坂本勝『落陽飢ゆ』『戯曲資本論』試論 : <楕円の 軌跡>新人会・大阪労働学校・関西学院
著者 杣谷 英紀
雑誌名 日本文藝研究
巻 65
号 1
ページ 49‑71
URL http://hdl.handle.net/10236/11532
阪 本 勝 ﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄ ﹃ 戯 曲 資 本 論 ﹄ 試 論
│
│
︿楕 円 の 軌跡
﹀ 新 人会
・ 大 阪労 働 学 校・ 関 西 学院
│
│
杣 谷 英 紀
阪 本勝
︵ 一 八 九 九
〜 一 九 七 五
︶ と いえ ば︑ 兵庫 県議 会議 員︑ 衆議 院議 員︑ 尼崎 市長
︑兵 庫 県 知事 を 歴 任し た
︑戦 前・ 戦後 の兵 庫県 政に とっ ての 重要 人物 の一 人で ある
︒一 方で 戯曲 やエ ッセ イを 発表 し︑ 知事 を退 任後 は県 立美 術館 の館 長を 務め た文 化人 とし ての 一面 を有 して おり
︑本 稿は 特に 戯曲 家と して の阪 本勝 の戦 前の 仕事 を対 象と する
︒な ぜそ の時 期の 阪本 勝を 採り 上げ るの かと いう と︑ 彼の 戯曲 家と して の仕 事に は︑ 東京 帝国 大学 新人 会を 源と する マル クス 主義 イデ オロ ギー が関 西に 流入 する 一つ の経 路を 映し 出す 一面 があ ると 共に
︑そ のよ うな 時代 のう ねり と衝 突す る個 の精 神が 文芸 作品 とな って 昇華 して いる から であ る︒ また
︑阪 本は 東京 帝国 大学 卒業 後︑ 福島 で一 年を 高校 教師 とし て過 ごし てか ら︑ 大阪 毎日 新聞 記者 とな り︑ さら に関 西学 院で 講師 とな って いる
︒東 京帝 大新 人会 から 関西 学院 を通 過す る人 物と して
︑他 に新 明正 道や 松澤 兼人 など が先 行し てい るが
︑こ うい った 人材 の流 れが
︑東 京帝 大か ら関 西学 院を 通過 して 神戸 で労 働運 動と して 実を 結ぶ イデ オロ ギー の流 れを 形成 して いる かの よう に見 える
︒と いう のも
︑一 九 二九 年 に 西 宮に 移 転 する ま で の関 西 学 院 には 神 戸 の労 働 運 動 の台 風 の 目と い え る時 期 が あ った か ら であ る
︒そ れ は︑ 河上 丈太 郎を 中心 に新 明正 道︑ 松澤 兼人 など 社会 学系 の教 授陣 が﹁ 社会 学会
﹂と いう 学生 グル ープ に影 響を 与え 阪 本 勝
﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄﹃ 戯 曲 資 本 論
﹄ 試 論
四 九
た 一九 二
〇 年 代中 頃 で あり
︑な か で も神 戸 に お ける
﹁無 産 政 党運 動 揺 籃 の拠 点
﹂⑴
政 治 研 究会 神 戸 支部 が
︑新 明
︑松 澤の 尽力 によ って 結成 され た一 九二 五年 はそ の頂 点で あっ た︒ 関西 学院 は一 九二
〇年 代の 神戸 にお ける 社会 運動 のう ねり を映 し出 す舞 台と なっ てお り︑ その 登場 人物 の一 人と して 阪本 勝の 動向 には 注目 すべ きも のが ある
︒本 稿で はマ ルク ス主 義イ デオ ロギ ー形 成の 時空 も視 野に 入れ つつ
︑阪 本の 代表 作﹃ 洛陽 飢ゆ
﹄︵ 福 永 書 店
︑ 一 九 二 七 年 六 月
︶ と
﹃戯 曲資 本論
﹄︵ 日 本 評 論 社
︑ 一 九 三 一 年 六 月
︶ の文 芸作 品と して の意 義に つい て考 察す る︒ 一︑ 東 京 帝国 大 学 新人 会 と 大原 社 会 問題 研 究 所 尼 崎 に 生 まれ た 阪 本勝 が
︑大 阪 府立 北 野 中 学校
︑仙 台 第 二高 等 学 校を 経 て
︑東 京 帝国 大 学 経済 学 部 に 入 学 し た の は︑ 一 九二
〇 年 で ある
︒﹁ 阪 本 勝年 譜
﹂に は︑
﹁ 新明 正 道﹂ と﹁ 松 澤 兼人 と の 影 響 を 受 け て 新 人 会 に 入 会
﹂し た と あ り⑵
︑ 後に 同志 社大 学学 長と なる 住谷 悦治 も﹁ 阪本 も学 生時 代に 吉野 博士 の デ モク ラ シ ー の洗 礼 を 受け
︑東 大 新 人会 員 にな り ヴ
・ナ ロ ード を さ けん だ 一 人﹂ と述 懐 し て いる
⑶
︒し か し︑ 阪 本自 身 は﹁ 大 学 時代 は 信 ずる 所 あ っ て 敢 て︑ 新人 会に 入会 する こと もし なか った
﹂と 記し てい るの で実 情は 定 か では な い⑷
︒ た だ︑ 親 交の 深 か った 住 谷 悦治
・河 野密 が新 人会 のメ ンバ ーで あり
︑新 明正 道や 松澤 兼人 など も学 年は 違え ども 後に 道が 重な る人 物で あり
︑交 友関 係か ら見 て阪 本が 新人 会に 近い 位置 にい たの は間 違い ない
⑸
︒ 新 人会 とは どの よう な集 団で あっ たか とい うと
︑吉 野作 造の 影響 を受 けた 赤松 克麿
︑宮 崎龍 介︑ 石渡 春雄 が一 九一 九年 に始 めた 東京 帝国 大学 の学 生運 動団 体で あり
︑一 九二 一年 一一 月ま でを 前期 新人 会と し︑ それ 以降 一九 二九 年に 解散 する まで を後 期新 人会 とい う︒ 後に 関西 学院 で同 僚と なる 新明 正道 や松 澤兼 人が 東京 帝大 に入 学し た一 九一 八年 の暮 れに 新人 会結 成の きっ かけ とな る吉 野作 造と 浪人 会の 討論 会が 開催 され てお り︑ 新明 と松 澤は 草創 期か らの メン
阪 本 勝
﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄﹃ 戯 曲 資 本 論
﹄ 試 論
五
〇
バー であ った
︒阪 本が 在学 して いた 時代 はそ の前 期と 後期 との 過渡 期と いう こと にな る︒ 酒井 正文 によ れば
︑新 人会 の人 脈に は︑
①﹁ 東大 法学 部校 友会 たる 緑会 に属 し 弁 論 部を 牛 耳 る委 員
﹂で
︑﹁ 弁 論部 長 で あ った 吉 野 の民 本 主 義思 想に 共鳴 する
﹂中 核メ ンバ ーや
︑②
﹁法 学部 の 研 究 素質 に 残 って い た 助手
︑研 究 生﹂
︑
③﹁ 留 学生 や 支 援す る 日 本学 徒﹂
︑ そし て
︑④
﹁帝 大 基 督教 青 年 会︵ 吉 野 は 理 事 長 で あ る
︶ 宿 舎 に い た人 々
﹂等 が あっ た と いう
︒注 目 す べ きは
④で あり
︑﹁ こ この メン バー にし て新 人会 の初 期 会 員と な っ た者 と し て﹂ 松澤 兼 人︑ 住 谷 悦治
︑新 明 正 道︑ 河野 密 等 の名 前が 挙げ られ てい る⑹
︒ 彼等 こそ 後に 神戸
・関 西学 院を 軸と して 阪本 勝と 交流 する こと にな るの であ る︒ で は︑ 新人 会が どの よう な思 想的 立場 にい たの だろ うか
︒後 に関 西学 院か ら東 北大 学に 移っ て社 会学 者と して 大成 する 新明 正道 の関 西学 院時 代︵ 一 九 二 二 年
︶ の著 作﹃ 社会 学序 説﹄⑺
を参 照す る︒ 国 家 は
︑ 既 に 統 制 的 機 関 と し て の
︑ そ の 本 来 の 職 分 を 失 つ て ゐ る
︒ 国 家 は
︑ 全 社 会 人 の 利 益 に よ つ て 動 か さ れ て ゐ る 団 体 で は な い
︒ そ は
︑ 社 会 的 で あ る か の 如 き 表 情 を し な が ら
︑ 階 級 的 な 目 的 を 追 求 す る 機 関 に 化 し て ゐ る の で あ る
︒︵ 略
︶ し か も 此 の 国 家 が 統 一 的 哲 学 を 説 く の で あ る
︒ 奴 隷 売 買 業 者 が
︑ 黒 奴 に 向 つ て
︑ 人 類 同 胞 を 説 く の と
