茨城大学教育学部紀要(教育科学)33号(1984)1−15
大学教育における授業方法改善の可能性を求めて 一同一時空性原理を越えて一
、 小川 正賢* 圏
(1983年9月30日受理)
Is It Possible to Improve Traditional College Teaching in Japan?
Over Principle of Coexistence of the Teacher and Learners in Teaching
Masakata OGAwA・
(Received September 30,1983)
Abstract
In Japanese colleges and universities, the main method of instruction has been the traditional way of teaching Iike lecturing at large classrooms. It is true that Japanese college teachers are hindered from the recent progress of research in college teaching by the lack of no training program for college teaching in Japan. The main reason why Japan.falls seriously behind United States and European countries in college teaching lies in a traditionally fixed idea of Japanese teachers that the teacher and learners must coexist in the same dassroom during the teaching. I ca11 this a principle of coexistence of the
teacher and Iearners in teaching. Methodological considerations suggest that the traditional principle does not fit to our recent situations in college teach一 ing. Such new instructional methods as Spatiotemporal separation of teaching and Learning , Segmentalization of courses , Nested courses ,and Partici一
pation of learners in course design are proposed. 甲
1 は じ め に
「大学の大衆化」が論じられるようになって久しいが,大学の果たす社会的機能の変化や,大学 生の学習意欲,目的意識の欠落,および大学生数の増大などの諸要因によって,大学教育における
*茨城大学教育学部理科教育研究室Laboratory of Science Education, Faculty of Education,. Ibaraki
Universiもy.
従来の授業方法が十分に機能しなくなってきている。
欧米においては,すでに大学教育における授業方法の研究が一つの研究分野として確立されて おり,いくつかの研究センター1)も存在し,また大学における授業方法に関する紹介2)や著作3)等 も表わされている。近年,日本においても,ようやく大学教育における授業方法改善に積極的にと り組むべきであるという主張4)や実践5)が見られるようになり,大学教育に携わる教官の個人レベ ルでの授業方法改善が集約,組織化される方向6)が見えはじめてきている。このような授業方法改 善の動きが組織化されるためには,組織化の基盤となるべき枠組をさぐる方法論的考察が必要であ
るにもかかわらず,現状ではそのような方法論的分析や検討はほとんど行なわれていなかったとい
えよう。
ところで,筆者の属する教育養成大学・学部における教科教育(理科教育)関係の授業をどう改 善するかについては,新制大学発足以来,たえず研究が続けられてきている。あるものは,教員養 成カリキュラム全般の改善の文脈から7),またあるものは小学校教員養成課程のカリキュラム問題 の文脈から8),そしてまた個別教科教育学の構想の文脈から9)それぞれ種々の検討が試みられ実践
