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天皇の所謂「象徴としての行為_ーについて
円 藤 真
1 は し が き 2 背 景 3 学 説Ⅰ 4 学 説ⅠⅠ 5 批 判 6 む す ぴ
1. は し が き
「第■一・回国会以来,開会式には,天皇陛下がおでましになり,陛下から衆議 院及び参議院の議員に御言葉を賜わり,御言葉は,本院議長がこれをお受けす
(1)
る」ことが,衆議院の先例となって:いる。その「おことば」の申にほ例えば 1粥2年1月22日のそれの様に.かなり政治的な内容が含まれていた場合もある。
日く、「本日,第18回国会の開会式に臨み,全国民を代表する諸君とともに,−
堂に会することほ,わたくしの音びとするところであります。平和条約につい ては,すでに・国会の承認を経て−,批准を終り,効力の発生を待つばかりとなっ たことほ,諸君とともに・,喜びに堪えません。(中略)わたくしは,全国民諸讃 が,6年余の長き紅わたりわが国に寄せられた連合諸国の好意と援助とに対す
る感謝の念を新たに・しつつ,新日本建翠の抱負と誇りをもって,今後の多くの
(2) 困難を克服する不動の決意をさら紅固めることを望むものであります(後略).」。
日本国憲法の定めるところによれば,天皇は日本国および日本国民統合の象
(1)衆議院事務局編 衆議院先例集,昭和30年2月版,pり15
(2)宮沢俊義 日本国憲法,昭和30年,pl・148紅拠る。この「おことぼ」はその内容において
甚だ政治的性格をもっている。平和条約や連合諸国の好意と援助紅ついて,国民の問に
は激しく対立する評価があり,国会でも争われたからである。国会開会式でのおことぼ
は・,このような政治的性格をもったものはかりではなく,単なる儀礼的形式的なものが
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徴として,内閣の助言と承認のもとに,第6条及び第7条所定の国事に関する 行為のみを行うのであって:,国政紅関する権能を一切有しないものとされる。
国会の開会式への出席及び・そこでの「おこ.とば」は憲法所定の国事行為ではな いが,それらはどの様な性質の行為であり,又,憲法上是認せられるペきもの であるかどうか,もし是認すべきものと解するならば憲法上いかなる根拠に.も とづくものであろうか。
天皇が個人として−の立場において−私的行為を為し得ることほ勿論であり,又,
天皇が国家機関として憲法の定める国事に関する行為を行い得ることに.も問題 はない。ところで,若干の論者は.,天皇の為し得る行為は以上の二種類紅尽き るものではなく,それら以外に,象徴としてこの立場において二公的性格の行為を なし得るものと考え,国会の開会式への出席や「おことば」等ほその例であると
(8)
論ずる。本稿はこ.の学説を検討し批判することを直接の目的とサーるものである。
2.背
天皇主権に立脚し,神聖不可侵とされた天皇が,国の元首として統治権を総摸 し大幅な大権事項を保有していた明治憲法時代の天皇の地位ほ,日本国憲法紅 よって∴根本的に変更されるに至った。主権は国民の手に.移り,天皇の地他はそ の国民の総意に.基づいて存立するものとなり,又,神聖不可億の規定も削除せ られた。天皇は日本国および日本国民統合の象徴であり,内閣の助言と承認の
かなり多いことは事実であろう。帝国議会の開院式に天皇が臨御して別語を賜うこと は,算w回帝国議会以来の先例となっており,(衆議院事務局編 衆議院先例彙幕,大正 元年12月版17頁紅「開院ハ陛下貴族院二臨御親レク開酷ノ式ヲ行ノ、セラル 開院式エ ハ貴族院及衆議院ノ各員二刺語ヲ賜ヒ貴族院議長之ヲ拝受ス」と記してある)日本国意 法に.よる天皇の地位の根本的変化にも拘らず,外形的に見る限り帝国議会以来の先例が
そのまゝ国会でも踏襲されて現在に至っているのである。「おことば」がその内容におい て.格別政治的なものでない場合紅も,天皇が国会の開会式に出席して,国権の最高機関
の構成員に対し,何等かの要望を開陳するということ自体が,何程かの政治的意義を担 い得ること勿論である。
(3)酒宮四郎 天皇の行為の性質(酒宮・佐藤編 憲法演習所収),黒田了−・天皇(法学 セミナL−37号),結城光太郎
第」巻所収),佐藤功 天皇(別冊汐・ユリスト法学教室 第5号),高辻正巳 憲法論
弧,一周一億天皇(法学セミナ■・−50号),等参覇。
天皇の所謂「象徴としての行為」について ・−・β − 333
下に.憲法の定める国事に関する行為のみを行う儀礼的機関であって,国政に.関 する権能は一朝もたない。天皇ほ,もはや,君主でもなく,又,元首でもない
と解せられる。天皇は,主権者及び統治権の総撰者としての政治的権威を全く
(4)
失ったのあならず,1946年元旦の所謂人間天皇の宣言及び憲法における政教分 離の徹底によって宗教的権威をも失うに至った。しかしながら,憲法によって 天皇の非権力化が行われたという事ほ,そ\れによって直ちに天皇が政治的にネ グリデブルな存在になったと解することはできない。「天皇の地舷が形式的なも の粧すぎないか,実質的なものでもあり得るかは,憲法の文字だけではきまら ない問題である。もし国民の,そしてまた,国民の代表者としての地位を確保 した政府の,政治的意図と,政治的心理とが,象徴しとての天皇に,重大な役 割りを与えようとするものである場合に.ほ,憲法の定めた形式的儀礼的な性格 規定紅もかかわらず,天皇ほそのよう紅実質的なものでもあり得るであろう。
そしてそどにこそ,まさしく,日本憲法の定めた天皇制の本質があるといわな
(5)
ければならぬのであろう」。鵜飼教授のこの指摘ほまったく正当であった。天皇 誕生日に参賀のためこ蚕橋前につめかける「国民」と,歴代の保守党「政府」
の「政治的心理と政治的意図」が,「象徴天皇」を明治憲法的意識によって次第 に拡大した結果,天皇は何よりも秩序と伝統を体現するものとなって,進歩と革 新に.対抗するシンボルとなるに至ったのである。そして,このような天皇こそ 合衆国政貯の強く期待するところであったことほ,合衆国の国務・陸・海三省
(8)
