英夫,Hideo KISHIMOTO,pp.128-132. 9,ラーマーヤナと本生譚,甲斐実行,Jikkō KAI,pp.133-142. 10,故島地大等師の『天台教学史』を読む,坂本幸男,Yukio SAKAMOTO,pp.143-146. 11,新刊紹介,pp.1-8. Posted in 1929(昭和4)年

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基督敢が自己の眞理性をま張し、これを世に訴へて以て其唇音を侍播し、紳の固一で凍張せんとす れば、先づ第一に自己の信仰を整頓し組織し且つ其眞理性を開明せねばならぬ。而してこの任務を 塘ふ魔の畢は即ち組織紳畢である。然るに信仰の整頓、組織は畢発信仰の本賓を定め々れ一曾敷節す ることであるから、組織紳草の根本的課題は基督数倍仰の本質の確定と其眞理性の陶明にある。と ころが基督数の本革で捕へ且つ㌣れが眞理であることをま張せんとすれば基督敦信仰は自己を記述 し表現するのみでは足うない。それは必ず他の諸文化、殊に背畢との関係を考察せすしては不可能 である。併しな 信仰が自己の猫自性と普遍性とのま張のために考察す可き文化は自ら一定の範囲に限られて居る。 凡そ基督数が自己の本質を圃如し且っ其真理性を樹立しやうとすれば二つの途が可瀧増やうでぁ る。一つは抽象的へ甘理論に訴へてこれ一紆なすことであり、他は具億的事耳にこれを質すことである。 若し組織醐畢が前者の行方一で取れば、それは自然科挙上の畢設を用ひ左こともみるが、大憶哲畢に 組織耕挙り方法に就いての一考辣

組織紳畢の方法に就いての一考察

大 塚 節 治

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553 机織榊挙のカ法−二就いての一考容 二 よるものと行了り、後者の行方を取れば歴史と賓験とによるものとなる。而して歴史や賓陵も亦.自 然利率上の賓記を介むでは居るが、この場合には歴史は特に一般宗教史と基督敦史に集注し、賓瞼 は内的惜瞼を政扱d庭の心理草と密接な閉係を有つことゝな㌃。されば基衡敦が人間敢骨と遊離せ す常に赦骨に印して北ハ異埋中小し、其融合的存在の意義を発揮せんとすれば其信仰と敢魯文化との 関係一で考慮せねばならぬが、しかも基考慮す可きものは、自ら再挙、歴史や、心理畢等に集注、限 定されるのである。然こに若し紳隼が信仰の自立性一ぎ前週し漫然信仰をこれ等三尊に依威せしめる 昨は即ち紳寧は夫々、介埋ま義の紳草、歴史ま義の神学、心理ま義の紳単に.陥るのである。故に信 仰とこれ等三撃との榊係を正Lく規定すこことは其督教組縦軸草の根本間題を解決するに嘗って務 め決定す可き方法的課題である。 更に基督致信仰は吉雄或はこれを個人中心的に或はこれを軋食中心的に解辞し凍り、今日は殊に 著しくこの南解澤が封立して居るかの如き観がある﹁︶抑も近代に於ける融合寧の螢遽は凡ての社食 現象を自然環嘩殊に赦曾環境の光に於いて眺めんとする傾向を生ペニれが食めに凡ての文化現 象の説明に於て榊人の影は薄くなつて敢曾仝憶の要が著しく浮き上って凍た。従って基督敢の救済 軌に於ても偶人のノ救よりも敢竹の救済が重要親され、個人の魂よりも敢合の組織が婁要崩さるゝか の如く見えて凍た。斯く政令費的研究に依って刺戟された基懲教組織紳塑の問題は上述の如き基督 放り個人的封融合的解澤の問題の一外これに㈲聯せる個人と社食との関係問題.並に融合的環境と個

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∂53

人的精神力とり閥係の関越等一でも含むものである。而してこれ等の関越の解決は軋骨琴的研究から

光を仰ぐことが少くないから基督教は其信仰の憐桝に於て又政令割と牌係交渉を保ち以て自己を正

しく解辞し説明して如かねばならぬ。

l′‘lより軋食草も︰偶の合理的髄系であ∵リ、又歴史的邦画王立脚するもりであるが故に歴史的撃と

考ふる串が出凍る﹁故にこれ一ど理性や歴史の閉域に溶解せしめることも出水るが、然かも融合畢的

研究はそれ自身として特殊な悶鱒で紳隼に提出す乙が故にこ、には背畢−歴史、心理寧等と和並む で紳準に封正するものと考へて術︿。併乍ら融合型的問題は基督教組統帥単に於ては理性︵贋義に 僻す︶や雁史や燈巌の如くに韮要な役割を持って㍍乙とは思へぢい。これ等三者は唯に基軒数信仰

ドケ†チックアポいゼナリグ の本質を確定す乙と云ふ数理や的問題に興って居る外、基本貿の安倍性即ち眞理の問題にも舛恕恕

ドレ・tツタ 的に閥係して居るのみに−しす又謝辞率的にも脚係して居る。従ってこれ等三者は動もすれば信仰自

恍と封斉して北ハ淵源となり、規範と打アリ、而して信仰の自証性た〓さんとする。然ろに軋食草的考

察に依って組織所草に提起さる∼問題は教理単に於ては前述の如く先哲教の救済を個人的に解する か敢骨的に解するかと云ふこと∼打てり、倫叩単に於ては最高書を人格の完成と見乙か軋愈の完成と

見るかと云ふ問題とぢり、卵詑堺では唯物史観の如き反共軒数的思想に封トて基督の眞理を非恕寸

乙ことゝぢん■いでJり一む。然乙にかゝる新設は基懲教皇旦侍すると云ふ賢践の一証場からこそ大なる意

義を有つが、紳単上の理論的興味から云へば巳に昔に片つけられた問題で今更歯牙にかける必要が

軋轍耕聖の宗法に就いてり⋮考案

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564 四 組織酬畢の方法に就いての一考帯 ない如く思はれ一心。されば政令畢的燭心から提起さる∼組織紳畢の問題は羊として救済本質の問題 であつて真理問題には関係が潤い。故に理性.歴史、倍験が本質と眞理の雨着に深大の牌係を持っ て居ろに比して梢重要性に於て劣って居る。 新棟に敢食草的問題は理性や歴史や酷験に比すると第二次的の意味しか持たないのである一が近代文 化科隼の諸閉域に於ける赴食草的関心は賓に著しいもので基替歌紳挙が濁りこれに対して風馬牛た ろこと一竺得ない。さiLば基暦数に於ても歴史醐畢殊に原始某智致の研究の如きは賓に融合的環境の 研究に没頭して屠一っ右ほであぇ。又致曾虹及数理史の方面に於ても同様に赴曾畢的興味に刺戟され て漸次に融合寧的考察が行はれんとして居る。又近代諸椎の政令問題は賓践紳単一ぜして其解決指導 の大任に向はしめて居る。斯様定次第で濁り組織紳隼が敢骨単に対して無関心ではふ∵り得ない。さ れば組織軸やにとつては寧ろ第二次的の関心一でしか喚起しない融合畢的問題も基督数紳畢各値に封 しては極めて重大定る、否最も帝大なる意味を持つこと∼なるのであろ。 斯くして組織紳隼は自ら、信仰封理性、信仰封歴史、信仰封慣歯.信仰封軌骨畢的関越と云ふ四 封の問題を持ち、信仰とその各の関係一で正しく決定す一?︼とが其根本的な課題の一つとなるのであ る。而して理性封歴史、理性封健麓、理性封政令堺的問嘩 歴史封健験、歴史封赴食草的問題、健 瞼封牡合理的問題と云ふ六偶の徒虜的な問題も生じて凍るが目下の盛大嘩 叙上、四封の問題が基 督教組戯画革の方法論上の問題となるのであをじ而して我々は先つ信仰の自立性のために信仰一ぜこ

