――目次―― 1,口絵,ギルガメーシュ物語の挿画 2,晩餐式(Eucharist)に潜める宗教思想(上),日野真澄,Masumi HINO,pp.1-24. 3,分別論者と武派の所属について,木村泰賢,Taiken KIMURA,pp.25-56. 4,中道思想の起源,羽溪了諦,Ryōkai HATANI,pp.57-78. 5,耶蘇の「愛」に関する一考察,島原逸三,Itsuzō SHIMABARA,pp.79-97. 6,呪詛訓義考,安藤正次,Masatsugu ANDŌ,pp.98-114. 7,トレルチの基督教本質論(上),菅円吉,Enkichi KAN,pp.115-137. 8,宇佐の八幡と大分の石仏,小野玄妙,Genmyō ONO,pp.138-162. 9,新刊紹介並批評
J.C.B.Mohr, Gesammelte Schriften von Ernst Troeltsch,赤松智城,Chizyō AKAMATSU,pp.163-166.
加藤熊一郎氏著『民間信仰史』,原田敏明,Toshiaki HARADA,pp.166-169. 帆足理一郎氏著『宗教哲学概論』,原田敏明,Toshiaki HARADA,pp.169-171. 小野玄妙氏著『仏教文学概論』,干潟龍祥,Ryūshō HIGATA,pp.171-174.
ギルガメーシュ物語の挿入畜について 古代、陛界の文撃l=最も大なろ影響な輿へた神話はアッシリアりギルガメーシュ の紳話であろ︵eわJ2n登已︵≡g琶e基pOニロd2rW2き︷e邑ur︶それは、ヱジプト∴トニ 影響Lてはモーセの物語な成立亨しめ、イスラエルに影響Lて1エバウ。の物語なも、 イエス●クリストの紳話︵!︶さへねも成立ぜLむろに至つ告ごアッシリア学者、エン ゼンは説く︵J雫兎眉]芋茎選Je卓ぎ旨s︶草して、然ろか︵委細次渋︶。 :りギルガメーシュ神話年俸へ遺,した文献は、アッシリア王、アツスールバニパ ル文庫の中l=見出され、全部で十二枚¢棟形文字版から成って居ろ。それらは悉く、 一八七〇年代、英のジョーヂ、スミス氏lこよつて数年、数魔の費馨な経て初めて費 見され、整頓され、公表さろるに至つ㍗ものでぁろ。以来、梢形文字−こ射する研究 も進み、今は、可成り、精密に、ま㍗、慮曹たこ解﹂待ろに至って居ろ。 薔約、殊に、創世記の物語ミ並行Lネしこのギルガメーシュ物語の内容紹介並びにこ それl=ついてのエンゼンの所論の批評等lニ就いては次戟に。︵石橋智信︶
■ 儀式と宗教
如何なる宗教にしても全く儀式の存せぬものはあるまい。野攣人が其赫々を鹿拝するに皆りて或
は首を垂れ、或は腰を屈して敬長の至情を衷はすのみならす、進んでは斐器を使用し平り、讃美歌
を唱へたら、供物を捧げたら、香を乗じた♭する事は能く有♭観れたる現象である。沈んや文明人
の宗教に於ては其儀式は一層復姓となゎ、普通の素人には容易に其意義を解し待ざるまでに煩蛮と
なり蓬に借侶祭司などの専門家が現はれて儀式典惑を親占するに至る程である。固よち宗教本務の
趣旨よ与論せば宗教は精細を主として形式や峯勒を徒として居るのである。故に此原理より推せば
儀式の如きは重く存在せぬにしても宗教其者の成立し得ぬ嘗はないのである。第四琴菅書記老の督
ぐる所に壊れば基督は﹁紳は婁なれば井する潜も婁と眞とを以て之を拝すペき打了ワ﹂︵約翰億由二四︶と宣言したのである。即ち儀式や醐殿がなくとも基督敦は成立し得べきであるが、之を賓際の基督
晩餐式曾のど呈に瀞ゆる宗教息想晩餐式︵Eucha計t︶に潜める宗教思想︵上︶
日野 眞 澄
二 晩餐式︵穿邑巨資︶に辞ゆる宗教思想 敦史に徹するに,基督敦の精細が具健化して既に制度と成れる基督敦禽には果して儀式の存せざわ し時の如きは骨てあらしやと尋ぬるに、固より其儀式には繁簡の別こそあれ、重く之の故知せる時 代は骨てなかったであらうと云はねばなるまい。使徒時代に在らては基督数骨は概して滑太敦の儀 式に傲ひて讃美、新藤、垂書朗讃、戚諸寄を執行して醐を藤井して居ったのである。彼ち希臓や境 及の凄儀宗教︵首班訂r﹃Re︼igi。コ︶や盛術と接触するやうになると、クレメソト溌の鹿押式︵C訂me邑il 諾巳t弓gユやビザソテウム式の敵弾式︵屡痘ntine巳t弓gy︶が交る変る採用せられたのである。更に 屠馬の文化に接するに及んでは羅馬凰の藤井式︵Rcm呂二妄訪︶が飲料西部の語数禽に流行するやう になつたのである。近世に至らてブⅤテスタソトま義が飲料の西北部に任せる諸国民問に勢力を得 るに及んで儀式は著しく質素又は簡略になしたれども、簡素になしたれぼとて儀式は決して消え失 ビュりタン せたのではない。而して第二十世紀に入らてよら清数社風の盛療を疎んじ、音楽を速ざけ優美の情操 に無頓着なる貧寒極る儀式は今日の人々多く之を厭ふやうに成ら、掌ろ復雄なる儀式を愛慕するの 風生じ幾分か劇的気分をさへ配合せる鰻丼式を栗まんとする傾向の生じ凍れるが如くにも見ゆるの である。靂と眞理とを似て其鐘命と鰯したる基督敦lこ於てさへ此の如くであるとせば魔彿に近き幼 稚なる宗教や現世の利金を屠進するに汲々として、俗衆に媚ぶるが如き宗教に於て之が儀式よら金 魚鶉立卜待ない
るを知らざる俗衆が儀式其者を繍へて直ちに宗教の主要部でぁると判断するが如き蚤あるも敢て怪
むに足らない。一倍宗教が重義に於ては儀式よら濁宜し得べき筈のものなるにも拘はらす、事案に
於ては之と密接の圃係を保有し蒸れるは、抑も如何なる理由に基くのであるか。宗教上の儀式にほ
少なくとも二偶の宗教心理的要求が潜んで居ると思はれる。即ち第一の要求は人間が宗教的僧侶を
認識した場合には何等かの荘厳なる儀式を用ゐすしては其僧侶に対して懐ける恭敬愛慕のき慣を満
足せしめ待ぬ事である。之を卑近なる人事に照らして列するも明である。貴重品例へば賓物の如き
にしても吾人が一旦之に相應の償偲あるを認めたる場合には淘とに之を鄭重に取壊はん事を巽ふも
のである。相瀞的慣億以上の何物をも有せざる物品に対してすら人間の心理作用は斯くも奥床しく
働くのである。汲んや覇立の償低を具備せる人間同士に対しては更に一層深き敬意を懐き、蕗節を以
で之を過するに非ざれば己の気が窄めるのである。汲んや自己の尊信する先達の士や長者に対する
場合には恭敬の誠意を外に表さすぼ衷心愉快を魔えぬであらう。更に君童を迎へる時の如き、或は
一生の重大事件たる生、死、婚姻等に対しては何等の儀式をも用ゐすして之を軽々しく済すに於て
は心中竜も安きを費えぬ筈である。賓に儀式は債魔の度が嵩まるに随って一屏鄭重懇切を極める事
になるのである。吾人は死せる鼠を埋めるlこは敢て鄭重なる葬式を須ゐぬ、蓋し鼠に何等の僧侶を怒めねが虐めである。されど尊敬と愛慕との至情を敦せる父母や妻子の死せる際にほ何等かの儀式
