長崎大学留学生 セ ンター紀要 第
5号 研究論文
1997年
長崎外 国人居留地関係資料 に関す る一考察
一長崎の 「 国際化」の背景一
浜 口 美由紀
要 旨
17
鎖国時代 に唯一の貿易港であった長崎は、その当時か ら海外文化の影響 を多 く受けるこ ととなった。その後、安政の開国によって鎖国政策が終 りを告げ、長崎 を含め
5つの港が 貿易港 として海外交易の窓口になった。そ して本格的な外国人居留地時代を迎えるのであっ た。
外 国人居留地の出現 は別の側面か ら見 ると長崎の 「国際化」で もあった
。外 国人の居住 によって 日本の政治 ・経済 ・文化面 に大 きな影響 を与 える結果 となった。本論文では外 国 入居琴地の歴史的経緯 を考察 し、そ して外 国人居留地関係研究資料 を通 して、長崎の 「国 際化
」における異文化 との接触 ・乳櫛 ・交渉 ・そ して交流 などに伴 う諸事項 を含めて考察 することを目的 とする。
キーワー ド :長崎 外 国人 居留地 歴史 国際化
1.
は じめに
2.
長崎外国人居留地の歴史的背景
2.1開港以前
2. 2
長崎外 国人居留地の誕生
2. 3長崎外 国人居留地造成
2. 4長崎外国人居留地の繁栄
2. 5長崎外国人居留地の解消
3.
長崎外 国人居留地関係研究資料考察
3. 1長崎外 国人居留地時代関連資料
3. 2洋風建築関連研究資料
4.
おわ りに
18
長崎外 国人居留地関係資料 に関す る一考察
1
.は じめに
平成
8年
12月31日現在、長崎市内に在住する外 国人は
66ヶ国
1,952人
(1)である
。かつて長崎の居留地時代が最 も繁栄 を極めていた明治
32年
(1899)には
1,096人の清 国人 を筆頭 に、イギ リス、ロシア、アメリカ、フランス、 ドイツ、オース トラリア、オランダ、
ポル トガル、スイス、デ ンマーク、スペインなど各国籍 の外 国人合計
1,702人が居留 して いた
。安政
6年
(1859)の開国によって長崎は貿易都市 として発展 をた どってゆ く。国際的な 取引の場 に外国商人連が集 ま り居留地が造 られ、そこに居留する外国人が増加 していった のである
。現在、長崎市 はかつて交易のあったポル トガル ( ボル ト市)やオランダ (ミデ ルブルフ市) 、中国福建省 ( 福州市)を含む
6都市 と姉妹都市提携 を結 んでい る。 オラ ン ダ ・ミデルブルフ市 は出島時代のオランダ船やポル トガル船の母港であった。歴史の中で 築かれた結付 きが現代‑継続 されている。
研究の動機
筆者 は、国宝大浦天主堂やグラバー邸が広がる南 山手 に生れ、かつての居留地の面影 を とどめるこの街で育 った。幼い頃は南山手にはまだ数多 くの洋館が残 ってお り、空 き家 と なっていた朽 ちた洋館 を遊び場 にし、洋館や石畳の坂道の中で暮 らしていた。時折、洋館 に住 む高齢の外 国人の姿 も見 られた。なぜ南山手 を含 む大浦周辺が居留地 として成立 し多 くの外国人が住むようになったのか、この ような素朴 な疑問か ら関心 を持 ち、
10数年前 に
「 大浦外 国人居留地 」( 3) の歴史 をまとめた。
その後、私 は数年間を海外の国で過 ごし、その海外滞在の経験 を振 り返 ると、海外の ど の街 にいて も幼い頃過 した大浦界隈や南山手の中にいるような感覚があった
。知 らず知 ら ずの内に、 自分の中に異文化への順応性が培かれていたのか もしれない。長崎は、港町に 共通する開放的な雰囲気があ り、居留地時代 に建築 された現存する洋館群が異国文化の繁 栄の跡 を物語っている。 自分の体験 を通 じて、長崎は数百年前か ら海外交易 によって既 に 国際的な雰囲気 をもった町であったことを再確認することとなった。
私の滞在国の
1つはスペインであった。スペインと長崎は鎖国以前から交易関係があ り、
当時のスペインはポル トガル と共 に 「 南 蛮」 と称 されて、南蛮貿易 と共 に南蛮文化が長崎
に もた らされた。この論文では 「 長崎の国際化
」という新たな視点を加 えて、再び長崎外
国人居留地に関す る研究 を行 うことにした。また、海外交易の点に於いて、私が滞在する
機会 を得たスペインに関 して長崎の居留地時代 に直接的な交易関係 を持 ってなかった とは
言 え、長崎 との関係 も考察の対象 としたい と思っている。気がつけば本論文 をかつての長
崎中国人居留地 ( 唐人屋敷)跡地で執筆 したことは私 と居留地 との何かの因果 とも思える
のである。
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5号 研究論文
1997年
19研究方法
論文 「大浦 ‑その足取 り ・大浦外国人居留地
‑」
