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龍谷大學論集 474/475 - 010藤本 忠「ランベルトの「学的認識」について : 『新オルガノン』を中心に」

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全文

(1)

フンベルトの

│ │ ﹃ 新 オ ル ガ ノ ン ﹄ を 中 心 に │ │

について

1

は め じ 哲学者が同時に数学者であることは、歴史上、稀有なことではない。哲学の歴史をひもとけば、プラトン以来、 数学と哲学は時に友愛を結んできた。近世以降を瞥見しただけでも、デカルト、ライプニッツは数学者であり哲学 者であったし、ホップスなども算術的計算と思考術を関連させていた。彼らは自分たちの学的営みそのものを、今 日的意味での哲学や数学と同じようには考えていなかったともいえよう。 周知のように、カントは、哲学的認識と数学的認識を明確に裁断した。この裁断が、良くも悪しくも、それ以降 の文化科学としての哲学の営みにある一定の方向を与えたといってもよい。もちろん、ウィーン学派や今日の数 学・物理学の哲学は、哲学的知の領域と科学的知の領域の接点に存する。しかし、そういった横断的な知の営みは、 一九世紀以降、自然科学と文化科学が分離してしまった後の営みであり、ランベルトが生きた時代と同じ営為とは い え な い だ ろ う 。 ヨハン・ハインリッヒ・ランベルト﹄ O F m ロ ロ 国 巳 耳 目 n y F m g σ 0 3 ( 口 N ∞ │ 口 ゴ ) は 、 カント(口忠 1150 品 ) と 同 時 ランベルトの「学的認識」について(藤本) F h d n 〆 “

(2)

代に生きたドイツ啓蒙期の哲学者である。ランベルトの哲学に関する主要著作としては﹃新オルガノン﹄(一七六 四年)、﹃建築術﹄(一七七二年)がある。しかし、彼は哲学者という範曙を超え出ており、当時の数学や天文学な どに多くの業績を残していることについてはあまり知られていない。そして、おそらくライプニツツ以降、ランベ ルトは哲学的知と数学的知の融合を図ろうとした最後の思想家といえるかもしれない。 ランベルトは哲学が確固とした基盤の上に再構築されることを目指した点で、カントと共通の目標をもっていた

( a

-・ 。 吋 ・ [ ︿ 。 コ 包 巴 w H︿ ) 。 当 時 の ケ l ニヒスペルクでアリストテレス的方法が見直されている状況下、哲学の革 新を目論んだカントは、﹃純粋理性批判﹄の表紙にベルラムのベーコンの言葉を載せているが、ランベルトも自分 の哲学が、ベーコンとアリストテレスの思想の後継であることを宣言している。これらの点で二人の聞には奇妙と カントはランベルトの能力を高く評価しており、ランベルトの哲学の中に、 自分の新しい形市上学との関連性を読み取っていたと思われる。しかし、ランベルトはカントとは異なり、数学的 もいえる一致点が見出される。また、 方法に哲学を従わせようとする。その点において、彼はカント哲学と交わることのない、まったく別の哲学を目指 したといってよい。 カントに寸ドイツ第一の天ホ﹂と言わしめたにもかかわらず、その後の思想 に、ほとんど影響を与えることはなかったといわれているランベルトの哲学を、﹃新オルガノ﹄﹁思考法則 本 論 で は 、 カントと同時代に生き、

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昆 ロ 目 白 ﹂ を 検討しつつ論じたい。ランベルト哲学について論じる際には、カントの論理思想に影響を与えたマイヤ

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話 相 イ ぽ 骨 片 町 宮 巳 耳 切 " 口 昆 ー ロ コ ) の 論 理 思 想 ( ﹃ 理 性 論 綱 要 ﹀

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︻ 日 常 ︿ 角 ロ ロ ロ 宮 内 可 巾 ﹄ 一 七 五 二 年 ) を 比 較 資 料として検討した方が有益である。マイヤ

l

の思想についても、多少触れたい。 以下、次のように話しを進める。ランベルトの哲学そのものが人口に謄表しているとは言い難いので、次節で、 η r “ m h d n L 龍谷大学論集

(3)

簡単に、その哲学的特徴を瞥見する。その後で、﹃新オルガノン﹄に基づき、彼の学的認識論について、二つの特 徴、すなわち認識の﹁体系性﹂と﹁階層性﹂を軸に論じる。その際、先に述べたように、当時の啓蒙哲学のスタン カントに大きな影響を与えた、マイヤ l の﹁学問的認識論巴巾肉色。可

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再 口 一 回 目 ﹂ を 比 較 資 料 カントについても言及する。 ダ l ド で あ り 、 として検討し、また、

2

ランベルト哲学の特徴 ランベルトとカントは、ヴォルフ学派を媒介としたライプニツツの形市上学を、各々独自の側面から再構成した カントの場合は、﹁表象﹂、寸反省﹂、﹁統覚﹂といった用語が、理性的存在者一般にかかわる 意識論的哲学の中で使用されている。カント以降、ドイツ観念論もカントの用語法を踏襲しているため、広い意味 で、ライプニツツの寸意識的表象者宮目。耳目。﹂とそれに付随する術語を軸に、思想が展開していったとみてもよ い か も 知 れ な い 。 と見ることができる。 しかし、ライプニッツの形市上学には、もう一つ特徴がある。それは、普遍記号学、普遍[数]学的発想であり、 それを支える概念の結合術である。カントは、普遍記号学的発想を哲学的方法へ導入することに反対してい旬。そ のことは、先に述べたように、結果として、カント自身が哲学的認識と数学的認識を分離することへと繋がってい カントが反対した数学的認識と哲学的認識の融合 くのである。だが、ランベルトは、 むしろカントとは全く逆に、 を、結合術の理念を保持しつつ果たそうとする。ランベルトは、﹃新オルガノン﹄の習作ともみなされる﹃真理の ︿ぬ門町三回)﹄(一七六一年)において、代数学の方法を論じ、ライプニツツの﹁普遍記号術ロぽ 基 準 ( ロ ユ 古 江 口