晩整式︵夢邑軒数t︶に潜める宗教思想 !ご ▲ −晩毎式︵同仁註ar賢︶に潜める宗教思想 靖 を須ゐゃして其屍健を虞理せんとする念慮は毛頭も超さぬのであざ。吾人が宇宙至高の絶対僧侶で あると尊信する天地の前に射したる場合に何等かの儀式を用ゐゃしては克が済まぬとの威じは蓋し 宗教的信念ある者の皆な等しく懐く所の宗教的情操であらう。宗教上の儀式は慣偲観念あアりて始め て成立するのであるけれども、一旦一定の儀式が成立するに至れば、何等の償偉観念を懐かざる餐 乗数の輩と堆ども器械的に之を執行し待ないのでもない。そこで往々精神の欽如せる儀式の勤行其 僅を摘へてさへ之を宗教であると誤解すろ事もあり得るのである。 儀式に潜む第二の宗致心理的要求は尊信者が嘩封僧侶を具倍化︵歪rP舅訂已iebロng︶して見たいと の願望である。若し絶封償危なる紳にして純正哲畢に於けるが如く唯一個の叔念たるに止まらば是 のみにては到底宗教にはならない。若し沖が容想であると云ふのならば、縦ひ之が如何に美度であ っても、人間が此峯想に向て忠誠を披壊して之に奉事すると云ふ謬には行くまい。信徒が忠誠の心 にて前に事へると云ふ工合にならねば、結局宗教現象は成立せぬ。即ち吾人が紳の徳を讃美したら、 其訪助を求めて之に新藤を捧げたり、犠牲を献じて醐を祭hエはどすれば、換言すれば一種の儀式を 用ゐて紳を建坪するやうになれば、醐は吾人に取りて最早客想ではなくして恰も賓在する聖賢や父 母や師友にてもあるが如くに威じ易くなるのである。斯くなれば醐に事ふる人は始めて紳と親しみ、 測と糞は♭たるが如くに威するに至るのである。東側なる僧念にても之を外に飼って表現する拳な − t’二ご.J、叶し一一一, √ノ
ぐば一触何にも峯凰なる附加くに見ゆるのであ.る。之に反して鮭ひ鹿野不明の軌念であつても彰一 旦之を個人の拳勒に表現し、特に敢骨組織中に應用せらる1やうになれば、如何にも賓在するが如 くに威せらるゝのである。そこで宗教上の儀式は紳を具健化せしむるに於て至大の効力を有して居 訂のである。 〓 基督数の儀式に於ける晩餐の位置 基督敦の儀式は英数決して少なくはないが、巽中最も豊粛に守られて居る者を希施政禽にては ︵呂浣訂㌢n︶︵其の眉首彗ユと呼び、拉典敦禽にては哲岩還白e邑ロm︵侃bに蟄奥と辞す︶と解し、ブp テテスタソト諸派も之に傲ふてS罵り昌−entの語を用ゐて居る。婁奥の数は教派の別によ♭て多少の 粕蓮あり、時代の異なるによらてl様ではないけれども、洗殖︵出註sm︶と晩餐︵出薫訂ri訝9mm1年 iC臼、訂rd︸s Sロp唱竃等の語が用ゐられて居るが舌代にはEuO訂ri阜二郎ち基督が晩餐を点すに嘗りて 瀞に戚謝せる古事に因みて之を戚謝祭と云ふのである︶との二個は古今東西の教派を通じて一般に 認められて居るのである。使徒時代に於ては畢巽は洗戒と晩餐とのみであつたが、数魯の制度の尊 重せらる∼に随ひ、政令を指導すべき教職の食最を保つの必要が一暦痛威せらる∼に連れ、鞍手鹿 ︵○註n註On教職就鹿鰻にて沸教の得度の如き頚︶を畢其の中に入るべきや否やの問題生じたが、是 晩整式︵出uさ彗訂¢に辞める宗教思想 五
晩餐式︵Eueぎ訃t︶に薄めろ宗教思想 六 ほアタグそ7ヌース︵Augu乳nus三五四年i四三〇年︶以鐘の事である。然るに愈々之を垂巽中に 入れて障らなかつたのは ロンバード︵増監当該Ⅰ巨b弓d宏一一〇〇年⊥〓ハ○年︶である。豊信蕗 ︵Cen苧m註且は嬰見に洗蕗を授くる習慣が普及したらしが虐めに生じたのである。即ち無意識状 憩のまゝに受托したる小鬼が漸く成長して青春期に達したる際果して所期の信仰が其心に確立する に至れるや否やを検して後ち之を授けるやうになつたのである。而して嬰見の洗祀なる老は元凍ア ダムの原罪より生すべしと信せられたる害毒を小鬼より排除せんとの苦心より起りたる者なれば、 原罪説を主張したるアタグステヌース以後に至りて始めて普及するに至れるは明である。文数刑 ︵謬n呂且は受洗後の罪が如何にして紳の前に赦さるべきやとの議論が生じてよら後に至りて散骨 内に行はるゝに至ったのである。受洗前の罪は悉く悔改と洗盛とによらて赦さるべき鷺の着である とは基督政令の初代より一般に信仰した所であつたが、受洗後に犯せる罪に至りては、其性質に於て 大に受洗前のと異なるを以て、之が果して紳よ♭赦さるべき告の潜行了りや否やとは第二世紀頃より 痛く敬慶なる信徒の心を悩ませる問題であつた。若し暇♭に受沈鐘の罪にし耳全然赦さるべき造が ないものであるとせば、幼少の頃に受洗せる人に取♭ては、甚だ不安の結果を斎らすべき虞がめる と思はれたのである。何となれば斬る人に取♭ては受洗常時より其死に至るまでには細管に永き歳 月介在するを必て、共闘には犯罪すべき誘惑に凝ら易いのであつて、従って地獄の廃刊に遭ふペき
横合も多く之に伴ふやうになるからでぁる。然るに若し棍らに受洗を死際まで延期して置けば、爾
後死する時まで犯罪すべき横禽が絶無となる謬であつて−英人の受洗前に犯せる諸罪は其時騎麗に洗ひ去られて英人は一足飛びに天国に入れる事となる鷺であるから、其方が幼時に受沈するよゎも
造かに賢い方法であると思ふやうな毅滑なる迷信が産れたものと見える。現にゴソメタンチヌース
大帝の如きは受洗を崩細の前日まで遅延せしめて愈々瞑目すると云ふ間際にならて急遽エコメデア
のユーセピアス︵出窟bi戻=ちけ芦gm乳ip︶より領洗したと云ふ奇談もある程である。をこで斯の如き荻滑老滑なる迷信の扱屈するを防ぐ食めには受洗彼の犯罪が、之を受洗前のに放すれば、其性質に
於て甚だ憩いけれども、数刑︵謬n呂C¢即ち散骨の意を満足せしむるに足る程の宗教的刑罰に服して或は難行苦術を渇した♭、或は慈善事業を起した♭、或は散骨の食めに大金を寄附するが如き善行
等を為す事︶を甘受せば赦さるべき造があると数ふるを信徒の修養上特発でぁると判じて遂に敦刑を蜜巽中に数へるやうに成ったのである。以上述べたる洗盛、晩餐、堅信鹿の四個に婚鹿を加へて
垂奥を五個と点したのほアベラルド︵Pie諾A訂−罵d一〇七九年1一一四二年︶である。然るに之に 按手盛と末期の塗油︵出打t詔︸βe告e許n︶とを加へて完全数と辞せらる∼七個と為したのは℡ソバート ︵句etり星訂mb胃d星︶二〇〇年頃!二六〇年︶でぁつて、其頃よら羅馬加聴力敦禽にては蟄実を七個と看撤して居るのであるが、遂に一四三九年のフ∇レンス合議は以上の七個を以て畢莫であると
晩整式︵尚邑鼠乳︶に帝始る未敢息鵡晩餐式︵官許彗ぎ︶に潜めるさ叢息鵡
入
公式に決議七.爾凍加特力散骨に於ては之を遵守して倫らぬのである。希汲敦骨に於ては蟄実は ︵試畠訂㌢n︶︵即ち英語の試y賢r当の原語でぁつて﹁密儀Lとか﹁軸物﹂とかに詳して然る可であると思 ほれるが、日計r。nym宏が此語をS琵琶ent旨と拉典辞したのが本となつて拉典散骨にては一般に 此語を採用するに至ったのである︶と云って居るが、羅馬地方に於けると同じく初代には洗絶と晩餐とのみが畢集中に数へられたのであつたけれども、時の経過するに連れ、漸次英数を埼しアレオ
バガスの人デオヌシオ︵崇。n音声:訂A諾。p温訂其年代は列戯せぬが、史家一般に此人の名を帯ぶ る書が史上に始めて引用せられたのは五三二年のコソスタソチノーブル合議に於てゞ今Qと看倣し て居るが.此書の著されたのは第五世紀の末頃であつたかも知iもぬ。デオヌシオと云ふ名は勿論著 者の本名ではない︶の頃には洗惑、晩餐竪信薩、按手醸、修造膠得度式、末期の塗油の六個に成って居ったが、段ち修造倍の得度式を摩して、之に婚経と敦刑とを加へたれば、結局鹿鳥加特力敦
骨の蟄実と英数に於ても、亦異種類に於ても重く同一となったのである。
ブロテスタソト諸派はルーターが共著﹁巴比倫囚虜﹂に於て加特力数骨の執行せる丑実に痛烈なる
批評を下し、垂実の数を刑滅して洗鹿と晩餐との二個となしたる以凍、多く之に従うて建たのでぁ
る。固よゎルーター数曾や監督散骨に於ては以上二個の蟄莫以外に堅倍虐を読行して居るし、ヌ執