では、居留地時代 を中心に大浦の歴史 を展開 し、居留地以前の大浦、居留時時代の大浦、居留地後の大浦を論述 した。居留地が 造 られる以前の大浦は、長崎八景の中に数えられ名勝雄浦 (大浦) と呼ばれる美 しい海岸 を持つ漁村であった。風光明嫡な場所であったがために居留地 として選ばれ、長崎では比 類のない場所 としてその名が後世に残 ることとなった。本論文では居留地の歴史的経過 を背景にしなが ら、居留地関係研究資料 を通 じて居留地 研究か ら浮かび上がって くる問題 を浮 き彫 りにする。そ して、居留地が長崎に存在 した意 味 と歴史的考察だけではな く、「異文化接触
」
の面で現代が学ぶこと、 そ して将来的 に問 われることを考察 しようと試みる。その名称が よく知 られているにもかかわらず、「長崎外国人居留地」を研究対象 とした 学術書や著作物数は多 くない。長崎の歴史書や長崎学研究書の‑項 目として 「居留地
」
が 記述 されているにす ぎない。その他の著作 として 「居留地」時代終幕の頃の思い出を綴 っ た回想録がい くつか出版 されているだけである。居留地の名称は文献 によって異な り、「長崎居留地」、「長崎旧居留地」、「大浦居留地」、
「長崎外国人居留地」、「外人居留地」 と表わされている。筆者はこの論文 中では 「長崎外 国人居留地」の名称 を使用する。
(1)
長崎市役所 r 長崎市統計年鑑j 平成
8年 ( 2) 浜崎国男 r 長崎異人街誌J
(3)
浜口美由紀 r 大浦 ‑その足 どり ・大浦外国人居留地
‑J純心女子嘉期大学社会科研 究集録 第
24集
1981pp.65‑932.長崎外国人居留地の歴史的背景 2. 1 安政開国以前
東 シナ海 をはさみ対岸に中国や韓国を臨む長崎県は、古い時代か ら外来文化 との接点 を 持 っていた。中世の頃には倭冠が朝鮮半島沿岸 に出没 してお り、室町時代 は対馬の宗氏が 厳原港 を中心 に日朝貿易 を展開 していた。
ポル トガル船が最初 に入港 したのは天文19年 (1550)の長崎県の平戸港であった。ポル トガルは当時、イン ドのゴアを東洋貿易の拠点 として、 日本 との貿易 はゴアか らマカオを 経て来る船 とマカオ経由で平戸 に入港する船があった。1557年 よりポル トガルはマカオ居 住が許可 され、マカオが寄港地 となっていた。ポル トガル船の来航は、平戸 を根拠地 とし ていた明の倭冠 ・王直が招 き、当時の平戸領主は王直によって中国貿易で利益を得てお り、
ポル トガル船来航 も歓迎 した。ポル トガル貿易は、貿易拡大 と共にキリス ト教の布教が 目
20
長崎外国人居留地関係資料 に関す る一考察
的であった。キリス ト教の布教 を日本で最初 に行ったフランシスコ ・ザ ビエルは1506年 に スペイン ・ナバ ラ地方のザ ビエル城で宮廷顧問の末子として生まれた01541年ポル トガル ・
リスボンか らイン ドに向けて出港 し、イン ド各地やモルツカ諸島などで布教 を行い、天文 18年 (1549)鹿児島に上陸後、山口を拠点に京都 ・平戸などで布教活動 を行 った。
しか し、平戸ではキリス ト教への妨害や仏教徒や家臣の平戸領主への反発 を招 き、ポル トガル船の入港先 を変更する結果 となった。その後ポル トガル船は横瀬浦 (西彼杵郡 )、
福 田 (長崎市)、口之津 (南高来郡)の各港 に各大名の庇護の もとで入港 した。
ポル トガル人が長崎港 を測量 し天然の良港 として認め られ、長崎港は元亀元年 (1571) に開港 された。キリシタン大名大村藩主大村純忠は長崎開港 を始め、町割 りを行い6ケ町 を建て、領地確保 とポル トガル船の長崎入港 を促すために、長崎 と茂木 をイエズス会‑育 進 した。長崎で最初の布教活動 を行ったポル トガル出身のイエズス会修道士ルイス ・デ ・ アルメイダやその後任のガスパル ・ウイレラなどの外国人宣教師の布教の結果領内のキリ ス ト教信者数は6万人にも上った。天正10年 (1582)に長崎港か ら4人の 日本人少年が天 正少年使節 としてポル トガル船に乗込みローマへ と出港 した。天正12年 (1584)には初の スペイン船が平戸 に来航 している。
江戸時代 になると、徳川家康 は朱印状 を与 え海外貿易の興隆を考えていた。オランダ船 が初めて長崎に入港 したのは慶長14年 (1609)で、東印度会社の商船2隻が平戸へ向か う 途中長崎へ寄港 した。東印度会社 は慶長7年 (1602)多数の商社 を合併 して、オランダ東 印度会社 を結成 し、東洋における唯一の政府機関 となった。初めジャワのパ ンタンに開設 し、16年後にバ タビアに移 った。 その活動は寛政12年 (1800)年のオランダ東印度会社閉 鎖 まで続いた。
平戸 には慶長18年 (1613)にイギリス船が入港 し、これを契機 として平戸 イギ リス商館 が開設 された。 しか し、平戸のイギリス商館は交易上の資金難 とオランダの対 日貿易の圧 迫 によって元和9年 (1623)バ タビアに撤退 した。同年、幕府 は来 日していたスペイン使 節団を国外追放 し、スペインと国交 を断絶 した。
