光明本と
﹃
尊
号
吉
一
八
像
銘
文
﹄
の関係について
例光寺派藤
谷
道
は じ め に ﹁尊号真像銘文﹂︵以下﹁銘文﹄︶について、﹁浄土真宗聖典﹄には次のように説明されている。﹁本書は、親鷺聖 か し 、 その当時に本尊として安置された名号や祖師の画像の讃文を集め、そのこころを解説されたものである。し どの讃文がどの尊号や銘文にあたるのかは、にわかに判断しがたい﹂と。 人 が 、 ところで、悌光寺派の古老が伝えるところによれば、﹁銘文﹄は親鷺聖人が光明本︵光明本尊︶を見て撰述され たのだというのである。確かに、光明本の上下には多くの讃文︵讃銘或いは銘文︶が書かれてあり、 ﹃ 銘 文 ﹄ ヲ﹂川川tR
かれている讃文と妙に一致するところがある。 さて、光明本と﹁銘文﹄については、既に以前からその関係を指摘する声は聞かれたが、 その関係はほとんどが ﹁銘文﹄から光明本へという流れであり、光明本から﹁銘文﹂へという流れで語られることは極めて少なかった。 それは、光明本は親驚聖人滅後の成立と考えられてきたからだ。しかし、今日では、桑子の妙源寺本︵挿凶 A 、﹁
光
明
本
﹂
と
﹁
光
明
本
尊
﹂
先ずは、﹁光明本﹂と﹁光明本尊﹂ ﹃重宝衆英﹄第二巻図版ーより転載︶が聖人在世中の 製作であることは広く認められており、従って、併光 寺派の古老が伝えるように、光明本から﹃銘文﹄ "" -の 妙源寺本 流れもおおいに考えてみる必要があろうかと思う。 拙論では、光明本と ﹁銘文﹄についてこれまでどの 挿図A ように考えられてきたのか、 また、本来はどのような 関係にあったのかを述べてみたい。また、 かつて偽作 として一蹴された悌光寺本﹁尊号真像銘文﹄について も 触 れ て み た い 。 の名称について述べておく。 現在では﹁光明本尊﹂の名称が一般化しているが、古くは﹁光明本﹂が一般的であったことは既に平松令三氏が 指摘している。ただ、平松氏は﹁光明本尊﹂の名称は江戸時代に一般化したと言うが、むしろ、それは近代に入つ てから一般化したのであって、 しかもそれは、誤写が原因であった。 光明本と﹁尊号真像銘文﹄の関係について すべてを調査したわけではないが、﹃遺徳法輪集﹄や﹁大谷遺跡録﹄を見る限り、﹁光明本﹂ばかりで﹁光明本尊﹂ 四光明本と﹃尊号真像銘文﹄の関係について 四 四 の名称はほとんど見られない。それに対して、大正期から昭和初期にかけての論文などを拝見すれば、﹁光明本﹂ と﹁光明本尊﹂が相半ばする形で併記されており、 その頃から急に﹁光明本尊﹂の名称が一般化したことがわかる。 何故急に一般化したかと言えば、﹁光明本尊﹂と誤写された﹃弁述名体紗﹄︵以下﹃名体紗﹂︶が印刷技術の発達 に伴って広く世間に流布したためと考える。 ︵ 3 ︶ から一文を引用しているのだが、それには﹁各々に真像等を一軸のうちに図 画して、これを光明本尊となずく﹂となっていた。当初は、これを庚岡氏個人が誤写したものだと軽く考えていた。 ︵ 4 ︶ ︵ 5 ︶ ︵ 6 ︶ その後、山田文昭氏も、梅原真隆氏も、日下無倫氏も﹁コレヲ光明本尊トナツク﹂としていたので、これ 大正三年、慶岡玄雄氏は﹁名体紗﹄ し か し 、 は、四人が依用した聖典がそのようになっていたのだと気づいた。四人が依用した聖典は、書かれた論孜の年次か ら、明治三十四年刊行の﹁真宗仮名宝典﹂か、明治三十三年刊行の﹁真宗法要拾遺﹄であったと推測する。事実、 両本所収の﹃名体紗﹄はともに﹁光明本尊﹂になっており、しかも、内容がまったく同じで、他の誤写まで同じで ある。因みに両本が底本にした﹁名体紗﹂は、その内容から、享保四年こ七一九年︶刊行の﹁真宗帖外聖教﹂第 三加所収の﹃名体紗﹂であったと思う。 ﹃弁述名体紗﹄の原本は散失しているが、写本は数本現存する。﹁真宗史料集成﹂第一巻︵一一二九頁︶には ﹁本願寺本、常楽寺本、滋賀円照寺本、岐阜専精寺本、滋賀弘誓寺本﹂の五本の存在を挙げているが、千葉乗隆氏 は﹁本願寺本、常楽寺本、円照寺本、専精寺本、大谷大学所蔵の恵空伝写本﹂の五本を挙げている。また梅原真隆 氏は最古の写本として交野常称寺本︵恵超書写、康暦元年[一三七九]︶の存在を挙げている。 ﹃弁述名体紗﹄の撰述者存覚は、﹃存覚袖日記﹂においても﹁光明本﹂としているから、﹁光明本﹂が正しくて、 ﹁光明本尊﹂が誤写であることは確かである。ただ、﹁帖外聖教﹄所収の﹁名体紗﹄が、どの写本を用いたのかわ からないが、﹃真宗聖教全書﹄を見る限りでは、本願寺本も常楽寺本︵応永二十四年[一四一七]光覚書写︶も正
しく﹁光明本﹂となっており、この二本でないことは確かである。 併光寺銘文について ﹁ 尊 号 真 像 銘 文 ﹄ 悌光寺銘文とは、明治四十四年に宗祖六百五十回大遠忌に際して悌光寺から刊行された﹁真宗和語宝典﹄収録の のことである。この銘文は既に原本は焼失したということで、写本をもって刊行された。 しかし、併光寺銘文については当初から疑義があった。大正二年、安井慶度氏はご一つの理由を挙げて﹁本書の偽 作を証明し得たと思う﹂と述べている。三つとは、 一つ、撰述日が高田本と同一による。高田本より増広されている悌光寺本が高田本と同一撰述日はおかしい。 二つ、本文の前に三名号と二尊名が書かれているが、それはまさに光明本尊に引き当てんがためであろう。 三つ、本文に﹃一念多念文意﹄ の文章を殆どそのまま引用しているが、宗祖ならこうした長々と同じことは申さ れないであろう。というものであった。 さらに大正十五年には、梅原真隆氏が悌光寺派の和蔵覚順師と真偽論争を展開し、悌光寺銘文が偽撰であること を強く印象付けた。論争の経過を示す。 梅原 大正十五年に﹃中外日報﹄六月十五日、十六日、十七日付け紙上に﹁悌光寺の銘文を疑う﹂と題して、悌 光寺銘文の偽撰なることを、 五偽︵五つの疑い︶をもって論じた。 和 蔵 同年六月二十三日と二十四日付け﹃中外日報﹄ で﹁悌光寺銘文に就いて﹂と題して反論。 同年七月、自身の月刊誌とも言える﹁親鷺聖人研究﹄五十一輯の中で﹁和蔵覚順師に答う﹂と題して応酬。 また、同書の中で﹁悌光寺本を疑う﹂と題して、悌光寺銘文の偽撰なることを十偽を挙げて詳論し、﹁真偽未決と 梅 原 光明本と﹃尊号真像銘文﹄の関係について 一 四 五
