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パーリ学仏教文化学 (30) - 005伊藤 千賀子「『六度集経』における康僧会の意図と受容」

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Academic year: 2021

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[研究ノート]

『六度集経』における康僧会の意図と受容

── Jātaka 73 Saccaṃkira-jātaka の変容と広がり──

伊 藤 千 賀 子

Intention and Acceptance of Kang Senghui (

康僧会

)

—Transformation and Diffusion of Jātaka 73 Saccaṃkira-jātaka—

Ito, Chikako

Buddhism spread worldwide and established its status. However, its diffusion was difficult because Buddhist teachings were hard to understand. Even so, to solely read Buddhist teachings are not to understand Buddhism. Therefore, monks use illustrative examples such as fable to explain the essence of Buddhism. Some of them are the Buddhist tales called jātaka. When Buddhist monks they deliver sermons they used these tales to make it easier for people to understand. These tales bridged the gap between teachings and people. But Kang Senghui tried to educate kings using jātaka to become true kings.

The Liudu ji jing is said that Kang Senghui gathered sutras and divided them into ‘The Six Pāramitās’. However, the sutras in The Liudu ji jing are not the original form of the collected sutras. Kang Senghui added his own sentences to the original sutras. Thus, Kang Senghui himself interposed in each sutra. I will make it clear the sentences he added and the reason why he added these sentences by comparing with other similar sutras. First I will describe all Kang Senghui’s life and then his sutra The Liudu ji jing.

The basic structure of the Chapter 25 on The Liudu ji jing is ‘Animals and a man were drifting in a river because of a flood. Bodhisattva saved them. These animals returned the favor to Bodhisattva, but the man revenged the Bodhisattva instead of returning the favor.’

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1 はじめに

 康僧会は『六度集経』という経典をつかって,仏教思想を政治にいかし て政治を変えていこうともくろんだ。すなわち,『六度集経』は「仏教に よって国主を説き伏せようとした」(1),王へ向けた書なのである。このよう な『六度集経』編纂の康僧会の動機は,当時の植民地に宗主国から派遣され てきた官吏の横暴が原因であり,彼らを正すためには宗主国の為政者を正さ なければならないと考えたことにある(2)。「『六度集経』の執筆の動機が,為 政者に政治を改めさせるためのものならば,次のことが推定できる。当時の 「粗暴で残酷な権力者に,康僧会自身の考えをそのまま述べれば,2度と目 通りがかなわないばかりか,命が危ういと考えられる。命を失っては,権力 者が考えを改めるまで説得することは困難である。したがって,康僧会の考 えを直接ではなく,インドの経典にはこう書いてあると言って,権力者に講 義をするなり,読ませるなりするという方法を取った」(3)。『六度集経』は集 めた本生経をそのままの形で載せたわけではなく,新たに康僧会が作り挿入 したものが含まれている。『六度集経』の成立のみならず,一話一話の展開 そのものに康僧会自身が介在しているのである。本稿は『六度集経』第25 話を他の類似経典と比較することにより,康僧会が原話に付加した部分とそ の意図,さらに後世の文献に転載された時,康僧会の意図はどのように反映 されたのかを明らかにするものである。  過去物語(4)の基本構造は「洪水で流されているところを菩 に助けられた 動物たちは恩返しをし,人間は恩を仇でかえした」とする。取り上げる経典 は次の6種とする(5)  〈パーリ語所伝〉   Jātaka 73 Saccaṃkira-jātaka(真実語ジャータカ)(6)  〈漢訳所伝〉  『六度集経』第25話[理家本生](7)(以下『六度25』)  『経律異相』第11巻第4話「為大理家身済鼈及蛇狐」(8)(『経律異相11』)

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 『諸経要集』第8巻「報恩部報恩縁」(9)(『諸経要集8』)  『法恩珠林』第50巻「法恩篇引証部」(10)(『法恩珠林50』)  『経律異相』第44巻第4話「慈羅放鼈後遇大水還済其命」(11)(『経律異相 44』)

2 康僧会の生涯

 康僧会についての記述は『大安般守意経・序』(12)と『高僧伝』(13)の2種に ある。このうち,『安般守意経・序』は3世紀に康僧会自身が記したもので ある。  『大安般守意経・序』には,「私は末世に生まれ,やっと薪を背負うことが できるようになった頃に,父母が世を去った。三人の師も亡くなった。雲や 太陽を仰ぎ見ては,質問し教えを受ける師のいないことを悲しんだ。あの頃 のことを思い出すと,今でも涙があふれ出る。しかし,宿世の福徳がまだ消 滅していなかったとみえて,南陽の韓林,頴川の皮業,会稽の陳慧に出会っ たのである」(14)  この記述の注目すべき点は,「三人の師」である。三師が出家授戒儀礼の 3人の師であるならば,康僧会はすでにベトナムで受戒していたことにな る。なぜならば,まだこの頃には,中国で授戒は行われていなかったからで ある。「江東にまだ仏法が伝わっていなかった時,ルイロウには仏教寺院が 20以上,得度した僧侶が500人以上,経典が15部訳されていた」(15)とあり, 交趾(16)ではすでに仏教が盛んであった。  『高僧伝』によれば,康僧会は先祖は康居(17)の人であるが,代々天竺で生 活し,父親は商売のために交趾に移住。僧会は10歳余りの時に両親が亡く なり出家。当時,江南では仏の教えはまだ行われてはいなかった。康僧会 は仏道を江南の地に盛んにしようと考え,247年に建業に到着。そこで仏像 を設けて仏道修行に励んだ(18)。康僧会は孫権の知遇を得て,最初の仏教寺 院である建初寺を建立した(19)。康僧会の訳出した経典は『阿難念弥経』『鏡 面王経』『察微王経』『梵皇経』『小品経』『六度集経』『雑譬喩経』等である。