︑ 何 れ だ け の ち が ひ が あ る だ ら う か
︒ 現 在の 国家 を徹 底し て否 定し
︑国 家を 超え る共 同体 原理 を探 そう と す る姿 勢 は︑ 新 人 会の も の とい っ て よい
⑻
︒ま た︑ 松澤 兼人 は︑ 新人 会の 機関 雑誌 であ っ た﹃ デ モ クラ シ イ﹄ に﹁ 戦 争の 防 圧 は国 の 強 大 なる 武 器 でも な く﹂
﹁ 仲裁 機関 でも なく 国を 撤し たる
﹁人
﹂と
﹁人
﹂の 力強 い団 結で あら ねば なら ない
﹂と 持論 を述 べ︑ 戦時 にお ける 国家 の存 在に 対し て疑 問を 投げ かけ てい る⑼
︒ で は
︑阪 本 は 東京 帝 大 時代 い か なる 思 想 的 立場 に い たの だ ろ うか
︒後 の 阪 本 は当 時 の マル キ シ ズム の 熱 気 に つ い 阪 本 勝
﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄﹃ 戯 曲 資 本 論
﹄ 試 論
五 一
て︑
﹁﹁ 在 来い っさ いの 社会 の歴 史は 階級 闘争 の歴 史で ある
﹂と いう 言葉 に始 まり
﹁万 国の 労働 者団 結せ よ﹂ とい う呼 びか けに 終る
﹃共 産党 宣言
﹄の 短文 ほど
︑青 年の 胸に 力強 く迫 る文 章が ほか にあ った だろ うか
﹂と ふり かえ り︑ その
﹁ きわ めて 簡単 明瞭 な﹂ 表現 にこ そ﹁ マル キ シ ズム の 勝 利が あ っ た﹂ とい う
︒し か る に︑ 東京 帝 大 時代 の 阪 本は
︑ド イツ 語版 の﹃ 共産 党宣 言﹄ やカ ウツ キー
﹃資 本 論 解 説﹄ を読 み
︑﹁ 資 本論 関 係 の書 を よ み ふけ
﹂る な ど して マ ル クス 主義 の理 論を 吸収 しつ つも
︑﹁ 共 産主 義の 実 践 には 走 ら なか っ た﹂ と いう
︒そ の 理 由 とし て 自 分の
﹁宗 教 的・ 理 想主 義 的素 質
﹂を 挙 げ てい る⑽
︒そ も そも 阪 本 は仙 台 第 二 高等 学 校 時代 は
﹁一 個 の 哲学 青 年 であ り
︑文 学 青 年﹂ で あ り︑ 東京 帝大 時代 は﹁ 書斎 の文 学者 の生 活﹂ をし てい た と い う︒
﹁三 年 間 書き に 書 いて
︑千 枚 前 後 の長 篇 小 説だ け で も三 つあ る﹂ とい い︑ その よう な生 活が マル キシ ズム の実 践へ は向 かわ せな かっ たの であ ろう
⑾
︒ 一 九二 四年
︑福 島中 学に 英語 教師 とし て一 年間 赴任 して いた 阪本 は︑ 帰阪 して 大阪 毎日 新聞 に入 社︑ 学芸 部の 記者 とな って いる
︒五 月に 住谷 悦治 らと とも に奈 良県 での 水平 社夏 季講 習会 の講 師と なり
︑さ らに 六月 末の 大阪 市電 の大 争議 に刺 激を 受け て︑ 次第 に社 会主 義運 動に 身を 投ず る決 心を 固め る︒ この 時期 の心 の煩 悶に つい て阪 本は 後に 次の よう に記 して いる
︒ 持 前 の 情 熱 は 私 を 灼 い た
︒ 私 は 新 聞 記 者 と し て こ の 問 題 を 冷 静 に 傍 観 し て い る こ と が で き な か っ た
︒ 大 学 時 代 は 信 ず る 所 あ っ て 敢 て
︑ 新 人 会 に 入 会 す る こ と も し な か っ た が
︑ 多 く の 社 会 思 想 家 の 卵 を 以 て 任 ず る 間 に ぽ つ ん と 一 人 創 作 に 専 念 し て い た 私 の 裡 に は
︑ 潜 熱 が 次 第 に 昇 騰 し て い た
︒︵ 略
︶ 然 し 遂 に 私 は
︑ 勇 敢 に 文 芸 の 筆 を 折 る こ と を 決 意 し た の で あ っ た
︒ そ こ で こ の 決 意 の 下 に
︑ 私 は 大 学 時 代 か ら の 知 己 の 友
︑ 住! 谷! 悦! 治!
︑ 河! 野! 密! の 二 君 を 京 都 に 訪 れ
︑ 七 月 の 若 葉 揺 ぐ 賀 茂 の 森 を 徜 徉 し な が ら
︑ し み じ み と 語 り 合 っ た
︒ そ し て 同 年 九 月 か ら 私 の 方 向 転 換 が 行 わ れ
︑ 私 は 直 ち に 労 働 総 同 盟 に 接 近 し た の で あ っ た
︒⑿
阪 本 勝
﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄﹃ 戯 曲 資 本 論
﹄ 試 論
五 二
こ の煩 悶こ そ﹃ 洛陽 飢ゆ
﹄の 執筆 契機 にな って いる ので 重要 なの だが
︑こ こで は﹁ 労働 総同 盟に 接近 した
﹂こ との 内実 につ いて 考察 する
︒阪 本が 毎日 新聞 記者 だっ た時 期に 労働 運動 に対 する
﹁情 熱﹂ から
﹁方 向転 換﹂ がお こな われ こと には
︑﹁ 水 平社 部落 をし ばし ば訪 問し て︑ つぶ さ に その 実 態 を研 究
﹂し た こと と
﹁天 王 寺 にあ っ た 大原 社 会 問題 研究 所に いっ て卓 越し た社 会学 者に 会い
︑そ の話 を聞 くと とも に豊 富な 海外 の書 物に 接触
﹂し たこ とが その 原動 力に なっ てい る⒀
︒ 当時 大阪 市南 区に あっ た大 原社 会問 題研 究所 は︑ 一九 二二 年 一 二月 に 財 団 法人 と な って お り︑ 東 京帝 国大 学を 辞任 した 高野 岩三 郎が 常務 理事
︑同 じく 東京 帝国 大学 を辞 任し た森 戸辰 男が 理事
︑委 員に は当 時の 気鋭 の社 会学 者が 名を 連ね てい た︒ 阪本 のい う﹁ 卓越 した 学者
﹂と はそ のう ちの 櫛田 民蔵 であ る︒ 櫛田 民蔵 は福 島県 出身 で京 都帝 大で 河上 肇に 師事
︑大 阪朝 日新 聞か ら同 志社 大学 教授 の後
︑東 京帝 国大 学講 師と なる が︑ 森戸 事件 をき っか けに 森戸 辰男 と共 に辞 職し てい る︒ また
︑高 野岩 三郎 は国 際労 働会 議代 表選 出に さい して の混 乱の 責任 を取 って 東京 帝大 教授 を辞 任し てい る︒ この こと から もわ かる よう に︑ 当時 の東 京帝 国大 学を 巡る 労働 運動 の混 迷の あお りを 受け て大 阪に ある 大原 社会 問題 研究 所に その 方面 の知 性が 集中 して いた ので ある
︒ 二︑ 大 阪 労働 学 校 と﹁ 矛 盾 原理
﹂ さ て︑ 阪本 が代 表作
﹃洛 陽飢 ゆ﹄ を執 筆し たの は︑ 大原 社会 問題 研究 所で
﹁百 姓一 揆に つい て調 べて いた
﹂と きに 着想 を得 て︑
﹁ この 長篇 戯曲 を書 き終 った ころ
︑毎 日 新 聞を 退 か ねば な ら ぬ事 情 が 起 った
﹂と い う から
︑一 九 二 五年 から 一九 二 六 年の 春 あ た りで あ ろ う⒁
︒ この 時 期 に阪 本 が 一 方で 最 も 注力 し た のは 労 働 学 校運 動 だ と思 わ れ る︒
﹃本 邦労 働学 校概 況﹄ によ れば
︑大 阪労 働学 校は 一九 二二 年六 月に
﹁山 名義 鶴︑ 賀川 豊彦
︑村 嶋帰 之諸 氏の 尽力 と大 阪労 働団 体の 後援 とに より
︑大 阪市 西区 安治 川基 督教 会の 階上 に開 校式 を挙 げ︑ 校長 に賀 川豊 彦氏
︑主 事に 松澤 兼人 氏講 阪 本 勝
﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄﹃ 戯 曲 資 本 論
﹄ 試 論
五 三
師に 京阪 神の 大学 教授
︑弁 護士
︑新 聞記 者の 有志 を依 頼し
︑第 一期 を開 講し
︑関 西労 働学 校運 動の 先駆 とな つた
﹂も ので ある
⒂
︒山 名義 鶴は 大原 社会 問題 研究 所の 研究 員だ った が︑ 一九 二四 年に 総 同 盟中 央 委 員 会政 治 部 顧問 に 就 いて いる
