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『天工開物』著述の動機 について

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(1)

1月山 大学人学院社 会文化科 学研 究科紀要 第26号 (2008ll)

『 天工開物』著述の動機 について

加 計 三千代

はじめに

『天工開物』 は、中国の産業技術書である.その特徴 としては、「まず第‑ に当時 における重要産 業の各部門 を網羅 していること、第二に個 々の産業部門についてその生産過程 を非常 に忠実 に書いて いること」があげ られる。 (」)っ ま り、産業技術 の百科全書であ り、マニュアルで もあった。

さて、『天工開物』 が書 かれた動機 は何 だったのだろ うか‖薮内清氏 の F天工 開物』 の解説 には、

次の ように書かれている。

「宋磨星が この書 を著 した動機 は、巻首の序文や各部門の初めの文 によって窺い知 ることが で きる。すなわちこの書 は対象 を当時の'‑支配階級であった インテ リ層 にお き、 これ らの階級 の人々が 日常生活 に恩恵 を蒙 りなが らも生活必需品の生産過程 を知 らず、時 には農家の人々 を軽蔑する態度 に、軽い憤 りさえ感 じて書いたことが知 られる」 他 2)

宋応、星は 「農家の人々を軽蔑す るインテ リ層 の啓蒙」のために 『天工 開物』 を書いた とい うことで あ る。 しか し、私 はこの動機 に疑問 を持 った。 『天工開物』 は、産業技術 の百科全書である と同時 に、

・′こ ユアルで もある。私 は、 自分の会社勤 めの経験 か ら、マニュアル作 りの大変 さが骨 身に沌みてい た。だか ら、産業技術 のマニュアルであ る F天工 開物j著述の動機が 「イ ンテ リ層 の啓蒙」 と知 り、

それでは動機 として弱す ぎる と感 じたのである。「さらにもっ と大 きな理 由があったに違 いないJと 直感 し、それ を解明 したい とい うのが、 『天工 開物』著述の動機 について、私が取 り組 み始めた動機 である。

1

.研究史の整理 と疑問点

(研究史の整理)戦時中の1

9 43

年、二三枝博音氏 は菅生堂本 (往 3)を復刻 して 『天工開物』 を出版 した。

三枝氏 は、『天工開物』 が 『考工私 〔 と同様 に、その時代 において重要 な技術部 門 と考 え られる もの を取 り上げ叙述 していることや、技術 なる ものの過程性 を具象的 につかんで よ く記述 していること、

技術 と資材 との関係 の意識 よ り自然 その ものへの無類 な思想的深 さをもっていることなどか ら、中国 技術 史上、傑然 として秀でている と評価 しているO三枝氏 は宋応星が 『天工開物』 を著述 した動機 に ついては直接触 れず、「序文 を和文 に直 してここに載せ、本書 に於 ける著者 の意園 をうかがふ ことに する二(注41と記述 している。

さて、三枝氏の復刻 は戦後、薮内情氏 を中心 とした諸氏の r天1二聞物」 の研 究 を促 す契機 となった。

(2)

(天 工開物一著述の動機 について 加計 三千代

1 9 5 3

年、薮内氏 らは京都大学 人文科学研究所研究報告 として、 『天工 開物 の研究』 を出版 した。 (注5)

この書では、訳文の他 に各分野の担当を決め、それぞれの分野か ら 『天工開物』 の重要性 について述 べている。 『天工開物の研究』 に納 め られている諸氏の各論文 は次の通 りである0 (敬称略)

「天工開物 について」 (薮内晴上 「天工開物 の時代」 (大島利一)

「天工開物 と明代 の農業」 (天野元之助)、 「明代 の食生活」 (篠 田統)

「天工開物の横紙技術」 (太 田英寂)、 「中国の製陶技術」 (木村康一)

「天工開物 の製錬 ・鋳造技術 」(吉田光邦)、 「紙 と墨̲】(木村康一)

「糧船 について」 (薮内情)、 「明代 の兵器」 (吉田光邦)

「珠玉考」 (薮内情)

さて、薮内氏 は 『天工開物の研究』 の訳 に手を加 え、新 たに解説 を書 き添 えて

、1 9 6 9

年平凡社東洋 文庫 か ら 『天工開物』 を出版 した。 この書 は、三枝氏の書 と同様 、その後の 『天工 開物』研究の礎 と なってお り、中国 な どでの研究 に も引用 されることが多い.その解説の内容 は、『天工開物 の研究J に収め られている 「天工 開物 について1とほほ同 じで、動機 として 「イ ンテ リ層 の啓蒙」 を上 げてい る。

その後 の研 究 は、『天工開物.』に記述 されてい る技術 の時代 考証 を行 うものが多 く、代表的な もの としては

1 9 9 5

年 クリスチ ャン ・ダニエルス氏の

「 1 6‑1 7

世紀福建 の竹紙製造技術‑ 『天工開物』 に詳 述 された製紙技術 の時代考証

(注6)な どがある。そ して、 『天工 開物』著述の動機 としては、橋本啓 造氏が FLにか‑特集 中国の博物学‑1』 で、

「この書 は技術 の指導書 とい うよ りは支配階級の知識層 の技術‑ の理解 を広 げるとい う目的 をもつ ものであった (載内清博士 らの見解)

0『

農政全書』 が政治経済的 な目的 をもっていた の とは非常 にちが う̲J(注7)

と述べ、「インテ リ層 の啓蒙」説が定説 になっていると思われる。

一方、近年 にな り、中国においての 『天工開物』や 「著者宋応星」の研究が盛 んになって きた

。1 9 81

年、製紙技術 史 に詳 しい播書星氏 は、F明代科学家宋麿星』(注8)を出版 した.同氏 は

、1 9 6 3

年頃か ら 宋応 星の故郷 を訪 れて資料 を探訪 し、 『新呉雅渓宋氏宗譜』(注9)や明版 『方玉堂全集』(注IO)な どを 発見 した。 これ らによって宋応星一族の動静が明 らか になっただけで な く、それ まで詳 しい ことがわ か らない とされて きた宋応星 自身の履歴 も詳細 に知 られるようになった。 また

、1 9 9 0

年 に発表 された 胡道静氏の

『天工開物。 とその著者宋応星」(荏 ll)による と、従来現存 の書 はない とされて きた宋応 星の著書が見つか り

、1 9 7 6

年上海 人民 出版社か ら 『明 ・宋応星侠書四種

』(

「野議」 I 「論気」 I 「一談 天 」 ・ 「思憐詩」)と遺 し出版 された。 これ ら宋応星の著作 四種 は、江西 の近代 の著名 な蔵書家寮散 薬氏が所持 していた。そ して宋応星の 『天工開物』著述の動機 については

、「

『天工開物』 を執筆完成 させ た原動力 は、宋応星の身に具わった頑強 な闘争精神 と敢然 と封建社会 に立 ち向かってい こうとす る意識であ り、それがゆたか に結実 したのである」(Ta=2)としてい る.

7 3 ( 1 7 0 )

(3)

岡山大学大学院社会 史化科学研 究科紀要第26(2008.ll)

また、欧米 において も1966年 に米国ペ ンシルバニア州 立大学の孫守全及 び孫任以都夫妻 によって 英語の完訳本 『T‑len‑KungK'ai‑Wu:CllineseTechonologylntheSeventeenthCentury』が刊行 され たこ,(往 13)孫夫妻 は 『天工 開物』著述の動機 について、

The JlrStedit10n OfT'len‑ kung k'ai‑wu was publlShed only seven year's befor'e the ManchuforcestoppledthemorlbundMingdynasty,andthedlSturbedtlmeSWereProbably an added lmPetuSgOadlng Sung to undertakethe wrlting ofa factualbook on the arts and techniques thatwentinto the maklng Ofthe necessitiesofdally llfe.in attemptto persuadethevastmajorityofthescholarofficialsthatthesetoower・emattersthatmerited attentton.(8 14)

(釈)『天工開物』 の初版 は、満州軍が瀕死の明王朝 を倒 すわずか七年前 に発行 された。そ してその混乱状態 の時勢 は、おそ ら く宋氏 に、 日常生活 の必需 品 を作 っている芸術 や 技術 に関す る実学の本 を、それ らの物 に大変恩恵 を被 ってい る大多数の学者 ・役 人た ちを説得す る意図 をもって書 くように刺激 を加 えた。

と記 している。

以 上見 て きたように、『天工 開物』 の動機 について、 日本 ・中国 ・欧米で多少 ニュア ンスの違いは あるが、1953年刊行 の F天工 開物 の研 究』 と1969年刊行 の 『天工開物』 において薮内氏が述べ てい る 「インテ リ層の啓蒙」が主流 となっている。

