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レ ト リ ッ ク ー 法 と 政 治 の 論 理 ー

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(1)じ. ンと. グ ︑ノモ. 五. レトリックとしての法論理. レトリ・クー価値判断の論理. め. に. 四︑影響と批判. ー. 三︑法とレトリックーベレルマンの新しい法論理を中心に. 二︑価値と主体. 一︑はじめに. 目. レトリックー法と政治の論理ー. 一︑は. ヒ. ー. 原. 仁. 本稿は︑法的価値判断の論理としてのレトリックを考察することが目的である︒そもそもレトリックはギリシャの. 一二三. 法廷から始まり︑ギリシャ・・ーマ時代に絶頂を極めた︒その時代の政治生活には欠くことのできないものとなった レトリックー法と政治の論理ー︵北原仁︶.

(2) 早稲田法学会誌第三二巻︵一九八一︶. コ一四. のである︒今日においても社会は法生活︑政治生治ぬきでは語れないが︑そこでのコミュニケーションはレトリック. によるものだということが理解され始めたのは︑比較的最近のことである︒政治における正統化や統合︑裁判におけ. る正義という問題はレトリックの機能の理解なしでは判定しがたい︒特に法と政治とが出会うような憲法裁判におい てはそうなのである︒. 本稿の構成を述べれば︑第二章においてレトリックの存立する根本的な理由を︑第三章は︑レトリックそのものに. ついてと︑ベルギーの法哲学カイム・ペレルマンO﹃巴ヨ勺R巴目きのレトリックとしての法論理を︑そして第四. 章において総括を行ないレトリックの限界について論ずる︒論理を展開するに当ってペレルマンの新しいレトリック. と主体. を参考としている︒しかし全体としては筆者自身の考え方によっているので︑これがペレルマンの思想だというので はない︒. 二︑価値. 制度と主体をデュベルジェ匡︒U葦RαQRは︑以下の如くとらえている︒まず制度については︑﹁その総体は︑あ. る社会集団の文化を構成する諸々の﹃役割﹄もしくは行動モデルが︑制度︑組織︑システムを構成する何種類かの集. 合において︑相互に結びつけられている︒この点について︑社会学用語は必ずしも明らかでない︒言葉の広い意味で ︵1︶. は︑システムは︑諸々の役割の総体であり︑ここにおいて様々の要素が秩序ある全体を形成し︑相互に依存し合って. いるのである﹂とされる︒また主体については︑集団における役割を担う者ととらえられ︑そして︑集団の行為準則.

(3) ︵2︶. が規範︵⇒9目①︶なのだとされる︒さらに︑規範の概念は︑義務に基づくものとされ︑その義務も﹁外的な社会的強. 制またはサンクションに基づくだけでなく︑規範に対する内的同意に基づく︒というのは︑その規範は役立つと考え. られているからである︒規範への服従を納得させる義務の感情は︑規範と組合せのサンクションに基づくというより ︵3︶ も︑規範に認められる価値に基づくのである︒あらゆる社会は価値体系に基礎を置いているのである﹂︒. さて主体は︑社会における役割を担う以上︑行為の主体として表われる︒そして︑行為するに当っては︑認識が理. 論上前提とされねばならない︒それゆえ︑パーソナリティーを持った主体︵つまり単なるアトムとしての個人ではな. い主体︶として︑認識し行為するのである︒つまり欲求を持った人間として︵社会の価値体系と交流しつつ︶活動す. るのである︒主体とは行為する主体に他ならないとすれば︑行為が主体を理解する前提となる︒行為を目標追求的と. ︵4︶. みなし︑目的i手段の系列に価値と欲求が作用するとすれば︑価値と欲求の理解が︑行為を理解するのに必要となろ. う︒ところが︑従来︑価値という言葉が社会科学において頻繁に用いられているが︑価値そのものの定義はあまりな. されてこなかったように思われる︒無論︑一九世紀後半に哲学史の一潮流となる価値哲学において価値とは何かが追 ︵5︶. 求された︒そして︑この価値哲学の目的は︑真︑善︑美に代表される文化価値の超経験的な﹁妥当性﹂を基礎づける. ことであった︒価値哲学者シェーラー琴曽段R︵一〇︒謹〜一80︒︶は︑本質的直観によってア・プリオリに価値を洞 ︵6︶ 察できると︑ア・プリオリな価値序列が人間存在とは別に客観的に存在すると主張する︒従って︑彼の主張は︑価値 実在論であり︑人間は単なる価値運搬者となるのである︒ ︵7︶. 二一五. また︑正義に関する価値論︑すなわち法価値論を見ると︑価値︵この場合正義︶の考え方には︑碧海教授によれ レトリックー法と政治の論理ーヘ北原仁︶.

(4) ︵8︶. 早稲田法学会誌第三二巻︵一九八一︶. ば︑三つの型がある︒. 二一六. ω自然主義は︑価値は事実に還元できるという立場をとり︑このような立場としては功利主義︑進化主義がある︒. ②直観主義は︑価値と事実の二元論に立ち︑直観によって価値が洞察されるとする立場である︒先に述べたM・シ. ェーラーがそうである︒そして自然主義︑直観主義も︑価値は客観的に存在するという立場をとる︒. 直観主義は主観主義になり︑自然主義は︑自然主義ファラシー︵﹁事実から価値へ﹂の推論が無媒介的にーすな. わち少くともひとつの価値言明を付加的に前提群中に編入することなしにi行なわれるとする自然主義の一元論的 主張は学問的厳密性を欠く︶故に︑認めがたい︒. ⑥価値情緒説︑価値は︑話者の情緒的な態度を表現しているにすぎず︑従って真理値を持つ命題ではないとする立 場である︒大陸の価値相対説と第二次大戦後の英米倫理学はこの立場に立つ︒. しかし︑このうち︑事実から価値を導く三段論法を︑アリストテレスの論理的推論︵三段論法︶と実践的推論︵三. ヨ. 段論法︶の区別にのっとれば︑自然主義ファラシーというのは︑前者に属し︑形式論理であって︑価値の議論に関し. ては︑後者の立場をも考慮して批判をなすべきではなかろうか︒また直接法︵事実︶︑命令法︵価値︶の区別も︑. ー・ッパの言語をモデルにしているのではないだろうか︒また事実もその文脈︵文化︶と切り離せないのではないだ. ろうか︵レヴィ・スト・ース︑﹃野生の思考によれば﹄西洋の自然哲学と未開人の﹁具体の科学﹂では︑同じ動植物. でも全く異なった意味を持つ︶︒また︑価値情緒説は情緒的態度に関する総論が必要ではなかろうか︒つまり︑価値. 判断の論理は直接真理に関係しないというのであれば︑情緒と論理との関係が追求されるべきではなかろうか︒.

(5) それでは価値とは何であろうか︒価値とは︑その根底によさという意味を持つ︒欲求を充たすものが︑よいもので. ︵9︶. ある︒価値論︵輿巨畠すニヨ〇一〇笹①︶という言葉は︑ともにギリシャ語の&へ&㍉ミ&︵値うちがある︶に由来す. る︒従って価値は欲望を充足するという意味を含んでいることは容易に考えられる︒しかし社会学者の作田啓一教授. によると︑それだけでは価値ではない︒というのは︑価値の本質は︑結局何らかの欲求の犠牲にあるからだという︒. つまり︑価値への委託︵8ヨ巨暮B①算︶は欲求の充足に解消される概念ではなく︑むしろそれと対照的な概念だと. いうのである︒従って︑作田教授によると︑複数の欲求が競合する場合︑客体追求のためある欲求を選択し︑他の欲. 求を犠牲にしなくてはならないから︑価値は欲求選択と同時に犠牲を受け入れる決意をも意味するという︒だから︒. 価値は欲求の充足との連関においてとらえねばならないが︑否足された欲求︑犠牲になった欲求との結びつきによっ. 欲求充足的意味→肯定された欲求A 選択 価値体現的意味→否定された欲求B. てのみ意味を持つ︒すなわち価値は犠牲の代価なのである︒作田教授に従って︑これを図に示せば︑左図の通りであ る︒. 客体. ︵10︶. 客体の欲求充足的意味は︑欲求Aの強さに比例する︒また客体の価値体現的意味は︑欲求Bの強さに比例する︒. つまり︑同一の客体が行為者にとって同時に二つの意味をもっている︒そして︑このような選択・決意過程には実践 的三段論法︑つまリレトリック的三段論法がかかわるのである︒. 一二七. しかし︑欲求も価値も様々なレベルのものがあるから︑ある程度の価値序列の存在を仮定できるだろう︒そして︑ レトリックー法と政治の論理1︵北原仁︶.

