Candrānanda
と
Bhāviveka
の年代再考
―「
śabda
推論」をめぐって―
何 歓 歓
2016年,東京大学で開催された日本印度学仏教学会第67回学術大会において, 「チャンドラーナンダとバーヴィヴェーカの年代に関する考察――『二指』説をめ ぐって――」と題して発表を行った1).その際,「チャンドラーナンダとバーヴィ ヴェーカの年代関係を確定するためには,『大乗掌珍論』『般若灯論』他の多くの 関連文献を精査することも併せて求められるであろう.しかしながら,この点に ついての考察は今後の課題としたい.」と話した.これを受けて,本稿では,『大 乗掌珍論』をめぐって,特に「śabda推論」に関する文献を考察し,Candrānanda とBhāvivekaの年代関係をさらに明確にしたい.1.
Bhāviveka
が紹介した
Vaiśeṣikaの「
śabda推論」
『大乗掌珍論』(略称『掌珍論』)は,唐の玄奘(600/602–664)によって翻訳され, 5–6世紀のBhāvivekaが,『中観心論』『般若灯論』を含む主要三著作の中では最 後に著したと推定される作品である.『掌珍論』は総計6回,Vaiśeṣikaの学説を紹 介するが,その中の3回は,ここで「śabda推論」と呼ぶものである.すなわち, (1)又勝論者立「聲無常,所作性故.」(T30, no. 1578: 269) また,Vaiśeṣika学者は「音声は無常である.作られたものであるから.」と立てる. (2)如勝論者立「聲無常,所作性故.」(T30, no. 1578: 271) Vaiśeṣika学者が「音声は無常である.作られたものであるから.」と立てるように. (3)如勝論者説「聲無常,所作性故,譬如瓶等.」(T30, no. 1578: 271) Vaiśeṣika学者が「音声は無常である.作られたものであるから.譬えば瓶のように.」と説 くように. とある.上記3か所の「śabda推論」のサンスクリット語テキストは以下のよう に推定される.
(3)=*anityaḥ śabdaḥ kāryatvād (or kṛtakatvād) ghaṭavat // 『掌珍論』の作者の意図は,Vaiśeṣika学者の「śabda推論」を紹介した上で,そ れに直接批判を加えることなく2),むしろBhāviveka自身の「掌珍比量」を裏づ けるために,当時よく知られていた「śabda推論」を用いて,「掌珍比量」の理由 (hetu)と喩例(dṛṣṭānta)の妥当性を主張することにあった.すなわち, 真性有爲空,如幻緣生故; 無爲無有實,不起似空花.(T30, no. 1578: 269) 真実において,有爲は空である.幻のように,縁生であるから. 〔真実において〕無為は実有でない.起きない〔のであるから〕.空華のように. という二つの推論によって構成される「掌珍比量」である.「掌珍比量」はDignāga (480–540頃)のtrairūpya(因の三相)論の規則を基礎にしながら,Bhāviveka自らの 重要なイノベーション,すなわち命題の制限(*pratijñā-viśeṣaṇa)―「真性」(真実にお いて,*tattvataḥ)―を詩頌の冒頭に置くところに特色をもつ3).
それゆえ,ここでBhāvivekaがVaiśeṣika学者による「śabda推論」を取り上げ
るのは,Bhāviveka自身への反論を斥けることを目的として,(1)と(2)は「掌
珍比量」の理由(hetu)がasiddha(anyatara-asiddha / āśraya-asiddha)であるという論理
的な過失を伴わないことを例証するためである.一方また,(3)について
Bhāvivekaは,採用された喩例(dṛṣtānta)は適切であると付言した4).ちなみに
Dignāgaもまた,trairūpyaを説明する際に,この「śabda推論」を,典型例として
採用した.(本稿第3節を参照)
2.
Vaiśeṣika
に説かれた「
śabda推論」
Vaiśeṣika-sūtraには,śabdaに関する議論が少なく,śabdaは耳によって把握さ れる対象であり,属性(guṇa)であって,実体(dravya)あるいは運動(karman)で はないとされる.
vs-c, 2.2.24: śrotragrahaṇo yo rthaḥ sa śabdaḥ // (=vs-u, 2.2.21)
vs-c, 2.2.27: ekadravyavattvān na dravyam // (vs-u, 2.2.23: ekadravyatvān na dravyam //)
vs-c, 2.2.28: acākṣuṣatvān na karma // (vs-u, 2.2.24: nāpi karmācākṣuṣatvāt //)
などの偈頌が語るとおりである.
