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中宮寺文殊菩薩立像について―戒律と春日信仰―

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(1)

中宮寺文殊菩薩立像について―戒律と春日信仰―

著者 増田 政史

雑誌名 美術研究

号 426

ページ 1‑24

発行年 2018‑12‑25

URL http://doi.org/10.18953/00008942

(2)

中宮寺文殊菩薩立像について一

中宮寺文殊菩薩立像について

増 田 政 史

はじめに一、作品概要と鎌倉時代の中宮寺(一)作品概要(二)信如と鎌倉時代の中宮寺二、納入品の経巻断簡について(一)内容の確認(二)他本との比較―大東急記念文庫本(三)聖徳太子由縁の梵網経三、鎌倉時代における唐招提寺律(一)平安時代後期から鎌倉時代前期における南都の戒律復興(二)唐招提寺律―釈迦念仏と通受四、図像表現の検討(一)立像の五髻文殊に関する先行研究(二)戒律と春日権現(三)信如と春日信仰むすびにかえて

はじめに

奈 良・ 中 宮 寺 は、 諸 史 料 に よ れ ば 聖 徳 太 子 が 母・ 穴 穂 部 間 人 皇 女 ( 用 明 天

皇 の 皇 后 ) の た め に 建 立 し た 寺 院 と 伝 え ら れ

)(

、 古 代 よ り 聖 徳 太 子 及 び 穴 穂 部

間 人 皇 女 由 縁 の 寺 院 と さ れ て き た

)(

。 し か し、 『 法 隆 寺 別 当 次 第 』 ( 南 北 朝 時 代

頃 成 立 ) な ど の 記 録 か ら、 平 安 時 代 に は 塔 や 金 堂 の 修 理 が 行 わ れ る な ど 衰 勢

の様子が窺える。そして鎌倉時代に至ると、そのように寺勢が衰えつつあっ

た 中 宮 寺 を 同 寺 長 老・ 信 如 ( 一 二 一 一 ~?) が 文 永 年 間 ( 一 二 六 四 ~ 七 四 ) に

再興したという

)(

そ の 文 永 年 間 の 再 興 活 動 が 行 わ れ て い た な か で 造 像 さ れ た 文 殊 菩 薩 立 像

(以下、 本像) (図版

、 挿図

) は、 納入品の銘文により、 文永六年 (一 二 六 九 ) 信 如 発 願 に よ る 造 像 と 考 え ら れ て い る

)(

。 そ の 材 質 が 類 例 少 な い 紙 製

の像としてつとに知られており、 江戸時代の史料である 『伽藍本尊霊宝目録』

の中宮寺の箇所には「児文殊、御長壱尺八寸、太子の御作。用明天皇推古天

皇 間 人 皇 女 等 の 御 手 跡 の 紙 に て 張 造 り 給 ふ。 」 と、 伝 承 を 含 む も の の 本 像 を

指すとみられる記述

)(

のなかで紙製であることが記される。 ― ― 戒律と春日信仰 ― ―

(3)

美術研究四二六号二

本論ではまず、約十件にのぼる経典や法会次第等の納入品のうち、とくに

「中宮寺本経也」の墨書がある版本の経巻断簡を取り上げ、この経典の検討

を通じて主に教義面の背景について論じていく。あわせて本像の図像が立像

の五髻文殊であることに着目し、その図像表現の採用意図について考えてみ

たい。

一、作品概要と鎌倉時代の中宮寺

(一)作品概要

はじめに、本像の基本情報を述べておく

)(

像高五二・二㎝。形状は、頭部に五つの髻を結い上げ、いわゆる五髻文殊

の形式である。服制は、条帛及び天衣をかけ、折り返し付きの裙を帯でとめ

て腰布を着けている。両手を屈臂して前に出し、左手は掌を上に向けて経巻

を握り、右手は三鈷剣を執る。両足をやや開いて立つ。

本像の材質は先述の通り紙製である。中世以前に遡る紙製の造像作例は極

めて稀だが近世ではいくつか知られ、その多くは女性が発願ないし関係する

造仏であることから、 尼僧 ・ 信如の発願とされる本像はその嚆矢といえよう。

他に、奈良・成福寺聖徳太子立像は十三世紀の木造作例であるものの袈裟紐

を紙製とする珍しいつくりで、中宮寺との地理的な近さも相俟って、本像と

の関連の可能性が指摘されている

)(

。また造像年代は不詳ながら、尼寺である

奈良・法華寺の横笛坐像も紙製の作例

)(

の一つとして注目される。

次 に 構 造 だ が、 本 像 は 昭 和 十 四 ~ 十 五 年 ( 一 九 三 九 ~ 四 〇 ) 頃 に 菅 原 安 男

氏及び明珍恒男氏によって施された修理の際に、像の基本構造を成していた

経巻や文書類が内部から取り出され

)(

、現在、像本体とは別にまとめて保管さ

れている。そのため造像当初の構造については、菅原安男氏所蔵の修理説明

挿図 ( 文殊菩薩立像 全身 奈良 中宮寺蔵 挿図 ( 同 頭部

(4)

中宮寺文殊菩薩立像について三

図解をもとに佐藤昭夫氏がまとめた

)((

記述や図解 (挿図

) に従うこととする。

A ・ B の巻子本を上下にしたものを芯にして

C の折本及び冊子本を背中か

ら巻き、これを体部全体の芯とする。その上に

G の竹箆を挿し、その上端に

つけた

D ・ E の紙片を頭部の芯とする。両胸部には、

H の仏舎利を紙片に包

んでさらに金襴の裂に包んだものを納めて胸の張りをつくる。

F の紙片を左

腕 の 芯 と す る。 こ の よ う に 基 本 の 骨 格 を 構 成 し た 上 か ら 全 体 に 反 古 紙 を 貼

り、表面に近い部分には白紙を貼り付けて成形し、像表面の全体を漆で塗り

固めている。目には玉眼を嵌入している。昭和の修理時に経巻類を取り出し

た後、頭頂から像底に至る木製の心柱を入れ、頭部を中心に金属の薄片を埋

め込んだといい、像底は木製の新造である。しかし像全体が漆で覆われてい

るため、現在の内部構造は確認することができない

)((

。ただし、細部について

は別置された断片からわずかながらに垣間見ることができる。例えば、面部

正面の内側部分とみられる断片(挿図

( )は紙を何重にも貼り重ねているこ

と が 分 か り、 さ ら に 表 面 に 近 い 部 分 と 思 わ れ る 面 部 正 面 の 下 半 分 ( 挿 図

は変色しているものの、 鼻や口を成形している。 さらに、 足先及び裙裾部分 (挿 図

) も 紙 を 貼 り 重 ね て 形 づ く っ て い る こ と が 分 か り、 非 常 に 時 間 と 労 力 を

かけた造像であったとみられる。

保存状態をみると、現状の表面は麻布を貼り、漆を塗って固めている。こ

挿図 ( 文殊菩薩像納入品旧納置状況(『大和古寺 大観』一 法起寺 法輪寺 中宮寺、岩波書店、

(((( 年、(( 頁より転載)

挿図 ( 同 挿図 ( 同

挿図 ( 断片(文殊菩薩立像付属品のうち)

奈良 中宮寺蔵

(5)