光明本と﹃尊号真像銘文﹄の関係について 一 四 六 せられてきた例光寺本を、私はここに偽撰であると断定するのである﹂と結論づけた。 で﹁再度伸光寺銘文に就いて﹂と題して反論。 梅原十月、﹁親鷺聖人研究﹄五十四輯で﹁悌光寺銘文偽撰の論孜
ll
再び和臓覚順師に酬う 1 1 ﹂と題して再 度応酬し、その最後を﹁不幸にして貴下の論駁は私の主張する偽撰の論証のひとつをも動かすことはできなかった、 平 日 蔵 八月六日より十日にわたって﹃中外日報﹂ もっと正確な論理をひっさげて反駁されたい﹂と結んでいる。 ただ、この論争では、梅原氏の強引さが気になった。例えば、第五偽の如くである。 真蹟の二本とも聖覚銘のうちに﹁御身﹂といふ語句がある。然るに、併光寺本にては﹁聖人ハ善導ノ後身﹂ となってゐる、普通の意味から云えば﹁御身﹂とあるのは錯筆で﹁後身﹂とあるべきが当然である。しかも、 真蹟の二本とも﹁御身﹂とあるのは、宗祖の独自の風格である。 この﹁宗祖の独自の風格﹂は第六偽にも出てくるのだが、梅原氏は﹁宗祖の風格﹂だから偽光寺本は後人の技巧 だというのである。どうも梅原氏の論義は、悌光寺本を偽撰と決めつけての論義だから、このようになるようだ。 もし、白紙の状態で考えるなら、悌光寺本が真撰という選択肢もあるのだから、 その場合は、聖人が﹁後身﹂に訂 正されたのだという考えも充分成り立つのである。四併光寺銘文の撰述日について
梅原・和蔵論争から十年、この論争に一矢報いんとしたのが京極彰心師であった。京極師は昭和十一年の悌光寺 一 派 の 夏 安 居 に お い て ﹃ 尊 号 真 像 銘 文 ﹄ を 講 じ 、 その講述を﹁尊号真像銘文啓蒙録﹂に纏めた。私はその本を偶然入 子 し た の だ が 、 その中に併光寺銘文の撰述日について興味有る記述があったので、紹介しておこう。是に依て昨年の夏登山の闘に、特に御許可を得て、和語宝典所収の銘文の原本を拝見するに、果して其奥書 に﹁正元元年己未六月二十五日、愚禿親鷺八十七歳書之﹂とありて、弥々正元元年の撰述なることを確認する ことを得たり
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−−−和語宝典に収むる悌光寺銘文の撰時が専修寺本と同日となれるに就いては、前に述べたる 如くこれを筆耕の誤写なりと断定する所以は、原本の奥書の次に、余の二本の撰時を併記して、次表の如く列 子たるが故に、其心得なき筆耕をして、過誤をなさしむるに至れるなり。 正元元年己未六月二十五日 愚禿親鷺八十七歳書之 偲建長七歳乙卯六月二日 愚 禿 親 鷺 八 十 三 一 歳 書 之 一 口 一 同 愚禿親鷺八十六歳書之 正嘉二歳戊午六月二十八日 則ち右表に知ることを得るが如く、建長七歳の上部には、朱書にて偲の字を置けり、是れ則ち﹁蝦名聖教﹂の 略にして、偲名聖教︵大谷派の称呼、本願寺派は真宗法要と称す︶に収むる所の銘文は建長七年の撰なること を示すものにして、即ち法雲寺本を指すなり、又正嘉二歳の上部に記する朱書の高の字は高田専修寺の略にし て、即ち専修寺本は正嘉二年の撰なることを示すなり。然るに筆耕此の意を知らずして、最後の年時こそ悌光 寺本の撰時なりと思考して、遂に誤写するに至りしことは推察するに難からざるなり。︵﹃啓蒙録﹄八頁、原文 では平仮名はすべてカタカナ︶ そこで、私も京極師が見られた原本︵写本︶ を見せて頂きたいと思い御門主に書面にて願い出たのである。 間後上山のおり御門主から直接御返事頂いたが、残念ながら﹁銘文は無い﹂とのことであった。写本とは言え、原 本が無い以上、今回はこのような記述があったことだけを伝えてこの項は終わる。ただ、それにしても不思議なの は、十分に調査したわけではないのだが、京極師がこの事実を梅原氏に伝えたという話を聞かないのである。 週 光明本と﹁尊号真像銘文﹄の関係について 四 七光明本と﹁尊号真像銘文﹂の関係について 四 }\ 五 光 明 本 と
﹃
銘
文
﹄
、
