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平和の政治倫理学(三)

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E岡 77一一『奈良法学会雑誌』第1巻3号(1988年12月〉

V

平和の政治倫理学

ω

日 次 序 言 第一章従来の平和論の根本的欠陥 第一節価値論の欠如 第二節権力論の欠如︿以上第一巻一号﹀ 第二章平和の理論的基礎 第一節平和論の前提と諜題(以上第一巻二号﹀ 第二節反戦行動の倫理的正当性(以上本号) 第三節反戦行動の実践的可能性 第三章平和の究極的制度 結 語

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第1巻3号一一78

第二節

反戦行動の倫理的正当性

前節において述べたように、実効的な平和論は反戦行動の倫理的正当性に関する理論と、同じくその実践的可能性 に関する理論の、三つから構成されねばならない。そこで以下、本節において前者を、続いて次節において後者を、 それぞれ取り上げることにしたい。 という訳で、本節の主題は前者の理論であるが、それはまず反戦行動の倫理的正当化そのものに関する次のような 概念規定から、従ってまた正当化のそのような方法論的設定から、始まる o l i -既述の如く、反戦行動には倫理的 正当性がなければならない。しかもそれは、戦争の正当化の論理と正面から衝突するものでなければならない。即ち、 それらは相互排反的であり、同一一半面上で相闘うものでなければならないのである。しかし、実はそれだけではまだ 十分ではない。単に相互に対立するというだけでは、反戦の論理は戦争のそれを克服することはできないのである。 両者の対決が、戦争を肯定又は否定するための(特定の内容をもった)思想やイデオロギーのそれに終始するならば、 それらが如何に激しくぶつかり合おうとも、最終的な決着がつくことは全く期待できないであろう。言い換えれば、 戦争の是非を普遍的な価値観や正義観に基づいて客観的に判定することは、(理論的にはともかく)現実には到底不可 能であろう。何故なら、(略言すれば J 倫理的価値は本来客観的であるが、その基礎たる非倫理的価値の(しかも﹀具体 的な内容は(少なくとも究極的に﹀主観的なものであり、実際の倫理的価値判断はそのような主観的・非倫理的価値観 (幸福観﹀の影響を免れ難いからである。従って例えば、東洋的な生命尊重の思想をかざして唯一神的な聖戦論にいく ら挑んでも、無黙であろう。或は、世界草命の思想に対して絶対平和主義を突きつけても、時はあかないであろう。 それ故、反戦行動の倫理的正当化とは決して何らかの具体的価値内容の提唱ということではない。即ち、反戦に連な

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る一定の中核的価値(例えば博愛や平等や福祉﹀を明らかにし、それを擁護せんとするものではない。そうではなくて、 人々の反戦行動の立場そのものを理論的に確立すること、そして逆に、戦争の正当化を図る、戦争遂行者としての国 家の立場そのものを理論的に否定するこ 3乙 で あ る 。 つまり、戦争を巡る双方の立場そのものを対象としその根拠を問 ぅ、言わば﹁形式的アプローチ﹂なのである。そしてそれが、 ﹁ 序 丑 一 口 ﹂ で 述 べ た ﹁ 根 源 性 ﹂ の 条 件 に 則 っ た も の で あ ることは、言うまでもない。本節における﹁反戦行動の倫理的正当性﹂の意味するものはこれであり、こうした形式 的アプローチによってのみ、我々は戦争の論理を理論的に打ち破ることができるであろう。 このように、求めらるべきは、そうした﹁形式的﹂観点からする、反戦行動の倫理的正当性の基礎づけである。そ れによって、戦争へと向う国家的立場そのものを倫理的に否定しなければならないのである。以下はその試みである が、しかしそれを成し遂げようとすれば、(﹁序言﹂でも少し言及したように﹀価値及び倫理の本質、人間そのものにとっ ての権利と義務、国家と個人の規範的関係などといった、倫理学上及び政治哲学上の極めて根本的且つ論争的な問題 に直接関らざるをえない。このことは当然﹁基礎づけ﹂の困難を、即ち(﹁根源性﹂の生み出すべき) ﹁一般性﹂と﹁白 79一一平和の政治倫理学肖 明性﹂の条件の確保の困難を、十分に予想せしめるが、果してそれを克服することができるであろうか。ともあれ、 もはや敢行する以外にはないが、論述を始めるに当って、まず最初に基礎づけの全体的な展望(理論構成)を示して おく必要があろう。以下で展開される、反戦行動の倫理的正当性の基礎づけは、基本的に次の三つの副次的理論(な い し 要 素 理 論 ) か ら 成 っ て い る 。 それぞれの概要であるが│││第一の理論は、︿何らかの主体の何らかの種類の)幸福こそがあらゆる(即ち非倫理的又 は倫理的な)価値の究極的根拠(従ってまた究極的価値及び究極目的)であり、それ故諸々の価値は、 ( 各 々 幸 福 と は 無 関 係 に そ れ 自 体 と し て 価 値 が あ る よ う に 見 え る が ﹀ 実 は (それが幸福の直接的な一部分でないかぎり﹀全て幸福の手段の自己目的

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第1巻3号一一80 幸福などとは無縁の如くに見える崇高な価値も、そもそも(誰かの) 幸福に由来し幸福に依拠しているのである。このような理論は、戦争を正当化する際に使用される様々の﹁崇高な﹂ 化したものに他ならない、というものである。 価値の非自己目的性・非究極性・非最高性、即ち手段性・相対性、従って限定性を、暴露するのに役立つであろう。 そして、平和は、逆に幸福という(通常)自らに最も近い価値が覇権を握ることによって、自己の確固とした倫理的 根拠をそこに見出しうるであろう。 続いて第一一の理論は、︹それは第一の理論からの(一定の条件の下における)必然的帰結なのであるが︺あらゆる倫理的価 値(単なる価値一般ではなく倫理的価値)の、従ってあらゆる倫理的正当化の、根底には、抽象的な意味における(それ 故何らかの)全体(言い換えれば、行為の対象者又は他人)の幸福というものが存在しており、究極的にはそれによって、 行為の正当性が何らかの仕方で ( 即 ち 、 全 体 の 幸 福 に 最 も 有 効 と 思 わ れ る 、 全 体 の 幸 福 の 測 定 方 法 で 汁 ) 判 断 さ れ う る 、 と いうものである。倫理的行為それ自体がしばしばもっ神聖さも、根源的には﹁全体の幸福﹂に由来しているのである。 そうであるならば、戦争という行為においては各個人が(単に行為者であるに止まらず、それと同時に﹀直接的な対象者 であるから、戦争の是非に関しては各個人がただ彼自身のこととして自由に判断してよいということになるであろう。 自分の幸福だけを考えて全く怒意的に決めればよいということになるであろう。倫理的価値は、他の諸価値にはない 全体性(対他性﹀という形式の故に、一般に個人的主観に関りのない客観的義務として現れるが、しかし戦争という ( 行 為 者 と 対 象 者 を 区 別 し え な い ) 特 別 の 事 態 に お い て は 、 まさにその全体性の故に、逆に全ての個人が倫理の主権的な 立法者となりうるのである。このような理論は、広く一般に、抽象的な国家全体の行為として見られている戦争とい う も の を 、 一人一人の個人という実態のレベルに還元し、我々がそれを制御するのを可能にするであろう。 最後に第ココり理論は、(言葉の真の意味における)倫理的当為性(義務)は平和と安全が一般的に確立された社会秩序