(疑問点) さて、 この論文 の 「は じめ に」で、 自分 の経験 か らマニュアル作 りの大変 さを実感 し、

それゆえに 『天工 開物』 著述の動機 が 「イ ンテ リ層 の啓蒙」では弱 い と感 じた ことを述べ た。その 時疑問に思 ったことを分析 してみる と、次の① か ら④ の疑問点 となる0

① 『天工 開物』 は、各産業の百科全書である ともにマニュアルで もある。マニュアル作成 には大 変 な労力が必要である。 イ ンテ リ層 の啓蒙のために、その ようなことをす るだろ うか。 (動機 と

してのパ ワー不足)

②農家の人々を侮 るイ ンテ リ層 に産業技術 の 百科全書マニュアル を見せ て も、その大変 な作業 を 見て‑一層嫌悪感 を持 たれるだけではないだろうか。 (啓蒙の非効率性)

③ F天工 開物Jは明滅亡 の

7

年前 に刊行 されているOその ような時期 に 「インテ リ層 の啓蒙」では、

あま りに時勢 に無頓着ではないか。 (時勢のずれ)

(む 『天工 開物』 は、火器以外 はほ とん どが中国の在来の技術 を記載 してい る と言 われているO「イ ンテ リ層 の啓蒙」であれば、最先端 の技術 を記載 した方が イ ンテ リ層 を引 き付 け られたのでは ないだろ うか。 (啓蒙の非効率性)

では、 ここで動機説の主流である 「イ ンテ リ層 の啓蒙」説の根拠 になってい る文 を紹介 したい。

鼓内氏は、「末席星が この書 を著 した動機 は、巻首の序文や各部 門の初めの文 によって窺い知 ること がで きる」 と記述 している。(柱⊥5)

(4)

r天工開物.著述の動機 について 加計 三千代

まず、序文 の中で 「イ ンテ リ層 の啓蒙」動機説 の根拠 になってい るのは次 の

2

箇所 だ と思 われ る。

その第 1は、

情 事甫物之中共無益 生人輿有益者各載其半。世有聴明博物者帝 人推者 。ナ捕 梨之花束賞両 虎度楚再釜 膏之範鮮軽而併談首乳 量工好 滅私魅両番犬

。帥鄭席晋草 生足為烈哉。」

(訳)「これ ら万 を数 える事物 の中で、人間に有益 な もの と無益 な もの とは、それぞれ相半 ば してい るO ところで世 間 には聡 明で物知 りの人 々が お り、多 くの人々か ら推称 されるo

<u1'' Lか しこれ らの人々はあ りふれた藻や梨 の花 を知 らない くせ に、古 い話 に出ている楚洋 をあれ これ と想像 した り、ふだんに使 う鍋釜 の製法 もよ く知 らない くせ に、昔 あ った と

き∫てい

い う菖 鼎 を とやか く議論 した りす るO また画工 は好 んで怪物 の姿 を描 くが、あ りふれた 犬 や馬 は描 きたが らない。 だか ら鄭の子 産や晋 の張華 の ような博学者で も、べつ に偉 大 視す るほ どの ことはないのである。」(托 16)

2

は、

r大業文 人棄琳案帝。此春 子功名進取考不相網也。」

(釈)「学 問 に専念 す る方 々は、 どうか机 の上 に うちす て られ たいO この書 は立 身出世 に少 しも関わ りが ないのであ るoj(fi)7)

そ して次 は、 同 じ く 「イ ンテ リ層 の啓 蒙」説 の根拠 となってい る 「各部 門の初 めの文」 であるが、

それ を紹 介 す る前 に 『天 工 開物

B

t‑

.

・中

IF ‑3

1 8

部 門の項 E]とそ の 内容 を見 てい た だ きた い。

*(

)内 は原文名。

(上巻)

1.穀類 (乃粒 )穀物生産

4.

調製 (粋精)穀物調製

(中巻)

7.

製陶 (陶堪 )煉瓦焼成 10.鍛造 (錘鍛)金属鍛造

1 2.

製油 (膏液)搾油技術

(下巻)

1 4.

製錬 (五金)金属冶煉

1 7.

穀造 (麹車)酸造技術

2.衣服 (乃服 )紡績技術

3.

染色 (彰施)染色技術

5.

製塩 (作蹴)製塩技術

6.

製糖 (甘噂)製糖技術

陶磁 器製作

8.

鋳造 (冶鋳)金属鋳造

9.

舟車 (舟 車)車船製造 ll.倍焼 (熔石)石灰 ・琴 ・硫 黄等鉱物焼成お よび石灰採掘 ・加工

1 3.

製紙 (殺青)製紙技術

1 5.

兵器 (佳 兵)兵器製造

1 6.

朱墨 (丹青)顔料 ・墨生産

1 8.

珠 玉 (珠 玉)玉石 ・靖瑞等 の採取 ・加工

さて、 この

1 8

部 門の中、動機 の根拠 となるの は 〔1.穀類 (乃粒 )

〕 〔2.

衣服 (乃服)〕の初 めの 文の一部 か と思 われ る。 まず 〔1.穀類 (乃粒 )〕の初 めの文で は、

「執練之子以耗衣視笠蓑鹿 生之家以農夫為訪罵。農炊晩儀知其味 而志井源者衆 臭。」 (釈)(貴族 の子弟 は百姓 をまるで囚人の ように考 え、学者 の家では農夫 をさげす んでい る。

朝夕 の食 事に五穀 を味 わい なが ら、その由来 を忘 れ た人々は多い。)(18)

71 (172)

(5)

岡山大学大学院社 会文化 科学研 究科紀要第26号 (2OO8 ll)

がそれに該当す る と思 われるO また、し2. 衣服 (乃服)」の初 めの文では、

「乃材軸遍天下両得見花機之巧者能幾人哉。治乱鮭編字義学者童而習之而終身不見其形像豊 非鉄憾也。」

f=かIir:

(訳)lこうして機織 りは天下に普及 しているが、実地に花機の巧妙 さをみ られるのは、いっ たい何 人あるであろうか。学問 をする ものは、治乱経絡 とい う字の意味 を子供の時か ら 習 うが、つ いに一生 を終 えて もその実際 をみ ないのは、 まこ とに残念 な ことではない か」 (注19)

がそれ に該当するであろうO

確かに、この2箇所 は 「農家や職人技術 を軽視するインテ リ層」 に対す る嘆 きを語 っているが、 こ の ご侍所が含 まれる 「初 めの文 1全体 を読 む と、天 と技術、天 と人間 との関わ り合い を強 く述べてい るように思 える。そ してその 「天 」との関わ り合いは、1

8

部 門全ての 「初めの文」か らそ う感 じるの である。そ もそ も 『天工 開物J とい う書名 は、「天工は 人工 に対す る自然力 を意味 し、 この 自然力 を 利用する人 工が聞物である」と解 される (三枝博昔 ・薮内情両氏の解説

)

。そ して文字通 り、「天工開 物」の考 えが明 らかにされているのが、各部 門の 「初めの文」 であるO 「インテ リ層 の啓蒙」 よ り、

む しろその 「天工 開物」 とい う考 え方が強 く述べ られている と感 じられるo そ こで私 は、「インテ リ 層 の啓蒙」説の根拠 としての 「各部 門の初めの文」は動機 の根拠外 である とし、「インテ リ層 の啓蒙」

説の重要な根拠 は先程述べた 『天工開物』 の序文 と考 えて、次 にそれについて検討す るO

『天工開物』 の序文す なわち 「天工開物序」の中に 「幸生聖明極盛之世」 と表現 している箇所があ る。

『天工開物 Dが刊行 されたのは、1

63 7

年 (崇禎十)で、明滅亡 まで

7

年. なぜ宋応星は 「草生里明 極盛之世」と記述 したのだろ うかOこれについて、前掲 F天工開物の研 究』に収 め られている論文 「天 工 開物の時代」の中で、筆者の大島利一氏が 悩んでいる様子が窺われ る箇所がある。

「ところが、本書 にはそ うした非常時 らしい状態 も意識 も全 く述べ られてはいない。かえっ て 自序の うちには 「幸 いに聖明極盛の世 に生れ ・‑ 」 とある。 これは一体 どうしたことで あろう。先 きに述べ た明末の頗勢 .tJ̲い うものは、賓 をい J)と、明の帝室 と政権 の ことであっ て、昔時の社曾 にはそれ とはかかわ りな く、かえって繁栄 を極 めていた一面があったのであ る。 ・.・従 って昔時の社骨 は、宮廷 ・官僚 ・都市の富豪 な どの消費階級 を中心 として、す こぶ る華美 な文化 の敬遠 を示 し、都市 の繁栄 を見せ ていたのである。末席星が 「聖明極盛の 陛」とい うのは、この ような社曾のあ りさまを指 していった ものである。しか しなが ら、・