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の 日 出 口 } 内 ロ ロ 印 門 ﹂ が 、 旨について論じている。数学的方法の重要性をランベルトは次のように語る。﹁数学の教授法の卓越性と重要性を いかに有効であるかを説き、 ま た 、 その方法がまだ進歩していない ランベルトの「学的認識」について(藤本) n毛 U F h d n r u

(4)

洞察するものは、その方法が、また、概念を完全にする際にも役に立つだろうことを願うであろうと、私は信じ

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る﹂と。ランベルトは、一種の数学的証明のア・プリオリ性を重視するとともに、結合術に本来的に期待されてい る﹁発見の方法 L を見出してい

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。ランベルトの認識論は、数学的記号術を哲学的認識論へ拡張し、それによって、 諸概念を十全な形で整理し、さらに、それらによって新しい発見へと我々を導こうとするライプニッツの普遍記号 学、普遍数学の方法の伝統の上にある。さらに、そうした伝統に加えて、ランベルトが述べているように ( 4 E ・ 0 吋 [ ︿ O 司 a o ] ・凶口)、諸概念の基礎となる単純概念とその結合法のための方法として、ロック﹄ -F o n w 哲学の影響 が挙げられる。ランベルトの哲学は、ライプニッツとそれを引き継いだヴォルフの影響のもと、ロックからの刺激 を受げつつ成立したのである。もっとも、こうした見方は、哲学思想史的側面からの見方であり、ランベルトが当 時の自然科学、数学の第一線で活躍していたことを考慮に入れると、当時の大数学者、例えば、オイラー

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ロ -F M H E 開 巳 o F 見 。 叶 l l 弓 ∞ ω ) などとの関係も無視できないが、本論では、その点については論じない。 ランベルトが概念結合術的発想によって哲学の基礎づけを目論んでいたことは、カントの哲学の基礎づけのプロ グラムと、その動機は同じでも、結果として、大きな違いを生むことになる。ランベルトとカントの聞の書簡のや り取りを考察すると、ランベルトはカントが後に定式化した﹁超越論的観念論﹂の体系とは全く別の体系構想を抱 い て い た こ と が わ か る 。 ランベルトは時間や空聞を、運動の外的実在性や概念聞の諸関係において理解しようとする。それが、ランベル ト哲学に、感性の能力と非感性的である知性の能力とによって可能となる (カント的)二世界論の構造が存在しな い理由であるともいえるかもしれない。 きて、ここで、ランベルトの主著の一つである﹃新オルガノン﹄について簡単に触れておきたい。それは、全部 で四章から構成されている。各章は、ギリシア語の術語にならって寸思考法則学巴

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-。 阿 佐 、 あ る い は 思 考 の -254一 穏谷大学論集

(5)

法則についての教え﹂、﹁真理学﹀

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、あるいは真理についての教え﹂、﹁記号学∞∞

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丹野、あるいは思考 と事物の表示についての教え﹂、﹁現象学司

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庁、あるいは仮象の教え﹂とタイトルがつけられている。 スとベーコンの名を挙げていることから推察されるように、 う一つには、学問の改革が意図された点が挙げられる その﹁序論﹂にランベルト自身がアリストテレ 一つは学の基礎づけとしての意味が込められた点、も 彼が、この著作に﹁オルガノン﹂のタイトルをつけた背景として、 そ の 他 、 ( ︿ 包 ・ 0 円 [ ︿ 。 可 。 色 。 ] ・ H ︿ )o-フ ン ベ ル ト は 、 ガツサ ンディ、デカルト、 それらの哲学者の立場が相互に ニュートン、ライプニツツ、ヴォルフなどの名前を挙げつつ、 異なり、対立している現状を振り返り、この﹃新オルガノン﹄において、その解決を図ろうとしたのである。 ランベルトは、哲学の問いを四つの形に集約し、その問いに対して、上の四つの章を割り当て、聞いに対する答 え そ を の 導 聞 き い 出 と そ はωう ( と

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司 吋 (D 0.. 0 〈 ② ① 多くの困難なしに真理の道を安全に、そして確実に歩む力が人間の倍性には欠けているのかどうか。 人間の悟性は、それが真理と誤謬を混同することなしには、真理そのものを十分に知ることはできないの か ど う か 。 ③ 誤解、無規定性そして多義性により、真理が認識されなかったり、疑わしいものとなったり、あるいは、 他の障害が道に横たわっているといった理由から考えて、言語は悟性が真理の衣を[言語に]着せたもの になっているのかどうか。 ④ 常に真理にまで届きうることのないまま、悟性は仮象によって幻惑されないかどうか。 ランベルトの「学的認識」について(藤本) P D r D n r u

(6)