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の 下 に お い て の み 原 理 的 に 成 立 し ( 従 っ て 妥 当 性 を 有 し ﹀ 、 それ故戦争状態にあっては基本的に消誠するから、 人々は 戦争に関して如何なる義務も負わない、というものである。倫理的義務なるものはそれ自体に基づく先験的・超越的 なものではなく、一定の条件の下に経験的且つ論理的に成立する合理的・合目的的なものであり、従って(その意味 で﹀条件的・相対的なものであるが、戦争はそうした義務成立の前提条件を根本的に破壊してしまうのである。 ような理論は、戦争に際しての人々の行動の完全な自由、従って国家的意志決定の無拘束性、従ってまた反戦行動に 対する非難や抑圧の倫理的不当性を論証し、人々が自己の欲求又は信念に基づいてあくまで平和を求めるという権利 を保障するであろう。 こ の 81-一一平和の政治倫理学骨 ﹁基礎づけ﹂を構成する一一一つの理論について、それぞれの(中心命題の)概略を説明した。もしそれらの理論 が妥当であるならば、反戦行動の倫理的正当性は理論的に確立されたと言えるであろう。そしてそれによって、平和 論はその根幹たるべき価値論をようやく手に入れることになるであろう。そこで、それらゴ一つの理論の妥当性を論証 * するために、これから順次その内容をより詳しく検討してみなければならない。 * 但 し 、 そ う は 言 っ て も ( ま た 、 本 稿 に お い て 私 は こ れ ま で 私 の 倫 理 学 的 言 明 に 関 し て し ば し ば ﹁ 後 述 す る よ う に ﹂ と 記 し て き た に も か か わ ら ず ) 、 そ れ ら は 各 々 極 め て 大 き な 問 題 を 対 象 と し て い る の で 、 こ こ で の 叙 述 に は 限 界 が あ り 、 や は り 略 説 に 止 め ざ る を え な い 。 そ れ ら に つ い て の よ り 本 格 的 な 考 察 は 、 ﹃ 法 学 論 叢 ﹄ ︿ 京 都 大 学 法 学 会 ) 等 に お け る 一 連 の 別 稿 ( 一 . 九 七 八 l 八 六 年 ) を 参 照 さ れ た い 。 以 上 、 まず第一の理論について。 1 1 1人間の普遍的且つ最も根本的な性質(の一つ﹀は欲求の存在である。人間(だけで はないがともかく人間﹀のあらゆる行動は常に何らかの欲求によって惹き起こされる。ハ少なくとも最終的に﹀欲求がなけ れば、何ごともなされえない。如何に高等な営みといえども、それに対する欲求があって初めて可能となるのである。 欲求とは人間にとって斯くの如く本質的であるが、そうした欲求に基づいて幸福の観念というものが必然的に生み

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第1巻3号一-82 出される。即ち、如何なる欲求も、それに対応する一定の幸福観念を形成せざるをえない。何故なら、欲求とは常に その充足を指向するものであり、欲求と充足とは不可分の関係にあるが、そうした欲求の充足によってもたらされる ものが、まさに幸福だからである。幸福とはハ最大限可能なその普遍妥当的規定は)欲求の充足(正確には、それに伴ゲ又 は何らかの形で関る一定の心的状態)に他ならず、少なくとも、両者の内在的な連関性は明白である。ともあれ、欲求は その充足を介して必然的に幸福と結合するのである。そして、そのような幸福観念が一旦成立すれば、今度は逆にそ れが欲求を規定するようになるであろう。即ち、あらゆる欲求が自らの充足を図る以上、幸福が(あらゆる欲求の原因 とは限らないが)あらゆる欲求充足の目的となるのである。 続いて更に、そのようにして形成された幸福観念から、やはり必然的に価値の観念が生ずる。幸福観念はその内的 性質の故に価値観念を創出せざるをえないのである。何故なら、欲求充足の目的としての幸福の観念は、幸福に差等 がありそれが決定的に重要である以上、(幸福自体の質的・量的相違は捨象し、単純化して言えば、)それを中心とする(言 わば)放射状或は同心円状のスケールを生み出し、その上にあらゆるものを位置づけるからである。即ち、我々は幸 福をもたらすものを価値と認識するのであり、幸福との距離をもってその大小(又は高低)とするのである。ところ で、そうであるからには、幸福(欲求﹀の究極的主観性の故に、価値は(如何なる価値も﹀本質的に相対性を免れえま い。つまり、価値は評価主体ハたとえ全人類にせよ﹀の幸福観や感受性に根本的に依存しているのである。それ故正確 ﹁或る人の幸福をもたらすものはその人自身にとって(非倫理的な﹀価値がある﹂と言わねばならない。そして -r ﹂ + 晶 、

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それは、倫理的価値についても当然同じであって、﹁ハ人間の社会性の故に個人の幸福と全体の幸福とは多様な意味において 一 般 的 に は 合 致 す る か ら 、 ) 全 体 ハ 又 は 対 象 者 ) の 幸 福 は 全 て の 人 々 に と っ て 非 倫 理 的 価 値 が ( 但 し 一 般 的 に ) あ り 、 従 っ て また、全体の幸福のための手段(行為や心性﹀は全ての人々にとって倫理的価値が(こちらは、常に)ある﹂のである。

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ともあれ、あらゆる価値は︿何らかの主体の何らかの)幸福に由来しているのであり、幸福(最高価値﹀と価値は目的と 手段の関係にある。即ち、言い換えれば、価値とはハ少なくとも究極的に)幸福に対する有用性なのである。 しかしそれでは、それ自体としての価値、自己目的的な価値の存在は、どうなのであろうか。それは如何にして説 明されるのであろうか。 1111 もし価値が本質的に手段であるならば、それは必然的に第二次・第三次:::の目的を 生み、かくして一つの目的 H 手段体系が形成されるであろう。しかるに、そのような体系内の連鎖が間接化し或は多 様化すれば、目的と手段の関係は稀薄になり、人々の意識の外に出てしまう。そうなれば、手段(第二次以下の目的) としての諸々の価値は自己目的化し、やがてそれ自体の放に価値があるかの如く思われるようになるであろう。そし て逆に言えば、それは同時に幸福観念の拡大、その豊富化・多様化に等しい。我々の価値観念の大半を占める殆ど直 覚的・自明的な諸々の観念は、このようにして形づくられてきたものなのである。例えば、自由や正義も、献身や慈 愛も、或は誠実や清浄も、全てそうである。実はそれらも、幸福(但し、社会的価値の場合には多数派のそれ)との一般 的な(決して普遍的ではないが)因果関係の故に自明化及び直覚化し、従って自己目的化したものなのである。それ故、 83一一平和の政治倫理学同 それらもやはりその価値としての究極的な妥当根拠は幸福にあると言えよう。それらの存在は決して価値の有用的 (功利的)本質と矛盾するものではなく、むしろ逆にその証左なのである。 このように、あらゆる価値はそもそも幸福観念に基づいており、そして後者は、人間行動の源泉たる欲求に発して いる。従って、欲求 l 幸福 1 価値というそのような必然的連関(即ち要約すれば、人間性 H 欲求ーその充足の目的 H 幸 福 ーその手段 H 価値)は、人間存在の中核を成しているのであり、そのように捉えることによって初めて、 というものの本質や位置、即ちその根本的な意味と限界を、理解することができるのである。 我々は価値 そうであるならば、ここに一つの重要な命題が論理的に導き出されてくるであろう。我々の判断を規定する或る根