︒村 嶋歸 之は 大阪 毎日 新聞 記者 で︑ 神戸 労働 運動 の理 論的 な支 柱と もい える 人物 であ った
︒ 新 明正 道や 小岩 井浄 など の新 人会 出身 者と 大阪 労働 学校 を結 びつ けた 人物 の一 人と して 考え られ るの は松 澤兼 人だ ろう
︒松 澤兼 人は
︑大 学を 卒業 した 一九 二一 年︑ 大阪 市役 所の 志賀 支那 人に 誘わ れて 大阪 市民 館で
﹁日 本で 初め ての 公的 セツ ルメ ント の仕 事﹂ をし てい た⒃
︒ 大阪 労働 学校 開校 に際 し︑ 若き 松澤 兼 人 が主 事 と な って い る のに は 校 長で ある 賀川 豊彦 の信 頼が 厚か った ため であ ろう
︒賀 川豊 彦と 松澤 兼人 の関 係は
︑松 澤が 東京 帝大 基督 教青 年会 で賀 川の 講演 を聴 いた こと から 始ま り︑ 新 人会 に い た一 九 二
〇年 に
︑﹃ 東 京 日日 新 聞﹄︵ 後 の
﹃ 毎 日 新 聞
﹄︶ の 学 生 記者 に よ る失 業の 実態 調査 とい う企 画の 際︑ 松澤 兼人 が賀 川豊 彦の 住む 新川 の長 屋の 一間 に半 月滞 在し たこ とに より 親交 を深 めて い る︒ 松 澤 は
﹁賀 川 先 生 と は
︑そ の よ う な 関 係 で︑ 私 の と こ ろ に 話 を 持 っ て こ ら れ た の か と 思 う﹂ と 述 懐 し て い る⒄
︒ 神戸 と新 人会 の繋 がり の端 緒は ここ にあ った とも いえ るか もし れ な い︒ なお
︑第 一 期 か ら講 義 を して い た 新明 正道 は松 澤の
﹁依 頼を 受け て私 も講 師を 引き 受け るこ とに なっ たこ とは 明白 であ る﹂ と記 して いる
⒅
︒ で は︑ 阪本 はど のよ うに して 大阪 労働 学校 と接 触し たの だろ うか
︒森 戸辰 男は
﹁村 嶋さ んの 関係 で大 阪毎 日新 聞学 芸部 記者 の阪 本勝 君が
︑講 師と して
﹃組 合と 政党
﹄﹃ 無 産階 級経 済学
﹄な どの 講義 を引 き受 けて いた
﹂と 述べ
︑﹁ 阪本 君と 相前 後し て︑ 東京 から 大阪 朝日 新聞 外信 部に 赴任 して きた 河野 密君 を︑ 村嶋 さん か山 名さ んの どち らか が説 きつ けて
︑労 働学 校講 師に なっ ても らっ た﹂ と回 想し てい るか ら︑ 同じ 大阪 毎日 新聞 社の 村嶋 歸之 が阪 本を 誘っ たの かも し れな い⒆
︒﹃ 大 阪 労働 学 校 十年 史
﹄に よ れば 河 野 が﹁ 労 働運 動 史﹂ の 講義 を 担 当す る の は︑ 一 九二 四 年 五月 の 第 六 期で あり
︑阪 本が
﹁近 世社 会思 想史
﹂と いう 講義 を担 当す るの は︑ 同年 九月 から の第 七期 開講 時で ある
︒先 に引 用し
阪 本 勝
﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄﹃ 戯 曲 資 本 論
﹄ 試 論
五 四
た住 谷・ 河野 らと の京 都行 きは
︑一 九二 四年 の七 月の こと であ り︑ 住谷 悦治 は︑ この 時点 で大 阪労 働学 校史 に名 前は 出て こな いが
︑そ の創 設時 から 拘わ って いた とい うか ら⒇
︑ 阪本 を大 阪労 働学 校 に 結び つ け た のは 住 谷 悦治 か 河 野密 かも しれ ない
︒い ずれ にせ よ︑ 阪本 と大 阪労 働学 校と は い く つも の 縁 で繋 が っ てい る よ う に見 え る︒
﹁ 労働 総 同 盟に 近づ く﹂ の具 体は 労働 学校 への 参加 がま ず足 がか りで あっ た︒
﹃大 阪 労 働学 校 十 年史
﹄か ら 見 えて く る 阪 本の 活 動 は以 下 の 通り で あ る︒ ま ず阪 本 は
︑第 七 期
﹁近 世 社 会 思 想 史﹂
︵ 一 九 二 四 年 九 月
︶︑ 第 八 期﹁ 無 産 階 級 経 済 学
﹂︵ 一
〇 回
・ 一 九 二 五 年 一 月
︶︑ 第 九 期
﹁各 国 無 産 政 党 発 達 史﹂
︵ 七 回
・ 同 五 月
︑︶ 第 十 期﹁ 社 会 思 想 史﹂︵ 三 回
・ 同 九 月
︑︶ 第 十 一 期
﹁政 党 問 題
﹂︵ 四 回
・ 一 九 二 六 年 一 月
︑︶ 第 十 二 期
﹁社 会 運 動 史﹂
︵ 四 回
・ 同 五 月
︶︑ 第十 四期
﹁社 会運 動史
﹂︵ 三 回
・ 一 九 二 七 年 一 月
︶︑ 第 十五 期
﹁イ ン ター ナ シ ョ ナル 史
﹂︵ 一 回
・ 同 五 月
︶︑ 第 二十 五 期
﹁プ ロ レタ リ ア 文化 論
﹂︵ 一 回
・ 一 九 三
〇 年 一 一 月
︑︶ 第 二 十 六期
﹁プ ロ レ タリ ア 文 化 論﹂︵ 二 回
・ 一 九 三 一 年 三 月
︶ とい う講 義を 担当 して いる
︒一 九二 五年 五月 には 村嶋
︑山 名
︑河 野︑ 井 上ら と と も に発 起 人 とな り
︑大 阪 労働 学校 後援 会を 設立 し︑ さら に新 たに 組織 され た経 営委 員に も賀 川︑ 村嶋
︑山 名︑ 河野
︑小 岩井
︑細 迫兼 光ら と名 を連 ね た︒ 一九 二 七 年 の七 月 八 月に は
︑﹁ 労 働学 校 高 等 部﹂ を開 講 し︑ 阪 本は そ の 講師 と な っ てい る
︒大 阪 労働 学 校 以 外に は︑ 一九 二四 年四 月に
﹁最 初大 阪労 働学 校の 延長 たる
︑地 方講 座な りし が︑ 労働 組合 の発 達と 共に
︑独 立し て組 織的 な教 育機 関と なし た﹂ 尼崎 労働 学校 にお いて
﹁政 党と 問題
﹂と いう 講 義 を受 け 持 ち
︑ 後 にみ ず か ら代 表 者 にな って いる
︒ で は︑ 阪本 は労 働学 校教 育に 対し てど のよ うな 考 え を 持っ て い たの だ ろ うか
︒﹃ 社 会 問 題講 座
﹄に 掲 載さ れ た 阪本 の﹁ 労働 組合 と労 働者 教育
﹂か ら考 えて みた い
︒ 先に 示し た阪 本の 講義 題 目 から も 推 察 でき る よ うに
︑労 働 学 校の カリ キュ ラム は︑ 労働 者の 実生 活に 結び つく 職業 訓練 とい う要 素は ない
︒阪 本は その よう な教 育を
﹁資 本家 が労 働者 阪 本 勝
﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄﹃ 戯 曲 資 本 論
﹄ 試 論
五 五
に﹁ 芸を 仕込 む﹂ 教育
﹂だ とし て否 定し てい る︒ また
﹁教 育の 機会 均等 の主 張の 上に 立ち
︑労 働者 にも 又教 育を 与え んと する
﹂態 度に も反 対す る︒ なぜ なら
﹁資 本主 義文 化に 妥協 する こと は﹂ ブル ジョ ア・ イデ オロ ギー に与 する こと にな るか らで ある
︒む しろ 資本 主義 文化 や ブ ル ジョ ア
・イ デ オロ ギ ー の﹁ 終滅 を 目 的 とな
﹂す こ と にこ そ
︑﹁ プ ロレ タリ ア・ イデ オロ ギー の顕 現た る独 立労 働教 育運 動﹂ の意 義が ある とす る︒ そう する と︑ 次の よう な労 働教 育観 が立 ち上 がる
︒ 労 働 者 教 育 そ れ 自 体 は 否 定 原 理 で あ る と 同 時 に 肯 定 原 理 で あ る
︒ と い う よ り も 否 定 を 通 し て の 肯 定 で あ る
︒ 謂 う 心 は
︑ 労 働 者 教 育 は 既 成 組 織 に 対 す る 否 定 に 立 脚 し て 次 の 組 織 の 建 設 即 ち 肯 定 を 本 意 と す る も の で あ り
︑ 既 成 社 会 に 内 在 す る 不 可 避 な る 矛 盾 を そ の ま ま の 反 映 で あ る か ら
︑ そ れ 自 体 に お い て 否 定 と 肯 定 と を 兼 ね る 所 の 一 つ の 矛 盾 原 理 で あ る と い う の で あ る