もされてきている。しかしながら,これらの研究に共通するのは,何を教えるべきかという授業内 容の検討に終始している点であり,授業方法の改善に視点をおいた研究ではないのである。教職専 門科目である「理科教育法」や「理科教材研究」の授業では,例えば,「受講生の人数が多すぎて キメ細かな指導ができない」10)という現状を「助手の定員化」11)などの教官の増員という方向に解 決策を求める傾向があるが,それと平行して現状の教育環境下で,授業方法を根本的に検討して対 策を見出そうとする積極的な試みは認められないのである。
そこで本論においては,授業方法を改善するための第一歩として,日本の大学教育(とりわけ初 等中等教育との関係が深い,教員養成大学・学部の教科教育)における授業や授業方法の暗黙的前 提になっていると考えられる根本原理(教授者と学習者の同一時空性原理)をとりあげ.これを批 判的に検討し,その克服の可能性について考察してみることにする。ただし,本論においては,議 論を簡潔にするために授業方法を考察する際本来切り離せない授業目標,授業内容等との関連をあ えて切り離し,授業方法のみをとりあげるアプローチを採用した。なぜなら,授業方法のもつ固有 の方法論的問題を検討して得られる授業方法の新しい枠組に基づいて,授業目標,授業内容等との 関連を検討する,いわば二段構えの方法をとることが合理的であると判断したためである。
H 大学教育における授業概念の検討
授業とは何であろうか。いくつかの定義を見てみることにする。
「学校における陶治と教育,教授と学習を集中的に実現する主要な教育形態」,2)
「子どもが将来,一人前の人間として,人々とともにしあわせな社会生活を営んでいく上に 必要と考えられる知識・技能・態度などを,選択された教材や教具・資料などを使って,
計画的に教え授けたり,鍛練したり,,育てあげていこうとする営み」13)
「教師が所定の計画にもとづき,教科書その他の資料を媒介として,被教育者に所要の知識・
技能などを習得させ,向上させる教育活動」14)
小川:大学教育における授業方法改善の可能性を求めて 3
このような授業概念は本来,初等中等教育における授業を念頭においたものであり,高等教育で あるところの大学教育におけるそれとの異同については検討しておく必要がある。大学教育実践の 場において授業という用語が意識的に用いられるようになったのは,初等中等教育レベルにおける 授業研究が盛んになり,教育工学や教授学が一定の成果をあげるようになってから後のことである
と思われる。
それでは,大学教育における授業と初等中等教育におけるそれとを同義に用いていいものであろ うか。この点については授業という用語の一般性ゆえに,従来あまり問題視されてこなかった。そ こで初等中等教育と大学教育の授業を法的制度の側面から比較してみることにする。衆知のごとく,
大学教育では単位制を採用しているので,初等中等教育の代表として同じく単位制をとる高等学校 教育をとりあげ,両者の単位制を比較する方法で,授業の異同を検討してみることにする。
高等学校における単位については,高等学校学習指導要領の第2款の1の備考の1に,単位の計 算として次のように規定されている。
「単位については,1単位時間を50分とし,1個学年35単位時間の授業を1単位として計算 するものとする。」
一方,大学における単位については,大学設置基準第七章単位の第26条に次のように規定されている。
「各授業科目の単位教は,1単位の履習時間を教室内及び教室外を合わせて45時間とし,次 の基準により計算するものとする。(以下省略)」
高等学校においては,教室内の学習時間数を単位計算の基本とするのに対して,大学においては,
「教室内及び教室外を合わせた」履習時間数を単位計算の基本としているのである。このことは,
大学教育における授業の概念が高等学校以下の授業概念と根本的に異ならざるを得ない根拠となる。
大学教育における授業は,初等中等教育におけるそれよりも,時間的空間的に広範な領域を包括す るはずである。初等中等教育においては,教師の教授責任は,制度上は児童生徒の教室内活動の範 囲内に限定されるが,大学教育においては,学生の教室内活動にとどまらず教室外活動にも教授責 任が及ぶのである。初等中等教育における「宿題」概念と大学教育における,「教室外活動」概念は 制度的に全く異質なものであることに注意しなくてはならない。