徳川家康 は一方ではキリス ト教布教 を警戒 して、慶長18年 (1613)に禁教令 を出 した。
寛永14年 (1637)の島原の乱が契機 となって、寛永16年 (1639)にポル トガル船の渡航 を 全面的に禁止 し、出島在住のポル トガル人は全て帰国させ られた。そ もそ も出島は寛永13 午 (1636)に扇形の人工島として造 られた居留地である。市中に散宿 していたポル トガル 人を‑か所 に収容する目的として幕府が長崎の有力町人に命 じて海を埋め立てて造成 した。
出島の広 さは1万3000m2(4000坪)。ポル トガル人の出島居住はわずか3年であった。 彼 等が去 ったあと空地 となった出島に、長崎商人の強い要望で、平戸のオランダ商館 を移 し た。慶長14年 (1609)以来32年間にわたって平戸で活動 したオランダ商館が出島へ移行 し たことで鎖国体制が確立 した。以後、鎖国時代 には唐 とオランダとの貿易が長崎に限定 さ
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1997年
21れた。
徳川家康が貿易相手国 としてオランダと外交関係 を結んだ背景 には、キリス ト教布教 と 関係ないプロテスタン トの国であったか らであるOオランダは1581年 にスペインか ら独立 してネ‑デルラン ト連邦共和国を成立 させた.1648年のウエス トフアリア条約で ヨーロッ パ諸国の承認 を得て、独立国 となった経緯がある。独立以前のスペイン領オランダには、
スペイン ・ポル トガル船の船員 として日本へ来航 した者 もいた。
鎖国体制下の長崎は幕府の直轄地 とな り、唯一の海外貿易港 としての商業の発達 ととも に出島が窓口とな り、海外の文化 を日本にもた らした。出島は外界 との交流 を断たれてい たが、オランダ医学 は商館医師のケンペルやシーボル トによって教授 され、オランダ通詞 や唐通詞 との接触 を通 して海外の知識 を学ぶため長崎遊学 に全国か ら学者が集 まった。そ
平戸、横瀬浦、長崎地図
( 安野耗幸 「 港市論一平戸 ・長崎 ・横瀬浦
‑」より)
の中には林羅山 ・貝原益軒 ・ 平賀源内 ・高野長英 ・伊能忠 敬 などの名前が見 られる。
また、長崎 と中国人 との関 係 はオランダ人 よりも密接で あ り、長崎に居住する中国人 の数はオランダ人 よりもはる かに多かった。中国 との交易 は地理的条件上、唐時代(840 年代)か ら行われていた。古
くか ら中国人全体 を唐人 と総 称 してお り、長崎では阿茶 さあちゃ
んの愛称で呼ばれていた。現 在で も時折耳 にする呼称であ る。唐船の来航が多い時には 年間200隻近 くに及 び、元禄 元年 (1688)には長崎の人口 約6万4千人に対 し、市中の 唐人は1万人以上であった。
唐船には3種類 あ り、中国の
とん
江蘇省 や漸江省 、福 建 省 、東
きん
京やシャム (タイ)方面か ら 来航 していた。
幕府は元禄2年 (1689)に
22
長崎外国人居留地関係資料 に関する一考察
唐人屋敷 を設置 した
。それは唐人の市内雑居 を禁止 し唐人の密貿易の防止 と風紀上の問題 対策のためであ り、唐人だけを集めた居留地 ( 屋敷)が作られ、
5千人を収容 したのであっ た。その頃、中国本国の興亡 により明朝の上流階級の亡命者 も多数来ていた。こうして出 島 と唐人屋敷の
2ヶ所 を外国人 「 特別居住区
」として設けられた。
2.2
長崎外国人居留地の誕生
安政
5年
(1858)の 日米修好通商条約の調印により、長崎 ・函館 ・神奈川 ・新潟 ・兵庫 の
5港の開港が締結 された。ロシアも前後 してプチャーチ ンを長崎へ派遣 し、 日露和新条 約 を締結 させた。安政元年 (
1853)か ら安政
2年の間に外国船が続けて長崎港‑渡来 した ことで鎖国政策 に対する圧力 とな り、開国の気運が迫って来た。安政
2年、イギリス艦船
4隻が伊王島沖 に碇泊、
3月フランス軍艦、イギリス軍艦来港。
8月には
13隻が碇泊、オ ランダ蒸気
軍 2隻来航。相次 ぐ外国船の来港は食料補給の取引や彼等の上陸許可への折衝 など、現実的な要求が幕府 に対 して求め られる事態 となった。
日米修好通商交渉条約締結前年の安政
4年
(1857)9月に幕府 は大村領の戸町村 を公領 地 として接収 し、同村大浦郷海岸地域 を外国人用居留地に指定 した。この接収 に対 して、
後 に大村領主 に古賀村が代換地 として与 えられた。
14
条か ら成 る日米修好通商交渉条約の第
3条 に 「 開港地には居留地及 び借地 を行い、住 宅 ・倉庫の建築 を許す。開市場 には商売 をなす間だけ逗留することと家屋の貸借 をなす こ
とを許す
」と居留地 に関 して規定 されている。