︒ こ こに は労 働者 教育 が成 功し てい ると は言 い難 い現 実に 対す る実 感が 込め られ てい る︒ たと えば
︑労 働者 教育 の現 場で は︑
﹁ 講師 が高 遠な る学 理を 説い て超 然た る事
︒即 ち 労 働教 育 が 労働 者 に 対す る 理 解 を全 く 欠 如し て い る﹂ とい う批 判が ある とい う︒ 阪本 はそ れに 対 し て﹁ 速 断に 過 ぎ ぬ﹂ と吐 き 捨 てつ つ
︑﹁ け れ ども
︑経 験 と 努力 は
︑や が て数 少な い教 育者 に熟 練と 自身 を与 える こと は期 して 待つ べき であ る﹂ と述 べる
︒こ こに は講 師が 一方 的に 受講 者を 教育 する
︑と いっ たイ メー ジよ りも
︑講 師も 又 成 長・ 変 化し て し かる べ き であ る と い う姿 勢 が 見え る
︒ま た︑
﹁ 所謂
﹁左 翼の 使命
﹂な るも のの 解放 運動 史的 必然 を認 める こと に躊 躇し てい る﹂ 阪本 は︑ 労働 教育 の教 育方 針に つい て﹁ 三四 の労 働組 合に よっ て主 張せ られ
﹂て いる 現状 を
﹁そ の ま ま受 け 入 れる こ と を躊 躇 せ ざ るを 得 な い﹂ とい う
︒し か し︑ それ でも
﹁各 組合 に於 ける 教育 運動 の必 要が 次第 に認 め ら れ るに 至 っ た傾 向 を﹂
﹁ 教育 の 普 遍 化に 有 効 なる が 故 に喜 ぶ﹂ とい う︒ 阪本 にと って の労 働教 育は
︑小 さな 党派 の 教 育 目的 や 教 育方 針 を 実現 す る た めの も の では な く︑
﹁ 教育
阪 本 勝
﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄﹃ 戯 曲 資 本 論
﹄ 試 論
五 六
の普 遍化
﹂に その 目的 があ る︒ 阪本 は労 働者 教育 の現 場そ のも のに 意味 を見 出し てい るの であ る︒ 講師 が受 講者 をあ る目 的の 方向 や特 定の イデ オロ ギー の理 解に 持っ てい くこ とよ りも
︑労 働教 育は むし ろ﹁ 矛盾
﹂を
﹁原 理﹂ とし なけ れば なら ない
︒﹁ 矛 盾原 理﹂ には
︑東 京帝 国大 学新 人会 か ら 刺激 を 受 けつ つ 書 斎に 籠 も り︑ さ らに 新 聞 記者 と し て社 会を 見な がら 大原 社会 問題 研究 所で マル クス 主義 の知 性と 文献 に触 れた 阪本 特有 の労 働教 育に 対す る捉 え方 が込 めら れて おり
︑ま た︑ マル キシ ズム に対 する 独自 の考 え方 が見 える
︒後 に阪 本が マル キシ ズム から 離れ てい くこ とか らも わか るよ うに
︑労 働学 校運 動に 身を 投じ なが らも 阪本 の中 では 思想 的に 大き な揺 れが あっ たよ うに 見え る︒ その 揺れ その もの を主 題と した のが
﹃洛 陽飢 ゆ﹄ であ る︒ 三︑
﹃ 洛 陽 飢ゆ
﹄ と
﹁楕 円 形
﹂ 代 表作
﹃洛 陽飢 ゆ﹄ は一 九二 七年 六月
︑福 永書 店よ り刊 行さ れて いる
︒一 九三 一年 七月
︑阪 妻関 東撮 影所 第一 回超 特作 品︑ パラ マウ ント 映画 会社 提供
︑板 東妻 三郎 主 演 で 映画 化 さ れた
︑阪 本 の 代表 作 で あ る︒
﹁私 は そ の後 多 く の本 を世 に出 した が︑ 真実 を打 ちこ んだ のは
︑こ の書 た だ 一 冊で あ る︒ 他 は恥 の み 多く
︑焼 き 捨 て たい も の ばか り だ が︑ この 書だ けは
︑も し世 に残 って も悔 いる とこ ろは ない
﹂と 阪本 自身 がふ りか える 自信 作で もあ る
︒ 物 語は 山城 国一 揆を 背景 にし たも ので ある
︒応 仁の 乱の 後︑ 諸国 では 守護 大名 が小 競り 合い を繰 り返 し︑ しか も凶 作が つづ き疫 病が 流行 して いた
︒京 洛一 帯に も飢 えが 襲い
︑加 茂川 畔に 横た わっ た餓 死者 が四 万人 を数 えた とい う時 代︑ 比叡 山に 空覚 とい う信 望あ つく 優秀 な僧 がい た︒ 彼は
︑京 都の 世情 の乱 れか ら目 を背 け山 上の 僧房 で学 問に 打ち 込む こと に疑 問を 抱き
︑つ いに 還俗 し︑ 下山 する
︒空 覚は もと もと 覚之 助と いう 名前 で︑ 十八 歳ま で巴 屋と いう 遊女 屋で 育て られ たの だが
︑﹁ こ の世 のけ がれ
﹂﹁ 色情
﹂を 憎ん で十 九歳 で出 家し たの だっ た︒ 京都 の農 民達 と行 動を 共に 阪 本 勝
﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄﹃ 戯 曲 資 本 論
﹄ 試 論
五 七
して いた 覚之 助は 山城 国一 揆の 勃発 に出 遭う
︒畠 山両 氏の 争い によ り山 城の 国の 人々 も土 地も 荒廃 して おり
︑農 民や 国人 が宇 治の 平等 院に 集ま って 武士 であ る畠 山両 氏を 排除
︑自 治を 行う こと を決 めた
︒そ れを 機に 武士 と農 民と が衝 突し
︑農 民側 に立 って いた 覚之 助は 争乱 に巻 き込 まれ
︑命 を落 とす
︒ こ の物 語に は阪 本に とっ て二 つの 点が 重要 だっ たと 思わ れる
︒一 つは
︑山 城国 一揆 とい う農 民が 武士 から 自治 権を 奪い 取る とい う歴 史的 事実 その もの の意 味で ある
︒も う一 つ は 阪 本の そ れ まで の 思 想の 集 大 成 とし て 物 語が 展 開 し︑ 物語 が彼 の現 実を 予兆 する かの よう に現 実社 会へ の参 加を 促し てい ると いう 点で ある
︒こ の二 点か らテ キス トを 検証 する
︒ 山 城国 一揆 は︑ 一四 八五 年の 南山 城で 国人 と農 民が 参加 した 惣国 一揆 で︑ 跡目 争い で分 裂抗 争を して いた 畠山 氏の 撤退 を求 め︑ 以後 七年 余の 自治 支配 を実 現 した も の で ある
︒﹁ 乱 世 は快 事 を 生む ぞ
︒農 民 と 武士 と の 対決
⁝⁝ ま さに 本朝 はじ まっ て以 来の でき ごと だ﹂ とい う言 葉が テク スト に見 られ るよ うに
︑階 級闘 争を そこ に見 出そ うと する 視点 が感 じら れる
︒そ れは
︑本 稿の 一節 で触 れた 帝大 新人 会に 見ら れた
︑国 家を 超え る共 同体 原理 を探 そう とす る姿 勢を 想起 させ る︒ たと えば
︑一 節で 触れ た新 明正 道の 主張 を当 ては める こと は容 易で あり
︑農 民や 国人 たち を搾 取す るの がこ こで は国 家で はな く︑ 武士 に置 き換 えら れて いる ので ある
︒同 様に
︑阪 本が 強力 な説 得力 を感 じた マル クス 主義 の﹁ きわ めて 明瞭 簡単 な﹂ 断定 的な 命題 を読 むこ とも でき よう
︒つ まり 山城 国一 揆の モチ ーフ には
︑当 時の 阪本 のマ ルク ス主 義に 対す る微 妙な 思考 が塗 り込 めら れて いる ので ある
︒ し かし
︑戯 曲﹃ 洛陽 飢ゆ
﹄は 山城 国一 揆を 最後 まで 描く ので はな く︑ あく まで 主人 公覚 之助 の揺 れる 精神 の軌 跡を 捉え るこ とに 眼目 があ る︒ そこ にイ デオ ロギ ーを 主と した 着想 を超 える 阪本 勝文 芸の 独自 性が ある とい えよ う︒ 比叡 山と いう 世俗 から 断ち 切ら れた とこ ろで 学問 を重 ね修 業を 積ん でき た主 人公 が︑ いつ しか 現実 の社 会的 な問 題に 自ら
阪 本 勝
﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄﹃ 戯 曲 資 本 論
﹄ 試 論
五 八
の身 体を 賭し て真 っ向 から 対峙 して いく
︒阪 本の 回想 に拠 れば
︑﹁
!