Vaiśeṣika-sūtraに対する現存する最古の注釈書として知られるCandrānandavṛtti
ぞれに対する注釈箇所において集中的にśabdaを議論する.この中のvs-c, 2.2.32: kāryatvāt // は『掌珍論』に紹介されたśabda説に近いと考えられるが,当該偈に 対する注釈は以下のとおりである.
c ad vs, 2.2.32: kāryaś ca śabdaḥ saṃyogādibhyaḥ utpatteḥ / tasmād anityaḥ /
また,音声は結果である.なぜなら,〔音声は,例えば太鼓と撥との〕結合などにより生 じるのだから.それゆえ,〔音声は〕無常である. 金倉圓照,野沢正信,および宮元啓一は,kāryatvātを,ほぼ一致して「結果で あるから」と訳出する.これに対して,A. Thakurは「〔音声は〕作られるから 〔無常である〕」と翻訳する5).いずれの翻訳も可能であるが,後者は玄奘訳の 「所作性故」に近い.
し か し な が ら,kāryatvātと い う 詩 句 はVaiśeṣika派 のŚaṅkaramiśraが 著 し た
Upaskāra,およびBhaṭṭavādīndraが著したBhāṣyaなどのテキストには見られな
い6).それゆえ,vs注釈書の現況に照らすがぎり,kāryatvātという詩句は,
Candrānandavṛttiに独特のものと考えられる.
ところで,Padārthadharmasaṃgrahaは,「耳によって把握されるもの」などの
śabdaの特徴を述べるとともに,誤った理由(疑似理由hetvābhāsa)の中の anyatara-asiddhaを解説する際に,「śabda推論」を例として挙げている7).すなわち,
anyatarāsiddho yathā nityaḥ śabdaḥ kāryatvād iti //
「随一不成」とは,「音声は無常である.作られるものであるから.」というようなものである8).
という.さらに,「音声は無常である」と主張するVaiśeṣika派に対する反論者,
すなわち「音声は常住である」(nityaḥ śabdaḥ)と説く学派は,Vaiśeṣika-sūtraと
CandrānandavṛttiおよびPadārthadharmasaṃgrahaでは特定されていない.しかし,
vs-c, 2.2.34–43,特にc ad vs, 2.2.35に示されるabhivyaktiという術語により,反 論者はśabdābhivyaktivādin(〔常住な〕音声が顕現すると主張する論者)であると考え られる.すなわち,それは,
c ad vs, 2.2.35: nityatvenābhivyaktau śabdo nyena yajñe prayukto nānyena prayujyeta darbhādivad yātayāmatvādidoṣāt / tasmād anityaḥ /
〔音声が〕常住のものとして顕現するならば,音声は,クシャ草などのように,祭式にお いてある特定の人に用いられたのなら,別の人に用いられることはないであろう.使い古
として,批判的に言及される「音声は顕現する」と主張するミーマーンサー学者
(Mīmāṃsaka)に相当するśabdābhivyaktivādinである.
このように,Vaiśeṣika-sūtraおよびCandrānandavṛttiでは,śabdaは無常であり,
その理由の一つがkāryatvaであると考えられている.しかしながら,前述の Padārthadharmasaṃgrahaとその注釈では,「作られるものであること」(kāryatva) は一部の人々にśabdaの属性として認められているが,他の人々にはkāryatvaは 音声の性質として認知されておらず,それゆえ誤った理由である.すなわち,こ の ば あ い 反 論 者 がśabdābhivyaktivādinで あ る な ら,kāryatvaと い う 理 由 は anyatara-asiddha(一方の側,すなわち反論者側にとって理由概念が主語の性質として不成 立)という過失を持つため,「音声は無常である」という命題を証明できない. ちなみに,Bhāvivekaが導入した喩例「譬えば瓶のように」については,以上 のVaiśeṣika派の諸著作には見られない. 3.
Bhāviveka
以前の仏教徒が紹介した「
śabda推論」
仏教文献の中で,最も有名な「śabda推論」は,おそらくDignāgaがNyāyamukha
とPramāṇasamuccaya[vṛtti]などで説く「九句因」(phyogs [kyi] chos dgu)の典型例
である.つまり,trairūpya論を説明するため,例として「śabda推論」を採用し,
その理由(hetu)が有効か無効かを分析し,合計9つの異なる種類の理由に分類す
る.その中,正しい理由(hetu)として知られる2番目の例が,「音声は無常であ
る.作られたものであるから.譬えば瓶のように.」である.そこでは,反論者 を特定することなく,kāryatvāt / kṛtakatvātを理由(hetu)として「śabda推論」を 適用し,「因の三相」の観点から理由概念の有効性を検証し,正しい理由例とし ての「三支作法」(tryavayavaṃ vākyam)であることを示している.
さて,Dignāgaの弟子であるŚaṅkarasvāminが著した『因明入正理論』(Nyāyapraveśa)
では,4つの「不成立」(asiddha)の理由(hetu)の1つとしてanyatara-asiddhaを説明し,
kṛtakatvād iti śabdābhivyaktivādinaṃ praty anyatarāsiddhaḥ /10)(漢訳T32, no. 1630: 11参照) 「作られたものであるから」という〔理由〕は,śabdābhivyaktivādinに対しては,「随一不
成」である.