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第1巻3号 84 幸福は他の全ての価値に優先するとい 本的な原理が必然的に引き出されてくるであろう。 それは、言うまでもなく、 うことである。幸福があらゆる価値の源泉でありそれ自体最高の価値である以上、それは当然のことと言わねばなら ない。この場合の幸福とは抽象的な幸福一般、従って具体的には(情況に応じて特定される)何びとかの幸福を指して いるが、如何なる価値も、そのような意味における幸福を否定したり乗り越えたりすることは本質的にできないので ある。その価値が如何に魅力的であり如何に光り輝いていようとも、(それ自体が幸福であり且つ純粋に個人的な価値であ るという場合でなければ﹀幸福に対しては膝を屈しなければならないのである。 だがそれについて、幸福とは言ってもその質や内容が問題であると、主張せられるかもしれない。そして、幸福の 優先は通俗的な快楽主義や倫理的エゴイズムに通ずると言われるかもしれない。しかし、そのようなものを否定し幸 福の質や内容を云々しうる(そうすべきであるならば)ものもまた、実は﹁人間﹂の﹁幸福﹂以外にはないのである。 快楽主義やエゴイズムが望ましくないとすれば、それはそれらが﹁人聞の幸福﹂にとって有害であるからに他ならな い。つまり、如何なる価値判断においても、究極的には、何らかの(具体的であれ抽象的であれ、また個別的であれ一般的 であれ、ともかく何らかの)人聞の何らかの幸福がその根拠とならねばならないし、またそれのみが合理的な基準とな りうるのである。 とは言え、もともと価値が幸福に由来する以上、(単一の価値しか問題にならない﹀通常の状態においては、諸々の (第二次的・派生的﹀価値が(その価値の種類に対応した一定の人間の)幸福と一致しないことはない。例えば、 或 る 人 間 の も つ 親 切 と い う ( 個 別 的 又 は 一 般 的 な ﹀ ﹁倫理的﹂価値は、直接的には彼に関りのある全体又は彼にとっての他人の 幸福に、更に間接的には彼自身の幸福に、通常(個別的又は一般的に)合致するし、またそうであるが故に究極的に価 値がある。従ってハそのように価値と幸福は一致するから﹀、価値の如何は幸福のそれと同様自明であり、 我々は日常的

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には専ら直覚的判断によって価値を選択し追求することができるのである。しかし、或る特殊な事態や錯綜した情況 において、複数の価値が対立し合い、幸福との一義的関係が崩れるような場合には、我々はそれら諸価値の本来的成 立に関る根源的レベルにまで逆上らなければならない。そして、それら全てが︿何らかの人間の﹀幸福に発しているこ とを認識し、改めて最も根源的な価値判断、即ち可能な最大限の幸福に関する判断、諸々の幸福を包括し綜合する判 断をしなければならない。これが価値の衝突(又は義務の葛藤﹀における、幸福(綜合的最大幸福)の他の諸価値(個別 的幸福)に対する優位ということであり、それは、幸福と価値との根本的連関の、従って価値における幸福の究極性 ・最高性の、当然の帰結なのである。 85一一平和の政治倫理学同 それでは、幸福のそのような究極性と優位性を認めるとして、そのことは平和論にとってどのような意義をもって いるのであろうか。平和のために如何なる機能を果しうるのであろうか。 既述の如く、戦争には必ずその正当化が伴う。いずれの当事者も自己の戦争行為の正当性を主張する。しかも、そ の正当性の主張は戦争の遂行において極めて大きな役割を担っている。それがなければ戦争の遂行は不可能であると 言ってもよい。何故なら、当事者による戦争の正当化が真撃なものであれ偽善的なものであれ、それなくしては大量 の人聞を直接間接に動員し、しかも最大限の破壊的エネルギーを発揮させることはできないからである。日常的世界 に生きる人々を非常の世界に引きずり込み、正気の人聞を狂気によって武装せしめることはできないからである。そ して、更にそれは何故か、何故できないのかと言えば、むろん第一に、戦争行為それ自体は殺人をも含む極限的な暴 力行為に他ならず、従って明らかに重大な倫理的悪だからであり、また第二に、戦争はありとあらゆる苦痛と莫大な 人的・物的被害をもたらすが故に、反人間的性格が著しいからである。戦争は自らのそのような二大難点を克服する ことなくしては不可能であり、それを果すものが(究極的には倫理的な﹀正当化に他ならない。即ち、それによって(第

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第1巻3号一-86 一の)戦争行為自体の倫理的悪を相殺又は緩和する必要のあることは当然であるが、 それはまた、(第二の)反人間的 性格に打ち克つことにおいても絶大な効果を発揮しているのである。正当性の意識や使命感は、利己的欲望と並んで、 いやそれ以上に、人聞をして苦難に立ち向わせる最大のエネルギー源だからである。ともあれ、戦争における倫理的 正当化(或は価値意識)の必須性と、従って普遍性(遍在性﹀の事実は、いくら強調してもし過、ぎることはないであろ う。そして言うまでもなく、それは戦争の否定における価値論の重要性に結びついているのである。 ところで、このような、戦争の正当化の必要性は、それが人間性に根ざしている以上、むろん古来から存在した。 かつては略奪や強権支配に対する罪悪感は比較的乏しかったにせよ、戦争のもたらす犠牲や惨禍に変わりはなかった からである。しかし、現代における正当化のもつ意味は過去の比ではない。特に、デモクラシーの不可侵性と侵略戦 争(並びに紛争解決の手段としての戦争)の違法性の認識が国際的にほぼ定着した、 且つまた世界の(不均衡的ではあれ) 全般的な一体化が著しく進展した、第二次世界大戦以後において、その重要性は飛躍的に高まったと言えるであろう。 今や、(少なくとも民主主義的な﹀国家の聞の戦争はよほどの正当性、 しかもかなり普遍的なそれがなければ、その開始 及び遂行が非常に困難になってきているのである。正当性ということは現代における戦争指導の決定的な鍵を握って いると言っても、決して過言ではないであろう。 それはともかく、(前述のように﹀そもそも戦争にとって正当化は必然的であり不可欠の前提であるが、 そ れ で は 、 その正当化は一体どのようにしてなされるのであろうか。その論理の構造は如何なるものであろうか。│││それは、 戦争それ自体が悪である以上、(通常)ただ一つしかない。その唯一の方法とは、戦争自体の悪を認めながらも、それ を限りなく嬢小化するような善、悪を帳消しにするような善を呈示することである。そして、その仕方もまた、普の レベルを悪のそれと異にする必要上、 一つしかない。即ち、それは目的と手段とを区別するということである。 つ ま

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り、戦争をあくまで手段として位置づけ、その悪なる手段を(何らかの)善なる目的或は聖なる理念によって補償し、 克服し、更には圧倒するという仕方である。そのような、目的による手段の正当化によって、戦争に関する根本的な 価値転換が図られることになるのである。 このように、戦争の正当化は目的による手段の正当化という形をとってなされるが、そのような方法においてまず 問題となるのは、目的として設定された価値の是非とその目的に対する手段の技術的適合性の如何である。ところが、 経験的・客観的に(本来その 前者はそれ自体としては一般に自明的であり、 また後者は、それが未来に関るが故に、 ような問題でありながら﹀判断することができない。従って、それらは﹁正当化﹂に関する論議の対象とはなり難いの で あ る 。 つ ま り そ れ は 、 ︿ 最 適 と 判 断 さ れ た ) 悪 な る 手 段 と ﹁正当化﹂の真の問題はそこにではなく、その後にある。 (その妥当性を一応容認された)善なる目的との聞の価値比較である。正当化問題の中心はそこにあり、 って正当化の成否が最終的に決定されるのである。それ故、正当化の問題とは基本的に価値計算のそれに等しい(と はいえ、実際には、こちらのほうの経験的・客観的実行可能性も大いに問題だが)と言えるであろう。目的と手段に関る諸価 通 常 そ れ に よ 値の加減計算、その全体的結果(むろん経過も含めて﹀として予想される剰余価値の大きさ、それが問題なのである。 87一一平和の政治倫理学問 例えば、隣国の軍事介入に直面して、武力抵抗(戦争﹀という手段を正当化するためには、(単純化して言えば)戦争の もつあらゆるマイナス価値を少なくとも上回る、独立の維持や自由の確保といったプラス価値又はその当為性を示さ なければならないし、且つまた、そのプラス・マイナスの差が(進駐を無抵抗に受け容れてからサボタージュやボイコット を実施するといった)非暴力的手段の場合よりも大きいことを、示さなければならない。ともあれ、このように、戦争 の正当化の方式たる目的による手段の正当化の本質は、価値計算にあり、それが正当化の論理を支えているのである。 そうであるならば、そのような正当化における幸福価値の優位性は言うまでもないであろう。 そ し て し か も 、 戦

