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ご紹介をいただきました岡崎女子短期大学の宇野でございます。私はお坊さんではないのでありまして普通の門徒 でございます。東本願寺の流れをくむ門徒でございます。深い学聞はございません。人間として生きているならば念 仏を喜ばせていただいてある一人の門徒であるとお考えいただけたならばありがたいと思うわけであります。 さて本日は﹁祖父の遺産﹂という題でお話させていただきます。この講題に﹁祖父の遺産﹂という題名を思わしめ られたのはどういうことか、 ﹁祖父の遺産﹂という言葉が私の心の中にわきあがってきたルlツを申しあげながら現 在の私のいただいておる生活を申しあげて皆様方のお指導を受けたいとおもうのでございます。 大正九年三一月二十一日という日は私にとって一生涯忘れることのできない日でございます。それは、私の母親が二 十七歳で︵その当時のドイツ風という感昌にかかりまして︶死んだ日でございます。私は四歳で弟は二歳でありまし た。父親はいろいろございまして在所に行っていなかったようであります。母は二、コ一日ばかり風邪をひいて休んで い た よ う で す が 、 その日の朝、家族はみんな枕もとへと、集まりました。私は四歳でわずかな記憶はありますが、弟は知らなかったようです。私が知っているのは弟の顔にはしかの発疹でいっぱい真赤な顔をして母親のそばにすがり ついていたということだけは覚えています。その母が死ぬときに父親であるおじいさん︵弥三郎と申します︶を枕元 に 呼 び ま し て 、 ﹁ お じ い さ ん 、 誠 に す み ま せ ん 。 こんな小さな子供を二人も残して死んでいきますけれども、どうかお願いしま す。育ててやってください﹂ ︵これは後でおばあさんから聞いたのですけれども︶おじいさんは、 ﹁ 何 を 言 っ て い る の か 。 元 気 を 出 せ よ 。 ﹂ しかしどうしょうもないこともあろう。 隣近所の人がパタバタ死んでい ったものですから仕方がないと半分あきらめつつも、 ﹁ 元 気 を 出 せ よ 。 俺 が 元 気 で い れ ば 、 必ず育ててやるからな﹂ と言って、母親の手を握った。母は、 ﹁ お 灯 明 を あ げ て く だ さ い ﹂ と頼みまして、仏壇にお灯明があがりますと、数珠を手に掛けまして︵いつも枕一万に数珠があったようですが︶、 ﹁ お じ い さ ん 、 お念仏をやってください。﹂祖父は母を後らから支えました。 おじいさんもまさかそれが終わりの念仏になろうとは思っていなかったでありましょうから、 よしよしというわけ で 、 ﹁ 南 無 阿 弥 陀 仏 、 南 無 阿 弥 陀 仏 ﹂ 一 つ ず つ ゆ つ く り ゃ り ま し て 、 ﹁南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏﹂ 祖 父 の 遺 産
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六 私はそれを日の前で見ていましたが、﹁八声﹂という芦は聞こえたと、 の ち に 祖 母 が 言 い ま し た 。 ﹁ 九 声 ﹂ か ﹁ 十 声 ﹂ カミ そ れ は わ か ら な い が 、 首がかすかに動いた。 実は私の家を除きまして村中浄土宗でございますので、最後の念 仏・臨終念仏というものに対してかなりの何か影響があったのではないかと思うわけですけれども、現実におきまし てとにかく母親は﹁十声﹂の念仏を残した。称え残して私の自の前で死んでいったのであります。 おばあさんはよく 言 い ま し た 。 ﹁八声位だった﹂かよくわからないが φ 命の玉の緒が切れた ψ ということを何度もよく私に聞かせてく れ ま し た 。 母 の 死 後 、 父は養子でありましたので在所に帰りました。勿論これは祖父のはからいですけれども、残し ておいて、継母が来たならばきっと難義してかわいそうな子どもになるのではないかということであります。このと きおじいさんは五十八歳でありましたが決意しまして、 ﹁ よ し 、 俺 が 育 て て や る ﹂ と言って臨終に約束したのであります。 ムソ俺がこの子どもらを育でなければ育てるものがないのだ ψ という祖父の決 意だったと思います。祖父は文久二年生まれの王十八歳で、祖母は明治元年生れの五十四歳でございました。 四 歳 と 二歳の孫を育ててくれたわけであります。 この話、長々と話すこともございますけれども省略させていただきます。 ただきっかけになる言葉がございます。 それは何かと言いますと、 ときどきこういうことをおじいさんは言いました。 ﹁ お っ か あ に 会 い た い か ? 。 ﹂ ﹁会いたいに決っとるよ。﹂よその子どもたちはみんな母親を慕って母親についてどこへでも行きます。 両親のない私にとりましては会いたいに決っています。 するとおじいさんは﹁それではおっかあさんに会わしてやるから、 ︵ 正 信 偏 ︶ お つ と め を な ら え や 。 ﹂ と言うわけで教えてもらった訳であります。これは祖父が私にのこしてくれた﹁祖父の遺産﹂であったと思うのであ り ま す 。 ﹁ お っ と め を な ら え 、 おつとめを覚えよ﹂と言うので、私は四歳半か五歳ぐらい。 おじいさんのそばへ行き ま し て 、 ﹁おつとめをならうとおっかあさんに会えるのだ﹂と思ったわけであります。私が右側で弟が左側、 お じ い さんが真中でおりんの叩き方からはじめてくれました。私も残念ながら和讃講には独学勉強中のため行けませんでし たので、私の﹃正信用 W ﹄はまさに祖父譲りでございます。だから今でもときどきみんなが節がちがうねと言いますが、 昔式・文久式か明治式だからでしょう。蝋燭の蝋だらけの破れてぼろぼろの一屑衣を私の首に掛けてくれまして、 そ の 先に数珠が付いてまして、 ﹁ こ う や っ て 掛 け て や る ん だ 。 