この意味か らすれば、 また 「聖明極盛 の世」 とは申 しかねるのであるが、 ̲. (20)

(乱世の世) を、宋応星が 「聖明極盛の世」 と言 っている不思議 さに悩み、そ して悩 みなが らも解 釈 を試みている大島氏 のその過程 が よく出ている箇所 だ と思 う。

(6)

T天工開物.著述の動機 について 加計 三千代

では、実際は どうだったのだろ うか。薮内清氏 は宋応星が l‑幸 いに も聖明な天子の下、極盛の世 に 生 まれあわせ 」た と述べ ているこ とは、「この ことは彼が北京 を遠 く離れた江 西の一一隅 に居住 した こ とも一つの原凶であろ うか、 また中国読書人の時局 に対す る無関心のほ どを示す もの と言 わねばな ら ない」(注2‑1と解釈 してい るが、宋応星は 『天= 開軌 刊行 の前年

LL 637

年) に政論集 『野議』 を出 版してお り、その中で明末の政治 ・経済 ・軍事 ・思想 ・文化 な どの腐敗現象 を暴 いている。宋応星は 時局 に対 して決 して無 関心 ではな く、む しろ関心が高かった こ とが窺 われ る。(注22) また、『野乱

と同年 に出 した自選詩集 『思憐詩』 の 「憐愚詩」の中で 「一箇 港身有凡何 、学書不就学兵曳。南思北 想無安着、明鏡催人 白髪多。」 と述べ てお り、宋応星 自身が実際 は、「聖明極盛の世」 と思 っていない

ことがわかる。

粛王孫帝子l

さて、同 じく 「天工開物序」 中で、「幸生型明極盛之世」の少 し後 に、「且夫王孫帝子生長深宮御厨 玉粒 正春而欲観末描 尚宮錦衣方勢 而想像横糸昔斯時也.披 圃‑観如獲重育英。」 とい う箇所がある.

王孫帝子た ちが メルヘ ン風 にゆった りと岡 を広 げ、宝物 を見 るように喜 んでいる姿が想像 出来 る。宋 応星 も温か く王孫 たちを思いやっていることが伝 わって くるような描写である。

しか し、昨年 (2007年)初秋 に宋応星の故郷である江 西省 の南 昌を訪れ、八大 山人記念館 に行 って か らいろいろなことがわかって きたr,まず、旅行 か ら帰 って きて八大 山人 について調べ てみる と、書 画で有名 な八大山人が 「明の王族 の出身 」で、 しか も明の滅亡後、宋応星の出身地奉新の山に隠棲 し ていたことを知 り大変興味 を持 った。 さらにもう少 し詳 しく調べ ると、八大山人は南 昌の王族の出身 で寧藩の分家である七陽王家 に生 まれたことがわかった。明の太祖朱元埠 には26子あ り、その第17子 宋権 (寧献王)の子が朱莫堵 (石城王)で、八大 山人は、 この石城王の一族 の出身、太祖か ら数 えて ]U代 目の子孫 だ とい うことであるO

また同様 の経緯で、 イエズ ス会士のマテオ ・リッチが宋応星の故郷である江西省 に3年間 も住み、

しか もその江西省 の省都南 昌で非常 に有名 になっていたことを知 った0 『天工 開物』 は西洋 の影響 を ほ とん ど受けてい ないため、イエズ ス会士 との接触の足跡 は望め ない と思 っていたので、 この情報 に は正直 なところ非常 に驚いたo

さて、平川祐弘氏が刊行 した 『マ ッテオ ・リッチ (注23)の中の 「南 昌交友」では、マテオ ・リッ チが当地の建安王や楽安王 と交友 したことが記 されている。私 は、それ を読 んで、当時の南 昌には八 大山人の出身であるi;陽王の一族 だけでな く、マテオ ・リッチが交友 した建安王 と楽安王 な ど他の王 孫 たち も住 んでいることに気付 いた。宋応星が住 んでいた南昌は中国の一地方都市、そ こに少 な くと も3王孫家が存在 した とい うことは、広 い中国では何 人の王孫 たちがいたのだろうかOマテオ ・リッ チは イエズス会本部に宛 てたこの手紙の中で、明朝の皇族の身分 について 「‑ 何 もしないで国王の 財源 によって生活 している人が多い ‑ 」 (it24)と語 っている。

また、 この王孫 たちの問題 については、佐藤文俊氏が 「明 ・太祖 の諸王封建 について」(注25) で、

69 ( L 7 4)

(7)

岡山大学大学院社会文化科学研 究科紀要第

2 6

( 2 0 0 8 . l l )

「永楽年代以降の封建諸王の特徴 は概略、皇帝 を中心 とした集権体制中、軍事機能を否定 さ れ厳 しい 「藩禁」で しぼ られた王府の現実的役割はな く、む しろ中央権力内で も就薄地で も 敷居 ・寄生集団化 し、明未の廟 炎武のい うように 「乗物」化 した存在 になっていった。 ・ 皮肉なことに、朱元埠が予想 だに しなかった宗室人11の増大 と食封制の現実が、明一一代の社 会 ・経済上に様 々な混乱 を生起 させ、最後 に明末農民反乱 によ りその就薄地 を追われ、「王国.

が崩壊する。」 と述べている.(注26)

今の佐藤氏の論文で引用のあったの と同様 に、明末清初の学者で晴代考証学の祖 とされる願炎武は 著啓の F日知録』において、「惟本朝不立此格。於是為宗属者D大抵皆溺於富貴o妄 日額給。不知桂義。

至英貨乱 則好手逐食。厳事不為。名 E]天枝。賓為乗物。」(注27)と語 り、「宗主」つ まり王孫帝子 た ちのことを 「賓は葉物 と為す」 と酷評 している。

また、王春檎氏の 「"葉物"論一談明代宗藩」(注

2 8 )

によると、万暦 三二年

( 1 6 0 4)

の宗藩人口は 8万以上 とされ、 さらに呉締華氏の 「論明代宗藩人口」(注29) では、史料 に記載 されている各データ と調整 しなが ら推算 した宗薄人口は

、1 5 0 6

年 (正徳元)

2. 4 5 1

、1 5 5 1

年 (嘉靖三

〇) 1 9, 6 0 7

、1 5 9 6

午 (寓暦二四)

1 5 6, 8 5 6

人 (明神宗青緑巻四九二によると寓暦二三年 に

1 5

7 0 0 0

人)

、1 6 2 6

年 (天啓六)

6 2 7. 4 2 4

人と推算 している。

U天工開物』が刊行 されたのは、これ より11年後の

1 6 3 7

年 (崇禎十)である。呉婦華氏は、 これ以 降は世情が不安定で推算で きない との理由の為 に天啓六年で推算 を打 ち切 っているが

、1 6 3 7

年 (崇禎 十ノ頃には、あるいは百万人近い王孫帝 子たちが存在 していたのか もしれない。

以上の ことか ら、明末、王孫帝子は 「葉物化」 してお り、「天工開物序 」を読 んで、私が当初想像 したメルヘ ンの世界のような存在ではない ことが判明 した。先程 は、「幸生聖明極盛之世」が現実 と 矛盾 していたこと、そ して何 よ りも宋応星 自身が 自分の生 きている時代 を 「幸生聖明極盛之世」では な く 「乱世の世」 と実感 していたことがわかった.〕また、今見て きたように 「王孫帝子」は蟹居 ・寄 生集団化 し 「乗物」化 した存在 になっていた。つ まり、1天工開物序」は文字通 り読んでは、本当の 意味は理解で きない と考 えられる。

さて 「天工開物序」 を文字通 り読んでは本当の意味は理解で きない ということがわかった。そこで、

今 まで 「天工開物序」 を中心 に考 えられて きた F天 工開物J著述の動機 を、 もう一度 白紙 に戻 し、改 めて検討 してみたい と思 うo F天工開物J著述の動機 として考 えられるのは、

A.

民衆が当番 を利用 して少 しで も生活が豊かになるように、彼等の利益のために書いた。

B.

作業者 を軽蔑するインテ リ層の啓蒙のために書いた。

C.

皇帝 に上音 ・奉呈するために書いた。

もちろんそれ以外 にも考 えられると思 うが、今、私は著者の視線の先 を、明末社会の重要な構成要 素である (民衆) くインテ リ層) (皇帝)、以上の

3

つに絞 り考 えてみることに した。

(8)

T天工開物.著述の動機 について 加計 三千代

ではまず最初 に

、「 A.

