愛媛県における電気事業の史的発展(一)
仙四国地方電気専業の歴史的形成過程(2)−⊥
伊 丹 正 博
Ⅰ ほじめに
ⅠⅠ愛媛水力電気と東予地方
ⅠⅠⅠ宇和水電と南予地方(以上本号)
ⅠⅤ 伊予水力電気の発展過程
Ⅴ 伊予鉄道電気の出発と愛媛県電気事業の確立過程
ⅤⅠむすぴにかえて
−…電力事業の発展と地場産業−−−
Ⅰはじめに
(1) 愛媛県下における電気事業創設期の状況ほ,前稿においてふれたように.,松
山を中心とした伊予水力電気と,東予地方の愛媛水力電気,南予地方の宇和水 電という,3強の地域独占的な形態で出発した。このような発展経過ほ,高知
県下の事例のように,多数の電気事業が,郡下の町村段階紅輩出したのとほ,
(2)
やや対照的であるといってもよいであろう。
(3〉
伊予水力電気は,才賀商会の盛衰に大きな関係をもったため,明治末期の不
(1)拙稿「草創期の四国における発電事業一四国地方竃気事業の歴史的形成過程(1)
−」(『香川大学経済論叢』第50巻第2号所収)
(2)高知県『高知県電気事業史』第1巻(昭和28年刊)およぴ,四国配電株式会社編『四 国配電十年史』(昭和28年刊)参照。
(3)井上要『伊予鉄電思い出はなし』(伊予鉄電社友会昭和7年刊)紅よると,伊予水 力電気の創設に小林信近が奔走していた明治31〜34年の頃は,日清戦争後の不況から
まだ脱出できない時期であり,資本金20万円の予定を15万円に減じても,なお,−・般 応募ほ集まらず,小林は当時,京都で市内電車設置工事紅成功し,電気事業紅深い経
常51巻 欝3・4号
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況下に・おいて,大阪財界の代表的存在であった,岩下清周の援護を受けながら も,岩下自身の失脚によって烏有に帰し,才資の死によって,ついに,才賓の伊
(4) 予水力電気は終わりをつげた。後事を託された井上要が,その.立て直しを図り
ながら,受電契約によって関係の密接な,伊予鉄道との合併により,その活路 を見出したわけである。これが,やがて,四国地方にいおける電気事業界の雄と なる伊予鉄道電気株式会社の創設に他ならない。本稿においては主として同社 に合併されていった愛媛水力電気,宇和水電,伊予水力電気の3社に視点をお いて,電気事業形成期の愛媛県の状況を探ってみたいと思う。
ⅠⅠ愛嬢水力電気と東予地方
ほじめに.,愛媛水力電気紅ついてみてみようL。同社は,後述するように.,今 治電気と西条水力電気の合併により,今治と西条を拠点とした,東予地方の電 灯電力供給事業として出発したものである。
いうまでもなく,今治地方畔,従来から地域の産業として薄木綿の製造があ ったが,1886(明治19)年頃,矢野七三郎の事に.よって綿ネル工業が導入され,
(¢) 地場産巣として定着して行った。矢野七三郎の死後,そのあとをついだ柳瀬義
富の興業社をほじめ,明治20年代末から30年代前半に.かけて,村上綿練会社,
験と知識のある才賓藤吉の助力を求め(才真の夫人ほ絵山出身である),かくして,才 色の意見を入れて二新たに計画予静案を作って,資本金13万円の半額を彼紅引きうけて 琴ったわけである。したがって,その後ほ,発電所の設計工事,材料供給など,すべ
て才賀に・−・任されたため,その本拠たる『牙賀商会』が,実賀的な専業一切を担った のである。
(4)前掲沓紅よると,明治40年,才賀藤吉が伊予水力電気の社長紅就任した後,黒川発 電所拡張工事紅ともなって,資本を一・挙紅,130万円に増資し,高知銀行・日本生命 等から融資を受けて工事紅かかったが,送配電線の架設工事が完了できず,電力の販
売ができないため,経営は困難キなり,さら紅,才賀商会が,経済界不況のため,閉 店状態となった。この商会はもともと才覚の個人的な纏営で,急速に事業を拡大した 紅も拘らず;その金融面での放健在営が原因となって44年9月紅同商会は破産したの であった。
(5)大鳥居箸「今治絹業の研究」(賀川英夫編『日本特殊産業の展相職伊予経済の研究
−−」昭和!8年刊・所収)および神立春樹「今治綿業史における−・論点」(『周山経済 雑誌』第7巻3・4号,昭和51年)