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『泥䈥経』の梵唄も伝えた。『安般守意経』『法鏡経』『道樹経』等の3種の経 典に注釈を施し,経の序文も作った。280年9月に康僧会は亡くなった(20)  しかし,康僧会が訳出したとされている経典のうち,現存しているもの は,『六度集経』および『安般守意経』と『法鏡経』の2つの序文のみであ る。『雑譬喩経』が『旧雑譬喩経』のことであるならば,これも現存してい る。『旧雑譬喩経』は,『大正蔵』には「康僧会訳」となっており,『旧雑譬 喩経』第45話と『六度集経』第21話「兎王本生」は同文である。

3 『六度集経』とは

 『六度集経』とは,『大正蔵』第3巻本縁部の最初におかれていて,全部で 51ページと1段。全8巻。『大正蔵』の目次には1から91まで番号がふって あり,それに沿って91話よりなるといわれている。また経名のように六度 に配されている。多くはジャータカやアヴァダーナであるが,仏伝が挿入さ れていたりもする。『大正蔵』には康僧会訳となっている。  『六度集経』について,フランスのシャヴァンヌは100年以上も前の1910 年に「『六度集経』は経典名が内容を示唆しているように,もともとは別個 の経典として独立していた経典の寄せ集めである。多分すべて,僧会本人 が,一方では経典を選び,一方では内容を簡潔にし,『六度集経』を編集し た。サンスクリット語で書かれた逐語的な原典が存在するという証拠はな い」(21)とし,すでにサンスクリット語原典の存在を疑っている。しかし日本 では長い間,『出三蔵記集』や『高僧伝』『開元釈教録』(22)などの記述をも とにインドで作られた原典があり,それを翻訳したものとされてきた。し かし,シャヴァンヌと同様に,『六度集経』の所伝の多くはすでに翻訳して ある小経を集めたものとした日本における最初の記述は[常盤大定1938 p. 586](23)であろう。さらに進んで[牧田諦亮1960]には「『六度集経』は訳本 ではなく,おそらく康僧会自身の著作であろう。」という記述もある。これ から20年以上たった[鎌田茂雄1982: 220‒221]における「菩 の六度につ いて六章がたてられ,各章のなかには多くの経典からの抜粋や,抄経が引用

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されて構成されている。翻訳経典というよりも一種の抄経である。また小経 はそのまま載せているらしい。」という記述あたりから,『六度集経』は原典 からの翻訳ではないとされるようになった。

4 康僧会の宗派

 『高僧伝』に「禅経を伝える者は比丘の僧会」(24)とある。また,『安般守意 経』に序をつけていること。さらに,「ベトナムの禅学は,3世紀初頭に康 僧会によって始まった。康僧会はベトナム禅学の開祖であるばかりでなく, 彼はまた中国に禅を広めた最初の人であると考えられる」(25)とあり,これら のことから,康僧会は禅宗の人と推定できるのではないか(26)

5 『六度集経』第25話の内容とあらすじ

(27)  まず『六度25』をAからIの9つにわける。A[菩 が亀を助ける]B [菩 の誓願]C[洪水と動物の報恩]D[仏道の奥義]E[四非常の教え] F[王の四非常の理解]G[布施のすすめ]H[国王の布施]I[太平の世 の実現]。   A菩 である富豪が,売られている鼈を不憫に思い,100万で買い取 り,傷の手当てをし,水に放ってやる。B菩 は鼈が泳ぎ去るのを見 て,喜び,「濁世となった時には,仏となって衆生を済度しよう」と誓 願する。C鼈がやってきて,洪水の到来を告げる。菩 はすぐに王に洪 水のことを告げた。王は王宮を高台へ移した。洪水がやってきて舟に乗 ると,蛇と狐が漂流していたので舟に乗せた。次に男が漂流しながら助 けを求めていた。鼈が「人間は信用できない」と助けることに反対した が,菩 は男を舟に乗せた。やがて,鼈に先導されて舟は豊かな土地に 着いた(28)。狐は穴の中から黄金100斤を見つけ菩 に渡した。これを 知った漂流人が半分ほしがるので,菩 は10斤渡した。強欲な漂流人 は,菩 が墳墓をあばき黄金をかすめとったと役人に訴え,菩 は拘禁 された。蛇と狐は一計を案じ,蛇は王宮に入り太子を噛んだ。蛇毒は猛

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毒で王子の命を助けることのできる者はいなかった。菩 が蛇に前もっ て渡されていた薬を飲ませると太子は即座に平癒した。王は漂流人を誅 殺し,菩 を大臣とした。D王は仏道の奥義を問う。E菩 は王に仏道 の奥義として四非常を説くと,F王は理解した。G布施をして民衆を済 うことを勧める。H王は大いに布施を行って,I太平の世が実現した。