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第1巻3号一-88 争は極限的・全存在的であり、あらゆる価値と関りをもつが故に﹀戦争を正当化しうるものが(もしあるとすれば﹀ただ一つ 幸福のみであるということも、明らかであろう。何故なら、ハ実は価値計算という正当化の成立構造、即ち共通尺度に基づ く 比 較 と い う 構 造 自 体 も 、 幸 福 以 外 に 計 算 は 不 可 能 で あ る が 故 に 、 既 に そ の 優 位 性 と 唯 一 性 を 証 明 し て い る の で あ る が 、 ﹀ 先 に 述 べたように、あらゆる価値は元来幸福から派生してきたものであり、幸福をその究極的妥当根拠としているからであ る。だからこそ、そもそも価値計算(即ち価値判断)なるものが(少なくとも究極的に)ただ一つ幸福計算として可能と なるのであり、現に我々の全てが無意識のうちに日々、否一瞬一瞬行っている(実は、行わざるをえない﹀のである。 とまれ、戦争の正当化においても、それが価値計算(価値計算及び価値計算﹀である以上、究極的な判定者は幸福であ る。最終的な予想結果における国民(その概念内容はさておき)の幸福の如何が、それのみが、戦争の是非を決すべき な の で あ る 。 戦争の正当化においては、抽象的な価値観念が常に幅をきかす。例えば、 由﹂﹁正義﹂﹁権利﹂﹁民族﹂﹁伝統﹂﹁文明﹂﹁人類﹂といった価値が引き合いに出される。そして、それらは一 見それ自体が目的であり、恰も超越的な価値をもっているやに見える。しかし、内実は決してそうではなく、そのよ うな外観の背後にあるものは、自己目的化による虚偽意識に他ならない。それらが実際に価値をもつのは、実体的な 裏付け(幸福)のある場合だけである。即ち、それらの諸価値は究極的に幸福の単なる一要素にすぎない。それらは我 ﹁ 祖 国 ﹂ ﹁ 栄 光 ﹂ ﹁ 発 展 ﹂ ﹁ 独 立 ﹂ 自 々の幸福にとってなるほど大切な要素であるが、 しかしあくまで相対的なものなのである。そうであるならば、我々 は徒らにそれらを奉杷することもそれらに脆拝することも必要はないということになる。それらの価値は我々自身に 依拠しているのであり、我々に対して沈黙を強いるべき謂は全くないのである。従って、我々は自らの臼常的意識や 生活感覚に立脚する﹁卑近な﹂幸福計算に引け目を感ずるには及ばない。建前への拘泥は不要であり、大義や名分の

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切り捨てに何の障陪も要らない。国民としての真の幸福を求めて自由に計算すればよいのである。幸福計算こそ最も 究極的な価値判断だからである。 こうして、我々は戦争を正当化せんとするあらゆる議論に対して幸福計算を突きつけることができる。正当性に関 して専ら幸福計算によって判断してよいということが、倫理的に是証されているのである。幸福計算に対してまさに 正当性が与えられているのである。従って、(今述べたように)我々は幸福計算に何の遠慮も要らない。当然の権利と して、我々の幸福について惇りなく論ずればよいのである。堂々と胸を張って、我々の本音を語ればよいのである。 だとするならば、このことは何を意味するであろうか。如何なる結果を我々にもたらすであろうか。 明らかに、それは戦争の正当化というものを著しく困難にするであろう。よほどの場合でなければ、戦争を正当化 することは不可能になるであろう。何故なら、言うまでもなく、戦争によって獲得される幸福の﹁総量﹂(と言っても 理論上の想定であり、現実には多かれ少なかれ主観的・直観的たらざるをえないが)が戦争によってもたらされる不幸の﹁総 量﹂を補って余りあることは、仮に勝利を得たとしても、極めて少ないからである。そして、 たとえそういうことが ありうるとしても、その﹁剰余﹂が、戦争をしなかった場合のそれに較べて大きいということは、(明白な自衛戦争の .89一一平和の政治倫理学同 場合はともかく﹀殆どないからである。或はまた(より現実的な可能性に則して言えば﹀、戦争の場合の最終的結果として の不幸が不戦の場合のそれより小さいことも、非常に稀少だからである。もちろん、戦争と言っても、 その規模(単 な る 威 嚇 や 限 定 ・ 局 地 戦 争 か ら 総 力 的 な 全 体 戦 争 や 全 面 核 戦 争 ま で ) 、 性 格 ( 例 え ぼ 侵 略 的 か 防 衛 的 か ﹀ 、 発 生 情 況 等 は 種 々 様 々 であり、それらを一律に論ずることはできない。しかし、(この段階ではまだ以下の如き控え目な予測に止めておかざるをえ な い の で あ る が J 幸福の剰余の可能性と不幸の相対的些少の可能性、 従って幸福判断によって戦争が是認される可能 性は、想定された戦争がより深刻であればある仕ど少なくなるということは、明確に言えるであろう。幸福判断は少

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第1巻3号一-9U' なくとも本格的な戦争に対してはほぼ確実にノ!と答えるに相違ないのであるひ 但し、高度な精神的存在としての人間の具体的幸福内容は(既述の如く)複雑多岐にわたり、その中には倫理的な幸 福も当然含まれている。即ち、自分が倫理的行為をしているという意識、倫理的価値の実現に貢献しているという意 識に伴う幸福である。そのような幸福観念は、一方で、他国を強圧し侵略する不当な戦争への抑制剤として機能する が、他方また、戦争の誘発剤や促進剤に転化することもありうる。つまり、正義とか新秩序といった倫理的理念を旗 印とする戦争や、愛国心とか犠牲的精神といった倫理的心情に駆られた戦争が、純粋の幸福論的見地から選択される ことも、なきにしもあらずである。そのような場合、なるほどそれは、紛れもなく幸福計算に基づく戦争ということ になるが、これは(残念ながら)致し方ないであろう。本当にそれが国民の真の幸福であるならば、如何ともなし難い のである。しかしながら、(以下更に詳述する﹀本稿の理論全体を理解してなおそうした選択がなされようとは、私に は思われない。万一なされるとしても、そのような事態は、正当性の所在がよほど明白且つ一方的である場合にのみ、 従って現代の文明諸国間においては極めて予想し難いケlスにおいてのみ、おそらく生じうるのである。 以上の論述によって、戦争の是否は国民自身の幸福を基準にして判断してよいということが、(甚だ概略的ながら﹀ 倫理的に論証された。我々は戦争に対する態度を決定するにあたって、幸福以外の如何なるものも割酌する必要がな いのである。祖国や民族、正義や自由といった価値原理は、幸福などという主観的・限定的なものとは次元を異にす る普遍性と永遠性を備えているように思われ、それらの立派な大義名分を前にして、我々はともすれば圧倒されがち になる。しかし、(既述の如く)我々は何もためらうことはない。我々は国民としての我々の本音をぶつけることがで きるのである。真の望みが何処にあり、本当の幸福が何であるかを、自由に問い、且つ求めることができるのである。 そ し て 、 ( こ れ ま で の 議 論 か ら 当 然 出 て く る こ と で あ る が J そのような、我々の幸福、 我々の人間としての赤裸々な欲

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求こそが、平和の価値の真の基礎なのである。平和の価値を基礎づけるものは、決して権利でも(倫理的)善でも或は 正義でもない。逆に、それらが平和にとってむしろ危険な因子になりかねないことは、多言を要すまい。戦争は殆ど 常にそれらの名の下に行われてきたのである。人々の直接的な幸福のみが(もし望ましければ﹀戦争を普遍的に否定し、 平和の価値を何よりも高らかに賞揚することができる。むろん、(既述の如く)平和は唯一の価値でも絶対的な価値で もない。しかし、幸福はそのような事実をも基礎守つけることができ、そして更に、平和の価値を相対的に位置づける こともできる。つまり、平和は我々の計算によって如何ようにも評価されうるのであり、それが可能なのは幸福だけ であろう。幸福のみが平和の価値の(一般的な﹀相対性の事実を説明しうると同時に、平和の最高価値としての確立を も(もし望むならば)なしうるのである。かくして、平和は我々が(一般に﹀欲するが故に(一般的な﹀価値がある、我 々の幸福を(一般に)もたらすが故に(一般的な)価値がある