調整委員会が1946年4月頃マッカー・サ−\元帥に伝達した秘密指令が明かにする 通りである。日く,「マッカ−サ・−・元帥ほ立憲君主制の発展並に・天皇制の維持に ついて日本国民を援助するよう指令される。天皇制に対する直接の加撃ほ,民 主的要素を弱め,反対に共産主義ならびに・軍国主義の両極端を強化する。故
(4)1946年元旦の詔書は,総司令部の示唆にもとづいて幣原首相が原稿を執筆したといわ れでいるが,「朕と爾ら国民とのあいだの紐帯は,終始相互の信頼と敬愛と紅よりてむす
ぼれ,単なる神話と伝説とによりて生ぜるものに非ず。天皇をもって現御神と(する)
架空なる観念にもとずくものにあらず」と述べて天皇自らその神格を公に否定した。
(5)鵜飼信成,憲法匿おける天皇の地位,「思想_11952年6月号pl・11
(6)マーク・ゲイントニッボン日記」昭和26年,下巻pp・17−8
解38巻 第4号 334
−・4 −
に,絵司令官は,天皇の世望をひろめ且つ人間化することを極秘裡に援助する よう命令される。以上のこと咋月本国民紅感知されてほならない」と。・そ■しで,
こ.の占領軍の極秘の援助の ̄F■に天皇の世望をひろめる横棒的努力ほ,二つの方
(7)
向をもつことになったのである。一つほ,「凝交的君主」としての天皇の役割の 強化であり,哲ては雲の上に祭りあげられていた天皇と−・般国民との直接の接 触によっで人間的親近感を調達することを目的とした。「人間天皇」乃至ほ所謂
(8)
「アコガレの的」としての天虫の印象を定着せしめ,且つこの様な天皇を通じ て伝統的な価値体系の存続強化をはからんとするのである。他の・−・つは,天皇 を事実上元首的に取扱うこ.とによって,諸外国元首の有するprestigeが天皇 紅投影することを期待し,未曽有の敗戦,米軍占領,戦犯問題等を通じて失墜 した天皇の権威を補強せんとする.のである。
前者に.屈するものとしてほ,地方巡幸,皇族の冠婚葬祭(良明垂后の葬儀,
皇太子の結婚式等)周民体育大会やオリンピック大会,植樹祭等々ぺの出席な どがあり,又,逆の立場から紀元節復活運動や皇居滴掃団の線描等がある。19 52年6月8日の伊勢神宮参拝や同年10月16日の靖国神社参拝は特別の意味をも つであろう。
後者に属するものとしてほ,1948年12月4日のトル−マン合衆国大統領宛メ ッセ−汐,ム1952年英国女王戴冠式への招待を受諾して:名代として皇太子を差遣 したこと,更に,日米安全保障条約改訂に当りアイゼン入ワL−・合衆国大統領訪 日の際には天皇が空港に出迎えて大統領と共に都内をパレ・−ドする予定であっ たこと,等が・その例としてあげられよう。更に,憲政欝7条第5号及び第8号 の定める天皇の認証事項の中,全権委任状,大使及び公使の信任状,批准書,
及び領事官の委任状等に対する認証文の形式は,それらの文書があたかも天皇
(7)聯合国最高司令部民政局「日本の新憲法」,国家学会雑誌65巻1号p・−391一天皇の役割 は,社交的な君主のそれであり,それ以上ではない」。 ソウシヤル●モナアク
(8)日本国憲法学案審議の帝国議会において金森国務大臣は屡々「日本の国体と云うもの
は謂わば憧れの中心として天皇を基本としつつ国民が統合して居ると云う所に根底
があると考えます。その点に於きましても萄末も国体は変らないのであります」という
ような見解を述べた。例えば,清水伸「逐条日本国憲法審議録」第劇巻,p・862
天皇の所謂「象徴としての行為」について − β − 335
の発した文書であるような体裁をとっていることから,天皇が対外的代表権を
(9) もつ元首であるかの如き錯覚を生ぜしめる憐れが充分にある。
この様な天皇の新しい役割に対応し,かくの如き様々の既成事実を法的に説 明し合理化する為の法理論が,象徴という独立した固有の地位を天皇に.認め,「
象徴としての行為」という名目で広汎な公的活動範囲を天皇に.保障せんとする
(10)
学説であって,本稿が批判の対象とする所のものに外ならない。
19)批准書及びその認証の形式は,例えば日本国との平和条約について一見れは,次の如く である。
日本国天皇裕仁は,この事を見る各位に.呈示する。
日本国政府は,日本国の全権要員が連合国の全権委員とともに.1951年9月8日紅サン フランシス コ市で署名した日本国との平和条約を閲覧点検し,これな批准する。
ここに日本国患法の規定に・従い,これを認証し,その証拠として,親しく名を著し,
要を鈴せしめる。
昭和 年 月 日 御名御重 奈良において
内閣総理大臣 氏名 官印 外務大 臣 氏名 官印
最初の文登及び天皇の署名が内閣総理大臣.のそれより前に位屈すること其他全体とし て,天皇が自ら発する外交文督である様な体裁をもつ0不用意に「日本国政府」の中に
「日本国天皇裕仁」を読み込む憐れもないではない。憲法改正をテー一々とする或る座談 会の席上宮沢教授ほ次のように云う。「伝えられるところ紅よると,こういう方式(たとえ
ば全権委任状の認証の方式をさす冊円藤)をこしらえたのほ,対外関係において,なるべ
く天皇の権威を傷つけないように・という配慮紅もとづくのだそうです。対外的にこうい う態度をとると,先方もそれに応じて,しだい紀夫皇に主体性をみとめる傾向紅なる。
向うに・は日本の天皇の性質が分りにくい。元首でもなけれは,君主ともいえない天皇の 地位を彼らは正しく理解しないから,今までの習慣から大体天皇を男主もしくは元首で
あるかの如く取り扱う傾きがある。それをこちらでは決して否認しないどころか,むしろ 先方がそういう誤解をするのを誘う,又は少くとも歓迎するような態度に.出る。これほ 大いに.問題とおもいます。結局私が心配しているのほ,今の天皇ほ.法律的に元首でない のに,対外関係の実際に‥おいて実際には元首らしく,君主らしく取り扱われるような既 成事実ができる恐れは.ないか,です。もう少し皮肉に,意地感く考えると,日本の政府な
り保守政見の首脳部が,対外関係においてそういう既成事実をこしらえておいて,それ
に基づいて,こういうわけなんだから,天皇の地位をもう少し強化しないと外国に対し てもかっ
す。」司会宮沢俊義「憲法改正」昭和31年有斐閣,pp.43−4