安政
6年
(1859)に長崎は開港 されたO長崎は条約の締結 と同時に鎖国時代の独 占的貿 易の特権 を失 うことになった。唐 とオランダ貿易 に加 え、「 往来 した外 国人の居住及 びそ の職業活動のために、指定 された開港場の一定地域 」( 1) である居留地に居住する欧米各国 の外 国商人 との貿易活動が始 ま り、外 国商人に貿易の主導権が掌握 された。 これ より居留 地貿易時代へ と入 ってゆ く
。( 1) 重藤威夫 r 長崎居留地 と外国商人
J p.12.3
長崎外国人居留地の造成
長崎奉行は鎖国時の出島のオランダ屋敷を撤去 して新 しい条約の もとにオランダを含 む
条約
5ヶ国共通の居住地 を出来るだけ市中か ら離 して形成 しようとしていた。 しか し、オ
ランダの出島放棄が困難であると分かると、出島を居留地形成の基準 として、他 4ヶ国の
居住地の設定に計画変更 した。設定場所の決定過程で貯余曲折 したが、接収 によって大浦
の海面 を埋立て南北の山手 に展開することとなった。このに接収 によって大浦周辺の住民
が犠牲 となって しまった。大浦海岸付近には約
80軒の住民が農業 と漁業で生計 を立ててい
た
。彼 らの代替地には南接する土地が提供 されて移転 させ られたが、わずかの手当 しかな
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28かった。代替地は荒地で彼 らは何度も長崎代官へ不満を願出たが、何 も変わることがなかった。
居留地の設定 と完成は安政6年の開国と同時に成立 したものではな く、当所の居留地設 定は開国に間に合わず、一時長崎にいた外国人を内浦周辺に仮泊の許可 を出 した.居留地 は3次の造成計画によって整備 された。第 1期の造成は、名勝雄浦 (大浦)の水域 を埋立 てる大規模 な造成であった。この水域は困難な埋立て事業であ り、莫大な費用 を要するた め請負人が現われず、「自主造成
」
を強要する外交団に押 されて長崎奉行 は追詰め られて いた。この外交団とは、安政6年に長崎へ渡来 したアメリカ公使ハ リス、イギリス総領事 ウォールコックを中心に編成 されてお り、前年にアメリカ商人ウオルスが初代領事 として 居留地問題に取組んでいた。そ して天草 (現在の熊本県)の赤碕村庄屋が この事業の請負 いを名乗 り出た。工事は安政6年 (1859)に始まり万延元年 (1860)10月に竣工を見たが、再度外交団に押 され大浦湾入海面の大半を埋立て、その背後の陸手、山手 (東山手)を添 増 しして出来上がった。この地域が居留地の中心 となった。外交団の幾度 もの要請で居留 地の最初の計画予定 よりも最終的には大幅な変更 となったが、幕府は自力築造を主張 して 外国の技術 ・資力 ・労力の提供 を断 り、独 自で完成 したのであった。
第2次の造成計画は翌文久元年 (1861)に実施 され、大浦湾岸の水域は大浦川の水路 を 残 して完全に陸地化 した。第3次の造成計画は元治元年 (1864)に行われた。
大浦居留地の造成が完了 したのは開港後 1年半の万延元年10月 (1861.ll)であった。
その地域 に上、中、下の三等の差別を付けて地割 りが行われ、内浦周辺に仮泊 していた外 国人連が移動 して定着 し、開港後2年にしてようや く居留地が整 うこととなった。その後 10年は条約国の追加 と居住外国人の増加に伴い、居留地域が拡充、整備 されて明治政府 に 引継がれていった。稔坪数102,350坪 を6地区155地所に分けて外国人へ貸渡 していた。
2.4 長崎外国人居留地の繁栄
文久3年 (1863)に完成 した居留地は地区を定め、42区33番 に割 り、これ ら8町に町名 をつけた。その中には出島町、新地町 (現在の中華街)、大浦町、南 山手町、東 山手町が 含 まれる。
居留地内は前述のように3等級に分けられ、海岸沿の一等地には商社や倉庫が並び、中 間地にはホテル ・銀行 ・工場が占め、眺望の良い山手には洋風住宅 ・教会 ・領事館が建て られた。領事館の所在は、東山手にイギリス領事館 ・ベルギー領事館 ・ポル トガル領事館 ・ プロシア領事館 ・ドイツ領事館 (兼イタリア代理領事) ・デンマーク領事があ り、南山手 にはアメリカ領事館 ・フランス領事館があった。
一等地の商社 には、当時世界的に有名なデ ン ト商社 (Dent
&
Co.)とマ ッケ ンジー商 会 (Machkenzie&Co.)の名があった.デン ト商会は上海に東洋貿易の拠点 をお き、 日 本の開国と共に上海に近い長崎へ進出して居留地の主な場所 を確保 していた。開港か ら半24
長崎外国人居留地関係資料 に関す る一考察
年後 には既 に
16人のイギ リス商の登記があった。開国初期 の居留外 国人の勢力 はイギ リス 人 によって 占め られていた。イギ リス商社が
11社 と多 く、次いでアメリカが
