第一章 論理学における subject-matter
はじめに
本章では、教育におけるsubject-matter、すなわち<教材>を読み解く観点を得るため に、デューイの論理学におけるsubject-matterを考察することが目的である。
デューイは、論理学を形式的な推論体系としてではなく、問いを追及していく探究の理 論とみる立場をとり、生涯をとおして模索し続けている。特にsubject-matterについては、
1943年にアーサー・F・ベントリー(Arthur F. Bentley) から手紙で質問を受けているよう に、その内容について定義を確定していたわけではない。したがって、記述を分析してい くのではなく、源泉、位置づけ、条件、そして探究の経過という時間軸の四つの視角から 輪郭をとることをとおしてsubject-matterの観点を導き出し、subject-matter概念を浮き 彫りにしていく方法をとる。デューイ自身によるsubject-matterの模索については、それ ぞれの節において触れることとする。
第一節 subject-matterの源泉
デューイのいう探究の理論は、教育においてこれまで問題解決学習の方法原理として言 及されることが多かったが、本来は論理学に関する理論である。1938年の『論理学』(Logic) には、彼の長年の思索の全容が示されている。ただし、デューイ自身、完結された学術論 文ではないと断っている(1)。デューイは「探究・ ・と・は・、不確定・ ・ ・な・状況・ ・を・確定・ ・した・ ・状況・ ・に・、 すなわち・ ・ ・ ・、もと・ ・の・状況・ ・の・諸要素・ ・ ・を・一つ・ ・の・統一・ ・された・ ・ ・全体・ ・に・変えて・ ・ ・しまう・ ・ ・ほど・ ・状況・ ・を・構成・ ・ して・ ・いる・ ・区別・ ・や・関係・ ・が・確定・ ・した・ ・状況・ ・に・、 コントロ・ ・ ・ ・ー・ル・され・ ・方向づけられた・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
仕方・ ・で・転化・ ・ (transformation) させる・ ・ ・こと・ ・で・ある・ ・」と述べている(2)。探究は、ある不確定な状況から問 題を設定し、問題の諸要素を分析し、推論、検証して確定されたある結論へと至る一連の
- 32 -
過程を指す。探究の結果ある知識を獲得するが、探究を始める状況が異なれば当然探究の 結果は異なるものとなる。獲得された知識は、事実の整理や分析、検証という実験的操作 をとおした結果という科学的根拠をもつが、デューイはそれを「保証された言明可能性」
(warranted assertibility) とよぶ(3)。知識を、永遠なスタティックなものとしてではなく 探究の結果と捉え、次の探究の際には道具として他の情報とともに利用される仮説とみる のである。
このように探究は、あらかじめ固定されたある知識の対象を認識する方法ではなく、不 確定な状況から問題を設定し、その問題を解決し、ある結論へと至る思考の方法(how) で ある。それでは、何を探究するのか。この何を(what) に当たるのが探究の題材、すなわち subject-matterである。つまりsubject-matterは、あらかじめレディ・メイドな存在とし てそこに「ある」ものではなく、ある状況から「生じる」問題なのである。
デューイによると、探究における “subject-matter”、“content”、“objects” は、比較的 早 い 時 代 に 区 別 が な さ れ た と い う 。 彼 の 説 明 は 、 次 の と お り で あ る 。「 広 い 意 味 で
“subject-matter”は、調査されるものであり、それは、問題の解決に関連したあらゆる 素材とともにある、問題状況である」。“content”という言葉は、subject-matterに対して 限定された意味で使用され、調査の成り行きにおいて一時的に与えられ使用されたところ
のsubject-matterを、実在的に、概念的に明らかにした内容である。そして“an object”
は、ある解決された状況を明らかに構成するものとして示され、解決された状況の性質や 特徴と繋げられたものである。(4)
デューイが論理学を、形式的な推論形式ではなく探究の理論とする立場を初めて表明し たのは、共著『論理学理論の研究』(Studies in Logical Theory, 1903) であるといわれて いる。デューイに先駆けて論理学を探究の理論と考えたチャールズ・S・パース(Charles Sanders Peirce) はこの共著を認めなかったが、ウィリアム・ジェームズ(William James) は、「シカゴ学派の誕生」として賞賛したという逸話がある(5)。『論理学』をデューイは、
40年前の『論理学理論の研究』で初めて示した論理学に関するアイディアを発展したもの と述べているように(6)、その後の彼の哲学的模索のアウトラインを記したものである(7)。 他者からの評価はどうであれ、この共著が彼自身の思索の歩みにおいてメルクマールの位 置づけにあることは疑う余地もない。無論、本章で取りあげるsubject-matterの基本的な 輪郭は、この共著に遡ることができる。subject-matterの源泉について、以下のように述 べられている。
- 33 -
デューイは論理学について、実践と分離されたものではないという点を強調している。