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これが真実なのである。 ともあれ以上のようにして、(再び繰り返せば)戦争と平和に関する幸福計算の正当性が是証せられた。我々は専ら 国民の幸福という基準に則って判断し行動してよいのである。ただしかし、ここに一つの問題がある。そのように正 当性を認められた幸福計算だが、それを実行するにあたって理論的に解決すべき大きな問題が存在している。という 91一一平和の政治倫理学白 のは、その幸福計算そのものの中に、それを狂わしかねない蹟きの石が潜んでいるからである。 つまり、戦争に関す る幸福計算においては、或る種の固定観念に導かれて誤った結果を招来する可能性のあることが、看取されるのであ る。そうした固定観念とは一体何かと言えば│││﹁社会全体﹂ ﹁ 国 家 ﹂ ﹁公﹂といった、それ自体としては(形式 的 に ) 倫 理 的 な 、 解 決 し て お か な し 、

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お 予 い め て、始めに述べた三つの理論の中の第二番目の理論が登場してくるのである。

(16)

第 1 巻 3 号ー~92 第一の理論によって、全ての価値は幸福の価値(唯一の最高価値)からの派生であり、幸福が全ての価値の究極的根 拠であるということ、従って、諸々の価値が(それ自体としては幸福の手段又は一部であるものの)幸福(綜合的最大幸福) と相容れない場合には、幸福が優先さるべきであるということが、示された。そしてそこから、戦争と平和に関して も幸福が最終的な判定者であるということが、導き出された。だが、その場合の幸福とは何であろうか。何を意味す るのであろうか。ということはつまり、(幸福内容の客観的特定は自己矛盾且つ不可能であるが故に﹀それは誰の幸福であろ うか。誰の幸福が戦争の是非を判断すべきなのであろうか。単に幸福と言っても、それを享受する主体によって種々 様々であり、互に対立的ですらありうる。従って、幸福の主体を明確にしないかぎり、幸福判断は有効性をもちえな いのである。なるほど、第一の理論(又はその帰結)において既に﹁国民の﹂幸福とか(同じ意味で﹀﹁我々の﹂幸福と いうように述べられた。幸福の主体は我々国民だというのである。しかし、その﹁国民﹂とは何であろうか。その正 確な概念内容は如何なるものであろうか。 幸福が全ての価値の究極的根拠であるという場合、それは価値の種類によって基本的に二つに分けられる。即ち言 い換えれば、価値一般に関するそのような(幸福主義の﹀抽象的規定は二つの方向に展開或は具体化される。(先に他の 論点に絡んで事実上言及したが、)まず一つは、自己の幸福が(自己にとっての主観的な)非倫理的価値の究極的根拠である ということであり、もう一つは、全体の幸福が(全ての人々にとっての客観的な)倫理的価値の究極的根拠であるという ことである。そして両者は、後者が前者から(但し、或る一定の条件の下において﹀導出されるという関係にある、が、本 稿に関りのあるのはむろん後者である。本稿で問題にしているのは、戦争の是非に関する倫理的正当性の如何だから である。そこで、﹁全体﹂(全ての人々)というものが問題になるが、﹁全体の幸福﹂という場合のそれはむろん利害関 ︹ そ れ を 倫 理 的 規 則 に 関 し て 言 う な ら ば 、 ﹁ 或 る 規 則 は そ れ が そ の 社 会 の 全 て の 人 々 の 幸 係者全体という意味である。 つ ま り 、

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福 に と っ て ( 但 し 一 般 的 に ) 有 用 で あ る が 故 に 正 し い ﹂ と い う こ と で あ る が 、 ︺ それを或る人聞の行為の選択又は判断に関し て 言 う な ら ば 、 ﹁行為者は自らの行為の対象となる人(対象者﹀全員の幸福を考慮しなければならない﹂ということで ある。但し、ここに言う対象者とは必ずしも直接的且つ現実的な存在ではなく、(理論上は無限に﹀間接的及び観念的 た り う る ( そ し て そ の 場 合 に は 、 普 遍 的 な ﹁ 規 則 ﹂ に 関 す る 原 理 と 実 質 的 に 同 一 化 す る ﹀ の で あ り 、 一 義 的 で は な い 。 た だ 、 その範囲が広ければ広いほど(即ちその現実的又は可能的な人数が多ければ多いほど)倫理的価値も高くなると、即ち倫理 的価値は対象者の数に比例すると、概括的・原則的に言えるだけである。しかしともあれ、そのような暖昧さ(それ は 実 は 人 間 に お け る 倫 理 観 念 そ の も の の 本 質 的 な そ れ で あ り 、 原 理 的 に 、 従 っ て 客 観 的 に 、 解 決 不 可 能 で あ る / ﹀ が あ る に せ よ 、 倫理的に要求される行為とは﹁対象者﹂全員の幸福を最大限図るような行為である、と言うことができるのである。 それでは、それを戦争の場合に当てはめてみると、どういうことになるのであろうか。行為者と対象者はそれぞれ どのように規定されるのであろうか。戦争に(少なくとも何らかの形で﹀参加する国民はむろん行為者である。行為者と して他国の国民を攻撃し或はそれ(攻撃)を支援し、彼らに対して不幸をもたらす。従って、或る固において、その国 のなす戦争の行為者とは自国民であり、対象者とは他国民である。しかし、戦争とは単にそれだけではない。そもそ 唱3一一平和の政治倫理学同 も戦争とは相互的な行為であり、従ってそこにはもう一つの看過しえない側面がある。それは、一言うまでもなく、戦 争というものは行為者としての国民自身に対してもまた敵国民におけると同様の甚大な被害を与える本質的可能性を もっているということである。その点で、彼らは彼らの戦っている敵国民と何ら変わりはない。即ち、彼らは行為者 であると同時に、否むしろ、行為者であるというよりも(彼ら自身の行為の間接的な、そして敵国民の行為の直接的な)対 象者なのである。これまでの戦争の(兵士と一般国民の区別という﹀図式に従って言えば、兵士として戦う一部の国民で さえ、行為者であるのみならず対象者でもあるが、大多数を占める一般の非戦闘国民は(半ば名目的な行為者であるにも

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第1巻 3号一一94 かかわらず﹀圧倒的に専ら対象者である。 しかも、直接的な対象者である。他の諸々の日常的行為においては、殆ど常 に行為者と対象者を基本的に区別することができ、人々はいずれか一方に属する。しかし、戦争はそのことを一切無 意味にする。戦争という相互攻撃の極限状態においては、両者を区別することができないのである。そして、それが 特に(総力戦ないし全体戦争に続く)核兵器の出現によってもはや全く疑いえざる(可能的﹀現実となったことは、改め て言うまでもないであろう。核戦争は敵と味方、兵士と市民の区別を完全に消し去ってしまったのである。 以上のように、或る行為に関する倫理的な価値判断の基準(実際には理念的なものに止らざるをえず、しかも必ずしも直 接的なそれではないが)はその行為の対象者全体の幸福にあるということ、及び戦争においては国民全体が行為者であ ると同時に対象者であるということが、明らかにされた。そうであるならば、戦争に関する価値判断の基準はどうい うことになるのであろうか。即ち、(より精確に言えば﹀或る固においてその国の戦争の倫理的是非を決定しうるもの は何であろうか。それは、言うまでもなく、対象者たる国民全体の幸福である。国民全体の幸福を保全するか否か、 或は不幸を最小限に食い止めるか否かが、戦争の是非を決めるのである。かくして、先に第一の理論から導き出され た﹁国民の幸福﹂という基準は、ここに﹁国民全体の幸福﹂として更に具体的に規定し直されたことになる。戦争に 関する幸福判断の主体としての﹁国民﹂とは﹁国民全体﹂なのである。 ところでその場合、もちろん、敵国民の幸福も考慮に入れることが倫理的には(一応)望ましい。既述の如く、対象 者の範囲と倫理的価値の大きさとは原則的に比例するからである。しかし、第一に、敵国民を自国民と同等に取り扱 うこと、それを一つの倫理的義務として設定することは、人間性との(従って一般的幸福観との)深刻な対決を苧むが故 に、倫理を超えた綜合的・究極的な価値一般(又は価値全体﹀の観点(それが倫理の限界を定めるのであるが)からして望 ましくはない。第二に、そのような無差別的取り扱いは戦争の絶対否定に繋がり、権力論的前提に反することになる

