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南アジア研究 第29号 015書評・鈴木 真弥「関根康正・鈴木晋介(編)『南アジア系社会の周辺化された人々』」

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Academic year: 2021

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(1)書評. 書評. 関根康正・鈴木晋介(編)『南アジア系社会の周辺化された人々』. 関根康正・鈴木晋介(編) 『南アジア系社会の 周辺化された人々』 明石書店、2017年、232ページ、本体3,800円+税、ISBN 9784750345109. 鈴木真弥 社会的・経済的弱者層を排除する動きは、世界のあらゆる地域で進行 している。宗教マイノリティを標的にする暴力事件、移民・難民の排斥 運動、権利や制度が憲法上保障されていても実際には享受できていない 人びとの存在、市場中心経済において「まともな仕事」に就く機会は失 われつつある。こうした事態への早急な対処が求められているが、長期 的展望を見いだすことはいっそう困難になってきているようにみえる。 このような社会不安に直面して、本書は、政策志向とは距離をおきなが ら「排除型社会を生き延びるための社会理論」 (3頁)を構想することを 目的としている。歴史学、政治学、人類学、言語学、文化研究、芸術学な ど多様な分野の研究者による4年間の共同研究の成果である。南アジア 社会および南アジア系移民社会を対象に、言語、宗教、民族、カースト、 階級にかかわる「社会的排除」と「包摂」の諸相を、文献研究とフィール ドワークから描き出す。 本書の構成は以下のとおりである。 序章. 社会的排除の闇を内在的に読み替える(関根康正・鈴木晋 介). 第1章 イギリスにおける「アジア系」市民の政治参加(若松邦弘) 第2章 ブリティッシュ・エイジアン音楽の諸実践における「代表 性」と周縁化(栗田知宏) 第3章 インド系英語作家にみる排除と包摂(鳥羽美鈴) 第4章 コロニアル・インドにおける「美術」の変容(福内千絵) 第5章 ネパールにおけるカーストの読み替え(中川加奈子) 第6章 ネオリベラリズムと路傍の仏堂(鈴木晋介) 第7章 下からの創発的連結としての歩道寺院(関根康正) 結章. 「社会的排除と包摂」論批判(関根康正). 225.

(2) 南アジア研究第29号(2017年). 第1章∼第3章は欧米の南アジア系移民社会について、第4章∼第7 章は植民地時代を含むインド、ネパール、スリランカ社会を考察対象と している。周辺におかれた人びとの絶え間ない葛藤と交渉実践が展開さ れており、 「排除と包摂」二元論では解けない複雑な様相が明らかにさ れる。以下、評者なりの感想を加えつつ各章を概観していく。 序章では「社会的排除と包摂」論の問題提起がなされる。 「社会的排 除」概念は、1980年代、とくに90年代以降の西欧諸国の脱福祉型社会の 分裂状況を反映して発達した概念である。貧困の要因や貧困状態そのも のをとらえる言葉として、政策的・政治的議論において頻繁に用いられ るようになった。社会的排除は経済的要因にもとづく貧困のみならず、 構造的差別を問題化している点でも重要である。財や権限を既得する社 会層・集団やそれらの意向に呼応する国家権力によって、特定の社会カ テゴリーが資格外とみなされ、労働市場や制度あるいは日常生活におい 1. て財や権限、社会関係から締め出されることをいう 。人びとの統合をめ ざす包摂型社会は、先行研究およびジャーナリズムにおいても主流の論 調となってきた。だが、このような見方は、同質的な社会を前提とした 議論である。著者はこの問題を、 「明らかに支配中心の視点(政策の視 点)が滑り込んでいないだろうか。社会的に排除された人々の『客観』状 況(正確には支配中心からの主観的把握)は記述されていても、この分 析記述が、排除されているものの視点や解釈に寄り添っているかどうか となると、不十分である」 (10頁)と指摘する。そこで本書は脱中心の視 点から、周辺化された者たちが生きる現実をとらえようとする。 第1章は、イギリスにおけるアジア系市民の政治参加を検討する。ア ジア系移民の政治的位置取りは、移民マイノリティという属性にかかわ る社会的亀裂と政党間競争の軸が干渉しあうメカニズムのなかで変化し てきた様子が示される。一般にイギリスで「アジア系」とは、旧英領のイ ンド亜大陸にルーツを持つ人びと、あるいはそうみなされている人びと を指す。 「英国臣民」として入国したアジア系移民の特徴として、はじめ から参政権をもっていることが注目される。政治参加の制度的条件は用 意されており、アジア系移民を含むマイノリティにとっては、主要政党 を通じた政治参加が主軸となる。 「議会外の回路の有用性は周辺国と比 べて相対的に低い」 (25頁)と筆者は指摘するが、第1章後半でも述べら れているように、アジア系社会のなかでの政党支持は世代や階層間で分 226.