一定の答えを与えるのが、﹁思考法則学﹂であり、ここではいわゆる古典的な形式論理学の 解説がなされ、また、線分の比によって推理法則を整理するという、ランベルト特有の新しい推理論が論じられて いる。②では、単純概念、複合概念の解説と、そこから誤謬と区別される限りの真理について論じられる。ここは、 さて、①に対して、 の中心部分である。③では、言語や記号が認識に与える影響について論じられる。そして ④において、学的認識全般の中に潜む仮象を回避し真理へと至る方法が論じられている。 以下、本論では、先に触れたように、﹁思考法則学﹂の最終節寸学的認識﹂に焦点をあてる。ここは、この﹃新 オルガノン﹄を傭敵するようなランベルトの学問論が端的に示されている場所であり、ランベルト哲学の骨格を知 る上でも最適な箇所である。 いわば﹃新オルガノン﹄

3

ランベルトの学的認識論

(

)

ラ ン ベ ル ト 哲 学 、 とりわけその認識論が、イギリス経験論の系譜に属するのか、大陸合理論の系譜に属するのか、 という点について若干触れておきたい。ランベルトは﹃新オルガノン﹄ の﹁序論﹂で再三ロックに触れており、 ツクの﹃人間悟性論﹄についても、一定の評価をしている。また、ランベルトが概念の結合術について論じている 点から、彼の哲学をイギリス経験論哲学の系譜に位置づけようとする見方も不可能ではないかもしれない。しかし、 ﹃新オルガノン﹄以前の著作には、ロックに関する記述は見られない。さらに、ランベルトの哲学には、ロックの 経験論にみられない認識のア・プリオリ性に関する議論がア・ポステリオリ性の議論と並置される形でみられる 側 ( 話 ] ・ 0 円 ・ ω N 0 ・ω N H ¥ 申 告

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。その限り、山本も指摘するように、ランベルト哲学は、基本的には中世 以来の伝統的な結合法の系譜、直接的にはライプニツツの系譜の上にあり、そこにロックの観念連合の方法が加味 されたとみるほうがより正確であろう。 c o F h υ っ “ 龍谷大学論集 ロ

(7)

もちろんそうはいっても、ランベルトの認識論は、経験論的色彩も強い。実際、彼は、現代の科学的方法論に通 じ る ﹁ 一 般 的 経 験 ﹂ 、 ﹁ 観 察 ﹂ 、 ﹁ 実 証 ( 実 験 ) ﹂ の 重 要 性 を 論 じ て い る

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明 日 戸 田 ∞ ) 。 ラ ン ベ ル ト が それは当然である。しかし、ランベルトは、全てを感受的経験とそこからの帰納 ベーコンの後継を自認する限り、 的推理のレベルで済ませようとするわけではない。 では、ランベルトの﹁学的認識 L について立ち入って考察しょ う まずランベルトは、認識を﹁事実的認識巴

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に 分 け る ( 。 吋 ・ ω C N ¥ 叩 S N ) 。事実的認識は経験的認識でもあるのだが、単なる経験的認識をランベルト は指しているのではなく、先の﹁観察ヘ﹁実験 L を経て獲得された知識の一つとして事実的認識をとらえている。 ﹁我々は、何ものかがあるということ、ぞれがそのようにあり、他のようにはない、ということ、そしてそれが何 か し ら で あ る と い う こ と 、 を 通 じ て 学 ぶ ﹂ ( 。 円 ・ ω ¥ 閉 包 む ) のだが、こうした経験が、記述され、事実として認識 されたものが、事実的認識である。 一 方 、 ﹁ 学 的 認 識 L とは、数学が例として挙げられるように、我々が経験を経ることなく知識を拡張でき、かっ、 確実性にいたる認識である(︿

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・ 0 円 ・ ω S ¥ m g N ) 。しかし、ランベルトは、カントのように、数学的認識の根拠を 探るという問題設定をしない。むしろ、彼は、実際に、数学に代表されるような学的認識がどのような性格を持っ ているのかについての整理を優先的に行なう。そこで議論されるその性格は、極めて実際的である。 ランベルトによれば、﹂子的認識は、他の学的認識との依存関係に基づいていて、一方の学的認識は他方のそれ に よ り 規 定 さ れ る こ と に よ り 区 別 さ れ る ﹂ ( O 円 ・ ω 8 ¥ m g u ) 。この点において、学的認識は、他の命題や概念と関係 また、経験を介して認識の拡張を図 をもたないでそれ自体で自立しているような認識ではない。そして、 そ れ は 、 るような認識でもない。 ランベルトの「学的認識」について(藤本) 円 z t F h u n , “

(8)

﹁:・:::学的認識においては、中途半端なものから完全なものが作られるが、それはある学的認識と他の学的認識 との依存的関係において真理となっているのであり、それによって、感覚の視野を超え出て、のびていく﹂ ( O d -つまり、学的認識の真理は、部分から全体へと諸命題の相互関係性を理解していく中で醸成されてく また、感覚的な対応関係によって、そのつど対象と対応させる必要のない真理である、と理解され ω o h p ¥

問 。 。 。 )

る 真 理 で あ り 、 る いわゆる感覚的な経験との関係において理解される認識は、二般的認識巴

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口 町 田 ﹂ と い わ れ る ( ︿ 包 ・ 0 円 ・ ω 2 ¥ m g o ) 。一般的認識においては、各命題、各概念が、それぞれ個々別々に見 出され、また、概念問、命題聞の関連性を顧慮することなく、個々別々の推理や一般的経験との比較において見出 さ れ る ( ︿ 也 ・ 。 円 ・ ω 呂 み

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)