民衆の利益 のため」 を検討 してみたいO これに対 しては、『天工開物』 に描 かれている

(2.衣服 (

乃服)) の養蚕‑綿 に関す る挿絵 を、1

8 02

年、 日本 の上垣守国が著 した F養 蚕秘録J の挿絵 と比較 したい と思 う。比較す るの には、中国の、 しか も出来 る限 り同時代 の書物 を扱

うのが一番ふ さわ しい と思 うが、マニュアル としての比較 とい う点では 『養蚕秘録』 が妥当だ と思い、

両書で比較す ることに した。さて、『善蚕秘録Jは 日本の江戸時代 、享和二年

( 1 802)

に出版 された上 ・ 中 ・下

3

巻で、「且婦女見易か らん為、画図 に顕す。巻 中図説 は、童粟の為 に諭す」 (凡例) として挿 絵 を多数用意 し、図だけ見 て も学ぶ ところがある ように工夫 されてい る。

まず、『天工開物』 の

く2.

衣服 (乃服))の養蚕‑絹 に関す る挿絵 と F養蚕秘録』 の挿絵 の数 を比 較 してみる と、『天工 開物』 は

8

図で 『養蚕秘録』 は80図であ る。 さらに同書 の挿絵 を比較 して一番 印象探かったのは、『天工 開物』 には養蚕 に必要 な道具が図解 されてい ない ことである。 もし実際 に 養蚕 をする とした ら、最初 に何 の挿絵 を一番必要 とす るだろうか。やは り、養蚕の道具の挿絵 ではな いだろうか。私 たちが何 か を始める とき、 まずは取 りかか りの道具が必要だか らである。実務 に終始 せず啓蒙書で もある F養蚕秘録J が、養蚕の道具の図 をきちん と描いているのに 『天工 開物』 にはそ れが ない。 しか も、内容 を追 ってい くと、 『蕃蚕秘録J では重要 な1程 に対 しては必ず‑図以上措 い てい るのに、 『天工 開物』 では工程 の中で特徴 ある ものだけを選 んで図 に載せてい るような印象 を受 ける。 この ように、 『天工 開物』 と 『養蚕秘録』 の挿絵 を実際 に使 うマニュアル としての観点か ら比 較 をす る と

「 A.

民衆が当書 を利用 して少 しで も生活が豊 か になるように、彼等の利益のため に書 いた」は、否定 されるであろ う。

それでは次 に

、「 B.

作業者 を軽蔑す るイ ンテ リ層 の啓蒙のため に書 いた」 について考 えてみたい。

私 はこの論文の 「は じめに」で、 自分 の経験か らマニュアル作 りの大変 さを実感 し、そのため F天 工開物』著述 の動機が 「インテ リ層 の啓蒙」では弱い と感 じたことを述べ た。 また先述の 「疑問点」

の ところで、 (動機 としてのパ ワー不足) く啓蒙の非効率性) (時勢 のずれ) な ど動機 としてのマ イナ ス面 をあげた。では、従来の 「イ ンテ リ層の啓蒙」動機説の根拠 となっていると思 われる l天工 開物 序「各部門の初めの文」 の4箇所 は どうだろうか。

この

4

箇所で一一番 共通 しているのは 「科挙 の弊害」ではないだろうか。宋応星 は、l科挙の弊害」

を強 く懸念 していたのではないだろ うか。そ もそ も宋応星は郷試 に受かった挙人ではあるが、会試 を

6

度受 けすべ て不合格であった。その受験過程 は長年 にわたっている01

5

年間会読 を受 け続 け、つい に目的 を果たせ なか ‑)た無力感、憤 りは計 り知れない ものがある。 また、宋応星 は、 自分 のことだけ でな く国家や社会的 な面 か らも科挙 に憤 り ・憂 い を持 っていた と感 じられ る。つ ま り従 来、「インテ リ層 の啓蒙」の根拠 と言 われているこれ らの箇所 は、宋応星の科挙‑の憤 り ・憂 い を基盤 とした イン テ リ層への憤 り ・憂い を著 しているのではないだろうか。 もちろん、それ らは動機 の基盤 として重要 な要素 だ と思 う。 しか し、 この憤 りや憂いは、動機 の基盤ではあって も目的 を伴 ういわゆる直接 の動 機ではなかったのではないか と感 じられる。

67 (176)

(9)

岡山」大学大学院社 会文化 科学研 究科紀 要第26(2008ll)

また、序文の末尾 に書 かれている 「大業文人棄榔案頭此書。干功名進取竃不相関也」 は、「インテ リ層 の啓蒙」動機説 を考 える上で一番重要な根拠 とされて きたが、胡道静氏 による と、「王徴が訳 し た 『遠西奇器図説録最』 は、伝統的な保守主義者 に各め られたせい もあってか、その序文 中で本書 は く工匠の技芸方面 だけの書物であ り、君子 の教養書ではない) (工匠技芸流耳、君子不器) と記 して いる。」(注30) この l「遠西奇器図説録軌 の 「工匠技芸流耳、君子不器」記述の経緯 か ら推察 して、『天 工開物」 の序文の末尾 に書かれた 「学問 に専念す る方 々は、 どうか机 の上 に うちすて られたい。 この 書 は立 身出世 に少 しも関わ りが ないのである。 (大業文人棄梯案頭此書。干功名進取牽不相 関也ハ

) 」

の文 も、あるいは同 じニュアンスの但 し書 きだったのか もしれない。 この ように根拠 となる文の解釈 が多様性 であるため、当箇所 を根拠 として、『天工開物』著述の動機 を 「イ ンテ リ層 の啓蒙」 とす る のは早計 だ と思われる。 以上の ことか ら

、「 B.

作業者 を軽蔑するイ ンテ リ層 の啓蒙のために書 いた」

、「 A.

民衆 のため」 と同様 、F天工開物』著述の直接の動機 としては否定 されるであろうO それでは、最後 に残 った もう一つの動機説 「し、.皇帝 に 上音 ・奉呈す るために書いた」 について検 討 したい と思 う。 ここで、 もう‑・度挿絵 を見てみ よう。 『天工開物』 の

「1

.乃粒 (穀類)Jの挿絵 を 見 る と、 (秩). \転 (くさと り)) ・ く蒋 (除草)) な ど普段全 く農業 に無縁 の人々のために描 いた と思われ る挿絵が含まれている。 また く北方では耕作が播種 を兼ねる) ・ (南方で大 ・小麦の種子 を ま く) な ど地域的に範岡の広い、特徴 ある もの を選択 しているO著者の宋応星 自身、 インテ リ層であ るが農業 を熟知 している。「農家の人々 を軽蔑す る態度 を示す」 と 『天工 開物』 に記述 されている イ

ンテ リ層 の人々 も、熟知 とはいかな くて も、少 な くともそ うい う態度 を示す程度 には農家の人々 と接 触があったことが想像 される。全然接触がない人が、具体的に軽蔑す ることはないか らである。つ ま り、インテ リ層 も く耕) ・ (蘇 (くさと り)) ・ (蒋 (除草)) などの作業 は、 自分が したことはな く て もある程度の想像 はついたであろうと思 われる。それなのに、宋応星 はわ ざわ ざ貴重 な挿絵 にこれ

らの絵 を選 んでいる。それか ら考 えてみ る と、F天工開物J は全 くこれ らの挿絵 の作業 に無縁 な人々.