美術研究四二六号四

の表面の仕上げの時期について、菅原安男氏は造像後十年程度とし

)((

、佐藤昭

夫氏も数十年のうちに行われた中古修理時の仕様とみている

)((

。ただし、着衣

部分に目を転じると、塗り固めた漆の上に施される彩色や截金の文様は非常

に鮮やかで、これがいつの時代のものかは改めて検討する必要があろう。他

に、五つの髻のうち左前方分を除く四つ、正面の帯、像底の板、両持物、光

背、台座が後補とされる。

そ し て、 基 本 構 造 を 成 し て い た 経 巻 や 文 書 類 を 分 類 す る と 約 十 件 に の ぼ

り、その内容は以下に掲げる通り、経典や法会次第、消息等である。

一、金剛界略次第

二、法華経冊子二冊 (「如来寿量品」及び「薬王菩薩本事品」 )

三、不空羂索法次第

四、施餓鬼法

五、大般若経断簡 (「中宮寺本経也」の墨書がある)

六、具注暦断簡

七、消息二通

八、消息断片

九、経巻等断片

十、舎利包紙二枚 (願文及び年紀を各表裏に墨書する)

これらの納入品のうち、納入品五の版本大般若経断簡に「中宮寺本経也」

という墨書があり、納入品七の消息にも中宮寺の名がみえることから、本像

が中宮寺ないしその周辺で造像されたことが認められる。さらに納入品十の

舎利包紙の裏 (挿図

) に記された 「ふんえい╱六ねん╱七月十二日╱信□」 ( ╱ は 改 行 位 置 ) と い う 文 言 か ら 文 永 六 年 の 造 像 と 考 え ら れ て い る。 ま た 最

後 の 二 文 字 は 人 名 と 思 わ れ、 一 文 字 目 が「 信 」、 二 文 字 目 が 判 読 不 能 で、 こ

れが「如」ないし「加」と読める。これを「如」と読んだ場合、この二文字

は「信如」ということになり、当時、中宮寺長老を務めていた信如を指すこ

とが、現在、大方の支持を得ている。信如については後述するが、先行研究

では本像の造像が中宮寺の文永年間再興時における信如の作善の一つであっ

たと指摘されている

)((

納 入 品 七 の 消 息 二 通 の う ち の 一 通 の 冒 頭 部 分 ( 挿 図

) に は、 「 中 宮 寺 の

塔のふたを法花寺の忍観房のさたにて/あまかさきの妙阿ミタ仏のもとへ/

(後略) 」 (/は改行位置) と、 消息の内容を示す文言が記される。法華寺 (「法

花 寺 」) の 忍 観 房 と は、 奈 良・ 西 大 寺 の 叡 尊 ( 一 二 〇 一 ~ 九 〇 ) が 授 戒 し た 法

華 寺 の 十 六 人 の 尼 僧 の う ち の 忍 観 房 真 恵 ( 一 二 二 八 ~ 一 三 〇 四 ) の こ と と 思

わ れ る。 円 鏡 撰『 法 華 滅 罪 寺 縁 起 』 ( 嘉 元 二 年〈 一 三 〇 四 〉 成 立 ) に は、 そ の

挿図 ( 舎利包紙(文殊菩薩立像納入品の うち)部分 奈良 中宮寺蔵

挿 図 ( 消 息

(文殊菩薩立 像納入品のう ち)部分 奈 良 中宮寺蔵

(6)

中宮寺文殊菩薩立像について五

十六人の尼が列記されており、十番目に「真恵比丘尼、忍観房、法華寺第七 番 長 老、 律 法 棟 梁。 「 嘉 元 二 年 十 月

生年七十六

廿 五 日 未 時 阿 字 観 に て 往 生。 」」 と 記 さ れ

ている

)((

。法華寺は鎌倉時代に叡尊によって再興された寺院だが、室町時代成

立 と さ れ る 聖 誉 撰『 聖 誉 鈔 』 下 に、 「 信 如 房、 法 花 寺 正 法 寺 中 宮 寺 の 三 ケ 寺

の 長 老 に て、 信 如 長 老 と よ は れ 玉 け り。 」 と 記 さ れ

)((

、 信 如 が 中 宮 寺 の 他 に 法

華寺及び正法寺の長老も務めていたことは見過ごせない。松尾剛次氏が指摘

し た

)((

よ う に、 信 如 が 長 老 を 務 め た 正 法 寺 の 尼 衆 の 本 法 受 戒 が 弘 安 八 年 ( 一 二

八五) に法華寺で行われ (『招提千歳伝記』巻下之二「旧事篇」 ) 、 そのとき、 「法

華真恵、和上として」参加したと

)((

いう。つまり、法華寺尼僧・真恵との交流

があった人物を中宮寺周辺で考えるとき、信如である可能性は高いのではな

いだろうか。

(二)信如と鎌倉時代の中宮寺

ⅰ.信如と中宮寺

ここで、本像の発願者とされる信如の中宮寺における行実に及んでおく。

信如の中宮寺長老着任は西大寺の叡尊の推挙によるものであったという。

す な わ ち、 『 正 法 輪 蔵 』 ( 元 応 二 年〈 一 三 二 〇 〉 頃 成 立 ) 所 収 の「 天 寿 国 曼 陀 羅

出現」によれば、文永年間に叡尊の甥・惣持が中宮寺に参籠し仏閣建立の祈

請をした時に聖徳太子より夢告を受け、それは中宮寺を比丘尼によって興行

させよという内容であった。惣持が夢告のことを叡尊に相談したところ、 「戒

行第一」とされた

)((

信如を長老に推挙したという。

もとより、信如はそれ以前にも中宮寺に深く関わっていたようで、弘長二

年 ( 一 二 六 二 ) に 中 宮 寺 の 年 中 行 事 を 定 め た 中 宮 寺 蔵『 霊 鷲 山 院 年 中 行 事 』

を ま と め て い る。 そ の な か の 毎 月 仏 事 の 項 に は、 「 南 山 御 月 忌 」 ( 三 日 ) 、「 解 脱 上 人 御 月 忌 」 ( 同 ) 、「 鑑 真 大 和 尚 御 月 忌 」 ( 六 日 ) 、「 舎 利 供 養