。一般的認識とは、概念と対象が経験を介して一致することを前提とした認識であり、 ω 寸認識と対象との一致﹂という古来の真理観に立つ認識であるともいえるだろうが、むしろ、ランベルトがロック 流の知覚論的な認識論にたった見解を二般的認識﹂という言葉で示したとも考えられる。 このような﹁一般的認識﹂と異なるのが学的認識であるのだが、それについて、もう少しその特徴を考察しよう。 それは、学的認識が一方の認 ラ ン ベ ル ト の 場 合 、 寸学的認識は、それによって、我々に、我々の知の豊かさを明らかにするのだが、 識が他方に依存していることや、 それを通じて知が発見されることの仕方、 そして、与えられたものが同時に与え られるものであること、従って、第一のものが、それ自体、発見される必要がないこと、以上を我々に示すことに よ っ て で あ る ﹂ ( 。 吋 ・ ω 宮 ゐ 2 3 0 つまり、ランベルトの学的認識は、後でマイヤ l の学問的認識が考察される際に 見られるように、認識の根拠づけとその把握を第一に目指す認識のあり方ではないことがここから理解される。ま ニュートンは自分の部屋にとどまった ままであった、そして、彼に知られている若干の真理から地球の形状や、天上の運動の力学的法則などの発見をし た、ランベルトは、次のような例を挙げている。寸こうしたやり方により、

O F h υ η L 龍谷大学論集

(9)

た 。 そ れ は 、 も し 、 ニュートンの精神や測定術富島

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が知られていない場合、神の啓示とみなされるような 発 見 で あ っ た ﹂

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-ここから、ランベルトのいう学的認識の具体的なあり様が理解されるだろう。ニュートンが、それまでの知識を 突き合わせ、推量と計算によって、さまざまな新発見をしたとと、そして、それが、直接的な観測によらずに、諸 知識を突き合わせる考察よってなされたことを、ランベルトは神の啓示に響えた知識の事受と理解している。 このようにランベルトの学的認識は、数学的認識や方法をモデルにした体系的認識である。そのため、経験的地 平とは異質な認識のあり方であるかのような感を我々に抱かせる。もちろん、そうした見方は間違いではない。し かし、ランベルトの学的認識には、単なる経験的認識を、どのようにして新しい知識へ誘うのか、あるいは、新し い発見へと我々を導くものか、という観点も存在するのである。 例えばランベルトは次のように述べる。﹁それで、一般的認識はその概念と命題をもっぱら感覚に負っている。 従って、この二つ[概念と命題]は、一般的経験による。それで我々は、初めのうちは、遠くへ行こうとは思わな いので、学的認識は、その時は、多くの場合[もっぱら]、経験的概念と経験的命題を相互に比較するということ、 相 互 に 依 存 し て い る よ う な も の を 探 し 回 る こ と を 、 ・ : : : : 容 認 す る 。 ﹂ ( O 円 ・

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¥ m E O ) 。そしてそれは、それ より以前に我々に知られている知識が見出されるまで、続けられるのである ( 4 E ・ 号 仏 ・ ) 。 また、ランベルトは、面白い例を取り上げている。三つの線分を与えられた場合、まず我々は、その線分で三角 形を形作るが、そのうちに、角の大ききゃ、辺の長さなどを、線分を変化させたりして測定するようになる。そう した営みを、ランベルトは、小さな探究から徐々に大きな考察へと至る営みと解釈しているが(︿巴・。

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朗 自 O )、それは同時に寸知らず知らずのうちに、[事象の]諸根仙を探究することを、容易に見て取る﹂

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こ と に な る の で あ る 。 ランベルトの「学的認識」について(藤本) -259一

(10)

つまり、学的認識は、一般的経験から得られた知見を考察し続ける過程において発現してくる認識である。また、 そうした考察を続ける中で諸知識聞の優先順位が理解される、すなわちどういった知識がより基礎的な知動であり、 回 どういった知識が発展的知識であるのかが自ずと理解される、といった認識なのである。しかし、そうした諸知識 は経験的知識の経路と完全に無関係ではない。こうした諸経験の比較により醸成されてくる学的認識も、また、そ れらが、それ以上突き進めない地点にまでくると、再び、我々は、諸経験同士の比較を行い、観察と考究を通じて、 新しい発見をしていくのである ( O 吋 ・

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朗 自 己 。 ランベルトのこうした学的認識の営みは、現代の数理物理学、あるいは、理論物理学の知の営みにそのまま妥当 するような科学的知識の発見現場における認識を表わしているとみてもさほど大きな誤解を招かないだろう。彼が、 学的認識の理解のために例に挙げるのは、先のニュートンに始まり、ケプラ l 、ガリレオ、ホイへンスなど、当時、 数理科学に携わった知識人の業績とその発見過程である ( 4 E ・ 0 司 ・

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ミ朗自己。ランベルトの学的認識の基本 には、こうした、実践的科学者である彼自身の科学的知識獲得の過程が知実に反映されているのである。 ところで、ランベルトは、概念や命題の相互依存関係において新しい知識を獲得していく学的認識について、そ うした諸命題の相互依存性を可能にするある一定の基準、方法論を、知識の階層性に求める。彼はそれを﹁基本概 念 L 1 単純概念﹂の側面から議論している。この点についても考察を加えたいが、その前に、ランベルトの学的認 識が同時代の学校哲学のスタンダードと比べてどの程度の特異性があったのかを測るために、カントに多大な影響 を与え、当時の論理学の標準的教科書でもあった、ヴォルフ学派のマイヤ l の﹃理性論綱ぬ﹄について、ここで、 若干触れておきたい。 -260一 飽谷大学論集

(11)

4ランベルトの学的認識論

(

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及びカントとの比較)

