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Vol.67 , No.2(2019)083水野 和彦「パーリ論書における疑――定と慧の観点から――」

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Academic year: 2021

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(1)

パーリ論書における疑

―定と慧の観点から―

水 野 和 彦

はじめに 本稿では,パーリ論書における「疑」(vicikicchā1)またはkaṅkhā)に ついて検討する.疑は初期経典から,見道で断惑される煩悩法(三結)の一 つとして,南北論書でも引き継がれる教理である.筆者は,拙稿(水野和彦 2017)において,『婆沙論』を中心に有部論書における vicikitsā(vicikicchāの梵 語)の記述を調査し,それらの真理観において,「四聖諦」に基づくものと, 「縁起」とするものと,二系統ある可能性を考察した2) 本稿は,その問題についてパーリ論書における記述から,どのように疑を断じ てゆくか考察する.今回中心に引用する論書は,Visuddhimagga(以下Vm)であ り,戒定慧を骨格として説かれ,パーリアビダンマの綱要書といえる.筆者は, このことからパーリ論書の「疑」の論述について,①「定」を妨げる疑,そして ②「慧」を妨げる疑と,類別できるのではないか,そしてこれは有部論書と比較 して,真理に至る過程において,より実践的な説明を挿入し,修行マニュアルと しての性格に由来するのではないかと考える. 1.Vm による疑の定義 最初に Vm による疑の定義は,「八種の疑3)

aṭṭhavidhā kaṅkhāから引用する.これは,Dhammasaṅgaṇi(以下DhS)からの 引用である.DhS4)によると①大師sattha,②法dhamma,③僧saṅgha

④学(sikkhā),⑤前際(pubbanta),⑥後際(aparanta),⑦前後際(pubbantāparanta), ⑧相依性縁起法(idappaccyatā paṭiccasamuppanna)以上8つに対する疑を挙げる. これらは概ね,三宝,(三)学,三世の縁起と,3つに大きく分類できる. 一方Vmの底本とされる『解脱道論』では,①苦,②集,③滅,④道,⑤仏, ⑥法,⑦僧,⑧初辺,⑨後辺,⑩初後辺,⑪因縁の起こす所の法,以上これら 11項目への疑とある5)Vmにおいて『解脱道論』からの大きな転換点は,「四聖 諦」に対する疑を削除し,「三学」への疑を付け加えたことである. 四諦への疑については,有部論書のvicikitsāの定義で,しばしばみられる記述

(2)

であり,例えば『婆沙論』では「諦の決定を猶予する6)」とある.「諦」すなわち

苦集滅道(諦)を決定することが,見道位に至る有部の修行道の中心的な修習に

位置付けられている.『解脱道論』では,こうした四諦への疑という点で共通点

を見出ことができるが,Vmになると三学や三世の縁起論などに,書き換えられ

ている,これは馬場2008の研究で明らかにされていることの片鱗であろう.

2.vicikicchā の語義解釈 次に vicikicchā について,Vm の著者 Buddhaghoṣa は,

Suttanipāta注,Paramatthajotika において,その語義解釈7)をしている.ここで は以下のように解釈している. 「(智慧は)あらゆる煩悩の病を鎮めるので,智慧によって癒された(cikicchita)と 言われる.その智慧によって癒されることから離れた(vigta),或いは,その智慧 によって癒されることからこれが離れた,というのが(疑いvicikicchita)である8).」 とある.智慧がない,いわゆる「無明」を一種の病気に見立てて,その治療とし ての「智慧」である.vicikicchāは,真理に至っていない意味での「無明」であ り,四諦や縁起などの真理を見る「慧」によって,治癒されるということであ る.この解釈から「三学」の「慧」から離れた状態が,vicikicchāといえよう. このことから疑は慧の障害といえる. 3.疑の行相について ここでは vicikicchā の行相について,(1)DhS,(2) 『解脱道論』,(3)Vmから,それぞれ抜粋し,次のように整理できる.(行 相の現代語訳については,複数の翻訳例が検討材料となるので,そのまま引用した) (1)Dhammasaṅgaṇi9)