これまでの論義 悌光寺銘文は措くとしても、他の二本の﹁銘文﹄、即ち法雲寺本︵建長本、略本︶ と高田専修寺本︵正嘉本、広 本︶は宗祖の真筆本である。ここでは、この二本の﹁尊号真像銘文﹄と光明本︵光明本尊︶について、 その関係を これまでどのように考えてきたのか先師の論議から振り返ってみる。 もっぱら、成立先後に関する論議、即ち光明本が先 か﹃銘文﹄が先かの論義であった。光明本が学界に報告され始めた当初に於いては﹁光明本が先﹂とする意見が優 勢であったが、大正十五年の梅原隆真氏以降は﹁﹃銘文﹄が先﹂とする意見で落ち着き、定説になった感がある。 ①山田文昭氏は、大正四、 結論を先に言えば、大正期から昭和初期にかけての論義は、 五年頃の論孜だと思うが、 その中で、﹁五口人は嘗て本書が光明本の銘文を解釈したる ものに非ずやとの疑問を懐きたりしが、韓近高田専修寺に蔵する聖人の自筆の広本尊号真像銘文を観ることを得て、 果してその想像の誤らざりしことを確かめたり。:::兎に角吾人はこの尊号真像銘文によりて、光明本が聖人時代 に存在したることを確認するものにして、名体紗が学者の意巧に成るといへるは当時の伝説のみ。蓋し諸種の方面 より考証するに名体紗の著者存覚師は聖人の尊号真像銘文を見たる形跡なし。従って、誤りたる伝説を其憧採用し ︵ 日 ︶ たるものならん﹂とまで明言している。 ②大正十二年、橋川正氏は、﹁江戸時代の宗学者の中には光明本尊に多少注意した者もないではないが、これが 尊号真像銘文と密接な関係を有する事については、殆んど看過されていた。ところが去る大正四、 五年の交 ︵頃?︶先学山田文昭氏が先ず光明本尊に大いに注意されて以来次第に光明が与えられ、私もその後各地に伝えら ︵ 日 ︶ れる光明本尊を実査して、銘文との関係については、最早秋事も疑うべから Q さることを知るに至った﹂と述べている。③大正十五年七月、梅原真隆氏は﹁尊号真像銘文について﹂と題する論孜の中で、﹁況んや、親驚は自分の真像 を如来及び先徳と共に拝まれる対象のうちに見出すことを避けられるとおもふ。:::かくて、光明本尊は、宗祖の 在世中に形ちづくられたものでない、即ち銘文を撰述された頃には未だ光明本尊と称すべきほどのものはなかった。 ただ、光明本尊としてまとめらるべき素質と素材とが散在してゐたまでのことである﹂と述べている。 さらに、同年十一月の﹁悌光寺銘文偽撰の論孜||再び和蔵覚順師に酬ふ 1 1 ﹂では、﹁私は弁述名体紗を論証 したのは、光明本尊は﹃当流学者のなかにたくみ出された﹄といふことに着眼して宗祖時代に存在しない、従って 銘文は光明本尊の注釈でない、故に、光明本尊の注釈のようにつくられた悌光寺銘文は偽作であると云ったのであ ︵ 凶 ︶ る﹂と述べている。なお、﹁弁述名体紗﹂については、別項にて詳しく述べる。 ④昭和九年、禿氏祐祥氏は、﹁近頃研究者の一部にはこの光明本尊と﹃尊号真像銘文﹄との類似点の多い事に注 意し、この光明本尊は宗祖自らこれを作り、これを説明する為めに﹁尊号真像銘文﹂を撰述されたものと推察する 人もある様である。これは本末を顛倒した考方で光明本尊は﹃尊号真像銘文﹄を参考して考案されたもの、宗祖は 光明本尊の作製に就ては何等関知するところなきものと思ふ﹂と述べている。 ⑤昭和四十三年、宮崎園遵氏は、﹁その始源については、光明本尊を注釈した存覚の﹁弁述名体紗﹄に、[これ当 流の覚︵学︶者のなかにたくみいだされたるところなり] ︵ 刊 日 ︶ のと考えられている﹂と表現している。 とあることによって、少なくとも親鷺滅後に成立したも ー_L_.. /,
悌光寺派の見解
﹁銘文﹄と光明本に関する併派の見解は、京極彰心師が﹃尊号真像銘文啓蒙録﹄︵昭和十一年︶ の 中 で 、 ﹃ 弁 述 名 光明本と﹃尊号真像銘文﹄の関係について 四 九光明本と﹃尊号真像銘文﹄の関係について 五 0 体 秒 ﹄ の写本について述べる件があるが、 その中によく現れている。 予の所持するもの三本あり、この三本を比するに、併光寺伝来本は最古の良本にて、今一本は古本にして奥 書に﹁此典存覚上人撰述自筆正本在無量寿寺也﹂とあり、難者所引の光覚写本を刊行せる現行本は最新にして 加筆も多く、誤写も亦多し。而して最古の悌光寺本には﹁蓋コレ当流ノ学者ノナカニタクミ出サレタルトコロ ナ リ ﹂ の二十五字無し、古本新本の二本には、この二十五字を増加せり、是こそ光明本尊を宗祖の御創案に非 その法流を妨げんとするの技巧なりと云うべし。︵三二頁︶ ざるものとして、例光寺伝来の光明本尊を語読し、 ここではもはや光明本の成立が ﹃ 銘 文 ﹂ の先や後の話ではなく、光明本は宗祖の御創案だと言うのである。 ま Tこ の一節は後の加筆だとも言う。これには 驚かされるが、実は、この加筆説は、古くから悌光寺に伝来していたようで、佐々木篤祐師は昭和四十一年に、 同 時 に ﹁ 名 体 紗 ﹄ の﹁当流ノ学者ノナカニタクミ出サレタルトコロナリ﹂ の夏講において光明本を釈し ︵ 円 ︶ の二十二字は、加筆したものといっている﹂と記していることからもわかる。 ﹁信暁師は、天保二年︵一八三一年︶ ﹃ 弁 述 名 体 紗 ﹄ の真偽を疑い ﹁ 当 流 覚 者 ﹂ 以 下 信暁師とは、例光寺派第一の学僧であるが、信暁師の言葉から、少なくとも百七十年前から、例光寺に﹁光明本 は宗祖の御創案﹂とする考えがあったことが知られる。
七
光
明
本
と
﹃銘文﹄その成立先後
光明本と ﹃ 銘 文 ﹂ に つ い て 、 その成立先後を論じる場合、必ず持ち出されてきたのが ﹁弁述名体紗﹄冒頭の一文 であった。現在依用されている﹃名体紗﹄︵左記 A 本 ︶ と、大正期から昭和初期にかけて用いられた﹃名体紗﹄ 者 : 記 B 本 ︶ とは、底本となった写本が異なっていた為、細部に違いが見られる。両本ともに挙げておく。︵ A 本︶高祖親鷺聖人御在生ノトキ、末代ノ門弟等、安置ノタメニサタメオカルヘ本尊アマタアリ、 イ ノ\ ユル六字ノ名号、不可思議光如来、克碍光仏等ナリ。党漢コトナレトモ、ミナ弥陀一仏ノ尊号ナリ。 コ ノ ホ カ 、 アルヒハ天竺・長旦ノ高祖、 ア ル ヒ ハ 五 口 朝 血 脈 ノ 先 徳 等 、 ヲノオノ真影ヲアラハサレタリ。 コ レ ニ ヨ リ テ 、 面 々 ノ 本 尊 、 一 々 ノ 真 像 等 ヲ 、 一 鋪 ノ ウ チ ニ 図 絵 シ テ 、 コレヲ光明本トナツク。 ケ タ シ 、 コレ当流ノ学者ノナ カ タクミイタサレタルトコロナリ。 ︵﹁真宗史料集成﹂第一巻、底本は本派本願寺本︶ ︵