2社であった。
外 国商社 の長崎進 出はデ ン ト商会 の ように対岸 の中国に拠点 を置 き、商社 の支店貞 または 代理人 として若手が来 日していた。幕末 ・明治初期 の長崎貿易 を独 占 した トーマス ・グラ バ ーが長崎へ来た時は
21才であった。
外 国人の居住者が増加す る と彼 らの生活 に関連 した商業 を経営す る外 国人達 も渡来 して きた 。幕 末 ・明治初期 の貿易 の輸 出の大半 は生 糸 とお茶 に占め られていた
。文久
2年
(1862)頃の 日本人貿易商人は
100名以上であった。外 国人商人 と日本人商人 との間には意 思疎通不足 や習慣 ・風俗 の相違 によ り取引上の問題が発生 し、双方か ら訴訟が起 こされ る 事態が度 々発生 した。外 国人商人 と日本人商人間の取引上の訴訟 を調査 した研 究書 か らそ
の実態 を知 る手掛 か りとす る。
重藤成夫著 「 長崎居留地貿易時代の研究
」 酒井書店 昭和36年
324p.本書 の論文 「 慶応 ・明治初年訴訟事件 を通 じて見たる長崎居留地外 国商人 と邦商 との取 引関係 」 では訴訟 を
3つ に分類 し、「 外 国人 より邦人 を訴 えた場合
」35件 、「 邦人 よ り外 国 ノ 人 を訴 えた場合 」
7件 、「 外 国人相互 間の訴訟事件 」
4件 、の個 々の訴 訟事件 内容 を具体
的 に記述 ・検証 している
。訴訟全体 を通 し次 の
2点 を述べている。
1
.外 国人か ら日本人‑ の訴訟が圧倒 的に多いがその逆 は少 な く、居留地の外 国人同士 の紛争 も少 し見 られる。
2
.外 国人か ら日本人 ( 商人)を訴 えた場合 は金銭 の支払 いの トラブルが多 い。 日本人 か ら外 国人 を訴 えた場合 は取引上慣習の相違や商品取引上の誤解か ら生 じた事件が 多 く、直接金銭 の支払いに関す る事件 は少 ない。
外 国人か ら日本人 を訴 えた訴訟の一例 を次 に挙 げると、慶応
3年 にイギ リス商人オール トが薩摩商人池 田直太郎 を訴 えている。購入物 品の代金未払事件 である。慶応
3年
12月
16日付 でオール ト商会 か ら運上所司長宛 に訴状が出 される。( 運上所 とは、 長崎港 内 の外 国 商船か らの税金徴収、輸入事務等 の海事関係事項 を取扱 う役所 の名称 の ことで、明治
6年
(1873)には長崎税 関 と改称 された)訴状 の内容 は、慶応
3年
10月 に反物類 とス ターナ ー 帆船 を池 田に売却 したが、代金の支払いが ない。役所 を通 じ支払の催促 を取 り願 いたい と い うことである。訴状 はオール ト商会名で提 出 されてお り、 日本語訳が翻訳者名 と共 に付 記 されてい る
。しか し、同年 中には解決せず、翌年
1月、
2月 に支払依頼状が引続 きオー ル ト商会 か ら運上所司長宛 に出 されている
。本書 には英文手紙の原文が添付 されてい る
。次 に日本人か ら外国人を訴えた事件の一例。明治元年に反物類の売買入山口駒之助がスェ‑
デ ン商人 メ リシ ンを相手 に訴訟 を起 こ している
。その内容 は、 日本人商人山口が客 か ら反
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5号 研究論文
1997年 2 5
物
300反買付 けの依頼 を受け、メリシンに直接反物の仕入注文 を行い、買入 の契約 を交 わ した。 しか し、山口にはメリシンへ注文 した品が届かず、その後何度 も催促 したが、メ リ シ ンか らは船の都合 な どの理 由で逃げ られていると訴 えがあった。
多 くの場合 、 日本商人が外 国商人か ら品物の買入契約 を行 った場合、相場取引のため契 約時 よりも億が下がった として も、外 国商人が訴訟 を起 こし、不利 な取引で も成立せ ざる を得 なかった。経済力格差 によって引 き起 こされる外 国商人の優位性がそ こに象徴 されて いた。 しか し、山口駒之助の事件 は当時の経済的弱者か ら強者への抵抗 とも見 える
。本書 中の訴状 か らは、居留地の外 国人が言葉が通 じない上 に、風俗 ・習慣 の異 なった国 の詳 しい内部事情が解 らないままに取引 を行 うことによって、かな りの危険負担 を しなけ ればな らなかった ことが伺 える
。外 国人 と日本人の取引関係 を通 じて特徴 的なことは、外 国商人が 日本商人 に比べ資本力 が豊富であった ことである。そ して彼 らはその資本力 を利用 し貿易以外 に 日本の沿岸の海 運業 、鉱 山、開発事業 など各方面 に活躍 していた。
居留地では居留外 国人がイギ リス領事館 に集合 して自治組織
(MunicipalCouncil ) を
結成 した。 これは従来上海の外 国人居住者で実施 された組織機構 と同様 の組織 を長崎で発