つ ま り王孫帝子、 もしくは皇帝が対象 だったか らではないだろ うか と推察 される。

さて、私が知 ってい るマニュアJレには

2

種類 ある。その一つが 「業務 フローチ ャーート」、 もう一つ が 「作業マニュアル」だ。例 として、私が今 しているこの作業 をあげてみ る と、「業務 フローチ ャー‑トJ

とは、「論文の草案 を作成す る‑先生 に草案 を見て もらい、ア ドバ イス を受 ける‑論文 を作成す る‑

パ ソコンに論文 を入力す る‑ 論文 を印刷す る ‑論文 を綴 じて表紙 を付 ける‑大学院担当者 に論文 を提 出す る」 とい うように描 くマニュアルである。 もちろん、実際の 「業務 フローチ ャー ト」 は、 こ れに関連部署 との関わ り合いや どの ような機器 を使 ってその作業 を しているのか等 、記号 を用 いなが ら作成 してい くので もっと複雑 な図になる。 さて次 に、 これか ら私 は論文 を印刷 したい と思 うとする。

しか しr業務 フローチ ャー ト」の 論文 を印刷する をい くらじっ と見て も論文の印刷 はで きない。

ここで必要 になるのが 「作業マニュアル」である。この 「作業マニュアル」には、「〔ファイル〕メニユ・‑ をク リ ソク‑ 〔印刷〕をクリック‑ 〔印刷 ボ タン〕をクリックす る」と実際 に印刷 がで きるように、「業

(10)

T天工 開物.・著述 の動機 につい て 加 言1 三千代

務 フローーチ ャー ト」 よ り具体 的な作業が赦密 に記載 されている。

「作業マニュアル」 は実際 に仕事 をす る人々が必要 な ものでr業務 フローチ ャー ト」 は作成の手 間 と比較する と作業者 にはあ まり重要 とは言 えない。 しか し、 この 「業務 フローチ ャー ト」的マニュ ア ルが絶対必要な人々がいるのだ。それは私の勤 めていた会社 の場合、社長 と社長のア ドバ イザーた ちだった。各部署の人たちが描いた 「業務 フローーチ ャーート」 を手元 に集め、それ を机 上に広 げて故事 策 を話 し合い、何 か事故があった場 合はここが問題 だ と検討す る。つ ま り、組織 の トップの人たちが 具体 的に、 しか も自分たちの組織 を総括的 に把撞す るのに必要 なのが 「業務 フローチ ャー ト」である

と思 われる。

先程 の r養蚕秘録j では、「養蚕諸道具の事」の箇所で図 を載せ る とともに、「養蚕の諸道具 は、図 のごとくして、悉 く冬の内 に用意すべ Lo又曲作 らす時につかふ藁の類、柴薪 にいたるまで.前方 に 用意 して乾燥 し置べ し。」 と記 しているO これは、今 の時代 で言 う 「作業 マニュアル」であ り、それ

らを一過程一過程積 み上げて 『養蚕秘録』 とい う書物 を成 している と思 われる。一方、F天工 開物』は、

全体 として見 た場合 「業務 フU‑チ ャー ト̲」に近いマニュアル と言 えるのではないだろうか。(注31) 明末の各産業分野の 「業務 フロー‑チ ャー ト」に近いマニュアル を集めた ものが 『天工開物』であ り、

また、 もう一つの 「作業マニュアル 」までは必要 ないが、かな り微寒 な手順やデータを書 き込 んだ各 産業分野の 「業務 フローチ ャー ト」的マニ ュアルの総体 を必要 とす るのは、国家の トップ、つ ま り皇 帝 とそのプ レー ンの人々だろうと思われる。挿絵か ら見た場合、王孫帝子の可能性 も考 えられるが、「業 務 フローチ ャー ト的マニュアル」か ら見た場合は藩禁で縛 られた王孫常子 たちに、国家の トップ とし ての視点 .行動 は不可能である。 また、「業務 フローチ ャー ト的マニュアル」 の視点か ら見た場合、

地方の トップ も考 え られるが、『天工開物J の広範囲な産業的 ・地理的記述 はそれ を越 えるであろ う0 以上 の ような経緯 か ら、 『天工開物』 の対象 は 「皇帝 とその ブ レー ンの人々」 であろ うと考 え られ、

「C.皇帝 に上書 ・奉 呈す るために書いた」 は動機 として可能性 が ある と思 われる。そ こで、それ に ついて、次章 よ り 「著述物」 「人間関係」「時代背景 」の各方面か ら考察す る。

2.

著述物 か らの考察

ここでは、「天工開物序」の中の (五穀 を貴 び金玉 を壊 しむ)や、『天工開物』 と同時期 に著述 され た他 の著者 による産業科学技術書、そ して宋応星の 『天工開物』 以外 の著述物 を調べ、 この方面か ら 考察 を行 ないたい。

(五穀 を貴び金玉 を賎 しむ)「天工 開物序」の最後 の部分 に 「巻分前後乃貴五穀両棲金玉之義」(香 物の順序 は、五穀 を貴 び金玉 を膿 しむ とい う意味 に従 っている)の記述がある。 これについて、橋本 啓造氏 は前掲の 「『天工 開物』一 明代 の産業技術 の百科全書 」の中で、

「『天工開物』の構成 は、宋応星が序文のなかで 「五穀 を貴 び金玉 を膿 しむ とい う意味 に従 う」

と述べているように、食 ・衣の生産技術 を最初 に置 き、時好 ・装飾の採取 ・加工技術 を最後

65 (178)

(11)

岡山大学大学院社 会文化科学研究科紀要第26号 (2008.ll)

に持 って くるとい う順序 になっている。 ・‑ 穀物の生産 と加工 を冒頭 に置いたのは、前漠 の晃銘が文帝 に上奏 した文章 に則 ってお り、宋応星の重度主義 を示 した ものである。標題の

「乃粒 」は 『書経』 の l一茶民乃粒、万邦作 父 ](天下の民衆 に糧食が足 りれば国家は安寧で ある) に由来する。」 (注32)

と述べている。

橋本氏が指摘 している前漠の鬼銘 は、 丈帝の時代 を通 じて上音す ること数十回に及んだ人物である。

晃銘は、商業 よりも農業 を重視する重農主義者だった。当時、役人や商人の農民 に対する搾取が激 し かったため、多 くの農民が生活 に困窮 し、破産 して逃亡する羽 目に陥 った。晃銘 は、それを放置 して おいては国が傾 くと考 え、『史記J に記 されているように文帝 にいろいろ と献策 をした。その上奏文 の一部が 『漢書 ・食貨志』 に載せ られてお り、その 『漢書 ・食貨志』 に記述 された晃錯の上奏文の中 に、 五穀 を貴びて而 して金玉 を煉

己 とい う箇所がある。それは、「天工開物序」で宋応星が 「貴 五穀而膿金玉」 と述べ ているの と同 じで、「天工開物序」の 「貴五穀而購金玉」 は、この見錯の上奏

丈か らの引用 と思われる。

さて、これはいったい どういうことを意味するのだろうか。改めて 『天工 開物』 に書かれている各 部門の順序 について確認すると、確かに「1.穀類 (乃粒)」か ら始 まり、最後 は「18.珠玉 (珠玉)

となっている。五穀 を貴びて而 して金玉 を膿 しむ、つ まり晃鋸の重農主義 に則 っていると思われる。

しか し、胡道静氏は 川天二L聞物』 とその著者宋応星」で次のように指摘 している。

「『天工開物』 は農業 と工業両方面の生産技術 にわたって記述 しているが、工業方面の記事 により重点が置かれている。 また農業生産 についての巻にも農産品の加工方法や農具の製造 方法が併載 されている。 したが って本書 を工芸柁術 百科全書 と見 なす ことがで きる」(注33)

前章で、 1天工開物序」 に書かれている 「幸生型明極盛之世」 と 「王孫帝子」の箇所 は現実 と矛盾 してお り、「天工開物序 」は文字通 り読んでは本当の意味 は理解で きない と述べた。そ して、この 「五 穀 を貴びて而 して金玉 を渡 しむ」 も、確かに文字通 りその順序で記述 されてはいるのだが、そのよう にするとい うことは 「農業のことを一番 に考えている」 という自分の考 えのアピールで もあるので、

実際は工業方面 を重視 している 『天工開物』の内容 とは矛盾がある。

以 上のように 「天工開物序Jの l草生聖明棲盛之世」 r王孫帝子」 i 「貴五穀而膿金玉之義」 は 現実 と明 らかに矛盾 している。 しか し、「天工開物序」 自体 はそれが 自然 な感 じで書かれている。そ の ように 1幸生聖明極盛之世」 ・ 「王孫帝子」 ・ 「貴五穀而購金玉之 」が現実 と矛盾 していなが ら 自然 な感 じで記述 されているとい うことは、 r天工開物』の著者宋応星の視線の先は 「当時の皇帝」、

つ まり 「崇禎帝 」に向けられているのではないだろうか。記述 とは明 らかに矛盾す る事実の中で、「幸 生型明極盛之世」 ・ 「王孫帝子」 l貴五穀而膿金玉之義」と書いて しまう、 もしくは書か ざるを得