反省的思考は構成的なものではなく、何かを求め、何か外に、何かをとりにいくことから 由来する二次的なものであり、「疑いなく、日々の実践的生活や科学に関して思考すること は、反省的なタイプである」と述べている(8)。したがって、日常の生活に由来するという 反省的思考は、出来事や行為、価値、観念、人、場といった実際の出来事を思考の対象に することになる。デューイは論理学を、ある結論へと至る実践にみられる反省的思考、す なわち、探究の理論であると主張するが、それは彼において、論理学の基盤を人の生活に みることなのである。
この人の生活を基盤にして探究が始まるというのだが、反省的思考の契機となるものを デ ュ ー イ は 素 材 と 内 容 と を 含 む あ る 特 別 な 状 況 で あ る と い い 、 こ の 特 別 な 状 況 を subject-matterとして説明している。
実践問題と分離された認識論は、反省的思考と比較すると、①思考を呼び起こすある特 別なものを前提とし、②思考の典型的な型があり、③思考の究極的な対象があることが指 摘される。反省的思考をおこなう前に、既に固定的な前提を設定しているのである。これ に対して反省的思考は、①思考を呼び起こすのは、思考状況を描くところにおける要素で あり、②感じ、判断し、推理するというさまざまな型や様式があり、③思考はある特別な 状況の問題であると、デューイは主張する。反省的思考は、究極的な思考の対象を設定し ないのである(9)。反省的思考において認識論で前提とされる形式や対象は、ある目的のた めに扱われる思考の材料、すなわち道具となる。
このように探究の理論は、確定された対象へと至る型ではなく、結果をつくる問題解決 の過程として示される、ある結論へと至る方法なのである。そしてsubject-matterの源泉 は、ア・プリオリな先験的世界にあるのではなく、『論理学』と同様、人が生きている現実 世界における状況に置かれていることがわかる。
ところで、表 1.に示したように、デューイは探究の過程の場面についてさまざまに表 現している。詳細は第四節で取りあげるが、『論理学』においては、探究の始まりである面 食らった不確定な状況と、探究する問題の設定とが区別されている(10)。『論理学理論の研 究』には、このような区別はみられず、探究の過程については、その後、デューイの模索 が発展したものの一つであると考えられる。事実、『論理学理論の研究』の改訂版である『実 験論理学のエッセー集』(Essays in Experimental Logic) に収録された論文「実践的判断 の論理学」(“The Logic of Judgments of Practice”) においてsubject-matterは、「不完全
- 34 -
な状況」と、状況の完成の要因となる「提案」とが区別して説明されている(11)。しかしな がら、『論理学理論の研究』における subject-matterは、探究を呼び起こす素材と内容が 話題になっていることから、『論理学』でいうところの問題設定場面が、混在しているとみ られる。したがって、区別こそ明確になされてはいないが、subject-matterは、面食らっ た状況そのものが、そのままsubject-matterになるわけではないことがわかる。
以上より、subject-matterの源泉は状況にあり、subject-matterはそこから生じた問題 であることが指摘できる。
第二節 subject-matterの位置
状況を源泉とするsubject-matterは、そこに何らかの探究すべき問題があると受けとめ られることによって生じる。この探究に値する問題だと受けとめるのは他でもない、探究 する本人である主体なのだから、subject-matter は、文字どおり主体(subject) の問題
(matter) なのであり、他者の問題でも、他者から与えられる問題でもない。このように、
デューイのいう探究においてsubject-matterは、主体の問題としての位置づけにある。以 下、その意味することをより詳細に探ってみよう。
実践との分離を批判し、探究を日常生活に由来するとみるデューイは、探究を「知るこ との行為」とよぶ(12)。知識の獲得を、身体と分離された精神の活動ではなく、心身一元 論の立場をとる人間観を基底にした知識観をもつのである。彼は、その根拠を有機体が環 境と関わりをもつ生物学的基盤に置いている。
生命体は空腹という不均衡状態になったとき、バランスを回復しようと、食物を探し求 め、食物を獲得、摂取し、生命の均衡状態を維持していく。単に環境の中で生きているの ではなく、環境との持続的な関係を常に回復しながら生きているのである。それをデュー イは「生きていくという過程は、有機体によってなされると同様に、環境によっても演じ られる。というのは、双方は統合されているからである」と、環境の関わりの中で環境と 統合していく出来事とみる(13)。この有機体が不均衡状態を回復していく生のリズムを、
デューイは探究のパターンとして扱う。つまり、探究の理論は、不均衡状態を回復しよう と主体が環境と統合していく生のリズムをもつ理論なのである。
また、均衡回復の生のリズムは、元の状態に戻ることを意味しない。食物の補給は、有
- 35 -
機体の状態の修正を巻き込むのであり、有機体と環境との「関わりの形式・ ・は回復するが、
同一の条件が回復するわけではない」のである(14)。特に、人の場合、古い環境を変化さ せ新しい環境条件をつくることが強調されている。有機体が環境を取り込んで習得したも のから新しい能力、そして新しい欲求が生まれ、新たな問題を引き起こすという。つまり、