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5る; の四着から瞳別し信仰の特異性を肌かにし然る後に信仰の北‖遍性のためにこれ等用意との結合をな さねばならぬ。若し信仰の特異性一で明かにせすして唯、漫然と稚性や歴史や醗掠や政令撃と結合 し、これ′で利用して信仰の本貿並に眞坪一官立てんとすれば、そこに紳劉は或ほ合理ま義の紳撃とな り或は歴史ま義の紳如とハ与り、或は心理ま義、ま粗主義の紳畢と打アり或は所謂浅薄なる融合的紳撃 となるの恐れがある。これに反して新し信仰の特異性、非合理性のみーざ葺張してそれが人間の理性 や歴史や健勝や敢曾との交渉・で少しも顧みない峠は和琴は即ち猫断的超自然ま義に隋らて基督政信 仰は普遍冬営牲を蚤推し待す自ら赦骨よら遊離して敢骨と没交渉とへ与る。前者はカント以後の軸畢 老が、部分的にのみ避け而して全倍的には避け待ぢかつた庭であつて今日危機軸畢をして英銀螢を 振はしめる所以であ・る。後者は徒凍の猫断的保守ま義が取り且つ危機前挙が再び陥るかの如ぺ見ゆ る虔であつて保守的基督数が兎角政令から遊離しやうとする所以である。 ジアスターゼジンナーゼ そこで信仰とこの四老との分 解と綜 合とは組織紳撃方法問題の中心でぁつて甜畢の歴優は賓 ︵一︶ にこの分解と綜合との歴史であると云って差支ない。併し問題はみ汀で亜きて㍍ない。吾々は某督 敦信仰と叙上阿者との分離、結合の外に四者の関係一㌢如何∫に考ふ可きかの問題を持って居る。我々 が一方に信仰の礪自性を高調し乍らしかも同時に理知又は常畢乃至形而上学のみJ曾利用して歴史や 髄駿を顧みない畔は紳隼の興味はまとして紳軌の問題に集注し某智紳畢は有紳暫畢の如くなる。蝦 令これがカントの如く遺徳の方面から論差されたにしてもそれは矢張い合理的紳単に堕す一Qのであ 組織紳単のカ法l二就いての一考綜 五

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556

組織紳準のカ法に就いて占二考察

る。更に我々が若し信仰の燭自性を力説し乍ら歴史のみに立脚して憶険や理性を顧みない時は神埼

一一 の中心は自ら基督に集注し或は十字架の煩のみを反覆力説して非の赦しに安住ト、道徳的精進空& るか、然らずんば.イエスの道徳を説′、道徳敦に終る一り恐れがあろ。前者は保守的ルツテル泥の傾

向と云ふ可く後者はリッチユ〝派の短所と云へやう。

又我々が理性や歴史を顧みす専ら倍瞼を革んする時は問題の中心は各自の内に働く紳のカの経験

即ち聖蛋の作用となり、聖寒中心の紳挙が坐する。而して其結果は一種の神秘ま鶉とた7リ心理ま義

の紳撃とてり動もすれば道徳的に下向するの恐がある。叉我々が政令畢的問題一で中心として考ふる

時は紳畢の中心部は紳の闘の問題となる。而して若しそれが三一所信仰の尊家でないならば単なる

社食的思想となつてしまう。即ち叙上の四者は骨其督信仰の全能に関係を持っては居るが、しかも自

0000000

ら父と子と空室と紳の固と云ふ某密教本質を構成する四要素に夫々特殊な謝係を持って居ることを

見逃してはならぬ。加之四老の関係が如何にある可きかは叙上の考察に依って自ら明かでぁる。即

ち四者は其重要さに於て同一であるが唯初めの三者は三一紳に閲し最後の一つは三一紳の事業に騙

するの差あるのみである。而して何れも皆紳信仰に於て統一綜合される。されば組織紳草の根本的

課題は、先づ理性と雁虹と曜陵と赴曾学的問題とに対して其督数倍仰の猫自性を明かにし、而して

これを世の文化と引き離すことである。﹁汝らは世のものならす﹂︵ハヨネ博一五ノ一九︶。然ら・、信仰 は先づ世と離れねば乍らぬ。されど﹁柵はその満子を賜ふほどに世を愛し給へりL︵同三ノー六︶。故

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5あ7 . に毒督戦信仰は更に世の救済のために世の文化と結合せねばならぬ。 0〇〇〇〇〇 更に叙上の父、子、垂蛋、紳の閲の四者を綜合統一する根本的信仰は三−一紳の信仰であるが故に 000 組織神輿の統制的原理はこの信仰でへ・ててはならぬ。故にリッチェルの如く紳の囲を以て紳畢の統 ︵二︶ 制原理となせるは不曹である。唯倫理単に於てほガ〝ガイも云へるが如く人間の課題を問題とする 〇〇〇 が故に白む前の囲を以て統制原理となさねばならぬ。さて富商の問題は、信仰と前記四着との離合 の問題でめるがこゝには信仰と常畢とのそれのみを考へ、他は別の横倉に譲ることゝする。

基替歌の信仰は最初から或は﹁復活なり、生命打アりしとして︵ヨハネ侍十一ノ廿六︶或は罪から解放 する﹁廣理Lとして︵同人ノ三十二以下︶他の何物よりも異ったものであることが聖書の到る庭に主張 されて居るが.殊にバクロはそれ雪言の智慧㌧智者の智慧﹂﹁世の智慧L猶太人が求むる﹁戚螢的奇 蹟﹂、ギリシャ人の﹁哲華﹂と底別して︵コリ∴/ト前書一ノ十八以下︶﹁軸の能力﹂でJのると云つて居る。 原始基督教以凍信仰と密議、紳撃と背撃とがギリシャ教父、中世紳単著、さてはカントフィヒテ、 ヘーゲル、シュライエル†ッヘル、リッチュル畢汲、新フリー.ス派、危機紳畢等に於て如何に結合 し分解して凍たかは今軍1∼に繰返して叙述する必要もない。我々は宣に通俗的に基督数倍仰と理 性との柾合の関係に就いて考へて見やう。 元亦、基督敢の信仰が理性又は背撃と関係一ぎ保ち乍らそれと異った鴻時のものでぁることは信仰 軋犠耕拳の方法に就いての一考察 七

(9)

55き 八 組織紳草のガ法l二就いての一考擦 が合理化されることを要し乍ら然かも合理化し切れないことを意味するものである。従って信仰と 理性との牌係問題は信仰の合理化の方向が多様であればぁるだけ多方面に渡るのである。だが大健 に於て姦智致信仰が合理化されると云ふ場合はそれは二つの方向を取る。脚ち一つはそれを知識億 系と同一視し、理知によつて基礎つけやうとすることであ∵り他は、それを道徳と同一親し、道徳に よつて基礎つけやうとすることである。基督数倍仰の合理化と云Å場合、宗教の轟術的解辟や政令 的解滞をも食み得るが、通常、合理化と云ふ場合は先づ叙上の二方面に於ける合理化を問題とする。 道徳と基督信仰との関係は他の機骨に考察することゝして、こ∼には信仰と知識憶系としての暫畢 との関係のみを考察することゝする。 借てこの問題は人間の主観的能力の方面からと、輿へられた客観的内容の方面からと二つの方面 から考へて行かねばならぬ。前者は信仰と理性との関係の問題であり、後者は啓示と自然との節係 の問題である。前者は信仰認識と理論認識との和典の問題であり、後者は信仰内容即ち啓示と主と して哲畢的有畑諒との相異の問題である。我々は先づ主観的能力としての信仰と理知との圃係を考 へて行かう。 さて入間の認識能力にほ認識と云ふ語を原義に解する時は凡そ四稀類ある1二嵩へやう。感度と知 力と直歴と信仰との四つが即ちそれである。 我々が外界の事物一ど認識するに何よhソヰb先.サ第一に用ひて居るのは戚畳、推壁、映発、味覚、観

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559 塵等を司る戚官であるが、これ等の戚官に依って認識する世界が成官特有の性質に依って把握され た世界であつて決して在bの僅を描焉したものでないことは今日の物理華や賓絵心理畢等が示して 居る虜である。例へば我々は客気が一砂時間に十六から三高八千まで振動するの一里晶低強窮種々の 音響としてこれを知覚するっ又エーテルが一砂時間に約四百兆振動する時は我々の限はこれ一ぎ赤と ︵≡︶ 認識し漸次振動数が埼卸し約英二倍位に達するまでを橙黄緑青藍紫と威するのである。エクスネル に依ると人間は一秒時間の五首分の一と云ふ微少な時間を知慶し得ると云ふが、その位ぢ迅速な速 度で教へても四育兆と云ふ数はこれを数へるに凡そ二萬五千年以上を要する。斯接な物質の運動を へM︶ 我々は知解し固定して色と認識するのである。以て賓際の世界と我々が認識する世界とが如何に相 典して居るかゞ列かる。従って偲魔に依って物の賓和を知らうとす一?とは無益な希望である。斯接 に我々が直接に鴨知し得る世界で寸ら戚螢を通じて丑ハ賓和一で把卜得ないとすれば.紳とか凍世とか の如き超絶的対象は到底戚螢に依ってこれを認識することは不可能と云はねばならぬ。 其虜で問題となるのは宗教的天才や神秘家が賓験せる不可思講な軽駿である。例へばイエスが受 洗の嘩紳の御婁の領の如く降るを見、且つ﹁これは我が愛しむ子わが悦ぶ者なら﹂と云ふ天よ りの葬を聞いたと云ふが如き、︵マタイ偵三ノ十∴ハ、十七︶。又.ハウリが〆マスコ城外で﹁ナウV、ナ ウV、何ぞ我を迫害†るか⋮・・二・・▲﹂と云ユキリストの語を問いたと云ふが如き、又多くの弟子が復活 いキリストを見たと云ふが如き、又ルソテルがアルトゾルゲ城で志魔の幻・で見ハトと云ふが如きは一 黒1L械榊祭り方法に就いてり一考宛 九