洛 陽 飢ゆ"
の 生誕 の動 機﹂ は仙 台第 二高 等学 校時 代の 思想 的遍 歴に よる とい う︒ 仙 台 時 代 の 私 の 思 想 は
︑ い わ ば 楕 円 形 で あ っ た
︒ つ ま り
︑ 中 心 が ふ た つ あ っ た
︒ 中 心 と い う の は
︑ 宗 教 的 中 心 と い う 意 味 で あ っ て
︑ 仙 台 時 代 の 私 の 精 神 生 活 の 重 点 の 一 つ は
︑ い わ ゆ る 自 力
︑ 他 力 の 問 題 に 関 す る 思 索 で あ っ た
︒ 若 き阪 本が 選ん だの は︑ ニイ チェ 哲学 の紹 介者 であ った 登張 竹風 の自 力の 宗教 観で あり
︑さ らに 阪本 は﹁ 法華 の行 動性 と︑ ドイ ツの 大詩 人ゲ ーテ の実 践主 義を 結び あ わ せ﹂ た 土井 晩 翠 の教 え に 導か れ て︑
﹁ 思 惟と 実 践 が奇 し く も美 わし く融 合さ れた 奇跡 的﹂ なゲ ーテ の生 涯に
﹁生 涯の 思想 的 方 向を 定 め た﹂ と いう
︒つ ま り︑ 阪 本は
︑自 力 と 他力 との
﹁宗 教的 中心
﹂に つい ての 思 索 に 結論 を 出 すと
︑新 た に﹁ 思 惟と 実 践﹂ と い う﹁ 中心 が ふ たつ
﹂あ る
﹁楕 円 形﹂ を見 付け 出し てい るの であ る︒ この 新た なる 楕円 形こ そが
﹃洛 陽飢 ゆ﹄ の主 題で ある
︒冒 頭部 での
︑下 山を 止め る寂 明に 対す る空 覚の
﹁力 は矛 盾か ら生 まれ る︒ いた ずら に哲 理の 厳正 に淫 する なら ば︑ むし ろ当 山三 千の 僧房 から いっ さい の経 典を 焼き 捨て るに しく はな いの だ︒ 水が 力で はな い︒ 波が 力だ
︒思 索す るこ とが 問題 では ない
︒行 動す るこ とが 問題 なの だ︒︵
次 第 に 激 し く
︶ 悟 りが 問題 では ない
︒迷 いが 問題 なの だ︒ 迷い と 行な い を こ の地 上 に あら し め なけ れば なら ない のだ
︒悟 りと は煩 悩の 異名 だ ぞ﹂ と い う言 葉 は︑
﹁ 思惟 と 実 践﹂ との 融 合 と は言 い 難 いが
︑そ の 衝 突を 真正 面か ら捉 えた もの であ る︒ と ころ が︑ この テク スト は思 想的 な葛 藤を 描く だけ の物 語で はな く︑ ドラ マの 展開 と共 によ り人 間的 な苦 悩が 前景 化 され る
︒農 民 達 の蜂 起 運 動に 身 を 投じ た 覚 之 助の 前 に︑ 出 家前 の 彼 に 恋い 焦 が れて い た おし ま と い う女 性 が 現 れ る︒ 彼女 は覚 之助 が出 家し たこ とで 身を 持ち 崩 し 今 では 辻 君 と呼 ば れ る遊 女 に顚 落 し︑
﹁ 女ひ と り をこ ん な にし
︑仏 阪 本 勝
﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄﹃ 戯 曲 資 本 論
﹄ 試 論
五 九
の道 を得 られ るな ら︑ 仏は なん とい うむ ごい お方
︒よ うこ そご 修業 をお えら れま した
︒お 祝い 申し 上げ ます わ﹂ と覚 之助 に言 い放 つ︒ 覚之 助 は︑ 遊女 と 土 倉︵ 金 融 業 者
︶ と の 間 に生 ま れ たと い う 自ら の 出 生 を知 っ て﹁ 父 や母 を 憎 みに 憎﹂ み︑
﹁ この まち
﹂﹁ この 世﹂
﹁ 男女
﹂﹁ 色情
﹂を 憎 ん だ 果て に
︑﹁ 人 間と い う もの に 呪 い をか け
﹂て 出 家を し た ので あっ たか ら︑ 当時 おし まの 愛情 に応 えら れる はず もな かっ た︒ 再び 目の 前に 現れ た覚 之助 を追 いか ける おし まに 対し ても
︑行 動の 熱を 帯び てい る覚 之助 は心 を動 かさ れる こと はな い︒ 一方
︑育 てら れた 遊女 屋・ 巴屋 の娘 浅茅 が︑ 土倉 であ る近 江屋 民十 郎に
﹁か こい もの にな った
﹂こ とを 知っ た覚 之助 は深 く悲 しむ
︒そ の浅 茅に 対す る感 情は 恋愛 感情 なの か︑ 純粋 な乙 女で あっ た浅 茅が 男の 欲望 の毒 牙に かか った こと に対 する 義憤 か︑ それ とも 恩あ る浅 茅の 母に 対す る慚 愧の 念か
︑そ れは 観客
・読 者に はわ から ない
︒や がて ドラ マは 農民 達の 宇治 の平 等院 鳳凰 堂で の評 定の 後の 武士 と農 民と の争 乱に 舞台 を移 し︑ その 中で 多く の仲 間達 が命 を失 い︑ 覚之 助を かば った おし まが 傷つ き︑ 覚之 助も 深い 傷を 受け る︒ 争乱 の中
︑民 十郎 が自 分を 捨て たこ とに 気付 かず いつ まで も彼 を捜 す浅 茅を 覚之 助は
﹁醜 いこ の世 に残 して おく より
﹂と 殺し
︑さ らに 自分 も死 のう とす るが
︑お しま に止 めら れる
︒お しま は覚 之助 が浅 茅と 無理 心中 を図 った と知 って 気が 狂っ たよ うに なり
︑覚 之助 はそ の様 子に 自殺 を思 い留 まる
︒や がて
︑瀕 死の 覚之 助に 代わ って 民十 郎を 短刀 で刺 し殺 した おし まに 覚之 助 は 初 めて 彼 女 への 愛 を 感じ る
︒﹁ お し ま︑ わし は そ なた の も のだ
⁝⁝
︒さ
︑今 こそ この とお りお 前を 抱き しめ る!