カントはマイヤ 1 の﹃理性論綱要﹄をパウムガルテンの﹃形而上学﹄とともに、講義 テキストとして使用していた。﹁理性論は完全に確実な学問的認識とその陳述︿。ュ

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を扱うか、あるいはみせ かけの学問的認識とその陳述を扱うかである。前者は絶対に確実な学的認識(自色

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であり、後者は査然的 な学的認識の理性論(岳山

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で あ る : : : : ・ ﹂ ( 6 ) といった箇所を、カントの﹁超越論的 分析論 L と﹁超越論的弁証論 L の区別のひな形として推察することも可能かもしれない。 ところでランベルトの認識論に共通すると思われる部分を、﹃理性論綱要﹄から取り出してみよう。﹁経験とは、 我々が無限に多くのものごとを表象することを教える。一つの表象(日胃

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は象としてある のであるが、それは魂の絵画的な巧さが、心の中で示すものである﹂(叩)。そして﹁認識

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明 岳 山 O ) とは多くの 表象の総括であるか、あるいは、ある事象の表象が指し示される

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豆丘ことを通じての、表象の行為で よく知られているように、 あ る L ( 日 ) 。 ランベルトの認識論を経験論の脈絡からみれば、 ンベルトが事実的認識と学的認識の区別をしたことについていえば、﹃理性論綱要﹄にも同じような記述が存する。 ﹁我々があるものを認識する場合、我々はそれをある諸根拠から明瞭な仕方で認識するか、そうでないかのどちら かである。第一の場合、我々は理性的認識

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。 口 同 日 目 的 ) を も っ と い う ﹂ ( 口 ) 。 そ し て 、 ﹁ 各 々 の 認 識 が 、 理性的でない限りにおいて、 マ イ ヤ

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とそれほど大きな差異はないといってよい。また、ラ イ ヤ

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に お い て は 、 一般的、あるいは事実的認識といわれる

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﹂ ( 日 ) 。 マ イ ヤ

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の理性的認識がランベルトの学的認識 一般的認識と事実的認識は同じである。また、 に相当していることも推察できる。 マ ランベルトの「学的認識」について(藤本) 唱 E A C O 。 , “

(12)

ところで問題は、ランベルトが学的認識と事実的認識の区別を、認識の相互依存性、命題や概念の関係性の中で とらえているのに対して、マイヤ!のそれは、ランベルトのそれとまったく違う脈絡にあるという点である。 ﹁ : : : ・ : 根 拠 と 帰 結 の 関 係 が 明 瞭 に 見 ら れ な い 限 り 、 そ の 限 り 、 単 に 事 実 的 認 識 が も た れ る ﹂ ( 日 ) と あ る よ う に 、 事実的認識は、ある事象の根拠が明確に認識されていない認識なのであり、理性的認識は、その逆、つまり、事象 の根拠とその帰結が理解されている認識なのである。そして、マイヤーによれば、その理由は、﹁可能的かつ現実 的なものはすべて根拠をもっ。そしてその根拠はすべて、充足的根拠をもっ L ( 日)からであり、理性的認識は、そ の根拠の把握に向けられるのである。そしてマイヤ l の場合、事実的認識と理性的認識は、その根拠・帰結の把握 度によって、レベル分けされている。 ﹁ある完全な事実的認識は美しい認識

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で あ る ﹂ ( 叩 ) 、 ま た 、 ﹁ 学 問 的 そ し て 哲 学 的認識

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は理性的認識であるが、それは、極めて著しい程度に完全なものであ る﹂(但)のである。哲学的認識は、認識の根拠との帰結が最高度の明瞭性によって把握された認識なのである。 マ イ ヤ

l

の論理思想がカントに影響を与えたことを考慮に入れつつ、ランベルトの学的認識と照らし合わせてみ ると、そこには、まったく違う哲学的、学的認識の脈絡が見えてくる。 マ イ ヤ l は、学問的認識の根拠づけを第一に取り上げている。そして、その根拠づけとは、諸事象の充足根拠律 である。もちろん、充足根拠律そのものは、ライプニッツに端を発しているが、マイヤーはそれを、事実的認識と 理性的認識の差異のメルクマールにしている。また、マイヤ l の場合、その認識論が向かう目標は、再度繰り返す が、充足根拠律に基づく認識の根拠の把握である。そして、正しい認識と誤った認識(﹁分析論﹂と﹁弁証論 L) の 区別を明瞭にすることに、主眼が置かれている。これに比べて、ランベルトの哲学には、事実的認識と学的認識を、 マイやーのような仕方で弁別するという視点がない。乙の点が、ランベルトの思想が、当時の学校哲学、ヴォルフ 。 , u a u n L 龍谷大学論集

(13)

流の認識論と軌を一にするものではなかったことがわかるだろう。後に、カントとランベルトがどのような思想的 位相差をもっていたかを理解する上でも、マイヤ

l

的な認識の根拠づげとは異質のランベルト哲学の方向が見えて く る だ ろ う 。 マ イ ヤ

l

的な認識の根拠づけとその把握という問題を、﹁ア・プリオリ﹂や﹁純粋﹂という術語の使 間 用法の独自性とともに、カテゴリーを軸とした﹁超越論的演鐸﹂の中で展開する。そして、そうした展開を支えて いるのが、意識論的な枠組みに同伴する形で分析される感性、悟性、理性などの能力論、比轍的にいえば、諸能力 の垂直的な階層構造であり、また、そこで主役を演じる超越論的な主観としての意識である。 ω ︿思考することが、一つの意識において諸表象を合一させる﹀というカントのテ l ゼは、マイヤ l の論理思想に 表れているような、学的認識の根拠づけ構造を、超越論的な主観における意識の中に回収しようとする、カントの 認識論のプログラムの一つの表現であったとみなすことができよう。それは、現象を、最終的には超越論的統覚と カ ン ト は 、 いう主観に回収することにつながるのである。 こうしたカントのプログラムとランベルトの学的認識論は、まったく別の系譜にあるといってもよいかも知れな ω 3 0