れの散骨に於ても婿蕗を重要なる宗教上の儀式であると看傲して居るけれども、之を最重の意暁に
於て畢莫でぁると看倣して居るのではない。ブ甘テスタソト誇汲にては畢に洗鹿晩餐の二偶のみを
選集と看倣して居る。然るに濁りクエカルの徒は如何なる外的形式にても之を尊重するま義や習慣
を厭ふこと甚だしきを以て、盈実制度を全部否認したのである。
垂実は基督敦内の欲崩なるクエカルー況を除けば皇鰹に捗して最も荘故に守られて居る儀式でぁ
る。故に加特力数骨にては豊実を以て紳の恩寵が人心に降臨するに蕾りて必ず経由すべき径路であ
るとまで説いて居るのである。換言すれば垂莫を守らざる老には紳恩が人心に働き得べき方法が今
日の所全然無いと雷蔵して居るのである。蓋し加俸力数骨の正統的見地に基きて論断せば、加俸カ
◎◎00 数骨は紳よら人類救済の濁占機関として地上に設定せられたのであるから、英数骨に於て婁実のみを以て紳の恩寵の下附せられん事針紳に奏諭すべき唯一の手頼であると規定したるを以て、前に於
ては共時許擢を尊重して豊実以外の手繚を以てしては爾凍恩寵を下附せぬと定めたと想定するので
ある。そこで加特力敦愈とても痢が救済碑占檜を加特力散骨に輿へざらし以前ならば、整莫以外の
事績に由りても恩寵を下附すペき可能性の存在すべきを認めて居るが、既に燭古橋設定以後の今日
となりては如何とも致方がないと云ふのでぁる。故に著し人間には一人として罪を犯さいる、清浄
無垢の老がないとしたなら︵而して是は基督数がバク七以充一般に認めて蒸た所の信仰ヤある︶空莫を守らざる場合には萬人等しく曹食前罰ぉ受けて地獄に堕つるやうになると宕倣さるヽは見易き道
晩餐式︵昏邑F昇るにこ潜めえ宗軟風應 九晩餐式︵官許rist︶に潜める宗教思想 ︼0 理であごる。プアJスタント諸派に於ては赦罪にほ信仰が卓であつて空実は碇であると看倣されて居
るから一重奥最守を以て恩寵の降撤すべき唯一の方法でろるとは観て居らぬけれどもー洗感晩餐の
二莫を以て最も敬虔にして且つ深刻なる精神的教化を受くべき好機であると信じて今日に至ったの
である。そこで別枠力敦骨とブアブスタント諸放との問に於ては空襲の数と更に畢寛が果して恩寵
下附の唯一方法ならや否やの問題に就いては、互に意見を異にすれども、晩餐式を以て塑巽中最も
重要成すべき儀式でぁると断するに於ては登然一致して居るのでぁる。何故然るか。是は一には勿
論基督の死を記念する晩餐式を以て如何なる他の蟄琴音も重要であると宕傲したが虐めでぁる事
ほ明瞭でぁるが、二には一般の人々の気附か沿理由が潜んで居る。央は撃集中度同となく反覆して
も差支なき者は滴り晩餐式のみであると云ふ事賓である。七巽中洗藤と堅信鹿と技手経と末期の塗
油の四個は如何にしても二同行ふことはあら得ペからざる所でぁる。勿論轟沈次の人々︵An計pl ti且の如く洗蕗を二間も施した例はあるけれども、是は此況の人々の見地より列せば嬰兇が無意識妖感のまゝに受けたる洗惑は不法であり従って無数でぁるから、即ち之を洗惑でぁると看仮さぬの
であるから、年長じて壊ち洗療を再びするのである故に轟沈派の人に云はすれば鐘の洗感は第一同
日なのである。云ふまでもなく函洗況は加特力況ではなくてプーチスタントの一派で国教ま養に反
対して自由制度を主張したのである。婚盛と数刑とは反覆したちとて敢て必ずしも違法であると云
ふのではないけれども、是も一生涯に一同のみにて済めば、最も悦ぶべき筈であると信じられたる は如何にも人備の自然に通うた美風であると云ふべきでぁる。然るに晩餐式に至りては是が基督の 批烈の死を記念すべき筈の蜜莫なるを以て、之を幾回繰返したりとて、何人も之を不都合であると は思ひ得ぬのである。そこで琴二世紀の初頃になれば鳴響式は重罪利加や羅馬やスペインやゴール 等の地方に於ては毎自之を守るやうになったのである。薪の如く他の撃実は容易に反覆し得ざるに、 濁り晩餐に限らて舞岡繰返すも敢て不可なる誓なしとの考が一般に洗布したのでぁるから、蓬に晩 餐式は蜜奥を代来すべき特色の極めて鮮明なる儀式となゎ、信徒は之を経由して始めて碑と交はゎ 得るのみならず、進んで重要の恩化に浴するを得るのでぁると考へたのは無理もない次第である。 賓に中世紀の基督散骨は晩餐式を中心として其周囲に宗教生活を勉輯せしめたのでぁると断言して も差支はあるまいと忠通れる。蓋し晩饗式には基督敷の優秀鮎の現はれて居るは云ふを須ゐぬが、 其迷信さへも著しく活躍して居るのである。故に晩餐式は基督数的生活の鮪圃であると云ふも謹言 ではあるまい。是れ吾人が晩餐式中に潜める思想の主要なる部分を明かにし、以て基督致の長短を 羽せんと試みるのである。 晩餐式には種々の思想と感情とが混入して居る。就中イエスの言行と臍太の宗教生活に基ける思 郷 想とが最も大なる役割を演じて居る事は云ふまでもない。されど其外に偶像敦の威情も之を助成し、 晩餐式︵国8註p︻賢︶lこ辞める宗教思想
晩餐式︵㌢¢Fpr芭に潜める乗数息想 〓− 希脹哲畢と中音の思索も多大の影響を輿へ∵封建制度の下に養はれたる士風も抄なからざる戚化を 及ぼしたのである。今此等の思想や戚傍を好かに叙述せんとせば一大文豪の劇的詩撃を要すべきで 幻 あつて予の如き鈍才の企て及ぶ所ではないが、今は唯最も著しく活躍せる五偶の思想を散文的卒凡 さを似て考察して見ようとするのである。五偶の思想とは、川イエスの記念祭としての晩餐式、拘 檜太式の犠牲覿、榊希胞式の率髄論︵苧昌計t邑i註。n︶、拘拉輿式の数刑覿、例日食費奔に停ふ蕗藤 式である。 三 記念祭としての晩餐式 新約書中に晩餐式の超原を叙述したる文が四個庭に現はれて居る。即ち馬太侍二六︼七1二九、馬 可博一四三1二五、路加侍二二七−二〇及び寄林多前書二二三土一四である。以上四偶の記事中最も古 く書されたのは寄林多蘭書であつて、其年代は紀元五十三四年頃であらうか。英次に凍るのが蒔可侍 であつて是は六十五六年頃の作でぁらう。馬太侍は云ふまでもなく馬可を材料として執筆したので あるし、路加俸の晩餐記事はパウロの戚化を受けて居るに蓮ひほあるまいから、是はパウロの寄林 多蘭書と聯結して始めて其史的僧侶を評定せぬばならぬ。そこで原始基督散骨に於ける晩餐式の意 義如何を知らんが虐めには寄林多前書と馬可停とが最も優位多き史料でぁると断せねばならぬ。以
上四偶の記事は大健に於て一致して居るが、細目に捗れば勿論多少の相違がある。馬太と馬可とに は晩餐式を以てイエスの記念祭であると看倣して居る様子は毛頭もないが、寄林多前書と洛加とは 明かに之を記念祭であると観七居るのでぁる。前者は﹁まイエス責さる∼聴パンを取り成して之を 〇〇〇〇〇 響き云ひけるは取♭て食せよ、此は爾曹の虐めに響かる1我憶なゎ、爾曹も如比布ひて我を憶えよ。 食して後ち杯を取り前の如くして日ひけるは此杯は我血にして立つる所の新約な♭、爾静も如此行 0000000000 0000000 ひて飲むことに我を憶えよ。爾曹此パンを食し此杯を飲むことに童の死を表して其凍る暗までに及 ぶ抒了り﹂と明言して居る。賂加の記事はパウロ程には鮮明ではないが、彼もイエスをして﹁此は爾 曹の食めに予ふる我が身健なり▼ 我を記さん虜めに此を行せL︵賂加二二一九︶と断言せしめて居る。 以上四偶の文を精読して自然と吾人の心に起って凍る問題が二個ある。第一は晩餐式は果して記 念祭であつたかと云ふ問で、琴一は若しイエスの晩餐にして果して記念祭であつたと慣足せば、晩 餐式は何を記念したのでぁるかと云ふ質疑である。党つ第一問よ♭所労を始めよう。此間も自ら二 個に分れる。帥ちイエスが自ら弟子と共に食せる晩餐を記念祭と焉さんとする積りであつたかと云 ふ問と、パウロが之を記念祭であると思うで居ったか否かと云ふ問である。 イエスが死刑に廃せらるゝ前夜に嘗ウて其弟子等と共に晩餐を取♭妃と云ふ寧に就いては何人も 之を疑ふ讃はあるまい。而して彼が其晩餐を虜すに嘗りて極めて深刻なる戚慨に充たされて居つた 晩餐式︵国営﹃訪t︶lこ潜掛る宗教息想