(11)

560

ー〇

弧線醐畢のカ法に就いての一考わ

見.戚費に依って把握し得ないものを把捉した如くに考へられる。惟ふにか∼一心不可思講なぇ事柄 は或は聖書の記事の批評的研究によつて虚伸又は寓意と解滞され,或はパウロの賓廠の如きはガテ ク書の一ノ十五の﹁御子を我が内に撤しL云々に基いて、全く内的へ㌧心の白魔又は光雇と解辞され、

更に心理畢的には幻費又は錯魔などとして説明されるであらう。併し我々は常人が持たない直税カ

に依って、宗教的天才が異常なる事柄を戚得することを否定することは出凍ない。唯我々はこれを

戚費的知覚と区別して直観能力として考察したいと思ふ。従って感覚としては超絶者を認識するこ

とは不可能と見倣さゞるを得ない。

そこで次に考ふ可きは知力的認識の限界であるっこ∼に知力と云ムはカントが悟性並に理論理性 と呼むだもので.其思惟の形式は普遍にして必然であると思へる。例へば恒同伴とか矛盾梓とか因

果律の如き根本的思惟の法則及びこれ・官基礎として成立った論理華や教畢上の法則は普遍にして必

然であると思へる。勿論敷畢上の定理の如きは或は訂正されたら接張されたりすることばあるだら

ぅが、それは人間の思惟進行に於ける螢展でぁつてその事は数畢上の思惟の必然性一ぎ害するものと

は云へない。カントが考へた様に斯様な思惟憬系が唯経頗の世界にのみ妥督して超経験の世界即ち

叡知界には妥督しないものかは別としてか∼る抽象的思惟による分析や綜合で倍仰の対象たる紳や

凍世のことを把握し待ないのは勿論、意志の自由の問題すら解決し得ないことはベルグソソの如き

が詳細に論記して居る虞である。

(12)

5(;l 更に盛男的解鰯駒村料を内容とする我々の常識的日常の知識や又自然科挙上の知識さては文化科 畢上の知識も亦、時間的に客間的に限られた経験による輿科を基礎とするから到底客叔的存在に就 いての完全なる認識をなすことは出来ぢいβ経鹸が犠張されるに従って輿科が据加し、輿科が材加 するに従って判断が礎化する。加之、自然科畢は勿論、文化科畢であつても人間の関心は一小部分 に限られ、其限られたる閥心に導かれつゝ対象を眺めて行くから決して事物の仝憬を起す得るもの ではない。そこで我々の知力的認識が不完全であることは今更、諭するまでもないことである。而 してそれが如何に蓄積され進歩してもそれは賓在についての思考で賓在英物を端的に把捉し又はそ れに観れるものではへ住い。されば信仰封象を知力によつて理解しやうとすることは理解の助けとは ハ言が木骨に成功することは出凍ないと見ねばならぬ。そ■ 主知的有紳冷や形而上撃と相敗れねばならぬのである。併し斯くま知的形而上学と細別れ、信仰が 知力と典った猫自の性質を有って居ると云ふことは理知的な認識論的思索によるものでぁつて、後 にも述べるが如く信仰畢乃至は基密教紳畢は日己の燭自性開明のために認識論的思考だけはどうし ても使用せねばへ与らぬ。少くともこの意味に於て信仰は哲撃と結合せねばへ†っぬ運命にある?だが この結合は分離のための結合であ・り結合は即ち分離皇息味する。

−、、 さて次ぎに考ふ可きは直観である。直観能力は古来の哲理者、紳畢者の問でこれを尊重した者が 少くない。而して其考は必すしも一様ではない。夫々皆兵ったものであるに違いないが其虞には自 さ 組織所草のカ法に就いての一考察

(13)

562 組織調製のカ法lこ就いての一考察 一二 ら和通する庭の共通性があると思ふ。惟ふに紅軌は端的に事物一竺掴む庭の能力で、其特質は非推理 ネポンナーけ丁ス 甘1ト∵チック 的直壁的であり、自費的であり、文略には機械的、自働的、受働的である川又それは直接的で確か さの確信官命む庭の知的洞察.戚慣的光雅である。べ〝クソンのHふ宿願の如きは可なら複雑であ るがしかも大憶斯捜な性貿一で祈って居ると云へる。 我々は自然科邸上の研究や暫畢上の思索に於てもこの種の認識能力が件用すること一竹屋々附かさ れるのである。例へばサー・ヰリヤム・ローソン・∵、ルーソが突然四元法︵き蔓1・ニぎェに思ひつい ′封ノ たと云ふが如き、又ベルグソンがクレ〝モン・フエランり学校に敦へて居阜撃エレ仮の寧詭を講 .†ユレ・・ 鶉して後に常の如く散歩して居る時突然、彼の哲学の小心思想たる﹁特質Lの思想に思ひ及むだと云 ′六︶ ふが如きは其例である。而してこんな例は幾らでもある串で、今ことごとしく云ふ必要もない。 これに類した直観的の能力は‡家や音楽家等の蟄術家が持つ特殊の惑端的才能の内l二も見出すこ とが出凍る。而して宗教的天才に於ては殊に著しい様に思はれる。先きに示した如き或は幻影を見、 幻環を聞く1こ去った諌類から内的の光雅に至るまで稀々の相異はあるが、それを或る特殊の心意の 件用と見ねばならぬ。勿論今日の心理畢では斯様な特殊能力が人間に存することを認めることは困 郵であるかも知iLぬ。併し少ともか∼一句♯殊な作用一箪認めぬ謬には術かぬ。漸フリース派の人々が 特殊な宗教的認識能力としてアーメング︵ンl⋮⋮一5即ち感得カを認めるが如き蓋し逝く可・ちぎるこ ︵七︶ とヽ思へる。近くは綱島梁川・∽見仰の鱈腹の如、き、突然心に輝き一ぎ戚じ.紳肇 競璧、泉の湧くが

(14)

663

如き一で戚じたと云三は、これ一で唯、病的現象として一笑に附する繹には行かぬ。我々人間は日常元

気で働いて居る問は常識的な知髄が働く代りにか∼る直観力は願倒されて殆んど姿を現はさぬ。と

ころが一度病気にでもなり心が静かになる時は始めて斯様な能力が働き始めると云ふことがある。

宗教家が速く人環を離れて寂漢の山林に修養する意味は一つにはこ.ゝにあると思へる。

インスビレーシコン

基懲故に於ける窟 戚の賓駿はかゝる能力一で許容することに依ってのみ認識論的に是認される。

然るにこのことは普通超経

験的と思はれる信仰対象との直接接触の可能性を意味するのみで、それ

で其対象が知り悉くされると云ふやうなことば勿論云へない。それは何度までも信仰の封象として

残る。換言すれば信仰と直観とは典って居る。従って信仰の対象は直観に依って直接我々と交通す

るがしかもそれを超越したるものである。この意味でベルグソソの云ふが如き・又オットー等の云

ふが如き直観力を如何に教養してもそれで信仰の判象が完全に理解されるものではない〇即ち信仰

の封象は唯に戚璧や知力一ピ溢れるのみならす直観力をも溢れる。斯く認識能力としての限界を考慮

することに依って基督数倍仰と暫撃とが自ら男らねばならぬことを想像し得るのであるが、後にも

諭するが如く更に其認識の内容に於て基督教信仰は猫時のもの・で待って居る。哲学が説く賓在が基 ヽ

督敦の醐に該管するにしてもそれは唯該嘗するのみで、基督に現れた紳町内容を示すことは出水な

い。加之.憬命直観に依って賓在と交はると云ことも、そは基督敦に云j塑要の息化一軍蒙るとか、叉永

生を得るとか云ふことと同一であるとは云へない。更に紳と一致すると云ふことは単に直観に依っ

組織所掌の非法に就いての一考察

(15)