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ランベルトの学的認識論(認識の階層性あるいは単純概念の側面から)

さて、ランベルトの学的認識は、以上みてきたように、認識の根拠づけを第一の目的として見込んだ認識ではな く、諸命題の関係性の中で体系的に獲得される認識であり、今日の科学的認識の実際的あり方に近い認識である。 よって、ランベルト哲学には、マイヤ l やカントのように充足根拠律や意識内での認識の根拠づけ把握の構造は見 出されない。そうではあるが、ランベルトの哲学には、別の相における認識の基礎づけ、知識の基礎づけの構造が ランベルトの「学的認識」について(藤本) 内 毛 u c o n L

(14)

みられるのである。それが概念のある種の階層性である。最後に、この点について検討したい。 ランベルトは、一般的認識が学的認識へといかにして変化するかについて問題にしている守色・。円・出。

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。 ﹁我々は、そうした一般的認識の諸部分をカオスとよぶ﹂ ( O 円 ・ 出 合 ¥ 銅 色 。 ) 。 問 題 は 、 こ う し た 個 別 的 概 念 ( 直 接 的 指示)が、どのようにして有機的に体系づけられ知識となっていくかであろう。 ﹁しかし、あまりに広大な全体に取り組むことをしなければ、あまり多くの材料も必要とはされない。そして、 互いに近しい類似性、親近性をもつものを一つに取りまとめることで満足することができる。次いで、あるものと 他のものとの詳細な観察、そしてそれらの比較は、ある程度の結合問。

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ロの総数を述べ挙げることになり、 それを通じてそれらの類似性、差異性そして関係性が規定される。そして何かしらとり残された部分が見いだされ るのである L ( 。 円 ・ 出 叶 ¥ 閉

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とある。これは、基本的な概念が、類似性と差異性に基づいて整理されていくこと を示している。こうした過程に関連して、ランベルトは伝統的な用語法に基づいてア・プリオリ、ア・ポステリオ リ を 定 義 し て い る 。 ランベルトにとっても、 回 、 A !

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o ' b u -4 ι 1 ア ・ プ リ オ リ 、 ア・ポステリオリとは、第一次的には、事物の系列の順序をあらわして つまり、ある前提された事物から前提きれない事物への系列がア・ポステリオリであり、その逆が、ァ・プ リ オ リ で あ る ( ︿ 札 ・ 。 ﹃ ・ ω N C ¥ 叩

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。したがって、それを認識論的に言い換えれば、直接的な経験を、つまり感覚 の素材をまとめあげていく過程はア・ポステリオリであり、その中で素材が結合されていくことになる。 しかし、ランベルトは、この第一次的なア・プリオリ、ア・ポステリオリ用法を、別様にも解釈しており、それ が学的認識の特徴を与えている。寸:・:::我々の観点においては、我々の一般的で事実的認識はア・ポステリオリ それは感覚の使用を通じてその認識が及ぶ限りである。さらに、学的認識がア・ポステリオリであるの は、それが認識に関して経験的諸命題を使用する限りにおいてである。それに対して、学的認識をア・プリオリと で あ る が 、 A 川 宮 内 h u 内 F μ 龍谷大学論集

(15)

かっ、若干の経験的諸命題を引き入れることなく、 学的認識を導く場合である L ( 。 円 ・ ω お み

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。ランベルトは、感覚の素材が概念として整理されてくる一種の生理 学的な認識経路を指示するア・プリオリ、ア・ポステリオリの他に、第二次的には、上の引用のように、事実的認 識については、感覚の使用範囲を指し示す用語としてア・ポステリオリを使い、また、学的認識については、命題 の性格(その命題が経験的命題か否かという性格)に付随する形で、ア・プリオリ、ァ・ポステリオリを使用して いる。したがって、数学的命題とそれら命題の関係から導出される認識は極めてア・プリオリな学的認識であり、 よぶのは、我々が、学的認識を、諸事象の諸概念から導きだし、 実験科学的命題から導かれる認識はア・ポステリオリな学的認識ということになるのである。 さて、ランベルトによれば、﹁直接的な経験概念は個別的である﹂ ( O 吋 ・ ω

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の だ が 、 こ の 経 験 的 概 念 は 、 仮説的命題を通じて、﹁規範的概念ロ

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へと変化しうる、とされる。規範的概念は、経験的概念が 直接経験との照合を通じて自らの妥当性を示すのに対して、直接経験を引き合いに出すことなく、自らの妥当性を 示 す の で あ る ( ︿ 拘 戸 O 円 ・ ω 自 ・ 旬 。 ¥ 閉

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。例えば、個別的な天体運動を我々が個々の天体観測から認識してい る段階が経験的概念に依存する経験的命題の段階だとすれば、ケプラーによる発見により、天体観測を経ずとも、 計算だけで現在の星の位置が認識できるようになった段階が、規範的概念による規範的命題の段階といえるだろう。 こうした諸命題は、さまざまな経験的命題の一般化により学的認識となるのだが、それらの命題は、どれも、一 つ以上の概念から構成された﹁複合概念ロ

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昆切認ユ止﹂と名づ け、基本概念から複合概念を構成することで認識の構造を基礎づけようとする。基本概念は﹁単純概念 U 角 低 ロ