おまえは跡取だからここでしっかりやらなああかん。﹂ と言います。私もうなづきそうかと思ってやってみるとむずかしいものであります。ところがなかなか意味がわから ないものをそらで言うのですからわからない。私は同朋会運動が展開された頃に私の旦那寺の御住職に ﹁むずかしいことを子どもに聞かせてやって価値があるのか?﹂ と言ったのです。ところが ﹁なんでも教わってやらねばならないからやるんだ。﹂ と言われました。今にして考えてまいりますと、 やはりわかる・わからないということではなく、体得であるという ことをこの頃しきりに思うわけであります。理屈を覚えて理屈を一生懸命に道理を立てて言うことではない。ここに そばにおいてその生活の中から祖父が私に譲り渡してくれたものは何であるかと言いますと、 ﹁ 帰 命 無 量 寿 如 来 祖 父 の 遺 産
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八 南 無 不 可 思 議 光 ﹂ であります。もちろんそこにはおもしろい逸話も入りますが本日はやめます。 しかし意味がわかりませんから、 し げ い ち ときどき言いあやまることがございます。それは隣りのおじさんが重市と言う人でしげさん 南 無 不 可 思 議 光 ﹂ で す が 、 です。私は小さいときに﹁ナムフカシギコウ﹂と言えませんで、 ﹁ナムフカシゲコウ﹂と言いあやまりました。 ー「 な む ふ か し げ 公 、 それは隣りのおじさんの名前だぞ/﹂と言っていつも叱られました。叱られましたが口ぐせで﹁ナム フカシゲコウ﹂と出てしまう。そのように教えつけられたものは消えません。 しかしこの話は止めて先へ行きたいと 思います。やがて五、六歳になりますと勿論一人でおっとめをやれるようになりました。祖父がおらなくても弟と二 人でやれるようになりました。やれるようになって何がわかったかと言うと、 おっかあさんに合えないではないか、 母親に会いたければ﹃正信侮﹄をならえ、 おっとめをならえ、と言ったけれども覚えて言えるようにはなったけれど もおっかあさんに会えないではないか、 という一つの疑問が出てまいりました。 それからその次にこれは私にとって最大のものでございますが、私と弟がご飯を食べる。品目は大麦飯で大麦六分米 四分位かもっと多いかもしれませんが、炊き立てのときはかなり粘りがあるが冷えて冷飯になりますと食べる際には バラバラと前にこぼれ落ちて、 そ れ を お じ い さ ん が み て 、 ︵今日のように食卓ではなく膳箱というもので、弟も私も おじいさんも膳箱一つであります。小さな箱で蓋しておくものです箱がせまい︶落ちると、 ﹁ そ れ / ・ ﹂ ぼ れ た 、 ご 飯 が こ ぼ れ た ぞ ノ ﹂ ところがうちは貧乏百姓の子どもでございまして、屋根は草葺き屋根で雨が漏らねばよい。床はゴミがつく荒廷でご ざ い ま し て 、 ﹁ゴミがついているこんなものを食べたら腹が痛くなる。﹂と逃げ口上を申します。これには祖父は厳しいことを言います。 ﹁ み と れ 、 み と れ 、 み て お れ よ ﹂ 何を見とれと言うのかと思いますと、私のこぼしたご飯粒も、弟のこぼしたものも小皿に全部拾って ﹁こうして食べるもんだぞや﹂ と、その頃は水道がありませんでしたから水がめから柄杓で二、ゴ一回くんで濯ぐと、 ﹁ ゴ ミ は と れ た ぞ や ﹂ 今度は食べさせられるかしら、兄弟がみておりますと、祖父は、 にこにこ自分から食べて見せてくれるわけでありま す 。 ﹁ こ う や っ て 食 べ る ん だ 。 ﹂ その度毎にいつもいつも言い残してくれた遺産がございます。それは、 ﹁ 食 べ 物 様 に は 仏 が ご ざ る 。 ﹂ というのです。これは私の生涯にとって忘れることのできない最大のポイントでございました。 ﹁ 食 べ 物 様 に は 仏 が ご ざ る 。 ﹂ その頃の私は、昔の人はああいうことをいうものであると思っただけで、 一向に仏さんがその中にあるなんて思って もいませんでした。しかし、私の﹁信﹂への最大のキイポイントでございました。 ﹁ 食 べ 物 様 に は 仏 が ご ざ る ﹂ そのときは昔の人はああいうものであると思っただけで、何度きいても一向に仏さんがその中におられるなんて思つ てもいませんでした。 しかし側にいて毎日、毎日、﹁たべものさまには、仏がござる﹂ときかされ、目の前で体で教え 祖 父 の 遺 産
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てくれた﹁食べ物様には仏がござる﹂という簡単な言葉ですが、 心 の 中 で は 嘘 だ 。 おじいさんは﹁おっかあさんに会 いたかったならばおっとめをならえ﹂と言ったが嘘だった。今度は﹁食べ物様には仏がござる﹂これもどうか、半信 半疑でした。無理に領き、領きおったわけですけれども果してそうだろうか、食べ物の中に仏さまがいるのか、 お じ いさんはあんなことを言うけどそうなのかと疑っておりました。ところが一年、二年、一二年、 四年とだんだん年が重 なりまして尋常五年生になりました。 五 年 生 に な り ま し た ら 、 田舎の山の中の小学校にも立派な顕微鏡が買ってもら えました。理科の時間に先生が立派な顕微鏡を持って来まして、あらゆるものを薄く切って細胞を見せてくれるわけ であります。芋の葉っばであるとかじゃがいもであるとか細胞の様子を見せてくれます。ところが見ていますと、 石 垣 の よ う に な っ た 細 胞 、 玉が繋がっていたりする。それらを見てふと私は思いました。 ﹁そうだ、おじいさんは﹃食 ベ物様には仏がござる﹄と言った G お昼万時間に顕徴鏡を借りて勉強してやろう﹂と、食べた弁当の残りを見ること にしました。飯粒を物体ガラスの上に載せ覗いてみたら何が出るのか。