(3) 書評. 関根康正・鈴木晋介(編)『南アジア系社会の周辺化された人々』. 散化しており、政党を超えた枠組みで人びとを動員する社会運動の可能 性とその影響を評価することは重要と思われる。現在は中東からの難民 流入に直面し、排外主義の動きがイギリス国内で高まっている。また EU からの離脱を決断したことにより、政策の混乱、アジア系市民を含 むマイノリティをめぐる状況は今後さらに複雑化していくことが予想さ れる。 第2章は、在英南アジア系移民の音楽実践とその産業に着目し、 「エ イジアン音楽」として括られる各エスニック集団の一体性、多様性、周 縁化の諸相を検討している。在英南アジア系人口の3分の2を占めるパ ンジャービーがエイジアン音楽を代表する実践として、常に前面に押し 出されてきたことが明らかにされる。実際、南アジア系の文化はパン ジャービーのほかに、タミル、グジャラーティーなどの出身地域、言語、 さらには宗教・宗派やカーストによって多様性に富む。しかし音楽産業 をみると、個々のサブ・エスニックな属性を捨象した「エイジアン」と して、メディアによって画一的に表象されていると筆者は指摘する。カ ウンターカルチャーとして、非パンジャービーのアーティストによる実 験的な音楽実践のアンダーグラウンドも現れるが、当事者のアーティス トが志向する音楽性と、エイジアンとして一括りに扱うイギリス主要メ ディアの思惑は必ずしも一致しない。このことは、イギリスの音楽市場 において、南アジア系アーティストの参入が容易ではない側面も示して いる。主流の音楽産業からの視点(オリエンタリズム的なステレオタイ プなど)も含めた包摂と排除論について議論をさらに深めることができ れば、イギリス移民社会をより総体的にとらえることができるのではな いだろうか。 続いて、インド系英語作家とその文学作品を分析しているのが第3章 である。ジュンパ・ラヒリの作品とインタビューを参照し、排除の経験 を持つ南アジア系移民の内なる葛藤、アイデンティティの流動性を論じ る。冒頭で記されているように、留意すべき点は、分析対象のラヒリが 高度な英語の運用能力という文化資本を有する階層に属していることで ある。それゆえに彼女の作品から「無産であるがゆえに社会的に排除さ れたままであり続ける底辺の人びとの包摂において、どのような役割を 果たしうるのかを考察する」 (66頁)という本章の目的には疑問が生じ る。被抑圧と抵抗を中心テーマにしているダリット文学作品とあわせて 227.

(4) 南アジア研究第29号(2017年). 分析することは、重要なテーマとなりえたはずである。ラヒリの注目さ れる点として、従来の南アジア系作家(ラシュディ、ナイポールなど)の 作品と異なり、植民地の歴史的知識をそれほど必要としない「新しいタ イプの普遍性」と「わかりやすさ」が挙げられる(66 67頁) 。疎外、孤独 などアメリカ社会が抱える問題と通じるテーマを、移民体験を通して新 しい方法で描き出していることが理解される。 第4章は、19世紀後半から20世紀前半のインド近代美術に焦点をあて、 周辺化されるヒンドゥー神像の表象を論じる。西欧の一神教的神観念と 対置する形で否定されてきたプラーナの神像であったが、ラヴィ・ヴァ ルマーらは西洋の油彩画法を取り入れることで、神話画を美術化した。 当時のナショナリズム、宗教文化の復興気運の高まりを背景に、植民地 エリート、藩王、上層インド人によって神話画は受容されるようになり、 ここにインド近代美術の展開、複製技術と民衆ヒンドゥーイムズの発展 をみることができる。地方神を主題化した宗教画の流通・受容をより詳 しく示すことができれば、ヒンドゥー教徒のアイデンティティ形成を考 えるうえで非常に興味深い。 第5章は、王政廃止後のネパールを舞台に、カーストアイデンティ ティ・ポリティクスを展開しているカドギ・カーストの事例を考察する。 カドギはカースト的生業(屠畜や肉売り)によって経済力を高めながら、 「ダリットではなく先住民である」として、 「不浄」カーストへの帰属を 否定し、先住民性を主張しているのが特徴である。カースト団体 NKSS の会長とのインタビューにある「我々には実際のところカーストが必要 なんだ」 (111頁)という語りが示すように、政府が定めるダリット・リ ストを離脱しているが、カドギの日常生活と運動では、カースト的枠組 みが実践されている。伝統文化やコミュニティ史の出版活動に取り組む 様子は、インドのダリットにも共通してみられる。運動家による「カド ギはダリットじゃない」という主張は、結果としてカーストの差別的枠 組みを受け入れ、ダリットの人びとを区別化し、排除する見方へとつな がらないだろうか。ほかのダリット・カーストによる運動との関係性や カドギの運動の特異性を検討することも欠かせないように思われる。 道に出現する宗教的建物に注目し、民衆の宗教・生活実践を論じるの が第6章と第7章である。第6章は、スリランカで2000年代以降に急増 している路傍の仏堂に着目し、スリランカ上座部仏教の思想・実践的な 228.