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切。明日﹂とも言い換えられるが、単純概念、基本概念は認識のある種の試金石としての役割を担わされてい る。例えば、幾何学のゆ

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は、厳密な意味で、ァ・プリオ ランベルトの「学的認識」について(藤本) P ﹁ u p n u n r u

(16)

。 ∞ ∞ ) 。 円 ・ ω N ∞ ¥ 刷 。 ω ∞ ) O 寸 ・ : : : : 空 間 と 時 間 の 概 念 は 、 完 全 に 単 純 概 念 と み な さ れ る ﹂ ( 。 吋 ・ お ∞ ¥ 聞 のであるが、時間や空間は幾何学や時間測定学、運動学に同伴する単純概念であるがゆえに、ア・プリオリ リな学問である ( ︿

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-な概念ということになる守巴・ C 円 ・ ω N ∞

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匂 ¥ 山 由 ∞ ) 。 単純概念の具体的な探求は、﹃新オルガノン﹄﹁真理論﹂でなされている。そこでは、 下のように単純概念についての議論が展開されてい旬。 単純概念としては、﹁延長性 L 、 ﹁ 固 体 性 ﹂ 、 ﹁ 運 動 性 ﹂ 、 ﹁ 実 在 性 L 、 寸 持 続 性 L 、 寸 継 続 性 ﹂ 、 ﹁ 単 一 性 ﹂ 、 ﹁ 意 識 L 、 ﹁ 運 動の力﹂、寸意欲﹂、など、ロックによって挙げられた単純概念が基本的に踏襲される。その上で、彼は、厳密な意 味で、これら単純概念はア・プリオリであると述べている。ここでのア・プリオリとは、学的認識における先に述 べた第二次的意味として理解されるべきだろう。そうであるがゆえに、諸単純概念が、算術学、幾何学、時間測定 学、運動学そして論理学に属するのだと、ランベルトはいうのである。彼は、﹁真理論﹂を、単純概念に基づく ﹁ 可 能 性 と 必 然 性 の 教 え ﹂ ( O 円 ・

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申 ωごともみなしている。この点、マイヤ

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の理性的認識における、﹁可能的 かっ現実的なものはすべて根拠をもっ。そしてその根拠はすべて、充足的根拠をもっ﹂(日)という、先に触れた認 識根拠の問いを、ランベルトは別の視点から考えようとしていたと理解できるだろう。つまり、ランベルトは、充 足根拠律に基づく認識根拠の聞いを、ア・プリオリな単純概念を基底構造とし、それによって可能となっている精 密科学に含まれる概念、命題聞の階層的構造に転換させているのである。その階層的構造の基礎には単純概念があ り、それらが結合術的にまとめられて、複合化していき、上部的構造を形成する。 ランベルトは、単純概念を、他の単純概念との関係において論じるとともに、それら概念の派生的概念について も論じている。例えば、実在性という単純概念は意識(あるいは思考)という単純概念と分かちがたく関係してい ( ︿ 也 ・ 0 円 ・ ω∞空間口)。単純概念は、それぞれ、近しい概念との関係性をもちつつ結合的に理解され ロックに言及されつつ、以 るとされている -266 龍谷大学論集

(17)

ていく。また、我々が実在しているという意識は、﹁確実性(という概念)﹂の物差しでもあると述べられている点 か ら み て 守 巴 ・ 。 吋 ・ 話 。 ¥ 附 吋 N ) 、確実性という概念の更に根底に﹁実在の意識性﹂が概念として存在する、とランベ ルトは考えていた。これは裏返せば、確実性という概念が派生的であることを意味している。また、﹁私という単 語 の 中 に お い て 、 我 々 は 単 一 性 の 概 念 も つ ﹂ ( 。 吋 ・ ω ∞之町立)というランベルトの記述も、同じようなことを意味し ている。﹁私﹂は単純概念の一つである単一性を含んでいる限り、派生的概念なのである。 ω こうして単純概念を基本にした派生的概念から複合概念が形成されていくのである。そして複合概念は、我々が、 より多くの任意性をもった概念使用のためのツ l ル と な る ( ︿

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合巴)。そしてそれは、同時に徐々に 我々が経験を通じて獲得する概念へと近づくことにもなる(︿閃戸。円・

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。それは、誤謬を抱え込むことに もつながりかねないのだが、複合概念の可能性条件が単純概念である限り ( 4 区 ・ 。 吋 ・ 色 町 ¥ 閉 口 町 ) 、 単 純 概 念 が 、 真 理 性 の 要 と な る 。 カントとの比較でいえば、ランベルトにとっての経験の可能性条件とは単純概念であり、複合概念により、経験 回 と言えるかもしれない。 との接触が可能になる ランベルトの学的認識は、以上みてきたように、運動学、時間測定学といった当時の精密な自然科学、数理科学 をモデルとしている。また、基本概念とそれに同伴する学問を学的認識の第一の理想とし、経験的命題や感覚的経 験をそこから可能にしていくような学問体系が基本におかれていると理解できるのである。 ( 現 象 を 可 能 に す る )

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に ランベルトの認識論、特に学的認識論には、実際に科学の現場にいる学者の方法論が知実に反映されている。そ れは、本論中で考察したように、当時のスタンダードな学問的認識論、哲学的認識論の方法論とは異質である。 ランベルトの「学的認識」について(藤本) マ η t p n v ヮ “

(18)