」 ( 十

九 日 ) が 含 ま れ て い る こ と は 見 過 ご せ な い。 こ れ ら の 月 忌 の 四 人 の 人 物 た ち

は そ れ ぞ れ、 唐 代 の 南 山 律 宗 の 開 祖・ 道 宣 ( 五 九 六 ~ 六 六 七 ) 、 奈 良・ 興 福 寺

に お い て 戒 律 の 復 興 に 努 め た 貞 慶 ( 一 一 五 五 ~ 一 二 一 三 ) 、 奈 良 時 代 に 来 日 し

た 日 本 の 律 宗 の 祖・ 鑑 真 ( 六 八 八 ~ 七 六 三 ) 、 信 如 に 授 戒 し た 奈 良・ 唐 招 提 寺

の 覚 盛 ( 一 一 九 三 ~ 一 二 四 九 ) で あ る。 す な わ ち、 中 宮 寺 の 年 中 行 事 に 律 宗

の高僧の月忌が含まれていることから、中宮寺では信如によって戒律が重視

されていたことが窺えよう

)((

さて、信如による中宮寺再興において最も大きな出来事は、奈良・法隆寺

の綱封蔵から天寿国繡帳を発見したことであろう。ここでは『聖誉鈔』等に

よって、簡略にその経緯を以下に示しておく。

文永年間、中宮寺長老であった信如は、退廃していた中宮寺を再興するに

あたり、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女の忌日を知ることを願い、毎年二月

十五日から二十二日までの八昼夜、 釈迦念仏を唱えた。そして、 文永十年 (一

二 七 三 ) 同 法 の 比 丘 尼 が 法 隆 寺 綱 封 蔵 に 納 め ら れ て い る 曼 荼 羅 に そ の 忌 日 が

記されているという夢告を受ける。ただし、綱封蔵は勅許がなければ開扉す

ることができなかったため、すぐに蔵内を確認することは叶わなかった。し

かし翌年の文永十一年に、法隆寺綱封蔵へ盗人が入った。後日、法隆寺の僧

が 蔵 内 を 確 認 す る に あ た り、 信 如 及 び 同 法 の 比 丘 尼 も 蔵 へ 入 る こ と を 許 さ

れ、ついに曼荼羅すなわち天寿国繡帳をみつけたという。このことから、信

如が中宮寺再興にあたり、聖徳太子や穴穂部間人皇女への熱心な信仰を有し

ていたことが分かる

)((

以上のように、当時の中宮寺においては、戒律重視の姿勢及び聖徳太子や

穴穂部間人皇女への熱心な信仰があったとみなすことができる。

(7)

美術研究四二六号六

ⅱ.信如と興福寺僧

信 如 の 初 期 の 状 況 に つ い て は、 『 聖 誉 鈔 』 下 に 次 の よ う に

)((

記 さ れ る ( 返 り

点等筆者) 。

天寿国曼

陀羅

裏書

、寧楽宮

興福寺

慈性院内

、有

比丘尼信如

、頃歳

中宮寺修造之弘願

信如は興福寺の辺の慈性院に住んでいたという。信如は後年、奈良時代の

写経に加点を施しており、そのヲコト点の形式が興福寺喜多院点であること

)((

から、興福寺の教学圏内で修学していたと考えられる。

次に、信如に関する重要な人物たちを整理しておく。ここでは、血脈及び

法脈の観点から、璋円、信円、覚盛を対象とする。

まず璋円は『聖誉鈔』下に「笠置の解脱上人の御弟子に四人の上足あり。

覚 遍、 円 玄、 良 算、 璋 円。 ( 中 略 ) 璋 円 は 西 座 党 な り。 璋 円 は 落 堕 し 御 す。

少 輔 の 得 業 と 申 し け り。 」

)((

、「 少 輔 得 業 の 女 を 出 家 せ し め て、 大 尼 の 戒 を 授 け

し め、 信 如 房 と 名 づ け 玉 け り。 」 と あ る

)((

こ と か ら、 少 輔 得 業 と 呼 ば れ た 興 福

寺僧で、 信如の父であったことが分かる。また 『法隆寺別当次第』 によれば、

嘉 禄 三 年 ( 一 二 二 七 ) の 義 疏 談 義 の 読 師 及 び 講 師 や、 嘉 禎 二 年 ( 一 二 三 六 )

の 万 灯 会 な ら び に 五 百 七 十 坏 供 養 の 講 師、 と く に 天 福 二 年 ( 一 二 三 四 ) の 上

宮王院太子御影安置供養の導師

)((

をそれぞれ務めており、法隆寺に関係のある

人物であったことが確認できる。もとより、当時の法隆寺は興福寺の支配を

強く受けて運営されていたと指摘される

)((

ことから、璋円が法隆寺の法会や儀

式へ参加していたことは当然のことであったと考えられる。

次に信如の師である信円 (一一五三~一二二四) についてである。叡尊作 『金 剛 仏 子 叡 尊 感 身 学 正 記 』 ( 弘 安 八 年 ~ 九 年〈 一 二 八 五 ~ 八 六 〉 成 立。 以 下、 『 感

身学正記』 ) に 「一人の女房あり。菩提山是阿弥陀の弟子として幽賛を学ぶ。

今の中宮寺の信如房これなり。 」と、 信如の師資関係が記されている

)((

。この 「菩

提山是阿弥陀」とは奈良の菩提山正暦寺を中興した信円である

)((

。信円は興福

寺僧であり、藤原忠通の子息で異母兄弟に九条兼実や摂政関白を務めた基房

がいるなど、興福寺のなかでも貴種中の貴種であったとされる

)((

。さらに興福

寺 内 で の 役 職 を み て み る と、 平 重 衡 に よ る 南 都 焼 討 ち 後 の 治 承 五 年 ( 一 一 八

一 ) か ら 文 治 五 年 ( 一 一 八 九 ) に 別 当 を 務 め た こ と か ら、 興 福 寺 再 建 の 責 務

を担った

)((

重要な人物であったことが分かる。

そして最後に、唐招提寺を拠点に戒律復興を行い、信如へ授戒した覚盛に

ついては、 『招提千歳伝記』 巻上之二 「伝律篇」 に以下のように

)((

記されている (返

り点等筆者) 。

菩 薩 諱

覚 盛 、 字

学 律

、 亦 自

窮 情

、 和 州 服 郷

人 也 、 姓 氏 未 詳 、 降

于 建 久 四 年

日 奇 瑞 太 多

ナリ

、 ( 中 略 ) 建 暦 二 年、 解 脱 講 師 為

サンガ

ブコト

、 如

クナリ

沙 中

ヨリ

スルガ一レ

、 乃

秀 倫 二 十 人

イテ

常 喜 院

、 専

律 教

、 師 亦 随

、 時

年 二 十 歳 也、 齢 雖

ドモ

最 少

、 恵 観 絶 倫

ニシテ

、 曽 無

相並

ブコト

覚 盛 は 若 年 の 頃、 建 暦 二 年 ( 一 二 一 二 ) に 貞 慶 が 戒 律 興 行 の た め 興 福 寺 内

に 建 立 し た 常 喜 院 で 律 を 学 ん だ と い う。 周 知 の 如 く、 覚 盛 は 嘉 禎 二 年 ( 一 二

三 六 ) に 叡 尊 ら と と も に 東 大 寺 戒 壇 院 に お い て 自 誓 受 戒 し、 寛 元 二 年 ( 一 二

四 四 ) に 唐 招 提 寺 に 入 っ て 戒 律 復 興 を 進 め る (『 感 身 学 正 記 』) 。 ち な み に、 覚

盛 は 寛 元 元 年 ( 一 二 四 三 ) か ら 宝 治 元 年 ( 一 二 四 七 ) に か け て 興 福 寺 常 喜 院

(8)