仏とは何ぞ、 おそらく手をあげて金色の雲に 乗ってそれから背中に金の輪をつけて仏さまが降りてこられると思いあちこちまわして見た訳です。ところが何も出 ません。黄色のようなぐるぐるしたものが出ただけで一向に仏さまが出ない。私のご飯が出ないなら隣りの子の分は ど う か と い う こ と で 三 、 四人の友達のご飯粒を一粒ずつもらって覗いたのですが、仏さまは出てまいりません。キン ピカ仏は降りてこられません。そこでおかしい、 おじいさんは嘘をついていたのか、 やっぱりおかしい。理科の先生 の と こ ろ へ 行 っ た わ け で す 。 ﹁ 先 生 、 ち ょ っ と 質 問 を し ま す 。 おじいさんはいつもいつもご飯を食べるときに、私がご飯粒をこぼすと﹃食べ物 様には仏がござる、拝め、拾ってそれをいただかねばいけない﹄と言っておりますが、僕が今日顕微鏡を教えても らったので顕微鏡を一生懸命覗いてみますが仏さま一人も出ておいでになりませんが、これはどういうわけですヵ 。 ﹂ 先生に聞いたわけです。すると理科の先生は私の顔をしげしげと見ておって大笑いをいたしました。 ﹁アッハツハ ・ ・ ﹂ ﹁君のおじいさんは文久二年生れの背の人だ。迷信を信じておいでるんだぞ。﹂ これは私にとって、凄い一撃でありました。今まで食べ物様には仏がござる、 お仏供様をあげるときでも、何かやる ときでもいつもおじいさんに聞かせられているから、 そうだと信じきっておったのですけれども、 ﹂ こ に 顕 微 鏡 と い うものを通したとたんに迷信になってしまいました。 ﹁ 迷 信 か ﹂ ﹁そうだ。仏さまが食べ物の中に入っているわけがない。入っているのは蛋白質と含水炭素と脂肪とでんぷんと水 分ぐらいのものだ。まだ他に入っているかどうかわからないがだいたいそんなものだ。﹂ 私はずっと筆記していった。私はそれを持ってうちに帰っておじいさんに言ったのです。 ︵五年生になると親の意見 をひつくりかえしてやりたい時代ですから、︶ ﹁ お じ い さ ん 、 嘘 つ い た ね 。 ﹂ ﹁ な ん だ 嘘 だ ? 。 ﹂ ﹁だって食べ物様には仏さまがござるというを今日顕徴鏡で見た。﹂ ﹁ そ れ は 何 だ 。 ﹂ ﹁顕微鏡というのは眼に見えないもんがよく見えるような機械だ。﹂ ﹁ う ー ん 、 何 が 出 て き た 。 ﹂ 祖 父 の 遺 産
祖 父 の 遺 産 ﹁ 出 て き た も の は 含 水 炭 素 と 蛋 白 質 と 水 分 だ よ 。 ﹂ ﹁ そ れ は 何 だ ? ﹂ ﹁ そ う い う 成 分 で 、 仏 と い う の は 入 っ て い な か っ た 。 ﹂ こ う 言 う と 、 祖 父 は 、 私の顔を見て︵本当は一発ピンタをやりたかであろうに。﹀真赤な顔をしていきなりこう言い ま し た 。 ﹁ 罰 当 り / ﹂ そうです。罰当りです。そのことのわからないものは罰当りにちがいありません。物の尊さを知らないのです。拝む ということを知らないのです。その一点です。 はっきり言えば今日の教育はそこからおかしな方向へ出発してしまっ たのではないかと思います。今も現に小学校の教育を見てまいりますと︵三十六年も教員をしておりまして私にはわ かりますが︶今現に小学生を教える先生をつくる学校につとめ幼稚園児を教える先生をそだてるしごとをしておりま す と 、 ゥ食べ物様には仏がござる。ということを果してどれだけ教えることのできる教育がなされるであろうかと思 い ま す と 、 お恥しい次第であります。従いまして、 その時おじいさんが﹁罰当り/﹂と言って悲しい思いをして、目 を真赤にばらしてとんで行ってお仏壇を聞けまして泣かれたことを忘れることができません。私の生涯に於て最大の 親不孝をしたことの一例でございます。 こ の 祖 父 の 話 を ま た 続 け ま す 。 四 年 、 五 年 、 六 年 、 と進んで卒業のときになりました。もちろんいろいろありまし たけれども、六年生までが義務教育で尋常高等科、及び中学校は、義務でない時代でありました。私も、 ﹁ 高 等 科 へ 行きたい﹂と思っていたわけですが、 おじいさんは年をとってきたのだからお前は尋常で十分、 百姓になって、家の しごとを手伝わねばいけない、高等科なぞに行けば余分なことだけを勉強するだけだからムダだ、 ということで、親
類の人が、進言に来ました。すると祖父が言いました。 ﹁これからは学問の世の中だ。免状をもらわねばいかん。小学校だけでは免状にならん。俺が元気なうちは育てて ゃるからな。高等科に行け、俺がやってやる。 俺が生きとるうちはやってやる。 死んだらし方がねえがな。﹂と ︵ 私 は かげで祖父母をおがみました︶ ですから高等科に行っても真剣にやらねばならないという感じは強くございました。それでも無事に一年生終った、 すると同じことをまた繰り返して、 ﹁一年でやめろ、高等科一年行けば十分だ﹂と、 ところが祖父はもう一年やらね ば免状にならん。というので自分は腰が痛いにもかかわらず、大八車をひきまして、岡崎の町までの坂道九十九折れ を行ってくれたのであります。そして私のために働いてくれました。ところが一本の鉛筆でも紙でもノ l トでも本で も、お金を出して買わねばなりまぜん、祖父に金もうけの手だてはありません。この頃は教科書を無償配給をしてい ますが、私は古い教科書がどこかにないかを探し、古い教科書を譲ってもらって勉強しましたが、 そのようなことは 当 前 の こ と で す 。 ﹁ 祖 父 の 遺 産 ﹂ と し て 言 い た い こ と は 、 おじいさんの厳しい生活の中から私を育てるのです。町へ 行って肥料や糞尿をお金を出してとらせてもらい、草を刈り堆肥を糞尿を使って造り、肥を造り、大根・葉っ葉・南 瓜・人参など作ったものを持って行って、糞尿をとらしてもらって大八車を引っ張って帰るのであります。全部往復 十五キロメートルぐらいある岡崎までの石ころ坂道を引っ張って来ますので私も小学生の頃から迎えに行きました。 小さい時分からずっと迎えに参りました。ところが糞尿を積んで車を引いて帰ってきまして、事をひいた肩縄︵布で 編んだもので先端には鍵がついている。︶を入口の土の上に置きますと、祖父は、とても怒ります。 ﹁ ど こ へ 置 い と る の か 。 ﹂ ﹁ こ こ に 置 い と る が な 。 ﹂ 祖 父 の 遺 産