6 『六度集経』第25話の原拠

(29)  『六度25』の原拠は Jātaka 73と考えられる。Jātaka は547話の本生譚を偈 の数によって1偈から7866偈を有するものまでを順番に並べてある。Jātaka 73は1偈である。この偈を覚えておけば,語り手は物語のすべてを即座に 思い出す。しかし Jātaka は『六度集経』より数世紀後の成立であり,康僧 会が目にした文献がどのような内容であったかは不明である。また『六度集 経』より以前に存在したさらなる原拠となるものを見出すのも困難である。 そのため,「語り手が同じ話を幾度も語ったとしても,共有される部分は同 じであるはずである」(30)として,今は Jātaka のあらすじを提示することとす る。なお,文中のCHIは『六度25』のCHIに相当する部分である。   Cドゥッタクマーラ王子は凶暴で残酷であった。大雨になった時,従者 たちはドゥッタクマーラを殺そうと川に沈めた。王子は流されながらも 1本の丸太を得た。蛇と鼠と鸚鵡も住まいを失って,同じ丸太に止まっ た。出家者であった菩 は彼らを岸に引き上げた。菩 は王子より弱っ ている蛇と鼠と鸚鵡を先に介抱した。後回しにされた王子は菩 を恨 み,王になってから菩 を捕らえて刑場に連れて行こうとした。途中, 菩 が詩を唱えたため,人々は真実を知り,王を殺して菩 を王位につ けた。新しい王は蛇から40億の金,鼠から30億の金をもらい,鸚鵡か ら赤米をもらう約束をした。H王は布施などの善行を行って,I王と動 物たちは仲良く暮らした(31) 説話の比較とは,まず最初に,似ている部分と異なる部分とを明らかにする ことである。Jātaka 73は全体的に『六度25』Cと重なることになる。する

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と,重なる部分Cが共有される部分ということになる。Jātaka 73と『六度 25』は,確かに共通のモチーフは同じであるが,Cの中でも,差異はかなり 大きい。  Jātaka 73は,悪人である王子が嫌われ懲らしめられるストーリーである。 しかし,『六度集経』は王へ向けた書であるのだから,王の身内である王子 が悪人であってはならない。悪い王子を登場させない物語である必要があっ た。

7 『六度集経』第25話への変容

 Jātaka 73には表れていない,『六度25』に新しく加えられた部分などを見 ていきたい。  [菩 が亀を助ける]  「助けた亀から洪水の到来を知らされ,亀に助けられる」というものは 『六度25』以外には『経律異相44』しか見当たらなかった(32)。しかし,『経 律異相44』に「阿難現変経に出づ」(33)とあるが現存はしていない(34)。この ように現存していないもののほうが現存しているものよりはるかに多いので あるから,同様のものがかなりあったはずである(35)  [菩 の誓願]   鼈が泳ぎ去るのを見て,菩 は誓願した,「泰山地獄の餓鬼や衆生たち, この世の牢獄に囚われた者たちが,速やかに苦難を免れることができ, 身命が安全になりますように。衆生の苦しみは計り知れない。私は彼ら のために,天となり地となろう。旱魃で苦しむ者のためには慈雨とな り,漂流する者のためには筏となり,飢餓の者には食物を,のどが渇い た者には飲み物を与え,寒さで苦しむ者には衣を与え,灼熱にあえぐ者 には涼風をおくり,病気の者に対して医者となり,暗黒の中では光明と なろう。もし,濁世の善悪がひっくり返った時にあっては,私はその中

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で,仏となり,かの多くの衆生を済度しよう」と(36)  ここには,人々の受ける苦難が列挙されている。まず,為政者が民衆の苦 難を具体的に理解しなければ,具体的な行動は起こせないであろう。また康 僧会のなかでは,仏が理想の人間であるため,誓願の内容が理想の王の姿と 重なる。  [洪水と動物の報恩]  この中で注目すべきは菩 が王に洪水の到来を知らせる場面である。「菩 は,翌朝早くに王宮の門にやってきて,鼈が言った通りのことを王に申し 上げた。王は住まいを低い所から高い所に移した」(37)。やはり,『六度集経』 は王に向けた書なのであるから,王が洪水で命を失い,自分たちだけが助か るというような不敬な状況はまずいので,王はいち早く高い所に移って,洪 水を逃れるという設定にしてある。  また,漂流男に黄金を要求された時の菩 の言「困窮している貧しい人々 に,平等に施したい。ところが,あなたはこれを独り占めしようとしてい る。何と偏ったことではないか」(38)。役人に捕まった時の言「慈しみ願はく は,衆生が速やかに8つの苦難から離れ,今現在の私と同じように,怨みに よる煩悩を生じることがないように」(39)などは,やはり理想の王とはどのよ うなものであるかを語っている。  また,最後の「ただちに菩 を讒言した男を誅殺し,国に大赦を発し,菩 を大臣とした」部分は,Jātaka 73では平民が王を殺して,菩 が国王に なっている。しかし『六度集経』は王に向けた経典であるから,王に成り代 わってはまずいので,大臣にとどめている。これらが自分の命を守るための 変改である。  [仏道の奥義]   王に問われて,菩 は仏道を心に懐いていると答える。さらに仏道の奥 義を訊ねられて,それは四非常であり,これを守っているものは,災禍