大学で授業という用語を用いるとき,無意識的に学生の教室内活動を念頭におきやすい。たとえ ば,授業計画や授業目標を設定する場合に,半期15回分とか通年30回分とかの計画や目標を考える 一般的傾向は,上述の意味から誤りであるといえよう。ある授業科目の目標達成を2単位で行なう ならば,授業計画は,学生の教室内及び教室外を合わせた履習時間90時間を基準にしてたてられる
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べきなのである。従って,大学教育における授業とは,教室内活動プラス教室外活動のいわば学生
o ● ● o ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
の全学習過程に対する教育活動とでも言えよう。
このように大学教育における授業概念が初等中等教育のそれと異なっていることが十分に理解さ
れずまた実施されていない状況で,初等中等教育における授業研究や授業分析の方法や成果を直接
的に大学教育に導入することには方法論的な問題が残る。なぜなら,そのことによって現在の大学
教育における「授業の形骸化」15)にさらに拍車をかける可能性があるからである。教官の耳目がま
すます教室内活動にのみ集中し,大学教育における授業の本質面たる教室内活動プラス教室外活動
の側面を見落すことになりかねないのである。もちろん,初等中等教育における授業研究や授業分
析の方法や成果を導入すべきでないと言うつもりはない。方法論的検討を経て大学教育の本来の姿
に適するように改善されて導入されるべきなのである。
大学教育における授業を考える場合に重要なことは,学習者の主体的とり組みが「教室内及び教 室外を合わせて」という形で制度化されている点にある。大学教育における授業を上述のように理 解したうえで,初等中等教育の授業研究や授業分析,教育工学,教授学等の方法や成果を大学教育 の授業(すなわち,教室内活動プラス教室外活動)に適用していくことが大切になってくる。
皿 授業概念に潜む教授者と学習者の同一時空性原理をめぐって
大学教育における授業は「教室内及び教室外を合わせた」教育活動であることを前章で指摘した が,現実には,「教室外」の部分はほとんど機能していない。大学四年間に取得する単位数は,「学 生が毎週48時間を学科目の学習にあて,これを4年間継続したとすると,128単位となる。毎日
9時間を学科目の学習にあてるとしても144単位」16)であるはずにもかかわらず,たとえば,教員 養成大学・学部の学生(とりわけ,小学校教員養成課程の学生)単位取得状況調査17)に見られる
ように,161単位以上を履修する学生の割合が62.4%,さらに181単位以上を履修する学生が全 体の約20%もいるということが,その証拠である。この現象は新制大学発足以降,今日まで依然と
して続いている。「教室内及び教室外を合わせた」教育活動という原則は知られながら18),今日 までこのような状況が続いている原因は何であろうか。旧大学制度の単位制の原則19)がなお実質 的に生き残っている原因は何であろうか。筆者は,ここでこの原因の主たるものとして,大学教官 のみならず広く教育関係者の意識の中に,潜在的に存在し,さらには広く社会通念化していると考 えられる一つの原理を指摘してみたい。そしてこの原理をキーとして,大学教育の授業方法改善の 新しい方法論的展開の方向を探ろうと考える。
重松鷹泰は授業について次のような説明をしている。
「実務的な言葉であって,教師および学習者を一定時間一定の場所に拘束して活動させるこ
とである。2° 」
おそらく,初等中等教育の授業を念頭においての考え方であろうと思うが,これは大学教育を考 える場合に極めて重要な指摘であると考える。ここでは,「一定時間一定の場所に拘束して」とい う表現で,「教師および学習者」が時空的に拘束されることを前提としている。この場合,「教師」
側の拘束される「時空」と丁学習者」側の拘束される「時空」の異同についての解釈は必ずしも一 義的ではないが,「同一時空」と解釈するのが妥当であろう。よって上述の重松氏の授業の説明は 次のように言い換えられよう。
「授業とは,教授者と学習者を同一時間同一の場所に拘束して活動させることである。」