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祖 父 の 遺 産 一 一 四 ﹁ そ ん な 所 に 置 く と 跨 ぐ で は な い か 。 ﹂ ﹁ 跨 い で も ど う に も な ら な い で は な い か 。 ﹂ 小さいこどもですからよく反発して、 ﹁おまえはどういうことを言うのだ。罰当り。なぜ、これを掛けとかんか。勿体ないぞ﹂ ﹁なんで肩縄またいだことが勿体ないだん?﹂ ﹁ こ の 肩 縄 で 、 この肩縄でなこの車をまわしてきたおかげで回畠にある米や麦や菜っ葉や人参ゃなすができる、
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4 れ で 引 い て き た の だ 、 た べ も の さ ま を 運 ん で き た 肩 縄 だ 。 ﹂ と、とてもその肩縄を跨ぐことを嫌うわけです。肩縄を跨ぐことはまるで仏像の前に行って、 おならをしたり、行 儀の悪いことをするようなことなのでしょう。 いつでも仏さまというものを尊ぶおじいさんにとってこれは仏の働き をしてくだされた肩縄であるという原点に戻るわけです。 しかもその関りあいは、食べ物を引っ張った肩縄である。 だから天秤棒でも担いで行って、 そこらに斜めに立てかけてあれば良いが横にして置きますと、 ﹁ 跨 ぐ な / ・ 、 天 秤 棒 。 ﹂ 天秤棒をなぜ跨いではいけないのか意味がわかりませんでした。まるで時代感が変っていますが、 その天秤棒の中の 働きは何かと言うと ﹁ 食 べ 物 様 に は 仏 が ご ざ る ﹂ へと繋がる働きがあるのでしょう。天秤棒で運んでくる糞尿もあ るけど、米・菜っ葉・人参・芋・大根など食べ物のあらゆるものは天秤俸で担いで我々は生活してきました。私もそ れで育ったわけでありまずからなるほどそうだつたと思うわけです。 このような話をしておりますときりがございません。今日も近鉄で参りますと大分田植がすんでおりましたが回植 を 見 る と き 、 必ず思うのです。青山峠の段々田圃がずっとありました。それを見るたびに思うのですが、私も山田の田閏へ毎日通って三日も四日通って植えて帰ってまいります。するとおじいさんとおばあさんは山田の田園のみえる 高 い 所 で 、 ﹁ ご 先 祖 さ ん が 残 し て く だ さ れ た 田 圃 だ で 、 ﹂れは拝んで使わせてもらわねばいかんよと、 田圃を拝むわけです。その田や土地を拝みます。その土を拝むということをどう考えるかと言うとやはり﹁食べ物様 に は 仏 が ご ざ る ﹂ へ繋がるのではないでしょうか。だから四日も五日一週間もかかって二反ばかりの山田の凹圃を耕 して植えて帰ってくるときには、山に残った古い木の枝を背中に負って背負いながら帰ります。それで自分の体をぬ く と め 、 その燃えた薪のおかげで体の汚れをとって服を着るというわけであります。槌えてしまった田園を見て手を 合わせます。それは昔の人ですから迷信を信じているということから言えば迷信かもわからないと私は思っていたの ですが、今にして思えば迷信ではございませんでした。自分の生命に繋がるところの働きそのもの、 そういうものの お 影 の 働 き 、 はっきり言うならば﹁おかげさまの働き﹂を田圃の中に見る。そして回聞の中に流れている水を見る。 田圃の水の上に輝いているお日様を見る。そのように考えてまいりますと拝まれた意味がようやくこの頃少しずつわ かつてきた。そして段々田園を拝んで、 ﹁ 苗 を お 預 け し ま す の で よ ろ し く お 願 い し ま す 。 ﹂ 何に向ってお預けしますと言うのかと思ったのですが、 お預けしますとは田圃へ稲の商をお預けしまずからどうか食 ベ物を育ててやってください、 こういうことでございましょう。こう考えてまいりますと、今もなおおじいさんの後 姿 が 拝 ま れ 、 おかげさまが浮び上がってくるのでございます。 ふ な さて岡崎の町に二七市という朝市がございまして ︵ 二 の 日 と 七 の 日 で す が ︶ 、 その市に瓜の苗・トマトの苗・花の 苗などを売るおじいさんがいらっしゃいまして、 そのおじいさんの恰好が死んでしまった私のおじいさんによく似て 祖 父 の 遺 産 一 一 五
祖 父 の 遺 産 一 一 六 おられまして、私がその前に立ち、 ﹁ お じ い さ ん 、 ご 苦 労 さ ん で す ね 。 い い 首 で き ま し た ね 。 ﹂ などといいますと、苗売りのおじいさんが ﹁二月までのうこの瓜の苗を一緒に作っておったばあさまが死んでしまったので、 お ま え さ ん 、 このお花の苗を植 え て お く れ 。 お盆にはお墓へあげられるで、 おまえさんにこれあげるで一株持ってっておくれ。﹂ と分けてくださる。そのおじいさんがふと、 つ ぶ や く よ う に 言 わ れ ま し た 。 ﹁ あ り が た い な あ 。 ﹂ ﹁ な ん が で す か ? ・ ・ ・ ・ ・ ・ ﹂ ﹁風邪ひいて三日ほど休ませてもろうたが、 大根様・菜っ葉様・人参様・みんな育ちなされてくだされた。﹂ と びっくりしました。一一七市のおじいさんですけれどここに念仏があると思ったわけであります。むずかしいことはわ か り ま せ ん 。 ﹁風邪でもって三日ほど休ませてもろうたが、大根様・菜っ葉様・人参様、 みんな育ちなされてくださ れた﹂というこのお心とおじいさんが田圃を植えて拝んで﹁お預けしますのでよろしくお願いします﹂という言葉と 一致するわけであります。この頃しきりにそういうことを尊く思うわけでございます。 私 の お じ い さ ん で す が 、 七十九歳までよく頑張って生きてくれました。若い頃は体が弱かったそうですが、どんど んと私も大きくなりまして、兵隊になり、兵隊で病気をしましたけれども、それでも頑張ってくれましてやっと二十 四歳の時にはじめて代用教員になりました。それは尋常高等科を卒業していたから学歴になったということでありま しよう。代用教員の試験検定をすべっては転びすべっては転び、明けてもくれても田圃の中が私の学校でありました。 そして代用教員になりました。