B
本︶高祖親鷺聖人御在世ノ時。末代ノ門弟等。安置ノ棚ニサタメオカル﹀本尊アリ。 号。不可思議光如来無碍光知来仏等ナリ党漢読コトナレトモミナ弥陀一仏ノ尊号ナリ。 アルヒハ吾朝血脈ノ先徳等。各々ニ真像等ヲ、 イハユル六字ノ名 コノホカアルヒハ天性 震 旦 ノ 高 祖 。 一軸ノウチニ図画シテ。 コレヲ光明本尊トナツク。 蓋コレ当流ノ学者ノナカニタクミ出サレタルトコロナリ。 ︵﹃真宗仮名宝典﹂並びに﹃真宗法要拾遺﹄所収︶ この冒頭文、特に﹁ケタシ、 まで多くの学者が光明本は宗祖滅後のものだと言ってきた。と言うより、宗祖滅後の根拠にしてきた。しかし、今 コレ当流ノ学者ノナカニ、 タクミイタサレタルトコロナリ﹂の一節をもって、これ 日では、桑子妙源寺本が、 その札銘並びに讃文が真仏上人︵聖人の四年前に減︶ の筆によることから、聖人在世中 の成立であることは広く認知されている。ここでは、多くの学者が何故間違いを犯したかを、っ
て 次 の そ よ の う 最 に 初述期
べ の て 代 い(表 る:2_(l的 学者、梅原真隆氏の見解から検証してみたい。梅原氏はこの一文︵当時 B 本 使 用 ︶ この文は率爾にみると、宗祖の在世に先徳たちが光明本尊を創案したようにみゆるけれども、 そ う で は な い 。 ﹁ 御 在 世 の 時 ﹂ の本尊は名目守本尊であることで一往うちきり、﹁このほか﹂より改めて、光明本尊の発展せる 消息をしめし﹁蓋当流学者のなかにたくみいだされたるところなり﹂と述べたものであるから、光明本尊は宗 その追慕の懇念から後人の手に結構せられたものであると解釈すべきである。 要するに、梅原氏は、文書頭の﹁聖人御在生ノ時﹂を﹁コノホカ﹂以下に掛けてはいけないと言うのである。し 祖の入滅によって、 光明本と﹃尊号真像銘文﹂の関係について 五光明本と﹁尊号真像銘文﹄の関係について 五 かし、普通に読めば﹁聖人御在生ノ時﹂は、﹁コノホカ﹂以下にも掛かっていると考えるのが一般的ではなかろう カ 〉 つまり、﹁聖人御在生ノトキ﹂本尊として定めおかれたのは﹁イハユル六字ノ名号、不可思議光如来、元碍光 仏等ナリ﹂であったが、門弟等は﹁コノホカ、 ア ル ヒ ハ 天 竺 ・ 長 日 一 ノ 高 祖 、 アルヒハ吾朝血脈ノ先徳等、 ヲ ノ オ ノ 真影﹂を安置していた、 と読むべきではないか。 で あ り 、 事実、今日では、聖人在世中に門弟等が、名号だけでなく阿弥陀仏像や高僧・先徳などの真影を安置していたの ︵ 幻 ︶ それに対して聖人も、特にそれを禁止したりはされなかったということがわかっている。従って、やはり、 ﹁コノホカ﹂以下にも掛かっていると理解すべきであろう。 それにしても、﹁聖人御在生ノトキ﹂がどこまで掛かるかなどは、 一見どうでもよいことのようだが、 し か し 、 光明本の成立年次にとっては、重要な問題であった。﹁聖人御在生ノトキ﹂が﹁コノホカ﹂以下には掛からないと なれば、光明本は聖人滅後の成立となるが、﹁コノホカ﹂以下にまで掛かるとなれば、 その成立は聖人御在生時と なるからだ。当時、梅原氏とまったく同意見であった日下無倫氏は、次のように述べている。 しかるに光明本尊の存在を、 わざわざ親驚在世時代にまで持ち往かしめんがために、冠頭の文句﹁高祖親驚 聖人御在世ノ時﹂十一宇を光明本尊のところまでつながるものと解する学者もあるけれども、 それは齢にもひ ねくれた読み方である 私には﹁ひねくれた読み方﹂だとは思えない。 むしろ、日下氏や梅原氏の方がひねくれているように思える。そ れはともかく、少なくとも、 どちらにも決めかねることは、 そのままにしておくべきであって、 それをあえて片方 に決めようとしたところに問題があったのではないか。 そうなったのにはそうなっただけの理由がある。今日、光明本は﹁真宗重宝緊英﹂︵以下﹁緊英﹄︶第 二巻所収の六十六本が知られているが、聖人在世中のものは妙源寺本ただ一本だけである。日下氏は当時二十八本 も ち ろ ん 、
︵ M ︶ の 光 明 本 を 報 告 し て お り 、 その中には妙源寺本も含まれていた。 一方、梅原氏は当時、妙源寺本を聖人滅後のもの だと考えていたから、両人は既に史料の上から光明本は聖人滅後だと思い込んでいた節がある。この先入見が﹁ひ ねくれた読み方﹂を誘発したのだと思う。特に梅原氏にいたっては、悌光寺銘文偽撰説によって、悌光寺が多用し た光明本には冷淡であった。このことが梅原氏をして一層光明本を聖人滅後の存在にしてしまったと考える。 ともかく、ここで忘れてはならないことは、光明本の成立がこのようなどちらにも決めかねる一文の解釈によっ て、聖人滅後であると確定されてきた事実である。
八富田無量寿寺の光明本
史料の上からは、聖人在世中の光明本として確実なものは、桑子の妙源寺本だけであるが、この他に在世中に製 作された可能性を残しているものとしては、会津の光照寺本と酒田の浄福寺本︵挿図B