ない相手には、その形式 に最 もふ さわ しい 「皇帝」が考 えられるか らであるO【考察 Ⅰ】

(産業科学技術書の進呈 ・奉呈)『天工開物J刊行10年前の1627年 (天啓七)、蕉宗天啓帝が病死 した。

(12)

r天=閑物二著述の動横 について 加計 三千代

天啓帝 には子供が なか ったので、異母弟 であ る信王 由検 が後 を継 ぎ、毅宗崇禎帝 となった0時 に

1 8

歳、

無為無策の ま ま亡 くなった兄 とは違 って、王朝再建 の志 を持 ち、英 主たるべ き素質 を備 えていた とさ れる。殊 に天性 の意志の強 さは、廷 臣の一致 して認 める ところであ った。朝政 を一新 し崩壊 に瀕 して い る明朝 を建 て直す ことを第‑ に考 え、崇禎帝 は即位 直後 か ら、政局 の転換 をEl指 して対策 を打 ち出 した。宵宮派が後 ろ楯 を失 い、東林党 の人士が次 々に上書 して彼 らを弾劾 したの を受 け、崇禎帝 は亡 兄の遺言 を軽視 して貌忠賓 を退 けた。さらに崇禎二年、崇禎帝 は貌忠賢 に与 した在官派 を摘発 して 『欽 定逆案J を作 りそれぞれ に罪 を定 め、同時 に天啓時代 に罪 に落 とされた臣僚 の名誉 を回復 し、内閣の 人事 を一新す るな ど、新政 の準備 を整 えた. なかで も前朝 にお ける官官の弊 に鑑 み、勅命 を奉 じない まま、官官が勝手 に宮 内 を出 るの を禁 じたのは、政治のあ り方 を本来の姿 に戻 そ うとす る、帝 の決意 を示 した もの と理解 で きる。崇禎帝 は政務 は全 て 自ら決裁す る ように努 め国務 に精励 した。 この よう に積極果敢 に行動す る新帝 の姿 を見 て、廷 臣たちはあ るいは頚 勢 の挽 回 も可能で はないか と期待 したO

同様 に、崇禎帝の即位 は、実学支持 の士人達 に国家再興 の希望 を飽 かせ た。 岡本 さえ氏 の F近世 中 国の比較思想‑一一異文化 との遊近} による と、

「当時 この グループであ った と見 られる士大夫 は、少 な くとも50名 を数 える事が出来 る。単 式描 (くしき し) を始 め幾人かの士人が 、西洋大砲 、紅夷大砲等 の火器 の専 門家である徐光 啓 、孝之藻 、孫元化等 のいわゆる 「用器之人」 の登用 を皇帝 に直訴す る., ・・以前か ら、文 人 たちの文集 には無用 な本 が多 い と思 っていた徐光啓 は

、1 62 8

年の崇禎 帝‑ の上奏の中で、

儒 学 の古典 です ら確実 ・簡明で且つ必要 な部分 だけ を学べ ば良いのですo さもなければ備 え る必 要 はあ りませ ん と述べ てい る。 『現在 の人材 養成 は、必 ず実用 を求 め るべ きですが 、未 だ必ず しもその方 向 に向か ってい ませ ん。私 の説が実現 されれば、天下 はみな上意の向か う 所 を知 るようにな り、人 々は物事 に通 じる ようにつ とめ、任用 にかな うようにな ります。そ して数年 たてば実用 に供 しうる才能 をもつ者が数 え切 れぬ程 にな り、官用 の文章 も役人の慣 習 もが ら りと姿 を改 め るで しょう』」(注34)

さて、明末 に著述 された中国の主 な産業科学技術 書 には、 F河防一覧J『本草綱 目JF武備志

F新製 諸器 図説

『崇禎暦書

『園

『農政全書

『物理小 識

j

『通雅』 な どが あ る。 これ らの産業科学技術 書 の 中で、私 は

L 6 21

年 に刊行 された茅元儀 の 『武備 志J と

、1 639

年 に刊行 され た徐 光啓 の F農政全 書J が、崇禎帝 に対 して どの ような動 き方 を したのか に興味 を持 った。次 にそれ を述べ たい と思 う。

【『武備月と茅元儀】『武備志』は

1 621

年 (天啓元)、茅元儀 が編纂 した軍事百科全書であ る

02 40

巻 ・ 図

7 30

余。歴代兵学 の成果 を仝収録 してお り、中国兵書 の最高峰 と言 える ものであ るCそ して 『武備志J の著者 である茅元儀 は

1 5 9 4

年 (万暦二二) に帰安 (今 の斬江呉 興) に生 まれた。幼 い頃か ら学問 を好 み、様 々な書物 を広 く読 み .特 に兵書 ・戦策 を好 んだ。後金 の勃興 、明朝政肘 の腐敗 に直面 し、発 香 Lt5年 にわた り心血 を注 いで 『武備 志』 を完成 させ た。軍事 に精通 してい る と評判 になった茅元儀 は 賛 画 に任命 され、大学士 の孫承宗 に随行 して遼東 において大軍 を率 いて戦 った。後 、孫暴宗 とともに

63 ( 1 8 0)

(13)

岡山大学大学院社 会文化科学研 究科紀 要第26号 (2008ll)

官職 を剥奪 され、故郷 に帰 った。崇禎帝 の即位後 まもな く、茅元儀 は首都 に行 って皇帝 に 『武備志』

を進呈 し、合 わせて上書 して辺境 の情勢、軍国の大計 を陳述 したが、権 臣の王在晋 らに中傷 され、「皇 帝 に対 して倣慢である罪.」で定輿 (今は河北 に属す)の江村 に放逐 されたO その後、後金国騎兵の大 挙南下の際には大いに戦功 を上げるが、 また も権臣に言いがか りをつけ られて解任 され、悲嘆の うち に

4 6

歳 にて死去 した。 この ように波乱の人生 を歩 んだ茅元儀であるが、一度官職 を剥奪 されていたの に、崇禎帝の即位後 まもな く北京 に行 き、皇帝 に 『武備志』 を進呈 した とい う。 この茅元儀 の動 きに、

産業科学技術書 を通 しての当時の人々の活発 な応酬が垣 間見 えて来 るようである。

『農政全書」 と徐光啓】 F農政全書』 は著者である徐光啓が死 んで

6

年後、1

6 39

年 に刊行 された。

全6

0

巻で1

2

大部門に華立 て されている。 中国の農業発展 の歴史の中で多収穫作物お よび商品作物の普 及栽培 を提唱 した点で、貢献度 は非常 に大 きい とされる。著者の徐 光啓 は1

5 62

年 (嘉靖四一) に南直 隷上海 (今の上海市) に生 まれた。商人兼小地主の家庭 に生 まれたが、出生当時、徐光啓の家の商売 は凋落 し家庭生活 はひどい苦境 の中にあった。父親は 「農 を課 し園 を学 び自ら給 し」、祖母 と母親は 「早 碁 に紡績 し、寒暑 にもやめず」家中の者が生活のために農業や手工業生産 に従事 した。1

6 04

年 (万暦 三二)43歳の時、第88番で進士 に合格、殿試三甲中第52番で、翰林 院庶苦土 に任命 されたo天啓帝の 時代 には宵宮勢力が幅 をきかせ ていたので故郷 に帰 り6年間を過 ご した。1

627

年、崇禎帝が即位 する と、先ほ ど述べた経緯 にて勅命で礼部右侍郎兼翰林院侍読学士協理食事府の元職 に復す るよう要請が あった。以後官位 は次第 に昇 り政務 も日増 しに重 くなったため、以前か ら手がけていた 「農業大百科」

の完成 に向けての作業 は、事実上許可 されなかった。1

6 33

年 (崇禎六)、徐 光啓 は没 し、その未完草 稿が残 されたO『後楽堂徐氏家譜3所載の F家伝』には、徐光啓が臨終の直前 に孫 の爾爵 に語 った 「速 やかに 『農政全書』を完成 し奉呈で きれば本望である」とい う言葉 を記録 してお り、また査継任の 『罪 惟録』巻一一経済諸臣列伝 ・徐光啓伝 には 「病状 はひどく悪 く、家人に向か って く速やか に F農政全 書』 を上 (たて まつ) ることがで きれば本望 である) と述べて没 した」 と記 されてい る。(注35)修訂 定稿 の責務 をゆだね られた陳子龍 は、 1

6 39

年 (崇禎一二) にこの仕事 を完成 した。」この ように、徐 光啓が く速やかに F農政全書』 を上 ることがで きれば本望である) と述べ て没 したことに、明末の知 識人たちの産業科学技術書 に対す る熱い思いが伝 わって くるように思 える。

崇禎帝の即位後、多 くの人々が崇禎帝 に向けて動 き出 した。宋応星 は、崇禎帝即位 の翌年1

6 2 8

年 に 第

5

回 目の会試、1

631

年 に第

6

回目の会読 を受けるため北京 に行 っている。兄応昇 と共 に結果 は不合 格であ り、二人 とも第

6

回 目の会試失敗後 に受験 を断念 している。しか し、清書星氏 の 『宋応 星評伝』

による と、「第

6

回 目の会読 に失敗 して科挙 を諦 めて以後 、宋応星は実学 に専心 L、功名進取 に少 し も関係 のない農工業生産技術 と自然科学、哲学お よび社会経済問題 を研 究 した」 とあ るO(注36、 この 第