(6) 早稲田法学会誌第三二巻︵一九八一︶. 一二八. 特に高次の抽象的価値への同意は︑逆に欲求を否定する行為を通じて確信されることとなろう︒また︑そのような価 値への同意は︑神秘的︑儀式的な形式を伴うことによってさらに強化されるのである︒. また︑行為主体の価値は︑文化体系に由来し︑パーソナリティーにおいて内面化︵冒富旨巴一爵ぎ昌︶され︑集団に. おいて制度化︵日の鼻9δ召雨讐圃9︶される︒﹁もし価値をパーソナリティーや集団の外側だけに位置づけるなら︑. それらの行為体系︵パーソナリティーおよび集団︶がどうして自主的にみずからの行動を統制しうるかが説明できな. ︵n︶. くなる︒逆に価値を内側だけに位置づけるなら︑価値が行為体系に対してもっている拘束力を見失うことになるので ある﹂からである︒ ︵12︶. ところで︑文化は記号の体系である︒従って︑記号体系は︑記号の伝達過程のみならず︑その過程の背後に必ず意. 味作用の体系を必要とする︒つまり︑伝達された記号を解釈するための体系が必要なのであり︑この意味体系は︑文 ︵14︶. 化ごとに異なっているのである︒また人間特有の記号を象徴と考えることにより︑カッシーラー蝉O器旨震︵一〇︒置. 1一〇駐︶は︑﹁象徴を繰る動物︵餌三目巴亀ヨぎ一凶2ヨ︶﹂という人間特有の機能に着目し︑シンボル形式ということ ︵15︶. から文化をとらえる︒そして︑カッシーラーは︑そのシンボル理論を裏づける有力な材料として︑第一次大戦の脳損. 傷の患者の研究報告を用いている︒しかし︑言語と脳の関係については一八六〇年代にブ・カによって大脳皮質の特 ︵16︶. 定の場所に運動言語野が存在することが確かめられ︑続いてウェルニッケによって︑先の場所と異なる場所に感覚言 ︵17︶. 語野が発見されていたのである︒さらに一九三〇年から五〇年にかけて言語と脳の関係は︑ペンフィ:ルドによって. 研究され︑脳の言語野のより精密な実験がなされたのである︒そして︑言語は認識のみに関係するのではなく︑伝達.

(7) 過程によって他者に働きかけ︑同意を求め︑行動させるのであるから︑言語と行為との関係も考察しなければならな. い︒行為と脳との関係については︵生理的レベルの行動ではない︶︑近年︑ルリアによって前頭連合野の働きが研究. され︑前頭連合野は複雑な行動の時間的・空間的手順をプ・グラムする場で︑この損傷は︑正常人なら可能な複雑な ︵18︶. 行動が︑単純で基本的な型の行動や︑まわりの状況と無関係な紋切り型で惰性的な行動にすりかわってしまうのであ. り︑人格の平板化を惹き起こすのである︒従って︑人間においては︑その行為プ・グラ︑・・ングは︑言語の価値的使用. によっておこなわれると︑考えられないだろうか︒つまり︑言語のレトリック的用法が︑この場合重要な働きをする. のだと︑考えられないだろうか︒ただ︑このプ・グラ︑・・ングは︑直接行為を指令する場合の他︑プログラミングそれ ︵19︶ 自体の精密化︑洗練化も絶えず行なわれ︑実際に行為として表われることがない場合も考えられよう︒. 主体は︑制度からの価値観を受けとり内在化すると同時に制度に能動的に働きかける︒つまり︑行為の動機づけ. は︑単なる制度的価値の反映ではなく︑世界と自己の関連に基づいた価値意識でもある︒この主体は︑生物としての. 主体なのであり︑大脳の発達によって生物的レベルが︑最高度に達するのである︒人間は認識し︑決意し行動する. が︑認識においては合理的であるが︑決意し行動するに当っては︑不合理なものがつきまとう︒そして︑言語も︑認. 識とその伝達にかかわるだけでなく︑決意行動にもかかわっているとすれば︑両者を含む言語観が必要なのである︒. つまり﹁科学的言語といえども論証をもっぽらとする言語にほかならないのである︒或る言語が合理的であるとして. 一二九. も︑その言語の前提は論証不可能なのであって︑科学的議論の純粋に︿形式的﹀な性格はここに由来する︒この時︑ ︵20︶ あらゆるく計算Vは虚無の上にたたずんでいる﹂のである︒ レトリックー法と政治の論理ー︵北原仁︶.

(8) 早稲田法学会誌第三二巻︵一九八一︶. 一ぴ往. 匡曽霞一8∪仁<oおR℃冒の二9瓜o拐℃o一置ρgoの9身o一酔8拐菖ε瓜o昌記一り℃.鱒ω.. 一げ箆●℃℃マ一㎝占O︒. P一 9. ︵1︶. ︵3︶. 作田啓一﹃価値の社会学﹄岩波書店. 一九七三年 四頁︒. ︵2︶. ︵4︶. 同右︑四一 ー 二 頁 ︒. 小倉志祥﹁価値の哲学ー序説﹂﹃講座哲学﹄東京大学出版会. 九頁︒. ︵5︶. 一九七二年. ︵6︶. 碧海純一﹃新版法哲学概論全訂第一版﹄弘文堂. 四ー五頁︒. 同右︑二七七−三〇七頁︒また同じ趣旨のものとして︑加藤新平﹃法哲学概論. 一九七三年. ︵8︶. ︵7︶. 四−五頁︒. 小倉. 前掲 書. ︵9︶. 作田 前掲書︑ 一四ー一七頁︒. 六四−七三頁︒. ︵10︶. 一一頁︒. 二二〇. 法律学全集1﹄有斐閣. 同右︑ 一一六ー一三四頁︒. 一九八○年. 国.〇四の巴 ﹃ R ︒ > 昌 o の 器 欄 o ロ ヨ. ウソベルト・エーコ︵池上嘉彦訳︶﹃記号論1﹄岩波書店. ︵13︶. 一ぴ箆 ℃℃おムド生松敬三・木田元﹁現代思想における生物学の位置﹂現代思想一九八一年六月一四五頁︒. 同右︑二五−二六頁︒. ︵4 1︶. 伊藤正男﹃脳の設計図﹄中央公論社 一九八○年. ︵11︶. ︵15︶. ︵2 1︶. ︵6 1︶. 同右︑二四三頁︒. ︵保崎秀夫監修︑鹿島晴雄訳︶﹃神経心理学の基礎﹄医学書院. 二四二i二四三頁︒. 9属包oロゑくRω凶蔓℃﹃oωρ一〇恥♪マN①●. ︵7 1︶. 同右︑二四〇1二四一頁︒A・P・ルリア. このような場合︑価値はア・プリオリなもの︑公理として表れ︑行為は演繹的に決定される︒. 一五六−一八 九 頁 ︒. ︵8 1︶. ︵19︶. 一九七六年 四. 一九七八年.