有機体が環境を統合していく過程は、有機体と環境双方の変化を生むことになり、「最終的 な解決というものはない」こととなる(15)。
こ の よ う な 統 合 へ と 向 か う 有 機 体 と 環 境 と の 関 わ り を デ ュ ー イ は 「 相 互 作 用 」 (interaction) あるいは、「トランスアクション」(transaction) とよぶ。トランスアクショ ンは、晩年ベントリーと共著で出版した『知ることと知られるもの』(Knowing and the
Known) において、クローズアップされた用語である。そこでは、自身の力で作用する自
己作用(self-action) と、因果的な相互連絡においてバランスを保つ相互作用とが区別され、
トランスアクションは、外からの働きかけではない内からの生成の仕方であると説明され ている(16)。デューイは、tradeにトランスアクションをみるが、人間が、非人間的なもの、
つまり、他の人間とともにある環境を共有する人間の生活そのものと説明している(17)。 この説明は、上述した有機体と環境との関わりと重なり合う。デューイは、教育の論稿に おいて環境との関わりをほとんど「相互作用」で表現しており、その関わり方が内からの 生成の仕方を意味することが多いが、その場合トランスアクションとみなすことができよ う(18)。このトランスアクショナルな関わりについては、1896年の「心理学における反射 弧の概念」(“The Reflex Arc Concept in Psychology,” 1896) で既に示されたことが、『知 ることと知られるもの』の注に記載されている(19)。実験主義への転向以降、用語に変化 はみられるもののデューイが模索した内容は、一貫しているのである。
いずれにしても探究の理論は、有機体が環境を統合していく生物学的基盤を根拠にし、
内からの環境への関わりが主体もそして環境も変化をもたらすという主体を傍観者にはし ない理論であることがわかる。ゆえに、この有機体と環境との関係は、主体が一方的に環 境に力を行使するのでもなく、また環境が有無をいわさず主体を拘束するのでもない、双 方の関係性における理論といえる。したがって、主体の問題としての位置づけにある
subject-matterは、純粋なる主体の内面のみの問題ではなく、環境との関わりにおいて生
じた問題と言い換えられるのである。
今少し、精神と身体を一元的にみることについて吟味してみたい。生物学的基盤をもつ 探究は、知ることの行為である。探究の結果「保証された言明可能性」としての知識を獲
- 36 -
得するが、探究において知識の対象は、あらかじめ確定されたものではないのだから、「そ れぞれの対象は、実験的に考える過程のコースにおいてつくられるまで、知られることは ない」(20)。したがって、知識の対象は結果の中にあるといえる。また、探究のパターン は、不均衡回復を目指す身体的活動のリズムでもあるから、探究の結果の中にある知識の 対象は、身体と分離した精神の中にではなく、探究という行為の中にあるということにも なる。
ところで、知るということにおいて、特に行為という運動がなくても主体に変化をもた らすこともあるだろう。観照や精神のみによる方法である。デューイは、知ることにおけ る行為の有無を次のように説明する。「古典的な論理学に従うならば、結果は、先行する諸 条件を再組織することはせず、単純にわれわれ自身の主観的あるいは心的態度における変 化を引き出すだけであった」。だが活動は、先行する諸条件を再組織化し、「われわれ自身 の個人的態度や姿勢に変化を起こし、その結果、常にそこに存在していたものをよりよく みることができるのである」(21)。行為をともなった主体の変化は、外からの刺激によっ て変化が起こされるのではなく、探究以前の諸条件を再組織化することによって主体の態 度に変化をもたらし、その変化は、それまでみえなかったものがみえるようになる、とい うのである。もちろんこの主体のとる態度は、生物学的側面を基盤とするデューイにあっ ては能動的な行為である。つまり、知ることと行為を分離しないことによる主体の変化は、
デューイにおいて自ら能動的に探究以前の諸条件を再組織化するという操作をとおした上 でのこととなる。知ることにおいて行為を主張することは、思考を「純粋なる論理的操作 によって真理に到達する、身体から独立した『理性』の行使」とみるのではなく(22)、現 実の諸条件を操作することによって成立するとみるプラグマティックな立場を表明するこ となのである。
しかし、デューイはこのような立場を、それまでの諸哲学の理論を超えた新たな立場と はみていない。知識の理論にはさまざまな立場がある。ある立場は、知識の対象は直接的 感覚素材であると主張する一方で、数学的・論理学的対象こそが知識の対象に値すると主 張する。また、知識の対象は日常的経験の対象であると主張する立場もある。デューイは、
立場の異なるこれらの主張を総括するのではなく、探究の根源に調停の場を見出そうとす る。それぞれの主張における抗争は、「知識の真の価値ある対象が知識の操作」に先行し、
操作から独立しているという想定から発しているが、もし「知識が、外部の傍観者の行動 ではなく、自然的、社会的場面の内部の参加者の行動であることを理解するならば、真の
- 37 -