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に遭うことなく,大いなる神助が得られると説いた(40)  [四非常の教え]  『六度25』の訳文を①〈非常〉②〈苦〉③〈空〉④〈非身〉の4つに分け てみていく。  ここは重要なので全訳とする。 ①〈非常〉   菩 が言った,「天地の終末の時には,7つの太陽が並んで空に出て, 大海はすべて尽き果て,天地は高温で燃焼し,須弥山は崩壊する。天・ 人・鬼・龍も,衆生の身命も,瞬く間に燃え尽きてしまいます。かつて 栄えていたものが,今,衰えること,これが非常ということです。賢 者はこの無常という考え方を堅持し,『天地ですらこのような有様であ る。ましてや官位や爵位,国土が,どうして久しく存在し続けることが できようか』と考えます。このような考えを体得した者は,あまねき慈 悲の心を懐くのです」と。国王が言った,「天地ですら,このようであ る。ましてや国土はなおさらのことである。仏の説かれた〈非常〉の教 えを,私は心から信奉します」と(41)  古代中国において,太陽は1個だけではなかった。「戦国から漢代にかけ て,中国には『帝俊の妻である義和が10個の太陽を生む』『その10個の太陽 は本来天に(順番に)1個ずつ昇るところ,10個いっせいに並び出る』『そ こで羿という弓の名人が9個の太陽を射落とした』という神話が広く流布し ていた」(42)。複数の太陽が昇ると「厳しい旱害をもたらし」(43)衆生を苦しめ たという。類似の説話伝承は中国各地にみられ,「太陽の数は1個から999 個まで」(44)ある(45)。この中国古来の説話が挿入されていることからも,イ ンド文献を翻訳したものでないことは明らかである。  康僧会は中国人なら誰でも知っている説話から説き起こし,王が最も関心 をもっている「官位や爵位,国土」へつなげていき,それらが永遠でないこ とを知らしめている。

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②〈苦〉   菩 は,また言った,「苦の中で最も苦しいものを,王は是非とも知っ ておかれるべきです」と。国王が言った,「どうか明らかな誡めをお聞 かせください」と。菩 は言った,「衆生の霊妙なる識は微妙であり, 知覚することは難しいものです。これを,目で見ようとしても形がな く,これを耳で聞こうとしても音声がない。広大なことは天下に等し く,高いことは上から覆うものがないほどです。茫洋と広がり,それよ りも外側というものがないほど大きく,くるくると回って境目がありま せん。しかし,六欲に飢えるさまは,あたかも大海が数多くの河川の水 に飽くことがないのと同じで,そのために,しばしば地獄の炎熱を味わ い,あらゆる苦しみを受けることになる。あるものは餓鬼道に堕ち,溶 けた銅を口に流し込まれ,地獄で使役され,あるものは畜生道に堕ち, 屠られ解体され皮をはがれ,死ねばもう一度,刃を受け,その苦しみは 計りしれない。もし人間に生まれることができたとしても,母体に宿る こと10ヶ月で生まれる時に著しく締め付けられることは,あたかもひ もでわが身を締められるのと同様です。地上に生まれ落ちる際の苦痛 は,あたかも高い所から低い所に落ちるのと同様であり,外界の風に吹 かれる時には,体を炎で焼かれるかのようです。産湯で体を洗われる時 には,沸き立った銅を注がれるよりも苦痛がはなはだしく,香草を手に して体を磨かれる時には,あたかも刃で肌を削がれるがごとくです。こ のような諸々の苦痛は大変なもので,とても言葉では言い表せません。 老年に至れば,どの感覚器官も爛れ果て,髪は白く,歯は抜け落ち,内 も外も虚脱し消耗して,このことを思うと心が痛みます。ますます重病 に陥り,四大は離散しようとし,体中の関節がことごとく痛み,座るに も横になるにも人の手を借り,医者がやってきて,苦悩が加わる。もは や寿命が尽きるという時になると,あらゆる病がおしなべて起こり,筋 肉を断ち骨を砕き,体中の穴はすべて塞がってしまい,気息は絶え,霊 魂は身体から去る。霊魂の行方を尋ねて行ったところ,天界に昇ったと

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しても,天界にもまた貧富や貴賤という階層がある。計り知れないほど 長い寿命も,幸福が尽き果て罪業が訪れ,天界から下りて地獄道・餓鬼 道・畜生道に堕ちる。このようなことを〈苦〉というのです」と。国王 は言った,「仏の説かれた奥義とは素晴らしいものだ。私は心から信奉 します」と(46)  苦を生老病死の四苦の順序で説明し現世も前世も来世も天界も苦がついて まわると説く。 ③〈空〉   菩 はまた言った,「そもそも,この世に存在するものは必ず空である ことは,あたかも2本の木が互いに擦れあって火がおこることと同じで す。火はまた木を焼き,火と木はどちらも消え失せ,2つとも空なので す。大昔の王の宮殿や臣民は,今は消滅し,どこに行ってしまったの かわかりません。これもやはり空ということです」と。国王は言った, 「仏が説かれた空の奥義とは,素晴らしいものだ。私は心から信奉しま す」と(47)  ここにも,王宮や臣民という王に向けた言葉が挿入されている。 ④〈非身〉   菩 はまた言った,「そもそも,この身体は地水火風の四大によって作 られている。強いことは地に由来し,柔らかいことは水に由来し,熱は 火に由来し,息は風に由来する。寿命がなくなり,魂が身体を去ると, 四大は各々離ればなれとなり,身体として保つことができなくなる。で すから非身というのです」と(48)  [王の四非常の理解]   国王は「我が身ですら維持し続けることができないのだから,どうして 国土を保ち続けることができようか。」と言い,また「前の王たちは, 無上正真・最正覚の非常・苦・空・非身の教えを聞くことがなかったの は痛ましいことだ」とまで言う(49)