惑(kaṅkhā), 疑 惑(kaṅkhāyanā), 巳 疑 惑 性(kaṅkhāyitattaṃ), 猶 預(vimati), 疑

(vicikicchā), 二 分(dveḷhakaṃ), 二 路(dvedhāpatha), 躊 躇(saṃsaya), 非 一 向 執

(anekaṃsaggāha),懐疑(āsappanā),遅疑(parisappanā),不没入(apariyogāhanā),心の 硬心(thambhitattaṃ cittassa),留心意(manovilekha).

(2)『解脱道論』10)

不一に取執,二道に惑う,不正作意.

(3)Visuddhimagga11)

治癒すべきことなき(vigatā cikicchā),疑念(saṃsaya),動揺(kampana),不決定

(anicchaya),定見なき(anekaṃsagāha),不如理の作意(ayonisomanasikāra),行道の障 礙(paṭipattiantarāyakarā).

以上のように,三つの論書で説明される疑の特徴を列挙した.猶預,二分,二

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対義として,これらは慧の獲得に対する妨げといえよう.またayonisomanasikāra (不如理作意,非理作意とも)については,水野弘元 1964によると,心所法の作意 の一部とも,また別立てする議論もある12).もし一部とするなら,疑は作意に含 まれることになり,作意は慧の前段階である13)ことから,やはり慧に至るまで の障害ともいえる. これら疑の行相の語句を解釈すると,そのうちの多くが「未至の慧」について の表現が並ぶ.それに対して,一部「心の硬心」や「動揺」など,心を統一する 「定」の対義の様相を表しているものも見られる.そしてVmの「行道の障礙」 から,行道とは仏道修行であるので,慧に限定することなく,定と慧の妨げとし ての解釈も可能である.

4.五蓋の論説より また vicikicchā は,五蓋(pañca nīvaraṇāni)の煩悩法の一

つに挙げられる.五蓋とは,禅などの善心を生じることを抑止するから蓋

であり,あるいは慧の眼の障害という意味で蓋である14).つまりパーリ論

書では不善法であり,定慧を妨げる論説である.蓋は五種の煩悩法からな るが,①貪欲(kāmachanda),②瞋恚(vyāpāda),③懈怠睡眠(thīnamiddha,身心を くらく,沈みこませ積極的にはたらかせないこと,眠りこませること),④掉挙悪作 (uddhacca-kukkucca心がそわそわして浮動したり,逆に憂悩し後悔したりすること),⑤ 疑,以上からなる.そして,特に⑤の疑 vicikicchā について,『解脱道論』 の五蓋説の中において,「四種の疑」として,定と慧を区別して,それぞ れの観点からその障礙について述べている15) 疑者心執不一.有四種疑.一者奢摩他難.二者毘婆舍那難.三者二倶難.四者於諸非難. 於是具足爲得奢摩他.①※或於此疑.或於身疑.我堪得寂寂.爲不得寂寂.若於彼成疑. 此謂奢摩他難.②或於四聖諦.或於三世疑.此謂毘婆舍那難.③或於佛法僧疑.此二倶 難.④或於國城道路.或於男女名姓.是謂非法難.於此經中疑爲寂寂難.是可取.(『解脱 道論』(T32 416b21–28)※文中①②…,下線は筆者による) その四種とは,①奢摩他の難,②毘婆舍那の難,③二倶の難,④諸非(法), と以上四つに区分している.①「寂寂」という語句は,『解脱道論』にしばしばみ られるが,禅定のことである.修行者自身が,寂寂(定に入ること)に耐えうる か,あるいは寂寂に入ることができるのか等,禅定修行そのものに迷うことを 「奢摩他の難」としている.②「毘婆舍那の難」とは真理(四諦や縁起)を見るに 至らないこと.③仏法僧を疑うことは,「定慧の二倶の難」となる.三宝に帰せ られるこれらを疑うことは,仏,僧団も教理経典を疑うことであり,仏道を信頼