中宮寺文殊菩薩立像について七

にて律宗経典である四分戒本及び梵網経を含むいわゆる『覚盛願経』を書写 している。すなわち、唐招提寺入寺前後も興福寺にて律宗再興の願いを込め た行実

)((

が認められるのである。

以上のように信如の血脈及び法脈を確認すると、いずれも興福寺僧である

ことが分かる。信如が興福寺の教学圏内で学んでいたことも相俟って、信如

の教学及び信仰の基盤は興福寺にあったとみなしてよいだろう。

二、納入品の経巻断簡について

(一)内容の確認

本 像 の 納 入 品 の う ち に「 中 宮 寺 本 経 也 」 の 墨 書 を 有 す る 経 巻 断 簡 ( 以 下、

本 断 簡 )( 図 版 二(

a

)、 挿 図

) が 含 ま れ る。 こ れ ま で の 研 究 史 上、 等 閑 視 さ

れてきた史料ではあるが、当時の中宮寺での信仰状況及び本像の造像背景を

知る上で重要なものと思われる。そこで本断簡を手掛かりとして、本像の教

義面の背景を探っていきたい。

本断簡の法量は縦二六 ・ 八㎝。本紙は三紙継ぎで、横第一紙が一一 ・ 八㎝、

第二紙が四八・二㎝、第三紙が一七・七㎝である。ただし、第一紙目の前方

及び第三紙目の後方がそれぞれ断ち切られて当初の長さよりも短くなってお

り、第二紙目の横の法量が本来の一紙分の長さと考えられる

)((

。黄蘗染めの楮

紙に墨摺りした版本で、一行十七字からなり、字高は二一・四㎝である。全

体的に破損が幾分認められるものの、全体の文章を確認し得る程度には状態

が 保 た れ て い る。 第 三 紙 目 の あ と に 継 が れ る 素 紙 に「 中 宮 寺 本 経 也 」 ( 挿 図

(0

) と 墨 書 さ れ て い る こ と か ら、 本 断 簡 の 経 典 内 容 が 中 宮 寺 の 宗 旨 や 教 義 の 根本とされていたと考えられるだろう

)((

さ て、 本 断 簡 は 佐 藤 昭 夫 氏 に よ っ て『 大 般 若 経 』 の 断 簡 と 紹 介 さ れ て 以 降

)((

、 踏 襲 さ れ て き た。 『 大 般 若 経 』 と は

玄 奘 三 蔵 ( 六 〇 二 ~ 六 六 四 ) 訳『 大 般 若

波羅蜜多経』

)((

のことで、日本において広

く用いられてきた経典である。しかしな

がら、本断簡の文言を『大般若経』や他

の 経 典 類 に 照 ら し 合 わ せ た と こ ろ、 『 大

般 若 経 』 で は な く、 『 梵 網 経 』 巻 上 の 当

該 箇 所 に 一 致 す る こ と を 確 認 し 得 た ( 表

) 。表

( には本断簡の影印及び翻刻を、

『 大 正 新 脩 大 蔵 経 』 所 収 本 ( 以 下、 大 蔵

経 所 収 本 ) と 比 較 す る か た ち で 掲 載 し

た。行数は便宜上、本断簡の現存箇所の

冒頭を一行目とし、以降、順次割り当て

ている。 『梵網経』は、 『梵網経盧舎那仏説菩薩

心地戒品第十』 、『菩薩戒経』 、『梵網菩薩

戒経』ともいい、菩薩の守るべき戒すな

わち菩薩戒を説く経典である

)((

。五世紀後

半頃に中国で成立した偽経とされる

)((

もの

の、日本へは既に天平五年(七三三)に

は伝わっていたとされ

)((

、中国及び日本に

おいて戒律の根本経典として重視されて

きた歴史がある。

本 断 簡 の 現 存 箇 所 の み の 比 較 と な る

挿図 ( 経巻断簡(文殊菩薩立像納入品のうち) 奈良 中宮寺蔵

(9)

美術研究四二六号八

が、大蔵経所収本と比べると多少の語句の出入りはあるものの、両者が同一

の経典であることは明らかである。ちなみに『梵網経』の現存遺例に関する

詳 細 な 研 究 を さ れ た 船 山 徹 氏 は、 『 梵 網 経 』 は 文 字 の 相 違 が 異 例 と い っ て よ

い ほ ど 極 め て 多 い と 指 摘 し て お り

)((

、 こ の 出 入 り の 数 は 許 容 し 得 る と み て よ

い。本論において、 これまで『大般若経』の断簡とされてきた本断簡が、 『梵

網経』の断簡であることを提示したい。

(二)他本との比較―大東急記念文庫本

本断簡が書き写した写経ではなく版木を摺り写した版経であることを思う

とき、必然と他本の存在が想起される。そこで次に、現存する鎌倉時代の版

本梵網経との比較を試みていきたい。

鎌 倉 時 代 に 開 版 な い し 摺 写 さ れ た 版 本 の 梵 網 経 の 現 存 遺 例 は 極 め て 少 な

い。 さらに年紀を有するものは、 東京 ・ 大東急記念文庫本 (承久二年 〈一二二〇〉

の 刊 記 ) 、 大 英 図 書 館 本 ( 正 応 三 年〈 一 二 九 〇 〉 の 識 語 ) 、 ニ ュ ー ヨ ー ク 市 立 図

書 館 ス ペ ン サ ー コ レ ク シ ョ ン 本 ( 宝 治 二 年〈 一 二 四 八 〉 刊 ) 、 国 立 国 会 図 書 館

本 ( 元 亨 元 年〈 一 三 二 一 〉 の 識 語 ) な ど 数 点 に 過 ぎ な い

)((

。 こ れ ら の う ち、 本 断

簡と形状 (巻子本) 、一行の字数 (十七字) 、巻 (巻上) が同様のものを探すと、

比較に適したものは大東急記念文庫本となる

)((

。 大 東 急 記 念 文 庫 本 梵 網 経 ( 図 版 二(

b

)、 挿 図

((

) は

(()

、 上 下 の 二 巻 か ら 構 成

されるが、巻上と巻下は書体の年代に差があり当初は別本だったようで

)((

、こ

こ で は 比 較 対 象 で あ る 巻 上 の み を 取 り 上 げ る ( 以 下、 大 東 急 本。 本 論 で は と く

に 断 り の な い 限 り、 巻 上 を 指 す こ と と す る。 ) 。 巻 上 の 法 量 は 縦 二 六・ 三 ㎝。 本

紙は二一紙継ぎ。礬水引きの斐紙に文字を墨摺りする。折本の形跡は認めら

れず、当初より現状の仕立てと同じく巻子本であったとみられる。書式は一

行十七字、字高は二一・二㎝から二一・四㎝である。

巻 頭 ( 挿 図

((

) に「 梵 網 経 序 」 の 題 名 と 本 文 が 記 さ れ、 さ ら に「 梵 網 経 盧

舎那仏説菩薩心地品第十」の題名に続いて本文が始まる。

巻末 (挿図

((

) には墨摺りの刊記及び朱書きの識語があり、 以下に掲げる (返

り点等筆者) 。

(本文末及び刊記)

太子御 梵網経菩薩心地品巻上 本

ンヌ

承久二年

四月日仏子乗願当

悲 母

十三年

自力

有縁

スル

者也願

ハクハ

結縁

ラサ

切衆生

無上妙果

(識語)

法隆寺西室夏前講用

挿図 (0 同 奥書

(10)

九 陰二縁中生覚為行苦縁次意地覚縁身

3

所縁得刀杖及身創腫等法故覚苦苦縁 重故苦苦次受行覚二心縁向身色陰壊創 中生苦覚故名為壊苦縁是以三覚次第生

三心故為苦苦

3 3

一切有心衆生見是三苦 起無量苦悩因縁故我於是中入教化道三 昧現一切色身於六道中十種弁才説

3

諸 法門謂苦識苦縁刀杖縁具苦識行身創腫 発壊内外触中或具不具具二縁中生識識 作識受触識名為苦識行二縁故心心縁色 心触触悩受煩毒時為苦苦心縁識初在根 覚縁名為苦覚心作心受触識覚触未受煩