(9) エルネスト. 一七八頁︒. ︵20︶. ・グラソシ. ︵月村辰雄訳︶﹁隠喩的言語の優越性−人交主義の伝統﹂思想. 三︑法とレトリックーペレルマンの新しいレトリックを中心に ー レトリックー価値判断の論理. 九八. 年第四号. 第六八二号. 倫理の体系は演繹的性格を持つと言われるが︑この演繹性という語の意味は︑演繹体系に含まれる概念︵命題︶の. 相互の関係は事実的因果関係なのではなく何らかの概念︵命題︶を論理的に考えていくと別の概念︵命題︶が出てく. るということである︒この典型例が公理体系である︒為すべき行為の理由は︑この行為は︑ある倫理概念のカテゴリ. ーAに属す故であるとされる︒そしてそのカテゴリーAに属す行為を何故為すべきかという理由は︑それはBという. 倫理概念に含まれるからだと説明されるのである︒このようにして為すべぎ行為の理由は︑AからB︑BからCへと. より高位の倫理概念へと上っていって結局究極的な倫理概念に至るのである︒このような論理的な道筋を逆にすれ ︵1︶. ば︑究極的倫理概念︵命題︶からより特殊化された倫理概念が導き出され︑最末端において個別的特殊状況での具体 ︵2︶. 的な倫理行為に至るという構造となるのである︒このようなことは︑法推論でも言えるであろう︒だから当然法論理. も演繹体系は数学的︑形式的演繹体系と異なる︒法的推論は形式的必然性を持つものではないからである︒. さて人間主体は︑認識と意志を統一するものであるとすれば︑一応︑認識のための言語と意志のための言語とが区. 二一二. 別されよう︒後者は価値の言語であリレトリックが用いられる︒この区別を意識し哲学を展開したのが︑イタリアの レトリックー法と政治の論理ー︵北原仁︶.

(10) 早稲田法学会誌第三二巻︵一九八一︶. 二三一. ︒ー嵩置︶である︒ヴィーコは︑批判的学間方法を主張 哲学者ジャンバティスタ・ヴィーコO一曽目富庄ω富≦8︵一①Oo ︵3︶ するデカルト主義にレトリック的方法論を対置したのである︒彼は︑デカルトと異なって︑自然言語を離れては観念. は存在せず︑人間は文化世界に対し人間の知覚的・実存的身体を所作的・言語的に拡張することによってしか思考で. きないと考える︒従ってヴィーコは︑このような言語の拡張的使用としての隠喩を重視する︒事柄を類似化して言葉 ︵4︶ を転用することが人間的表現の必然と考えたのである︒この考えは言語のレトリック的使用を重視する立場に行き着. く︒そして︑あらゆる社会が価値体系に基礎をおく以上︑言語の価値的使用はレトリックにかかわり︑法も正義とか. 衡平という価値に基づくのであるから法論理もレトリックにかかわるのである︒これと同じような立場から︑レトリ. ックとしての法論理に取組んだのが現代ベルギーの法哲学者カイム・ペレルマンOげ巴ヨ勺Ro一ヨきである︒従っ. て以下ペレルマソのレトリック論と法論理を中心にレトリックと法論理を考察しようと思う︒ ︵5︶ ペレルマンは︑レトリックを論ずる以前に正義の問題に取組んだ︒彼は形式的正義の原則は︑﹁同じ本質的カテゴ. リーに属すものに同じ待遇をなすことが正義である﹂と言う︒しかし正義の具体的な適用に際しては︑何が同じカテ. ゴリーであり︑何が同じ待遇かについては多様な見解があり︑正義は相対化せざるを得ず︑具体的正義の主張は論証 ︵6︶. の問題であるよりもむしろ説得の問題なのだ︑と彼は言う︒つまり︑具体的正義は形式的正義から論理必然的に演繹. されえないというのである︒そして説得というのは︑ある主張への同意を得ようとすることであるから︑弁論術つま. りレトリックの間題なのである︒ペレルマンは︑価値判断のための論理学を追求していくうちに︑価値判断特有の論. 理学は存在しないが︑思いがけないことにレトリックという古い学間が価値判断の論理を展開していたことに気づい.

(11) ︵7︶. たのである︒. レトリックは古代ギリシャに始まり︑アリストテレスの﹁レートリケi︵弁論術・修辞学︶﹂︑﹁トピカ﹂を通じて ︵8︶. 古代・iマに伝えられ︑キケ・︑クィンティリアヌスによって後世に伝えられた︒しかし中世においてレトリックは. 言葉の装飾︑文彩を加える︑ω. ︾&o︹行為︺. 身振りと話L. 見い出し. 形骸化し︑近世に至って死滅したのである︒ではレトリヅクとは何であろうか︒まずその内容を言えば︑レトリヅク ︵9︶. 田8葺δ︹表現法︺. は五つの部分に分けられる︒ω︑冒話旨δ︹発見︺踊いうべきことを見い出す︑ω︑臣88三〇︹配置︺. たことを順序立てる︑③. 方︑㈲ 冨oヨ自冨︹記憶︺ 記憶力に頼る︑の五つである︒このうち︑最初の三つが重要であり︑なかでも最初の. ものが最も重要である︒というのは︑ヨ話昌δ︹発見︺は発想とも訳され︑ある問題が与えられたなら︑その間題を. めぐって人の心を動かすのに効果のあがるような材料や論証の方向を探し出す技術部門であり︑ここでエンテユーメ. ーマ︵レトリック的三段論法︶とこの三段論法の出発点︵形式的な前提︶つまりトポス︵8宕ωし8垢︹場所︺︶が扱 ︵10︶. かわれるからである︒しかし近世以降には︑匹85δ︹表現法︺のみが重んぜられ︑レトリックは軽薄な美辞麗句に. 簸小化されてしまうのである︒この近世の傾向に対し︑ペレルマンは︑﹁レトリックの軽視︑議論法の忘却は︑実践 ︵n︶. 的理性の否定を招いた︒行為の問題は︑認識の問題すなわち真理ないし蓋然性の問題に還元されるか︑あるいは︑理. 性とまったく無緑の問題とみなされるに至った﹂と批判する︒だからペレルマンと彼の共同研究者オルブレクツ・テ. ィテカ9ぼ9拝ωね旨①8は︑彼等の著書︑﹃議論法概論﹄の序文で︑﹁議論法を研究する概論を出版し︑これを古. 二二三. 代の伝統つまりギリシャのレトリックと弁証法の伝統に結びつけたことは︑三世紀に亙る西洋哲学に刻印をしるした レトリックー法と政治の論理1︵北原仁︶.

(12) ・. ●. 早稲田法学会誌第三二巻︵一九八一︶ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●. ︵12︶. 二二四. デカルトに由来する理性と推論という思考法との決別をなすものである﹂と述べるのである︒ただし︑ミッシェル・. ラコスト蜜・雷8ωけは︑この著書に関し﹁標題が示すように︑特に︑論理的観点から︑人々の同意を得ようとする. 弁論の技術を体系的に研究している︒文彩は︑説得の要因となる場合でなければ︑直接︑著者たちの関心をひかな ︵13︶ い︒したがって︑この試みはユニークであり︑現代の﹃修辞学﹄復興の大勢からみれば︑傍流に位置する﹂と述べ︑. ペレルマンの新しいレトリックは説得の技術という観点からのものだと評している︒しかし︑この評価を受け入れる 前に︑さらにレトリックを探ってみようと思う︒. アリストテレスは︑学間的論証と弁証術的推論を区別し︑レトリック︹弁論術︺は弁証術︹法︺に対応すると述べ ︵4 1︶. た︒学間的論証とは︑﹁すべてのAがBであり︑すべてのBがCであるとすれば︑すべてのAはCである﹂というよ ︵15︶. うな推論であり︑前提が正しければ︑結論も正しい︒弁証術的推論は︑アリストテレスの著書﹁レートリケー﹂︑﹁ト. ピカ﹂で論じられた推論であり︑相対的で論争的である︒これは︑証明でなく説得を目的とするものである︒弁論術. 的推論︹エンテユーメーマ︺も三段論法を用いるが︑厳密な三段論法ではなく蓋然的なこと︑つまり公衆が考えてい. ︵16︶. ることから出発するのである︒そしてアリストテレスはレトリックを議会的言論︑裁判的言論︑演示的言論の三つに. 区分し︑これらの言論の聴き手はそれぞれ︑議会のメンバー︑裁判官︑観客・公衆であるという︒しかし︑ペレル. マンのレトリックは︑古代レトリックとは異なる︒彼は自らのレトリックを新しいレトリック︵い餌昌2<o一一①旨傘?. ︵18︶. レトリックは談話︵良ω8畦の︶の方法によって説得せ. 二20︶と名づける︒この新しいレトリックとは︑人々が賛成するよう提示されたテーゼに対する同意を促し︑また ︵17︶. は強化することであり︑その特徴は四つある︒すなわち︑ω.