一向 晩餐式︵国g訂ri芭lニ潜める宗教風貌 事は執れの記事に照らしても明である。されど熟ら考ふるに晩餐と云ふ事は何人にでも亦如何なる 日にでも必ず起って凍るべき食事である。斯くも卒凡なる事が何故基督敦禽にて云ふが如き巌粛な る晩餐式に鼻化せねばならぬ運命を有したのであるか。耗ひ問題となれるイエスの嘗柁の晩餐が 日常の晩餐と異なゎ、骨て狩太民族が挨及の摩御を脱したらしを記念せる除越簡と云ふ観家の大典 に近かりし際に行はれたらしが食めに、イエスに於ては普通よわも荘重なる感慨の念と森段の饅度 とを以て弟子等と合食したと云ふ事は之を認むペきであつても、何故イエスが之を儀式であるやう に戚じ化かゞ疑問である。殊に是がイエスの精神に共鳴して両国に加入すべき多くの人々によらて 後世に至るまでも丑粛に執行せらるペき儀式の第一同であると思ひ得たかヾ大なる疑問である。一 健イエスの宗教ほ制度を重要視せなかつたのである。彼は昔時の衝太人が安息日の制度を墨守して 死せる誠梓に囚はる∼弊害を覿破して之を慨し、﹁安息日は人の焉めに設けられたる老にして人は安 息日の焉めに設けられたる宕に非す﹂と断言し︵馬可二二七︶、又常時の滑太人が癖厳に出入して儀式 や典感や供物を献するに忙はしく、習慣の励行に没頭するを観て﹁我於姐を欲みて祭祀を欲ます﹂ ︵馬太九三一二七︶と云ふ音の琴富者︵ホゼヤ書六六ミカ書六六1八塵照︶の言を引用して宗教生活に 於ては、先づ精細を室とし儀式を碇とすべき所以を諭したのである。固よ♭イ享スに於ては剋先以 来永く橙承し凍れる狩太数の儀式を一々破薮しょうなど∼思うた事はめるまいが、其衷心に於ては
寧ろ儀鹿の煩琉なるに倦み渡れて居ったのであつたに相違ない。然るに此人が徒凍の儀式を以て足
れ♭とせず。更に晩餐式と云ふ薪儀式を追加しょうと企つるが如きは思も寄らぬ事と云はねばなら
ぬ。元本イエスは自分のメジャでぁる事は縦ひ自ち堅く信じて居ったにしても、其弟子等には成る
べく之を吹聴せしめまいと苦心し、自分の食めには何をも要求するを欲せざらし程に託虚の痕紳厚
かりしが今や常世に際して自己を記念せし軌んとて懸々晩餐式を創設したと云ふ如き想像は如何に
も偉大なる宗致家の心事を晩ひ得ぬ俗衆の英雄崇拝熱が産める誤解であるとしか判じられぬではな
いか。何れの宗教圏燈に於ても同様の現象であるが、英数囲に於て一般に尊重せらるゝ儀式や習慣
を禰へて、恰も直接敦剋より倍承せるが如くに説き立で;、之に権威を附けんとするのである。基督敦骨に於て一般に沈潜を以て基督より直得せるが如くに考へて居るのも英一例である。勿論イエ
ス自身はヨてネよ♭洗鹿を受けた程でぁるから洗鰻を受けんと巽ふ老があつたからとて、之に反対
などは翁さなかつたであらう。されどイエス自ら洗感を施したと云ふ痕辻は阿藤にも見雷らぬのみ
ならむ、第四東青書に接ればイエス親ら洗感を施した事は一同もなかったやうに判じられるのであ
る︵約翰樽四一、二︶。イエスは洗蕗を以て醐囲に加入するに於て必要なる儀式であると看倣した程の記事は空書中何盛上もないのである。されど敦骨にては一般に之をイエスより鑑侍したかの如くに
脚 考へて恋たのでぁる。晩餐式も之と同凄の経緯を有して得るのではあるまいか。寄林多書と路加俸と
晩餐式︵出昌落石放資︶に潜めろ乗数患瀬〓ハ 晩餐式︵浮eF胃賢︶に辞ゆる宗教愚想 甜 は晩餐式を以てイ三の設定せる記念祭の如ぐに考へて居るけれども、馬可侍と馬太侍とは之を記 念祭であると思うて居らぬのは、明かにイエス自身が之を斯く記念祭にしようと考へて居らなかつ た事の強き語族であると宕倣すべきである。されどイエスの没後其門弟と信徒撃とは偉大なる先師 の気塊に戚化せされて居るから、其高徳英風を追憶して之を忘る∼を符ない。殊に襟刺と云ふ壮烈 鬼痢を果せしむペき悲劇を記念せざるを得なかったのでぁる。碇て晩餐式を以て信徒の守るべき儀 式としてイエスより侍承したのであると判断したのは無理もない次第でぁる。果して斯る事情であ ったとすれば、吾人はイエス自身に於ては晩餐を以て記念祭の積りで行ふたのでもなlければ亦後世 に至りて信徒等が之を記念祭に作♭上げるだらうと漁期して居ったのでもないと判断するに蹟躇せ ぬ。勿論イエスに之を記念祭にしようと云ふ如き意志が毛頭無かったからとて、其門弟に至るまで も其意志を有して居らなかったと云ふのではない。基督数曾に於て初代よ♭之を記念祭であると思 うで居った事は極めて明なる事賓である。然らば何時頃よら之が記念祭に成ったのであるか。 既に述べた漁らパウロは寄林多前書に於て判然と晩餐式を記念祭であると看倣して居る。慣らに 寄林多前書の著作期を紀元五±ニ四年頃であるとせばイヱスの没後二十除年にして常時バクpの関 スタヤ、亜細亜、カラチヤ、マケドニヤ、アカヤ等に散在せる 係したりし藩致命即ちヱルナレム、 詩歌骨に於ては之を記念祭であると琴フて居ったと観ぬばならぬ。賃に.♪クu成之を記念祭とせユ ー ■
と寄林多数曾に勧誘し先のではなくイエス自ら之を記念祭とせよと命じ先のであるから、信徒眩最
も廠粛に之を守らねばなら萬と断言したのである。故にバク甘はイエス虔刑前夜の晩餐を以てイエ
ス親ら之を記念祭と焉さんとの目的よ♭此儀式を設定したのであると信じて居ったに相違がないと
云はねばならぬ。是は賓に注意に偲ひする事柄である。何となればパウロはイエスに劣らぬ程の精
醐重義を高鳴した人であつて、律法を軽んじ儀式を重要成せす、滑太人の最も執着せる剖鹿の如き
に封Lては之を以て救の食めに全然無用であるとの見解を持して障る色なかった程に塞の宗教を主張した人である。斯の如き自由論者にしてイ童ス自ら晩餐を記念祭と定めたとま張するからには、
之に除程特別の理由がなければならぬ誓である。バクⅤは明かに晩餐式を以て﹁我が爾曹に侍へ
し事は主より授けられたる捏了りL︵寄林多前書一一二三︶と断言してキ,ストよりの直侍であると云ふのである。されどパウロはイエスの在世中骨てイエスに含見した事のなかった人である。彼如何に
して之をイエスより受けたなどと云ひ得るのであるか。蓋し彼の意たるや彼が直接イエスに尊ばな
か︿つたけれども晩餐式の事に園してはイエスの直弟子であるペ一7Ⅵやヨハネやヤコブの如く政令の ↓杜﹂、︵加拉太書二九︶ と云はれたらし使徒等より之がイエスの創設に成る者として確賓に保澄せられて居るのであるから、自らイエスよト直接畢びたるも同棲であるとの事であらう。そこでバクー
吼 本務の先登よ♭せば儀式には淡泊であつたにも拘はらず、濁ら晩餐式に対しては頗る最粛の濃度に
晩餐式︵崗邑邑資︶に潜ゆる宗教思想 \招 て乏の尊重すべき所以を説いたのであらう。