毒時是名行苦逼 生覚如 迮 石火於身心

念念生滅身散壊転変化識入壊縁縁集散

心苦心悩受念後縁染

3

著心心不捨是為壊 苦三界一切苦諦復観無明集無量心作一 切業相続相連習因集因名為集諦正見解 脱空空智道心心名以智道道諦尽有果報 尽有因清浄一照体性妙智寂滅一諦

3

慧品 具足名根一切慧性起空入観是初善根第 二観捨一切貪著行一切平等空捨無縁而

観諸法空際一想

3

我観一切十方地土皆 吾昔身所用故土四大海水是吾故水

3

一切劫火是吾昔身故所用火一切風輪是 吾故所用気我今入此地中法身満足捨吾

故身畢竟不受四大分段

3

不浄故身是為捨 品具足第三次観於所化一切衆生與人天 楽十地楽離十悪畏楽得妙華三昧楽乃至 仏楽如是観者慈品具足菩薩爾時住是地 中無癡無貪無瞋入平等一諦智一切行本 遊仏一切世界現化無量法身如一切衆生

天華品説 若仏子菩提薩埵光明体性地以三昧解了

智知三世一切仏法門十二法品名味句重

誦記別直語偈不請説律戒

3 3

譬喩仏界昔事 方正未曽有談説是法体性名第一義

3 3 3

別是名 味句中説一切有為法分分受生初入識胎 四大増長色心名六住於根中起実覚未別 苦楽名触識又覚苦楽識名三受連連覚著

受無窮已

3

欲我見戒取善悪有識初名生識

陰 縁中生覚為 二

重所縁得刀杖及身 重故苦苦次受行覚二心縁向

中生苦覚故名為壊苦縁是以三覚 第 次 生

三心故為苦苦苦一切有心衆生 是三苦 見

起無量苦悩因縁故我於是中入教化道三 昧現一切色身於六道中十種弁才説説諸 法門謂苦識苦縁刀杖縁具苦識行身創腫 発壊内外触中或具不具具二縁中生識識

作識受触識名為苦 行二縁故心心縁色 識

心触触悩受煩毒時 苦苦心縁識初在根 為

覚縁名為苦覚心作心受触識覚触未受煩

毒時是名行苦 逼迮 生 如 覚 石火於身心

念念生滅身散壊転 化識入壊縁縁集散 変

心苦心悩受念後縁保 心心不捨是為壊 著

苦三界一切苦諦復 観 明集無量心作一 無

切業相続相連習因 因名為集 集 正見解 諦

脱空空智道心心 以智道道諦尽有果報 名

尽有因清浄一照体 滅一識慧品 性

具足名根一切慧性 観是初善根第

二観捨一切 貪著 等空捨無縁而 平

観諸法空際一 切相 観一切十方地土皆 我

吾昔身所用故土 四大 水是吾故所用水 海

一切劫火是吾 昔 用 所 一切風輪是 火

吾故所用気我今入 地中法身満足捨吾 此

故身畢竟不受四 叚不浄故身是為捨

品具足第三次観於所化一切衆生與人天

楽十地楽離十悪畏 妙 楽得 三昧楽乃至 華

仏楽如是観者慈品具足菩薩爾時住是地 中無癡無貪無瞋入平等一諦智一切行本 遊仏一切世界現化無量法身如一切衆生

天華品説 若仏子菩提薩埵光明体性地以三昧解了

智知三世一切仏法門十二法品名味句重

誦記別直語偈不請 戒律譬喩仏界昔事 説

方正未曽有談説是法体性名一義別是名 味句中説一切有為法分分受生初入識胎 四大増長色心名六住於根中起実覚未別 苦楽名触識又覚苦楽識名三受連連覚著 受無窮以欲我見戒取善悪有識初名生識

((((((((((0(((((((((((((((((((0(((((((((((((((((((0(((((((((((((((((((0

※旧 字体 は新 字体 に改 めた

。 傍点 部は 語句 が異 なる 箇所

【中宮寺本(文殊菩薩立像納入品のうち) 】

(影印)

【中 宮寺 本 (文 殊菩 薩立 像納 入品 のう

ち)】 (筆者翻刻)

【 『大正新脩大蔵経』所収本】

( 『大正新脩大蔵経』

(( 一

〇 〇

c~ 一 〇

〇 〇

a) 一

( 表

『梵 網経

』語 句比 較表

(11)

美術研究四二六号一〇

刊記によれば、承久二年四月に乗願

という人物が亡き母の十三回忌にあた

り、自らの力では足りず縁ある人に勧

進を募った。そして結縁した人々や一

切の衆生が漏れることなく悟りを得る

ことを願っている。乗願なる人物の詳

細は知られないが、大東急本の摺り写

しはこのときに行われたものとみてよ

い。また、刊記のあとに「法隆寺西室

夏前講用」の識語があることから、法

隆寺伝来の品であることが分かる

)((

。 大東急本が法隆寺から寺外に出た時期は明らかではないが、その後、和田 維 四 郎 氏 ( 一 八 五 六 ~ 一 九 二 〇 ) の 所 有 に 帰 す る こ と と な っ た。 和 田 氏 は 鉱

物学や書誌学を専門とした研究者で、また数多くの古典籍を蒐集していたこ

とで知られる。東京大学史料編纂所には大東急本の刊記箇所の台紙付き紙焼

き写真が所蔵されており、台紙の表面に「和田維四郎氏蔵」と記され、裏面

に「大正六年十二月四日」の日付の押印がある。すなわち、この時点では大

東 急 本 は 和 田 氏 の 所 蔵 で あ っ た と 考 え ら れ る。 和 田 氏 は 大 正 年 間 ( 一 九 一 二

~ 二 五 ) に 久 原 鉱 業 社 主・ 久 原 房 之 助 氏 と 三 菱 財 閥 の 岩 崎 久 弥 氏 の 両 氏 に 自

身が集めた書籍を配分し、現在、久原氏分は久原文庫として大東急記念文庫

に、岩崎氏分は岩崎文庫として東京・東洋文庫にそれぞれ所蔵されている

)((

大 東 急 本 は こ の と き 久 原 文 庫 に 含 ま れ た よ う だ。 久 原 文 庫 は 大 正 七 年 ( 一 九

一 八 ) に 東 京 よ り 京 都 に 移 さ れ、 一 時 所 有 者 の 名 義 が 久 原 氏 親 類 の 藤 田 政 輔

挿図 (( 梵網経 巻上(二巻のうち) 文中 東京 大東急記念文庫蔵

挿図 (( 同 巻末 挿図 (( 同 巻頭

(12)