(13) んとする︑ω 形式論理による証明方法と異なる︵反デカルト主義︶︑③. テーゼ︵命題︶に対する同意は強度の幅. がある︵真理ではなく価値が問題であるときは重要な事柄︶︑この三番目の特徴をいますこし敷衛すれば︑これは価. 値選択が避けられぬ場合︑一方の価値への同意により他方の価値が犠牲にされる事態が甘受できるのは︑一方の価値. への同意強度が強いからなのである︒換言すれば︑価値同意の強度は︑他方の価値を犠牲にすることによって確認さ. れるのである︒ペレルマンはこの例として︑アブラハムがヤーヴェ︵神︶の言葉に従って息子を生賛にせんと決意し. レトリックは真理よりも同意に関係する︑の四つである︒ではこのレト. た聖書の物語を引用している︒アブラハムが最愛の息子をも神に捧げる決意を示すことは︑彼は神を限りなく愛して いることを示すことになるのであるー︑@. リックは誰に向けられるのであろうか︒ ︵19︶ 新しいレトリックの扱う言論の相手は︑古代レトリックの場合と異なりあらゆる種類の聴衆である︒そして︑特殊. な議論もあって︑これは一般議論を補足するものである︒このような特殊議論には法論理学や哲学論理学が考えられ ︵20︶ るが︑これらは法律︑哲学への新しいレトリックの適用に他ならない︒ペレルマンは︑医者︑歴史家︑法律家は︑専. 門的聴衆を相手にするが︑哲学者は普遍的聴衆︵一︑窪島8一おg艮<R器一︶を相手にすると述べる︒そしてその理由を. 以下の如く述べる︒﹁理性あるいは普遍的聴衆に訴えつつ︑学者がかれの出発点や推理作業において頼りうるのは︑. たとえ事実上すべての人には認められていなくとも︑精神上ではすべての有能な人々に受け入れられるべき主張や議 ︵21︶. 論だけなのである︒だからこそ︑かれの談論は良識と共通経験とに支えられたり︑真理や事実や証拠や必然など万人. 二二五. が認めるべきものを頼りにしたりする﹂と︒つまり哲学議論の出発点︑共通のトポス︵議論の普遍的前提︶は︑普遍 レトリックー法と政治の論理1︵北原仁︶.

(14) 早稲田法学会 誌 第 三 二 巻 ︵ 一 九 八 一 ︶. ︵22︶. =二六. 的聴衆を想定することで確認されるのである︒従って普遍的聴衆の一致点︑出発点は︑事実問題ではなく権利問題な のだと言えよう︒. ︵23︶. 普遍的聴衆の認める共通の前提︑つまり形式論理の公理にあたる共通のトポスは︑アリストテレスによれば︑弁論. における多数の推論が集まる所と定義される︒これは︑様々の議論の共通の出発点であって︑﹁トピカ﹂という形で. 存在/不存在︵現実/非現実︶︑⑥. より多く/より少なくである︒ペレルマンは︑共通のトポ. 方法論になる︒しかし一旦方法論とされるや︑これはステレオ・タイプ化し︑空虚な形式に堕すことにもなる︒とも ︵24︶ かくアリストテレスは︑共通のトポスは︑あらゆる主題に共通のものであるとし︑三つ挙げている︒すなわち︑ω 可能/不可能︑②. スの例として︑量のトポス︵最大多数に有用なものがよい︶︑質のトポス︵非凡なものは平凡なものよりよい︶︑順序 ︵25︶ ︵種を最もよく代表する個体に優先権を与える︶などを挙げる︒ま. のトポス︵原因は結果に先だつ︶︑本質のトポス. た共通のトポスに対して︑特殊なトポスが認められる︒これは限定された主題に固有のトポスである︒政治︑法律︑ ︵26︶ 財政︑海運︑戦争等に結びついた経験的真理があり︑これらのトポスは各ジャンルごとに異なり︑数え切れない︒ ︵27︶ また議論には︑まづ先立って事実︑価値︑述べ方︑言葉の選択が存在する︒つまり︑これらの選択によって︑言葉の. もつ臨場感の喚起力を活用し︑聴衆の感受性に直接働きかけるのである︒このための技術として︑敷延︵薗ヨ唱臣8− ︵28︶ 寓9︶︑集積︵8ロ恩該①︶︑同意語畳用︵ω着魯鴫ヨ一①︶等が考え出されたのである︒. レトリックの間題は以上で尽きるわけではない︒それどころか︑その一部を述べたにすぎない︒ペレルマンの新し. いレトリックも︑まだ様々のレトリックの技術を扱っている︒が︑結局︑ペレルマンはレトリックを説得の論理とと.

(15) らえるから︑レトリックの第一の部分︑すなわち冒く窪鉱o︹発見︺を中心に述べているように思われる︒くり返し. て言えば︑ここで︑トポスとエンテユーメーマが扱かわれているのである︒それでは︑レトリックと法論理はどのよ うな関係にあるのであろうか︒次にこの問題を検討しなければならない︒ 坂本百大﹁価値︑事実︑重ね合せ﹂理想. 一八ー一九頁︒. コンピュータ処理の必要などから価値的演繹体系が形式化され︑論理過程が必然化されても︑前提︵公理︶自体をどう選. 第五八O号. ︵−︶. 一九八一年九月. ︵2︶. 同右︑二九頁︒ヴィーコ︵清水純一・米山喜晟訳︶﹃新しい学﹄中央公論社. 一九八○年. 一九七九年第二巻第二部. 詩的論理学参照︒. 一九八○年一五四頁︒. J・M・エディ︵滝浦静雄訳︶﹃ことばと意味i言語の現象学i﹄岩波書店. 択するかという問題は残る︒テオドール・フィーヴェク︵植松秀雄訳︶﹃トピクと法律学﹄木繹社. ︵4︶. ︵3︶. 三輪 正﹁ペレルマンの﹃新しいレトリック﹄の哲学﹂理想. 小谷野勝巳﹁ペレルマンの正義論1・2﹂拓殖大学論集第五六号︑拓殖大学論集第六二号参照︒. 一二頁︒. 二八頁︒. 二五一−二五七頁︒. ︵5︶. 一九七四年四月第四九九号. ︵6︶. 七九i八O頁︒. ↓﹃巴aα〇一.飴おβB①昌冨二〇Pい餌昌oβ︿o一一〇﹃げ警oユρ¢o℃ω①似象ユoP国島江o昌ωα①. 一九七九年. 第六八二号 三頁︒. 新しいレトリック﹂理想社 一九八O年. カイム・ペ レ ル マ ン ︵ 三 輪. 正訳︶﹁説得の論理学. ︵7︶. ・ラン・バルト︵沢崎浩平訳︶﹃旧修辞学﹄みすず書房. 佐藤信夫﹁消滅したレトリックの意味﹂思想. 二九頁︒. 一九八一年第四号. ︵8︶. 前掲書. OF℃03一B曽PrO一ぼgげ什の白旨08. ペレルマン. 佐藤 前掲書 一八頁︒. ︵9︶ ︵10︶. ︵11︶. ︵2 1︶. 一.〇三くRω一叡 α ① ω 円 仁 × o = Φ の u 唱 ■ 一. 第一巻第一章︒. バルト 前掲書 書誌二〇ー一二頁︒. 二一ー二六頁︒アリストテレス・弁論術. ︵13︶. この場合の弁証法は︑へーゲル︑マルクスのいう弁証法ではない︒フランスの法哲学者ミッシェル・ヴィレイは︑古代の. ペレルマン. 前掲書. ︵15︶. 二一一七. ︵4 1︶. レトリックー法と政治の論理1︵北原仁︶.