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していないことから,定慧両方の障害となる.④「諸非(法)の難」とは,道に 迷う,名前が思い出せない等仏道修行とは関係ない「無記」の迷いに関する言及 である. 仏道修行の三学とは,戒を持して,定を修して,慧が生ずると解される修行項 目である.したがって階梯段階を説明するとき,定とは慧の決定までの猶予であ る,慧の付随的な修行として解釈されることもある.実際,論書では中途を省略 し,結論の列挙に終始する傾向がある.しかしこうして,定の修習にもウェイト を置き,定慧を区別することは,論書的より実践マニュアル的といえよう.既に 『解脱道論』において定慧が論議され,Vmでは階梯の柱として,継承採用され ていったのである. さらに五蓋についてVmの記述を引用する.4章「地遍の解釈」において,初 禅に入る段階において五(蓋)支を捨離し,五(禅)支(jhānaṅga)を具備すると述 べている16).五禅支とは,禅定における心所法であるが,三昧samādhi,喜

(pīti)尋(vitakka),楽(sukha),伺(vicāra)からなる.これら蓋と禅支は,対治

(paṭipakkha)関係である.そして各々,蓋(禅入の障害としての相),五禅支の対応 について,Vmでは次のように記述されている17) ①貪欲(一境に等持しない)…三昧を対治とする ②瞋恚(所縁に衝撃しつつある)…喜を対治とする ③懈怠睡眠(不活発にして不適業なり)…尋を対治とする ④掉挙悪作(止息なく迷乱する)…楽を対治とする ⑤疑(禅への到達を成ぜしむる行道に至らず)…伺を対治とする このように五蓋説の議論は,禅定との対応を詳説するものといえよう. 5.七清浄と「度疑清浄」 パーリ論書において疑の煩悩法が,見道位に 至ってどのように解消されるのか.その慧を獲得して疑を越度(vitaraṇa)す る議論は,Vm の19章「度疑清浄」において説かれている. Vmにおける見道位の階梯は,戒定慧に基づく「七清浄」であり18),「度疑清 浄」は,七つのうち四番目の段階である.七清浄は,戒・心・慧の三学に基づく 清浄が説かれるが,疑を越えるのは「慧」であり,この章も慧蘊で説かれてい る.この段階の修習の概要は,縁の把握によって集諦に帰せられるような因の究 明,そして因を正しく知ることである.具体的には十二支縁起のうち,名色の原 因結果関係を正しく覚知し,それによって,諸法の善悪因果を疑ったり,否定し たりすることを除くことである19).つまり有部アビダルマ的にいえば,疑や邪