わ しの おし まだ
︑わ しの おし まだ
! さ︑ おし ま︑ いま こそ つれ だっ て地 獄に 行こ う﹂ そう 伝え た覚 之助 は息 を引 き取 り︑ その とた ん︑ おし まは 短刀 で自 らの 首を 貫く
︒離 れば なれ にあ った 二人 の魂 が結 びつ いた とこ ろで
︑舞 台の 幕は 下ろ され る︒ 還 俗し た覚 之助 を待 って いた のは さら なる 楕円 の 運 動 であ っ た︒
﹁ 思惟 と 実 践﹂ との 相 克 か ら実 践 を 選ん だ 覚 之助 は さら に 思 想 と異 性 へ の思 い と に 翻 弄 さ れ︑ や が て 運 命 に 身 を 委 ね る よ う に お し ま の 愛 を 受 け 入 れ る︒
﹁遊 女
﹂や
阪 本 勝
﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄﹃ 戯 曲 資 本 論
﹄ 試 論
六
〇
﹁ 男女
﹂の
﹁色 情﹂ を憎 んだ 覚之 助は
︑お しま が自 分を 理 解 して い た こと を 知 った か ら こ そ︑ 遊女 で あ るお し ま を愛 した ので あろ う︒ ある いは おし まの 命が けの 愛に 覚之 助 の 失 われ て い た心 も 動 いた の か も しれ な い︒
﹁ 水が 力 で はな い︒ 波が 力だ
﹂と 言っ てい た覚 之助 が︑ 自ら おし まの 愛と いう
﹁波
﹂に 身を 任せ たと もい える だろ う︒ 二 人の 死を 見届 けた 僧・ 哲明 と寂 明は 覚之 助の 死を 理解 でき ず︑ 謎が 解け ない こと を﹁ 解決 の鍵 を経 典に 求め るも のの 運命
﹂と 考え るし かな かっ た︒ 幾層 にも 重ね て覚 之助 が描 いた 楕円 の運 動に は︑ 阪本 の積 み重 ねた 思索 の苦 闘の 軌跡 が重 ねら れて おり
︑そ れは
︑自 らが 波の 前に 身を 乗り 出し てそ れを 受け 取ら ない 僧に は理 解で きな い︒ しか しお そら く︑ この 二人 の僧 の言 葉も また 阪本 勝の 言葉 であ ろう
︒二 つの 中心 はま だ失 われ てい ない
︒二 つの 中心 をも つ運 動の 不安 定な 軌跡 こそ
︑阪 本戯 曲の 真骨 頂な ので ある
︒ 四︑ 関 西 学院 と 社 会運 動 一 九二 六年 三月
︑前 年の 森戸 辰男 講演 の前 座演 説を した こと をき っか けに 阪本 は︑ 大阪 毎日 新聞 社を 退社 し︑ 四月 に関 西学 院文 学部 社会 学科 の講 師と なっ た︒ 当時
︑東 灘村
︵ 現 代 の 神 戸 市 東 灘 区
︶ に あっ た関 西 学院 文 学 部社 会 学 科に は河 上丈 太郎
︑松 澤兼 人が いて
︑新 明正 道は 阪本 と 入 れ 違い に 東 北大 学 に 移っ て い る︒
﹁ 阪本 勝 年 譜﹂ には 関 西 学院 に来 たの は﹁ 河上 丈太 郎の 推薦
﹂と ある が
︑ エッ セイ
﹁流 氷の 記
﹂に
﹁こ の 美し く 静 か な学 園 で︑ 私 は世 に も 不思 議な 人物 にめ ぐり あっ たの であ る﹂ とい う記 述が ある とこ ろを 見る と
︑東 京 帝国 大 学・ 大 阪 労働 学 校 で接 触 の あっ た松 澤︑ 新明 など の紹 介に よっ て関 西学 院に 就職 する こと にな った のか もし れな い︒ こ の時 期︑ 神戸 は海 港都 市と して 発展 して いた が︑ 川崎 と三 菱の 両造 船所 を擁 した 工業 都市 でも あり
︑六 甲山 と大 阪湾 とに 挟ま れた 狭い 土地 に労 働者 を多 く抱 えた ため か︑ スラ ム街 が形 成さ れて いた
︒ス ラム 街で は賀 川豊 彦が 貧民 阪 本 勝
﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄﹃ 戯 曲 資 本 論
﹄ 試 論
六 一
の救 済活 動を 行い
︑ま た︑ 多発 する 労働 争議 にお いて は友 愛会 が組 織作 りに 手を 貸し てい た︒ 一九 二一 年に は空 前の 労働 争議 であ る川 崎・ 三菱 労働 争議 が起 こっ たが
︑そ の際
︑指 導力 を発 揮し たの は友 愛会 と賀 川豊 彦で あっ た︒ 一九 二 三年
︑第 二 次 山 本権 兵 衛 内閣 が 普 通選 挙 実 施 を公 約 し たこ と か ら︑ 全 国的 に 無 産政 党 に 対す る 議 論 が高 ま っ て い た︒ 神 戸 で は 一 九 二 四 年 一
〇 月 に
﹁無 産 政 党 演 説 会﹂ が 開 か れ︑ 松 澤 兼 人 と 河 野 密 が そ の 弁 士 と し て 参 加 し て い る
︒ 関西 学院 の﹃ 文学 部回 顧﹄ によ ると
︑そ の年 の同 じ月
︑関 西 学 院の 社 会 学 会は
﹃社 会 学 会雑 誌
﹄を 創 刊︑ 後に 松澤
︑新 明︑ 河上
︑河 野密 など も寄 稿す るこ とに なる
︒ま た社 会学 会内 には
︑社 会思 想研 究会 なら びに 社会 科学 研究 会と いう 学生 グル ープ が組 織さ れ︑ 神戸 労働 運動 の闘 士青 柿善 一郎 を囲 む座 談会 を企 画し
︑一 九二 四年 には 神戸 大倉 山で のメ ー デ ーに 参 加 し てい る
︒こ の よう に 学 生を 巻 き 込 んだ 労 働 運動 の 盛 り上 が り の 中︑
﹁神 戸 に 於け る 無 産政 党の 濫觴 であ る政 治研 究会 神戸 支部 が創 立さ れた
﹂の は︑ 一九 二五 年 六 月で あ る
︒ 政 治 研究 会 神 戸支 部 は 松澤
︑新 明︑ 河 上 丈 太 郎 を 発 起 人 と し て
︑関 西 学 院 大 学 の 生 徒 有 志 や 弁 護 士 な ど を 含 む 労 働 者 の 集 団 と し て 設 立 さ れ た
︒
﹃ 文学 部回 顧﹄ には
︑﹁ 当日 は河 上教 授が 議長 に推 され
︑松 澤教 授が 支部 設置 に至 つた 経過 を説 明︑ 大山 郁夫 氏等 と共 に大 いに 熱を あげ た︒ だか らか うし た神 戸の 無産 者運 動の 闘士 を多 く持 つて ゐる 関西 学院 に居 る学 生⁝
⁝殊 に社 会学 会の 連中 がこ の方 面に 目覚 めな いわ けは ない はず であ る﹂ と記 され てい る
︒阪 本 勝が 赴 任 す る直 前 の 関西 学 院 文学 部社 会学 科の 雰囲 気は この よう なも のだ った ので ある
︒ さ て︑ 関西 学院 にお いて 阪本 は河 上丈 太郎 と賀 川豊 彦と
﹁運 命的
﹂に 出会 い︑ 二人 に勧 めら れ︑ 日本 にお ける 最初 の普 通選 挙で ある 一九 二七 年の 兵庫 県会 議員 選挙 に出 馬す る︒ 賀川 豊彦 は当 時関 西学 院に てキ リス ト教 の講 話を 行っ てい たの で︑ 学院 で会 うこ とも あっ たよ うで ある
︒賀 川は
﹁き みが この 学院 の先 生を して
︑一 生飲 まず 食わ ずに 本を 読ん だと ころ で︑ どれ ほど の本 が読 める と思 うか い︒ 大海 の一 粒の 砂に もお よば ない よ︒ そん な無 駄な 一生 をお くる
阪 本 勝
﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄﹃ 戯 曲 資 本 論
﹄ 試 論
六 二
よ り︑ 生き た 社 会 とい う 本 を読 め よ﹂ と いう 言 葉 を 阪本 に 突 きつ け て い る
︒阪 本 は
﹃洛 陽 飢 ゆ
﹄の
﹁水 が 力 で は な い︒ 波が 力な のだ
﹂と いう 言葉 を思 わず にい られ なか った とい う︒ 一方 で政 治に 触れ ると いう こと によ って
﹁私 とい う 個性 は 死 ぬ︒ 仙 台い ら い 育て て き たこ の 尊 い 自我 は 死 をと げ る﹂ と 思 い詰 め る︒ 選 挙に