このことを以後「教授者と学習者の同一時空性原理」あるいは,単に「同一時空性原理」と呼ぶ ことにする。
多くの教育関係者の意識に潜在的に存在すると思われる原理とはこのことである。また大学教育
において,上述のごとく,「教室内及び教室外を合わせた」教育活動が機能していない原因は,こ
の「同一時空性原理」が教授者(あるいは,学習者をも含めて)に働いているからであると考えら
れるのである。すなわち,授業は教授者と学習者が同時に同一場所(すなわち教室)に存在しては
小川:大学教育における授業方法改善の可能性を求めて 5
じめて成立するのであるから,「教室外(すなわち学生の自学自習)」は,授業ではないという潜 在意識があるように思われるのである。
この原理を何らかの方法論的考察を加えないままに了解することこそ,大学教育(場合によって は初等中等教育をも含む)の授業方法の根本的検討をはばみ,授業方法改善の方向の展望を妨げる ものであると考える。ある教師が授業場面を想定する場合,教授者がいて学習者がいることを前提 とするのであれば,この原理を超えた授業方法改善は,その成否は別として,その方向性さえ否定 されかねないのである。しかも,この同一時空性原理を通してしか授業が考えられないということ が広く社会通念化しているとしたら,この原理を越えた授業方法改善の方向は,社会的に葬り去ら れていることになるのである。
大学教育においてこの原理が機能していると思われる具体例としては,さきに述べた,「教室内 及び教室外を合わせた」教育活動の形骸化のほかに,どのようなことがあげられるであろうか。
一つには,学生の授業への出欠に関する教授者,学習者の態度が考えられる。教授者について言 えば,学生の出欠をチェックして,それを評価(あるいは評定である場合のほうが多いかもしれな い。)に利用する態度の裏には,明らかに教授者と学習者は同一時空に存在していなければならない という思想が秘んでいる。たとえ,ある学生が当該授業科目の目標をその授業に出席せずに達成し たとしても授業への出席がないがゆえにその授業科目の単位認定が行なわれないという事例は,想 像に難くない。もっとも現実的には,大学教育において授業科目の目標が完全な行動目標として提 示される場合はほとんどないであろうから,単位認定が必ずしも目標達成と連動しているわけでは
あるまいが。また逆に出欠をチェックしない教授者においても授業に出席する学生が少ない場合に は不快感は拭えない。その原因はやはりこの原理が教授者の意識のなかに潜在的に存在するからで
あろう。
授業の出席に関する学習者の態度に目を転ずると,授業を欠席することに対するうしろめたさが ある。その日の授業の目標がすでに学習者自身のなかで達成されているものであったり,あるいは 自学自習で達成可能であれば,授業に出席する必要はないであろうがそれでもこのうしろめたさが あるとすれば,その起源は同一時空性原理に求められよう。
第二に,上述の例と関連するが,教授者,学習者の授業目標に対する態度が挙げられる。大学教 育における授業目標は不明瞭である場合が多い。たとえば,各大学・学部が学生に履習の手引の類 を配布しているが,このなかにきまって「授業内容」という欄がある。そこには「授業目標」はほ とんど述べられないのである。また,15回予定の授業の目標が12回で達成された場合には,(もっと も,授業目標が十分に検討されていればこのような事態にはならないのだが。)堂々と授業の終了宣 言できず,別の内容を補充して15回の授業を消化したほうがいいとする意識がある。これらも授業
目標に対する認識不足が主因ではあるが,予定回数の授業をこなす。つまり予定回数分だけは,学 生と教室に拘束されるべきであるという潜在意識が働いていると考えられる。
さらに,大学教育において一般化してきた多人数教育に対する教官の対応姿勢も同様である。多
人数教育改善の方向として小クラス化が叫ばれ,小クラス化を行なうと教官一人あたりの担当授業
コマ数が増加するがゆえに教官の増員が必要という論が一般的である。ここで見られる,授業コマ
数増加イコール教官の授業負担増加という発想は,同一時空性原理に支配されていると考えられる
のである。
最後に,大学設置基準(昭和31年文部省令第28号)に現われている同一時空性原理について指摘 しておきたい。
大学設置基準の第八章授業の第30条をとりあげてみる。
「授業は,講義,実験・実習,演習若しくは実技のいずれかにより又はこれらの併用により 行なうものとする。」