(5) 書評. 関根康正・鈴木晋介(編)『南アジア系社会の周辺化された人々』. 変遷と、ネオリベラリズム・グローバリズムが生活に与えた影響から検 討している。寺院境内に置かれていた仏像は、1940年代ころから在家信 徒の家屋へ移り、50年代以降、コロンボを中心に公共の場で大規模な建 造が始まったという。路傍の仏道は90年代後半から出現し、宗教の垣根 を越えて住人の共同出資で維持される。2004年のインド洋大津波が人々 に与えた衝撃は、仏教の呪力を高め、路傍の仏堂を祈る人びとには、 「つ ながり」や「より良く生きる」ことを希求する姿勢がみられる。出稼ぎ労 働の急増にともなう人口流動性の高まりを要因として、 「つながり」の 喪失が強調されているが、これを喪失ととらえず、解放されたと感じる 人びとはいないのだろうか。 「つながり」の意味合いについて、それが持 ちうる軋轢や拘束的側面も検討することで、事例の解釈が広がるように 思われる。 第7章は、90年代以降、経済自由化の下で急増する南インドの歩道寺 院をつうじて、 「排除と包摂」二元論ではとらえられない社会的弱者の 当事者によって社会的結束が生みだされ、自律を可能にしているプロセ スを論じる。2つの事例では、歩道に建てた祠を土台にして、生活/生 産の場を自力で創出する人びとの実践が活写される。貧者(the poor)と 貧窮者(paupers)を区分して分析することにより、社会的排除の状況下 で貧窮者から貧者になるプロセスを明らかにしている。 結章は、 「社会的排除と包摂」論の理論的問題と限界を指摘し、それを 乗り越える視座を提示して本書を締めくくっている。社会的結束がすで に失われつつあることはもはや疑いようがない。この分断された状況を みて、 「社会は一つ」という社会的統合の幻想に沿って排除された人々 の救済を説くことは、中心からの偏ったまなざしであり、分裂社会の構 造を根本から問い直すことの必要性を強調している。超国家的なグロー バル権力の支配に抗して生活基盤を確保するためには、国家による公正 な富の分配と、歩道寺院の事例で示されたボトムアップな自立的表現力、 創発的協同性(215頁)を見いだす作業の重要性が提言される。 最後に、本書全体について若干気になった点を加えておきたい。序章 と結章で理論的枠組みが示されているが、本書で取り上げられている事 例の地域、時代が多岐に渡ることから、個別論文の議論との整合性に違 和感があることも否めない。関連して、本書のサブタイトルに「下から の創発的生活実践」を掲げる意図がやや不明確である。このテーマと重 229.

(6) 南アジア研究第29号(2017年). ならない論考も収録されているように思われる。読者が戸惑う可能性も あるかもしれない。しかしながら、メインタイトルが示す「 『排除と包 摂』を超える社会理論」への挑戦として本書が提起する議論には、地域 やディシプリンを超えて共有されるべき多くの新しい知見が含まれてい る。さらなる研究の進展に注目していきたい。. 1. 西澤晃彦、2012、 「社会的排除」、大澤真幸・吉見俊哉・鷲田清一編集委員・見田宗介編集 顧問『現代社会学事典』 、弘文堂、602頁.. すずき まや ●人間文化研究機構 総合人間文化研究推進センター研究員. 230.

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