知識の対象は、指導された行動の結果の中にある」ことになる(23)。したがって、知識の 対象は遂行される探究と同じだけ存在するのであり、さまざまな理論が主張する知識の対 象を操作の素材とすることによって、対象間の抗争は解消されるというのである。このよ うな見方は、デューイに指摘されるまでもなく、アイザック・ニュートン(Isaac Newton) は じめ数多くの発見者たちが実践してきたことである。デューイは、知識の理論の根源を、
問い続け、求め続けた探究者の行為そのものにみるのである。
このように、知ることは、論理上の構成的なものではなく、主体自らが困惑からの転換
(converse) を経験する脈絡の中に置かれることを意味する(24)。言い換えるならば、外か
ら傍観者として眺めるのではなく、自ら知られるものの中に参加する、といってよい。こ の観点を『論理学理論の研究』に向けてみたとき、デューイが取りあげた建築技術の例に 如実に語られていることがわかる。以下が、それである。
「大工は、彼の建築についての一般的な思想や構築された一般的な道具ではなく、建 築している中に入って、素材について建築を考えてきた。・・・このことは、形式的な 問題ではなく、経験の中に実際に入ったときの、場の問題であり事柄の諸関係の問題な のである。」(25)
以上より、subject-matterを主体の問題として位置づけることは、知ることにおいて主 体を困惑からの転換という経験の脈絡の中に置くことを意味する。それは、自己の外にあ るさまざまな外的要因と関わる状況について判断をくだす(26)、探究者の態度を示すこと なのである。
第三節 subject-matterの条件
次に、主体の問題としてのsubject-matterが成立するための条件である。一つは、実験 的操作ができること、二つは、他者とのコミュニケーションに開かれていることである。
この二つの条件は、それなくしてはデューイのいうsubject-matterは成立しない必要条件 である。まず、実験的操作をみてみたい。
- 38 -
(一)実験的操作
前節で述べてきたことと重なるが、subject-matterの条件から改めて整理することとし よう。デューイは、操作(operation) について「実験観察のように、現に存在する素材に 基づいて、また現に存在する素材に関しておこなわれる操作」と、そして「記号に関して、
また記号に基づいておこなわれる操作」の二種類をあげている。後者の記号とは言語を指 し、観念や概念はそれに含まれる。デューイは、記号を使用しておこなわれる操作は、土 地を測量したり、バランスシートを作成したりするなど、極力実験的におこなわれるべき であると述べている。また、操作は、素材と手立てを含み、手立ては道具と技術を含み、
これらの要素は、ばらばらではなく、それぞれが関連しながら結果に対する手段としては たらくという(27)。確かに、素材が変われば当然手立ても変わり、道具が開発されればそ れまで扱えなかった素材が扱えるようになるだろう。そして新しい素材は道具や技術の開 発を促すことになろう。つまり、操作とは、現に存在する素材や記号を「遂行される素材 として、経験し得る対象を描く」ことを意味し(28)、それは、探究が成就されるよう素材 や手立てをコントロールしていくという、観想による方法とは対極をなすプラグマティッ クな手続きなのである。デューイは『論理学』の序文で、「『プラグマティック』の妥当な 解釈において、・・・結論が操作的に設立され、そして操作を呼び起こす特殊な問題を解決 するようなものならば、以下本文は、徹底的にプラグマティックなものである」と述べて いる(29)。このように操作は、デューイの探究の理論において彼の立場を支える極めて重 要な条件となっている。
それでは、操作が実験的であるということは、どのようなことを意味するのであろうか。
デューイは、実験的探究の特徴を三点指摘している。①外にあらわれる行為や、環境にお ける、または環境に対するわれわれの関係において、明らかなる変化をつくることが含ま れていること、②気まぐれな活動ではなく、積極的な探究が引き起こす問題に関する必要 によって、設定された諸条件と合致すべき観念に導かれること、③導かれた活動の成果は、
諸対象が相互に関係づけられ新しい経験的状況の構成物であり、導かれた操作の結果が知 られるものの特性をもつ対象を形づくるものであること(30)。ここで着眼したいのは、実 験は、「変化」、「気まぐれではない」、「新しい経験状況の構成物」、という素材をコントロ ールすることをとおして何物かを生み出す方向性をもっている点である。ある混乱状況に おいて、見慣れない素材、あるいは、たとえ見慣れたものでも改めてその本質を理解しよ うとするとき、われわれは、素材をひっくり返したり、明るいところにもっていき、鳴ら
- 39 -
したり、揺り動かしたり、捻ったり、叩いたり、押したり、圧したり、さまざまなことを 観察、分析し、実験する。そして、ある結論をくだす。周知のように、デューイは経験論 者ではあるが、科学的処理のない経験とは距離を置き、実験的立場を主張する。実験は、
分析、綜合の統合過程であり、誤謬を排除し、可変的なものを処理することができ、将来 について興味をもつものであると述べ、「経験的方法(empirical method) は十分な事例が あるまで待ちなさいという、実験的方法(experimental method) は、その事例を生み出し なさいという」と、科学的処理のない経験的方法と一線を画している(31)。デューイにお いて実験的操作は、「対象との新しい関係を樹立する」客観性を確保する科学的処理をとお した創造的手続きを意味するのである(32)。