愛媛県に.おける電気事業の史的発展H
−4β−
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阿部会社,今治織物会社その他が,続々としで現れ,綿ネルエ業界の盛況を現 出したのである。しかも′,この業界の発展には,電力が原動力として極めて.重 要な役割を果したことは言うまでもない。当時,新しい動力としての電力の導 入は,機業界に.おいて,必ずしも円滑に.進んだわけではなも、が,楯岡増平や中 川芳太郎等に.よる今治織物会社ほ,率先して電力使用に.ふみ切り,75馬力とい
う当時としてはかなり大馬力の電動機を使用し,つづいて阿部会社も35馬力を 設置した。このように,電力の導入が,綿紡績工業に.おける工場動力として主 要な役割を果し,また,工場規模の問題から言って,むしろ,中/J\親模の工場 が,電力導入に.容易な立場に.立っていたとする見方と,はぼ,差異のなV、状況
 ̄F一に.あったと考えてよいであろ う。後年,機業における動力が,電力をおいて は考えられなくなったことは,周知の通りである。
このような今治地方における地場産栄と電力の関係は,′電灯電力の需要増大 への対応として,発電所増設が計画され,−・乱西条での新会社設立計画が進 められたが,同地域が,エ業面紅おいて−は,今治に比しておくれていることか
ら,周辺郡部を含めた電灯電力供給事業計画が立案された。しかしその営兼区 域の競合によって,遠からず,今治竃気と西条水力の競争が激化することが予 想され,知事斡旋に.よる新会社としての愛媛水力電気の設.立となったのであ る。
愛媛水力電気株式会社は,1911(明治44)年10月18日に創設され,本社を今 治町とし,西条l町に支社をおき,阿部光之助を社長紅,今治電気の関係者と西 条水力の関係者,それに,今治綿ネル工業界の有力者を加えた構成で,経営陣 を固め,発足したのである。
創設当初の営業状況は,電灯3,166個,動力240馬力で,収入ほ3,間0円,支 出5,949円であった。
このような愛媛水力電気の発電設備は,一今治電気の有していた長谷水力発電 所(蒼社川上流の九和村長谷)の180キロワットと,その補助的な蔵敷火力発 電所(白書村大字蔵敷)の75キロワットであり,愛媛水力竃気とし・てこは,新し い水力発電所として,加茂発電所の壌設紅着手した。
第51巻 第3・4弓
・鵬46−
270加茂発電所(新居郡加茂村)は,水鼠1.56立方メー・トル,落差77.9メーートル で,出力1,000キロワットであり,大正元年10月起工,同2年12月に完成した。
工事費は,土木用紅141,980円,機械用紅47,743円を要した。
この発電所ほ,、翌3年3月に・供給を開始したが,越智郡,周桑郡,新居郡の 3郡に∴わたり,9町25村を供給区域としていた。その結果,大正3年11月の第 7回決算期に.おける営業成績ほ,電灯13,216個,動力598馬力,収入53,388円,
支出23,460円となって,純益は,29,928円あり,配当率も年9歩となって,そ の発展が順調催進んでいることを示している。
1915(大正4)年頃からは.,いうまでもなく,第一・次世界大戦による経済界 の変動紅よって,製造工業における発展はめざましく,従って,電力の需要が 激増し,たちまち,電力の不足を来すこととなったので,その対策として,水 力発電所建設を企て,水源を,蒼社川支流の本地川に.求め,翌5年末から測厳 に.取りかかり,建設を進めた。これが,鈍川水力発電所である。
鈍川発電所(越智郡鈍川村大字鈍川)は,水患0.78立方メートル,落差131.5 イ−トル,出力800キロワットで,大正7年9月起工して,翌8年12月末の完 成:そあった。ユ事費ほ,土木費が185,801円,機械代が110,454円であった。
この発電所の稼動開始は,1920(大正9)年6月からであったが,動力にっ いてほ,発電所の運転開始前に,すべて:契約で売りつぐすという好景気であっ た。
しかし,この年は,いうまでもなく,1920年の戦後恐慌として守旨摘される年 であり,不況の披は全国紅広がり,多くの事業か倒産あるいは,営業不振を極 めることとなったが,この愛媛水力電気の場合ほ,比較的打撃も少なく,むし ろ,事業の進展は順調であり,大正10年末にほ,供給区域も,今治市を含めて,