はα 黒田党教授は,「憲法第一・条は,天皇の「象徴の地位」を規定しているが,これはい ま述べた天皇の消極的地位を集約的に表現したのセある」とし,天皇はその象徴の機能
を発揮するのに十分な「場」を与えられていないと主張する。酒宮教授の所説はその象徴 の「場」を拡張する為の理論だということになろうか。黒田労,天皇の憲法上の地位,
「公法研究」第十号所収,参看。
第38巻 第4号 336 一一 ♂ −
又,以上の様な様々の既成事実は,政府乃至ほ宮内庁当局の憲法運用及びそ の行政解釈にもとづいているので,この点にふれてみたい。憲法調査会第三委 員会の報告書「憲法運用の実際紅ついての調査報告書−−−・天皇・戦争の放棄・
(11)
最高法規一一」は,天皇の国事行為以外の公的行為にかんする実際の取り扱いに ついて.,次の如く述べている。「実際の取り扱いほ,国事行為ほ第6条および第
7条に列挙されているものに限定され,そ・れら以外にほ国事行為は存在しない との解釈に立つ。ただし,このことは,これらの国事行為以外にほ天皇ほ公的 行為をなしえないとするのでほなく,国事行為以外にも天皇の公的行為ほ.存在
し,これらの公的行為ほ国政に・関する権能でない限り,また,内閣の責任の下 に」おいてなされる限り,天皇が行ないうるものと解して運用されている。
たとえば…‥・国会の開会式その他公的な行事への出席やおことば,国内巡幸,
外国元首との親書の交換などが・その例である。これらほ法的効果を伴わない事 実行為であるが純然たる天皇個人の行為でほなく,天皇の象徴たる地位から認 められる公的・国家的な行為であり,それらを憲法が禁止しているものとは解 されないこととなる」と云い,更に,「この間題は,また,天皇甲行為のお世話を する者がだれであるかという点からすれば;公務員たる宮内庁職員と天皇の私 的使用人との職務の分配の問題となり,また,それ紅零する経費の点から見れ ば,宮廷費(−・部ほ行政部費)と内廷発との分配の問題ともなるのであるが,
右に述べたような見解に基づいで,昭和22年3月頃,すなわち,宮内貯法の施 行を控えた時期において,政府部内の行政解釈が定められた。それほ大要次の ごときものであった。皇室には憲法上認められた公的な性格とそうでない私的 な性格とがある。前者から生ずる国家事務紅は問題ほないが,後者から生ずる 私的事項についても・それが国および国民統合の象徴たる天皇の地位の保持紅影 響の深いものである場合には,その私的事項が適切紀行なわれるよう国がお世 話をすべきであるという
然たる私的事項であり,公務員の関与を許さないものとして取り扱ったが,行
(川 憲法調査会報告書付属文章罪五号,忍法調査会第三委員会「憲法運用の実際について
の調査報告書一天皇・戦争の放棄・最高法規−」pp29叫30
337 天皇の所謂「象徴としての行為」について 川 7∴−
幸・謁見・国内巡幸・皇太子の教育などほ.広義の国家事務として宮内庁職員の 手により,かつ,宮廷費をもって処理することとした。これはまた,宮中事務が憲 法に明文の規定のある国事行為陀二限定されるとするならば,それらは現実の天 皇・皇族の公的な活動の一・部分をなすにすぎず,それら以外はすべて天皇・皇族 が個人の資格において自由に行なうものとすることほ,皇室の現実および宮内 府の性格に合致しないものであるという見解に基づいていた」と述べている。
こゝで重要であるのは,憲法が天皇紅ついて−どのように定めているかという ことであって,それが「皇室の現実および宮内府の性格に合致」するかどうか とは関係がない。それは兎も角,上に引用した前半の「実際の取り扱い」と,
後半の「政府部内の行政解釈」との間には微妙なくいちがいがある。例えば,
天皇の国内巡幸は,前者によれば「天皇の象徴たる地位から認められる一公的・
国家的な行為」であるが,後者によれば「皇室の私的な性格」「から生ずる私 的事項」であるが,「象徴たる天皇の地位の保持に影響の深いものである」と解 する。即ち,前者に.よれば,天皇の国内巡幸ほ,意法第一・粂にその根拠をもつ 天皇の象徴たる地位から当然に導き出される公的行為であると見られるが,後 者に.よれば,国内巡幸略その行為の性質として−はあくまでも私的行為であり,
従って内閣や宮内庁が本来ほ関与すべからざるものではあるが,ただそ・の行為
●●●
が象徴たる天皇の地位の保持に深く影響するものであるととに屈み特に例外的
に・「国が挙世話」している紅すぎない。しかしながら,何れにしても,憲法の
定める国事行為と「純然たる私的事項」との中間に或る範囲の「公的・国家的 な行為」の存在すべきことが認められており,その根拠として天皇が象徴であ ることと結びつけて理解されている点においてほ同一・である。
5.学 説Ⅰ
本稿は,先にも述べた様に,滴宮教授の所説を批判することを主たる目的と
しているけれども,天皇の国会の開会式への出席や「おことば」等の行為につ
いては,其の他にも検討すべき若干の学説がある。こ一」では先ずそれらの学説
について述べ,4.学説Ⅱにおいて二宿宮説を紹介しようと思う。
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軍38巻 第4号
ー▼− ざ 一
(1)法学協会「註解日本国意法..Jは,「天皇が純粋に私的な資格払おいてなす行 為」であっても,「その内容如何によっては,重要な意味をもち,単純に看過しネ ないことがある。例えば,天皇が地方を巡幸し,伊勢神宮に∴参拝し,皇族の葬 儀をとり行い,外国元首に対し慶弔電報を発信し,外国の儀式に参列し或いほ 名代を差遣する等である」と述べ,先ず第一・紅,「天皇がそもそ・もこ.れを行いう るか香か」についで,「国内上の諸行為についてこは・…法律的紅問題になる余地 は.殆んどないと思われる」と之を肯定サーる。しかし,「国際礼議に属する行為に ついてはふそれらの行為ほ「最も広い忠義における外交に属するのであるから,
原則としてはむしろ消極に解すべきである_」としつつも,「 それらの行為が,国 際礼譲として常識的把承認しうる程度のものであり,且つ天皇の象徴としての 地位に矛盾しない性質のものであれは,例外として許容されうる余地ほある。