﹁おじいさん、明日からいよいよ小学校の先生になるからねえ﹂ ﹁ そ う か 、 そ う か 、 なれたんか、先生様になれたかや﹂ ﹁うん、あすから、東の小学校へでるよ﹂ 祖父は、私が教員になぞなれないと思っていました。その筈です。師範学校を出ないとなれるはずがない。私が﹁試 験をやる﹂と言ったものですから、 ﹁やるはいいけど﹃田に畑ならず﹄になるなよ、病気になるなよ﹂
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田に畑ならず ψ と、それはどういうことか﹂ ﹁百姓もしんげんにやらん。他のしごともやらん、中途半端なぶらぶら人聞になることを﹃田に畑ならず﹄という の だ が 、 やるならしっかりやってくれ﹂ ところが試験を受けては転び、試験を受けては落ち、 そうするたびに青を顔をしておりますとおじいさんは、 い つ も 買ってきて私に栄養つけてくれました、鶏肉屋から買って来てくれるものは、実は鶏のがらであります。 ですから今 も学校の帰りにスーパーに寄りまして玉子屋・肉屋さんのまわりをまわりますと、 ﹁ が ら ﹂ が 売 っ て あ る の を 見 ま す 。 このようにしてこのがらを買ってきてそれを煮出してその中にほうれん草を入れ、 玉子を入れて私に食べさせてくれ たと思うとおじいさんの心の中がにじみます。鳥肉屋さんの前で涙ぐむことがございます。 そ れ ら の 、 一つ一つが﹁祖父の遺産﹂でございます。すべてのことの中に仏心をとおして私を生かしてくれたと思 い ま す 。 しかしそのように聞えますにはやはり年数がかかりました。 はっきり言いますとそれは﹁迷信﹂から﹁信﹂ に働きを通して体得するという。言葉の一句になりますが、もっと追求しなければ、もっと追求しなければと思って もどうしても迷信としか思えないような時代がずっとございました。ところが二十四歳になって代用教員になったと 祖 父 の 遺 産 一 一 七祖 父 の 遺 産 一 一 八 きにおじいさんが隣近所にふれ歩いて、教員就職をよろこんでくれました。 ﹁今度はうちの兄︵私が兄で弟がいますが、弟は戦死したのですけれども﹀が先生様になってのえ、﹂ と 言 っ て ふ れ た の で す 。 よほどおじいさんはうれしかったにちがいないと影で噂をしたようでございます。私もそれ を 聞 き ま し て 、 ﹁ 古 ﹂ 品 ふ ぁ 、 よ か っ た な あ 、 代 用 教 員 。 ﹂ ﹁ 一 番 の ど ん じ り の 教 員 で す 。 ﹂ 代用教員でも私にとってよかったと思うわけでございました。昭和十四年がその年でございます。 ここで是非申しあげておかねばならないのは昭和十四年という年は大雪が一ニ、 四回降りました。当時はよく積りま して︵この頃は十四ぐらいしか降りませんが︶、 一 尺 リ 一 一 一 十 叩 、 ぐ ら い は 降 り ま し た 。 私は九十九折の田舎道を自転車 で四回登って四回下って学校に通うのですが、 田舎道をぐねぐね走りますと雪の上に足跡がてんてんとあって、 ν 」 れは尋常高等科に通う誰かの父兄がそこを通って行くのであろうと思っていました。その田舎道の途中に一本橋があ りまして、昔は板の一本橋であったのが、私の通う頃は土橋になったわけでございます。土橋には欄干がないので、 私は﹁欄干のない橋﹂と言っているわけでございます。今度立派な橋に掛け替わりましたけれども、私の家から一 三回ぐらいはありましょうか、 そこまでいったい誰が橋の上の雪を掃きに行くのかわかりません。わからないから小 学校に行って自分の教え子に、 ﹁親というものはありがたいなあ、雪が降ると 一・三回も離れた所まで雪を掃きに行ってくれる人がいる。親の ご 思 を 忘 れ て は い か ん ぞ 。 ﹂ ということを聞かしました。雪が四回降ったので四回共掃かれていました。子供はフ l ンわかったよ﹁らんかんのな
い橋﹂というような顔で聞いていました。 翌昭和十五年八月十日についに祖父が十日間ほど病んで死んでしまいました。発病当初八月二日いつもと様子がち がうと思ったものですから、村のお医者さんを呼びました、医者は私をかげに呼んで、 ﹁残念ながら私ではどうすることもできません。﹂ ﹁0 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 。 ﹂ ﹁ 老 衰 病 が は じ ま り ま し た 。 ﹂ ﹁そうですか、あんなに元気なのに、どれくらい生きてくれるでしょうか。心配です何とかよい方法はないでしょ うか。今の中に何とかならないでしょうか。注射とか何かないでしょうか。﹂ ﹁ こ れ ば っ か り は ど う し ょ う も な い で す よ 。 ﹂ と言われて胸はどきどき、困った、祖父が死ぬ・心はおろおろします。 ﹁せいぜい十日か十五日頑張ってみてあげてください。﹂ 祖父が死ぬのかと思うと世界が真暗になってしまいました。そして十日目、 まだまだ元気だったのですが、 八月十日 の朝に枕元をトントントンと町いて私を呼びます。行ってみますと、 ﹁ う ん 、 起 こ せ や ﹂ 元気でまだ大丈夫ですから安心して起こしました。 ﹁ お 灯 明 を あ げ て く れ ﹂ ﹁ 何 を す る の か 、 そ こ で 拝 め ば よ い の に 。 ﹂ ﹁ い や 、 こ ち ら に 向 け ろ 。 ﹂ 祖 父 の 遺 産 一 一 九