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見の煩悩を断ずることであり,業因果を正しく見る慧を獲得することである. この章における疑に対する直接的な記述は,「十六種の疑惑」についての記述 がある.これは過去未来現在の因果に対する疑惑20)について,それぞれ過去に5 つ,未来に5つ,そして現在に6つ列挙している.さらに,本稿の最初に引用し た「師に関して疑う」等のDhSで定義された「八種の疑」,また「六十二悪見」 についても,悉く遮断鎮伏させられ,三世に関する疑惑を越度するのである.慧 の獲得と引換に,ここで完全に真理に対する疑の煩悩法を断絶することになる. 小結 本稿では,『解脱道論』や Vm を中心としたパーリ論書の疑の記述 について検討した.疑の解消については「五蓋説」における「定」に入る 際,そして度疑清浄における「慧」の獲得に至る際の二通りに分けられ る.そして『解脱道論』からすでに,定を慧の付随的な段階に落とし込ま ず,定慧対等の修習として議論されていることが分かった. しかし,定慧の関係に基づく修行道が,『解脱道論』とVmの間の真理観の変 遷とどのように関係するかについては,これからの課題である.四諦のうち滅諦 (涅槃)は証悟してから初めて覚知するものである.それを,択滅を体得する以前 に,繰り返し修習想念することにどのような意味があるのか21).今回は疑とい うキーワードで検討したが,また別の切り口で定から慧,そして縁起を覚知する 過程を引き続き調査してゆきたい. 1)vicikicchā , kaṅkhā の両語とも「疑」の原語であるが,厳密な使い分けの議論は見当 たらない.最初に引用するDhsのテキストの如く,並列して意味を強調している.一方, 有部論書における,煩悩や心所のdharmaの列挙の中では,vicikitsā の使用頻度が高い. それに対してパーリ論書では,kānkṣā(kaṅkhā)も,頻出するので両者とも,「疑」の原 語として引用対象とした.  2)筆者の問題設定のテーマは,馬場紀寿2008における 論考によるものが大きい.  3)Visuddhimagga p. 604.   4)Dhammasaṅgaṇi p. 183.    5)『解 脱 道 論』(T32 457c15–23).   6)『阿 毘 達 磨 大 毘 婆 沙 論』(T27 258c06–c13).    7)Paramatthajotika p. 188.   8)村上真完・及川真介(2009, 279).   9)Dhammasaṇgaṇi p. 183.現代語訳は佐藤良智訳,『N45法集論』p. 267.   10)『解脱道論』:(T32 448a13– 15).現代語訳は浪花(2001, 259).   11)Visuddhimagga p. 471.現代語訳は水野弘元訳, 『N64清浄道論③』p. 66.   12)水野弘元1964の中で,「不正なる染汚の作意」とある (同書p. 707).   13)作意と慧の区別をミリンダ経より「麦を鎌で刈るのに,左手で もって麦束を把持するのが作意にあたり,右手をもって麦を刈るのが慧にあたる」「作意 は羊牛等動物にもあるが,慧は牛馬等にはない」の喩えを引用して,その区別を説明する. (水野弘元(1964, 428))   14)浪花宣明(2008, 524).   15)『解脱道論』(T32 416b06–28).    16)蓋の「禅入の障害としての相」については,Visuddhimagga p. 146.   17)五禅支と の対応については,Visuddhimagga p. 141.しかし,この議論はすでに『解脱道論』(T32 416c25–29)にも確認できる.  18)「七清浄」のパーリ階梯論での位置づけ等に関しては,

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水野弘元1997,ウェープッラ・戸田1980,藤本2013などを参照.  19)Visuddhimagga p.

604.また,水野弘元(1997, 416),「度疑清浄」の項目参照.  20)十六種の疑について

Visuddhimagga p. 599参照.  21)馬場紀寿(2008, 129).

〈略号表〉

As The Atthasālinī Buddhaghosa s commentary of Dhammasaṅgaṇi PTS. 1979.   Dhs The Dhrammasaṅgaṇi PTS. 1885.   PjI Sutta-Nipāta Commentary being Pramatthajotikā II PTS.

1966.   Vm The VISUDDHI-MAGGA of Buddhaghosa PTS. 1975.   N 『南伝大蔵経』 (大蔵出版) 〈参考文献〉 佐々木現順1960『仏教心理学の研究 アッタサーリニーの研究』日本学術振興会.  浪 花宣明2001『新国訳大蔵経 解脱道論』大蔵出版.  村上真完・及川真介2009『仏のこ とば  パラマッタジョーティカ(2)』新装版,春秋社.  ウェープッラ・戸田忠1980 『アビダンマッタサンガハ 南方仏教哲学教義概説』アビダンマッタサンガハ刊行会.   浪花宣明2008『パーリアビダンマ思想の研究 無我論の構築』平楽寺書店.  馬場紀寿 2008『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサ』春秋社.  藤本晃2013『アビ ダンマッタサンガハを読む』サンガ.  水野弘元1997『水野弘元著作選集第三巻 パー リ論書研究』春秋社.  水野弘元1964『パーリ仏教を中心とした仏教の心識論』山喜房 仏書林.  水野和彦2017「アビダルマ文献における疑」『印仏研』65(2): 857–854. 〈キーワード〉 疑,法集論,解脱道論,清浄道論,定,慧 (正眼短期大学非常勤講師)

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