但しその場合に.も,内閣が,その職務遂行の−−・方法として,天皇紅特定の 事実行為をなすべく依頼するという場合であってこはじめて認めうる」と云う。
審こに,経費の問題については,国会の開会式臨御や外国儀式参列の如く,「周 政担当機関が,その職者遂行の過程ケこおいて:,天皇の事実行為を要請する場合 には」公費に.よって支弁されて差支え.ないが,そ・の他の私的行為(例えば,地 方巡率,伊勢神宮参拝,皇族の葬儀の執行など)に・ついてほ,・…天皇の私費
(内選費)より賄わるべきである」と説く。第三に,「これらの天皇の私的行為 についてほ,宮内庁職員その他の国家公務員ほ.随行参列の義務を負うか」の問 題についてほ,「■厳格に考えれば消極紅解すづきである.」が,「社会常抽よりして
(12)
妥当な範聞をこえない限り,やむをえない」と云う。
約言すれは論者の云うところは,天皇の国会開会式出席やおことば等の行為 を私的行為として把え,そ垂らの中,国内上の諸行為ほ法律的紅は問題がなく,
「国際礼譲に属する行為」については.,(1)常識的に.承認しうる程度のものであ り,(2)象徴としての地位紅矛盾しない性質のものであって,(3)内閣の破顔ある \ 場合に限り天皇が為しうるものと解するのである。
は訝 法学協会「注解日本国憲法_1上執1)pp.126▲¶127
天皇の所謂「象徴としての行為」について −9・−
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しかしながら,第・一一・に,国会開会式への出席やおことばは決して私人として の天皇の行為ではなく,天皇という公の資格においての行為であるから,単な
■ る私的行為として「法律的に問題になる余地ほ殆んどない.」とほ断じ難い。第
二に.,「国際礼譲に属する行為」は元来君主乃至元首の地位と不可分のものであ るから,「■象徴としての地位に.矛盾しない性質のもの」などそもそもあり得ない のではないか。第三に,内閣の依勅ある場合と云うが,「依頼」とほ/法律的に 如何なる性質をもつのであろうか?天皇に対する権限の委任が許されないこと ほ勿論である。最後に第四として,論者は「常識的に承認しうる程度」又は,
「■社会常識よりして妥当な範囲」とゆう条件をつけているが,そこで「常識」
とか「社会常識」とか云われでいるものの実体は何であろうか。天皇について の旧窓法的意識の残存こそ問題とせられねばならない今日,そ・れが「常識」の 名のもとに横行するのを許す危険ほないであろうか。
(13)
(2)小島和司教授は「一・般に.,公人に対しては,その法的権限とは別に,儀 礼的行為,事実行為が期待される。それは純然たる私的行為とも考えられない もので」あるが,「このような行為が,天皇紅認めらるべきかどうか」につい て,「この部分ほ法的権限とは別の問題であるから,全面的軋否認すべきでない」
のみならず,「さらに・現実主義的思考によっても支持されうるものである」とし,
かかる解釈の利点として,(1)公的行為ないし公人的行為の範疇を公認すること によって,私的自由容認の論理を封じうること,(2)内閣が行政資任を負うべき
ことが根拠づけられ,更に・(3)その為の支出が宮廷費よりなさるべきか内延費よ りなさるべきかということに・ついてヨリ明確な基準を提供し得ること,め以上 三点をあげる。
天皇の行なう「儀礼的行為,事実行為」が「法的権限とは.別」であることは 勿論であるが,憲法第七条に列挙せられている天皇の国事行為の中にも,儀礼 的行為及び事実行為が含まれているのであるから,国事行為以外に儀礼的行為
㈹ 小島和司 天皇の公的行為と私的行為,ジュリスト特輯号No・台00「学説展望」pp..16
−17 尤も,本文所引の文章は肯定説に対する小島教授のコメントであって,教授白身
の所説ではないようではあるが文章全体の趣旨からみれば教授が嵩定説に傾いている様
に感ぜられる。この点誤解であれば教授の宥恕を乞いたい。
340
第38巻 第4号
ー一JO−−
及び事実行為が認められるとするならばその根拠ほ別箇に明かにされねばなら ない。次に論者は,肯定説が「−現実主義的思考によって:も支持されうる」と云
うが,その現実主義とは,「招待外交が国際協和の蛮要な方式となる平和時にお いて,日本国天皇に限って.,これに応ずることも,こ.れの主人公になることも できないというのほ日本国民にとって著しく不利ではないか,憲法はそのよう に著しく不利な制度を規定して:いると解釈さるべきであろうか」という反省を 意味する様である。しかしながら,われわれが問題に・しているのは,天皇の所 謂公的行為が憲法上許されるかどうか,という恵法の解釈理論であるから,−
定の解釈が「現実」に対してどのような効果を及ばすかを考慮して左右を決す ぺきではあるまい。最後に.,天皇の所謂公的行為を認める解釈の利点の一つとし
て,「公的行為ないし公人的行為の範疇を公認することによって,私的自由容認 の論理を封じうること」をあげるけれども,天皇が所謂公的行為を行い得ない と論ずることは必ずしもその行為が私人としての天皇の行為であると解すろこ とにはならないのである。蓋し,天皇の行なう特定の具体的行為が公的性格を もつか或いほ私的性格をもつかということは,その行為そのものに・即して決せ られるのであり,而して,公的性格をもつ行為は憲法所定の国事行為でない限 り,天皇が患法上之を為し得ざるものと解することが可儲であるからである。
(14)
(3)結城光太郎教授は次の様に論ずる。「憲法の遜旨ほ・,排他的に天皇の権限に 属する公的行為として(憲法第六条及び算七条所定の)十二個を定めたのであ って,その他の公的行為がすべて出来ないというのでほない。」但し,(1)すべて 公的行為は国政権能を含むものであってはならないこ・と,(2)悪法が象徴天皇を 設置した目的に反するものであってこほならないこと,の二つの制約があり,「な ぉ公的行為ほ国事行為に準じて内閣の責任の下で行なわれるべきが当賂」であ る。そして,以上の基準に照して,国会の開会式に出席することは.差支えない が,「国会紅対し,−・定のあり方や努力を希望する「お言柴」をのべるのは 国政権能をもたぬ象徴天皇にはふさわしくないのではないか」と疑問を提出し,