と言う.ここに示されるように,śabdābhivyaktivādinすなわち,〔常住な〕音声が
顕現すると主張するミーマーンサー学者にとっては,「九句因」の2番目の例と
anyatarāsiddho yathā nityaḥ śabdaḥ kāryatvād iti とも合致する. ところでまた,基(632–682)は『因明入正理論疏』の中で,二種類の音声があ ると指摘する.すなわち, 若聲生論,本無今生,是所作性,非勤勇顯.若聲顯論,本有今顯,勤勇顯發,非所作性. (T44, no. 1840: 124) もしも声は生じるという論であるなら,〔声は〕本来なくて,今生じる.それは作られた ものであり,努力によって顕現するものではない.もしも声は顕現するという論であるな ら,〔声は〕元来あり,今顕現する.努力によって顕れ出るものであり,作られたもので ない. という.ここでは,「声」(=音声)をめぐって,*Śabdopapattivādinと *Śabdābhivyaktivādin とによる二種類の立論が言及され,Candrānandavṛttiに現れる二種類のśabdaを想 起させる.すなわち,一つは太鼓と撥の結合,あるいはまた布と断片の分離から 生まれた音声(c ad vs, 2.2.36)である.これに対して,第二の種類の音声は,祭式 において使用される音声(c ad vs, 2.2.35)で,常住である言葉で,これは作られた ものでなく,*Śabdābhivyaktivādinによれば,顕現するものとされる.
要するに,「作られたものであること」(kāryatva / kṛtakatva)という理由(hetu)は,
śabdaが作られて生じたものであることに同意し(Śabdopapattivādin),かつまた śabdaの常住性に同意しない一部の反対論者に対してのみ有効である.しかしな がら,もしも反対論者がśabdaは常住で顕現するものと主張する論者であるなら (Śabdābhivyaktivādin),「作られたものであること」という理由はanyatara-asiddhaの 過失を持ち,誤った理由(hetvābhāsa)となる. 以上の考察により,Dignāgaと彼の後継者の著作は,trairūpya論を解説するた めに,「śabda推論」を広く用い,その中で,anyatara-asiddhaの過失例を示すため にMīmāṃsā派のŚabdābhivyaktivādin(聲顯論者)を反論者に想定する. さらにまた,漢訳の仏教文献には,Asaṅga(4世紀頃)やĀryadeva(3世紀頃)の 著作の中に同様の推論が現れる.呂澂と宇井伯寿という中国と日本の研究者がほ ぼ同時に(独立して)指摘したように,Asaṅgaはおそらくtrairūpya論を解説した 最初のインド仏教徒と見ることができよう11).Trairūpya論をさらに解説するた めに,Asaṅgaは『順中論』において,「śabda推論」の例を挙げる.すなわち, 如: 聲無常,以造作故,因緣壞故,作已生故,如是等故,若法造作皆是無常,譬如瓶等. (T30, no. 1565: 42) 例えば,音声は無常である.造作されるのであるから,縁(原因)に因って壊れるから,
作りおわって生じるのだから,ということなどの理由からである.もしも法が造作される なら,みな無常である.譬えば瓶などのように. という.厳密に言えば,単一のtrairūpya推論には1つの理由(hetu)しか含まれな いので,3つの理由それぞれによって,3つの推論が構成されることになる.つ まり,(1)造作されるから,(2)縁(原因)に因って壊れるから,(3)作りおわっ て生じるのだから,という3つの理由によってである.こののち,Dignāgaと
ŚaṅkarasvāminとBhāvivekaは,代表的なhetuとして,最初の「造作されること」
(*abhisaṃskṛtatva)に近似する「作られたものであること」(*kṛtakatva)という理由 を採用したものと考えられる.
この他に注目される文献は,Āryadevaの『百字論』である.同様に「śabda推
論」を保持するが,「五支」(pañcāvayava)の形で表している(T30, no. 1572: 251). このように,Bhāviveka以前の仏教学者はいずれも,「śabda推論」をVaiśeṣika派 の推論とは見なしていないことが分かる. 4.
結語
本 稿 で は,Bhāvivekaが 著 し た『掌 珍 論』 に 紹 介 さ れ たVaiśeṣika派 に よ る 「śabda推論」に着目することにより,サンスクリット語文献とともに,関連する 漢訳資料を考察した.以上の考察は,CandrānandaとBhāvivekaの年代を考察す る上でも,示唆するところがあると考えられる.Bhāvivekaが『掌珍論』において3回引用する「śabda推論」の理由(hetu),す
なわち「音声は無常である」ことを証明する正しい理由として *kāryatvāt (/
*kṛtakatvāt)を用いるのは,Candrānandavṛtti以外の古典期のVaiśeṣika文献には確 認されない.