操作に関して、『論理学理論の研究』では「データが組織される」などの操作が予測さ れる記述はあるものの(33)、その内容に関しては希薄である。論理学を実験的、道具的と いう言葉で説明した自覚的な記述は、この共著の改訂版『実験的論理学のエッセー集』に 収録された論文に示されている。「身体的な操作や技術は、思考の部分であり、思考は、特 別な材料ゆえにではなく精神的なものである」、「(帰納的論理学において強いられるであろ う、あらゆる発見の操作や検証を含む)思考」などの記述がある(34)。
ところで、デューイは、外的な操作ができる素材だけでなく、内的素材、すなわち暖か い、冷たいなどの感性の領域で得た素材を無視していない。もちろん先にみたように、先 行する諸条件の再組織化をとおして内面の変化がなされるとみるデューイは、内的素材そ れ自体を操作の対象とすることは考えていない。心的な要素は、現実の条件と結果によっ て規定されなければならず、その逆は成り立たない(35)。つまり、外的素材と内的素材を 二分したものと考えないのであり、操作上においても、それぞれに操作方法が別々にある というのではなく、外的素材の操作が内的素材と連続するとみているのである。この見方 は、『経験としての芸術』(Art as Experience) にも示されている。芸術作品の構成に入っ てくる物質的素材は、変化を受けねばならないことを全ての人は知っているが、同じよう な変形が「内的」素材、すなわち、想像、観察に基づく意見、記憶、情緒の側面にも生じ るということは、それほど一般的に知られていない(36)。実験的操作は、外的素材の操作 をとおして内的素材にアプローチする間接的方法でもある。「対象との新しい関係を樹立す る」創造的手続きである実験的操作は、外的素材の操作のみの出来事ではなく、内的素材 の再編にも開かれている操作なのである。
- 40 -
(二)コミュニケーション
次に、第二の条件、他者とのコミュニケーションである。コミュニケーションは、デュ ーイにおいて探究の母胎となっている。
素材との関わりは、個人の孤独な作業の行為ではない。料理をするために火が消えない よう番をするように、人の行為は、火という物質と純粋に関わる行為ではなく、伝統や習 慣といった文化的環境が組み込まれた上での人の行為である。人は、文化的環境に取り囲 まれた中で活動するのであり、問題を解決していく方法、すなわち探究は、物質的環境と 文化的環境とが一体となったものの影響を強く受ける社会的な活動であるというのである (37)。
物質的、文化的影響を強く受けている人間同士の関わりは問題を生じさせるが、それは、
自己にはない文化的背景をもつ人との何らかの違いがあるからである。デューイは違いを、
否定的に捉えず、自己にない文化的背景との関わりは、それまでの安定した状況に不安定 さをもたらし、この不安定さが探究を生じさせると捉える(38)。そうすると、人との関わ りにおいて生じた探究の遂行は、他者のもっている文化を知ることや、その他必要な情報 を獲得したり、素材についての知識を教わったり、また、他者と協力して活動をしたりす るなど、他者と関わりをもつことを要求することになる。探究においてコミュニケーショ ンは、探究の始まりである状況をもたらすとともに、その後の探究を成立させる条件なの である。したがって、探究の題材であるsubject-matterは、コミュニケーションに開かれ ていることが必要条件として指摘できる。
デューイのいうコミュニケーションは、「経験を共有していく過程」を指す(39)。それは、
単にものを授受することではなく、実際に他者と活動をともにすることをとおして、そこ に含まれる意味を互いに共有していく過程という道具的機能と、その結果まとまりをもっ た融合を可能とする目的的機能をもつ(40)。また、デューイにおいて経験は、先に述べた ように実験的操作をとおした経験である。したがって経験の共有は、単に活動をしている ということではない。興奮や熱中時にみられる無言のままの恍惚や妄想といった状態を止 め、「調査、熟考、観念的あるいは論理的な入念な仕上げ」を可能にするところに、成立す る(41)。つまり、コミュニケーションは、客観性を語る条件であり、探究を仕上げるので ある。そしてその結果、個人は他者の文化的環境を知り、影響を受け活動が変化していく。
「コミュニケーションによって可能になった状況を共有する人は、変わらないままでいる わけはないし、将来も同じ能力であるはずはない」(42)。コミュニケーションは、活動に
- 41 -
「参加する双方の性向を修正」することを可能にする(43)。デューイは、このような経験 を共有することによる変化を、他の生物にはみられない人間的な特徴としている。
異なる文化的背景をもつ人とのコミュニケーションが探究を生じさせ、コミュニケーシ ョンにおいて探究が仕上げられるというのだから、探究はコミュニケーションに始まり、
コミュニケーションに終わるといってよいだろう。コミュニケーションが、探究の母胎で あるという所以である(44)。
さて、探究の題材であるsubject-matterは、コミュニケーションという人との関わりに おいて生じた主体の問題ということになるのだから、この問題は、何らかの社会的意味を もった問題となる。そして、コミュニケーションをとおした探究の結果は、全く個別のも のではなく、他者と共有する経験をもち、自身が変わることになった知識の獲得というこ とになる。しかしながら、あくまでデューイのいうsubject-matterは、生物学的側面を基 盤 に も つ 探 究 を お こ な う 主 体 の 問 題 で あ る こ と を 忘 れ て は な ら な い 。 も ち ろ ん 、