(16) 早稲田法学会誌第三二巻︵一九八一︶. 二二八. ︵己ひQ犀&冒ωεヨ8 話の. 弁証法とは真理によって世界を認識する方法であり︑社会的動物たる人間は意見の対立を前提とせざるを得ないから︑弁証 法によって真理を追求するのだという︒つまり当時は法冒のは物なのであって実在するもの. あり︑自然の中に存在するのである︒つまり法は﹁理論的認識﹂の対象だったのである︒︼≦凶90一く三〇ざOユニρ琴αo﹃. 冒曾鉾正しいことは正しい物︶であるから︑法の発見は弁証法的議論によるものである︒従って法は成文準則以上のもので. OFりRo一ヨ. バルト 前掲書・一一八頁︒アリストテレス・弁論術第一巻. 同右︑二七頁︒. 第一九章︒. 同右︑三八−三九頁︒. 第二章︒. 第二巻. ︵21︶. ︵20︶. OF勺①話一B即PいO一耳g鐸ω肖旨08曽o℃■9梓マP自︒. 第七九巻第五号. 六三七頁︒. Zo仁くo一一〇浮傘o吋5仁PNo盆三〇P署●一〇q占OS. 第三章︒. oo69しかし当時の自然観と近代の自然観は異なり︑近代で 冨昌雅甘ユ島ρ仁oヨo号旨o・︸臣一8◎℃三〇ユ信身o霊一ρ℃ワo o. ︵16︶. は法は実践の問題であるから︑物の認識と一応区別できよう︒. ︵17︶. ベレルマン 前掲書︑二六頁︒アリストテレス・弁論術. Oげ・℃Ro一Bき︸いo笹ρま冒﹃置55. マ伊. ︵18︶. PいO一ぼoo算ω1↓旨08℃ε︒o凶什. ︵19︶. ︵22︶. バルト 前掲書︑一〇五頁︒アリストテレス・弁論術. 第一巻. 松坂佐一﹁法律学におけるトピカとレートリケー﹂民商法雑誌. 前掲書︑一一四ー一一五頁︒アリストテレス第二巻第一八章︒ 一一六頁︒. 前掲書︑六二頁︒. 前掲書︑. 前掲書︑三九頁︒OF勺R巴B帥Pダ9鐸9げ富−↓旨9欝oPgf㈱N一・. ︑︑ レト. 三輪. ミノレ ト ノ. ︵23︶. ︵24︶. ︵26︶. ︵25︶. ベレル マン. ノ. 同右︑. ノ. ︵27︶. 六八ー六九頁︒. ︵28︶.

(17) 五 レトリックとしての法論理. 法論理はレトリックにどのような関係にあるのだろうか︒以下︑ペレルマンの法論理を紹介しようと思う︒ペレル. マンの結論を先取りすれば︑法論理は︑真理を対象とするのではなく︑同意︵且沫巴自︶に関係するのである︒弁護. 士は︑その弁論で︑上級審と世論の双方の同意が得ることができると証明することで裁判官の同意を得ようとするの. である︒このためには︑出発点の真理︵公理︶から証明される真理︵公理︶ではなく︑あらかじめの一致から獲得す べき同意という過程が用いられるのである︒. 先決的合意の目的は︑事実︑次に仮定︑それから所与の社会で認められている価値︑最後に︑法律文︑判例の法準 ︵1︶. 則解釈である︒無論︑これらに対して当事者間に意思の相違があるから訴訟が生ずるのである︒だから証明ではなく. ︵2︶. 議論が問題となるのである︒法論理︑特に司法上の論理は︑形式論理ではなく︑社会と法の一致を目指す議論なので ある︒. ところで︑従来法論理においては何が法か問われることがまれであった︑とペレルマンは言う︒法とそれ以外のも. の︑道徳︑宗教との区別には一般的基準が存在すのだろうか︒結局︑所与の社会に固有の法思想の法を前提として︑ ︵3︶. その問題に答えていたのである︒しかし︑法的推論︵轟記9記日窪二畦崖ρロ①︶の観念を確定することとで︑法の. 本質が確定できるという︒つまり︑ペレルマンは︑法の中心には妥当性という考えがあり︑それは︑道徳︑宗教と無. =二九. 縁であ りえないのだと考えるのである︒不明瞭な法文上の文言が存在するとき︑当然解釈の幅があるけれど︑それに ︵4︶ は制限︑範囲というものがあり︑それを決めるのは︑妥当性︵5嵯巴ω9轟三①︶という概念なのである︒ レトリックー法と政治の論理1︵北原仁︶.

(18) 早稲田法学会誌第三二巻︵一九八一︶. 一四〇. しかし︑法における論争は︑最終的には︑権威によって解決される︒そして法的決定をなすものは︑責任を引き受. けねばならないのであるから︑法の権力的要素は不可欠だと︑ペレルマンは考えるのである︒そして︑法と正義の関. 係をペレルマンは︑以下の如く述べる︒法は︑何世紀にも亙って絶対的な正義という理念によって支配され︑正義と ︵5︶ 衡平の術︵巽のびo巳9器ρ三む蒔8富一﹂﹂●︶だったのである︒しかし︑ペレルマンは︑その場合の議論は形式議. 論ではないことを主張し︑法の形式論理の歴史を述べたうえで︑レトリックによる法論理の必要性を述べる︒そして. その際の議論は︑一方の当事者の妥当でない議論を排除し︑他方の当事者の議論を受け入れることであった︒その場. 合︑先例の権威が重んじられ︑従って︑先例との類似性が問題となり︑類推解釈︵帥茜gB窪εヨ帥ω一巨εが用いら. れる︑当然解釈︵貰αQロヨ窪9ヨ帥8三〇ユ︶は判決理由︵轟菖oα9置窪象︶に基づく︒反対解釈︵巽讐ヨ窪εヨ四 ︵6︶ 8暮声ユo︶は︑類推解釈による先例適用が不当である場合に用いられる︒先例拘束も︑その適用による結果が不当. である場合︑維持されない︒これらの解釈は︑結果との関係を無視できないために用いられている︒法律家は︑法的 ︵7︶ 推論と正義とを調和させようとしてきたのである︒従って︑このような作業を遂行するのには︑形式的推論では不充. 分なのである︒不充分な故に︑類似の事件にかかわらず類推解釈と反対解釈の区別をなすのである︒. しかし他方で︑中世までの自然法思想は︑正義の普遍的体系で︑合理的形式的体系と考えられた︒だが︑自然法思. 想は︑ホッブズ︑モンテスキュー︑ルソーで変容し︑結局フランス革命において法は法律の総体とされるに至ったの. である︒法律は国民主権の表明であるから裁判官の役割は︑法の機械的適用にすぎぬものとなった︒そして一九世紀. 前半のフランスを支配したのが注釈学派︵一︑魯o一Φ8一.窪甜ぴのo︶であった︒注釈学派は実証主義的な方法によって.