﹁負 け て 学 院 に 帰 れ ば よ い﹂ と考 えた 阪本 は︑ 新川 の賀 川豊 彦自 宅前 のセ ツル メン トを 選挙 事務 所と し︑ 日本 労農 党公 認と して 立候 補し
︑全 市最 高点 で当 選す る
︒ 阪 本は 関西 学院 講師 は在 任︵ 一九 二九 年三 月ま で︶ のま ま県 会議 員に 就任 する
︒﹃ 文 学部 回顧
﹄に は︑ 河上
︑新 明︑ 松澤 に比 べて 阪本 の記 述は 少な い︒ いく つか 拾い 上げ てみ ると
︑劇 研究 会に よる 阪本 の戯 曲﹁ 海鼠 の如 く強 し﹂ が一 九二 七年 一〇 月に 学院 内中 央講 堂で 舞台 に上 がり
︑一 一月 に は 大 阪朝 日 会 館に て 同 じ出 演 で 上 演さ れ て いる こ と や︑ 劇研 究会 が︑ 学院 外に 新た に先 駆劇 場と いう 組 織 を 作り
︑﹃ 先 駆 劇場
﹄と い う 二号 雑 誌 を 残し て お り︑ それ に 阪 本が 客員 とし て︑ 吉田 謙吉
︑浅 野孟 府︑ 岡崎 茂一 郎等 と名 を連 ねて いる 記 事 など が 目 を ひく
︒こ う し てみ る と︑ 阪 本は 関西 学院 では
︑社 会運 動と いう より
︑劇 を通 して 学生 達と 触れ てい たと いえ る︒ 県会 議員 との 二足 草鞋 では 限界 もあ った であ ろう し︑ ある いは
︑既 に熱 気を 孕ん でい た関 西学 院の 学生 運動 には むし ろ距 離を 取っ たの かも しれ ない
︒ 五︑
﹃ 戯 曲 資本 論
﹄ とマ ル キ シズ ム
﹃戯 曲資 本論
﹄は
︑一 九三 一年 六月 に日 本評 論社 より 刊行 され てい る︒ それ に先 行し て同 年四 月に
﹃改 造﹄
﹁大 付録 労 ロ シ ア 大 画 報
﹂特 集 号 に そ の 一 部︵﹁ 第 一 部 第 八 場 機 械 破 壊
﹂ に 相 当
︶ が︑ 葉 山 嘉 樹﹁ 優 秀 号 猿 丸﹂
︑ 横 光 利 一
﹁悪 魔﹂
︑ 林芙 美子
﹁風 琴と 魚の 街﹂ 等と 共に 掲載 され て い る︒ また
︑六 月 に 大阪 労 働 学校 十 周 年 記念 事 業 プロ レ タ リア 学術 大講 演会 で劇 団﹁ 構成 劇場
﹂メ ンバ ーに よっ て脚 本朗 読が 行わ れた とい う記 録が 残っ てい る
︒ 阪 本 勝
﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄﹃ 戯 曲 資 本 論
﹄ 試 論
六 三
さ て︑
﹃ 戯曲 資本 論﹄ は︑ 後記 に﹁ 本 戯 曲は
︑カ ー ル・ マ ルク ス 原 著﹃ 資本 論
﹄第 一 巻 の根 幹 を︑ 戯 曲の 形 式 で表 現し たも の﹂ とあ り︑ 実際
︑カ ール の父 親ハ ンス の世 代と カー ルの 世代 の二 世代 を中 心に ドラ マを 展開 しつ つ︑ タイ トル
︵字 幕︶ とし て﹃ 資本 論﹄ の解 説や 観客 に対 する メッ セー ジ︑ そし て映 像が モン ター ジュ 的に 映し 出さ れる 仕組 みが 際だ って いる
︒た とえ ば剰 余価 値論 につ いて
︑﹁ さて いよ いよ
︑貨 幣 を/ 資本 と化 する
/時 が来 た/ その 様式
⁝⁝
/ 貨幣
︵1
︶│ 商品
│ 貨幣
︵2
︶だ
﹂と あり
︑さ らに タイ トル 2と して
﹁売! る! た! め! に! 買! う! のだ
/売 って 儲け るた めに
/先 ず買 うの だ/ だが 待て
/貨 幣︵ 2︶ が貨 幣︵ 1︶ と/ 同額 なら
/誰 がこ のん で/ この 運転 を引 き受 けよ う/ 貨 幣
︵2
︶は 子 を 生 ま ね ば な ら ぬ
︒/
貨 幣︵ 1︶
│ 商 品
│︵ 貨 幣
︵2
︶+ 貨 幣
︵3
︶︶
﹂ と あ り さ ら に﹁ 貨 幣
︵ 3︶
!/ これ ぞ余 剰価 値だ
!/ だが それ は
/い つ い かに し て/ い づく よ り 来る か
!﹂ と 説明 さ れ る︒ 舞台 演 劇 とし て損 なわ れる もの が多 々あ るだ ろう が︑
﹃ 資本 論﹄ 第一 巻 の 要諦 で あ る商 品 の 分析 や 労 働 価値 論 な ど︑ 物語 と と もに わか りや すく 説明 され てい ると いえ るだ ろう
︒阪 本は 難解 で長 大な
﹃資 本 論﹄ を やさ し く 解 説す る こ とに 徹 し たよ うで ある
︒そ のた めか
︑人 間ド ラマ とし て の 緊 張感 な ど は﹃ 洛陽 飢 ゆ﹄ の 比較 に な ら ず︑
﹃資 本 論﹄ を 戯曲 化 す ると いう 壮大 な実 験性 が一 つの 意義 とい える
︒本 稿で は︑ あえ て
﹃資 本 論﹄ と異 な る 部 分に 注 目 して
︑阪 本 の﹃ 戯 曲資 本論
﹄の 独自 性を 抽出 して みる
︒ 五 部に 及ぶ 長い 物語 の核 とな るハ ンス とカ ール につ い て 整 理し て お く︒ 十九 世 紀 前半 の ド イ ツの あ る 町を 舞 台 に︑ 手工 業的 生産 ある いは 工場 制手 工業 が産 業革 命に よる 機械 制大 工業 に取 って 代わ られ る様 子が 描か れる こと から 物語 は始 まる
︒腕 の良 い織 物職 人で あっ たハ ンス は新 しく でき た機 械の 工場 に仕 事を 奪わ れ︑ 資本 家の 横暴 のた めに 妹を 失い
︑つ いに 工場 の機 械を 破壊 する
︒ハ ンス はそ の罪 によ って 死刑 にな り︑ 残さ れた 一家 はイ ギリ スに 渡る
︒第 二部 では
︑息 子の カー ルは 地下 運動 に身 を投 じ︑ スタ ーリ ング とい う資 本家 の息 子ダ ニエ ルと 知り 合い にな る︒ スタ ーリ
阪 本 勝
﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄﹃ 戯 曲 資 本 論
﹄ 試 論
六 四
ング の工 場は 機械 を造 る工 場で あり
︑相 対的 剰余 価値 を生 産し
︑さ らに 労働 者を 搾取
︑あ げく には 解雇 する 様子 がわ かり やす く展 開さ れる
︒こ こで
﹃資 本論
﹄と 対照 す る と︑
﹃ 戯曲 資 本 論﹄ では 特 に 機械 に 焦 点 を当 て て いる と 思 われ る︒ 一 度機 械に 巻き 込ま れて 身体 に障 害を 負っ た﹁ 地獄 帰り のベ ン﹂ が機 械を 破壊 しよ うと して 逆に 機械 に巻 き込 まれ てし まい 命を 失う 場面 で︑ カー ルは 次の よう に述 べる
︒ 鋼 鉄 よ
︑ 機 械 よ
︑
⁝
⁝ お 前 は 何 と い う 可 哀 そ う な 奴 だ
︒︵ 間
︶ お 前 は 無 実 の 罪 を 負 う て い る
︒ お 前 は 濡 れ 衣 を 着 せ ら れ て い る
︒ 可 哀 そ う な 機 械 よ
⁝
⁝ 俺 は お 前 を じ っ と 見 て い る と
︑ 不 思 議 な 玻 璃 宮 の 中 に 吸 い 込 ま れ て ゆ く よ う な 気 が す る ん だ
︒ お 前 は 不 思 議 な 奴 だ
︒ お 前 は 悪 魔 か
︑ い や お 前 は 神 だ
︒ お 前 は 敵 か
︑ い や お 前 は 友 だ
︒ お 前 は す ば ら し い 夢 を 孕 ん で い る
︒︵ 略
︶ 資 本 主 義 が そ れ を 妨 げ て い る の だ
!
︵ 間
︶ 人 類 の た め
︑ 愛 の た め
︑ 世 界 の た め
⁝
⁝ 機 械 は そ う 叫 ん で る ん だ
︒ 俺 に は 無 限 の 生 産 力 が あ る
︒ 俺 に 思 ふ 存 分 そ れ を ふ る わ せ ろ
︑ 機 械 は そ う 言 っ て 激 怒 し て る ん だ
︒ そ う だ
︑ そ れ を 妨 げ る の も の は
︑ 資 本 家 の 独 占 だ
! 搾 取 だ
! 貪 欲 だ
! 機 械 を 救 へ
! 機 械 を 資 本 主 義 の 手 か ら 救 へ
!