564 組織調製のカ法lこ就いての一考察 一四 て賓在と合一すると云ふ普通一般の紳私的経験とは典った内容を持って居る。我々はリッチュルが義 認の倫理的意義のみを高調して一般に神秘的繹隆一で排し、所謂紳私的融合を接斥した琴神秘的経験 ︵七ノ に無理解なものでない。又ブルンネル等は直接櫻駿は﹁.言﹂の仲介一で不用烏らしむるもので、紳の﹁言﹂ ′九︶ と相容れぬと考へ、極端に神秘的経験を排して居るが我々はこれに同意するを得ない。然も直観と 基替致信仰、直観哲撃と其督教組織紳撃とは別物であることを認めざるを待ない。こ∼にも亦信仰 ■シ′スターゼ の淘自の立場が承認されねばならぬ。斯くして直観と信仰との分解が自ら要求されるのである。 然らば信仰とは一倍如何なるものであるかと云ふに、其内容を問はす作用の方南からのみ考ふ一ん なればをれは璧戚、知力.直観等の根祇に存する確信.であつて畢な畠知力的作用に止まらす意志や 戚情を合む全人格的作用と云ふことが出来やう。斯る全人格的の作用として信仰は著名な紳尊者の 思想に於て費見することが出挙Q。例へばメラソクトンはアポギアの内に﹁人一で義ょする信仰は翠 に庵史︵上の事賓︶を認めるのみでなく、キリストの故に無償で罪Ⅵ赦しと義認とが輿へられると云 ︵一C︶ ふ紳の約束に射する確信である﹂と云って居るが、これは信仰が畢なる知的承認でへ㌧く情意的確信 であることJで物語って居るものである。カルケンの信仰観に於ても同様な考が窺はれる。彼れは﹁基 督数原理﹂に於て信仰の完全な定義として次ぎの楼に云ってをる。﹁信仰は、其督に於ける無償の約束 の眞理に基いた。而して空小先に依って我等の心意に啓示され且つ我等の心情に確かめられた、我等 ︵︰一︶ に対する紳の恩愛に就いてり不動、確賓の知識である﹂。こ∼にも信仰が単なる認識でなく.不動確

(16)

叙道

賓な認識として意志的方面が高調されてをる。

リッチュルは更に一層信仰に於ける意志の方面を重要戒して居る。彼は﹁信裁としての信仰は.最高

二二︺︵一﹁︰

と云って居る。斯様に信仰が軍に知的承認でハ仏く全人格の作用であることは何人も認める庭であ

↓フL然らば宗教信仰は其封象を認識し得るかと云、こ知力的にも直観的にもそれを充分に認識し 得ないことは前述の通bである。信仰はこの意味で二種の胃除である。ブルンネルが﹁信仰は未曾

有の胃除である。経験の立場から見れば狂気の業である﹂。と云へるは多少誇張の嫌はあるが、確か

に曹って居る。さればヒブル書の記者が︵十一章ノー︶﹁それ信仰は望むところを確信し、見ぬ物を

眞賓となす﹂心の働きであるとせるは萱雷である。この文句の原文の批評的解滞は別としてこの日

本評が示して居るやうに未だ見す即ち直接経験しない慶の物を異質と信する信頼の藤度が信仰であ

る。然らば宗教信仰は全く不確賓なあやふやなものであるかと云ふにそこには働かす可らざる確か

さの確信がある∴しれが宗政信仰の線色で今OC

二き一・イヌンケダラウペンネソセン

カントは第一批判

憶見は客観的にもま軌的にも不推賞な知識とL、信仰ほ客観的には不確賓なるもま観的には碓賓な

知識とし、知識ほ客観的にもま軌的にも碓軍住ものとして居る。而して彼は更にこの信仰吏二種に別

リライ†エリシュドクトりふル

イうクナッシュ け、貨用的、理論的,及び賓践的とし、第一を輝者が判り悪い病気を推定するが如きものとし、琴一 案11.機紳撃Ⅵ≠法に就い一\の一考わ

(17)

566

組織紳埜のカ法に就いての︼考容

一六

を物叩的鯛畢︵目的論的石鯛諭︶の如き確賓性の大行てる信仰とし、第三一ピ椎封的に必然な信仰として 居る。而してこれは理性信仰︵レクラム六二七︶又は道徳的信仰︵同六二五︶と呼ばれて居る。カントが

こ、に云ふ賓践的信仰はそれが人間理性の自律たる鮎に於て基督数信仰の寧ろ紳の恩寵たると選り ′

又それが道徳的確信たる鮎に於て基督致信仰の宗教的たると異っては居るが、しかも其確乎動かす

可ざる必然的な確信たる鮎に於て、又知識的にほ客観的に諭記し難き斯に於て相類して居る。元凍、

ヵントの所謂質蹟的信仰の如き又基督敦信仰の確かさの如き、直覚的な確かさが、果してその如くに

客観的封象の賓在を告ぐ〃。ものであるか否かはこゝに詳しく考察するの暇はないが、唯・それは理論

的には否定も肯定も出水ないものであることだけほ明かである。これほ前に述べた様に信仰封象が

理論的認識の限界を越えて居るが放である。このことはカントの様に物自健と現象とを峻別しなく

ても云ひ得ることである七思ふ。而してこの阻かさは先きに考察した直観の作用と極めて相近きも

ので殆んど瞳別ほ出凍ない場合もある。唯、直観の場合は端的に賓在と交はり又はそれを把捉するの

であるが、信仰の場合はこの対象に対する直接性が乏しく従って調和的要素が少い様に思へるC併し

これは信仰の内から知力的要素や直観の要素を取去ってそれ等のものとの対照に於て信仰を考へた

ものであつて一般に信仰は知力や直観を包介し且つ其根祇に常に構たほつて居るものでぁる。され

ば信仰はこれを心意の作用として見る場合戚魔や知力や直観と兵るがしかも又それ等を綜合統一す

る虞の全鰭的作用である。こゝに信仰の他の認識能力に封する分解鮎と綜合鮎とがあると思ふ。

(18)

567

以上は如何に信仰の作用が成畢知力、直観等の件用と異って居るか。又異つで居るに本拘、ケれ等

と結合して居るかを瞥見したのであるが、これのみでは未だ基督数倍仰の特異性は一向に示されで

は居ない。何となれば超合理的なものを信する作用としての信仰は如何なる宗教にむ存し、宗教以外

の文化即ち道徳や轟術にもある。従って其形式的な認識論的な方面に於ては基督数倍仰の特異性迂

充分に明かにされない。それは其内容、其滞源に依って他の動きと区別され.他の信仰と区別される

のでぁる。この問題は基督数倍仰の本質の問題であつて結局基督教本質の問題となるのでみる。併

しこゝにはこれを啓示と自然との対立として考へ、而して啓示の核心が何であるかを見やう。

徒凍基督数紳華や票数膏畢などに於ては啓示と自然とはよく対立して考へられたが雨着の概念は

必ずしも確定しては居ない。即ち.カントの宗教論の如き唯理圏内に於ける宗教は理性票数と呼ばれ、

又自然に存する理性の濡敦と云よ意味で自然宗教とも呼ばれる。これは理論で考へた宗教を基督敦

の如き啓示された宗教や其地歴史上の宗教たる歴史的宗教に封立さして考へた場合の名辞である。

これに反して・ヘーゲルの如きは歴史的宗教を自然宗傲、精即事琴啓示宗教の三着に分ち、自然を

ば白魔的精細に射する無自費なものゝ意味に用ひ、啓示を精神の自然に封すか超越と内在との綜

′二

︵一六︶ 合即ち絶封の意味に用ひそれをば基督故に限って居る。其他倫理畢に於ては自然を道徳又は自由と

対立さセて考へるので自然の意味や啓示の意味は多少複雑となつてを右。

絶域紳孝の方法に就いての一考寮

(19)