仏側 結城光太郎,天皇の国事行為とその性質,漕嘗四郎,∵佐藤功編集「憲法講座」第一・巻
ppr213甘
天皇の所謂「象徴として−の行為」について ・−JJ−
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まして自衛隊旗の授与のごときほ「許されないと解すべきである」と云う。
思うに.,憲法第四条が「■天皇はこの憲法の定める国事に関する行為のみを行 い,国政に関する権能を有しない」と定めているのは,憲法上天皇の行い得る 行為を限定する趣旨であって,結城教授の論ずる様に.天皇の排他的権限を定め たにすぜないと解することほ.できない。憲法の定める国事行為ほ委任がなされ ない限り天皇のみが行い得る排他的事項であることは勿論であるが,排他的で あると否とに拘らず,憲法上天皇の為し得るのは「この憲法の定める国事に.関 する行為のみ」紅限られるり結城教授が憲法第六条及び第七粂で列挙されてい
る国事行為以外紅も天皇の為しうる公的行為があると主張するのほ,その根拠 が明かではないが,恐らく消宮教授と同様に,「 象徴としての天皇」が当然に為 し得る行為であると解しているものと推測される。
4.学 説ⅠⅠ
(15) 先ず清宮教授の学説を摘要すれば次の如くである。天皇には,日本国を構成
する特別の一・員として,象徴として:の地位,国家機関としての地位及び私人と しての地位の三つの地位が認められ,それ紅応じて,天皇の行為にも,象徴と しての行為,国家機関としての行為及び私人としての行為が認められる。象徴と しての地位は,憲法によって,天皇の存在そのものに.−・般的・恒常的に認めら れた公的地位である。しかし,象徴としての地位にあることから,当然に,そ の機能を発揮するために.特別の行為を行う必要が生ずるのではない。たゞ人間 たる象徴が認められる以上,それが象徴として,何らかの行為を為すことほ当 然考えられるところであって:,患法もこれを予期しているものと解せられる。
象徴としての行為は,国家機関としての行為と区別せられる。天皇の機関とし ての地位は象徴としての地位を背景としているということほできるが,しか し,象徴であるこ.とと機関であることとは,もともと別のことであり,象徴と してこの行為と機関としての行為とを同視することはできない。第一・に.,機関を 8昂 楕宮四郎,佐藤功編「題法演習」昭和34年有斐閣刊,pP・1以下,及び清宮四郎「憲法
I」(法律学全集)pp112以下に拠る。これらの中,前者は直接に国会の開会式にお
ける天皇の「おことば」を取り扱ったものである。
342
第38巻 第4弓
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構成するものほ常紅自然意思をもった人間であるのに対し,象徴はかならずし もその要なく人間が象徴とせられるのほむしろ異例である。第二に,機関は機 関として行動する場合に.のみ機関とみなされその機能を発揮するのに対し,象 徴は個々の行為をまたずに,常に認められる地位であり,またその機能を発揮 する。第三に.,機関の行為ほ国家の行為とみされるのに対し,象徴の行為は国 家の行為とみなされない。第四に,機関の行為ほ,法的効果をともなうものが 多いのに対し,象徴の行為ほ法的効果をともなわない事実的行為であるのが普 通である。第五に.,検閲の行為に、ついては委任が可能であるのに対し,象徴の 行為については委任ということほあり得ない。象徴と機関とは以上の如く区別 せられねばならないのみならず,天皇が,特定の国事行為を担当するのほ,意 法によって帰艦国家機関としての地位が定められているからであって,象徴で あることの直接の結果ではない。何らの国事行為をも担当しない,単なる象徴 ということも考えられるのである。
次に,患法ほ.,天皇に,国表機関としてr■国事に関する行為」を行う機能を 与えている。国家機関としての天皇の地位は,特別の公的地位であって,憲法 の定めにもとづいて,個別的・随時的匿認められるものであり,この地位にお ける天皇の行為ほ,法の特別の規定がある場合にのみ行われうる。
最後に,私人として−の地位は,人としての天皇紅−・般的・恒常的に認められ る地位であって,この地位における天皇の行為には,内延における起居・散 歩,生物の痍集,野球や相撲の見物,避暑避寒その他いろいろある。天皇の私 的行為は,特別の法的根拠を必要とせず,任意に行うことができるものである が,法の規律に服することもある。天皇が「財産を譲り受け,若しくは賜与す る」ときは国会の議決を経るを要し,天皇は養子をすることができないなどほ その例である。
さて,上述の天皇の三種類の行為の中,象徴としての行為と国家機関としての 行為は何れも公的行為であるが,「 非政治性は,すべての天皇の行為に対する患 法上の竃要な制限であって,国事行為ほもとより,象徴としての行為もこの制限
に服しなければならない。」天皇の象徴としての行為は,憲法の明文の規定によ
343 天稟の所謂「象徴としての行為」について 鵬Jβ一−
って閣議事項とされてはいないが,公的性質の行為とみなされる以上,天皇が単 独に行いうる行為でほなく,内閣の直接またほ間接の輔佐と晋任とにおいで行 われるべき行為であると解するの が妥当であり,そ\れが憲法の趣旨であろう。
清宮教授はこの様に述べて,国会の開会式における「おこと.ば」,外国の元首‡
などとの親書・親電の交換,公的な色彩のある国内巡率等の天皇の行為は象徴 としての行為であって,憲法が天皇に象徴としての公的地位を認めていること ほ象徴としてかくの如き公的行為を行うことを容認しているものと解せられ る,と主張サーる。
5.批 判
酒常数授ほ,天皇の地位を三つに分けて,象徴としての地位,国家機関とし ての地位,及び私人として.の地位とする。天皇にも当然に人間としての私生活 示あるから,私人としての地位をもつこと把ほ問題ほない。又,窓法第4条の 国事に.関する行為の主体としての天皇の地位が国家機関であるかどうかについ
(1¢)