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 王は非常・苦・空・非身という四非常の教えを理解した。現実の王が『六 度集経』を手にしたことで,今までの王が受けられなかった仏の教えを受け ることのできる最初の稀有な王であると強調して,現実の受け手である王の プライドをくすぐる。  [布施のすすめ]   菩 は言った,「天地は無常です。誰が国を保ち続けることができま しょうか。国王はどうして王宮の宝庫を空にして,貧困や飢餓に苦しむ 人々に布施をなさらないのですか」と(50)  ここでも王に向けて,「国を保ち続けることはできない」として,具体的 に王宮の「蔵」を空にするまで布施することを勧めている。  [国王の布施]   国王はただちに諸々の宝庫を空にして,困窮した人々に布施し,また年 老いて独り身の男女と孤児については,彼らを親とさせ子とさせた。民 衆の服装はきらびやかで,貧富の差はなく,国中が喜びに満ち,人々は 笑顔を浮かべながら行きかい,天を仰ぎ讃嘆して言った,「菩 の神の ような徳化はここまで及んだのか」と。四方の人々は菩 の徳を讃嘆し た(51)  王が四非常という仏の教えを本当に理解し,「諸蔵」を空にするほどの布 施をするということは,真の王が王自身より民衆を優先する者であることを 意味する。その具体的な形が,「年老いて独り身の男女と孤児については, 彼らを親とさせ子とさせ」て孤独でさびしく暮らす者をなくすこと。さら に,よい衣服を身に着け,貧富の差もなく,人々が心から満ち足りて生きて いけるようにすることが王の務めであると説く。  [太平の世の実現]   遂に太平の世が実現した(52)

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 Hに説かれたことが実現されれば,必然的に太平の世が実現するのであ る。

8 漢訳経典の変容

 『六度集経』の成立は3世紀。『経律異相』は516年(53)。『諸経要集』は659 年に道世が『経律異相』に依拠して編纂(54)。『法恩珠林』も道世の編纂で 668年の成立(55)  ⑴ 『経律異相11』は『六度25』のABCDFHIからなっている。  『六度25』は『大正蔵』では98行あるが,『経律異相11』は59行である。 省略されているのは,Eの四非常に関する菩 の言とGの布施の勧めであ る。Eの場合,『経律異相』ではこれら「菩 説之」という『六度集経』に 存在しない一文をいれてすませている。  ⑵ 『諸経要集8』と『法恩珠林50』はほぼ同文でACIよりなる。『経 律異相』より16行短い43行である。省略されたのはEGに加え,Aの菩 の有する徳の部分やBのほとんどとDFH全文である。

9 おわりに

 以上からわかることは,『六度集経』第25話は Jātaka 73 Saccaṃkira-jātaka の古い形,あるいは Jātaka 73を翻訳した経典に王への提言をを加えて編纂 したものである。非常・苦・空・非身の一つひとつを中国古来の説話などを つかって分かりやすく説明し,この世のあらゆるものが無常であることを王 に理解させ,大布施を行わせる。四非常を理解させることが理想の政治,庶 民をおもいやる仁政を行うために必要な教育であった。そのために,『六度 集経』には王へのさまざまな工夫と配慮が見られる。しかし,『六度集経』第 25話を原拠あるいは典拠とした漢訳仏典は『六度集経』を単なる本生譚と とらえていて,道世の手になった『法恩珠林50』『諸経要集8』にいたると, 提言部分は全く削られてしまい,康僧会が目的とした「理想の為政者のあり 方」や「理想の為政者になるために心がけなければならない」部分がすべて

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省略されてしまっている。したがって,そこには康僧会の意図はまったく反 映されず,一般的な本生譚あるいはただの動物報恩説話になってしまった。 註 ⑴ [任継愈1992: 520][任継愈1985: 431] ⑵ [伊藤千賀子2013]を参照されたい。 ⑶ [伊藤千賀子2013: 993] ⑷ 対象とするものは過去物語のみとし,現在物語と結合部は対象としない。いわゆ るジャータカは現在物語・過去物語・結合部からなっている。現在物語とは,過去 世の話をするにいたった現在のこと。過去物語とは過去世においての話。結合部と は現在と過去のつながりを述べた部分。筆者はこれらを現在物語,過去物語,結合 部とよんでいるが,これらの呼称は定まっておらず,研究者によって異なる。 ⑸ [今昔物語集1999:506]によってリストアップした。このリストには『今昔物 語集』第5巻第19話も含まれているのだが,本稿は中国におけるものだけにしぼ り,『今昔物語集』については別の機会に論じたい。 ⑹ Jātaka 1990: 322‒327. ⑺ 大正蔵:no. 1253三15a16‒16a27. ⑻ 大正蔵:no. 2121五三57b‒58a8. ⑼ 大正蔵:no. 2123五四68a26‒68c11. ⑽ 大正蔵:no. 2122五三664b18‒665a2. ⑾ 大正蔵:no. 2121五三228b19‒b14. この所伝は『経律異相』に「阿難現変経に出 づ」となっている。[小野玄妙1965: 18]によれば,「阿難現変経」は6世紀にはす でに「欠」であった。しかも「偽経」であり,経名は「出三蔵記第4,法経録第 2,仁寿録第4,内典録第10,武周録第15,開元六第18,貞元録第28」にあがる。 ⑿ 『出三蔵記集序巻第六』(大正蔵:no. 2145五五42c29‒43c3)