66S 絶域紳孝の方法に就いての一考寮 −八 元氷、啓示と云へばこれを贋く解辞する昨はユ初の意味ある現象を啓示と云ふことが出家る。こ の意味で超自然的啓ホとは其内で超理性的なもの∼みを折すこと∼なる。即ち自然界と云ほす、人 間の歴史と云はす︰偶人の内的緯蛤と云はす、凡そ何物かノで又何等かの意味を吾々に示す場合、そ れは悉く啓示であろが其内埋窟で説明の出水ない意味を持っものが超自然的啓示である。 併し基智致で啓示と云ふ場合は特に締り意志が働いて我々人間に或事が示されるのを云ふのであ る。而して其れが特別な紳の意皇心であるかないかは、其事件の意味内容と示現の方法とによつて判断 されて居る接である。即ち其意味内容が卓絶して居るとか、其示現の方法が﹂異常であるか又は自然 因果枠で説明の出来ない様な場合にそれが紳の啓示又は教示と考へられる。換言すればヘルマソの ︵︰七︶ 云へる如く紳の現在一曾威せしめる楼ぢ出水郭が啓示で・わる。而して斯様な事件ほ基督敬に於ては多 くあるが、しかも其中心は新約聖書にホされたぃのであり、而して其核心はイエそキリストの人格と 事尭とでぁる。従って基督敦信仰はイエそキリストに於ける啓示を封象として居る。これに依って 基督数倍仰は一切の思索的、直観的暫単傍系と其内容を異にし其燭自.の領域を占領し得るのである。 さて、イエでキリストに く二二的の紳であつた。こ針ことは原始基衡敦の経験であり基督敦史を通じての賓駿でぁる。チッべ ︵一入︶ ルミンの如きがこれを以て基智敦の本質とせるは極めて普然のこと∼云はねばならぬ。而してか1 る紳は﹁榊の固﹂一ぜ意志するが故に基督数倍仰の内容は﹁父なる紳﹂﹁基督﹂﹁空室﹂及び﹁紳の固﹂の四つ

(20)

56t であると云へる。而して其内何れの一つを欠いても基督数倍仰は不完全なものとなる。かゝる内容 を有つ基督敦の信仰は石碑哲車と同一戒されざるは言ふを保たない。 斯様に我々は理論的思索的又は直観的知識倍系としての暫型と某督数倍仰とを引き離したの一であ るが. この信仰が少しでも世に樽へられんがためには出凍るだけ其合理的なることを明かにせねば へ‖廿らぬ。技に必然的に哲学又は理性と信仰との提携が要求される。第一に其非合理性をま張して其 燭自の立場を明かにする時巳に理論的思索的な認識論を利用して居る。されば信仰内容の超合理性 をま張して一・切其諭澄を放棄するとするも少くとも認識論だけは必要となる。カ∴/トが信仰に除地 を輿へんがにめに理知を取除いた時には賓に骨の折れる認識論に依ってのみこれをぢL待たのであ る。又リッチュルが極力形而上畢を折み乍らも荷ほ若干の認識論を用空し屠るのは叙上の理由によ るのである。従って信仰と理知との分離のために理知が已に用ひられて居るが更に積極的な意味に 於て信仰と理性とは精分せねばなPりぬn何となれば人間は意識の統一を求める着であつて、二重の眞 チタス 現に安住し得へ㌧いが故七一山るし 勿論基憩致信仰と暫邸的牌系と一ぜ異った立場に於ける思惟の型とし て恰かも型補的作‖l,1.の如くに考へるならば二束は愚か、三禿でも四華でも同時にこれ・ぎ受け容れる 二とは出水やう。併し営畢的思考にせよ、基智数倍仰l二せよ、凡ての考ヘカ一ざ統一して翠一原理の †に凡ての物一で見やうと†ムが故に互に和典る見解がある場今 必ずJれが綜合と統一とをぢさね ば止またい。されば其竹教紳隼は基語数信仰が理論的に考へてもー通り埋窟の通ったもの、少くと 親扱糾鮮りカ法lニ就いてり一考掠

(21)

570 組織紳畢の方法−ニ就いての一考察

二〇

も矛盾のないものであることを示さねばならぬ。但しこの場合それが必然的に合理的であると云ふ

こと皇義孝ることは不可能である。若し其可能を主張すればそはカント以前の覇断的合理ま義に

立鯨へることゝなる。従って我々は基督数倍仰が超合理性を有し乍らも岡ほ理論的に整合である一㌧

Jこ竺不すを以て満足せねばならぬ。されば問題は如何にして積極的王基督数倍仰を合理的に詭明耳 るかと云云ことに仁るが、こは更に大きな問題となるから.金は叙上の如くに理性と信仰上が必然 的に離合せねばなら甲Jとを示すに止めて筆を欄くことゝする。 旺︵−︶ 増訂ロn⋮内乱Orr︰せ監守Oble−ゴdeニh邑○閃i乳訂コ冒n訂ヨ、訂ipNigこ宍戸S●巴声 ︵ニ︶ Gpヨie︰T訂Ril再三iPn TF邑Ogヨ︼害い柑p・迂∽・ ︵三︶ J﹂Ⅰ・SnO司den︰T訂ノぎr︼dpぞiritu已ぞ告m、芦Y●−讐P p−声 ︵−︶ 寧∴謬r叫容n︰己邑かreet買hmOire、つ告ぎ︼器︼−甲田芦 ︵五︶ ∽すrb喜好︰TFの対馬eFO︼Og﹃Or謬ligiOn、芦Y●︼讐亘pp●ご○巽 ︵〇 A・Ru訂呂d声試才u一︰H⊇1i汐rg岩戸∴F冒dOP︼讐A●ワー↓■ ︵七︶ ぎdO︼、OttO︰内岩t首Fヨi乳邑わR監督専管i一宮p巳℡T詳ingen■︼琶●弾−−︼弗 ︵∧︶ A・Ri宮已︰謬c11t訂ユ⋮g亡ng亡ndゴ︼・鼓訂ung‡●︼0000餌柑00●冨−買 ︵九︶ 声寧日nner︰Di巾試︸ユikundd琵WOr予丁旨i点昌こ¢芦p︼巴諦 _ ′‘ ̄ヽ ( ′ ̄\ ′ ̄ヽ −t≦ プヾ 五 ニ ) ヽJl ) ) ︵岩︶ ぎF宍ぎぎロ︰A旦。giedeり︵首n計数。コ・ぎ︼呂eどど己Werk♪Fer呂膏geb昌召n買告ichA磨邑苧邑♪訂i官尊 −琵¢・ぎT−−阜四声 ︵〓︶ C巳Yin︰T邑i−ut3ウ〓訂Cど汝罫5︼紆︼山号㌣t,bヽA︼leヨ.邑こ●ワた芦

A・Ri官軍。p・dt・㍗芦 ︵−e Ib・四声 ︵一章

内岩t︰同rit芹d巧rein穿く巧n誓き︵出訂EPm︶S一票︵R

HI∼ge−︰く○ユ灰u扁∼n叫iberdieヨi︼0容p己命der謬︼i萌iOn●柑づFei︼・

′ W・H3ヨ呂コ︰せ謡mptik−G。tぎl謁ひP−P ︵一入︶G・WCbbermiコ”S盲em已訂訂Th邑つg訂l,訂曾ざ︼や芦甲望︼●

(22)

671 凡て偶数思想の展開は十二縁起の思想に源を発して居ると見ることが出水るもので、随ってその 哲畢的ぢ諸種の立場︵悌敦思想の真の理解は畢克立場の理解と云ってよいのでぁる︶はこの根源の 立場を見極めてそこから清拝して行く.ことに於て始空し之を明晩にす㌃ことが出奔るもの、である。 殊に所謂る縁起思想︵頼耶と眞如︶なるものは十二縁起の直系に属すかも町であるから、この十こ 繰起の思想を鎗廟にしてはそれ等の意義を軌放することは出凍ない。で、・今風耶縁起の立騒教諭す るに曹つ・ても1先つ第一にこの十二繰超伊思想を解脱しなければな.む風の†あかがごあ思想の一⋮− ︵〓 とは拙著十解鹿方法論⊥に可打了り詳細に論じておいたから/−∼では唯その結論を述べて、此の為 の出費鮎を定めるに止めておかうと思ふ。 一億十二縁起は帝迦が解脱を得るに至つた内的経験を心理的に追究して行って、遂に迷の肢洗が 乳執意志︵議了行︶にあること一で突詰めたものに外ならぬ。即ち先づ吾人の垂死の苦悩の存在すを 唯我三十嘲の立場

唯識三十頚の立場

虞、瀬 文 豪

し+∵¶ ▲二 ■

(23)

573

唯革二十囁の立場

二二

ヽヽヽヽ 所以から考察を始めで、それを我の生存︵生︶と云ふことに給し、更に何に因つてその生存が在る ヽ は愛より起り.愛は感受に於てあり、成受は又物を戚鯛することによつて起り、戚簡は﹁見ること﹂ かと尋ねて、そは境界︵有︶が有るからだとし、境界は叉執着︵取︶に因って現はれるとし、執着 ﹁開くことL等︵六入︶に於て現はれるものでぁり、﹁見ること﹂﹁聞くことLは﹁我が見る﹂﹁我が開 ヽヽ く﹂と考へる、その﹁我.︵名色︶の認儲に於て現はれ、﹁我﹂の認識は我執の心︵議︶に因って確立 ヽヽ せられるものであり、叉我執の心は意欲︵行︶をその原動力とするとしたのである。無明は迷の能 働因ではなく.軍に無智と云ふことに過ぎないから∵Jれは十二縁起の系列から除けて考ふるのが ヽヽ 重曹である。で、今﹂の意欲の費動さへ滅すれば︵起らぢいやうにすれば︶、我執の心も無くなり、

ヽヽヽヽ ■をの曹然の締結として我の生死をも滅することが出水ると云Åのである。

以上の意味に於て注意しぢければならぬこLほ/−ゝに云ふ生死とか−境界とか・1我Lとか云ふ

のは、それ等の事賓至芸ふのでなく、それ等の執着的認識を指したものであると云ふことである。

吾人が生死を苦幡とするのは、その執着的認識に因るので、執着さへ無くすれば、徒死は、世界に

於ける﹁我﹂の生死でなく、唯﹁我の生死﹂と云ムー自然現象として認識されるに過ぎなくなるの

︵二︶ である。随って最早や﹁我Lが生じ、﹁我﹂が死すると云ふ苦備のま憶は無くなる罪である。難阿合 ●−

諸比丘、草し無明欲を離れて明ふ生ぜげ、彼誰れの老死ぞや、老死誰れにか屠†る者ぞ、老死則ち晰すミに、則ちその相木み

(24)

573 断するみ知る.