てもこ.」に問題としない。こ」でとりあげるのは,国家機関としての地位と区 別して,それと独立紅,天皇の象徴としての地位を認めている点である。そ七 で,憲法第一・条を滴常数授がどの様に.理解しているのかについて,多少詳細に 検討してみる必要がある。教授は,「天皇が,日本国の象徴であり,日本国民統 合の象徴であるとは,天皇の和一・身が,日本国またほ日本国民の統合という無 形の抽象的存在を,有形的,具体的に表現またほ体現するものであることを意
(17)
味する」と述べ,しかし,「憲法の成文では,天皇は,「象徴である」という文言 が用いられているが,それは,単紅,天皇が象徴であるという社会的事実を表 示するものではなくて,「象徴とみなされるべきである」という規範的要求を
(1功 一周一億教授は.,「国家に意思を供給するもの」と一−しての国家機関に対して,「国家 に形象などを供給することによって国家の意思を衰勢するという機能を果すもの」とし ての象徴的機能体」の概念を区別し,天皇は象徴的機能体であると論ずる。しかし,天 皇が国事行為を行うのは,自己の為に行うのではなく,又,その効果ほ国家紅帰属する のであるから,国事行為を行う天皇は国家機関であると去っても差支えあるまい。一周
一億,愚法基本問題の研究,pp.82以下。
(川 清宮四郎,憲法Ⅰ(法律学全集)p.114
欝38巻 欝4号 344
ー一 人仁一
(18)
含むものである」と言う。こ」に「象徴とみなされるべきである一」というのは,
象徴であらねばならないという天皇の国家における役割を定めたものと解する のでほなくて,天皇を象徴と認めるべきである,或は,天皇を象徴として処遇 しなければならない,という意味だと解するのであらて,天皇の行為に対する 期待や要求を一切含まない趣旨であると主張する事になろう。換言すれほ,天 皇は象徴たるにふさわしく行動しなければならないとか,或は,天皇が象徴の 機能を発揮することを期待する等の結論を昇一・条から抽き出すのほ誤りであっ て,現実の天皇の行為がいかなるものであるかに拘りなく,あるがま」の天皐 そのものが象徴として認められねばならない,と云うのである。天皇が象徴で あるのほ.,天皇自身のいわば「関知しない」所であり,第一−・条の法意ほ天皇が 象徴たることの承認を要求することにあると解する訳である。そ・れでほ,われ われが象徴と考えることを要求されているその「天皇」とは何を指して:いるの であろうか。清宮教授に.よれは,それほ「天皇の和一身」であり,「天皇の存在
(19)
そのもの」であって,「人間象徴」という用語の示す通り,人間としての天皇が そのまゝ象徴とみなされるべきだということに・なる。かくては,人間としての 天皇の−・挙手一段足すべてがそのまゝ象徴だという事になる筈で,極言すれば,
食事をしている天皇も,或は,相撲見物をしている天皇も,日本国及び日本国 属の統合を「有形的・具体的紅表現またほ体現するものである」と解すべきか。
しかるに,清宮教授は,天皇の象徴としての地位ほ「特に憲法に魂定されてい
(20)
る公的地位.」であるとして,「人としての私的地位.」と区即する。教授の解する 様に,「天皇の御一身」が象徴だということに・なれば,天皇の「人としての私的 地位」はすべて象徴たる地位に吸収されてしまって,もはや存在の余地が認め られないことになるのでほないか。
この点に関連してもう一つ問題がある。清宮教授鱒・,象徴としての地位が,「
天皇の存在そのものに.−・般的・恒常的に認められた公的地位.」であるとし,「■し
仏8)清宮.同上.p 115
㈹清宮.同上.p.114
鋤 清宮∩同上.p.113
天皇の所謂「象徴としての行為」に.ついて −Jβ−
345
かし象徴としての地位にあることから,当然に,その機能を発揮するために特
(21)
別の行為を行う必繋が生ずるのでほない」と述べながらも,「人間象徴が認めら れる以上,それが象徴として,何らかの行為をなすことは当然考えられるとこ
(21) ろであって−,憲法もこれを予期しているものと解せられる.」と云う。そしてご,
国会開会式における「ぉことば.」,外国の元首などとの親書・親電の交換,公的 な色彩のある国内巡幸などの行為ほ,「単なる私的行為でもなく,また国事行為 でもない」から,「象徴としての特別の行為」と見るべきであるとする。しかし ながら,清宮教授は,前述の如く,象徴たるのは「天皇の和一一身」であり,「天 皇の存在そのもの」であると解するのであるから,いわば天皇の仝存在,天皇 の行動の一・軌 が象徴であることになる筋合であって,天皇の行動の中の特定
¢部分だけが特別紅選び出されで「象徴としての行為.」とされるのほ納得でき ない。のみならず,r■■天皇の存在そのもの一」が象徴だというのであれば,天皇に 私的行為なるものがあり得ないのほ勿論,憲法第四条の「国事に関する行為」
も基本的には象徴としての行為に外ならぬということ紅なろう。
清宮教授の所説にこの様な破綻を生じた根本の原因ほ,象徴であるのほ「天 皇の御一身」であゃと解したこ・と,及び,憲法第一魔の法意を天皇が「象徴と みなされるペきである、j こ.とを意味すると解したと.と,に.存する。
先ず第一・に,象徴とせられている「■天皇」とは,決して二「天皇の和一虜」乃 至「天皇の存在そ・のもの」と考えるぺきではない。日本国及び日本国民統合を 表現するこ.とほ公的国家的意義をもつ役割であって,単なる個人や人間的存在 そのものがか⊥る公的役割を果すぺきものと定めてい皐と見ることはできな い。むしろ,嶋層適切に云うならばかゝる公的役割を果している限りにおいて,
その人は決して単なる個人ではあり得ないのである。宮沢教授は,憲法第一・条
(22)
における「天皇」という用語の意味について:次のように説く。「天皇という言 葉は,国家機関としての天皇ゐ地位を意味する場合と,その地位を占める人を意 味する場合とがある。1前者を機関としての天皇といい,後者を人としての天皇
¢力 漕宮,天皇の行為の性質(清宮,佐藤編 憲法演習)pp.6〜7
日勿 宮沢俊義 日本国窓埠(法律学体系コメソタ−ル篇Ⅰ)pり51
− Z6−− 第38巻 第4号 346