、﹁衆英﹄第二巻図版 7 よ り転載︶がある。ともかく、現存する史料としては、どれほど多く見積もってもこの三本だけで、あとの六十三本 はすべて聖人滅後の成立である。 一方、文献上から見れば、﹁光明本聖人の御筆ナリ﹂などと書かれたものは数多く見られるが、しかし、その ほとんどは寺伝をそのまま伝えたもので、疑わしい。そのような中で﹁真宗故実伝来紗﹄に記載されている富田無 量寿寺本だけは聖人在世中のものだと思われるので、検証してみたい。先ずはその記述から紹介しよう。 又常州富田無量寿寺ニ光明本アリ。中ハ南無不可思議光仏八字名号有リ、泥筆也。左ニムハ字、右二十字アリ [イツレモ泥筆也︵割り注ニ中ノ名号ノ下釈迦・弥陀二尊ノ像アリ。二尊トモニ全ク今ノ御顔也。此ノ光明 本ハ下ヲ上座トシ、上ヲウシロト定テ、十七尊二十一体ノ祖像アリ。聖徳太子富山慈 !|| 勝 日 羅 イ モ コ 光明本と﹃尊号真像銘文﹄の関係について 五光 明 本 と ﹁ 尊 号 真 像 銘 文 ﹄ の 関 係 に つ い て 一 五 四 ︵割り注︶]勢至・龍樹・天親・菩提流支・曇驚・道悼・善導・法照・少康・源信・源空・聖覚・信空・親驚 也。御銘皆聖人ノ御筆也。存覚上人ノ弁述名体ハ是光明本ノ伝記也。因二世上ニ光明本多ク是アリ、皆聖人ノ 御筆ト云フ、全ク御筆ニ非ス、尤コ一号ハ聖人ノ御筆ヲ駕篭字ニ写シ、泥ヲ置タルナリ。御筆ニ非サル証拠ハ、 人数モ多或ハ真仏坊・専信坊ナト加へ、又荒木ノ源海ナトヲオモトシ、亦銘ニモ親鷺上人トアリ、何ソ白ラ聖 人ト書タマヘキヤ。無量寿寺ノ光明本一一ハ愚禿親驚トアリ、世上ノ光明本ハ仏光寺派ノ本尊ナランカ。シカラ ハ小比叡ノ空性ナトノ筆跡ニテモアラン欺、拝者可心得也 実はこの文章の中には光明本にとって興味ある記述が幾つもある。順を追って説明する。 ︵ ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 第 八 巻 六 四 一 頁 ︶ 先、ず、この光明本は中心に南無不可思議光仏の八字名号、左に六字、右に十字とある。左右についてはその少し 前に﹁左右ハ拝者ノ左右﹂との説明があるから、この光明本は通例の八字名号中心の光明本であったことがわかる。 ①問題は次である。﹁中ノ名号ノ下釈迦・弥陀二尊ノ像アリ﹂とあるが、普通は、弥陀・釈迦は中心名号の両脇 に立っている ︵ 挿 図
C
参照、﹃緊英﹄第二巻図版却より転載︶。ここでは﹁中ノ名号ノ下﹂と書かれているが、 そん な形の光明本があるのだろうかと ﹁衆英﹄所収の光明本を探してみたら一本見つかった。酒田の浄福寺本である ︵ 挿 図 B 参照︶。浄福寺本は鎌倉末期まで遡り得る大変古いものである。 ②次に、﹁此ノ光明本ハ下ヲ上座トシ、:::十七尊二十一体ノ担像アリ。聖徳太子・勢至・龍樹・天親:::﹂と あるが、﹁聖徳太子・勢至・龍樹:::﹂という順番に疑問を感じる。通規の光明本︵最も一般的な光明本、挿図 C ︶ なら太子は向かって右側の最下方に画かれているから、太子の名前が最初に出ることはない。 まさか、太子が左下 万に画かれているはずはなかろうと思い、冠水英﹄を調べたところ、 一本見つかった。先の浄福寺本であった。 照 ・ 少 康 ﹂ ③次は﹁法照・少康﹂二祖について。通規のものは﹁懐感、少康、法照﹂の三祖であるのに、無量寿寺本は﹁法 の二担である。最初は記載漏れかとも思ったが、十七尊二十一体と明記してあるから記載漏れではない。浄福寺本 挿図B 侍 者 と し て 活 躍 し 、 また太子より仏像をうけて蜂岡寺︵広隆寺︶ ﹃上宮太子御記﹄には確かに﹁秦川勝﹂と出ており、字も﹁川勝﹂で一致している。 四人型﹁妹子・馬子・学智・ そこで、他に二祖の形がないか所収の光明本を調べてみ たら、堺の報恩寺本が一本みつかった。報恩寺の二祖は ﹁懐感、少康﹂であって、﹁法照、少康﹂ではないが、 ともかく、二祖形は存在したのである。 ④また、無量寿寺本は高僧連座の最後が﹁親鷺﹂︵札 銘 は ﹁ 愚 禿 親 鷺 ﹂ ︶ で終わっているが、この形も 大変珍しく、﹃衆英﹂を見る限り、現存するもの 通規型(正厳守ー本) は妙源寺本︵札銘は﹁親鷺法師﹂︶と先の報思寺 本︵札銘は﹁親鷺聖人﹂︶の二本しかない。但し、 報思寺本は先に祖形があって、 それを真似て作ら れたものであり、製作年代は下がる。 ⑤次は聖徳太子の侍臣について。無量寿寺本の 挿図C 侍臣は [ 恵 慈 川 勝 目 羅 イ モ コ ︵ 割 り 注 ︶ ] とあるがこの四人のメンバーは大変珍しく、他 にまったく例を見ない。特に、川勝は聞いたこと がない。川勝とは秦河勝のことで、聖徳太子の近 を造ったことで知られる。聖人が書写編集された 光明本と﹃尊号真像銘文﹂の関係について なお、聖徳太子の侍臣は、六人型﹁妹子・馬子・日羅・学寄・阿佐・恵慈﹂と、 一 五 五
光明本と﹃尊号真像銘文﹄の関係について 一 五 六 恵 慈 ﹂ が あ り 、 そのメンバーはほぼ一定しており、 四人型が六人型より古例だとされている。従って、無量寿寺本 は侍臣の数から考えてもメンバーからしても、光明本の中でも最古例のものであったと思われる。 以上①②③④⑤から、﹃真宗故実伝来紗﹂の記述が、決していい加減なものでなく、信頼すべき記述であり、し かも、最古例の光明本でなかったかと思う。特に、無量寿寺本の高僧連座の札銘が﹁愚禿親鷺﹂で終わっているこ と か ら 、 その札銘はもちろん、天地の讃文も ︵記述にはないが、当然あったと思われる︶聖人の真筆であった可能 性 が 極 め て 高 い 。 ともかく、このように文献上からも聖人在世中に光明本の存在したことが窺えるのである。
九
浄
土
五
祖
と
法
照