とぁるのは即ちこの意味を現はしたものである。僻、この文に無明欲とあ一心のは、無智な欲即ち意

欲︵行︶を指して居るのである。

それで、結局解脱と云ふことは、これ一ぜ心理的に云へば、唯掛卦の感情意志一芸ると云ふだけの

ことであむが、畢にこれだけのことを知ったと云ふだけならば、極めて卒凡打了ことで.螢詑とか, 解股とか耕する程の償僅はない。無論輝迦の解脱も之・竺経頗心理畢の上から見れば.是の如き申凡 なものに過ぎないので今¢が、秤迦の軽食に於ては、単に執着の威情意志だけ一ぞ除いた.のではなく、 認識の感度の樽換によつて.執着のない結果を獲得したのである。即ち妄執の認識感度︵有漏︶か ら無我月然の認識態度︵無漏︶に樽じて.こ∼に現法認識のまゝ解脱したのである。故に秤迦の内 的座像を現はした十二縁起の老儲、生▼有.名色.識等は、その下に﹁の妄執認識Lと附加して見

るのが本嘗の見方なのである。即ち有馬法として見るのである。

頼耶の縁起も矢張りこの妄執認識の考察をしたのでぁるが、頼Ⅷ縁起の見方は十二縁起の見方▲と 一

は除程遠って居る。十二縁起は妄執の認識を漸次その瀕へと追究して行った形のものである叶廠

耶繰超の方は具億的な妄執認識を諸方面に於て心理畢的抽象を試みたものである。但し抽象と云っ

ても.意識の心理畢に於ける如き純然たる抽象ではなくして、諸種の方面から具憶的認識を見たと

云ふに過ぎないので、具健的経皆の立場を離れての抽象ではない。これは唯識思想が認識育成の立

唯仙学二十項の立場

(25)

唯準二十囁の立場 二四 離 乳を最守して居るところで、唯識の心理的詮明を見る上に於て常に心に止めておかねばならぬとこ ろのものである。 先つその意志的方面︵能働的方面︶を抽象して之・ぞ末邪論と廃して居る。意志的方面と云ふも我 執意志であるから、そは我療、我見、我慢、我愛と云ふことに於て現はされて居る。頓に﹁思量す ヽヽ ろを性とも相とも属すLとあるのは.﹁思量するL︵我執的に︶と云ふ賓践の能働を,その概念の性質 ヽヽヽ でもあ卜”叉そのすがたでもあるとしたのである。で、この意志︵兼邦︶は妄執認識の基本的のも ので、差曹ら十二操起に於ける識と行とに相督する。十二操起に於ては我執意志即ち我の執蒔から 吏に輔棒意志の概念即ち意欲を抽象して之に別に行の名を奥へたのであるが、頼耶妹起では我執意 恵そのまゝを東邦として現はして居るのである。伺起信諭に現はされたる縁起を見ると、これは十 三操起の方埠と同じく行︵業讃︶と識︵特識︶とに分けて居る。今その詑明を見る.と、 ︰妄㌻語㌻警光﹂。苧、悪のカに蓋の心警が故に。二には名け蓋吾。動心に俵つて牒相わ るが故に1

Lみ㌢1心動く﹂とは意欲の訝勒であり、能見とは見分即ちま粗衰を執持することである。

ヽヽ 次に頼耶縁起は、妄執認識を形式方面から見て、之一で了別議と名け、諸種に分類して居る。頚に 甘﹁墳を了する一ぞ性とも相とも属す﹂とあ牒雪嘘一ぎ了する﹂と云ふことは1思量すること﹂†ある が∵思量識・︵末都議︶と云ふ時は、その能御方南から云ったのに封し、これはその形式方面から云

(26)

676 ヽヽヽヽ ったのである。而して、この了別識の分類の仕方は、一には彿温習修に於ける認識の現ほし方で別 けて、之を欲︵欲軌境の意味︶、勝解、念、定、慧、の五とし、二には彿道習修を妨げる煩悩の捕類 を奉げて.之一ピ貪.隕、擬、嘩 疑、悪鬼とし、更にこれ等の煩倦に思するものとして細かく二十 の種類を分けて、之等を随煩悩と呼んで居る。その他別−こ彿温習修に蕃なる認識と、善悪不足の認 識とをも列重して居る。 以上で一應妄執認識の分析と分類とが済んだ謬であるが、更に別に了別讃︵意識︶に於て、吾人 の五の戚官に封應して、限、耳、畢 弔 身の五識のとこを説いて居る。この五識は認識の経験を 五の開城に於て分けて見たのであるから、五の戚発と云ふ意塊とは全然臭って、﹁見ることし﹁開くこ と﹂等﹁封壕の認識﹂を指したものである。頓にも﹁縁に随って現す﹂と解してある。即ち繰境の 意味としたのである。こ∼で一寸注意すべきことは、唯識三十頗は認識貰践の分け方を、本務は種 子識と末都議と了別識との三ツに分けたもので︵三能率︶、八誠に分けたものではないと云ふことで ある。茄識は丁別誠に就いてだけの分析であ一〇から、認識賓嘘︵阿戯耶識︶の直接の分析にはこの 場合関係が無い。然るに、この五識をも前の三と合せて八誠に数へて見ることは甚だ嘗を得ないこ と∼云はねばならぬ。但し、稔伽諭笹一﹁五識身粕應地﹂に説いてあるやうに一兵倍的な認識を限 耳鼻青身にのみ分けた場合には、これ一で以て阿戯耶識の五の見方とすることが出来るが、この識の 分け方は三十亜のとは全然追って居る。三十頻と同じ分け方は別に﹁意地Lのところで説いて居る。 唯哉三十額の立婁

(27)

各7G 唯歳三十頑の立場 二六 唯高三十項は又妄執認識︵阿類耶識︶の内容を心理畢的に五の要素に分析して奉げて居る︵前の −ま方面燕尾に於て分けたのであるが︶。即ち簡、作意、受、喝 思がこれである。椀とは﹁外境の戚 観知﹂であり.作意とは﹁外境に封する蘭働意志し︵志向︶であり、受は戚惰であら、想は概念的認 識.思は複雑なる思惟である。 〓 以上述べたところで大健三十頗に於けろ妄執認識の考方を見て凍たのでJのるが,これだけでは単 なる表面的な観察で、繹迦の内的経験の眞謡上は嘲れて居らぬ。群迦の解脱は異なぇ心理的意味で なく.認識貰践の藤度の輯換であるから、その鱒駿は外境と自我との赤壁どレその中においてのこ とである。繹迦自身はこれ等の存在の問題を健瞼の中に解決してしまつたのであるが、後聴概念に 於てその憬検内容の意義を考察するやうになると、髄駿の心理的意義以外に、この存在の問題解決 の意義が曹然起って凍なければならぬ。而して、この存在の形而上畢的意義の考察こそ大乗彿数の 暫畢的中心思想とすべきもので、頼耶縁起の思想も又この問題へと進んで行ったのであ一〇。で、こ の間塩は十二続起の思想には全然無いもので、随って弼耶、異如の二縁起はこ∼に十二繰起以上に 特殊の領域を提げたと見るべきである。 併し本木から云ふと、十二縁起の概念から直ちに=の存在の形而上学的意未申索め出すこと化容 易ではない。無論、十二縁起の立場が存在を食んだ認識賓践の意味で、意識の心理的意味ではない

(28)