⒀ 大正蔵 no. 2059五〇325a13‒326b13。『出三蔵記集』(大正蔵 no. 2145五五96a29‒ 97a16)。「高僧伝」をはじめとして10部ほどの経典に「康僧会伝」があるが,基本 的には『出三蔵記集』の引用である。 ⒁ 余生末蹤始能負薪。考妣殂落三師凋喪。仰瞻雲日悲無質受。眷言顧之潜然出涕。 宿祚未沒會見南陽韓林頴川皮業會稽陳慧。(『大安般守意経』大正蔵 no. 602十五 163b29‒163c3,『出三蔵記集』大正蔵 no. 2145五五43b24‒27)。訳文は[中嶋隆蔵 1997: 7‒8][大乗仏典1993: 46‒47]を参照。 ⒂ 江東未被而羸楼又重創興宝刹二十余所,度僧五百余人,訳経一十五巻。[Cuong

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Tu Nguyen 1997:『禅苑集英』20b]。『禅苑集英』は,「唐代から李朝末(1009‒1226) のベトナム仏教の歴史と僧伝を記述した書。編者不明。1715年の刊本が現存最古 のテキストである。」[Cuong Tu Nguyen 1997: 3‒5を参照] ⒃ 現在のベトナムの首都ハノイから北東に30キロほど離れた地で,ベトナムで仏 教が最初に伝わった地。交趾とルイロウは同じ場所。 ⒄ 「康居」は,漢・魏の時代の西域の国の名。中央アジアのトルコ系遊牧民で,シ ル河下流域からキルギス平原を中心とし,東は烏孫,西は奄蔡,南は大月氏,東南 は大宛国に接した。しかし康居の名称は西晋時代から史上に見えず,唐書には康 国をもってその後裔としている。[諸橋轍次1984:第4巻583b‒c][新村出2008:p. 931d, 937b]の「康居」は同一の記述であるが,「康国」を「中国南北朝および随・ 唐の史書に見える西域の一国で,今のサマルカンド地方」としている。 ⒅ 筆者が仏典を調べた範囲では,「仏像を設けた」のは,この康僧会が初めてであ る。 ⒆ 江南の初めての寺は建初寺ではない。[伊藤千賀子2015: 1036‒1031] ⒇ [高僧伝2010: 63‒70]を参照。

Comme son titre même l’indique, il est un recueil de sûtras primitivement indépendants les uns des autres. C’est, selon toute vraisemblance, Seng-houei lui même qui composa ce recueil en choisissant les textes et en les élaguant; il n’y a pas lieu de supposer l’existence d’un ouvrage sanscrit dont celui ̶ ci serait la version littérale. ‹Edouard Chavannes 1910: Vol. 1, p. 1›

大正蔵 no. 2154五五653b‒654a.

「道安の十法句義経に「昔,嚴調撰十慧章句,康僧会集六度要目」といふ。本経 は蓋し抄訳合集したものとなるべきか」。

大正蔵 no. 2059五〇324a17‒18, b3‒4.

Thiền học Việt Nam khởi đầu băng Khương Tăng vào đầu thế kỷ thứ ba. Không những Tăng Hội là sáng tổ của Thiền học Việt Nam, ông cũng còn phải được xem là ngời đầu tiên đem Thiền cho phát huy ở Trung Hoa nữa. [Nguyen Lang 1979: 40]

しかし,[任継愈1997: 428‒438][任継愈1992: 517‒529]は,「康僧会は禅という より,儒家と孟子の影響をうけている」という。 『六度集経』の漢文は大変難しく,書き下しにしても理解が困難であるため,訳 文を提示する。統一をとるために他の文献も原則として訳文とする。『六度集経』 の訳文はすべて[神塚淑子2008]あるいは神塚氏の研究会のレジメを引用あるい は参考とする。 [鎌田ほか編1998: 39‒40]に「『旧約聖書』創世記中のノアの方舟の物語を思わ せる」とあるが,「洪水発生の理由については,神がそれまでの人類の罪悪(たと