subject-matterが、個人的側面と社会的側面の二側面を合わせたものという二元論的発想
でもない。「<探究の原理>が個人的・主観的傾向性の強い<習慣の原理>による影響を漸 次柔らげて、社会的・客観的な『方向』と『目的』へと転換させようとする」個人が開か れていく問題なのである(45)。探究の題材である subject-matterは、個人をより社会的・
客観的に開いていくコミュニケーションを母胎にし、素材の実験的操作ができるものが要 求されといえるのである。
コミュニケーションは、『論理学理論の研究』においては、直接確認される記述は見当 たらない観点である。改定された論文で「社会的条件」として(46)、他者との関わりが示 されていることから、この観点もまた、徐々に発展されていったとみられる。しかしなが ら、subject-matterは、環境との関わりをもつ状況を源泉としているのだから、コミュニ ケーションへと開かれる理路が、『論理学理論の研究』において完全に閉ざされていたとは いえない。教育に関して付言するならば、行為がはたらく場としての社会的側面について、
1897年には「教育における道徳的原理」(“Ethical Principles Underlying Education”) を 論述し、また、実際 1896 年に始まるシカゴ大学で設立したラボラトリー・スクール (Laboratory School of the University of Chicago) は、コミュニティとして組織された学 校であった。(詳細は、第三章の第二節、および第六章)。論理学の論文上、コミュニケー ションに関して直接論及することはなかったが、無視していたということにはならないの である。
- 42 -
以上より、subject-matterの条件として、実験的な操作ができること、コミュニケーシ ョンに開かれていることが指摘できる。
第四節 subject-matterの複雑化
ここまで、探究の題材であるsubject-matterの源泉は、状況であり、subject-matterは 主体の問題として位置づけられ、実験的操作とコミュニケーションがsubject-matterを成 立させる条件であることを述べてきた。本節では、実際subject-matterを探究し、その結 果どうなるのか、探究の時間的経緯に考察の観点を移し、subject-matterの輪郭をとって みたい。
探究は、これまでみてきたように、ある不確定な状況から安定した状況へと至る過程で ある。いわば、カオス状況から統一された状況への転換過程を指す。この転換は、場の置 き換えではなく、さまざまな場面を経た転化・ ・の結果という動きを意味する。「未決定的な いし問題的という相をもった一つの場面から、さまざまな相をもった諸場面を経て、決定 的ないし解決されたという相をもった一つの場面へと完結的に変換する過程」なのである (47)。この探究の過程は、『論理学理論の研究』では触れておらず、徐々に発展していった と考えられる。表1. に、『思考の方法』(初版、改訂版)、『民主主義と教育』、『論理学』
において述べられている場面を整理しておいた。ここでは、『論理学』の探究のパターンと して記述された諸場面をみてみよう(48)。
Ⅰ. 探究の先行条件―不確定な状況(The Antecedent Conditions of Inquiry: The Indeterminate Situation)
個人の側からいうと「面喰った」(lost our heads) 状態のことである。有機体と環境 との間における何らかの不均衡状態が生じると、有機体は、現実の条件を実際に変化さ せる操作によって統一された状況へと回復しようとする。この場面では、まだ結果が予 期されないゆえに、この不確定な状況は混乱した状況である。
Ⅱ. 問題の設定(Institution of a Problem)
不確定な状況から、結果が予想され、活動が選ばれ整理されると、有機体の環境との
- 43 -
関わりは探究となる。それは、不確定な状況を問題状況として受け取り、問題状況とし て決定するがゆえに生じる探究である。状況が探究を必要としているとみてとることは、
探究の第一歩である。したがって、この問題は、他者から与えられた問題ではないし、
また、問題が何かがはっきりすれば、探究は進んでいく。しかし、真の問題の設定がで きればよいが、的外れであると探究はスムーズには進まない。大事なことは、現実の状 況から問題が発生すること、そして現実の状況と関わりをもつことである。
Ⅲ. 問題解決の決定(The Determination of a Problem-Solution)
次に、どうすれば真の問題を形成し、以後の探究が解決へと向かうようにコントロー ルできるか、という問いを考えることである。まず、与えられた状況の中で、構成要素 として決定できるものを探すため、事実をよく観察する。そして、それができれば、可 能で適切な解決が暗示される。暗示された解決は、一つの観念としてあらわれ、予想と なる。この観念は、観察を方向づけ適切な事実を確認する役割を担う。
Ⅳ. 推論(Reasoning)
問題の解決が観念の形をとると、それが意味することは何かを検討することが必要と なる。暗示から得た観念は、根拠づけられていないからである。一つの観念が属する諸々 の体系の中で、どのような意味を利用したらよいかを考えることである。
Ⅴ. 事実と意味の操作的性格(The Operational of Facts-Meaning)