釦7 けれども、矢張り一種の︵虞鶉に於ける︶心理的な親方であるから、この見方から形而上畢的意義 を線はすことは寧ろ不自然である。殊に彿教の思想は、思想の薦めの‖心想でハて、賓修の必要に迫 られて現はれた思想と見るべきものでJ・∵りから、かうした心叩的式場から形而上琴的意義を考へ出 すやうな仕事は一寸練達い評である。 然らば∵−の存在の形而上畢的意義は何廃に於て莞つ現はれたかと云ふに、それは十二繰起を滅 した解脱の立場に於てゞある。この立場に於ては、今まで我れと外境が封立としてのみ見られて居 たのが、封立そのまゝ直接経験の中に見らる、やうになる。帥十り我注が一枚の醗験の中に直観せら ヽヽ る、。今−の解脱の経険を妄執認識の経験に較ペて考へると・後者にあつては認識の貰践が手取L のみ戚知せられて、射場に於ては戚知せられて居甘いが︵能働と所働に別れて認識されるから︶・前 ヽヽ 者にあつては、我法一様にこの賓践の戚知が現はれる澤である︵直観であるから︶。而してこの我法 ヽヽ 一様に質践の現はれることは、取りも直さす、我法存在の形而上畢的根基が直接現はれて居ること になる。何となれば、存在は凡て﹁認識すること﹂一でその根基と†るからである。 ヽヽ 而して、是の如く我法に即して嘗践が成知せらるゝ時、その憶陰者がそⅥ形而上畢的意義を璧知 するに至ることは極めて口然であらねばなちぬ。何故なれば/−の場合﹁我法はこの成句せられた ヽヽ 貰践に於て存在するものごとの判断が容易に出水るからである。而してこの判断こ㌣客の概念を ヽヽ 作るに至ったものである。即ち容とは我法に印した賓践の感知空涙現したもので、その客と呼ばる 唯我三十項の立場

(29)

678 ヽヽ ヽヽヽ るに至った所以は、その賓践は単に優駿で、思惟の封象とすることの出来萬とこイ〃から、絶概念の ヽヽ 意味に於てしか呼ばろ∼に至ったの一である。色郎是室とはこの戚知の賓践に於ける諸法の存在を云 ︵円︶ ひ衣はしたものであり、﹁容の義あるを以てり故に一加法は成することを得、若し客の義なくんば一 ヽヽ 切は即ち成せす﹂とはこの戚知の賓践を一切法の根克として概念したもので、明かに存在の形而上 畢的意義を云ひ表はして居る。 併しこの中晩諭の語は未だ十分には形而上畢的意義を概念の上に現はしにものとすることは出来 ヽヽ ぬ。何故なれば、その窒甘る概念は、絶概念の賓践に繰入せしむる焉めに凡ての概念を否定する意 ヽヽ 味の概念で︵即ち方便の概念で︶、賓践そのもの∼意味一ぞ衷はした概念ではないからである。彼の八 不と云ふ如きは全くこの客の否定の意味を現はしたもので、何等積極的な意味のないこと空不して ヽヽ 居る。若し桔極的な意味に於てこの形而上畢的意義を現はさんとすれば、賓践を明かに概念の上に ヽヽヽヽヽヽ 現はして﹁一切法は認識することに於て成せられてあるLとせなければならぬ。併しこの積極的な 概念への進出は直接客観の思想からは現はれなかった。容軌は賓に存在の形而上学の思惟形式を輿 へたに止るものでーその形式の中に内容た乙﹁認識す一匂一しとし︵認識賓践︶の意味を入れることは他 の思想を惰らねばならなかったのである。而してこの別の思想は恐らく如来蕨、如来法身、衆生心 ︵五︶ 性などの思想から凍た唯心観であつたらう。この唯心軌はそ.れ自身一の形而上畢的意味を持って居 たが、これが客観的立場と結合してこ1に心真如の形而上畢思想を大成するに至ったものと思はれ 唯我三十領¢先鋭

(30)

879

る。加水親等の思想から凍た唯心軌は元凍個人的憶験の意味から現はれたものであるから、それに

はどうしても個人的意味がく.ッついて居る焉め、純粋な客観的、超越的な形而上畢的概念として完 成したものとは云ひ難いが、客観は一切法に印したもので、一切法をそのまゝ︵加是、質相︶に見 るところにその面目があるから.この形式に個人的唯心観の思想を入れる時︵或は現はす時︶、こゝ に始めて客観的超越的な認識賓践としてこの唯心観が成立するのである。即ち客観は値段︵賓践︶ ︳ として一切法に印する形而上畢的意義を現はして居たが、唯健験するのみで.その意味の概念む有

して居なかったのを、個人の認識経験の憲政に於て一切法の根源を見る思想に依ってそⅥ意味附け

をされたのでぁる。故に眞如の唯心敷こそ形而上的思想として沸教膏畢を完成し竺の型J云止な

ければならぬ。

併しこの客観から敬遠した形而上畢的思想と別に、先きに困難として見た認識質践の心理私印ち

十二縁起系統の立場からの形而上畢的考察を或る度まで成功したのが稔伽系の唯識観でぁる。然ら

ばこの喩伽系の思想がどうしてこの立場の全然臭った︵心理的と滞而上畢的︶と思宜れるもの竺

に見ることが出水るやうになつたのであらうか。このことを考へるには、容貌の系統が理論的、直

観的であつたのに封し、喩伽の系統は賓践的、心理的であつたと云ふことから出費せなければなら

ヽヽヽヽヽヽ ぬ。即ち同じ﹁認識の貰践﹂一三は諸法の直観に於て見たのに封し、他は認識寸ることの概念に於

唯我三十頚の立場

(31)

5バ0 て考へたところに、両者山形而上軍的〓心肺形式を異にしたので争¢C 稔伽の‖心恐が十二継起∽m蒜を披いで妄執認率ぃ考寧竺qるや、その認識の哀現と云ふことを第

一に考へねばならへ号かった。これは心理的ではあ乙が、認識繁盛としての心理的考察であるから・

その心理の考察は必然に封象としての存在を企みつゝ成されて打ったのでぁる。吾人の﹁妄執に認

識すること﹂が次々に現はれて挙匂、と考ふゃ1とに、同時に封象︵客観的存在︶が現はれ凍るこ とをも考ヘスニことになる。こ∼に自然と心珊的考察がそりまゝ形而上畢的考察をも生むに至ったの

である。而して、この心理的形而上隼の現はれた意義を最も如密王示すものは薫羽の概念である。

∴ハ︶ 義朝の意味は起信諭に−未墾の義とは、世間の衣服賓ほ香触⋮けれども一新し人香を以て薫習するが 故に、則ち香気みるが如し﹂とある如く∴︶−は吾人の認識が或は染に、或は浮に成り行くもので− 認識自恍には染挿の定貿のないことを表はしたものである︵無別薫習、眞加東習︶。ところが−この 認識の慶祝に於て封境︵有馬法︶の成立む見る峠、薫習は畢に以上の心理的意味に止らす・客観的

コ 封境をも現はす意味を負ふことになる。これが唯誠忠想に規はれたる新京説の根披である。成唯識

論に

︵八︶ 輸伽に亦説く、諸り相守り甲無始畔より死、作木右なりご錐も、而も渠浄に由つて新たに義教ぜらス・U とあろは、即ちこ′い意味を現はしたものでJ・芸。稲子力ことは後に説くが、兎に角こは存在の形而 上畢的意味としての認識賓躍りことである。それで、こ1に酷とJ‡も賓は賓鯨の意味では打了\ 唯識二十期の正弘

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G,q 認識賓践一ぜ本椚的に‖心僻した意味で∴る。こり意味の本有山認識賓践︵先壊約諾識賓践の意味︶が 染に渾に新たに壁現†争1と一三・■‖つ十叩いであるから、そこには研かに存在の形而上挙的意味をも現 はして居乙“惧しこの鞍M現について㍑能嘉桝兼と分けてlも説いてある︵︶こい詮方一軍見乙と、何だか 心と外埼とが対立して聖茨邪の意眈、仰Jり緯廠心理邸に於ける意味の如くに‖心はれ一心が、唯識の立 場が﹁認識の質践﹂の上にある以上、二んな封丑的恵昧U︶成立たう道理が触⋮い。これは認識賓践が 染になト押になると云ふことから、その認識賓践を勲記性の本石として概念したより起った思想で、 正しい考方ではない。このことは成唯識論の契緯よりの引用文に ︵九︶ 諸法‘ェ試l二於一ユ賊ぜられ、識は法に於て弥相互り、正互に炎症y元り、亦常に田仲ミ焦ろ。 . とあぇ二軍見ても知七ことが出来る′−法と識︵認識仰封距︶とが互に阿呆︵能薫、所薫︶となるとは、 畢なる考ガ︵論理的意味︶で、車仰封は法識︰畢甘心こと一で現はしたものである。 斯くの如く薫禦と云ふ意味が封嘆い形而⊥学的意味一等b右すとな乙肺、元雄心理的な意味である この語一ピ、その⊥Jミ形而上草的意味一で表ほす託として洗川することは常一竺得ないこと1なる。何か 別に形而上草的意味を衣はし而も心叩的意義からも鞋れない他の適語を鎗見せなければならぬ。而 してこの要求に應じた語が種子と云ふ語でJの′0。この稲子の思想は随分古くからあつたのであるが、 唯識⋮心想に於ては特殊の意味一で現はして居る。即Jり稲子とは﹁認識す今Jと﹂の常満として、心理 的で而も形而上川︼.的意義を税はすに至ったもりである。﹁認識すラ︼と﹂は先般的雷名としで現はれ 唯丑∴十頻の立場