以上の所論に由りて之を観ればイエスは記念祭の籍すで弟子と共に晩餐を食したのではなかつた
が、.ハタロの寄林多前書を認めた頃即ち紀元五十三四年頃には基督敦骨に於ては一般に記念衆として之を厳守する習慣が厳存して居ったと判断せねばならぬ。
是より吾人は第二閏ヒ移りて晩餐式は何を記念するのが某日的であつたかを考察しょぅ。此問題
も之を印イエス自身は如何なる趣意にて晩餐を取♭たかと云ふ事と拘バク甘は何の目的を以て戯か
点したかと云ふ事の二偶に区分して考ふるのが便宜である。
イエスが礫刑の前夜弟子と食事を共にしたのは無論晩餐ではあつたが晩餐式ではなかったと云は
ねばならね。何となればイエスは新たなる儀式を創設した接すではなかったから、之を特に改めて
式と命名するは不釣合であるからである。されど皆時イエスは身親ら殺さるゝべきを璧悟して美郷
里よりヱルナレムに上京したのでぁるのみならす、其上鎗越簡に接近した時であつたから、何時も
と違ひ精細上の緊張が著しかったに相違なく、弟子等も深劇なる戚慨に打たれて居った事は之を想
像するに薬くない。をこで弟子等も之を儀式にてもあるが如くに威じて永久に恩師の壮烈なる臨終
を記念する事にし死のであらう。吾人は新約書中の晩餐記事を研究するに河鹿にもイエスが晩餐を
点せる時の目的が明記して居らぬのに驚かざるを得ぬのである。されど馬可一四二四、二五に併載の
晩餐式︵哲e訂鼓t︶lこ潜ゆる宗教思想記事即ち﹁イエス日ひけるは此は新約の我血にして衆くの人の虐めに流す所のもの打アり。我誠に衝
曹に告げん今よぅ後ち新しきものを紳の囲にて飲まん日までは葡萄にて製れるものを飲む﹂は此謎
を解くべう鍵ではあるまいか。昏時イエスは其弟子に向つて自己の構死を蓬くべきを少なくとも三
岡︵馬可八三以下九三〇以下一〇三二以下︶までも汲告して置いたのであるから、弟子等と錐ども恩師の殺害さるペき時の迫れるを以心侍心的に威じて居ったに蓮ひほあるまいと思ふが、何人も何故国民
の崇敬を受くべき嘗のメシヤなるイエスが殺さる∼と云ふやうな悲惨の最期を簸はぬばなら萬かを 解し待サ、管な失望落臆して居ったのである。琴Qにイエスは自分の殺さる∼のは曾て撃一一義ヱレミヤの瞳れて止まざりし精細上の黄金時代即ち細入間の契約が石に刻まれたト、紅に記された♭し
たる律法を童とするに非すして賓に人心に刻まれたる精前約理解に基きて細入融合の宗教の賓現せ
られんが虐めに大に資する所あるべきを重鎮し、盛んに其弟子の精癖を鼓舞したのである。彼が﹁新
約の我血﹂と云ひ叉﹁衆くの人の虐めに流す例のもの﹂と云ふのは之が虜めである︵耶利東亜書三一 三一以下参照︶。彼は更に進んで自分は今殺さる∼も、速からすして醐観完成すべきを告げ、共時には師弟互に蒋脅し待べきを以て、漸時際忽すべき所以を諭したのである。是が即ち﹁新しき物を南国
にて飲ん日云々Lと書いて居るのである。現今の人々の榛準より諭すれば廼鐘とか、盲一死せるイエスが綻ひ古今絶倫のメシヤであるにしても、死後商廃すると云ふが如き思は結局不可解の峯想と
晩餐式︵出ぎe訂再賢︶lこ潜める宗教思想二〇
瞳整式︵出象﹃訃t︶に潜める宗教息想 して︼笑に附し去るべき類に屠すべけれども、イエスは彼と同時代の敬慶なる洛太人と均しく発生 し特に義人の廼生1を信じて居ったのである。そこでイエスの晩餐を点せる主要の目的は其弟子と 永訣するに曹りて凋己の死の決して犬死に了るものでなく、賓に諦観賓現の鰯めに、徒て弟子等の 虐めに、資する朗あるべきを儲明して弟子の精細を鼓舞せんとしたのであると判断せねばならぬ。 女にパウロの懐いて居った晩餐式蕨守の目的如何を考へて見ねばならぬ。是は章にして極めて列 00◎ 明である。彼は明かに﹁爾曹此バンを食し、此杯を飲むことに主の死を表して其凍る暗までに及ぶな ちL︵寄林多前書二二六︶と云って居る。即ちキリストの死を記念してキ,スーの再臨を待ち望んで居 る虜めの儀式である。此考の後年は前に述べたるキリストの趣旨と全然一致するのである。執れの 文に照らしてもキリストの死が主要問題である。両者の異なる所はイエスは記念問題には絶対沈戟 を守って居るのにバクーはイエスの苑を記念せよとま張して居るのである。更に強ひて差別粘を求 むればイエスに在りては其弟子を慰籍し其精神を鼓舞せんとするのが主要の目的であつたが、バク ーに在りては晩餐式を最守するによ♭てイエスの大精細に融合し其徳化に浴せんとするのが趣旨で ある主君べ㌢であらう。彼が﹁我僚が就ふ所の成の清杯は是れキリストの血に興る︵穿in。邑p︶に 罪すや、我僚が響く所のパンは是れキリストの健に興る︵穿iロ害ip︶に非すや、パンは一なれば多く の我僻も壷な♭。豊ハに一の・;に興るパ毒林多瀞華〇一声二七︶と云へるは沸くキ㌢でエ〓致敵合するの必要なるを高萌したものである遠に注意すべきは﹁輿﹂ると静せる原語は粗。in睾piで
あつて﹁交際する﹂と云ふ意義である。イエスの血や其身髄と交際するとは勿論讐喩であつて、イエ
スをして批烈の死を敢てせしめたる大輪紳の戚化に接観する事を濁したのである。故にバクpの理解する所に壊れば晩餐式はイエスの死を記念するのが目的であつて、其死を記念すれば勢ひイエス
の壮烈崇高なる寛晩に接し、其徳化に薫育せらる∼やうに成ると看倣したのである。而してパウロの此の議論に対しては昔時異論の存した痕迩は原始基督敦の文殿中何盛にも之を費見し得ぬのであ
る。斯の如く晩餐式に於てイエスの死を記念せんとする精前は亦著しくパタロの基督諭の中心思想
と一致するのであるから、基督の死を記念すべき儀式としての晩餐式中には淀奥なるパウロの宗教
思想が奥床しくも聯想せらるゝに至ったのである。
基督を評慣するに雷♭て彼が言行中の執れの鮎を輔へて中枢問題と超すべきやとは原始基督散骨
に取らて可なり苦心を要したる問題であつたらうと思はれる。馬太東青書はイエスの教訓を中心と
して之を衝太の律法よりも優秀なる大法である所以を示さんとして居るし、馬可は英雄崇拝者の眼
孔を以てイエスが人間以上の徳を備へ天地の諸塞も共成夙に服するの止むなき有様を描き出さんと
して居るし、約紛はイエスの生涯の調麗的なるを示さんとて筆を執ったので、彼の基督は竿ば昔時
捕 の所謂哲轟音の如く、学ば紳助のやうに見えるのである.。然るにパウロは基督の死を中心として基 晩餐式︵出‘註弓賢︶lこ潜める宗教思想0000000000 督諭を螢展せしめたのである。彼は﹁我イエそ キ,ストと彼の十字架に釘けられし拳の外は何を も知るまじと意を決めた♭L︵寄林多前書二二︶と云ひ、又﹁キリストの我を邁はししはパブテスマを 施こさせんが薦めに非ず、感官を宣侍しめんが虐めなら、又我に言の智慧を用ゐしめ給はず。是れ
00000 キ,ヌーの十字架の虚しくならざらん虐め打了り。それ十字究の数は沈静老には愚なるもの、我僚救