中宮寺文殊菩薩立像について一一

氏にかわり、 「古梓堂文庫」のラベルが貼られた

)((

。そして、 昭和二十三年 (一

九 四 八 ) に 五 島 慶 太 氏 が 一 括 購 入 し た 久 原 文 庫 は 大 東 急 記 念 文 庫 の 所 蔵 資 料

となったため、大東急本も現所蔵に至っている。

それでは本断簡と大東急本の両本を比較していこう。まず字高がともに二

一・四㎝で一致している。先に大東急本の字高は二一・二㎝から二一・四㎝

と幅があるとしたが、本断簡に該当する箇所は二一・四㎝のため、やはり同

じである。

次に語句を比べていく。紙幅の都合上、全文を逐一比較することは控え、

前 掲 表

( の 大 蔵 経 所 収 本 と 異 な る 箇 所 を 以 下 に 列 挙 す る ( 対 象 と な る 文 字 の

位置をアラビア数字を用いて「 (行数―列数) 」で表記した) 。

「重」 (

) 大蔵経所収本では「覚」となっている。

「 苦 苦 苦 」 (

) 大 蔵 経 所 収 本 で は「 苦 」 が 三 つ で は な く 二 つ の み

で「苦苦」となっている。

「 説 説 」 (

((

((

) 大 蔵 経 所 収 本 で は「 説 」 が 二 つ で は な く 一 つ の み で

あり、 「説」となっている。

「保」 (

((

) 大蔵経所収本では「染」となっている。

「識」 (

((

((

) 大蔵経所収本では「諦」となっている。

「切相」 (

((

) 大蔵経所収本では「想」となっている。

「所用水」 (

((

((

((

) 大蔵経所収本では「水」となっている。

「叚」 (

((

(0

) 大蔵経所収本では「段」となっている。

「戒律」 (

((

(0

((

) 大蔵経所収本では「律戒」となっている。

「一義」 (

((

((

((

) 大蔵経所収本では「第一義」となっている。

「以」 (

(0

) 大蔵経所収本では「已」となっている。 較すると、 両本はすべて一致していることが確認できる。先述した通り、 『梵 これらの大蔵経所収本との相違箇所を対象に本断簡と大東急本の両本を比

網経』は諸本によって語句の相違が極めて多いと指摘されている

)((

ことを思う

とき、両本の底本が同一であるとみなしてよいであろう。

さて、次に両本の書体をみていく。こちらもすべてを比較する繁は避け、

画 数 の 多 い 語 句 や 特 徴 が み ら れ る 語 句 を 中 心 に 取 り 上 げ る ( 表

)( 対 象 と な

る文字の位置をアラビア数字を用いて「 (行数―列数) 」で表記した) 。

「 覚 」 (

) 八・ 九 画 目 (「 目 」 の 内 部 の 横 線 二 本 ) の 終 わ り が 七 画 目 の

縦線( 「目」の左の縦線)と接していない。

「 創 」 (

((

) 五・ 六 画 目 の 入 り が 七 画 目 か ら 飛 び 出 て お り、 「 君 」 の よ

うにみえるほどである。

「名」 (

((

) 二画目が左方に大きく突き出ている。

「 為 」 (

((

((

) 六 ~ 九 画 目 の 四 つ の 点 が そ れ ぞ れ 独 立 せ ず に 続 い て お り、

横線一本のようになっている。

「業」 (

((

) 上部が草冠のようになっている。

「際」 (

((

) 九画目の払いが右に大きく延び、十二画目の入りが深い。

「 乃 」 (

((

((

) 一 画 目 の 入 り が 深 く、 二 画 目 の 入 り は 一 画 目 の 入 り の 上 方

より始まる。

「 貪 」 (

(0

) 三・ 四 画 目 が「 ラ 」 と な ら ず 点 を 三 つ 打 っ た よ う な 形 に な

っている。

「 了 」 (

((

((

) 一 画 目 の 入 り が 深 い た め 二 画 に 分 か れ て い る よ う に み え、

二画目のはねの根元が大ぶりである。

(13)

美術研究四二六号一二

「 善 」 (

(0

(0

) 五 画 目 が 省 略 さ れ、 ま た 六 画 目 の 終 筆 が 九 画 目 に 接 さ ず 七

画目と同化している。

以上、本断簡と大東急本との書体を比較してみたところ、極めて酷似して

いることを確認できた。先に検討した字高及び語句の一致を踏まえると、両

本ともに同一の版木から摺り写されたとみてよいだろう

)((

ちなみに、鎌倉時代には各寺院で経典類の開版事業が行われていたことが

諸先行研究によって知られる

)((

。大東急本は識語に法隆寺とあることから法隆

寺で開版した法隆寺版とする先行研究が多い一方、その書体から春日版とみ

なす研究もある。春日版とは興福寺で開版された版経のことで、奈良・春日

大社に奉納することが多かったことから、明治時代以降、春日版と呼称され

るようになった

)((

。本断簡及び大東急本の書体は春日版に近似しているといえ

よう。もとより、春日版の基礎研究を築いた大屋德城氏の説に従えば、春日

版は他の寺院の開版への影響が大きく書体が酷似するため、その違いを判断

することは困難といわざるを得ない

)((

。 (三)聖徳太子由縁の梵網経

ここで本断簡及び大東急本の底本を考えるとき、 大東急本の刊記にある 「太

子 御 本 に 校 合 し、 此 の 経 を 彫 り 了 ん ぬ。 」 と い う 文 言 に 注 目 し た い。 木 宮 泰

彦氏はこの文言から大東急本が「今帝室御物たる太子御本の梵網経によつて

校合したもの」と指摘している

)((

。帝室つまり現在の東京国立博物館の法隆寺

献 納 宝 物 の う ち、 紺 紙 金 泥 の 梵 網 経 ( 列 品 番 号

N

((

。 九 世 紀 頃 作。 以 下、 東

博 本。 )( 挿 図

((

) を 指 す と 考 え ら れ る。 ち な み に、 東 博 本 に は 聖 徳 太 子 が 自

らの手の皮を剝いで題箋にしたとの伝承がある点も興味深い。

法 隆 寺 に お け る 太 子 由 縁 の 梵 網 経 は、 既 に 平 安 時 代 の 大 江 親 通 (?~ 一 一

五 一 ) 作『 七 大 寺 巡 礼 私 記 』 で「 金 泥 梵 網 経 二 巻 」 と し て

)((

言 及 さ れ て い る。

さらに鎌倉時代には法隆寺僧・顕真が聖徳太子や法隆寺の縁起を記した『聖

徳 太 子 伝 私 記 』 ( 別 名『 古 今 目 録 抄 』。 上 巻 は 嘉 禎 四 年〈 一 二 三 八 〉 成 立、 下 巻 は

延応~寛元年間 〈一二三九~四六〉 成立

)((

。) の上巻にも、 「次御舎利殿の内に種々

の 宝 物 在 り。 ( 中 略 ) 次 梵 網 経 二 巻 は 御 手 の 皮 を 押 し て、 此 の 上 に 上 下 外 題

を 書 き 給 ふ。 此 の 外 題 を 拝 見 す る の 人 は 三 悪 趣 の 門 を 閉 せ る な り。 」 と 記 さ

れている

)((

ことに鎌倉時代にあっては、この太子由縁の梵網経が重要視されていた様

表 ( 『梵網経』書体比較表

※対象となる文字の位置はアラビア数字を用いて、「(行数–列数)」で表記した。

記念文庫本大東急 中宮寺本

(文殊菩薩 立像納入品 のうち )

「覚」(

(–

()「創」(

(–

(()「名」(

((–

()「為」(

((–

(()「業」(

((–

()「際」(

((–

()「乃」(

((–

(()「貪」(

(0–

()「了」(

((–

(()「善」(

(0–

(0)

(14)