5

回目 ・第

6

回目の

2

回の受験 の際 に、北京で、上記 で述べ た 『武備志』 や 『農政全書』 の ような 産業科学技術書の崇禎帝 に向けた動 きを知 り、影響 を受けた可能性が大 きいか と思われる。【考察 Ⅱ】

(宋応星の 『天工開物』 本文 とそれ以外 の著述物) 『天工 開物』 の著者宋応 星が記述 した著述物 の

(14)

r天工開物.著述の動横 について 加計 三千代

分類 をする と、 (1) 自然科学 ・技術

:

『天工開物

『観象

『楽律』 (2)詩作 : F思憐詩』 (3)政 論集

:

『野 d(4)歴史学

:

『春秋戎秋解』(5)官学創作:『美利美』 (6)維文集: け一雑色文J

r

原 耗』 (7) 自然科学 と社会科学の間:『危言十種山 以上の ように分 けることがで きる。

1r天工 開物』 は

、L 6 3 7

年 (崇禎十) に刊行 されたが、この年 には宋応星 は 『危言十種』 F雑色文』

も発表 しているO また、その前年 の

1 6 3 6

年 (崇被九) には 『野議

F思憐詩』『画音帰正』 『原耗J が 刊行 されていた。その中で、現在 見ることが出来 るのは、『野議』 ・ 『思憐詩』 ・ 『天工開物』 と、 F危 言十種』 の中の 『論 気 」 ・ 『談大』の五種 だけである。 これ らは、『天工 開物』著述の動機 を調べ る 上で、重要 な題材 になる と思われるOここでは F天工開物』の本文、そ して F野譲

『思憐詩Jr論気』

『談天』 の説明 と 『野議』 の序文の訳 ・解説 を試 みることによって、動機 について考 えてみたい

◇ 『天工開物』本文: F天工開物A の序文 については前述 したOそれでは、その本文 は どうだろうか。

例 えば、第1

5

章兵器の中で、動機 に関連す ると思 われる点 は 下記の通 りである。

・脚注 に、宋応 星 自身の本音 と思われる記述があ り

上奏の必要性 を感 じさせ られる。

(例)「弓矢 J I ・ 「近歳 命南方諸省造弓解北紛紛駁 回不知離火即壊之故。亦無人陳説本章者。⊥ (近年、南方の諸省 に命 じて弓 をつ くり北方 に送 らせ ているが、次 々 と突 き返 されているのは、

火気 を離 れる と弓がす ぐこわれるの を知 らないか らである。 しか しここで述べたことを説明す る人もいない。)薮内氏 は前掲 『天工開物』の注で、この 「亦無人陳説本章者」の箇所 について、

「楊聯陸氏の書評 には、本章 を上奏文の意 とす る。」 と記 している。(注37)

・産業科学技術書の献上の動 きを述べ た箇所があるo

(例)「火薬の材料」・・・ 「火薬火器今時妄想進身博官署人人張 日而著書以献未必墨 由試験O然 亦租載敷葉附十巻内」 (火薬 と火器 について、当世、立身出世 を夢想 している者が、それぞれ 大げさにいい立て、書物 に して献上 した りす るが、 まだ どれ もが実験 を経 ているとは限 らない。

しか しなが らざっとページをさいて、この巷の中に付載す るO)

さいし上く

野議』 : F野譲』 は政治評論 的 な著作 で、後漠の伸長枕 の 『昌言』 や 社是 の 『政論』 に比肩で きる。明末社会が局 面 している各種の問題 について語 っている。在野の知識分子 として、国家の命 運 に関わることについて献筒 を奉 じ、社会の喚起 を得 ようとしてい る。内容 は、次の12議 について 記述。 (世運議 ・催科議 ・風俗議 ・進身議 ・軍飼議 ・乱萌議 ・民財議 ・練兵議 ・土気議 ・学政議 ・ 屯田議 ・塩政議)

◇ 『思憐詩』 : 『思憐 詩̲qは、宋応星 自選の詩集.「思憐詩序 Jの最後 の1頁 (記述年が記載 されて いる)が脱落 しているが 「序」 の内容 と紙 ・墨 ・字体 ・版式がその年発表 した書物 と完全 に一致す るため、記述年 を

1 6 3 6

年 と推定す る。(注8)また、F思憐詩』 は、く思美詩)10首 と、く憐愚詩)

4 2

首 の計52首か ら成 り、宋応星の人生哲学思想が表 されてい る。(思美詩) は、‑詩人の心 の中にある 理想 人物 を吟 じてお り、く憐愚詩) は、明末社会の暗黒現象 を批判 していて、政論集 『野議」 に通

じるところがある。

61 ( L 8 2 )

(15)

岡山大学大学院社 会文化科学研 究科妃等第26号(2008.11)

◇ 『論気 :『論気』 は宋応星の宇宙万物 に対する見解 を記 し、内容 は生物 ・化学 ・物理 などの方面 にわた り、ある種の素朴 な唯物主義思想 を表明 している。 『思憐3,』 とは反対 に 「序」起首の最初 の部分が脱落 しているoF論気』は、問答対話の体裁 を取 っている。その内訳 は、下記の通 りであるo

く形気化)篇

5

章、く気声)篇

9

章、く水非勝火説)篇

4

章、く水産)篇

3

章、く水風帰蔵)篇 1章、く寒 熟)篇 1章の計

6

篇23章である。

◇ 『談天』 : r談天』 は、宋応星が天体 について述べているが、良 くはな く、く日読)6章だけの作 品である。『談天』 の中で、宋応星は 日食が 自然現象であって、君王の行為善悪 と直接関係 はない と認めている。 また、 この 『談天』 は、宋応星が北上 して会試 を受けに行 く途中、山東省の泰山に 登 った時 に日の出を見 て悟 った、その思想 を醸成 して記 した ものである。

野議序」 :

「春牌暮臭、源憩鈴山o令長曹先生撃清酒、負詩嚢、為尋松影鵬声、以永今 日、不悉他聞来 混耳 目也。乃寛滴数行、而送邸報者至、則見有立談而得美官者、此千秋過合春草也。取其奏 謙一一再讃之、命詞立意、亦 日南落可 人0倍其所開末尊、済地不広 、無限針肯灸膜、捷溺救焚、

急着揮然未彰、空負聖明虚心釆揮之意、識者有遺恨蔦.令艮帝談間、愚問寡諸。散帰冷署、

炊灯具草、継以詰朝、胡成万言、名之日 く野議)。夫朝議巳無欲納之人、而野復有議、如世 道何。錐然、仇野而読者無悪 、干朝議何傷也.人生胆力顔面、既定洪釣o嘗思欲伏関前、上 痛笑之書、而無其胆 ;欲参当道、陳憂天之説、而無其顔。則斯議也、亦以灯宙始之、開巻終 之而巳。東浜仲雀両君子所為 く昌言)、く政論)、亦野議也、然謂讃之余、法豚宛見東端。今 時事孔棟、董暇計文章工拙之候哉、故有議而無文、罪我者其原之。時崇禎丙子暮春下弦 日、

分宜教諭宋応星善子学署。」

(釈)「春が将 に暮れようとしている頃、鈴山に遊 びに行 った。令長の曹先生は清酒 を持 ち、

詩の入った リュ ックを背負 って松影や鵬の声 を尋ねている。今 日のことを詩に歌お うと 思い、雑音 を聞 きた くなかったO詩 を数行書いたところで、送 って きた邸報 (官報の類) を届 けて くれる人がいた。早速、談 を立てて良い官職 を得 た者があるのを見た。これは 千載一遇の春草である。その奏議 を取 って もう一度 これ を読むO文章 を工夫 して、森藩 で良い人物だ。ただ惜 しいことに未だに尊重 して もらっていないことを聞 く。見開が広 くな く、散漫で まとまりがないOただむな しく皇帝の期待 を背負 っているのだが、識者 はそれ を知 っている。私の ような知識の貧 しい者で も令長先生は聞 こうとする。 (それ か ら)寒々 とした学者に帰 って灯 を燈 して朝 まで万 言を一気 に書いた。名 を 『野議』 と 言 うO朝議では朴調の人 を欲 しない し、 また野で も議論があるo Lか し、野か らの議論 は悪 くな く、朝議 は何 をさまたげるだろうか。人生は胆力顔面であ り、それが必要であ る。かつて宮殿の前 に伏 して痛笑の書 を上奏 したい と思 ったが、その胆力がない。 また 権力の現場で憂天の説 を述べ ようと欲 したが、その資格がない。すなわちこの議は、机