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えば神を敬わないなど)を怒り,罰として洪水を起こしたという形式と,このよう な倫理的動機を含まないものとに大別できる。前者が古代バビロニア神話から,ユ ダヤ,キリスト教の神話において顕著であるのに対し,東南アジアやオセアニアの 洪水神話の大部分は後者に入」[大林1995: 763]り,「神罰としての洪水というモ ティーフは決して一般的ではない。」[大林2006: 449]。「いわゆるノアの方舟の神 話的想像力とは一線を画す。」[中根2015: 45] 「原拠は根源説話の所在,出典は選者の直接の取材源」[今昔物語集1999: 477] [廣田収2014: 20] 南伝大蔵経:122‒130, 田辺2008: 10‒15を参照。 『経律異相44』は『六度集経』と基本構造は一致しているが,同文性がなく,他 の漢訳とは明らかに異なるものである。また,Jātaka 73と『六度25』の相違を考 えると,こちらの方が『六度25』にはるかに近い。内容はACからできている。 A慈羅という者が,売り物の鼈をあわれに思い,売り手が100万というところを80 万で買い取り,池に放してやった。C鼈は「大水がきたら自分を呼べ」と言った。 後日,洪水が起こった。慈羅は鼈を呼び,鼈の背に乗った。筏に乗って流れてきた 一人の女を助けて鼈に乗せた。さらに鼈売りの男を,鼈が反対したにもかかわらず に助け,さらにかなりの数の蛾を救った。やがて那竭国に着くと女はお礼に金をく れた。鼈売りはもともと鼈は自分のものだったのだから,もらった金をよこせと言 う。慈羅が拒否したので,鼈売りは王に慈羅を盗人と訴えた。王が官吏に慈羅を斬 るように命じた。官吏は言上書をしたためようとしたが,蛾が筆にまとわりついて 字を書けないようにした。王はこの出来事を聞いて,慈羅に尋ねて真実を知り,鼈 売りを誅殺した。昔有一人名慈羅。見人賣鼈心中憐之。向鼈啼泣。賣鼈者言。汝何 故向鼈啼乎。慈羅答我不忍見之。窮賣鼈者大笑。汝癡狂耳。答言。我念此鼈從君請 買。主言。鼈直百萬。慈羅便將之歸家。傾擧子息得八十萬。慈羅言。我錢盡此假求 無處。賣鼈者言。汝錢既盡可爲作田以畢錢直。慈羅言諾。以車載鼈投著池中。鼈便 能言語。方有大水君當上樹相呼。後日洪水大起人民死盡。慈羅上樹呼鼈。鼈便來 至。慈羅坐鼈背上。前去數里。見一女人在流槎上沮息欲死。便向慈羅乞䬁求載慈羅 啓鼈。此人可怜乞得載之。鼈言。往便復載之。前行十里。見賣鼈子流被槎上。從慈 羅欲求載之。鼈言我已重。恐必疲極不能自度。愼勿載之。慈羅言。可哀今是非當載 之。慈羅復載之。前行數十里。見數升蛾流被槎上。慈羅復報鼈載之。前至那竭國。 女子便以金謝慈羅。賣鼈人言。此鼈本是我賣之。汝今得金當持還我。慈羅不與。賣 鼈子便到那竭國王所云。慈羅偸人婦將之販。今持金銀來在此國中。那竭國王即召慈 羅使吏斬之。吏上言其事欲下筆書。蛾輒縁筆不成字。王聞之便問慈羅。汝有何功徳 乎。慈羅具答。王誅賣鼈者出阿難現變經[大正蔵:no. 2121五三228b19‒b14]。『大 正蔵』のわずか24行足らずにもかかわらず,他の漢訳と比べると完成度は高い。

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大正蔵 no. 2121五三228b14. [小野玄妙1965: 18] [百田弥栄子2004: 163‒165]には,亀ではなく,カエルや白髪の老人などの説話 が掲載されている。 覩其遊去。悲喜誓曰。太山餓鬼衆生之類。世主牢獄早獲免難。身安命全如爾 今也。稽首十方。叉手願曰。衆生擾擾。其苦無量。吾當爲天爲地。爲旱作潤。爲 漂作筏。飢食渇漿。寒衣熱涼。爲病作醫。爲冥作光。若有濁世顛倒之時。吾當於 中作佛度彼衆生矣。十方諸佛皆善其誓。讚曰善哉。必獲爾志。[大正蔵 no. 152三 15a22‒29] 明晨詣門如事啓王。王以菩 宿有善名。信用其言。遷下處高。[大正蔵 no. 152三 15b4‒6] 貧民困乏。吾欲等施。爾欲專之。不亦偏乎。[大正蔵 no. 152三15b25‒26] 慈願衆生早離八難莫有怨結如吾今也。[大正蔵 no. 152三15b28‒29] 並坐而曰。賢者説何書。懷何道。而爲二儀之仁。惠逮衆生乎。對曰。説佛經懷佛 道也。王曰。佛有要決。曰有之。佛説四非常。在之者。衆禍殄。景祐昌。[大正蔵 no. 152三15c9‒13] 曰乾坤終訖之時。七日竝列巨海都索。天地烔然。須彌崩壞。天人鬼龍。衆生身 命。霍然燋盡。前盛今衰。所謂非常矣。明士守無常之念。曰天地尚然。官爵國土。 焉得久存。得斯念者乃有普慈之志矣。王曰。天地尚然。豈況國土。佛説非常。我心 信哉。[大正蔵 no. 152三15c14‒20] [百田弥栄子1999: 81] [袁珂1993: 280] [百田弥栄子2004: 113] 筆者が多数の文献を読んだ限りでは,この射日神話と洪水神話はセットで語られ ることが多いという印象を受けた。 理家又曰。苦之尤苦者。王宜知之。王曰。願聞明誡。曰衆生識靈微妙難知。視 之無形。聽之無聲。弘也天下。高也無蓋。汪洋無表。輪轉無際。然飢渇于六欲。猶 海不足于衆流。以斯數更太山燒䉁諸毒衆苦。或爲餓鬼。洋銅沃口役作太山。或爲畜 生。屠割剥裂。死輙更刃。苦痛無量。若獲爲人。處胎十月。臨生急䝩。猶索絞身。 墮地之痛猶高隕下。爲風所吹若火燒己。温湯洗之甚沸銅自沃。手囿摩身猶刃自剥。 如斯諸痛甚苦難陳。年長之後。諸根竝熟。首白齒隕。内外虚耗。存之心悲。轉成重 病。四大欲離。節節皆痛。坐臥須人醫來加惱。命將欲終。諸風竝興。截筋碎骨。孔 竅都塞。息絶神逝尋行所之。若其昇天。天亦有貧富貴賤。延算之壽。盡罪來。下 入太山餓鬼畜生。斯謂之苦。王曰善哉。佛説苦要。我心信哉。[大正蔵 no. 152三 15c20‒16a8]