はる∼老には前の髄たるなり﹁︵寄林多前書一㌻乍二八︶と珍書した。欝に基督敦を以て十字架の敦で あると一般に洗布せしめたのはパウロである。パゥニュ以前にありては基督の死は密閉一般に評判の 芳はしきものではなかった。一燈世人は暗殺された人の場合に於てならば、刺客の不正なるを先天 的に侭足して居るから、殺された人に対して深き同情を寄するを常とするものなるが、図法に準じ て死刑に虔せられたる人であるとなれば其の此に到れる所以の経緯を蒋ふるの達をも須ゐす直ちに 之を忠人であると看餞して英人を軽蔑するのである。熟ら考ふるにイエスは暗殺されたのではなく して死刑に廃されたのでぁる。固より昔時の裁判の賓備や之に聯園せる祭司長や猫太の清次馬連の 横暴なるを知れる者より冷静に列すれば、司法官にして同時に行政長官たりしピラトの判決は乱暴 を極めたる好邪の所業なるに相違なしと堆ども、一般の俗衆は斯る事情を詳にせなかつたのである から、死刑囚の取扱を受けたりしイエスを善人であると思へなかったのも無理ではない。而かもバ ク℡は此危機に優してイエスの死を以て聯かも恥辱であると看傲さい1リしのみならす、之を以てイ 晩餐式︵国uc訂ユ邑lこ辞める宗教思想エスの人類に対して懐ける変心の費露であり、塞の宗教の勝利であると主張し、十字架の死を以て
人間が肉に発して室に廼るべき高邁なる輿理の象徴であると宣侍したのである。泡にパゥこの基督
諭は十字架中心であつた。後固よりイエスの鐘陛の史的梗概位は之を知らぢかったのではあるまい
が、不思議にも彼の遺稿中阿藤にもイエスの言行を奉げんとせる努力は見え沿。而かも紋は単にイ
エスの死を詭富、其究を基本として生起せる磨生を童張して止まぬのである。彼の十字架中心の基
看傲した考に衝簡
督諭と基督致覿とは餞くも晩餐式の目的をぬてキリストの死を記念するにあると
を合して居るのである。
晩餐式を以て基督記念祭であると看俊す見解は上はパタpよ♭下はツタキング,−︵N宅5.g−二田 八四!一五三一︶に至るまで皆な一致して居る。ツタキングリー以後晩餐式敷には史的欒遮の観るペきものはない。是が基督記念祭であると思はれたから基督散骨に於て晩餐式を守るに督り畢集中
最も荘厳に又最も赫轟的なる戚慨の備を以て為したのである。パタpの如きは洗鹿に対しては多少軽快の筆を弄して﹁我前に謝す我はクリスポとガヨスの外爾曹の中一人にもふプチスマを施しゝこ
となし。此は我名に托りてバブタスマを施すと入に云はれんことを健れたればな♭。我またスタバ
ナの家族にバブテスマを施せり。此外には我人にパブタスマを施し。ことあるや否やを知らず、キ
クストの我を造はし∼はふブ一ブスマを施させん食めに非す藤一軍£且べ偉へしめん虐め打Tヮ﹂︵寄林多 吸盤式︵嶺莞訂↓賢︶ほ辞ゆる宗教思忍噴儀式︵崗邑註︶lこ潜ゆる宗教息想 こ四 郎 蘭書一一甲⊥七︶と云って居るが、樽じて彼が晩餐式に筆を染めんとするや彼は極めて荘重森長の濃 度を持して居るのである。吾人は彼が洗虐よらも晩餐式を重大視したる痕を観て彼の心事を察すペ きである。爾凍今日に凍至るまで基督数各派に於て晩餐式を以て基督の死を記念せんとする着であ ると看倣すに於て一致して居るのである。賓に晩餐式に最も著しき特徴は記念祭であると断言して 障るべき理由あるを覿ぬ。唯残る問題は是が記念祭であると云ふ一事で晩餐式全部の意が渇きて居 るかと云ふ事である。基督数曾の多くは記念祭以外にも僻ほ多くの意義が包含せられて居ると看傲 して晩餐式執行中にイエスに射する無限の尊敬を梯ひ、同時に人間無窮の願望を充たしめ、又煩悶 の多くを督するに足るべき一法の此に存すべきを信じて前栽幽玄の情趣を以て此式を守って凍たの である。︵来完︶
︼ はしがき
本誌前里紳嘩撃に於て赤沼智幸教授は所謂﹁分別論者﹂に裁て綿密な研究を螢表された。そして
その中に於て度々私の所論にも観れられた。蓋し私は発きに﹁阿毘達磨諭書の研究﹂に於て南方論部
の中心たる5b訂厨p︵分別諭︶と舎利弟阿耽曇諭との関係を諭した序でに所謂、分別論者に言及しながら遂に適確なる結論ぉ出しかねたのが教授の之に関する研究を促した一因となつたからであら
う。私は同教授の飽くまで泉南目な畢究的鰻度に対して不断から敬意を表してゐるものであるが、
殊にこの問題は言はゞ私の種を蒔いて置いたものだけに之に突入された同教授の努力に封して戚謝
措く髄はぎるものがある。併し同教授の逢せられた結論に射しては、その後に於ける私の研究成鎗よ
ちして蓬に之を承認することの出水ないのを遣域とせざるを待ぬ。勿論この間邁に関する私の研究
脚 も今僻ほ途上にあつて異に勒かざる結論に達するまでには葡逸遮遽の戚もあるけれども、ともかく、
分別論者ミ部泥¢所思lこ就て分別論者と部汲の併屠に放て
︵前扱所載赤沼教授の所論を凄みて︶木 村 奉 賛
この問題を論究するに際して使用すべき又は参照すべき文献的材料は、私の場合にあつても赤沼
教授のそれと略ぼ同棲である。たゞこ∼に僅かではあるけれどもあれに追加したいのは、同教授の見逃した太尾婆沙論引用の二句である。それは即ち
△分別論者は説く預流一凍も亦版本定を得 ︵大鳥襲沙論第百三十三条虫諒五六大左︶ △分別論者の如きはたゞ初静慮に︵五︶支を建立して鎗所にはあらすといふ。所以いかんとなれば契経によるが故なり。契経に説くが如し。馳合位廃液索迦が達磨陳郵必癖遍の夙に往いて問ふ
三一白く、初静慮に幾支あちやーと。答へて言く、具書よ五支あう、謂く尋、伺喜、襲、心一項所な
分別論者ミ部渡の帝展に兢て
二六
前に之を諭し克際よ♭は何程か見解の贋く聾し何程の取鼻がついて恋たやうに威せらわ、従って前
に私は一應片野けたつもりの部分でも、今では訂正せねばならぬ個所も砂くはなく、それだけまた赤
沼教授の所論に対しても異議を呈出せねば、自分の心として牧ヰでりのつきかぬるものを生じたので
ぁる。賓をいへばこの問題は、私の種を蒔いたものだけに、私自身で、も少しょく研究してから纏
まつた形で螢表したき考であつたけれども、今已に赤沼教授によつて解決の一方針が提唱された以
上、そして私はそれに射して不満を威する以上、自分でも何んとか意見を費表すペきが、畢界に射す ■
る一義穿と戚じたのは、こ1に即ち私はこの問題に対して裔び撃をとることになつた所以である。り。と︵而して︶後れ慶改発迦は既に上の静慮支を問はす彼の蒜須磨また説かざるが故に知んぬ 上の諸静慮に支を建てざるを ︵同上第六十巷賃版六六四左︶ の二句である。赤沼教授の併べた順に徒はい暫らく前者を望bとし、後者を∽さと数へたならば便利 かと思ふ。その他は概ね同じ瀞料を使用して議論を進めたいと思ふから∵Jの論文を凄まれん方は、 必す前親所載の赤沼教授の意見とその材料とを参考せんことを望むものである。
二、赤沼教授の意見と私のそれと異る重要鮎
党つ頗序として、赤沼教授の意見と私のそれと選る重要粘に就て述べてかゝるの必要があらう。 教授は分別説に関する種々の文献を調べ、且つ之を何部とすべきかに裁て支那日本の聾者の意見を 検討して、蓬に分別論者とは所詮化地部の異名に外ならぬと論結せられた。而してその理由とする 屏は1−後家分別論者の所属を明にせんとしたものに、之を正畳部とする設を初めとして、或は化 ー 地部、或は飲光部、或は詭暇部、或は大衆部と種々に意見が分れ、中にほ何部と限らす或る立場か ら種々の部族を包括するの名辞であると論じたものもある。中に就て之を説暇部とする訣は要する にpr&許pti忌dp︵萄に分別部と離す︶の評語に速はされ佗もので、今の毘婆闊琴提︵ゴbh邑p急診〝 組 弓5bh監yp忌di♭︶を分別部とする主題からすれぼ論外に置いて可なるものであγり︵私も之には費 分別論者モ部渡の所属lこ就て分別論者モ部振の併廓−こ就て
二八
細 成だ︶、その外、正畳部とする読も飲光部とする読も文献上、甚だ不充分であ♭、大衆部とする詭は﹁大衆部及び分別論者云々﹂の文献に矛盾するので之を許容することが出家ぬ。可能性として残るは