3郡9町40村となっている。同年5月末の営業成績は次の通りである。
電灯 40,456個 動力 1,680馬力 収入 301,307円 支出 131,935円 純益169,411円 配当率 年1割5歩 諸積立金 308,545円
ー・J7−
愛媛県に.おける電気事業の史的発展H 271
この後,今治而の港湾整備や,国鉄予讃本線の開通など,東予地区払おける 経済発展に対応して,発電電力量の増加を企図し,なお,水源を求めて,2,500
キロワット程度の電力生産を考えていた。一溝,伊予鉄道電気は,同じ頃,出 力4,000キロワットの第二黒川水力発電所の運転を開始したことによって,供 給電力患に余剰を生じて来たため,電灯電力需要家開拓に乗り出したところで あったので,いたずらな販売競争を避けるため,両社の統合問題がおこり,愛 媛県知事の斡旋もあって,大正11年2月には両社の合併が成立した。
この結果,愛媛水力にとっては,東予地方のエ業発展に・ともなう電力不足の 解消と,料金の値下げが可能となり,伊予鉄電気常とっては,余剰電力の解消
となって,それぞれ大きな利益の獲得につながった。
なお,愛媛水力電気の合併時および,それ以前約10年間の資本金その他諸指
標の動きをみると,つぎのように・なっている。
表Ⅱ【1資本金の推移(愛媛水力電気)
55,000円(1,100株)
82,500円(1,650株)
450,000円(9,000株)
750,000円(15,000株)
1,500,000円(30,000株)
今治電気創立期 明治40年9月増資 愛媛水力創立期 大正2年11月増資
〝8年8月 〝
表Ⅱ−2 _箪払▼▼遡カノ乱力埠靡(愛媛水辺笹塾)
年 別 l極上 灯 数】馬 力 数
第51巻 策3・4号
272 l・〃トー
表Ⅱ−3嘩(単位 マイル)
種 別 七聖空聖⊥空車 上磯攣
明治45年5月
電線路亘島大正5年5月
大正10年5月
6・3【
8・3 14・6 21.9 飢.9 と 103.8
】
153.9 182.9
l
明治45年5月 大正5年5月 大正10年5月 低 圧
明治45年5月 大正5年5月
大正10年5月
310ル8
310.8明治45年5月
大正5年5月 大正10年5月
明治45年5月
大正5年5月 大正10年5月 特別高圧
長▼ ̄,【 ̄ ̄【 ̄−
2閤矧
27.4 46.3
65・7】 307・9 373・6
87小Oi530・8と 617・8
ⅠⅠⅠ宇和水電と南予地方
南予地方に.おいては,明治39年,北宇和郡宇和島鞘−・帯を供給区域とする宇 和島電灯株式会社が,地元の発起人によって計画されたが,これは,やほり日 露戦争後の企業勃興期紅当り,南予の中心地である宇和四郡内の主な町村への 電灯電力の供給を考えたことによる。 明治40年にほ,会社創立を発起したが,
充分な富の蓄蔵がなく,地元では届気事業への知識が不足し,いたずらに・不安
を与えたことが,株式応募を困難に.したが,結局,発起人の1人,太宰孫九郎
の尽力によって,43年6月に.大倉組の援助をうけることができたので,ようや
愛媛県における電気事業の史的発展H
ーー49−
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く宇和水電株式会社の創立に漕ぎつけたのである。資本金40万円で,45年5月
\¢\
1日に営業を開始した。
宇和水電の創設事情は概略,以上の通りであるが,同社ほ,順調に.発展し,
南予地方紅おける有力な電力企業へと成長した。大正初期の第一・次大戦勃発期 にほ.,北宇和郡・西宇和郡の各町村に供給区域を広げ,電力の需要増軋対して は,新たな発電所の建設でもって応じることになった。たとえば,大正3年5 月紅ほ,補助的な意味で,出力400キロワットの宇和島火力発電所を設け,同
6年4月には,資本金を100万円に増資すると共に,たまたま,南宇和郡御荘