(19) 法の演繹を重視し︑立法者の意思表現たる法律のみに基づいて法的推論を行った︒しかし︑法律には沈黙︑不明瞭さ. は避けがたい︒概念法学︵浮讐まω甘旨冥&①自︶は︑数学的体系に等しい厳密な方法によって︑法律の欠陥を最 ︵8︶ 少限にできると考えたのである︒注釈学派は︑法律の欠敏を埋めるため種々の方法を考えたのである︒. しかし︑一九世紀後半の歴史法学派は︑法の機能的観点を持ち︑一九世紀末には支配的勢力となったのである︒歴 ︵9︶ 史法学派では法は価値実現の手段であり︑立法者意思を重視し目的論的解釈を行う︒従って法律制定作業が重視され. る︒しかし︑立法者はあらゆる事を予想して法文を細部まで決めることは不可能であるし︑目的解釈も立法者意思と ︵1 0︶ 異なる場合がありうる︒結局︑立法者意思に頼ることはフィクションを用いることにならざるをえない︒. 実定法は人間行動を準則に従わせる目的の企てなのだという法の機能主義的考えは︑法体系と数学的体系︵純粋な. 形式体系・ゲームの規則︶とを同視しないけれども︑この体系の機能する基礎を考慮していない︒つまり︑どの程. 度︑裁判官は法文を社会に適応させるのだろうか︒立法による法律の是正が困難な場合︑その是正の役割は裁判にか. かってくるのであり︑その場合︑裁判官はフィクションに頼る場合もあるのである︒結局︑法は法律ではなく︑実質 的な法創造の役割は裁判官が引受けることにもなるのである︒. 一九四五年以後には︑法実証主義への反動が生じ︑自然法が再評価される︒しかし︑これも︑一七︑八世紀の自然. 法への復帰ではない︒それは︑合理主義的原理と︑実証主義的考え方の双方に反対するということなのである︒法の ︵12︶ 一般原則も︑﹁いたる所で認められているとみなされる不文の原則﹂というアリストテレスの概念の復帰を意味する︒. 一四一. 法と閉じた体系ではなく︑文化的︑社会的文脈から孤立してあるのではない︒裁判所機能は︑立法による法秩序と所 レトリックー法と政治の論理ー︵北原仁︶.

(20) 早稲田法学会誌第三二巻︵一九八一︶. ︵1 3 ︶. 一四二. 与の社会で正義で平等であると思われる考えとを調和させることであるから︑司法権は︑立法権の不可欠の補完的側. 面を構成するのである︒つまり︑抽象的準則を具体的事件に適用することは︑単なる演繹過程ではなく︑裁判上で相. 争う価値に法規定を絶えず適用することなのである︒従って︑このような過程では︑法の一般原則︑法的トピクの役. 割が重視されるのである︒法的トピクは︑アリストテレスの﹁トピカ﹂で扱った共通のトポスに対する特殊トポスを ︵14︶. 意味する︒ゲルハルト・ストルックは︑O.ω曾琴犀法的トポスとして六四を挙げているが︑これですべてというわ. けではない︒たとえば︑1︑後法は前法に優先する︒い霞℃8盆ユ巽留8αq讐一①笹矯δ二2︑特別法は一般法に優 先する︒ピ粟磐8凶巴ωαR畠讐一①短鴨器壁ユ等がある︒. ︵15︶. では︑ペレルマンの法理論はどのようなものなのだろうか︒ペレルマンは︑まず司法イデオ・ギーを三段階に区分. する︒第一段階は︑フランス革命前であり︑判決の理由づけは重視されず︑司法理論は︑類似の事件には平等の取扱. いをするという法準則により拘束されていた︒第二段階は︑フランス革命後一世紀以上に亙る期間であり︑合法性と ︵16︶. 法的安定性が重視され︑司法推論は形式的演繹的側面が強調された︒第三段階は︑数十年前からであり︑法の一般原. 則および法的トピクの再考により︑妥当な結論が追求される時代である︒そして︑ペレルマンは︑以下の如く具体例 に則して︑法論理の問題を追求する︒. 法律が世論の一部の強い反対にもかかわらず可決されたときは︑反対派と妥協するため法律の適用は微妙な方法で. なされる︒たとえば一〇年ほど前からの中絶問題では︑中絶をしてもらう者ばかりか中絶を手だすけする者も罰する. 法律はプ・テスタント諸国では先に法律が修正されたが︑カトリック諸国では修正がおくれていた︒オランダでは︑.

(21) カトリック教徒の社会的影響力が大きく︑立法が修正されるかわりに︑病院内の堕胎は検察官が訴追せぬこととした. し︑多数のカトリック教徒のいるベルギーでも︑オランダと同様な政策をとった︒一九七五年一月一七日の妊娠の自. 由な中絶に関する法律以前のフランスでは︑司法大臣の通牒によって︑一九七三年︑検察庁は司法省に報告すること ︵17︶. なしに訴訟を提起しないことにしていた︒そして大統領は一九七四年七月︑記者会見で﹁新法律採択前には﹂いかな. る訴訟も提起されないと述べたのである︒合意︵8琴窪霊ω︶の成立の困難な問題では︑法律適用の際の妥協によっ て法律と現実とを一致させねばならないのである︒. 一〇〇. 一八=二年ベルギ憲法九七条は︑﹁すべての判決は理由を付しかつ. 法律の規定に反する長きに亙る慣行が行われているときには︑その慣行に異義が唱えられたとしても︑その慣行を 捨てるよりも法文の解釈を再発見しようとする︒. 判決は公開の法廷でこれを宣することを要する﹂と規定するが︑会計検査院︵一四〇〇彗8ωOoB讐霧︶は︑ ︵18︶. 年に亙る慣行で公開ではなかった︒一九五九年︑裁判所を様々の型に区分するという目的解釈によって︑この慣行を 正当化したのである︒. ︵19︶ さらにペレルマンは次の例によって︑法論理の構造を明らかにしようとする︒フランス民法典一一条﹁外国人は︑. この外国人の属す国の条約によってフランス人に現在認められ︑または将来認められる市民的諸権利と同じ権利を享. 受する﹂という相互条約規定によって︑条約国以外の外国人や無国籍者は市民的諸権利が認められないことになる︒. 従って訴権も否認される︒フランスとベルギ!は相互条約を結んでいるので︑事件はベルギーでも生じ︑ベルギー破. 一四三. 殿院は︑条文は国際法︵身o律8鴨房︶に反しているという理由で︑一八四八年八月三日の判決においてこの条文 レトリヅクー法と政治の論理ー︵北原仁︶.

(22) 早稲田法学 会 誌 第 三 二 巻 ︵ 一 九 八 一 ︶. 一四四. は国際法に法源を持つ市民的権利には適用されないと述べて︑訴権を自然法と考えられる正当防衛権と結びつけたの. である︒一八八○年一〇月一日の判決では︑市民的権利は政治的権利と対置されるものという慣用的意味に反して︑. 市民的権利は自然法に結びつけられ︑外国人は自然権としての市民的権利を有すると述べたのである︒フランス破殿. 院は簡単に反対の規定のない限り外国人に市民的権利が認められるとしたのである︒これらの例では︑実定法と不文. 法準則との間に二律背反を設け︑法文の範囲を限定し︑裁判官が不文準則を用いやすい欠陥を創出するのである︒成 文法は︑自然法︑法の一般原則︵衡平︶︑国際公序に対置されるのである︒. 以上のようにペレルマンは︑法論理を分析し︑これらの他にもいくつかの型の法論理を分析している︒しかしペレル. マンのこれらの分析は︑なぜそのような論理を裁判が駆使しなければならないかということにあまり触れていない︒. っまり社会の諸価値をつき動かすものが言及されないために分析が形式的になっているように思われるのである︒次. P嵩斜. ︒o ︒. ℃●o. 章においてペレルマンの影響とその新しいレトリックとしての法論理を検討批判しようと思う︒. 一げ箆●︸マ一ミ●. 一げ置. Oげ.娼Ro一B帥poマo一け. OF℃Ro一B曽P■o轟一ωoβ昌帥三Φ9一〇象壁一ωo昌昌巴︾一〇〇昌身o登>.U●噂. ︵2︶. ︵3︶. OF℃Ro一ヨωPいooq58旨ユ象ρqρ2仁o︿①=①旨鋒oユρqo℃No畿餓oPマS. ︵1︶. ︵4︶. 一零ooり. ︵5︶. 一げ置. 一び置●℃Poo. ℃マ㎝IS. ︵6︶. 唱︒O︒. ︵7︶.