中宮寺文殊菩薩立像について一三

子が『法隆寺別当次第』の以下の記事

)((

から窺える (返り点等筆者) 。

弘 長 元 年 辛 酉 九 月 四 日、 後 嵯 峨 太 政 天 皇 当 寺 御 行 在

之、 ( 中 略 ) 御 舎 利 堂

三 人

預 皆 出 仕

、 一 臘 弘 弁 得 業 著 座

、 法 服 平 袈 裟、 二 臘 鈍 色 五 條、 御 舎 利 等

子 細

、 三 臘 財 物

シテ

、 二 臘 請

ケテ

次 第

、 梵 網 経 殊

御 随 喜

、総

テノ

一切

事、御歎徳在

之、申

還御

、従

御舎利殿

すなわち、 弘長元年 (一二六一) に後嵯峨上皇の法隆寺御幸が行われた際、

上皇は御舎利殿に所在する梵網経を「殊に御随喜」されたという。平岡定海

氏はこの太子由縁の梵網経が当時の聖徳太子信仰の中心であったと指摘して

いる

)((

このように、当時、法隆寺の太子由縁の梵網経は広く知られており、聖徳

太子信仰の中心ともいえるほどの寺宝であった。ちなみに、信如が法隆寺綱

封蔵から発見した天寿国繡帳の模本の完成供養にあたり、天台宗僧・定円に

作成を依頼した『太子曼荼羅講式』 (建治元年〈一二七五〉成立) には、 「両指

の 皮 を 剝 ぎ て 梵 網 の 題 目 を 書 し、 一 足 の 跡 を 留 め て、 釈 教 の 存 亡 を 表 す。 」

と記されている

)((

。手の皮ではなく指の皮としている点は注意を要するが、信

如自身もこの梵網経の存在を意識していたことだろう。

以上のことから、大東急本の本文末に記される「太子御本」とは、法隆寺

から伝来した聖徳太子由縁の東博本またはその類本と考えられ、それが本断

簡及び大東急本の版木の底本であったと想定される。ここで、中宮寺が太子

創建の伝承をもつ寺院であることを思い起こせば、太子由縁の梵網経を底本

とした本断簡を本像に納入したことは由緒あるものと認め得る。

次 に、 『 梵 網 経 』 の 教 義 そ の も の が 中 宮 寺 に と っ て ど の よ う な 位 置 に あ っ たか探ってみたい。中宮寺に現存する 史料に着目すると次の二点が注目され る。まず一つ目は先に言及した『霊鷲 山院年中行事』であり、そのなかの毎 月仏事のうち十五日と晦日にそれぞれ 梵網布薩、すなわち『梵網経』に基づ く罪過の懺悔を行うことが定められて いる。

二 つ 目 は 中 宮 寺 梵 網 会 請 定 ( 中 宮 寺

梵 網 会 等 文 書

)((

の う ち ) で あ る。 こ の 請

定 は 五 か 年 分 の 請 定 で、 弘 安 七 年 ( 一

二 八 四 ) 分 に は 信 如 の 名 が み え る。 梵

網会とは『梵網経』を講読して供養す

る法会のことで、このうち最も早い弘

安 四 年 ( 一 二 八 一 ) は 本 像 の 造 像 年 代

とされる文永六年より十二年後のこと

だが、先の『霊鷲山院年中行事』と併

せ考えると、本像の造像当時において

も中宮寺で『梵網経』による法会等が

行われていたと想定される。

このように、中宮寺では『梵網経』

が重要な経典とされていた。ではなぜ

その『梵網経』すなわち戒律の根本経

典が中宮寺で重んじられていたのであ

挿図 (( 梵網経(N―(() 巻上(二巻のうち) 文中 東京国立博物館蔵

(15)

美術研究四二六号一四

ろうか。この問題を考える上で、信如へ授戒した覚盛の中興になる唐招提寺

の律学の存在は看過できない。

三、鎌倉時代における唐招提寺律

(一)平安時代後期から鎌倉時代前期における南都の戒律復興

周知の如く、日本の正式な戒律は奈良時代に鑑真が唐より来日したことに

始まる。その鑑真が創建した唐招提寺は、東大寺戒壇院とともに南都の戒律

の 中 心 と な っ て い っ た。 と こ ろ が 平 安 時 代 の 保 安 年 間 ( 一 一 二 〇 ~ 二 三 ) の

頃には寺勢が衰退し、十三世紀に至る前には既に唐招提寺の律学の伝統は一

度途絶えたという

)((

その後、退廃していた唐招提寺律を再興する動きが平安時代末期から鎌倉

時代にみられる。当該時期の戒律復興については既に諸先学によって詳細に

検討されており、ここでは先行研究

)((

に沿って確認しておく。

鎌倉時代の戒律復興を考える上で、その出発点に位置付けられている

)((

平安

時 代 の 実 範 (?~ 一 一 四 四 ) の 存 在 は 看 過 し 得 な い。 と く に 唐 招 提 寺 と の 関

係でいえば、 『招提千歳伝記』巻上之一「伝律篇」の実範の伝に、 「明旦招提

に 至 り て、 殿 宇 の 荒 廃、 緇 徒 の 零 落 を 見 る。 ( 中 略 ) 後 ま た 招 提 に 入 り、 永

久四年鳳闕に奏して、伽藍を修理す。盛て律教を説き、斯に於いて律徒来聚

し、 更 に 古 春 に 復 す。 」 と 記 さ れ る

)((

。 唐 招 提 寺 の 荒 廃 し た 様 子 を 見 た 実 範 は

伽藍を修理し、律の教えを説くなどして唐招提寺の再興を図り、ついに往時

の よ う な 姿 に 復 し た と い う。 さ ら に 実 範 の 後 に 蔵 俊 ( 一 一 〇 四 ~ 一 一 八 〇 )

や 覚 憲 ( 一 一 三 一 ~ 一 二 一 三 ) と い っ た 興 福 寺 僧 が 続 い て 入 寺 し、 そ し て 貞

慶の入寺が唐招提寺にとって大きな画期であった。 (二)唐招提寺律―釈迦念仏と通受

建 仁 三 年 ( 一 二 〇 三 ) に 唐 招 提 寺 に お い て 解 脱 房 貞 慶 が 戒 律 再 興 を 目 的 と

し て 釈 迦 念 仏 会 を 創 始 し た こ と は 先 行 研 究 が 指 摘 す る 通 り で あ る。 す な わ

ち 、『 招 提 千 歳 伝 記 』巻 下 之 三「 法 事 篇 」に 以 下 の 通 り

)((

記 さ れ る ( 返 り 点 等 筆 者 ) 。

毎 年 秋 九 月 釈 迦 念 仏 会

十九日廿六日一、

不 断 念 仏

、 三 時 大 衆 会 合

、 修

スル

法 華 講 舎 利 講 等

也、 大 和 州

諸 寺 諸 山 各 出 仕

スル

也、 建 仁 三 年、 解 脱上人初

メテ

也、事

具如

クナリ

年中法事記

この興福寺系ないし唐招提寺系の釈迦念仏会に着目してみると、貞慶が興

福寺内に創建した常喜院で戒律を学んだ覚盛と、その覚盛から受戒した信如

の存在が注意される。

まず、覚盛は唐招提寺への入寺前年の寛元元年に故郷である服部郷で釈迦

大念仏会を初めて開いたことが『招提千歳伝記』巻下之二「旧事篇」に以下

の通り

)((

記される (返り点等筆者) 。

寛元元癸卯歳、中祖於

イテ

服寺

三月十八日

廿五日

、初

メテ

釈迦念

仏 会

、 蓋

是 服 部

中 祖 生 産 之 郷

ナリ

、 故

イテ

レニ

父 母 之 追 考

乎、

提春釈迦念仏

于四云、

さらに『招提千歳伝記』巻中之三「尼女篇」の「正法寺開山信如尼伝」に

は、信如が開山し長老を務めた正法寺において建長元年(一二四九)に釈迦

念仏を始めたことが次のように

)((

記される (返り点等筆者) 。

(16)