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﹁ は い 、 お じ い さ ん 、 向 け た 。 ﹂ ﹁ 俺 を 後 か ら 支 え と っ て く れ 。 ﹂ 私が母親を四歳のとき見たのと同じ恰好でございます。母親をおじいさんが支えたようにおじいさんを私が支えて、 抱 き か か え ま す 。 ﹁ お 念 仏 を は じ め て く れ 。 ﹂ 何だかおかしいと思ったのですが、 まさか念仏を申せば死ぬということもないであろうから、私は元気よく言いまし た 。 ﹁ 南 無 阿 弥 陀 仏 、 南 無 阿 弥 陀 仏 、 南 無 阿 弥 陀 仏 。 ﹂ 母の最後と同じことが起りはじめました、十戸日はかすかに、 一寸 ウ ウ ウ L と 言 っ て 祖 父 の 答 え も 、 こえもありません。終わりでありました。人間の生命というものがいかに脆いものであるか ということを思い切り知らされました。抱きかかえていて私を育ててくれたおじいさんが、がくっとなったときにび つくりいたしました。これが人間の死か、 はじめて出会った。母親のときに出会ったけれども小さかったからそう感 激しなかったように思いますけれども、今にしてこのお祖父のこの大きさ手が私を育ててくれたのだなあと思うと、 もう胸がいっぱいになりました。 そ の 夕 方 、 お通夜のおっとめをしていますと、隣りのおじさんがやって来て、 ﹁悪かったね、おじいさんが亡くなったそうで﹂ ﹁ 亡 く な り ま し た 。 お 世 話 に な り ま し た ﹂﹁先生が大きくなる、大きくなるというのが一生涯の願いであった。あんたを育てるために生まれたような人だっ た ね ﹂ ﹁はい、そうです。その通りの祖父でした﹂ ﹁ ﹃ う ち の 兄 が 先 生 様 に な っ た ﹄ と言って喜んでうちに何度も来られたけれどもなあ、 私はよほどかわいかったと 思 う な あ ﹂ ﹁ は い 、 わかっています。聞いています﹂ ﹁ そ う か 、 それではこれはどうかね、大雪が降ると箸を担いで夜が明けない中から歌をうたってうちの前を通られ 下回の橋へ行かしたが、あんた知っているか﹂ ﹁ は じ め て 聞 い た 、 あ れ は 、 おじいさんが掃いたのですか﹂ ﹁そうだよ、帯を担いで下回橋へ行かれた。あそこまで掃きにいかれるのを見ると孫というものはかわいいものだ、 いつも腰が痛い、足が痛いと言いながら答を担いでほっかむりをしてあの橋に行かれた、あれを思うと、親という ものはありがたいものだと思ったもんだ﹂ と胸をつまらせて、申された。知らなかったのです。 はじめて祖父のことをきかせてもらったのです。 は っ き り 言 う と 、 やがてこれが姿もなし、形もなし、匂いもなけ れども、私が育つように、私が幸に生きてゆくように、 いつもいつも念じてくれたというかげの働きというものがこ の影にあるということをその時にはじめてわかりました。ここでなんとか文に書かなければ、 なんとか童話に書かな け れ ば と 考 え ま し た 。 できたのが﹃欄干のない橋﹄という童話で私が児童文学へのスタートをした原点になってくる わけであります。現在大学で文学︵児童文学︶を講じておりますが、 その根本はおじいさんが私にくれた、姿もなく、 祖 父 の 遺 産
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形もなく、匂もないけれども、 いつも後で私を守っていてくれる働きという深いものがあるという実体的な一つの遺 産 で あ り ま す 。 おじいさんはそれを私に自分の姿でもって見せてくれたことマあったということに気がつくまでには 年月がありますけれども、 その時には何も知らなかったのだ、 ということで本当に泣けてしまいました。 この祖父が私にしてくれたことを考えてみますと、 い く ら で も ご ざ い ま す が 、 一 番 申 し 上 げ た い こ と は 、 ﹁ 帰 命 無 量 寿 如 来 南 無 不 可 思 議 光 ﹂ この二列があるにもかかわらず、私はそれを毎朝毎夕拝唱しながらも、 なかなかその意味を自分の心にありがたく踊 躍 歓 喜 し 、 心踊る二列でなければならないのに、 それができないのです。これが一番大事なところであります。 ﹃ 正 信偽﹄は読むのが上手になれば四分で済んでしまいましょう。そのようになればどうなるのかと言えば、 い っ た い お 輩 者 で あ っ て も 、 つとめをやってどうなるのかということになります。それだからこそ今日の若い人たちにとってもあるいは相当の年 ︵正信偏︶ おっとめというのは内容は知らなくてもよいから読めばよい、毎日するのがおっとめだからおっと め す れ ば よ い 、 と考える人がかなりあるようでございます。 私はこの最初の二列こそ一番大事な二列であるということに気づかされる経過がございます。実はそういうことに はなかなか手が届きませんで、長年月﹃正信用国﹄可正信侮﹄と思い、 ﹃正信侮﹄のいろんな本を何冊も読ましていた だきましたが、最初の二列というのは誠にむずかしいので、 いろんな人がいろんな立場から書かれであって知識とし て一応は頭に入るけれども、実体の感動、感銘の﹁帰命無量寿如来﹂とはいったい何なのか、 ﹁ 南 無 不 可 思 議 光 ﹂ と は い っ た い 何 な の か 、 さっぱり体解がわいてきません。このことは、今日小学校が知識偏重教育ということを言われ るのと似ているのではないでしょうか。読んでいて、何の感激も感動もないことがずっと続くのでしょう。ところがいろいろご縁がありまして、金子大栄先生にお会いする機会がございました。