たい化地部のみであるが今その宗義を大毘婆沙に引用された三十六種に捗る分別論者の諒と比較す
るに極めて類似鮎多く、賓にその中の十題目程合致する所を以てすれば分別論者とは遂に化地部の
異名と鯨着せざるを得ぬとは賓に赤沼教授の論語法である。而もこの中には分別論者を以て諸部汲
に捗るの異名とする推定の誠らしからざることや、又之を大衆部の異名ともし難き理由などに関し
ては、私が兜卒論じた屏に窒息を表された朗もあるので誠に恐縮に堪へざるものがある。併し率直
に言へば∵已に意見の建ってゐる私としては、右の論語法に対しても可たこソの不満を威せざるを得
ぬものがある。今その重なるものを馨ぐれば −第一に、赤沼教授は婆沙諭等に引かれた所謂分別論者の読を考澄する財料として専ら漢謬所樽崎に
宗翰為に重きを置かれて、大切な南方朗侍の諭粟国巨弾邑tl⋮︶の記銀を比較的に軽成された。分別論者郎化地部といふことの宜澄には之を利用されたけれども、仝嘘として之を教卒に取扱ふて之
によつて各部派の特徴を明にして、分別論者の考澄に資するといふ用意を欠かれたやうに思ふ。勿
論最格に云へば諭事に於ける部況的記事は可ならに遅い彿音の註による外に道がないので、その信
用を倦めざる限♭ほ部況に関する記銘として安心して之を使用することが出凍ぬといへば、それま
でゝあるけれども、併しそうなれば有部を中心に競輪された宗翰諭の記事も同様の欠鮎があるから、
之を重とするも矢荻不安心を免れぬ。許して宗翰諭を使用する限りほ矢荻、同じ程度の信用を沿革
に沸ふの必要があらうではないかと思ふ。而もこの材料使用の軽重は、怒て教授の意見と私のそれ
と分るゝに致った分岐鮎であるから、特に之に関して教授の感度を邁賊とせざるを待ぬ。
琴一に、徽授は鬼婆沙に引用された分別設と化地部の宗義と一致する粘、十ケ備を敦へ奉げられ
たのは疑もなく注目すべき成爵として、私の敬意を梯ふ所であるけれども、教授のために惜むペき
は、あの十ケ傭の一敦難が、賓をいへば掲り化地部の宗義に限ったものではなく.概ね大衆部系のそれと共通するものである主需ふことに対して、何等の願慮をも梯はれなかったことでぁる。況し
て十ケ億の合致するものありとした所で、大毘囁沙諭だけでも僻ほ他に二十六ケ健︵私の追加を加 へて廿八ケ僚︶の合否不明のものが残るとすれば、単にそれだけから化地部印分別論者の結論を引き出すは些か早計に過ぎるものふγりと思ふ。勿論、私は後に遊ぶるが如く必ずしも化地部も所謂、分
別論者の一種であることを否定せんとするものではないけれども、婆沙の分別論者とは専ら化地部
を狙ったものであるといふ教授の意見には、めれだけではどうしても賛成する事が出癒ぬ。少くも
教授にして、あの合致する十ケ僚の宗義は元凍化地部特有のものであつたのが次第にその影響を受
けて、他派でも之を採用するに到ったものでぁるといふことを澄明して呉れない限りは、論語の手
分別静者ミ部泥¢併覇に兢て繚に於てあれたけでは首肯せしむるに足らぬと思ふ。 ■ 第三ほ、之は私も以前にやったことであるが、同教授も亦、分別論者を以て飽くまで一部次の異 名とするの濠断に除り輔はれ過ぎたやうに思ふ。以前に私の最も苦んだ鮎は正統派中の正統派を以 て自任する南方上座部が分別説部と耕せらる1と同時に、之と可ならに距離のある宗義を婆沙論な どは同じく分別論者と暁び而も少くも有部の立場からすれば相容れざる異端次の如くに取扱ったの はいかなる理由に基くかといふことの判明せざる鮎であつた。而も私は両者を以て飽くまで一系統 ︵一部沃︶又は最も近接した系統の分化であつてこの間に密接なる歴史的開展の遮り得べきものがあ らうと洩断したものでぁつた。之が即ち嘗て私はあの問題に突き雷って大に苦んで遂に解決を得な かった重囲であつた。が、今や私は南方分別部と琴沙諭の所謂、分別論者とを直接に連結する事の 可打でりに困難であることに気がついてこの企てを放棄した。そして分別部とは特定部派の異名では なく寧ろ鮭度又は主義の粕蓮を或る立場から命名したものに外なら萬といふ結論に到達したのであ る。魚るに赤沼教授の所論を見るに婆沙諭、倶合諭、唯萬系詩論書などに見ゆる分別諭に対して、 矢荻、飽くまで之を一部派と濠断して、その所属を定めんと努力し竃も時代や立場によらて所謂分 別論者に廣次の区別があつたのではないかと云ふ事た注意されないのは、今の私からみれば大に物 たらぬものがある。 分別論者モ部泥の併屠に就て
右の三ケ僚は即ち先つ出費鮎に於て私が赤沼教授の線度に服し得ざる主要駄で、而も之はまた私 が以前の考へ方を訂正せねばならなくなつた主要翫である。然らば、進んで私の具健約意見はいか にといふに、率直に結論を出せば1南方上座事は勿論、分別論者であつたと同時に、飲光部も分 別論者の一輝であ∵り、化他部、正畳部も必ずしも否定せぬが、殊に大毘婆沙諭の所謂、分別論者と は主として大衆部系中、その最も進める教派の稀呼であつた − といふのが即ち私の到達した成鹿 である。 以下逐健的に之を考苦して見やうと思ふ。
三、大衆部系の主張と婆沙に於ける分別説
こはこの論文に於ける主眼詣であるから、先つ大毘婆沙諭の所謂、分別論者の正健から逓ぶるこ とにしやう。 私は発きに婆沙諭中に、大衆部及び分別論者は傍身を無漏法なわと主張すとめる文献に基いて、分 別詭部と大衆部とは別種のものであらねばならぬと童荻した。︵阿昆論者¢研究〓草不買︶。赤沼教授によ れば、之よら先き已に舟棟数授も同意見を馨衰してあるといふ事であるが、今亦赤沼教授が分別詮 部が大衆部の異名でない乙を澄するに同じく右の文献を童とされた。併し私は前にも述べた如く、今 分別論者モ部渡¢所帯に裁て三二 分別沓着ミ部況の庸鳥に放て では右の推定を以て早計に過ぎたと悔いてゐるものである。蓋し概括的に大衆部と言った併で、そ の中には鹿本家もあればその次に系統を引く種々の別家ぉも含む限ト∴本家としての大衆部七分家 の異名としての分別説部とを併設したからとて大した不都合もあるまじく、徒て右の文は分別部を カターゲッツ 大衆部系と列するの反語とならぬからである。況して宗翰諭、諭事その他の材料によつて嬰沙に散 在する分別論者の意見と大衆部系のそれとを比較するに、その合致するものは温かに化地部以上で あるとすれば、侍詭のいかんに関らすその間の関係は、少くもー應は是非とも考へて見ねばならぬ 問題と思ふ。不幸にして私は未だ囁沙引用の分別訣の凡てを∴denti草するの運びに到らかねてゐる けれども、今日までの乏しき攻究を以てしても優にその通年数は、大衆部系の主張と合敦するを確 めたつもらである。而もその中には化地部と共通するもの∼大部分を合む上に、更に化地部の宗義 としては見昏らず、寧ろ所謂分別論者特有の主張と思はる∼もの、− 例せば心性本浮論の如き超人 格化した彿身諭の如き、廣き意味の無名覿の如きを概ね含むのである。今引用の順に徒て之を列拳 するならば 一、分別論者は執す倍等の五枚はた︸是れ無痛なら。︵婆沙第二怨坑阪六左︶。こは化地部の宗義であ るけれども、宗翰論によれば亦大衆部の数理中にある﹁世間の信根なし﹂の健に曹る。 二、或は執するろ♭藩適宜健はこれ無焉ならと分別論者の如し。︵琴三溝粗九左︶。こは宗報諭に鑓