という形で授業の方法が規定されている。
ところで,大学における「授業の方法」はいかなる歴史的経緯を経て上述のごとく規定されたの であろうか。田中征男21)の研究によれば,新制大学の単位制度が成立する過程で,大学設立基準設 定協議会の理科系分科会が「大学の授業形態を講義,演習,実験・実習の三種類に区分し,一単位 の授業時数を1対2対3の比率に定めるという方針」を考案したという。またこれは,学士号を与え
るための最低要求単位数が文科系分科会案では,120単位であったのに対し,理科系分科会案で は160単位であったので,理科系の演習や実験・実習の時間を減らさぬままで,単位数を文科系 分科会案に統一しようとする考えから成立した案であったという。このことから,次の2点が明確 になる。すなわち,「大学の授業形態としての講義,演習,実験・実習」というものが,授業方法 の面で充分な検討を経て明文化されたものではないという点と,「講義,演習,実験・実習」とい う用語の示す概念は旧大学制度におけるそれを前提としているという点である。特に,これらの方 法がいずれも教授者と学習者を同一時間同一の場所に拘束するものである点は,旧大学制度の教育 方法の特性を示すものであり,また同一時空性原理が潜在していたことを示すことにもなる。
大学設置基準は昭和45年に改正されたが,その改正前に大学設置基準に対して各方面から種々の 提言がなされた。そのなかで国立大学協会が昭和41年に発表した意見書22)には,「元来,授業の方 法,形態は専門の分野によっても異なっており,きわめて複雑,多様である。省令基準によってす べてを画一的に規定するのは無理であり,また立法的にも問題がある。」という記述がある。 ここ でどのような新しい授業方法,形態を念頭におくか定かではないが,同一時空性原理を越える授業 方法を考えているわけではないことは後述する。
次に同じ大学設置基準の第七章単位の第26条,単位の計算方法をとりあげてみる。
「各授業科目の単位数は,一単位の履習時間を教室内及び教室外を合わせて四十五時間とし,
次の基準により計算するものとする。
一・ u義については,教室内における一時間の講義に対して教室外における二時間の準備 のための学修を必要とするものとし,毎週一時間十五週の講義をもって一単位とする。
ただし,教室外の準備のための学修が基準どおりできない事情があるとき又は教育効 果を考慮して必要があるときは,一時間半又は二時間の講義に対してそれぞれ教室外 における一時間半又は一時間の準備のための学修を必要とするものとし,毎週一時間 半又は二時間十五週の講義をもって一単位とすることができる。
二.演習については,教室内における二時間の演習に対して教室外における一時間の準備 のための学修を必要とするものとし,毎週二時間十五週の演習をもって一単位とする。
ただし,授業科目の種類によっては,教室外の準備のための学修が基準どおりできな
い事情があるときは,一時間の演習に対して教室外における二時間の準備のための学
修を必要とするものとし,毎週一時間十五週の演習をもって一単位とすることができ
舳
小川:大学教育における授業方法改善の可能性を求めて 7
る。
三 化学実験機械実験,教育実習,農場実習,工作実習,機械製図及び体育実技等の授 業については,学修は,すべて実験室,実習室等で行なわれるものとし,毎週三時間 十五週の実験又は実習をもって一単位とする。」
「一単位の履習時間を教室内及び教室外を合わせて四十五時間とし」という原則は,すでに述べ たように形骸化しているが,法制上は同一時空性原理は存在していないように思われる。しかしな がら,一〜三号に挙げられている条文をみると,同一時空性原理が明らかに潜んでいる。それは,
教室内と教室外の履習時間の比率をながめるとわかる。実験・実習等は教室内の履習のみで単位が 認定されるにもかかわらず逆の教室外の履習のみでは単位は認定されないのである。たとえば,あ
る授業科目の目標が知識理解のみであるような場合,教科書等を用いた自学自習のみで目標が達成 されるとしても,これは授業として認められず,当然単位認定はされないことになるのである。上 述した国立大学協会の意見書にもこれに関連した記述が見られる。23)「大学の行なう最少授業時間 は(1)に定める標準時間の%以上とする。(以下略)」((1)とは,昭和40年に大学設置基準等研究協議会 が文部大臣にあてた答申「大学設置基準の改善等について」のなかで大学設置基準改善要綱を示し ており,そのVI「単位について」の2の(1)「一単位の履習時間は,授業時間及び自学自習の時間を合 わせ四十五時間を標準とする」のことを指す。)これも,大学で行なう授業時間は標準履習時間の%