何を聞こうということもあ り ま せ ん も の で す か ら 、 ただ漠然と行ってお会いすることができたならば、そこで何かを聞いてくることができるで あ ろ う と 思 っ て 、 ただ漠然と訪問したわけであります。だから何を聞いてよいのかこちらには用意がありませんでし た。でも不思議にも金子先生はお会いしてくださいました。もちろん会えるようなご縁もいろいろありまして、児童 文学の方から花岡大学先生を介して︵花岡大学先生が童話をお書きになって、 その一冊を金子先生の奥さんの所へ運 んでもらい、奥さんから頼んでいただくという形をとりました︶、 うまく金子先生にお会いすることができました。 余分なことを省きますけれども、やがて、金子先生が、 ﹁さて、あなたは今日は私から何を聞きなさいますか﹂ ﹁ は い ﹂ 何でもよいから聞こうと思って来たのですが、何も聞かれませんでした。これが四十余歳の教員の私の姿でございま す 。 ﹁何でもよいから何でも聞こうという感じでございます﹂ ﹁ そ れ で は 困 り ま す ﹂ ﹁それでは宗教と教育、宗教と教育はどうでしょうか﹂ ところが先生、厳しい面もちで、 ﹁本日はそのようなお話をいたしません﹂ と、厳しくお叱りを受けて、 ﹁ し ま っ た ﹂ と 思 い ﹁ そ れ で は 、 念 仏 に つ い て ﹂ 祖 父 の 遺 産
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祖 父 の 遺 産 一 二 四 こう申し上げました。すると机の上にありました数珠をとりあげ、両眼を閉じられ、 ﹁ 帰 命 無 量 寿 如 来 南 無 不 可 思 議 光 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 如 来 。 如来は書いてないけれどもあるのですよ、 南無不可思議光如来 法蔵菩薩因位時 得体の知れぬ法蔵菩薩、ありがたいですなあ。 南 無 阿 弥 陀 仏 ﹂ これが私にいただいた一番最初の金子先生の教えでありまして、 一生涯忘れることのできない尊い教訓でございます。 ﹁得体の知れぬ法蔵菩薩 帰命無量寿如来 南無不可思議光 ︵ 如 来 ︶ 私 は 少 し も わ か り ま せ ん 。 ﹂ こ う 言 い ま す と 、 先 生 は 、 ﹁ で は 、 は じ め に 念 仏 あ り 、 ﹂ れ は い か が で す か ? ﹂ ﹁ は じ め に 念 仏 あ り 、 わ か り ま せ ん ﹂ こう言いますと ﹁ そ う で す か 。 ﹃ 正 信 侮 ﹄ を よ く ご 覧 く だ さ い ﹂
なかなか解答してくださらない。雑談は先生のお家ちにお寄りするたびに一時間も二時間も続くことがありましたが、 なかなか核芯がわかりませんでした。もう一回聞こうと思いましでも、何やら恥かしくてどうしても核芯に踏み込め ないままに、年月がたつてとうとうお亡くなりになりました。 ところがふと考えました。待てよ ﹁ は じ め に 念 仏 あ り ﹂ と は な ん だ ろ う か 、 おじいさんは﹁食べ物様には仏がご ざる﹂と教えてくれたがいったいなんであろうか。そう考えたときに、 ﹂れは米沢先生の書かれた本やお講話をきき ま し た が 、 ﹁一粒のご飯は去年の一粒 去年の一粒は一昨年の一粒 一 昨 年 の 一 粒 は そ の 前 の 一 粒 、 一 粒 、 一 粒 : : : 無限に繋がったその一粒がここにある﹂ あ れ 、 一 番 最 初 に 何 が あ っ た の か 。 お 釈 迦 さ ん が あ っ た の だ 。 お釈迦さんが仏をつくったのか。どこにもそのような ことは書いてないのに、小学校六年生のときに司釈迦﹄というのがありまして、それを読んだときに、 ﹁ 仏 教 は 釈 迦 が作った﹂と書いてありました。今でも百科辞典でもそのように書いてあります。そのような勘違をすることを起こ その前に前に前に尊いお働きがあったことをお釈迦様 すわけであります。作ったと言えば作ったかもしれませんが、 が人間の姿をしてこの世に出て教えてくださった。法身・報身・応身のコ一身の中の三つの働きがようやくわかってき ました。そうすると私は何を聞いてきたのだろうか。 言うのではなくて、食べ物の中にあるお働きが仏であると考えてまいりますと、 ﹁食べ物様には仏がござる﹂というのは、食べ物が仏であると そこに俄にひらけるものがあるので はないだろうか、鉛筆一本は仏でないかもしれないが、鉛筆でもって我々が文字を書かせてもらうお働きとなると、 祖 父 の 遺 産 一 一 一 五
祖 父 の 遺 産 一 一 一 ム ハ お働きがその中にあるということであれば、働きこそが法身であったことになる。そのような姿もなく、形もなく、 匂いもないけれども、私をずっと育て守られた働きというものを祖父が残してくれたのではなかったか、 と思ったと きに﹁おじいさん、すまなかった、 こういう尊いことを教えてくださったのに私は知らなかった、本当にすまなかっ た﹂ということでありました。 ﹁食べ物様には仏がござる﹂とおじいさんが言い残してくれたことが、 ﹁ は じ め に 念 仏あり﹂ということに繋がってきました。そして無量寿の働き、数限りのない、 とても考えることのできない、 口 で 説明することもできない、計算することもできない、大きな働きそのものの中に含まれている大慈悲と大智恵の働き に 対 し て 、 はじめて頭が下がらねばならないのであったということ、 そしてその働きを別な言葉で言うならば、 ﹁ 南 無 阿 弥 陀 仏 ﹂ であったということに気づかせていただいたときには、本当に﹁祖父の遺産﹂であったと感じ﹁おじいさん、ありが とうございました、金子先生、ありがとうございました﹂と泣かざるをえませんでした。 それから考えてまいりますと、 ﹁樹に聞く花に聞く﹂というような変なものを書いていますけれども、 一 つ 一 つ 中 のお働きということから考えてゆきますならば、私の身に触れている一切合財すべてその中にある大慈悲と大智恵を 感動せねばならなくなってくるわけでございます。そういたしますと、 一番大切なことは何であったかと思いますと、 やはり、祖父が一番簡単であるけれども、易く体得的に感銘をもって教えてくれたこと、第十七願でのお教え、 ﹁ 杏 堕 し て 、 我 が 名 を 称 せ ず ん ば 、 正 覚 を 取 ら ず 。 ﹂ というところに行くのではないかと思うわけであります。感銘し感動し驚いて、自分が﹁南無阿弥陀仏﹂を申させて いただける形、自分が解ったのではなくて、照らしだされて我の姿がわかってくるのではないかというところに到達 い た し ま す 。 ﹁祖父の遺産﹂はそのようなものではなかったかと思うわけであります。父親・母親とは残念ながら早