足 させたのである
。加 えて、長崎 クラブの発足 と長崎の大火災の経験か ら消防組が結成 さ
れた。消防組 は消火機器 を購入 して整備 し団
貞40名で構成 されていた。彼等 は長崎奉行へ
長崎での火災消火 に対す る協力 を申 し入れるが、長崎奉行 は火事場での紛争 を危倶 して消
防団の行動 を居留地内に限定す ると回答 した経緯 な どがあった。
26
長崎外 国人居留地関係資料 に関す る一考察
また、英字新聞の刊行 と郵便制を組織 した。イギリス人ハ ンサー ドが 日本で初の英字新 聞 「TheNagasakiShippingListandAdvertiser」を文久元年 (1861) 7月に創刊 し た。 しか し8月28号で廃刊 となる。明治元年 (1868)イギリス人F.ワルシェが英字新 聞
「TheNagasakiTimes」を創刊 した。明治3年 (1870)ポル トガル人エ フ ・プラガが
「TheNagasakiExpress」を創刊 し、数回の改選後の明治30年 (1900)「TheNagasaki Press」と改め 日刊紙 となっが、昭和4年廃刊。郵便制は横浜居留地 との提携 で月2回実 施 された。
安政5年の通商条約の 「外人の信仰 自由」の規定によって、キリス ト教禁教の時代 を経 て実に230年ぶ りに信仰の自由が外国人に限って日本国内で認め られた。 香港 を東洋布教 の拠点 としたフランスのパ リ外国宣教会 は、カ トリック布教のためフランス人宣教師フユー レを日本 に派遣 して居留地の南山手にカ トリック教会大浦天主堂 (通称 フランス寺)の建 設 に着手 し、同神父帰国後はプチジャン神父が完成 を見た。東山手にはプロテスタン トの 教会が建築 され、大浦川 を挟み旧教 ・新教の教会が向 きあう様相 と成った。
2.5 長嶋外国人居留地の解消
居留地廃止の原因は安政の五ヶ国条約が不平等条約であったことに端 を発 しているが、
形式上の解消は明治32年 (1899)7月に条約改正が実施 されるようになった時である。条 約改正 にあた り明治27年 (1894)外相陸奥宗光が交渉 し、駐英公使青木周蔵が英国 と治外 法権廃止、内地開放、税率一部引上げを内容 とする日英通商航海条約 に調印 し、5年後の 明治32年 に発効 した。この条約中の 「内地開放」により発効年の明治32年に長崎外国人居 留地が廃止 され、外国人の内地雑居が認められ日本国内の どこにで も居住や旅行がで きる ようになった。居留地時代 には外国人の居住は居留地域内に限定 され、旅行する時 も開港 場上の一定区域以外 は自由に旅行することが原則 として許可 されなかった。
実質上の終了は、 日本人商人が外国人商人か ら貿易の主導権 を回復 したことを意味 して いる。
開港当初 は艦船 ・武器の輸入で圧倒的勢力 を独 占し、唯一の貿易港 として重要な地位 を 占めていた長崎港であったが、地理的位置の不利のため有力なイギリス ・アメリカ系外国 商館 は明治中期 を境 に中央の横浜 ・神戸へ移転 し、貿易上の取引が激減 した。貿易の衰退 と共 に、居留地の外国人の中には破産者 も出て、明治10年頃には居留地の中に3割以上の 広大な空地が生 じた。 しか し、ロシアは極東での経済活動に積極的で、ロシア東洋艦隊所 属軍艦が物資補給のため長崎港への来航が増加するに伴 ってロシア商人の居住が増 えた。
ロシア東洋艦隊は冬季 に長崎港で避寒するようになった。この頃対 ロシア貿易が最 も栄え、
明治30年 (1897)の居留欧米人の中でロシア人が 1位であった。だが、明治37年 (1904) 日露戦争勃発 を契機 にロシアとの貿易 は衰退 して在留ロシア人は長崎か ら引揚 げ、長崎在
長崎大学留学生セ ンター紀要 第
5号 研究論文
1997年
住の外国人は減少 した。
外国人居留地の外国人の推移表
27
イギリス アメリカ ドイ ツ フランス オランダ ボルト だ) レ ロシア その他 計 文久
2年 (
1862) 31 37 2 5 4 1ll
91慶応元年
(1865) 66 33 28 28ll
26 2 10 151・明治
3年 (
1870) 91 26 22 13 15 19 2 8 196明治
32年
(1899) 142 124 27 74 10 9 171 49 606その他の国はイタリア ・スイス ・オース トリア ・デ ンマーク ・ベルギー ・スペ イ ンが年別 に入れ 変わっている
。3.長崎外国人居留地関係研究資料考察 3. 1.居留地時代
居留地時代の研究書の中で代表的な3つの著書 を紹介する。
これらの研究書では長崎外国人居留地を多方面から研究 してお り、全容 を伝 えることは非 常に難 しいが、居留地研究資料が論述 している居留地に関する具体的な状況の一面が見え て来る。
1.薫香武平 「長崎外国人居留地の研究」 九州大学出版会 昭和63年 825p.