(23) ︵8︶. 一び箆こ℃・. 一び箆4マ 朝ド. 一び凶α4マ qド. ︒. ︵9︶. 層 刈9. や 竃6. .松坂. 一ω?一ω刈. oo oo. 0卜 0. ㎝. ︵10︶. 一げ凶α. マ. 一げ筍. 一び箆 P. ︵11︶. ︵13︶. 一び一亀. 一げ箆. ︵2 1︶. ︵4 1︶. 前掲 六三七−六三八頁︒. 自然科学モデル︑これは理性でなく事実から出発する︒以上の三つである︒ヴイレイは. ユークリヅド・モデル自然法学派がそうであり︑幾可学的方法を用い演繹的である︑ω 技術モデル︑こ. この第三段階はヴィレイのいう論理学による野心の時代である︒ヴィレイは理性と事実との矛盾は三つのモデルに分けら. ℃マ. ︵15︶. ︵16︶. れるという︒ω れは功利主義的法概念である︑③. o.. ℃マoo−o. 一四五. この妊娠の中絶に関する法律は︑一九七五年一月一五日合憲判決が下った︒野村敬三﹃フラソス憲法院と妊娠中絶法﹄金. であって︑その発見が人間理性の役割なのである︒冨一9①一く蜜oざ勺泳自80窪曾o噌5鐸や>.U●型. これらに対し︑ギリシャ ・ーマ・モデルとでも言うべきものを提案する︒ヴィレィによれば︑アリストテレスの自然法に おいては理性は人間でなく物に宿る︒だから自然法は明示的仮定から構成でぎず︑事物にかくれていて発見すべき秩序なの. ︵17︶. 一ぴ箆 P鼠O.. Oげ●勺R①一ヨ P一〇讐ρqo㎞Gユ象ρ蝿P20G︿o一一〇旨簿oユρ8矯曽畿凶ユoP℃︒一ωO︒. 沢法学第一九巻第一・二号合併号︑参照︒. ︵18︶. 一げ一α. ℃や鼠㌣置もo●. ︵19︶. レトリックー法と政治の論理1︵北原仁︶.

(24) 早稲田法学会誌第三二巻︵一九八一︶. 四︑影響と批判. 一四六. ペレルマンの新しいレトリックとしての法論理は︑妥当性︵一〇声δo冨三①︶と合理性︵一帥声ユ2巴一応︶を区別し︑. 法は前者にかかかわり︑そして妥当な解決は︵専門家を含む︶聴衆に向けられ︑この解決は弁証術的推論によって獲. 得されるというものである︒妥当性というのは当然幅のあるものであるから︑このことについてペレルマンは︑﹁そ. のようにして画定される境界というのは︑何らかの平等または比例と結びつけられる正義または衡平よりも法制度の. 機能に関係するものである︒つまり︑先にいくつかの例で述べたように︑妥当でないということは︑不当または不衡 ︵1︶ 平によるだけでなく滑稽さまたは不適切さからも存在することがわかるからである﹂と述べ︑妥当性という考え方は 社会の価値感情にもかかわることを示唆しているように思われる︒. ではこのようなペレルマンの法論理は︑どのように受けとめられているのだろうか︒アメリカの法哲学者マネリ. 蜜き①一一は︑アメリカ法理学とペレルマンの新しいレトリックを比較し︑二〇世紀のアメリカ法理学では法の適用は. 形式論理では不充分だということが気づかれており︑ホームズU●≦・出〇一ヨoωとデューイいUo名亀は新たな法論. 理を模索していたし︑ホームズ︑パウンド刃勺9呂︑カードーゾ中客O巽α80等は︑ペレルマンの新しいレト ︵2︶ リックと同じ出発的に立っていたのだ︑と評している︒そしてパウンド等の提起した問題に答えたのは︑結局ペレル. リアルω什9訂ま霞巴ωである︒リアルは︑スタ. マンだと言うのである︒また︑スタンダード概念を行政法との関連において詳細に研究し︑この概念のレトリック的. 機能に着目しているのが︑フランスの公法学者のステファンヌ.

(25) ︵3︶. ンダ!ド曾き3a概念は主に三つの機能的特徴を持つと言う︒すなわち︑ω. スタンダードは事実上さもなくば. 法的に︑法命令権威が持つ法創造権限を︑法適用権威に移転してしまうかもしくは︑この二つの任務を一つの権威が. スタンダードは説得︑正統︑および一. スタンダードによって法体系は永久的に整序できる︑とい. 共有するなら︑スタンダードは法適用権威の権限を留保するのに役立つ︑②. 般化に関連する三つのレトリック的任務を保障する︒③ ︵4︶. う三つである︒このようにリアルは︑スタンダード概念のレトリック的機能に着目し︑その中心概念は常態︵ぎ7. 日巴寡︶だと考える︒リアルによれば︑スタンダード概念は人間行為と状況を測定する器具なのであり︑そのような. ︵5︶ ものとして十分と不十分︵一〇のロ臼ω四暮9一.ぎ豊臼怒導︶︑満足︵ω暮一珠巴ωきε︑不備︵α陳9冨莫︶等がある︒また ・︵6︶ 公序︵い.o&お讐窪o︶︑一般利益︵い.一暮簿騨㎎曾騨巴︶もスタンダードとされる︒従ってスタンダードは︑政治的︑. 社会的価値と無関係であるわけにはいかないのである︒そしてリアルはスタンダード概念の働きを︑著書の結論にお. いて次のように述べる︒﹁行政制度では常態という考えが大きな場所を占めている︒⁝スタンダードは法に内在する. 危機を暴露するという意味において︑法批判概念なのである︒スタンダードの研究によって︑つまるところ︑法の実. 体的思考に基づく支配的な諸思想の理論的空隙を計ることができるのである︒つまりそこでは︑事実の肥大によっ ︵7︶ て︑何が法なのかの無理解が表われているのである﹂︑と︒リアルの考えは︑スタンダードというものは︑政治的︑. 社会的価値を汲みあげると同時に︑それを法的に整序し法秩序化するというものであろう︒リアルの研究はレトリッ. 一四七. バルヴェークO昏ヨ巽ω毘毛囲は︑ペレルマンの新しいレトリックに対. クによる法論理にも︑その精緻な説明と相まって︑多くの示唆を与えているように思われる︒. しかし一方︑西ドイッのオットマール. レトリックー法と政治の論理1︵北原仁︶.

(26) 早稲田法学会 誌 第 三 二 巻 ︵ 一 九 八 一 ︶. ︵8︶. 一四八. し一定の評価をしつつも批判している︒特に普遍的聴衆概念は︑時には非理性的にもなる大衆社会においては理解で. きない︑と批判する︒しかし法的思考は目常的思考と同じ性質のものであり︑法言語は日常言語と同じように形成さ ︵9︶. れるから︑レトリックは有効だ︑と彼は考える︒ただし新しいレトリックではなく︑古代のレトリックが有効だと考. えるのである︒トポスは議論の前提であるが︑それを発見する技術が古代トピクであり︑つまり発見の術︵巽ω一〒. <窪臼︶である︒トピクはトポイ︵8且ートポスの複数︶の百科全書︑つまり類似の意見の分類カタログなのである︒ ︵10︶. そして議論の全過程を通じて発見の術が用いられる︒つまりトポスが議論の過程を移動するのである︒だからこれは. 方法というより︑習慣によって学ぶものなのである︒このようにバルヴェク教授は︑ペレルマンの新しいレトリック を批判する︒. 確かにペレルマンの普遍的聴衆の根拠づけはあいまいであり︑納得しがたい︒そのうえ普遍的聴衆の根拠づけが崩. れれば︑普遍的聴衆に基づくペレルマンの共通のトポスも崩れることになろう︒そうなれば︑ペレルマンの新しいレ. トリックの主要部の変更も余儀無くされるであろう︒ペレルマンは方法論を哲学に代用させようとしているように思. われるのである︒つまり論理体系の自己完結性を至上目的とするのが実証主義的形式論理であるとすれば︑理論を展. 開する方法論そのものを理論に代える方法論主義が︑ペレルマンの新しいレトリヅクであろう︒そして方法論を理論 にまで押しあげる挺子となる概念が︑普遍的聴衆なのである︒. またペレルマンの新しいレトリックは︑価値多元社会を前提としているが︑新しいレトリック自体は︑なぜ価値が. 多元的であるのかを説明するものではないし︑価値の生成︑発展︑消滅の理由も説明していない︒つまり価値の問題.