正 規 の 浄 土 五 祖 は ﹁ 曇 驚 ・ 道 紳 ・ 善 導 ・ 懐 感 ・ 少 康 ﹂ で あ る 。 但 し 、 こ の よ う に 次 第 す る 浄 土 五 祖 は 法 然 上 人 が 言 い 出 し た こ と で 、 中 国 の 文 献 に は 見 当 た ら な い 。 と こ ろ が 、 前 述 の 無 量 寿 寺 本 は ﹁ : : : 曇 鷺 ・ 道 梓 ・ 善 導 ・ 法 照 ・ 少 康 : : : ﹂ の 五 祖 に な っ て い る 。 こ こ で は 、 な ぜ 浄 土 五 祖 の 一 人 で あ る ﹁ 懐 感 ﹂ を 外 し て 、 ﹁ 法 照 ﹂ を 入 れ た の か を 考 え て み た い 。 当初は、通規の光明本︵挿図C
︶ は﹁懐感・少康・法照﹂ の三祖であるのに、なぜ無量寿寺本は﹁法照・少康﹂ の二祖なのか不思議であった。 しかし、浄土五祖に着目してみれば、 五祖から﹁曇鷺・道縛・善導﹂を除けば、残 り は 二 祖 で あ る 。 つまり、二祖が本来の形であって、 三祖が異形なのだと気づいた。そこで浄土五祖を、﹁重宝衆 英﹂第八巻の高僧連座像で調べてみたら、次の四本が見つかった。 勝蓮寺本︵第八巻図版 4 ︶ 、 浄 誓 寺 本 ︵ 同 そのメンバーは、勝蓮寺本と浄誓寺本は正規の浄土五祖﹁曇鷺・道紳・蕎導・懐感・少康﹂であるが、満 図 版 5 ︶ 、 満 性 寺 A 本︵同 図 版 2 ︶ 、 満 性 寺 B 本︵同 図 版 6 ︶ 。 但 し 、 性寺B
本は﹁曇鷺・道紳・善導・法照・少康﹂、満性寺 A 本は﹁慈態、曇驚、道悼、善導、法照﹂という変則的浄土五祖であった。これらのメンバーを見ていて思うことは、 どうやら、初期真宗教団の中で何故か急に﹁法照﹂が 注目されるようになり、浄土五祖の中にぜひ﹁法照﹂を入れたいとの強い欲求が起こってきたのではないかという ことである。その理由については後に述べるとして、 その前に﹁懐感﹂と﹁慈慰﹂について述べておく。 先ず﹁懐感﹂であるが、満性寺
B
本と無量寿寺本は、浄土五祖から懐感を外して法照を入れたが、考えてみれば 少康を外しても良いわけである。何故懐感を外したのだろう。 法照とのつながりの強さから言えば、 やはり少康である。何故なら、﹃楽邦文類﹄ 三に﹁継祖五大法師伝﹂が掲 そこに、白蓮社の始祖として﹁慧遠﹂を挙げ、継祖として﹁善導、法照、少康、省常、宗 蹟﹂の五大法師を挙げている。また、親驚の著述を見ても、懐感は源信讃に﹁本師源信和尚は 載されているのだが、 懐感禅師の釈によ り 処胎経をひらきてぞ 僻慢界をばあらはせる﹂とあるが、少康は善導讃に﹁世々に善導いでたまひ 法照・少 康としめしつつ 功徳蔵をひらきてぞ 次に﹁慈感﹂が浄土五祖に入った理由について述べてみる。満性寺 A 本は、懐感と少康の二祖を外して、法照と 諸仏の本意とげたまふ﹂とあり、法照と少康とのつながりの強さがわかる。 慈感を入れているが、これも法照とのつながりで慈患が入ったものと思う。 法照は白蓮社の継祖の一人であるから、当然、慧遠の流れを引いていることになるが、実際の法脈は、慧遠では なく、慈慰の流れを引いている。法照は南岳の承遠に師事し、承遠は慈思三蔵から念仏の教えを承けているからだ。 その著述からも、法照は﹃浄土五会念仏略法事儀讃﹄︵以下﹃五会法事讃﹄︶の中に慈患の﹁般舟三昧讃﹂を 引いているし、﹁浄土五会念仏語経観行儀﹄の中にも同じく慈懸の﹁願生浄土讃﹂﹁西方讃﹂を引いており、法照が ま た 、 慈患の流れを引いていることがわかる。従って、慈患は、法照に引かれるかたちで浄土五祖に入ったものと考える。 尚、慈感三蔵は曇一驚より後の人であり、二人の間には仏法の相承は何もないから、従って、 やはり、曇驚の前席は 菩提流支が相応しいということで、後には菩提流支がその席を占めることになる。 光明本と﹁尊号真像銘文﹄の関係について 一 五 七光明本と﹃尊号真像銘文﹄の関係について 一 五 八 さ て 、 ともかくこのようにして、司法照﹂或いは﹁法照と慈感﹂を浄土五祖に入れたのだが、 しかし、変則的浄 土五祖には批判も多かったことと思う。そこで考え出されたのが震日一 ︵中国︶七祖形でなかったかと考える。 法然上人は﹃選択集﹄ の中で浄土宗の師資相承を﹁菩提流支・曇驚・道紳・善導・懐感・少康﹂と説いている。 このメンバーに、新たに法照を加えることによって出来たのが、通規の光明本に見られる震旦七祖形﹁菩提流支・ 曇 驚 ・ 道 梓 ・ 釜 旦 埠 寸 ・ 懐 感 ・ 少 康 ・ 法 照 ﹂ で あ り 、 また、菩提流支を除いて法照と慈患を加えたのが慈感型震日一七祖 形﹁慈感三蔵・曇鷺・道紳・益三埠了懐感・少康・法照﹂ でなかったかと考える。これなら、 どちらも正規の浄土五 祖がそのまま入っているから皆が納得したと思う。
十
法
照
と
五
会
念
仏
前項でみたように、法照が急に注目されるようになり、浄土五祖のメンバーに加えられるまでになった。 では何 故それまでして法照を崇めたのだろうか。 確たる根拠があるわけではないが、推測するに、 それは法照が ﹃ 五 会 法 事 讃 ﹄ の撰述者であったからだと思う。 つまり、当時、関東の初期真宗教団の中に急速に五会念仏︵五音|宮商角徴羽ーの曲調にのせて修する念仏︶ や 或いは和讃に節をつけて請することが起こってきたのではなかろうか。傍証を二、一二挙げてみる。 ①﹃徒然草﹄第二百二十七段に﹁六時礼讃は、法然上人の弟子安楽といひける僧、経文を集めて造りて、勤めに し け り 。 そ の 後 、 太 秦 益 口 観 一 層 と い ふ 僧 、 節 博 士 声の高低 を定めて声明になせり。 一念の念仏の最初なり。御嵯 峨院の御代ご二四二年1