中宮寺文殊菩薩立像について一五

イテ

和州瀧市郷

正法尼寺

、為

開山

也、建長元年三月晦日

結界

イテ

大 尼 及 沙 弥 尼 聚

レリ

、 恒

数 十

輩、 仏 殿、 鐘 楼 蔵 庫、 坊 室

、 紛

スルガ

クニ

而為

一方

精藍

也、自

四 月 二 日

於 釈 迦 大 仏 会

也 、 昌

ムル

焉、

これらのことから、赤田光男氏は貞慶によって始められた唐招提寺の釈迦

念仏会の伝統は覚盛や信如に継承されて発展していったと指摘している

)((

。ち

なみに、貞慶が創始した念仏会では七日間であったものを覚盛は八日間にし

たという

)((

。信如が穴穂部間人皇女の忌日を知ることを願い、中宮寺の塔で釈

迦念仏を八日間唱えたのも、このように覚盛による八日間の釈迦念仏会の形

式を踏襲したものとみなされる。

次に、先に検討した梵網経と唐招提寺との関係を考えると、中世の戒律復

興の特徴である通受を主張した覚盛の存在はやはり大きい。当時の戒律復興

の中心となっていた寺院は周知の如く主に西大寺と唐招提寺だが、 凝然著 『通

受比丘懺悔両寺不同記』は両寺の通受の方法に関する相違を伝えている。蓑

輪顕量氏は、叡尊の通受の方軌が『瑜伽論』の四重四十三軽戒を主に用いた

形式で、それが西大寺門侶のなかに継承されたと指摘した。一方で、唐招提

寺の覚盛の通受の形式は『梵網経』の十重四十八軽戒を用いる形式であった

としている

)((

。唐招提寺の形式は覚盛没後に『梵網経』から『瑜伽論』へと変

化しているものの

)((

、信如が覚盛から受戒したころには『梵網経』を典拠とし

ていたと考えられる。すなわち、覚盛没後であっても彼が在世中に重視して

いた『梵網経』を、信如ひいては中宮寺において引き続き重要なものと捉え

ていたと考えられるだろう。

それでは、本像の納入品に『梵網経』すなわち戒律の根本経典が含まれる こ と が 、本 像 の 図 像 表 現 に ど の よ う に 関 連 し て い る か 次 に 検 討 し て い き た い 。

四、図像表現の検討

(一)立像の五髻文殊に関する先行研究

本像は五つの髻を結い上げる五髻文殊で、これは胎蔵界曼荼羅の所説に基

づくとされる。しかし儀軌に説かれる姿はいずれも坐像で、本像のように立

像である点は儀軌に説かれておらず、この点に本像の図像の特徴を求め得る

と思われる。まずは本像の図像に関する先行研究と、類似作例の研究動向を

整理しておく。

本像に関する先行研究では、佐伯英里子氏が神奈川・光明寺本当麻曼荼羅

縁起絵巻についての論考

)((

のなかで述べている。佐伯氏は阿弥陀聖衆来迎の場

面 に 登 場 す る 諸 菩 薩 の う ち 文 殊 菩 薩 ( 挿 図

((

) が 立 像 の 五 髻 文 殊 で あ る こ と

に着目した。これは光明寺本が女性による発願の可能性があることと、本像

が信如という尼僧の発願とされるという共通項を見出し、この立像の五髻文

殊の形式は女性の発願に関連するものと指摘した。たしかに、本像は中宮寺

という尼寺周辺で造像されたためその可能性も考えられる。ただし、来迎す

る 阿 弥 陀 に 諸 菩 薩 が 付 き 従 う の は 源 信 ( 九 四 二 ~ 一 〇 一 七 ) 撰『 往 生 要 集 』

(寛和元年〈九八五〉成立) を典拠とするものである。十三世紀以降、京都 ・

光明寺本四十九化仏阿弥陀聖衆来迎図のように来迎の諸菩薩が立像であらわ

される作例がみられることから、山本興二氏が指摘する

)((

ように、神奈川・光

明寺本も『往生要集』を典拠とした七菩薩が立像にあらわされたとみなすこ

ともできよう。

次に、立像の五髻文殊の彫刻作例の研究動向をみてみよう。

東 京 国 立 博 物 館 蔵 文 殊 菩 薩 立 像 ( 以 下、 東 博 像 )( 挿 図

((

) は、 銘 記 や 納 入

(17)

美術研究四二六号一六

品の類は有さないものの、鎌倉時代の造像と考えられる優品である。山本勉

氏 は 東 博 像 が、 善 円 作 の 奈 良 国 立 博 物 館 蔵 十 一 面 観 音 菩 薩 立 像 及 び ア メ リ

カ・アジアソサエティー蔵地蔵菩薩立像と髪際高がほぼ一致し、作風も酷似

する上、両像の銘文中に春日権現の加護を願う文言が記されることから、東

博像が春日大社の本地仏五軀のうちの一軀である可能性を指摘している

)((

。春

日大社には一宮、二宮、三宮、四宮、若宮の五所が鎮座しており、それぞれ

の本地仏は時代によって尊格が異なるものの、東博像の造像当時、文殊は若

宮の本地仏に当てられていた。

ま た、 神 奈 川・ 阿 弥 陀 寺 に 伝 来 し た 文 殊 菩 薩 立 像 ( 挿 図

((

) は 近 年 改 め て

注目された鎌倉時代初期とみられる作例である。山口隆介氏は阿弥陀寺近隣

の 箱 根 神 社 の 縁 起 を 記 し た『 筥 根 山 縁 起 幷 序 』 ( 建 久 二 年〈 一 一 九 一 〉 成 立 )

に箱根三所権現を法体・文殊、俗体・弥勒、女体・観音と説く記述を取り上

げ、阿弥陀寺像が箱根三所権現の本地仏の一軀として造像された可能性を指

摘した

)((

。さらに箱根山別当・行実の命でこの『筥根山縁起 幷 序』を記した信

救が興福寺僧であることに着目し、立像の五髻文殊という南都で流布した図

像が信救を介して地理的に離れた東国にもたらされたと想定している。 以上をまとめると、鎌倉時代の作例である東博像及び阿弥陀寺像にみる立 像の五髻文殊という形式は、南都においては神の本地仏の姿として認識され ていたと考えられる。そのようにみるとき、南都すなわち現在の奈良の地に 所在する中宮寺で造像された本像の図像選択にあたって、この図像表現がま ったく関係しなかったとは考え難く、その可能性を検討する必要があるだろ う

)((

。そこで本像の発願者とされる信如周辺の神祇信仰を検討したところ、戒

律を中心とした活動のなかに春日大社への信仰を認め得ることができる。

(二)戒律と春日権現

戒律と春日権現との関係については舩田淳一氏の論考

)((

があり、ここでは舩

田氏が指摘した事例を二つ挙げておく。

まず、 『感身学正記』寛元元年七月二十二日条

)((

の以下の出来事を掲げる (返

り点等筆者) 。

挿図 (( 当麻曼荼羅縁起絵巻 部分 神 奈川 光明寺蔵

挿図 (( 文殊菩薩立像 東京国立博物館蔵

参照

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