これに対して,Padārthadharmasaṃgrahaとその注釈書では一部の反論者,すな
わちŚabdābhivyaktivādin(聲顯論者)はkāryatvaがśabdaの属性とは認めず,それ ゆえ誤った理由(hetvābhāsa)の一例(anyatara-asiddha,随一不成)として挙げている. この点は,BhāvivekaとCandrānandaの年代に関する相互関係について,昨年の 拙論(何 [2017])の以下のような結論を補強するであろう.Candrānandaの活動 時代は,Dignāgaのそれより前,Bhāvivekaのそれより後,すなわち,500–550年 頃と考えられる,という結論である. 『掌珍論』を書いたBhāvivekaの目的は,trairūpya(因の三相)説に従って,「勝 義空」を論理的に証明することにあった.このばあい推論の形式,ならびに
trairūpyaを満たす条件は,彼の論説にとって極めて重要である.『掌珍論』に紹 介されたVaiśeṣika派の「śabda推論」は,「掌珍比量」を裏づけるために援用され た典型例であり,Bhāvivekaの推論において重要な役割を果たすことになった. 1) 拙 論(何[2017]) 参 照. 2)Bhāvivekaの 著 作 と し て 知 ら れ る『論 理 炎 論』 (Tarkajvālā)の第7章「ヴァイシェーシカ派の真実〔説〕の確定」は,当該学説を紹介した 上で,批判を加える.何(2013: 536–601)参照. 3)He (2014)参照. 4)『掌 珍論』(T30, no. 1578: 269–271)参照. 5)金倉(1971: 61)「果であることから」. Nozawa(1993: 110): Because of being an effect. 宮元(2009: 87)「〔音声は〕結果であるか ら〔無常である〕」.Thakur (2003: 53): Since (sound) is produced (it cannot be eternal). 6)Bronkhorst and Ramseier (1994: 51)参照. 7)Bronkhorst and Ramseier (1994: 51)と 金倉(1971: 186)参照. 8)NyāyakandalīとKiraṇāvalīには,少し違いがある.すなわ ち,kāryatvād anityaḥ śabdaḥ //; śabdo nityaḥ kāryatvāt // 9)宮元(2009: 89)参照. 10)Tachikawa (1971: 141)参照. 11)『順中論』:「復以何者是因三相? 朋中之法, 相對朋無,復自朋成 .」(T30, no. 1565: 42); 吕(1926: 27)と宇井(1929: 429–452)参照. 〈略号〉 c ad vs: Candrānandavṛttiの注釈部分,偈頌の番号はJambuvijaya (1961)に従う. vs-c: Candrānandavṛttiの偈頌部分,偈頌の番号はJambuvijaya (1961)に従う. vs-u: Upaskāraの偈頌部分,偈頌の番号はSinha (1923)に従う. 〈参考文献〉
Bronkhorst, Johannes, and Yves Ramseier. 1994. Word Index to the Praśastapādabhāṣya. Delhi:
Mo-tilal Banarsidass Publishers. Nozawa, Masanobu. 1993. The Vaiśeṣikasūtra with Candrānanda s
Commentary (1). 『沼津工業高等専門学校研究報告』27: 97–116. He Huanhuan. 2014. Xuanzang, Bhāviveka and Dignāga: On the Restriction of the Thesis (*pratijñāviśeṣaṇa). IBK 62 (3): 1230–1235. Jambuvijaya, ed. 1961. Vaiśeṣikasūtra of Kaṇāda: With the Commentary of Candrānanda. Baroda: Oriental Institute. Tachikawa, Musashi. 1971. A Sixth-century Manual of Indian Logic. Journal of Indian Philosophy 1: 111–145. Sinha, N. 1923. The Vaiśeṣika Sūtras of Kaṇāda. Allahabad: Pāṇini Office. Thakur, Anantalal, ed. 2003. Origin and Development of the Vaiśeṣika System. Delhi: Motilal Banarsidass. 何歓歓 2017 「チャンドラーナンダと バーヴィヴェーカの年代に関する考察― 二指 説をめぐって― 『印度学仏教学研究』 65(2):775–769. 金倉円照 1971 『インドの自然哲学』平楽寺書店. 宮元啓一 2009 『ヴァイシェーシカ·スートラ』臨川書店. 宇井伯寿 1929 『印度哲学研究第 五』甲子社書房. 何欢欢 2013 『〈中观心论〉及其古注〈思择焰〉研究』北京: 中国 社会科学出版社. 呂澂 1926 『因明綱要』上海: 商務印書館(復刻版,北京: 中華書 局,2006).
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