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682 唯琴二十囁の立場 ±二 るもので、そは心理的であるが、同時に封墳が・﹁認識すること﹂に於て普焉的に奥へられる1 意味に於て形而上畢的となる。成唯識論に ︵一⊃︶ 此の中何の法をか名けて種子ご発す。謂く本式中親Lく白黒ね生†ろ功能差別光り。 とあるのは:この意味を現はしたものである。本識とは認識賓践で貰有ではないから、﹁自果を生す る﹂と云ふも、囚が先づあつて生する魔の意味ではなく、前にも述べた如く.因と果とは三であ る。即ち﹁認識すること﹂に於て現はれた諸法が﹁認識すること﹂.の自果なのでぁる。随って功能 とぁるも何物かの作用と云ふ意味ではなく、﹁認識する一jと﹂の雷名の意味に外ならぬ。ゴーエソが 罷産と所産とを二つに見たのも結局この意味に於ての純粋思惟に外ならぬと思ふ︵産の文字は穏昔 でないが︶。 ︵〓︶ ′ 本哉及び併生臭ミは不一不具、鰻月田奥の理應に写∂べきが故に。 ′ 四 以上で種子の形而上畢的患義を解明した評であるが、これに由って、十二縁起の心理的立場から 進んで存在︵封象に合めて見る︶の形而上畢的意味を現はし、以て繹迦内在の意義を概念の上に鞠 明したことになつたのである。そこで、三十項にはこの意味を種子識として、末邦、了別の二識の ヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽ 上に置き、かくて解脱の心理畢的及び膏畢的意義卑琴全に現はすことゝしたのでぁる。三十項の文 の上では、この種子識を第八識として阿頗耶識の名に於て呼んで居るが、これは正しい名の附け方

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883 とは云へない。阿頼耶識とは妄執の認識質践を表はした語で.詰り末都議の説明も.了別識の説明 も皆この阿頗耶識を取b扱ったものである。然るに種子誠にのみ阿頼耶識S名一ぜ冠したことば諸種 の誤解を起さしむる源となるものである。現に起信論には此の阿頼耶識を論いて ︵一二︶ 所謂る不生不滅ヾJ生滅ミ和合・して、一に非す、異に非す、名けて阿黎耶哉亡兄す。 とL.阿頼耶識を以て認識質痍︵不生不滅︶の妄執性︵生滅相︶を有するものと解し.更にその阿 戯耶識が、︼には兜の認識︵不生不滅性︶とも成b行くが、又生滅相を取る妄執怒識即ち不魔の認 識として、業︵行︶を起し.能見︵我執︶と境界︵封墳︶を現はし、やがて益、執拗な頼傭∽すがた ヽヽ ・ヽ として執着の埠長して行くさま︵智識.相府議等︶を説いて居る。而してこの阿腰耶識の訣別を心 ヽヽヽ ヽヽヽヽ 生滅門とし、之に対して別に認識賓践の形而上畢的意義を心眞如門として奉げて居る。起信諭が是 の如く認識質践の形而上畢的意義と妄執認識︵個人的認識︶ の包含的説明︵形而上畢的意義をも阿頼耶識の中に於て考へたこと︶よらも進んで居る。それで、 唯識の思想も之を明瞭にする食めには、一起信論に倣って、第八識の位置を種子識の名で現はし、こ れ■ぞ純粋な存在の形而上畢的意義とし、東邦讃以下を阿照耶識の名で現はすペきである。 併し.又考へると.唯識の思想が形而上畢的意義を包含的に扱ってしまつたことは強ちその不徳 ′.一、 底を責める評に行かない理由もある。元凍唯識の思想は起信諭の思想の如く形而上畢的原理を説く と云ふ目的はなく、始めから賓践的に妄執認識の心理を説かんとし巧ものであるから、その立揚を 唯歳三十唄の立場

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5S4 畔護三十頃の立む 三日 経れて純板和論ノで税は†・一とはその好←柔けいとごろであつたらう。而して、この唯識の包倉的態度 は後にそが仰人的識の意味か超越的識の意味かり問題が試せらる∼に至った所以であるが、その妄 執認識の禦践を対象として居るところはどこまでも個人的意味でなけitばならぬ。唯その中に督然 分離せ・しるべき超個人的な識の形而上寧的意味が胚胎して居たゞけである。 五 今まで述べて雑たところは、妄執認識の心坤的分析と、存在の形而上畢的意義とであるが、この まゝではまだ唯識三十茹の‖的とするところが壷されたと云ふことは出水ぬ。三十擁の眞の目的と ヽヽ するところは、さうした串賢の思惟にJのるのではなく、誠性︵認識の賓践︶に任すること、之を云 ひ換へればー封項を妄執す一ら認識態度から、存在に印しての認識態度︵触⋮焉︶に挿することにある のであるから、最後にこの種依のことを〓占せなければハ与らぬ。而してこれは三無性訣として現は されて桝るものである。それで三無性設は専ら賓践諭で、識性に任することに就いての考方.即ち 粗法を示したものに外ならぬ。 ヽヽ 今その税法の現はれた順序を平たく訣別すると.先つ第∴ 吾人が妄執に於て認識する対象とし ヽヽヽ ての我と境界は無性一で宥するものではハ一けいと云ふのでJのる。その・謬は、﹁認識すること﹂に於て基礎 ヽヽ ヽヽ ヽヽヽヽヽ つけられたもの∼みが賓l惟一で石寸るぃで、それは唯も・の∼存在寸ることだけでぁる。もの∼存在す ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 乙ことは謂識すること∼一つで一肌乙から、之が賓性一〃−右することは白州のことであ一っが、恍に存在

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585 を賓性とすれば、その存在を封墳と見ることは重く夢幻の如きものと云はなければならぬ。即ち存 在の認識の眞賓性に対して封境の認識は虚妄であ一㌔それで吾人はかゝる棍妄の認識桂皮即ち妄執 ヽヽヽヽ 認識の態度から異質の認識騒度即ち触表白然の認識程度に移らねばへ㌧らぬことヽなる。遽計所執の 触⋮性説とは以上の意味を述べたもSである。成唯識論に 二三︶ 三界り心及び心所は無姑より架、庶妄講習lニ山つて、各椚一光リミ錐も、而も∴に似て生す、訊く几相分、帥ち能併の取尤り、 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 是の如き∴介は帖にl工われども理にlミ光・し、此の相を訊いて通計怖軌ミなで。 併し、畢にそり妄執の依から股離すラJと一ぜ説いたゞけでは未だ確賞に識性に住せしむることは 困難であ牟。日放なれば、理蛎王よつて識性に安住せしめんとすれば、単に妄執認識の意義を知ら しめるだけでなく、妄執を去って識性に什した位の認識の意義をも桝かにせなりればならぬかLで ある。新しこの意義一ざ明にし克かったならば、その加⋮我の琴誠なるものが如何なるもので■叱るかと 云ふ疑問が経じて、安桃の擬に速ふであらう。そこで、この意義をーりJかにせんとしたのが、依他起 − と厨成賓の説明である。 ヽヽ 我、我所の妄執を去って無我に入った認識と云っても別に襲ったものではへ一bい。凡てのも山をそ れ等の和瓦㈲係に於て有りのま∼に見ることである。即ちn然の姿をそのま∼に綻軌することであ る。しかし、こい一場合注意を要することは、︰如何に自然のま∼に見る一三云っても、自然山国練現象 そのもりに意義があるのではぢい︵﹁そい▲︶ミに見る∵と云ふ時、その﹁見ろ.L︵鱈粍︶に意義があろ 唯歳三十瑚の先島

参照

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