観察された事実と、そこから生じ受け入れられた観念は、探究を成就するために、操 作的な関係であることが要求される。観念は、今後の観察を促し、また観察は、現実の 条件に働きかけるための提案をする。推論で根拠づけられた仮説は、観察とまたそこか ら生じる観念とによって修正され、統一された現実の秩序が生じる。この連続的な過程 の中で、可能な解決を表す観念(仮説)がテストされ証明される。(仮説の検証といっ てよいが、この仮説は決して固定されたものではなく、観察された事実に常に修正を与 儀なくされ、仮説はまた用心深い観察を要求するという、双方の関連において探究が前 進していくという見方である)。
- 44 -
Ⅵ. 結論(The Conclusion)
このような場面を経て、混乱した状況は安定した状況となり、「保証つきの言明可能性」
としての知識が獲得される。もちろんそれは、将来において修正されるであろう可能性 に開かれた仮説としての知識であり、探究を経た科学的根拠のある、より高い確実性を もち、そして、さまざまな素材を包括し、まとまりのある統一体としての結論なのであ る。
ところで、実際、必ずしもこの順番通りというわけにはいかないだろう。問題の設定と 問題の解決の決定が同時になされることもあるだろうし、推論から、問題設定を再度検討 することもあるだろう。これらの緒場面についてデューイは、固定的な「型」ではなく、
避けられない特徴としてのアウトラインを示したものであると述べている(49)。つまり、
このような場面を通り、手続きを経ることによってのみ包括的で統一された状況をつくり 出すことができるというのである。上記にみてきた諸場面は、デューイのいう探究に値す るか否かの関門として考えねばなるまい。
さて、subject-matterについてみてみよう。
探究の題材であるsubject-matterは、ある困惑された状況から生じた問題である。その 問題が探究の過程を経て解決されるのであるから、subject-matterは、カオス状況からま とまりをもったものへと転化される状況の具体的内容ということになる。この探究の結果 としてのsubject-matterを、デューイは “object” とよぶ(50)。二元論的前提に立つ認識論 において、objectは知識の認識対象を指すが、デューイにおいてobjectは、特定の認識対 象ではなく、さまざまな素材が探究という過程を経て統一されたある結果なのである。こ の探究の結果としてのobjectは、「保証された言明可能性」としての知識を指す。それは、
完全な閉じた知識ではなく、新たな探究の契機となり、また一方で、新たな探究の資料と して利用される道具にもなる(51)。つまり、subject-matter は、探究の問題、そして探究 の資料という二重の意味をもつのである。
図式化してみよう。subject-matterAは、探究を経て統一された object としての A’ と なる。それは、問題解決のために得たさまざまな情報や意味を含み、秩序化され、当初の Aとは異なるA’ である。この経験された探究の結果A’ は、新たな探究のきっかけを生じ させ、探究されるべき問題の対象となる。また、別の探究においては、A’ は資料としての 道具となる。
- 45 -
このように、subject-matterは、探究の問題として、そして資料としての二重の意味が 繰り返されていくのだが、当初のsubject-matterAは、徐々にその内容にさまざまな情報 や意味が加わっていくことになるだろう。「操作が関わる諸条件が複雑になればなるほど、
その結果は、より充実し、より豊かになる」(52)。問題としての subject-matter は、探究 という過程を経ることによって統一された結果を得るが、この統一は、欠けているところ に足りないピースを当てはめていくジグソーパズルのような構成的なものではなく、有機 的なつながりをもつという、より複雑で、より意味の豊かなものなのである。
『論理学理論の研究』では、探究の過程は意識的に記述されていない。改定版の『実験 的 論 理 学 の エ ッ セ ー 集 』 に お い て は 、 不 完 全 な subject-matter が 、 完 成 さ れ た
subject-matterになる、という観点が論文全体を貫いており、判断の論理として構成され
ている(53)。ただし、J. J. チャンブリス(J. J. Chambliss) によると、subject-matterが問 題状況を指し、それが探究においてまとめられていくという記述は、1892年の非公開の資 料に遡ることができるという(54)。探究の始まりから終わりまでの具体的な構造は、徐々 に明確にされたが、探究が不確定な状況から始まり、ある結論へとまとめられ完成される という観点は、実験主義転向後から一貫していたのである。
おわりに
以上みてきたように、論理学におけるsubject-matterは、状況を源泉とし、主体の問題 として位置づけられ、実験的操作とコミュニケーションを条件とし、探究の過程を経るこ とで複雑化されていくという観点を導き出すことができた。これらの観点は、デューイの 実 験 主 義 転 向 以 降 、 一 貫 し て み ら れ た も の で あ る 。 し た が っ て 、 論 理 学 に お け る subject-matterの構成要素として示される。