菱谷氏の30数年に渡る長崎外国人居留地研究論文の集大成である。40編 を越える論文の 中か ら昭和33年3月か ら昭和52年3月までに発表 された22編を収録 し、再編集 した もので ある。菱谷氏の論文は長崎外国人居留地を包括的に研究 してお り、他の長崎居留地研究者 の参考文献には同氏の論文が必ず挙げられてお り、引用件数の点か らも、同氏の研究論文 の数か らも居留地研究の第一人者 と言えよう。
本書は、既 に発表された22編の論文を、5つのテーマを建て、テーマ別に組み立直 して 再編集 している。そのテーマは 「開国と長崎」、「外国人居留地の形成」、「外国人居留地の 自治 と財政」、「外国人商人の活動」、「外国人居留地 と華僑」であ り、巻末には 「居留地関 係略年表
」
があ り、編集後記中に掲載論文の原題 ・初出の一覧を掲載 している。著者が長崎外国人居留地研究の基礎 として最 も力点を置 く 「外国人居留地の形成
」
の中 は論文数が一番多 く収録 されている. 著者は昭和31年に 「雅羅馬考」 を発表、昭和33年3 月に 「外国人居留地埋立に関する浜武古地図について」の論文を著わ し、この 2論文が居28
長崎外 国人居留地関係資料 に関す る一考察
留地研 究の開始 となる
。本書 は、第‑居留地造成 を核 として、第三次 までの造成計画の中で長崎奉行 と欧米の外 交 団 との交渉 を経 て、完成 される推移 を究明 してゆ く論点が居留地研究の基礎 となってい
る
。居留地研 究の出発点 となった 「 浜武古地図」 ( 長崎市立博物館所蔵 )
2葉 は長崎奉行 が 大浦海岸付近の居留地設定計画の経緯 を著わ した地図である
。この地図に初期居留地設定 を知 る資料的価値 を認め古地図を多方面か ら分析 し考察 している
。そ して、イギ リス領事 バスケ ・ス ミスの書簡 に収録 されたイギ リス領事館所有の居留地設定 に関する
2葉の古地 図が存在 してお り、浜武古地図 と時期的に一致 している。 しか し、その両国間の地図の内 容の相違 に注 目し、浜武古地図の居留地計画図 とバスケ氏の古地図の完成図の著 しい異 な りは、居留地造成 をめ ぐる幕府 と欧米外交団 との対立 とその決着が浮かび上が って くるこ とを菱谷氏 は指摘 している。 この
2種類の地図を対照綜合 し検証 しなが ら、居留地造成 を 研 究の中心 に置いている。
例 えば、浜武古地図の中では、初期の居留地埋立て計画 には 「 大浦川の水路の取 り方 を 不 自然 に北方 に曲げ 」 られてお り、 この事実か ら大浦川 を境 に して長崎市街地 と外 国人居 留地 を隔絶 し、アメリカ領事ハ リスが警戒 した 日本の 「出島化
」構想の意図が見えて くる。
しか し、居留地設定 に関す る協議 にはオールコックイギ リス領事 とアメ リカ領事ハ リスが 来崎 し直接現地交渉 に当た り、 日本側 の 「出島化 」 は もろ くも崩れた。 この外交団の強い 要望で海面埋立ての平地のみ を居留地 として限定 しようとす る日本側 の構想 も押 され、居 留地の山手側への拡大が決定 された。著者 は地図の検証か ら、居留地造成計画の変更 と変 化 の推移が外交団の思惑通 りに動か されて行 く様子が伺 えると述べていた。
外 国人居留地の成立過程の研究 においては、「 長崎古地図 」 に措 かれてい る居留 地造成 図の変遷 を分析 し、中国人居留地の形成過程 にまで言及 されている。本書の最後 には 「 内 浦の建築 一俵物役所 の終末 ‑」 と題 し、江戸時代の長崎で中国に輸出されていた水 産物
( 俵物 )の集荷 を一手 に行い長崎貿易の実権 を握 っていた俵物役所 に関 して論述 し、著者 の研 究対象の広が りが伺 える
。2.重藤威夫
「 長崎居留地 とタ掴 商人 」 風間書房 昭和
42年
488p著者 は元長崎大学経済学部教授で、長崎外 国人居留地の問題 を貿易 の視点か ら分析 し、
論述 している。本書の 目的 を 「 長崎での居留地貿易時代の取引の実態 を、主 として外 国商
人 と邦人間の訴訟記録 を通 じて、明 らかにす る」 として、長崎県立図書館所蔵の慶応 か ら