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で あ ろ う 。 戦 争 を 基 本 的 に ( む ろ ん 非 常 の 場 合 の 窮 余 の 策 と し て ﹀ 容 認 す る か ぎ り は 、 戦 争 と は そ も そ も ( 必 要 な 範 囲 内 で の ﹀ 敵国の打倒を目的とするものである以上、そこに敵国民の幸福を割酌する余地はない。そして第三に、そもそも自国 の戦争に関して幸福判断を行うのは、その倫理的正当性の如何を判定するためである。従って、それは既にその戦争 の対外的・国際的な正当性というものを(それがなければ最終的に正当化されえず、もはや正当性を問うまでもないが故に) 主観的に含意している。即ち、少なくとも自らにおけるそのような正当性の確信の存在を前提としているのである。 そうであるならば、自国の戦争の対外的・国際的な正当性を信じうるのは(少なくとも相対的に﹀敵国に非、がある(且つ 他に取りうる適当な方法がない﹀と見られる場合であるから、敵国民は言わば倫理的配慮を受ける資格を失っているので あ る 。 1 1 1 1 1 こうした諸点を考え合わせてみるならば、対象者の中に敵国民を含めないことは決して不当ではあるま ぃ。そしてまた、仮にそうではなくて、客観的・普遍的な意味で不当でありうるとするならば、私としては一歩譲っ て始めから問題を限定しておいてもよい。即ち、客観的又は対外的な正当性の問題を括弧に入れて切り離し、まず国 内的な正当性のみを取り扱うということにするのである。しかしそのように限定したとしても、後に見るように、そ 95一一平和の政治倫理学同 れは戦争の防止にとって十分な意味をもちうるであろう。従って、いずれにせよ、敵国民を幸福判断から除外しても 差し支えないということになる。自国における戦争の正当性の有無を事実上決定しうるものは、自国民の幸福であり、 それだけなのである。 そのように、戦争の是非を判断すべき国民の幸福とは自国の国民全体の幸福であるが、更にそれでは、その国民全 体の幸福における﹁国民全体﹂とは何であろうか。それは具体的に何を意味し、 あるのであろうか。ここで考えてみるべきは、 一人一人の国民とどのような関係に ︿特に現代の﹀戦争とは全ての国民による一体的な共同行動だというこ とである。戦争は全ての国民の生活全体に対して決定的な影響を及ぼすだけでなく、その生命までも左右する。従っ

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第1巻 3号一一96 て、戦争に突入するや否や、全国民は運命共同体と化すのである。ということは、戦争においては、 関与と戦争からの受難の度合は一様ではないが)全国民が、同等の立場にたつ戦争の主体だということである。即ち、 民一人一人が戦争を遂行し、一人一人がその結果を引き受けるのである。言い換えれば、国民全体と言うよりも園民 ( 各 人 の 戦 争 へ の 国 一人一人が戦争の行為者であると同時にその対象者なのである。 そこで、もし戦争が個々の国民から超越した国家そのものの行為であるならば、従って具体的には一部の人聞によ る行為であるならば、その場合の(対象者として顧慮さるべき)﹁国民全体﹂とは、彼ら一部の行為者にとって他人たる 大多数の(言わば他人全体としての﹀国民、従って実質的には、文字通り全体としての国民、即ち国民という名の下に統 合される抽象的な存在であり、個々の国民はその一要素でしかないであろう。そして、 な単一の存在の幸福或は総体としての国民の幸福を推定しなければならないであろう。しかし、(先述のように﹀実際 にはそうではなく、戦争が全国民の共同行動であり、その一人一人が行為者であると同時に対象者であるからには、 従って、そこには(行為者自身から区別された﹀他人という形の対象者は存在せず、各人の行為は自己自身を対象とする に等しいものであるからには、そこにおける国民全体の幸福とは一人一人の幸福或はその集積でなければならないと 一部の戦争行為者はそのよう いうことになる。それは決して、他人の観点に立った、従って各人が(彼自身その中に含まれているにもかかわらず)彼自 身の現実的な幸福を考慮することなく想定した、抽象的な国民全体の幸福ではない。もう少し具体的に言えば、 家﹂や﹁全体﹂や﹁公﹂といった観念によって規定された、従って政治的思考や﹁倫理的﹂意識が混入し生身の人聞 の日常的生活観念から掛け離れた、幸福ではない。それは国民一人一人における純粋な自己幸福、彼等自身の真実の 幸福を総計ないし統括したものなのである。︹以上のことは、戦争においては、それ(戦争)が死或は死に等しい(又は近い) ー「 国 重 大 な 危 害 ( 即 ち 、 人 間 存 在 そ の も の へ の 決 定 的 な 打 撃 ) の 可 能 性 を 苧 む が 故 に 、 各 個 人 は 絶 対 的 に 孤 独 で あ る と い う こ と か ら も 、

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ま た 、 後 述 す る ﹁ 第 三 の 理 論 ﹂ か ら も 、 や は り 同 じ よ う に 導 出 さ れ う る と 思 わ れ る が 、 こ こ で は 省 略 す る J かくして、戦争の是非を正当に決定しうるものはただ一つ、我々のなす自己自身に関する主観的な幸福判断である。 戦争に関しては、或は戦争に関する限り、我々一人一人が自己自身の幸福について、しかもそれのみを、考えること ができるのである。戦争の我々自身に及ぼす影響について、それぞれの立場で全く個人的に判断してよいのである。 そして、そのような判断の(何らかの仕方による)総計が国家全体の統一見解となる。戦争に関する国家意志の決定は、 客観的・公共的な幸福判断にではなく専ら主観的・個人的なそれに依拠しなければならないのであり、そのことが倫 理的に要求されているのである。 ところで、こうした議論に接して、人々は或るものを連想するかも知れない。即ち、そのような議論は﹁良心的兵 役拒否﹂を始めとする︿戦争に関する)﹁市民的不服従﹂と類似しているように思われるかも知れない。しかし、両者 の間にはいくつかの決定的な相違がある。そこで、(拙論の概念や特徴の明確化の意味も込めて)それについて︿さし当り) 若干付言しておくと│││まず第一に指摘すべきは、前者が幸福判断、 しかも全く個人的な、従って社会的・規範的 な配慮を一切免除された純粋の幸福判断であるのに対し、後者は道徳的・宗教的な信念の存在を要求されているとい 97一一平和の政治倫理学同 うことである。既述の如く、倫理(道徳)の本質的社会性の故に、国家は既にそれ自体として事実上極めて強力な倫理 的実体であるから、それに逆らうことには非常に深刻な倫理的煩悶が伴う。しかるに、それを克服し独自に決断しう るだけの確固たる信念と強屈な意志をもっ人々は、言うまでもなく少数である。それ故、﹁不服従﹂の実践的可能性 と(従って)実効性には、超え難き限界があると言わざるをえない。それに対して、個人的幸福の﹁計算﹂にはそれが ﹁不服従﹂はあくまで抵抗、しかも非公式なそれであり、それが立ち向うべき国家意志や政 府決定の存在を前提としている。即ち、それは既に存在している公式の決定に対して異議を申し立てんとするもので ないのである。第二に、