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理家又曰。夫有必空。猶若兩木相鑽生火。火還燒木。火木倶盡。二事皆空。往 古先王宮殿臣民。今者磨滅不覩所之。斯亦空也。王曰善哉。佛説空要。我心信哉。 [大正蔵 no. 152三15c20‒16a8] 理家又曰。夫身地水火風矣。強爲地。軟爲水。熱爲火。息爲風。命盡神去。四大 各離。無能保全。故云非身矣。[大正蔵 no. 152三16a8‒15] 王曰善哉。佛説非身。吾心信哉。身且不保。豈況國土乎。痛夫我先王。不聞無上 正眞最正覺非常苦空非身之教矣。[大正蔵 no. 152三16a15‒17] 理家曰。天地無常。誰能保國者乎。胡不空藏布施貧飢之人乎。[大正蔵 no. 152三 16a17‒19] 王曰善哉。明師之教快哉。即空諸藏而布施貧乏。鰥寡孤兒令之爲親爲子。民服炫 煌。貧富齊同。擧國欣欣。含笑且行。仰天歎曰。菩 神化乃至於茲乎。四方歎徳。 [大正蔵 no. 152三16a19‒23] 遂致太平。[大正蔵 no. 152三16a23] 鎌田1998: 624. 鎌田1998: 625. 鎌田1998: 626. 引用文献 伊藤千賀子2013.「『六度集経』の成立について─康僧会の動機と目的─」『印度学仏 教学研究』61(2),pp. 996‒991,東京:日本印度学仏教学会. 伊藤千賀子2014.「『六度集経』と他経典とのかかわり─康僧会の経典作成の思考方法 ─」『印度学仏教学研究』62(2),pp. 1029‒1024,東京:日本印度学仏教学会. 伊藤千賀子2015.「康僧会と建初寺─寺号の由来について─」『印度学仏教学研究』 63(2),pp. 1036‒1031,東京:日本印度学仏教学会. 袁珂1993.『中国の神話伝説』上,鈴木博訳,東京:青土社. 大林太良1995.「洪水神話」『日本大百科全書』8,p. 763,東京:小学館. 大林太良2006.「洪水神話」『世界大百科事典』9,p. 449,東京:平凡社. 小野玄妙1965.『仏書解説大辞典 第1巻』,編纂:小野玄妙,東京:大東出版社. 梶山雄一1983.「般若思想の生成」平川彰・梶山雄一・高崎直道編集,『講座・大乗仏 教』2「般若思想」pp. 1‒86,春秋社. 鎌田茂雄1982.『中国仏教史』第1巻「初伝期の仏教」,東京:東京大学出版会. 神塚淑子2008. 神塚淑子代表『六朝隋唐時代における仏教譬喩経類の受容と道教』(平 成18年度∼平成19年度科学研究費補助金(基盤研究C)研究成果報告書). 高僧伝2010. 吉川忠夫・船山徹訳,慧皎著,東京:岩波書店.

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今昔物語集1999.「今昔物語集一」『新日本古典文学大系』今野達校注,東京:岩波書 店. 大乗仏典1993.『大乗仏典〈中国・日本篇〉 第3巻』訳者:荒牧典俊・小南一郎,東 京:中央公論社. 田辺和子訳2008. 中村元監修『ジャータカ全集Ⅱ』,春秋社,初版:1987 常盤大定1938.『後漢より宋齊に至る訳経総録』,東京:東方文化学院東京研究所. 中嶋隆蔵1989.『高僧伝:仏陀とともに』中嶋隆蔵編訳,東京:講談社. 中嶋隆蔵1997.『出三蔵記集序巻訳注』中嶋隆蔵編,京都:平楽寺書店. 中根千絵2015.「洪水の記憶・伝承・説話」『説話・伝承学』23,pp. 45‒65,京都:説 話・伝承学会. 中村元1981.『仏教語大辞典』,東京:東京書籍. 新村出2008.『広辞苑』第6版,新村出編,東京:岩波書店. 任継愈1992.『定本中国仏教史1』任継愈主編,丘山新・小川隆・河野訓・中條道昭 訳,東京:柏書房,原本:『中国仏教史』第一巻,任継愈主編,北京:中国社会科 学出版社,1985. 任継愈1985.『中国仏教史』第一巻,任継愈主編,北京:中国社会科学出版社. 廣田収2014.『入門 説話比較の方法論』,東京:勉誠出版. 牧田諦亮1960.『アジア歴史事典』,東京:平凡社. 百田弥栄子1999.『中国神話の伝承曼荼羅』,東京:三弥井書店. 百田弥栄子2004.『中国神話の構造』,東京:三弥井書店. 諸橋轍次1984.『大漢和辞典』,東京:大修館書店,初版:1955.

Cuong Tu Nguyen 1997. Zen in Medieval Vietnam: A Study and Translation of the Thiề n Uyể n Tậ p Anh, Honolulu:University of Hawai‘i Press, c1997.

A Study and Translation of the Thiề n Uyể n Tậ p Anh a study and translation of the Thiền uyển tập anh

Edouard Chavannes 1910. Cing cents contes et apologues extraits du TripiTaka chinois et traduits en francais par Edouard Chavannes ; publies sous les auspices de la Societesiatique (Edouard Chavannes, Bibliotheque de l’Institut des hautes etudeschinoises, volume premier, Paris).

参照

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