ところでデューイの記述には、subjectとmatterの間に空欄を入れ分かち書きをしたも の“subject matter”、ハイフンを入れたもの“subject-matter”、空欄もハイフンも入れな いもの“subjectmatter”とがある。論理学の論稿にはハイフンがあるものが使用されてい るが、教育の論稿は空欄のものがほとんどである。空欄もハイフンもないのは、『知ること と知られるもの』に登場する。本稿では、デューイの記述に従った表記をしているが、こ のハイフンの有無は、何の意味もないわけではなく、デューイの模索が隠されている。
- 46 -
デ ュ ー イ は 、 ア メ リ カ の 多 文 化 社 会 に 関 す る 論 文 で 、 次 の 意 味 で ハ イ フ ン 主 義
(hyphenism) を歓迎している。それぞれの人々から優れた部分を引き出し、それが知恵と
経験という共通財産に貢献され、人々はその中に織り込まれる。そして、アメリカの国民 的精神が多様な人々とともに創造される。つまり、Irish-AmericanやHebrew-American という言葉は、アメリカ人にアイルランド人やユダヤ人を付け足したのではないというの である(55)。ここで注目したいのは、多文化社会に関してではなく、「ハイフン」それ自身 の意味である。それは、AとBを付け足すという二元論的発想ではなく、AとBの双方の 貢献によって全体をなし、絶えず創造されるという方向性をもつ。
そうすると、“subject-matter”は、“subject”に“matter”を付け足したのはなく、双 方の関わりによって新たな統一を創造する全体とみる意図が推測されるのである。薔薇は 他の名でよんでも同じ甘い匂いがする、というウィリアム・シェイクスピア(William
Shakespeare) の言葉を援用するように(56)、デューイは言語主義をとらない。表現したい
内容をいかに表現することがよりふさわしいのか、従来の用語の意味の変化による方法を とるデューイにおいてハイフンの有無は、彼の生涯にわってなされた模索の痕跡なのでは あるまいか。
さて、1949年、デューイ90歳の時、ベントリーと共著で『知ることと知られるもの』
を著した。出版前になされた1943年の往復書簡でベントリーから質問されたデューイは、
“subjectmatter” を、トピックやテーマという古代ギリシアでの使用の影響を受けている
ことを認めている(57)。
そ も そ も subject-matter は 、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド 英 語 辞 典(The Oxford English Dictionary) によると、「支配を受ける、服従する、条件とする」などを意味する形容詞の
“subject” と、「実質、素材」を意味する “matter” が結合されたものである。辞典には、
アリストテレス(Aristoteles) が使用した二つの用法を指標にして、いくつかの意味が分類 されている。一つは、アートやある過程において操作されるもので、形式化される以前の 素材の意味である。二つは、言語による議論や表現の素材の意味である。話されるテーマ や条件、プロジェクトや企ての意味、また、科学や法などの研究領域における題材の意味 はここに分類されている。教育における使用は、教科内容を指すものとして 1895 年の使 用例があげられている。(58) 吉村武栄や森昭が、本来subject-matterは素材の意味である と述べた所以がここに確認できる。
古代ギリシアにおいて“subject” は現代の“object” の意味で使用されていたのだから、
- 47 -
subject-matterは、「支配を受ける対象」ということになろう。したがって、subject-matter は、形式(form) と区別された内容、あるいは形式化される分析以前の素材の意味であり、
それは、人の行為を限定する対象といえる。
このように、デューイが探究の題材として使用するsubject-matterは、形式化される前 の素材、あるいは探究の内容、そして探究を限定するという意味において、英語本来の用 法で使用されていることがわかる。しかしながら、本章でみてきたように、subject-matter は、状況から生まれた主体の問題であった。subject-matterは、ア・プリオリな世界にあ ったのではなく生じるものなのである。更に、デューイのいうsubject-matterは、状況と いう外界の世界の対象との関わりにおいて設定されたテーマであるがゆえに操作する対象 を含み、探究過程において、対象は探究の資料として活用され統合されていくことへと開 かれている。古代ギリシアにおけるsubject-matterとの違いは、subject-matterをア・プ リオリな世界(イデア界)に求めるのか、状況内に置かれた個人の問いから生じた主体の 問題なのか、という点にあると考えられる。デューイのいうsubject-matterは、“subject”
と “object” の 双 方 を 未 分 析 の 総 体 と し て 入 れ る 器 、「 樽 詰 さ れ た 一 つ の も の 」 (single-barrelled) なのである(59)。
最後に結論として、論理学におけるsubject-matterをまとめておこう。デューイのいう
subject-matterは、精神と身体、主体と客体、知ることと知られるものという認識論に横
たわる二元論を放棄し、認識論における対象を資料にした結果生じた問題である。それは、
“subject”と“object”の双方の意味をもつ概念なのである。
- 48 -