へば化地部と大衆部。諭事六・二によれば化地部と大衆部の支況たる東山部︵句旨b軋iy且と の宗義である。稀友は之を化地部と解し陀。︵閲娼謂諾紬︶ 三、或は執するあら心性本浮と分別論者の如し。︵婆二七て帳蒜竺三︶ 四、分別論考かれ説く、染汚、不染汚心その燈選ることなL。謂く若し粕應煩悩の未だ断せざる
を染汚心と名け、若し時に相應煩悩の已に隣するを不染汚心と名く銅芳等の如し。未だ垢を
除かざる時を有垢器等と名け、若し垢を除き已れるを無垢器等と名く、心も亦是の如し。︵撃− 七、坑版一一三左︶△有随眠心も無随眠心もその怪異らす、翌温現前すれば煩檎と相違するも心性と逢せす、垂道は
頻惰を封治せんがためにして心を封治するにあらず、恰も衣を脱ぎ鏡を磨し金を錬る等の如
し。物と垢等と相違すれど衣等に逢せず、室温亦然り。垂三設八九右引用、︼心相慧豊張︶右の三文は何れも同一主張に属するもので、要するに心性自髄の清浄無垢なる所以を主張した
ものである。而もこは傭身無漏説などと同じく、主張としては極めて際立てるものであるから何
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派が之を唱導したかを調ぶることは、分別論者の正髄を明かにする上に於て極めて必要ぢ契機
粘であらゎばならぬ。之を宗翰裔に赦するに心性本浮説は明かに大衆部、︵一説部、説出世部、翫▲紺
弗胤部を食めて︶に於ける本京間義の一億となつてゐるもので而も他次に共通せざる主賓であ 茎一−分別論者モ箭準の所帯に銑て
捕 分別論者ミ部振の所思に就て 三摺 る。更に之を諭事に徹するに諭事には判然、心性本渾と纏めて説いた研がないけれども四及び△ に奉げた、言ひ得るならば心性同一詭に細管する主張は大衆部系に属する室蓮鹿波︵邑訂訂00︶ のま荻に粕督するものである。即ち砲撃三、三に﹁貪欲ある心のみ解放すL上あるに封し耳倣音 は之を集達屡次の主張であるとして、次ぎの如き解繹を奥へてゐる﹁かの貪欲を離れたる心に ヽ 対しては解脱を求むるの理由あることなし。恰も汚れたる衣服は洗救によりて々の垢賦よち臆 するが如く、かくの如く貪欲める心のみが貪欲より解脱す﹂と。即ち明かに客塵煩悩説で之を四 及び△の引用文と比較せよ。文に多少の相違あれど精細に於ては全く同一趣旨となるではない か。然れば法輪諭で大衆部の主張といへるは、詳しく云へばその系統に属する室連羅況の生坂 の義で、この主張を大毘囁沙診では分別論者又は一心粕績論者の名で疾んだものと解せざるを 待ぬことになる。 五、分別論者は葦滅、非揮滅、無常滅の≡を無題となす。︵警一一賃版三〇右︶。揮汝、非揮滅を 無名とすることは有部も化地部も大衆部も同じことであるが、特に無常滅を無慮としたのは 蓋し、諭事二、八に塞遠藤況が無常ほ常規打†り︵邑c邑阿p罵inip訂−1払︶とめるに粕雷すべく、 碇て之も宝達濃汲の室菰と解してよからうと思ふ。 六、分別論者は有為初の燈はこれ無慮ならと。︵婆三九﹂坑二大○左︶。 こは宗翰盃で紹介されて
ある大衆部や化地部の九重虜中にも内合せらる1思想であるけれども、特に有虜粕の健を無 名とま張する況といへば、蓋し諭事一九、五に紹介されてめる北造涯︵q誓邑p旨註且の諸法 の輿如は無焉なり︵S巴旨垂巴岩mmぎ冒t賢a琵琶許訂t叩︶といふ主張を指すものであらう。何
んとなれば一切法の眞如とは所詮、有馬法の本憶に外ならぬと思はれるからでぁる。併し若
し有馬相の憶を生住奥滅の四舶の一々に捗るの童燈の義と解すべしとせば、私の調べた限り
囲和又は三初の一々を無名と主張した況がないけれども、前﹁五﹂に奉げた無常滅を常規とま
乾した精細からすれば、之も矢振、宝達藤沢逸りの主張と解して然るべしと思ふ。鹿じて概
念の常悟性より出費して無題諭を主張するを好む派は、諭事による限り概ね集連藤波又はそ
れに接近した涙に属することを私達は忘れてはならぬ。
七、分別論者は諸法は他軽々放して自性にあらすといふ。︵婆五九坑版二田九右。同一〇六賃版凶四八左︶。 こは赤沼教授の指摘された如く化地部のや∼著しき宗養でぁる。併し必ずしも化地部に限っ たものではなく諭事七、一によれぼ塞蓮霹振の一派たる東成部︵琶d訂邑詩風もま張する所である。即ちその﹁いかなる法もいかなる他法によつて括せられす﹂といふ説である。
八、或は執する争り、不染法も亦、有をして相指せしむと。分別論者の如し。1謂はく実歴に説く菩薩は正しく母胎に入るを知わ、正しく母胎に任するを知り、正しく母胎より出づる
分別論者モ部甑の新居lこ就て三六 分別論者ミ部渾の所感lこ就て を知ると︵婆六〇坑版二五妄︶。こは菩薩が衆生済度のために別に染心なくも自費的に種々の衆 生界に生することを童重したもので、宗翰諭によれば大衆部及び雪山部、犀星部の主張する 所であり、諭事二三、三によれば集遠藤次の主張する朗でぁる。何れにしても大衆部系の一 重破たるや疑の存せざる所で、而も化地部の圭喪中には見出し待ざる僚填である。 九、阿羅漢に退なし︵婆六〇坑版二五三左︶。宗翰諭によれば、こは化地部と同じく大衆部も主張す る所で、諭事四、一〇には安達羅況の主張と倦ふ。 一〇、随眠はこれ纏の種子にして、随眠の竃軽は心不軸應打†ヮ。諸纏の自性と心と粕應す。 ︵婆六C坑版二五四左︶。宗翰諭に徒へば∵しは化地部及び大衆部の主張する所であるが、諭事九、 四、同一四、五によれば集連廉沢の童坂と合す。 一二或は説くあり四沙門果はたいこれ無名なりと分別論者の如し。︵婆六五坑版二七三左︶ 歯車 一九、三によれば集達藤沢の一派たる東山部が、沙門果は無慮なり︵欝m鼓㌢p邑書芸寮h・ 已挙β︶と主張するに合す。 一二、分別論者は中有を捺無す。︵婆六入坑版二八八左。竺三五賃版五七妄︶ 宗輪論たよれば化地部 及び大衆部の主張である。諭事入、二によれば南方上座部もこの況に属す。 二二、比喩着分別論者、かれは是の設を蒐す。世燈はこれ常、街儲はこれ無償、宥はせを布く
嘩答申の果の如し。この際より路で∼棒じて彼の洛に入♭、亦は多人がこの禽より艶でゝ 稗じてかの合に入るが如し。諸行も亦兼務世より現在世に入ト∴現在世より邁去世に入る。 ︵串空ハ坑版三二〇左。仝三五版賃五七一左︶。こは極めて著しき特色のあるま張であるけれども、私 . は未だ之と全く合致する特定部汲の主張を見出し得ぬ。併し著し之に接近した思想はと言へ ば、蓋し極めて簡単ではあるけれども諭事一五、三に奉げてある﹁三世は諌め規定せらる﹂ ︵Adl︸掛p弓in首h呂n抑︶といふのがそれであらうかと思ふ、不幸にしてこは何派の主我にかゝる かは偽者の詭明せぬ所であるけれども、諭事の英評者も想定したやうに恐らく集遠藤況速り の圭荻と解して大差なからうと思ふ。︵碧e憎㌢ts。﹃C邑rC霊rSyp・誓¢詳。什n。訂塵照︶。 一因、分別論者の如きは政令を蓋してその心常に定にあら、書く念と正知とに安住するが故な ちと説く。又備を讃して傲は恒に陸眠せす諸蓋を耽る∼が故にと説く︵婆七九坑版三三e。宗 翰諭によれば﹁偽無陸夢﹂とは大衆部の主張である。又倶合諭第十三巷に有鎗部が諸彿は常に 定にあるので勲記心なしといふを鎖疏に之を解して﹁若し大衆部の宗によれば備に無記心な し常に定にあるが故にといふ﹂といひ所謂、有除部を大衆部と解した。私の見た限り諭事に はこの問題がないやうであるから、その大衆部とは詳しくは何派を指すか明でないけれども、 とにかく大衆部系のま荻にか1るものたるや疑がない。僻ほ序でに言って置くがー宗翰諭に 分別論者モ部振の併聴に放て