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第1巻3号←ー98 あり、言わば公的作用に対する私的反作用なのである。従って、そこにはやはり、その遂行についてもその目的の達 ﹁計算﹂はそうではない。それはそれに基づいて 成についても根本的な困難を認めざるをえないであろう。しかし、 国家そのものの意志決定が(但し戦争について﹀なさるべきだというのである。そのように公的作用の側に回り公的作用 そのものに関ることによって、初めて各個人の意志は実効性を獲得し、平和の維持のための十分な保障となりうるで あ ろ う 。 このような﹁市民的不服従﹂との相違はともかくとして、以上のように、戦争と平和の問題について﹁個人的幸福 計算﹂という思想が根本的な価値原理に基づいて導出され定立された。戦争に関するかぎり、人々は自己自身の個人 的幸福を唯一の基準として判断してよいのであり、そしてその判断のみが国家としての統一的態度を決すべきなので あ る 。 そうであるならば、それは戦争の是非を判定する仕方、即ち、戦争に直面したときに、その戦争をすべきか否か、 或はしたほうがよいか否かを決定する仕方に、根本的な転換をもたらすことになるであろう。のみならず、そもそも 戦争というものの捉え方、その視点を大きく変えることになるであろう。人々はこれまで戦争というものを専ら国家 全体のこと、公のこととして意識してきた。 一個人の次元を超えた民族や国家の問題、私人の願望や利害から隔絶し た客観的理念の問題であると、考えてきた。従って、そこに各人の私情や個人的思惑をさし挟むことは、不適切であ るように思われた。戦争という公的・国家的問題に自己自身の立場や利害、自己自身の感情や信念をもって対処する ことは、全く俸られた。ところが、それは間違っていたのである/ 我々は戦争について、己を空しうし国家全体の 立場から考えなければならないように思ってきたが、そのような考え方は実は誤っていたのである。真実は、そうで はなくて、戦争とは国民一人一人のものだということである。即ち、それは国民一人一人のためになされるものなの

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である。従ゥて、人々は戦争について、それは他ならぬトか h t 恥 か わ か 、 臥 口 か か 一 伊 か か Y4W 企 が か か 、 h 口 か か 幸 一 砕 か か めに行われると考えなければならない。否むしろ、(各人においてそれぞれ﹀自己自身以外に対象者は存在しないが故 に、そのためにのみ行われると考えるべきなのである。この戦争はこの私自身の幸福のためにのみ行われる/そし て、人々は逆にこのような自覚に基づいて、︿再び繰り返すが)戦争の是非を専ら自己自身がそれを望むか否かによっ て判断しなければならない。自分が一人の人間として戦争したいか否か、それが必要且つ十分な基準なのである。何 の遼巡をすることもない。全体の観念や公の意識は不要である。自己自身の真の幸福、ただそれだけである。戦争に 関しては、それによって全てを判断してよいのである。そのことの倫理的正当性が是証されているのである。 戦争は盲目的な力によって自然に惹き起こされるものではない。人間性や社会構造や歴史法則によって必然的に発 生するものではない。それは他ならぬ我々自身の、我々一人一人の、心の中に芽ばえ、最終的に一人一人の決断によ って生ずるものである。従って、以上述べてきた、戦争と平和に関する個人的幸福計算の理論は、戦争を姐止するた 99一一平和の政治倫理学同 めの最も究極的な障壁を構築するであろう。即ち、そのように、戦争に対する態度決定が個人的な幸福計算に基いて なさるべきだとするならば、それは戦争に反対する声を著しく増大させ、戦争の開始を非常に困難にするであろう。 戦争に対する賛成派は(よほどの特殊情況でない限り﹀極めて少数になるであろう。 何故なら、第一に、なるほど人聞は(既述の如く)常に自己の幸福を求める存在であり、そのためしばしば他人と争 うが、一般に(少なくとも一個人としての人聞は﹀、戦争によってそれを得ょうとするほどエゴイストではないからであ る。しかも、人間のエゴイズム、特に過度のそれは、実は(直接的又は間接的な、或は具体的又は一般的な﹀不安心理に由 来することが多いからである。稀に見られる攻撃的なエゴイズムも、不安を解消し自己を保全しようとするそもそも 消極的な願望が、確実性を求めて積極化したものであり、言わば不安の裏返し或は一種の過剰防衛なのである。それ

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第1巻3号一一100 は決して本来的・不可避的なものではない。従って、その種のエゴイズムですら対応次第で制御することが可能なの で あ り 、 エゴイズムというものが平和に対する重大な障害となることはないであろう。更に(何故なら)第二に、 な る ほど人聞は時に非合理的衝動に駆られるが、 一般に(少なくとも一個人としての人間は﹀、自分の利益や権力のために戦 争に訴えるほど無分別ではないからである。言うまでもなく、戦争は効率やリスクの点でも最悪の手段なのであり、 それがおよそ全うな人聞によって採用されるのは、窮状の打開の必要性と緊急性が戦争による巨大な犠牲に見合う場 合だけであろう。 かくして、(少なくとも一個人としての)人聞が他人を殺傷しその財産を略奪してまで自己の幸福を得ょうとする存在 であるとは思われず、また、生死や生活そのものに関るよほど危機的な情況に追い込まれないかぎり、伸るか反るか の戦争に踏み切るとは考えられない。従って、個人的幸福計算において多少問題となるのは、残された他の危険因子、 即ち(既述の如く﹀全体性に基づく何らかの倫理的価値意識だけであり、それさえ正しく導かれるならば、個人的幸福 計算に対する何の疑念も無用であろう。人々が戦争に関する個人的幸福計算の倫理的妥当性を良く認識し、それによ って、個人的幸福観念を歪曲しかねない価値意識が計算において十分に排除されうるならば、その結果として戦争が 選択される可能性は皆無に近いであろう。純粋の防衛戦争(仮にそのようなものが今後もありうるとして﹀の如き場合を除 いて、人々の個人的幸福計算が(少なくともその大多数が)戦争に対してゴ 1 サインを出すことは、全く予想されえない の で あ る 。 このように、個人的幸福計算の思想は平和のための最も究極的な基盤を提供し、その具体的実践は戦争の防止にと って中心的な役割を果すと考えられる。しかし、そのような思想のもつ意義は実はそれだけではない。それにはもう 一つの重要な働きがある。即ち、個人的幸福計算の思想は、非常時に危機を回避するという直接的な形においてのみ

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ならず、平常時に平和の基礎を形成するという間接的な形においても、つまり民衆レベルにおける相互理解の促進、 それによる平和的な雰囲気の醸成という点でも、必ずや大きな力を発揮押するであろう。というのは、それは(敵対的と 見られる)相手国や周辺諸国に対する見方にも有益な影響を及ぼすに相違ないからである。戦争の防止にとって、 そ れぞれの相手国の国民の意志や感情が互にどのように把握されるかということは、極めて重要である。その場合、も しそれらが国家的レベルにおいて見られ、従って一つの全体として把握されるならば、それはその全体の内実たる一 人一人の国民の真の姿からはかけ離れたものとなってしまうであろう。そしてそのような視点からは、 が発生しそして昂進すれば、相手国の国民は顔のない一つの巨大な塊として受けとめられ、(例えば)自己拡大の欲望 一旦緊張関係 と攻撃的な敵意に満ちた非情な侵略者というように捉えられてしまうであろう。しかし、そうではなくて、相手国の 国民もまた我々自身と同じ個人的レベルにおいて見られるならば、そこに浮かび上ってくる国民像(従って国家像﹀は かなり違ったものになるはずである。彼らもまた我々と同じ人間、即ち、同じような希望、同じような喜びと悲しみ、 同じような(基本的﹀正義感をもった人間であること、自分の人生が第一であり、自分たちのイデオロギーや生活様式 を無理やり押しつけることに飽くなき情熱を傾けたりはしない人間であること、況や自分の幸のために人を殺したり 101-平和の政治倫理学同 略奪を働いたりはしない人間であることが、十分に認識されるであろう。そして、 たとえ彼らが理不尽な或は不道徳 な国家行動に関与しようとすることがあるとしても、それは誤った価値意識や事実認識などによるものであることを、 理解することができるであろう。︹例えば、そのような視点からする私自身の判断例を一つ呈示しておくならば 1 1 1 ソ 連 は 隙 あらば侵略や革命の輸出をしかねない国だと日本や西側諸国の少なからぬ人々が信じているが、ソ連の(ごく一部の指導層はとも かく﹀一人一人の国民の九九パーセント以上にその意志がないどころか、逆に彼ら自身我々の軍事力や外交姿勢に恐怖心や危機感 を 抱 い て い る こ と は 、 確 実 で あ る 。 ︺ ともあれ、個人的幸福計算の思想は、平和の基礎たる民衆レベルにおける相互理