地方を供給区域とする南予水力電気株式会社が設立されるや,直らに.これを吸 収合併し,同年9月紅は,肱川水系船戸川を利用して,横林村(東宇和郡)に 火力発電所建設を開始したが,同水路紅は,当時日本一−・という長さのトンネル
(宣長約2.7キロメ・−トル)を必要とし,しかも,同地点ほ,岩盤が極めて固 く,掘さくに.ほ多大の困難を要した。結局,工事にほ6年余りをかけ,運転開始 は.13年3月になった。このため,急増する需要に応ずるためにも,宇和水竃は,
同水路の一部を使用して,仮発電所を設けたり,野村発電所の増設,また,転 じ水系の僧都・清瀬といった小型発電所を急設し,さらに・,宇和島大浦軋火力 発電所を建設するといった措置で,この状態をうまく乗り切ったのである。
その上,余剰電力が出れは1,その消化対策も考え,一応別会社として作った 宇和製氷株式会社を,その製氷事業が軌道にのったところで,吸収合併し,同 社の兼営事業とし,この年の12月にほ,資本金を110万円から3倍以上の350万 円に増資することを株主総会で決定,翌9年3月紅ほ予定通り増資を完了し た。
この後には,高知県への進出を企図し,11年10月にほ,ようやく,幡多水力 電気株式会社(高知県幡多郡中村鞘)の合併に成功し,資本金も362万円とな
り,その供給区域は,宇和四郡に加えて,高知県幡多郡の5カ町村を含み,合
(6)宇和水電株式会社『創立15年記念写真帖』所収,「宇和水電株式会社概要」(大正14 年11月刊)および,同社『宇和水電株式会社第一・回営業報告書』に.よる。以下の記述
も両番を参考紅した。
第51巻 第3・4号 274
・一一一 さ()−
計,1市36カ町利となっている。更に,その翌年に.ほ,同じ幡多郡に.あった津 大水電製材株式会社を合併している。この会社ほ.,同郡の中村町はか3カ村を 供給区域とした資本金25万円の会社で,営業はまだはじめていなかったが,す
でに.110キロワットの水力発電所の建設を進めており,結局,この発電所や,
水利権,営業権などを社得すること紅なった。
したがって,すでに吸収合併して=いた鮎返電気株式会社(東宇和郡渓筋村・
田之筋村を供給区域とする,出力50キロワット)も加えて,宇和水電の電力生 産ほ,大正13年春の時点で,認可出力900キロワット,送電電圧は,全系統33,0 00ボルトになっていた。
こうして,3回目の増資に.よって,資本金は560万円となり,供給区域ほ,
四国の西部を南北に横断し,1市80カ町村にほで達していた。
順調に発展した宇和水竃にとって.,最大の悩みは,電源が充分ではないとい うことであった。そこへ・,営業区域の拡大紅ともなって,伊予鉄電気との競合 が大きくクロ」−ズアップされて来たのである。すなわち,1920(大正9)年,
宇和水電ほ,西宇和郡三崎半島に電灯電力供給の権利を得ようと出願したが,
伊予鉄電気もまた,その地域を自己の営業区域内に取り入れようとして競撤の 形となったのである。もち.ろん,地理的位届からいえば,宇和水電の方が当然,
選ばれるべきであろうが,先にものべたように・,同社は,電源紅乏しく,電力 供給藍が不十分であるため,供給能力の点でほ.,伊予鉄電気の申請ほまた当然 のことであるといわなければならない。それだけ紅,裁定に当った当局(愛媛 県知事)は非常に.苦慮したようである。
そこで,結局,両社の合併をすすめること紅なったわけである。しかし,宇 和水電としては,当時,なお,横林発電所ほ建設途中であり,かなりの資金を
ここへつぎこんでいるところからも,合併は同社紅とって不利益と判断し,応 じなかったので,県知事としてほ,種々の条件をつけながらも,この区域の電 力供給を宇和水竃に認めることとなったのである。
宇和水電は,比較的堅実な発展をしていたが,自然紅恵まれない地域の不利 を,資源節約等により,経営に苦心を払いながら,進めていたようである。こ
愛媛県における電気事業の史的発展卜)
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275
の後,約6年間,伊予鉄電気との合併軋至るまで,知事の交替毎に,合併をす すめられたが,同社ほ,あえて,料金を値下げして,伊予鉄電気なみとし,あ
くまで,自主的な経営の独立を維持したわけである。(未完)