(27) と価値を対象とする論理は区別して考えるべきではなかろうか︒従ってレトリックには何らかの価値論が理論的前提. として必要なのではなかろうか︒第二章においては︑制度と主体の観的から価値の問題にふれ︑人間主体にとって価. 値とそのコミュニケション過程は必然だと述べたのである回では︑認識と価値が人間主体において統一されうるなら. ば︑認識と価値との関係はどのようなものなのだろうか︒つまり人間社会にとって恒久的︑普遙的な価値があり︑そ. れは認識から導き出しうるのだろうか︒価値の生成︑発展︑消滅を惹き起す原動力は存在し認識できるのであろう. か︒この問題をドイッの哲学者のハしハーマス冒茜窪属呂巽ヨ霧の考えを手がかりに考察してみようと思う︒. ハーバーマスによれば︑価値は内面化され︑動機化されているが︑価値関係には真理関係が対応しているのであ ︵n︶. る︒つまり真理関係は認識の対象となるのである︒しかしハーバーマスは︑晩期資本主義における価値と認識の分裂. は︑正統化の危機として表われているという︒つまり社会的剰余生産は不平等にしかも正統的に分配されるに際し︑ ︵12︶. 規範が一般可能な利害を表現するものである限り︑それはある理性的合意に基づくか︑あるいは一般可能な利害を規. 当事者双方の間の勢力が均衡してい. 制するものでなければ規範は暴力に基づき︑これは規範的権力となると言う︒またハーバーマスは理性的合意と妥協 ︵13︶. 交渉の対象になる利害が一般可能ではないこと︑である︒この考えに立てば︑ペレルマンの妥当性とい. を区別し︑妥協の正統化には︑二つの条件が必要であるという︒すなわち︑ω ること︑②. うことも見せかけにすぎない場合があるということになろう︒また一般可能な利害という表現の裏に階級的利害を読. みとることもできよう︒そしてハしハーマスは︑一般可能な利害に照すことでイデオ・ギー批判が可能だと考えるの. 一四九. である︒そしてこのことを次のように述べる︒﹁イデオ・ギー批判の立場に立つ社会理論は︑一般可能な利害の抑圧 レトリックー法と政治の論理1︵北原仁︶.

(28) 早稲田法学会誌第三二巻︵一九八一︶. 一五〇. というモデルから出発して︑そのつど存立している規範構造を︑同じ条件下で議論によって形成されるはずの規範体. ︵14︶. 系という仮設的状態と比較するときのみ︑社会の制度体系に組みこまれた規範的権力を確認することができるのであ. る﹂︑と︒しかしハーバーマスの言うように︑一般可能な利害がイデオロギー批判の根本的な基準だとしても︑価値. は個々の人間主体において表れる他ない以上︑その表れ方の個別的メカニズムまで︑いわば実存レベルマで堀り下げ ることが必要である よ う に 思 う ︒. 従ってペレルマンの新しいレトリックは︑方法論としてのみ理解すべきであるように思う︒そして︑それを古代の. レトリックと連続したものとして考えるべきであろう︒つまり新しいレトリックは︑ペレルマンにおいて完成したわ. けではないと思う︒このような前提を理解した上でなら︑レトリックは法と政治をめぐる議論においては特に有効で あり︑それを分析することで多くの成果が得られよう︒ ︵15︶. たとえば︑人権に関するフランス憲法院の諸判例は︑人権判決の歴史が短いことを考慮しても︵フランスのマーベ. リー対マディソン事件といわれるボーヴォアール事件判件が一九七一年七月一六日︶︑法律の合憲性審査請求のでき. る者が︑憲法六一条によって大統領︑内閣総理大臣︑国民議会議長︑元老院議長︑六〇名の国民議会議員または六〇. 名の元老院議員に限られているため︑結局法案に対する反対政党︵多くは野党︶の審査請求により下されたものが多. い︒従って審査請求は野党︵そしてその支持者︶の政策を反映したものになりがちである︒しかし憲法院はそのよう ︵16︶. な審査請求であろうと法的判断を下さねばならないのである︒だから憲法院判例は判決結果を重視するゆえに論理が. 脆弱なものになっている︑と批判を受けるのである︒また一九八一年春のフランスでの左翼政権の誕生により︑従来.

(29) ︵17︶. の諸政策の再検討が必要となろう︒例を挙げれば放送の自由化︵一九七八年︑国の放送独占権合憲判決が下ってい. る︶︑企業︑銀行の国有化をめぐって︑法律の合憲性審査請求がなされたなら︑憲法院はいかなる論理を展開し︑そ の論理整合性はどうなるのだろうか︒. ひるがえて我国においても︑最高裁判所の政治姿勢が夙に言われている︒そしてそれがどのような理論で判決に表 ︵18︶. れているのかを分析する方法としてレトリックは有効だと思う︒またご言我国の法的トポスについていえば︑公法/. 私法の区別は実定法上の根拠に基づくものではないという︒しかしこの区別は法律家に当然のこととして受け入れら. れている︒だからといって︑その区別を当然視するのではない︒逆に顕在化させた上で批判検討することが必要であ ろう︒. 一So︒︾マ島︒. OF℃Ro巨目堕ピ①賊巴ω8ロ呂一〇〇二〇象益一ω8岩げ一〇讐︾U︒℃. 一ぴ箆一℃︒①N︒. Ooo●. 一五一. 曽σ鵠o些9琶ユ①α同o詳℃仁三凶P一〇〇〇ρ. ︵−︶. 一び箆. マ. 暮曽一の魯一四冨9三ρまα二ω3旨鼠巳. 家一〇〇黛巴帥譲窯きoF↓冨器名什箒o昌o賊mお自ヨ雪3鉱o昌帥昌α薗ヨoユo§噺ξ凶ω陰鼠o口oPいoひqβ話魯︾昌巴誘900一. ω.. ︵2︶ ︒. 唱. ■一NO︒. ω什曾げ鋤冨空巴ω℃いo冒ひq①包B一三の賃跨罵坤. ︵4︶. ヨ箆 ℃P一〇㎝1一〇S. ︵3︶. ︵5︶. ℃. ︵6︶. 一げ箆. 唱マ刈ooIお.. ︵7︶. レトリックー法と政治の論理ー︵北原仁︶.

(30) 冒箆 マ笛OO︒. 〇暮ヨ弩ω包一類Φσq︶一②声ユ〇三一叡冥βαΦβユo=ρ>・U︒℃. 早稲田法学会誌第三二巻︵一九八一︶. ︵9︶. ︵8︶. 一七八ー九頁︒. 同右︑ 一七八頁︒. ℃●謡oo・. 一五二. ユルゲン・ハーバーマス︵細谷貞雄訳︶﹃晩期資本主義における正統化の諸問題﹄岩波書店 一九七九年 一五一頁︒. 一八○頁︒. 一げ箆 マN①O・. ︵12︶. 同右. 同右. 一〇〇〇ρ唱マωOI占・. ︵10︶. ︵13︶. 一ω. ︵11︶. ︵4 1︶. ︿o凶お. O餌三90ピoωoげ薗F冨Oo拐o出8拐ユ葺二〇昌昌oど冥o冨90β増O窃一まR叡毘. 野村敬造﹃第五共和国と結社の自由﹄金沢法学第一八巻第一・二合併号参照︒ りo. ︵15︶. 第七章. 曽冒≡9一〇刈oo︒U︒一〇〇 〇9P一$︒. 下山瑛二﹃マルクス主義法学講座5﹄. Oo拐●Oo房瓢什. ︵6 1︶ ︵17︶. ︵18︶. ︵付言︶. 当初の予定では︑ さらに具体的に事例の研究をするつもりであったが︑それどころか他の多くの問題点にもふれることができ なかった︒そのうえ︑論点を十分拾捨選択して論旨を明解できたわけでもない︒今後に期したい︒.

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