くご縁が切れてしまいましたので、父母の恩というのはどうしてもうすいわけですけれども、祖父の場合はどうかと 言い古品すと、祖父の愛が償いを求めるかどうかは別といたしまして、最も無償に近い存在としてあるのではないでし ょうか。償いを求めない愛が大慈悲でありまして、 これが大切なわけであります。孫を育てれば終わりになる、 一 言 い 換 え る な ら ば 、 七十九歳で死にましたけれども、 その中にあった残された時間︵祖父の残された五十八歳から私を育 てるまで七十九歳二十一年かかりました︶を私を育てるために全身全霊で生きてくれたということであります。 そして私がようやく代用教員になったとき、 とても喜んでくれまして、最初の俸給は二十八円をもらいましたが、 その金で何を買って帰ろうかと考えましたが祖父は、酒が好きだったから︵酒の名前はよくわかりませんが、﹁白鹿﹂ だけ知っていましたので︶それを買って自転車に一升瓶をつんで帰ってきました。 ﹁おじいさん、行ってきましたよ、今日ね俸給がもらえたんだ﹂ ﹁ 俸 給 っ て 何 だ ﹂ ﹁ 月 給 で す ﹂ ﹁ い く ら な ? ﹂ ﹁ 二 十 八 円 ﹂ ﹁ い く 月 で 、 二 十 八 円 か な ? ﹂ ご月で二十八円です﹂ ﹁えらいこと、もらえるのだなあ﹂ 当時は米一俵が六円ですから、換算しますと 一人で私が働いて年間六十俵以上の米がとれるわけであります。 お じ いさんとおばあさんと私の三人で六反ばかりを、年間耕してもやっと二十俵か二十五俵でございましてそれを私一人 祖 父 の 遺 産 一 二 七
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で六十俵以上もらえるのですから、 おじいさんにすれば、大変な収入であります。 ﹁ え ら い こ と な ん だ な あ ﹂ ﹁ こ れ が ね え 、 おじいさんが育ててくれた一番最初のお思返しですよ﹂と酒一升を出しますと、 ﹁ な ん だ 酒 か や 、 白 鹿 じ ゃ ね え か や 、 こ ん な え ら い 酒 を 俺 に く れ る の か : : : ﹂ ﹁ 焼 酎 ば か り 飲 ん で 胃 が こ わ れ る と 思 っ た か ら 買 っ て き た だ よ お じ い さ ん ・ : ・ : ﹂ ﹁ も っ た い ね え 。 な ん ま ん だ ぶ 、 なんまんだぶ﹂合掌して、酒一升を抱えて、 お仏壇の扉を開きまして、その前に 座 り 、 ﹁ ふ さ や 、 ︵ 私 の 母 の 名 ︶ 、 兄 が 一 人 前 に な っ て く れ た が や ・ : : ・ ﹂ これがおじいさんの報告だったわけであります。私が四歳、 母 の 臨 終 と き 、 ﹁ ど う か 育 て て や っ て く だ さ い ﹂ ﹁俺が元気でいるうちは必ず育ててやるからなあ﹂ と言って手をにぎって、約束してくれたことが二十年過ぎこのようになったわけであります。 ﹁おばあさん、来なされや、兄がこんなにたくさんのお金をもらってきてくれたがや﹂ おばあさんはお勝手から墨を鼻の頭につけたまま、走ってきまして、 ﹁ こ れ ほ ど も ら え る の か ね ﹂ ﹁ 二 十 八 円 だ よ ﹂ 当時の二十八円は大したものであったらしいのですが、それにまつわる話はいろいろございますが省略させていただ き ま す 。﹁祖父の遺産﹂というのは、先ほどから繰り返して申しましたが、私にとりまして毎日教壇に立っときの﹁自信﹂ となっています。今日の若い娘さんはそういう陰の働きとか、姿もなきものの中に私を育ててくれる大きな働きがあ るとか、法身の仏であるとか、そういう未知な姿をもっている仏さまの姿がお陰にあって出てくるとか、姿が見えた の も あ る と か 、 そういうことはうなづけません。ましておかげさまなんてことは絶対に知りません。自分がやったか らもらえるのだと考えます。また絵描きさんは、俺が絵を描いた、描いたというのは俺が描いた。と思うでしょう。 ﹁先生の筆や画布や絵具は 0 ・どなたが作るのでしょうか﹂ と 問 え ば 、 ﹁俺が働いて買ったから俺が作ったのだ﹂と す ぐ 、 こうなってしまいまして、唯物論しか出てまいりません。筆一本の中のかげの働き、毛の働き、絵の具の働き、 画布の働き、我の命を支えているものの大きな働きなどまったく見えてきません。悲しいことでございます。 最後に一つだけ申し上げたいと思います。この間も一つ大きな事を教えていただいたのですが、実は大阪あたりは ど う か わ か り ま せ ん が 、 お寺へ物を持ってまいりますと、 お 坊 さ ん が 、 ﹁ ゴ タ イ ゲ サ ン ﹂ とおっしゃる。私どもでは﹁ゴタイゲサン﹂と言いますが、どういうことかよくわかりません。 おじいさんに法事に 行 く と き に 、 ﹁何と言っていくか﹂ときいたことがありました。 ﹁﹁ゴタイゲサン﹄でござんすと言って行くゃないか﹂ ﹁ ど う い う 意 味 か ね ? ﹂ 組 父 の 遺 産 一 二 九
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