未満ではならないというのであるから,やはり同一時空性原理が機能していると言わざるを得ない のである。
IV 同一時空性原理を越えて一法的側面一
前章までに,大学教育における授業概念は,初等中等教育におけるそれと異なり,「教室内及び 教室外を合わせた」教育活動を意味するものであるにもかかわらず,初等中等教育の授業概念に潜 在する「教授者と学習者は同一時間同一場所に拘束されて活動する」という同一時空性原理が大学 教育においても機能していることを指摘してきた。そこで本章においては,同一時空性原理をのり 越えた授業方法が原則的に可能か否かを法的側面から検討してみることにする。誤解を避けるため に付け加えるが,同一時空性原理を否定する意図はない。ただ同一時空性原理以外にも授業を成立 せしめる原理がないかどうか検討する方策として,同一時空性原理の相対化を試みるのである。
そもそも,同一時空性原理の起源は,教育の起源と同一ではないかと考えられる。人から人へ情 報が伝達される場合に,文字が発明されるまでは,(すなわち,情報の記録が可能となるまでは,)口 頭による伝達が唯一の方法であったと思われる。この形態こそ教育の始源的形態,同一時空原理の 起源であるといえよう。その時代には情報伝達の方法がこれしかないわけであるから,この原理は 検討の余地もない絶対的なものであった。しかし今日のような情報社会においては,情報の収集・
貯蔵・伝達・操作・管理などの面で多様な方法が発達しているので教育活動の場においても同一時 空性原理にこだわる必然性はないはずである。同一時空性原理は絶対的である根拠はもはや存 在しないのである。
では,同一時空性原理の絶対性は現実の制度上克服できるであろうか。そこで法的制度の側面か
らその可能性を探ってみることにする。
これまでに大学設置基準の規定のなかに同一時空性原理が潜んでいることを指摘したが,ここ でもう一つ最近成立した文部省令「大学通信教育設置基準(昭和56年文部省令第33号)」を取り上げ て検討してみることにする。大学通信教育は,従来は,省令がなく大学基準協会が昭和22年に決定 した大学通信教育基準が指針として用いられてきたが,放送大学構想が具体化してきたことを受け て,大学通信教育の設置基準として本省令が施行されたのである。通常の大学教育(通学課程)と 大学通信教育の関係を考える場合,大学基準協会が昭和22年に決定した大学通信教育基準の次の二 項を考慮すべきである。その一つは,第2,基準の1の「大学の通信教育は,通学課程と同一水準
においてこれを行わなければならない。」であり,もう一つは,同じく第2,基準の11の「通信課程 の修得単位は,通学課程の修得単位と互に転換できるものとする。」である。ここで述べられている 24)
摧Oは,大学教育における通学課程と通信課程は質的に同等であることを示すものと解釈できる。
このことは,昭和56年9月に大学設置審議会が出した答申「大学通信教育の基準について」の中に も「大学における単位は,すべての大学を通じて共通の統一的基準によって計算され,同一の水準 を確保すべきものである。」という形で表明されている。
この理念を前提としたうえで,大学通信教育設置基準の第3条,「授業の方法等」と第5条,「単 位の計算方法」の両規定を検討することにする。
「第3条 授業は,印刷教材を送付若しくは指定し,主としてこれにより学修させる授業
(以下「印刷教材による授業」という。),主として放送その他これに準ずるものの視聴によ り学修させる授業(以下「放送授業」という。)若しくは大学設置基準(昭和31年文部省令 第28号)第30条の方法による授業(以下「面接授業」という。)のいずれかにより又はこれ らの併用により行うものとする。
2.印刷教材による授業及び放送授業の実施に当たっては,添削等による指導を併せ行な うものとする。」
「第5条 各授業科目の単位数は,1単位の履習時間を45時間とし,次の基準により計算す るものとする。
一. ウ材による授業については,45時間の学修を必要とする印刷教材の学修をもって 1単位とする。