四 六 年 ︶ よりはじまれり、法事讃も同じく善観房はじめたるなり﹂とあり、年代的にも 一致する。因みに、善観房教脱︵本名願明︶ は、﹁最須敬重絵詞﹂第二十三段には教達で出ている。②また、覚如の﹁改邪紗﹄にも﹁祖師聖人︵親驚︶の御ときは、さかりに多念声明の法灯、倶阿弥陀仏︵空阿弥 陀仏、明遍?︶の余流充満のころにて、御坊中の禅襟達︵聖人の門弟︶も少々これをもてあそばれけり。祖師の御 怠巧としてまったく念仏のこわびき いかように節はかせを定むべしといふ仰せなし L と あ る 。 ③また、当時、聖人はご消息の中でしばしば門弟達に聖覚の﹁唯信紗﹂や隆寛の﹁後世物語﹄などを読むように 勧め、自らもそれを書写し与えている。その﹁唯信紗﹄に、法照の﹃五会法事讃﹂が大きく引用されている。特に、 ﹁ 彼 仏 因 中 立 弘 誓 間名念我総迎来 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才 不簡多聞持浄戒 不簡破壊罪根深 但 使 回心多念仏 の 句 の 作 者 に つ い て は 、 能令瓦醸変成金 L一の八句は﹃選択集﹄にも引かれており、親しみ深いものであったと思う。但し、こ おそらく関東の門弟達は﹃選択集﹄の記述から法照作だと思っていたはずである。これが ︵ 札 ︶ その後、親驚聖人の﹁唯信紗文意﹄によってである。ともかく、このように関東の 慈感作であることを知るのは、 門弟達には早くより法照の名前と﹁彼仏因中立弘誓:::﹂の八句は知れ渡っていたのである。 ④さらに、聖人は﹁唯信紗文意﹄ の中で、﹁この文は後善導法禅師と申す聖人の御釈なり。この和尚をば法道和 尚と慈覚大師はのたまえり。 また﹃伝﹄には慮山の弥陀和尚とも申す﹂と述べている。ところが、法道和尚とは慈 覚 大 師 ︵ 円 仁 ︶ に五会念仏を授けた人であり、弥陀和尚は法照の師の承遠であって、共に法照とは別人である。要 するに、これは、親鷺聖人の時代には、このように考えられていたということであって、 つまり、中国に於ける五 会念仏の功績は、当時の日本では、法然一人が独占していたことがわかるのである。
十
聖徳太子と五会念仏
仮説ではあるが、ここでは、 五会念仏は聖徳太子によって日本に伝えられたという伝承が初期真宗教団の中にあ 光明本と﹃尊号真像銘文﹂の関係について 一 五 九光明本と﹃尊号真像銘文﹄の関係について 一 六 O ったのではないかということを述べてみたい。 光明本の讃文と﹁銘文﹄ の讃文を比べていて 一つ不思議に思うことがある。親鷺聖人は広本﹃銘文﹄に、太子 と﹁日羅礼日﹂︵同②︶の二文を挙げているのに、妙源寺蔵の光明本も、通規の 光明本︵九字名号中心の最も一般的な光明本︶も、その讃文を用いず、﹁太子御廟記文﹂︵同③︶を用いていること である。確かに、妙源寺本には、太子侍臣として阿佐太子も日羅聖人も画かれていないから、まだそれはわかると しても、通規の光明本には、二人がはっきり画かれているのである。しかも、聖人は、聖徳太子を観音菩薩として 深く敬っていたのであるから、﹁阿佐礼日﹂と﹁日羅礼日﹂は、通規の明本には最も相応しい讃文と言えよう。に もかかわらず、それを採用しないないで、﹁御廟記文﹂をそのまま用い続けたのには、よほど何か理由があったも 讃 文 と し て ﹁ 阿 佐 礼 日 ﹂ ︵ 左 記 ① ︶ の と 思 う 。 ①御縁起日 ②新羅国聖人日羅礼日 ③聖徳太子御廟記文掘出一銅函其蓋銘臼五口為利生 その理由を私は﹁出彼衡山﹂にあったと考える。何故なら、﹁阿佐礼臼﹂﹁日羅礼日﹂﹁太子御廟記文﹂の三文は、 皆一様に太子が日本国に仏教を伝え広めたことを記している。ただ違うのは、﹁阿佐太子﹂と﹁日羅聖人﹂の文に は、太子が観音菩薩の化身であることを示しているが、﹁御廟記文﹂にはそれが見られない。﹁御廟記文﹂に見られ るのは﹁出彼衡山﹂の記述である。﹁衡山﹂とは﹁南岳衡山﹂のことで、﹃上宮皇太子菩薩伝﹄に依れば、太子は南 岳慧思禅師の再誕であるとされている。ここで大切なのは、慧思禅師ではなく、太子が南岳より日本へやって来た という伝承の事実ではなかったか。と言うのは、法照は五会念仏の創始者であり、その発祥地は南岳の弥陀台般舟 百済国聖明王太子阿佐礼日 敬礼救世大慈観音菩薩 敬礼救世観音大菩薩伝灯東方粟散王文 妙教流通東方日本国 四十九歳伝灯演説 [ 従 於 西 方 来 誕 生 皆 演 妙 法 度 衆 生 ] 出彼衡山 入此日域 降伏守屋之邪見 終顕仏法之威徳 道場であったからだ。 つまり、聖徳太子が﹁彼の衡山より出でて、此の日域に入る﹂ということは、法照の五会念
仏は、聖徳太子が日本に伝えたという意味を、ここに込めていたのではなかろうか。
十