と呼ぶことができる。本条にいう天皇は,・そ・の国家機関としての役割を定めて いる点からいって,機関として:の天皇を意味すると解すべきである。」憲法第四 三条において,両議院の「議員」が「全国民を代表す.」べきものと定められて いるが,こゝに.「議員」というのは,むろん国家機関としての国会議員を意味 するもので,議員たる個人乃至は議員の一身を意味するものでないことは云う
までもあるまい。憲法第1■・・・・・条の「天皇」についても理論としてほ全く同一・Lであ って,その天皇とは国家機関としてごの天皇をさすものと解さねはならない。
清常数授ほ.,「機関と象徴とは贋なる」と主張して−,両者の相違点を五つ列挙
(23)
していることは前述の如くである。それは,天皇が国事行為を行うのは「憲法 によって特に国家機関としての地位が定められているからであって,象徴であ ることの直接の結果ではない」と云うことから明かである様に.,国事行為と象 徴との内的関連を切断せんとする為であろう。而して,国事行為と象徴との関 係を切りはなし,更に,機関と象徴とを区別するのは,教授が象徴を機関と同
じ様な−・つの法的地位として把握していることを示すものである。われわれは,
後述する通り,象徴を法的地位とは考えておらず,象徴を国家機関としての天 皇の行為に対する要求であり天皇の基本的役割を示す動的な概念であると解す る。従って,このように解する限り,「機関と象徴とほ.異なる.」というのは当然 のことにすぎない。蓋し,機関は法的地位であり,象徴はその機関の役割を示 す−ものだからである。憲法第一・条は,天皇という国家機関が日本国属統合を象 徴するという役割を果すべきことを定めたものと解する。この点は次の論点と 関連してくる。
次に第二に,清宮教授は,憲法第一粂の法意は,「天皇が象徴であるという社
●●●●● 会的事実を表示するものではなくて,「象徴とみなされるぺきである」という規 範的要求を含むものである」と主張する。即ち,天皇が日本国および日本国民 の統合を有形的に表現または体現しているものと承認しなけれはならぬと定め たものだと主張する。憲法第一凛は天皇の職責や役割を定めた規範ではなく,
錮 清宮,天皇の行為の性質p.7
天皇の所謂「象徴としての行為」について −プアー 347
天皇に象徴としての「公的地位」を割当て,天皇を象徴として意味づける規範 であるとするのである。それでほ,この規範から如何なる法的効果が生ずるの であるか。「象徴としての天皇の行為ほ,ただちに,日本国または日本国戌の行
(24)
為とみなされるという,法的効果を伴うものでほない」ことは勿論であるが,
教授は二つの法的効果を認めている。その−・ほ,象徴として−の行為という名の 下に国事行為以外に広汎な「公的行為」が認められることである。そのこほ,
天皇の無答賃が演繹せられることである。教授ほ,天皇が国事行為に.ついて茸 任を負わないことは「世襲の天皇の象徴たる地位から当然生ずる結果」であると
(25) 解し,又,「象徴としての天皇には刑事茸任なしとみるのが憲法の趣旨であろう」
という。日本国意法は明治意法第三条の天皇神聖不可侵の規定を削除したので あるが,天皇の葺任軋ついて明治憲法の場合と同一・の頼論に到達する論拠とさ れて:いるのが象徴規恵だということになる。天皇が象徴とされているごとほ,
天皇が国民から区別される特別な尊寅−な地位にあるこ・とを意味する,と解する 為であろうと推測される。同様の考え方は,憲法調査会における各委員の意見 の中にも決して少くないのであって,「象徴たる以上一腰国民と異なる特殊ゐ 待遇を与ええるべきである一」(愛知揆−L委員),「天皇は国民統合の中心という特 別の地位にある以上,国家の権威を維持するたてまえから,−・般国民と違う尊厳
(28〉
な法的地位にあるべきことほ当然.」(大石義雄委員)である,等の意見が主張さ れている。そして,象徴規定から天皇の特別の尊濱の地位をひき出して−来る限
り,天皇無答費の結論ほ勿論のこと,更に進んで不敬罪も窓法の当然に要求す る所であるとする見解が生ずるのは決して不思議ではない。例えば患法調査会
(2劇 滑宮,憲法Ip,116
錮 清宮,同上りp.130 教授は,天皇の政治的無答資の根拠を「世襲の天皇の象徴たる地位」
に.求めており,患法第三条の定める内閣の茸任はむしろ天皇無答資という当然の原則を
前提とすると解しているようである。次に天皇の刑事資任を否定する学説は他に・も頗る 多いけれどもその根拠を明確に説明したも のは稀である。肯定説としては,例えば−・団
一億前掲 p‖105
飾)憲法調査会第一・部会,前文・天皇・戦争の放棄・改正・最高法規に関する報告書,
p.110
第38巻 第4琶
−Jβ■・・・・−
348
(27) 紅おける大西邦敏教授の発言を見よ。白く「一・国の象徴と定められたものほ,
この性質上尊厳性を有すべきものと考えられる。…、…この点から見ると天皇が 象徴と定められている以上は天皇の尊厳性が法律上保護されるべきであり,特 に天皇の尊厳性を侵害する言論を罰する規定が刑法に設けられるべきである」。
思うに,天皇がその象徴とされている日本国の主権ほ国民にあって,天皇に:はな い。そして,主権者たる国民ほ,個人として尊重され且つ法の下に相互に平等 な存在とされているが,その様な国民から成る日本国及びその様な国民の統合 を象徴す べき天皇が国民よりも特に尊賃な地位にあるとされることは,果して 憲法の精神に合致するであろうか。国家の尊厳とほ主権者たる国民一人一\人の 尊厳でほないだろうか。以上の様に,天皇を主権者としての国民よりも特紅尊 貴な地位にあるものとし,理論上,天皇の神聖不便の結論をとらざるを得なく なる原因ほ,憲法第一−・条を天皇に対する即ち天皇を受範者とする行為規範と解 することなく,天皇に象徴としてこの法的地位を認めた組織規範と見たことにあ
る。
6.む す び
楕宮教授は.,天皇の「象徴としての行為」として,国会開会式への出席・お こと濾,国内巡幸,外国元首との親書・親電の交換等を例示している。之等の 行為は,象徴としての行為としで憲法第一・粂により根拠づけられることが可能 であれは,(1)合憲性をもつものであり仁且つ(2)宮内庁職員が随行し又その費用 が国費(宮廷費)によって賄われることも当賂である,という結論になろう。