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第1巻3号一一102 解という点でも大きな意義をもっているのである。そしてそうであるとするならば、それは更に軍縮の実現に対して も好い影響を与えることであろう。互の相手国の人々に関する正しい認識は、当然双方の警戒心を弱めるからである。 以上、第二の理論として、戦争に関しては一人一人の人聞が自己自身の幸福のことだけを考えるべきであり、その ことが倫理的に正当化されていると述べた。各個人は戦争行為の遂行者であると同時に対象者であり、 且つまた戦争 とは人々による一体的な共同行動であるから、各人自身による個人的幸福計算は、対象者の幸福を究極目的とする倫 理的価値に合致しているのである。 そして、(これも既述の如く)戦争に関する国家の意志決定は、そのような莫大な 数の個人的幸福計算に基づいて(何らかの形で)なさるべきなのである。その結果は、今述べたように、極めて特殊な 非常事態を除いて一般に﹁ノ 1 ﹂であろう。戦争という無類の悪行と巨大なリスクを犯してまで自己の幸福の増大を 図ろうとする人聞は、殆どいないし、そのような戦争に訴えねばならぬほど自己の幸福が危殆に瀕することは、殆ど ないからである。しかしそうは言っても、 ﹁ ノ 1 ﹂という結論は決して必然的というわけではない。従って、国民に よる戦争の否定がそれによって完全に保証されているわけではない。完全な自衛の際のように戦争の肯定が自然的又 は(少なくとも歴史的に見て)一般的である場合も含めて、全ては人々の意志次第である。人々が現実をどのように認識 し、自己の幸福をどのように考えるかに、全ては懸っているのである。 つまり、戦争を回避しうるか否かは、人々に おける(正しい価値意識の確立を前提として﹀情況の推移に対する理解力や戦争の実態に対する想像力、それに自らの真 の幸福に対する洞察力に、専ら依存しているのである。 さて、そのように戦争の国家的態度決定が結局各人の意志次第であるとするならば、もし万一人々の多数が戦争に 対して肯定的な判断を下した場合、それに反対した少数の人々はどうなるのであろうか。彼らも戦争に協力しなけれ ばならないのであろうか。戦争を拒否しそれに(むろん合法的に)反抗する権利はないのであろうか。この問題を解決

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し て お か な け れ ば 、 平和の理論として十分とは言えないであろう。 そしてここに至って、(冒頭に示しておいた)最後 (第一二)の理論が登場してくるのである。それは倫理的当為性(又は倫理的義務)というもののそもそもの妥当根拠に 関する理論であり、従って、我々はそれによって人々の戦争に際しての権利や義務も基本的に規定することができる のである。それでは、そのような理論によって、戦争に対する非協力や反対は如何に取り扱われるのであろうか。平 和主義者はあくまで反戦を貫くことができるのであろうか。 第三の理論は(今述べたように)あらゆる規範の究極的根拠たる倫理的当為性そのものの妥当性の有無とその限界を 問う。但し、ここで言う当為性とは、支配的・常識的な、そして私に言わせれば誤った、見方とは異なり、︿倫理的) 価値から明確に区別された意味におけるそれである。即ちこの場合、(或ることに)﹁価値がある﹂ということと(その こ と を ) ﹁ す べ き で あ る ﹂ ( 或 は ﹁ な さ ね ば な ら な い ﹂ ﹀ と い う こ と と を ( ほ ぽ 又 は 実 質 的 に ﹀ 同 一 の 命 題 と か 同 一 次 元 の 命 題 とは見なさないし、更にまた、両者の結合又は一致を自明のこととは考えないのである。従ってそこでは、 ﹁ 価 値 が 103一一平和の政治倫理学同 ある﹂からといって直ちに、それを﹁なすべきだ﹂ということにはならないし、前者は後者の十分な理由とはなりえ ない。第一一一の理論はそのような意味における当為性を対象とするのであり、そうした観点から、我々はそもそも倫理 的行為(倫理的に価値のある又は善き行為)なるものをなすべきなのであろうか、と問うのである。そのような普遍的義 務を客観的・必然的にもっているのであろうか。もしもっているとすれば、その内容(範囲﹀は如何であり、その合理 的根拠は何であろうか。こうした問いに対して、それは大凡次のように答えるのである。 即ち第三の理論は、人間一般における倫理的当為性の根本的成立を(厳密には一定の限定の下に、しかし事実上普遍的に) 認め、その根拠を人間の社会的生存そのものに求める。 つまりそれによれば、倫理的当為性の妥当根拠に関する論理 は以下のように展開される。まず第一に、社会生活が基本的に成立しうるためには、何らか一定の倫理の存在がその

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第1巻3号一一104 必須の条件である。 倫理なくして如何なる社会もありえない。 既 述 の 如 く 、 ( 究 極 的 に は 法 又 は そ の 遵 守 を も 包 摂 す る ) 倫理に基づく相互的自己抑制なくして、社会生活の存立とその安定的継続は(と言うより、安定的継続のみならず存立さ えも)不可能だからである。続いて第二に、人間の社会的生存というこの世界の普遍的事実は、(第一の命題により、そ の社会的生存の前提条件たる)倫理の全ての人聞による暗黙の承認という事実を必然的に含意している。 に(如何に﹁反社会的﹂にであれ)社会的に生活しているということは、誰であれ倫理というものの一般的妥当性を自ら 認めていることになるのである。行為者としてであれ対象者としてであれ、社会の中で倫理を完全に否定して生きる この世界で現 ことは不可能だからである。そして最後に、第一一一として、更にそのような第二の命題から、もし人聞が自らに求めら れる一定の倫理的実践を拒否するならば、彼は自己矛盾に陥らざるをえないということが、論理必然的に導出される。 即ち、社会に生きる人聞が倫理的規則に従わないことは、客観的に不当であり、それに対する弁解の余地はないとい うことである。如何なる人間も、 社会生活を営む限りは、 原理上一定の倫理的拘束を受けざるをえないのである。 -││このようにして、人間社会における普通的且つ絶対的な(何らか一定の)倫理的当為性が、客観的且つ経験的に (従ってまた合理的に)基礎づけられる。それによって初めて、(真の意味での当為性の根拠に関する問題意識は一般に欠け て お り 、 倫 理 の 当 為 性 は 自 明 の こ と と さ れ て い る が 、 実 は そ れ に よ っ て 初 め て ) 一定の倫理的義務が成立し、我々はその履行 を当然のこととして相互に期待し要求することができるのである。 これが第三の理論の(ごく大雑把な﹀概要であるが、このような理論は(それが正しいとするならば)先の問題に関して根 本的な解答をもたらすことになるであろう。戦争に際しての我々の行動の在り方、即ち戦争における国家と個人の関 係や個人の権利・義務、 についての最終的な判断が、そこから引き出されてくるであろう。それは何かと言えば

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ー倫理的当為性の成立が(少なくともその名に値する)社会生活の存立、提って一定の社会秩序の存在を前提としている

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