お わ り に ﹁ 尊 号 真 像 銘 文 ﹄ と光明本︵光明本尊︶が何か深い関係がありそうだということは誰もが考えるところである。 しかし、長い間、光明本は聖人入滅後のものとされてきた為﹃尊号真像銘文﹂を論じても、光明本にまで言及し、 それを詳しく論じることはなかった。しかし、今日、妙源寺本が聖人在世中のものであることは明らかであるし、 文献上でも、先に明らかにしたように、無量寿寺本が聖人在世中のものであった可能性は窮めて高いのである。 そ こで、最後になったが、光明本と ﹃ 銘 文 ﹄ が 本 来 ど の よ う な 関 係 に あ っ た か を 一 一 士 一 目 し て お き た い 。 その前に、これまでの論議をまとめておこう。光明本が報告されはじめた当初は、﹁聖人が光明本の讃文︵讃銘︶ を 見 て 、 その解釈として ﹁銘文﹄を撰述された﹂との意見が優勢であったが、 しかし、大正十五年の梅原真隆氏以 降は、伸光寺本﹃銘文﹂ の偽撰説とも相候って、﹁光明本は聖人入滅後のものであり、﹁銘文﹂は聖人が他の尊号や 真像から讃文を集めて撰述された﹂とする意見が定説となった感がある。ただ、 どちらにしてもこれまでは、二つ の関係については 一方から一方へという単方向的な流れでばかり語られてきた。 しかし、事実はそのような単純な流れではなく、二つは同時進行的であり、 双方向的であったと考える。例えば、 妙源寺本は親鷺聖人在世中に存在していたが、そうかといって、必ず聖人がそれに何か関係していたかと言えば、 それには、確かな根拠が必要となる。ここでは傍証を一つだけ挙げておく。妙源寺本の聖人札銘が﹁親驚法師﹂に なっていることだ。真仏上人が聖人に何の相談もなく作製したとすれば、﹁親鷺聖人﹂と書いた筈である。﹁親鷺法 師﹂と書くには、聖人と何らかの合意があったと思われる。因みに、東本願寺の安城御影模写本には聖人自ら﹁親 光明本と﹃尊号真像銘文﹄の関係について ム ノ 、鷺 法 師 」 光 と 明 書イ干 し 〉 }
て 五
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銘 文 0) 関 係っ
て ~ ノ 、 ともかく、門弟等は光明本を作製する過程で、聖人に何らかの相談をしていたと思う。少なくとも、光明本の讃 文については、上京の折などに聖人に相談していたと推測する。具体的に言えば、個々の祖師について、その祖師 に相応しい讃文を聖人に幾っか選んでもらい、 その中から門弟等が選択したのだと思う。もちろん、 ほとんどは聖 人の選らばれたものの中から採用したと思われるが、中には、先述の聖徳太子讃文のように、独自の讃文に強くこ だわったものもあったであろう。 と も か く 、 どちらにしろ、讃文について聖人に相談していたとなれば、個々の讃 文について聖人に解釈をお願いしたとしても何等不思議ではない。 つ ま り 、 ﹁銘文﹄と光明本︵最初期の光明本︶ は、相互に関係し合いながら、同時進行的に作製されていったと 考えるのである。このことについては、 また別の機会に詳しく論証しなければならない。 出典一覧 ︵ 1 ︶平松令一二﹁総説﹂﹃真宗重宝緊英﹄第二巻光明本尊︵昭和六十二年十二月、同朋舎出版︶一八五頁。 ︵2 ︶平松令三﹁総説﹂﹃真宗重宝由来英﹂第二巻一六六頁。尚、平松氏は﹁光明日間﹂について、一見古いようである が、中世での使用例が見られないので、﹁本﹂と﹁品﹂との音通による転記にすぎない、と指摘している。 ︵ 3 ︶康岡玄雄﹁光明本尊の研究﹂ヱハ条学報﹄一五一号︵大正三年五月、仏教大学内任寅会︶三一頁。 ︵4 ︶山田文昭著﹃真宗史稿﹄︵大正四、五年頃の記述か︶七五頁。 ︵ 5 ︶梅原真隆著ぺ親驚聖人研究﹄五十輯︵大正十五年六月︶二三頁。 ︵6 ︶日下無倫﹁悌光寺派例光寺の起源﹂﹃真宗史の研究﹄︵昭和六年七月平楽寺書店︶四三頁。 ︵7 ︶千葉乗隆﹁弁述名体紗﹂吋真宗重宏緊英﹄第二巻二O
七 頁 。 ︵ 8 ︶ 梅 原 真 隆 若 ﹃ 弁 述 名 体 紗 と そ の 解 説 ﹂ ︵ 昭 和 十 年 十 月 、 顧 真 学 苑 ︶ 三 一 三 真 。 ︵9 ︶安井康度著﹃尊号真像銘文井其解説し︵大正二年七月、法蔵館︶二五頁。 ︵叩︶実際に寸中外日報﹄を目にしていないが、梅原氏の反論の中に記述が有る。 ︵日︶梅原員隆著﹁親驚聖人研究﹄五十一輯︵大正十五年七月、親驚聖人研究発行所︶ 0︵ロ︶同﹃親鴛聖人研究﹄五十四輯︵大正十五年十月︶ 0 ︵日︶山田文昭著円真宗史稿﹂︵昭和四十三年七月、法蔵館︶七六頁。 ︵ H ︶ 橋 川 正 著 吋 日 本 併 教 史 の 研 究 ﹄ ︵ 大 正 十 三 年 八 月 、 同 朋 舎 ︶ 一 一 一 二 一 頁 。 ︵日︶梅原良隆著﹁親鷺聖人研究﹄五十輯︵大正十五年六月︶三凹頁。 ︵同︶同﹃親驚聖人研究﹂五十四輯︵大正十五年十月︶。 ︵ 打 ︶ 禿 氏 祐 祥 ﹁ 真 宗 の 本 尊 に 関 す る 研 究 ﹂ ﹁ 龍 谷 大 学 論 叢 ﹂ 一 一 四 七 号 ︵ 大 正 十 一 年 十 二 月 ︶ 0 ︵同︶宮崎固遵著作集第四巻﹃真宗史の研究﹂ L L ︵ 一 九 八 七 、 思 文 閣 出 版 ︶ 同 三 四 頁 。 ︵凹︶佐々木篤佑著届川光寺史の研究﹄︵昭和四十八年、本山側光寺︶十四頁。 ︵ 却 ︶ 梅 原 員 降 著 ﹁ 親 鷺 聖 人 研 究 ﹄ 五 十 輯 ︵ 大 正 十 五 年 六 月 ︶ 一 二 三 頁 。 ︵汎︶千葉乗隆﹁総説﹂﹁真宗重宝緊英﹄第一巻名号本尊一八五頁。 ︵幻︶日下無倫著﹃真宗史の研究﹄︵昭和六年七月平楽寺書店︶四三頁。 ︵出︶平松令三﹁総説﹂付﹁現存本尊一覧表﹂﹁重宝緊英﹄第二巻一八八頁。 ︵剖︶日下無倫﹁悌光寺派例光寺の起原﹂﹁真宗史の研究﹂五二頁。 ︵お︶大橋俊雄著﹁法然上人事典﹄︵一九九六年十二月、双樹舎︶二五六頁。 ︵お︶メンバーについては、﹁重宝緊英﹄所収の写真からは判断できないものもあり、早島有毅﹁総説 ﹁真宗重宝衆英﹄第八巻高僧連坐像︵昭和六十三年六月、同朋舎出版︶一九六