﹃資 本 論﹄ 第Ⅰ 部 第4 編第 13章 に は︑
﹁ 労働 の 生 産力 の 他 のあ ら ゆ る 発 展 と 等 し く
︑機 械 は
︑諸 商 品 を 低 廉 な ら し め︑ 労働 日の うち 労働 者が 自分 自身 のた めに 要す る部 分を 短縮 して
︑彼 が自 分の 労働 日の うち 資本 家に 無償 に与 える 部分 を延 長す るは ずの もの であ る︒ 機械 は︑ 剰余 価値 を生 産す る た めの 手 段 で ある
﹂と あ る
︒ つ まり
︑マ ル ク スに とっ て機 械は 人間 を搾 取す る資 本の 手先 以外 のな にも ので もな い︒ 実際
︑カ ール にと って 機械 は父 親ハ ンス を死 刑に 追い やっ た敵 であ り︑ ベン を殺 した 張本 人で ある
︒と ころ が︑ カー ルは 右の よう に機 械に 対す る希 望を 諦め ない
︒機 械と いう
︑科 学が 造り 出し た﹁ 唯物
﹂に こそ 希望 を見 よう とす る阪 本の 独自 の視 点を 感じ ると ころ であ る
︒ 阪 本 勝
﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄﹃ 戯 曲 資 本 論
﹄ 試 論
六 五
ま た︑ スタ ーリ ング の工 場に 恐慌 がや って くる 場面 でも 阪本 らし さが 現れ てい る︒ 賃金 切り 下げ に対 して 示威 行動 で対 抗す る労 働者
︑し かし 工場 は︑ スト ライ キ破 りの ため にド イツ から 労働 者を 雇用 する とい う戦 術に 出る
︒こ れは
﹃ 資本 論﹄ 第一 部第 七編 23第 章の いう とこ ろの
﹁資 本の 軽歩 兵﹂ に対 応す る︒
﹁資 本は これ を︑ 自己 の都 合次 第で
︑時 には こち らへ
︑時 には かな たへ 動か せる
︒行 軍し ない とき には 彼ら は﹁ 設営
﹂す る︒ 移動 労働 は︑ さま ざま な建 設
=
お よび 排 水 作 業・ 煉瓦 製 造・ 石 灰製 造・鉄 道 敷設
・な ど に 使 用さ れ る﹂ と﹃ 資 本論
﹄で は 説 明 さ れ て い る
︒﹃ 戯 曲 資本 論﹄ では
︑こ うい った
﹁資 本の 軽歩 兵﹂ であ るド イツ 人に も人 間の 心を 与え てい ると ころ に特 徴が ある
︒資 本の 戦略 に対 して
︑カ ール の老 母は
︑自 分の 出自 がド イツ であ るこ と︑ かつ て機 械破 壊の 罪で 死刑 とな った ハン スの 妻で ある こと を伝 え︑ 息子 がこ の争 議で 資本 家と 闘っ てい るこ とを ドイ ツ労 働者 に訴 える
︒ド イツ 労働 者達 には
︑ハ ンス を覚 えて いる 者も いて
︑イ ギリ ス人 労働 者達 と連 帯し て資 本家 と闘 おう と立 ち上 がる
︒こ の連 帯を 訴え る場 面は 幾分 情緒 的で あり
︑現 実的 では ない かも しれ ない が︑ この よう な人 間の 意志
︑あ るい は偶 然の 力に こそ 歴史 の必 然を 見よ うと する 阪本 の思 想が 表れ てい ると いえ ない だろ うか
︒ 阪 本は 関西 学院 時代 に︑ ハウ ゼン シュ タイ ンの
﹃芸 術と 社会
﹄を 大原 社会 問題 研究 所の 森戸 辰男 から 借り 受け て訳 出 した 際
︑唯 物 史 観に 対 し て﹁ 一つ の 疑 問﹂ が湧 い て き たと い う
︒﹁ 歴史 の 偶 然性 と 人 間 の創 造 性 を軽 視 し
︑す べ ての 芸術 的現 象を 一定 の社 会的 法則 にあ ては めよ う と す る傾 向 に 無理 が あ る﹂ ので は な い か︒
﹁唯 物 史 観や 唯 物 弁証 法 とい う 規 定 観念 を ま ず設 定 し︑ そ れに 個 々 の ケー ス を あて は め て ゆこ う と する 態 度 は︑ 方法 論 上 の 機械 論 で あ っ て︑ 人間 的創 造の 偶然 性や 歴史 的偶 然性 を軽 視ま た は 無 視す る そ しり を ま ぬが れ な い﹂ と 考え る よ うに な り︑
﹁ 唯物 史観 とい う方 法論 上の 一線 を信 じて いた
﹂阪 本は 次第 にマ ルキ シズ ムに 距離 をお くよ うに なる
︒
﹃戯 曲資 本論
﹄は テー マの 骨格 にお いて
﹃資 本論
﹄を 踏 襲 して い る が︑ 幾つ か の 細部 で 阪 本 独自 の 考 え方 が 吐 露さ
阪 本 勝
﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄﹃ 戯 曲 資 本 論
﹄ 試 論
六 六
れて いる
︒人 間は 既に 決定 され た路 を歩 むの では なく
︑偶 然の 出会 いや 発見 によ って 変化 して いく
︒偶 然ハ ンス の知 り合 いが いた こと で︑ ドイ ツ労 働者 がイ ギリ ス労 働者 と連 帯す るこ とも ある のだ
︒し かし
︑そ の偶 然は ハン スと カー ルの 労働 者と して の終 わり なき 苦し みが 生み だ し た もの で あ る︒ 先の 阪 本 の言 葉 を﹃ 戯 曲 資本 論
﹄に あ ては め れ ば︑
﹁ 歴史 の 偶 然 性﹂ がド イ ツ 労働 者 と ハン ス も 妻 との 出 会 いで あ り︑
﹁ 人間 の 創 造 性﹂ とは 機 械 の可 能 性 の こ と で あ ろ う︒ 資本 家の 息子 であ るダ ニエ ルが 心優 しい 人物 とし て設 定さ れて いる こと も﹁ 社会 的法 則﹂ から 外れ てい ると いえ よう
︒し かし なが ら︑
﹃ 戯曲 資本 論﹄ の人 間性 はこ こで あげ たよ うな 人物 達に こそ 継承 され てい るの であ る︒ 駆
け足 で東 京帝 大新 人会 から 兵庫 県会 議員 に至 る阪 本勝 の思 想的 軌跡 を辿 り︑ まず 確認 でき たの は︑ 一九 二〇 年代 の東 京帝 大新 人会 と神 戸と を結 びつ ける 人材 とイ デオ ロギ ーの 流れ の太 さ︑ 速さ であ る︒ 神戸 に賀 川豊 彦と いう 巨人 がい たか らこ そ作 られ た流 れで あろ うが
︑そ れに して も多 くの 人材 が大 原社 会問 題研 究所
・大 阪労 働学 校・ 関西 学院 に流 れ込 み︑ それ ぞれ が労 働運 動の 大き なう ねり の中 心に なっ たも ので ある
︒さ らに
︑そ の流 れに 身を 任せ つつ 逆ら いな がら 巧み に泳 いだ 阪本 の二 編の 戯曲 を読 むこ とを 通し て︑ そう いっ た時 空の 流れ にお いて 自己 を保 ち続 けた 強い 精神 の軌 跡も また 確認 でき た︒ その 精神 は︑ いつ も中 心を 二つ 持つ 楕円 の軌 跡を 描い てき た︒ 何度 も引 用し たエ ッセ イの サブ タイ トル が﹁ わが 生の 思索 と実 践﹂ とあ るよ う に︑ 阪 本 はい つ も 思索 と 実 践と い う 二 つの 中 心 のま わ り を︑ 全速 力で 走っ てき たよ うに 見え る︒ その 中心 には ある とき は﹁ 自力
︑他 力﹂ があ り︑ 文芸 と労 働運 動が あり
︑マ ルキ シズ ムと ヒュ ーマ ニズ ムな ど︑ さま ざま に変 奏し つつ
︑そ れで も廻 転し 続け てい たこ とに 意義 があ った ので ある
︒ 阪
本 勝
﹃ 洛 陽 飢 ゆ
﹄﹃ 戯 曲 資 本 論
﹄ 試 論
六 七