併しながら,「象徴としての行為」なるものが憲法上認められないことは既に・述 べた通りである。それでは.,清宮教授が「■象徴としての行為」であるとする様 々の天皇の行為は,恵法上どのように解すぺきであろうか。
憲法第一・条ほ国家における天皇の基本的役割を定めた規定であって,既に他 の政治的機関の決定した国家意思をそのまゝ表現し(日本国民統合の象徴)或
位Ⅵ 憲法調査会第三委員会,,憲法運用の実際についての調査報告番一天皇・戦争の放棄
・最高法規−p.18
天皇の所謂「象徴としての行為」に・ついて −−ヱ9一−
349
いほ,日本国を体現するものとして或種の事実行為を行う(日本国の象徴)こ とによって,天皇が象徴でなければならないこと,換言すれば,天皇がもっぱ ら象徴としてのみ行動しなければならないこと,を定めているのである。そし て.■,こ.の第一・粂は第四条第一一項の規定によって裏付けられて−いると考えられる0 即ち,天皇は「こ.の憲法の定める国事に関する行為」を行い得るけれども,
憲法上天皇の行い得る行為はその国事行為Lのみ「に限定せられるから,天皇は 国事行為を行うこ.とによって象徴たるのであって,国事行為をはなれて.そのr ̄
御一身」が象徴たるのではない。従って,所謂「象徴としての地位」は国事行 為の主体としての国家機関から独立した別簡の地位と考え.るべきでほ・ない○さ れば,憲法上天皇の為し得る公的行為としては,第四条の明言する通り憲法所 定の国事行為のみに限られ,それ以外の公的行為は−・切認められないのである。
それでは,天皇の国会開会式出席や「おことば.」は私的行為と見るべきであ ろうか。法学協会「■註解日本国憲法.」がこれらの行為を天皇の私的行為と考え
(28)
ていることほ.前述の通りである。要しに法学協会ほ次の様にト論ずる。「天皇の公的 行為が限定され,その為し得るものが国事行為として列挙されているのである が,国事行為以外に.おいて.天皇の為しうるものとしてほ私的行為しかなく,従
って理論的には,それは天皇自らの意思によって処理されてさしつかえ.ないと 考えられる」と。この所説ほ,天皇の国会開会式出席や国内巡膚等の行為が当
(29)
然許されるペきものと前提した上で,それらの行為は憲法上の国事行為ではな ヽ いから私的行為であると結論づけるのであって,論理の運び方に・おいて到底承 服し難い。蓋し,それらの行為が認められるべきかどうか自体問題とせらるべ
きであり,更に,それらの行為が公的行為であるかそれとも私的行為であるか
㈹ 法学協会「註解日本国憲法」上巻(1)Pい96
銅lこの様な考え方が実際上根強く存在している点にこそ問題があるのではないか○例え ば黒田了一哉授も「地方巡幸その他天皇の公的諸行為をいっさい否認することが,非現 実的であり,政策的にも妥当でないとの立場からは,結局それは天皇の象徴としての公 的行為にほかならぬとの解釈が生れるであろう」という。もっとも黒田教授自ら,この
「論法は実は現実肯定的なにおいが強く,必ずしも論理的ではなかった」と認めている ことを付言しないと公正でないであろう。黒田了−イ天皇」法学セミナ−No・37・鱒・23
′・−4
第38巻 第4弓
ーーー20】∴
350
は行為そのものの性質から定められねほならぬからである。
それでは,公的行為と私的行為とほ何紅よって区別されるであろうか。この 両者ほ矛盾概念であるから,私的行為の観念が定まれば,公的行為の範囲もお のずから限定されることになる。私的行為とは,要するに,単なる私人として の資格紅おいで,或いは,人間としての立場において−,行われる行為のことで あってニ,(1)国家機関の権限の行便ではないことほ勿論,(2)国家機関としての立 場を前提とする行為であって:ほならない。羊の基準に鷹して判断するならば,
天皇の日常の起居,家庭内の行事,避暑避寒の施行等ほ私的行為に属するもの と云えよう。しかるに,国会開会式への叫席やおことほ等は,単なる私人とし ての資格においてなされる行為でほなく,国家機関たる公の資格において為さ れる行為である以上,これらの行為を私的行為であると見ることはできない。
それらが私的行為でほなく正に公的行為であるからこそ,現紅内閲及び宮内
(3の
庁の葺任に.おいて行われているのであろう。しかしながら,前述の如く,天皇 の為しうる公的行為は憲法所定の国事行為のみ紅限られると解すべきであるか ら国会開会式への出席等の行為ほ忍法の認めない所であると云わねばならな い。
最後紅−・言すれば,天皇に関する限り公私の別は存在せず乃至ほ存在しても 明かでないと云う説があるが,到底支持し難い。国事行為を行う限りでの天皇 ほ国家機関であり国家機関としての天皇が公的存在であるのに対して,それ以 外の天皇はすべて私人としての天皇に外ならない。そこには明確な区別が存す る。絡宮教授の主張するように,「 象徴としての天皇」という地位を「国家機関 としての天皇」とほ.別簡独立したものとして認めることは,天皇の公的地位を いわば無制限に承認することを意味し,明治意駿の定めた天皇の地位の実質的
(Sl) 復活の危険が感ぜられるのである。例えば,大西邦敏教授ほ次の様紅主張する。
「自衛隊の閲兵および非常時における勅語の発布は,国民統合の象徴としての
錮屈偲前掲雑蕊pl.23
飢 憲法調査会第一部会「前文・天皇・戦争の放棄・改正・最高法規に関する報告書」
(憲法調査会報告書附属文書療七号)p.89
天皇の所謂「象徴としての行為」について 剛2J・】
351
天皇が為し得る所であり,特に・憲法上の規定を要しない。.」佐藤教授の次のよう な感想はこ」紅おいても想起されざるを得ない。「■象徴の名に.おいて起草者た ちが天皇制を存続せしめたことほ,日本の伝統的社会秩序を貫いていた考 え方を存続せしめるという結果をもたらしたのである。このような考え方の一
(82)
掃こそが起草者たちの論理であった筈であったのに.」と。
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