イ ヤ l の影響下にあったカントが求めた哲学的認識は、常に、認識の根拠づけとその把握、対象認識のための構造 を主観的意識に内属させている。カントが、認識主観と対象との関係において正当な哲学的認識の問題を問うたス タイル(﹁超越論的論証 L) と比較して、ランベルトの学的認識論では、そういった認識主観と対象との関係がクロ ーズアップされて説かれることはない。もちろん、感覚から経験的概念を作り出すという生理学的、心理学的記述 闘 は存在するが、それは、ランベルトに限った話ではなく、当時の啓蒙期の哲学の基本的スタイルであった。 ランベルトの学的認識は、諸命題の相互依存関係において、命題を整理、純化し、さらには新しい発見も可能に するような構造をもっている。また同時に、そうした構造の基調として、諸概念の中核に基本概念が置かれ、そこ からア・プリオリな学聞が規定されている。しかし、ランベルトの学的認識はカント哲学における﹁ア・プリオり な認識﹂と同じような認識とみなされるべきではないだろう。 カントのように、真偽判断の地平をア・プリオリな地平において確定させるという問題意識が あまり見られない。そのため、基本概念の存在と妥当性についていえば、カントのカテゴリーの演揮に対抗しうる ような撤密な論証構造なく、その論証は、いささか直観的である。また、学問の形態と基本概念が常に同伴してい るため、学聞からニュートラルな形で認識の根拠を探求するという視点も、カントのような形では見られない。し かし、その反面、ランベルトの哲学は、経験的な認識をつねに取り込みながら、命題の相互依存関係を通じて有機 的に体系化された知のシステム全体を駆動させる可能性を秘めている。本論では触れられなかったが、ランベルト ω の﹁現象論﹂には、真理と誤謬を体系全体に取り込みつつ有機的に発展していくような知の体系が描かれている。 ランベルトの学的認識に限っても、それが概念による認識の階層性を伴いつつ、知識の全体性を確保するという構 造を備えた認識であることを、我々は理解しうるのである。 ラ ン ベ ル ト に は 、 -268一 龍谷大学論集

(19)

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年、六九ページ、参照。

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黒崎政男﹁ドイツ観念論と十八世紀言語哲学﹂﹃講座ドイツ観念論 6 問題史的反省﹄、弘文堂、一九九

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二八ページ、あるいは、。・冨白

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④は、直訳すると分かりにくいため、多少、意訳した。 同例えば、﹃岩波哲学・思想事典﹄、岩波書店、一九九八年、における中島義道によるランベルトの項目には、彼をロ ツクの系譜に位置づけた記述がみられる。 側山本道雄﹁ランベルトの夢│寸完全な調和﹂│﹂、﹃カントとその時代│ドイツ啓蒙思想の一潮流│﹄、晃洋書房、二

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八年、所収、の一三

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ペ ー ジ 、 参 照 の こ と 。

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アカデミー版﹃新オルガノン﹄の注釈には、この認識の二分法を、アリストテレス的/プラトン的区別、つまり 回 一 回 吉 円 山 知 と 冨 え

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巳釦の区別をランベルトが踏襲したものとしている。 聞この古来の認識の真理観を、周知のように、カントが﹁超越論的真理﹂の立場から批判した。 側ここでいう﹁根拠﹂とは、次節で述べるマイヤーのような根拠ではなく、諸知識、諸概念の﹁基礎﹂という程度の意 味 で あ る 。 帥これが、本論の後半で述べる単純概念である。

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これが、単純概念から生み出される複合概念である。 側以下、引用は、アカデミー版カント全集団巻に収められている﹃理性論綱要﹄の部分から行う。引用に際しては、 ﹃ 理 性 論 綱 要 ﹄ の

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番 号 の み を 記 す 。 九 A H V ヴ d

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u 龍谷大学論集

(21)

聞この点については、拙論、プ・刃ント哲学におげる認識論的構造の思想史的究明判断表とカテゴリーー﹂﹃北海道大学 文学研究科研究論集﹄第 3 号、二

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三年、を参照されたい。 側 ︿

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-帥同様の点について、言語とくにランベルト﹃新オルガノン﹄の寸記号学 L に着目して、カントとの差異を考察した論 文として、黒崎政男の前掲論文を参照されたい。 側これは伝統的なア・プリオリ(前からの)、ァ・ポステリオリ(後ろからの)の使用法である。

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山由訟には、諸命題が直接的経験によらないことを指してア・プリオリという言い方がなされており、その 逆が、ァ・ポステリオリとされている。こうしたア・プリオリ、ア・ポステリオリ用法は、カントに近い。 倒︿也・ 0 円 ・ ωg ・ ω S ¥

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ω 戸 ω な ど 。 側これらについては﹁真理論﹂

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以下で詳細に述べられている。 帥枝葉を切り捨て-一回えば、ランベルトのこうした認識論は、直接的なセンスデ l タやプロトコル命題を基本に統一科学 を試みたウィーン学派や、ア・プリオリとア・ポステリオリの認識の関係に絶対的断絶を設けないクワインに近いとい え る か も 知 れ な い 。 岡カントの﹃純粋理性批判 L の第一版は、生理学的、心理学的記述方法が、第二版よりもはるかに強い。 附こうした構造については、中島義道﹁ランベルトの現象学 L ﹃時間と自由│カント解釈の冒険│﹄、講談社学術文庫、 一九九九年、を参照されたい。 *本論は﹁文部科学省科学研究費補助金﹂による研究成果の一部である。 キーワード ラ ン ベ ル ト 、 マ イ ヤ l 、学的認識 ランベルトの「学的認識」について(藤本) ヴ 4 n f “

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