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r天=開物1著述の動機 について 加計 三千代

の明か りか ら始めて、巷で終わるのみである。後漢の仲 良続や雀塞両君子の 『昌言』 ・

『政論』 は、 また野議である。今は時事が練の様 に厳 しいので、文章の巧拙 は計 る暇が ない。 だか ら、議があって文がないのである。罪 は私 のその ような考 えにある。時 は崇 禎丙子暮れの春下弦 の 日、分宜県教諭宋応星が学署 にて記す。」

清吉星氏 の 『宋応星評伝』による とく注39)、『野乱 は 『天工 開軌 刊行 1年前 の

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年 (崇禎九) 3月22日 (現在 の5月8日) に記述 された。序文 にでて くる 「令長曹先生」 は、曹国鶴 のことで、広 西全州の人。宋応星の友人で、当時宋応星が教諭 を していた分宜県の知県であ った。また、「邸報」は、

政符発行 の詔令、奏章お よび重大事件が載 っている官報である。曹国棋 と宋応星 は、 この年の2月に 発行 された邸報 を見 ていた。 これ には、陳啓新が正 月に皇帝 に上奏 した 「論天下三大病根」の上疏文 が載 っていたO「今天下有 三大病、 ‑ ・El科 目取入、資格用 人、推知行取科道O惟皇上請停科 目以 拙虚文、拳孝廉以崇賓行、罷行取考選以除積横之習、沸災傷 田賦以蘇民国、専葬大勝以節制有司便宜 行事」皇帝はその上疏文 を優 れているとして吏科給手 中の職 を授 けた。吏科給事 中は内延 に出入 りし て、皇帝が奏章 な どの重要 な職務 を処理す るのを手伝 う、皇帝お付 の顧 問及び諌官である。宋応星 は この陳啓新の上奏文が載 っている邸報 を読んで刺激 を受 け、『野譲』 を一気 に尊 さ上げた としている。

「野議序」 の中で、「此千秋遇合香草也」 と驚 き、 また 「嘗思欲伏 関前、上痛笑之書、而無其胆」 と 自分の ことを分析 している。 この 「嘗思欲伏関前、上痛笑之書 、而無其胆」 は、 F明史』巻258に記述 されている 「捧疏脆正陽門三 日、中宮取以進、帝大喜、立擢吏科給事 中 」の陳啓新の行動 を意識 して いるか と思 われる。

「野議序」の内容か ら推察す る と、宋応星 は上奏 を非常 に意識 していることがわかる。その一方で、

「嘗思欲伏 関前、上痛英之書、而無其胆」 と言 っているので、現実 に北京の宮殿 に行 って、門の前 に 脆 いて上奏す るのは自分の性格 に合わない と悟 ったのであろ う。この 「野議序ーlによ り、末広星 は 「進 士 になって政道 に参加す る道」 を諦 め、「陳啓新 の ように宮殿 の門前 に脆 いて上奏す る道」 を諦めな が らも、やは り 「皇帝 に上書 して政道 に参加 したい」気持 ちをず っ と持 ち続 けているように思われる。

【考察

Ⅲ】

3.

人間関係 か らの考察

『天工 開物』 の著者宋応星 は、1587年 (万暦一五)江西省南 昌府奉新県 に生 まれた。 ここでは、宋 応星の生涯 と師友 との関係 に焦点 を当て、人間関係 の面か ら考察 を行 ないたい。

(宋応星の生涯) 宋応星、字 は長庚。1587年江西省南 昌府奉新県 に生 まれた。宋応星の曽祖父宋景 は 1505年の進士 で、嘉靖25年都察院左都御 史 となる。祖父東屋 は25才 にて死去。その一子、国森は甘氏 ・ 王氏 ・親氏 を要 り、応昇 (母 は魂氏) ・応鼎 (母 は甘氏) ・応星 (母 は貌氏) ・応晶 (母は王氏)の

4男 子がいた∩貌氏が万暦 四年 に嫁 して きた時 には、 まだ‑家 は繁栄 し一時は20人の召使 い を雇 って いたが、応星が生 まれた頃か ら家運が傾 いた。国寮が病弱の為、家は中落 していた。応昇 ・応星の母、

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(17)

岡山大学大学院社会文化科学研 究科紀要第26号 (2008ll)

貌氏 は農家の出身。長兄応昇 は応星 よ り9歳年上 だった。(注40)応昇 は、応星 と仲が よ くしば しば行 動 を共 に した。応星は6歳の時、祖父の弟和塵が作 った奉新北郷本村 にある学館 の初級班で、兄応昇 と共 に一族の宋国癖 に学 んだ. この初級班で4年間学 んだ後、高級班 で学ふ ことになるか、その時の 師は新建 の学者郵良知であった。

1602年、15歳 になった宋応星 は応昇 と奉新県学 に入学 した。1611年、県学 を卒業 して、郷試 に参加 す る資格 を得て、翌年、兄弟で南 昌に赴 き江西省の郷試 を受 けるが不合格 だった。 しか し、28歳の時 再 び郷試 を受 け合格 し、挙人 となった。 この年は江西省 だけで受験者 は1万余命 にのほったが、 合格 者はわずか109名 にす ぎず、 さらに奉新 県か らは宋氏兄弟だけであった とい う。 この時の順位 は、応 昇

6

位 ・応星

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位 だった。そ して、 この試験で合格 し挙人 となった者 には妻 日広や徐紹蛭 らがいて、

これ以後皆友達 となった。宋応星 は、応昇 と共 に翌年の会読 を受 ける為、南 昌を出発 し北京へ と北上 した。 さて、翌年の1616年宋応星 は北京責院にて会読 を受 けるが不合格 、一緒 に受 けた応昇や要 目広 らも皆不合格 だった。そ して1617年、南 昌の著名な学者好 日敬が九江府虞 山の白鹿洞書院の洞主 とな り、応昇や好 日敬 を慕 う者 たち と共 に重ねて自鹿洞書院に行 った。1619年 には、兄応昇 とともに2回 目の会読 を受 けに北点 に行 くが二人 とも不合格、1631年の44歳 まで6回会武 を受 けるが全 て不 合格 だった。(胡道静氏 は 『中国古代農業博物誌考』で、末広星は、1616年、1619年、1623年、1627年、1631 年の合計5度会読 を受 けた としている。)

1629年、宋応星が42歳の時父国東が死去、 3年後の1632年 には母親氏が死去 した。会読受験 を断念 した宋応星は、1634年、47歳の時、江西省分宜県の教諭 にな り、1636年 には 『野議ム 『思憐詩ム 『画 音帰正』、『原耗』 を刊行 した。翌年の1637年 には、前年の F画音帰正』 と同様 、友の徐紹蛭 の資金援 助 を受 け 『天工 開物』 を刊行 した. (5月に江西で版刻上梓 された。) また、同年、『危言十種』、F雑 色文』 を刊行 した。そ して、1638年末応星 は、福建省汀州府の推官 になったが、その在任 中はす こぶ る名声があ り、府民 は彼 の肖像 を作 って配 った とい う。また、1643年 には、安徽省葦州の知州 (長官) にな り、明末の動乱 によって流浪す る人々を収容するのに努めたが、ついに1644年 に官 を辞 して故郷 に帰 り、以後 は仕官 しなか った。 この年 、明の崇禎帝は李 日成の反乱の為 に自殺 し、事実上、明の王 朝 は滅亡する。宋応星の卒年 は明 らかではないが、1666年頃 (宋応星、80歳頃)、死去 した と思 われる。

その子供達 は、応星の遺訓 を守 り科挙 を拒絶 し清 に仕 えなかった と言 われている。

(師友の存在) さて、その ような時代 を生 きた宋応星 に影響 を与 えた師友 には どの ような人物がいる のだろうか。清書星氏の 『宋応星評伝』 を中心 に、特 に影響があ った と思われる節 目敬 ・妾 日広 ・玲 紹煙 について紹介 したい と思 う.。

く節 目敬) :し558‑‑1636O字元直、号硝石。南 昌の人。1589年 (万暦一七)挙人、1592年 (万暦二〇) 進士 となる。人生の大半 を教育事業 に捧げた。「一時名公巨卿、多出其 門」、「四方開業者、履満戸外」

だった と言われる。1617年 (万暦 四五)、好 日敬が江西省九江府慮 山の 自鹿洞書 院の洞主 となってか ら、

宋応星 は兄応昇や好 日敬 を慕 う者 たち と共 に重 ねて白鹿洞書 院 (注4L) へ行 った。節 目敬 は著作 と し

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