二.放送授業については,1時間の放送授業に対して2時間の準備のための学修を必要と するものとし,15時間の放送授業をもって1単位とする。
三.面接授業については,大学設置基準第26条各号の定めるところによる。」
これを前述の大学設置基準の規定と比較すると, 「印刷教材による授業」「放送授業」の二種類 の新しい授業方法を認めている点に特徴がある。特に「印刷教材による授業」はいわゆる自学自習 スタイルの学習法で,たとえ第3条第2項の規定があるとしても,原則的には,学習活動のすべて の時間にわたって,「教授者と学習者の同一時空性原理」を大きく踏み出した授業方法であるとい えよう。また「放送授業」も,放送がVTRの映像を用いることを考えれば,厳密には同一時空性 原理を越えた授業方法である。大学通信教育では,卒業に必要な単位をすべて「印刷教材による授 業」で取得することは大学通信教育設置基準の第6条の規定上不可能ではあるが,授業方法として,
「印刷教材による授業」や「放送授業」を認めていること自体,同一時空性原理を克服するものと
小川:大学教育における授業方法改善の可能性を求めて 9
して有意義である。前述のごとく,大学の通学課程と通信課程とは同一水準にあるべきであるとす れば,授業方法として「印刷教材による授業」や「放送授業」を通信課程にのみ認める根拠はない はずである。これらの授業方法を通学課程に導入することは,運用面で一定の考慮を加えれば,制 度的に不可能ではないのではあるまいか。その場合,大学設置基準や大学通信教育設置基準におけ
る授業方法や単位計算の規定は統一的に修正されるべきであろう。
筆者は,単位計算については,「各授業科目の単位数は,一単位の履習時間を45時間とする。」
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という規定だけでよいと考える。佐々木重雄が新制大学の単位制の原則としてあげている「毎週三時
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ヤ15週の勉学活動を一単位とする(傍点は筆者による。)。」25)という規定も授業方法に制限をつける 可能性が大きいので賛同しかねる。また,授業の方法については,先に言及した国立大学協会の意 見書に見られるように,省令による規定をしないほうが,将来にわたる授業方法の改善や進歩に自 由に対応できるのではなかろうかと考える。個々の授業科目にどのような授業方法を採用するか は,各教官が授業目標や授業内容との関連において決定し,最終的には教授会レベルで認定してい くことが,大学の自治の精神にも合致する方法であろう。以上見てきたことから,法的には,同一 時空性原理を越えた授業が成立する可能性がすでに芽ばえていると考えてよかろうと思う。
V 同一時空性原理を越えて一授業方法展望一
では,具体的には「教授者と学習者の同一時空性原理」を越えることでどのような授業方法が可 能になるであろうか。本章では,この点についてあくまでも方法論的考察の範囲内で論じてみるこ
とにする。
A.教育機能の財化
矢野真和26)は,教育経済学の立場から,「教育は財ではなく,サービスである」という視点を示 し,教授一学習過程のサービスモデルを提示している。その中で彼は,井原哲夫27)の「サービスに は在庫が存在しない」という考えを紹介し,サービスには空間的制約と時間的制約が存在すると指 摘する。すなわち,教育というサービスも空間と時間に大きな制約を受けていると言うのである。
さらに,放送大学にspace−free, time−freeという特徴をもたせようとするのは,教育サービスを財 として提供しようとする試みになると述べ,ビデオカセットの普及による財型の教育が従来の教育 サービスと匹敵する効果をもたらすかどうかは大きた問題であり,空間的時間的制約を取り除くこ とに成功すれば,教育の形態は一一変することになろうとも述べている。
矢野氏の論旨は教授=学習過程のサービスモデルを提示することにあるけれども,上述の指摘は 極めて示唆に富んでいる。筆者の主張する同一時空性原理を越えることは,矢野氏の述べるサービ
スから財への転換と重複する部分が多いと考えられる。そこでまず,同一時空性原理を越える一つ の方法として,矢野氏のいう「教育の財化」という立場から授業方法改善を考察してみることにす
る。
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