明治7.8年の商取引 に関す る訴訟記録や 「 御用留」 ( 長崎奉行 )の資料 を解題 ・分析 し
ている。それは、具体的な貿易取引内容 を示す史料が欠けているため、現存す る外 国商人
と長崎商人 との間に生 じた訴訟事件記録 を手掛か りとし、長崎外 国人居留地 について論述
長崎大学留学生セ ンター紀要 第
5号 研究論文
1997年
29している。
前著 『長崎居留地貿易時代の研究』収録の 「慶応 ・明治初年訴訟事件 を通 じて見たる長 崎居留地外国商人 と邦商 との取引関係
」
の論文に加えて、「居留地外 国商人取引活動の条 約上の基礎 とその時代背景」と遺 した論文では条約 を中心 として論述 している。具体的には 「遊歩規定
」
という制限規定を核 として条約上の問題点を考察 している。開国以降の外国貿易 における自由通商は、鎖国政策の伝統が残存 し起因する乳蝶や矛盾 のなかで営まれお り、矛盾の原因の一つに自由通商に対する制限規定 として 「遊歩規定
」
があった。鎖国時代は外国人の居住は出島に見 られたように居留地内に限定 されていた。居留地外‑の遊歩 については安政5年の条約締結の時に、米国側が国内旅行を要求 したが、
幕府はこれに反対 しその安協策 として 「速歩規定」が設けられた。「遊歩規定」 には、外 国人が 日本の生活 ・地理 ・産業などの諸事情に通 じることを防止 し、貿易の発展や国土の 開発 を阻害する意味 も含 まれていた。また一方では、幕府の武士階級が持つ嬢夷思想の影 響か ら、外国人 という理由だけで外国人を殺害する事件が頻発 してお り、外国人が市街地 を離れることは危険であ り、外国人保護政策的意味 も持っていた。「遊歩規定
」
によって 自由に散歩できるのは開港場の周辺10里ほどで、旅行するときには外務大臣の旅行免状が 必要であった。明治32(1899)7月条約改正の実施によって、外国人は居住の自由と旅行の自由が与え られた。実施に至るまでの条約改正運動は明治時代の国民運動の1つであった。条約改正 の 目的は治外法権の撤廃 と関税 自主権の回復であったが、治外法権の撤廃 と同時に 「遊歩 規定」 も消滅することとなった。
3.
浜崎国男著 「長崎異人街誌」
葦書房 昭和5 3
年3 0 3 p
著者は昭和50年1月に本書 を上梓後亡 くなり、昭和53年に中西啓氏が遺稿集 として出版 した。本書 は長崎外国人居留地について居留地時代の英字新聞 「TheNagasakiShipping ListandAdvertiser」、「TheNagasakiExpress」、「TheNagasakiPress」等 を克明
に調査 し、当時の繁栄に関する史実や情報 を総括的に収集 し掘 り起 こしている。特 に居留 地か ら生 まれた風俗や文化 に力点が置かれている。平成5年に葦書房 より同書の新装版が 出版 されている。
浜崎氏は大浦外国人居留地に育ち、明治32‑3年頃か ら大正初期 までの居留地繁栄の時 期 を知ってお り、英字新聞からの史実の収集 と同時に、当時を知る人々への聞き取 り調査 も行 っている。その経歴 によると、在上海 日本軍駐在武官府に英語の翻訳 ・通訳兼書記 と して勤務 してお り、英字新聞には十分通 じていたと思われる。
内容は 「開港前夜」、「長崎異人街の歴史」、「異人街の風俗 と文化」、「異人街人物誌
」
の4部構成 となってお り、著者は 「長崎異人街の歴史」に本書の主眼を置いている。
30
長崎外 国人居留地関係資料 に関す る一考察
「長崎異人街の歴史」の中は、出島屋敷 と唐人屋敷、大浦居留地の誕生、発展する異人 街、の3部に分けられている。「大浦居留地の誕生
」
では、外国企業や外 国商社 の進出 と その実態 を詳細 に記述 していることを始め、領事館、教会、ミッション ・スクール、居留 地の警察 を含めて12項 目にまとめている。この事項から居留地内の外国人の生活基盤の制 度 と充実が伺える。 外国商社名やホテル名に関 してはカタカナ名 と英語表記 を併記 してあ り、在留外国人の 「外人借地」
一覧には外国人氏名のカタカナ表記が出身国と居住番地 と 共に記載 されている。丹念に英字新聞の内容を追っていたことが伺える。「異人街の風俗 と文化
」
の中では、パブリック ・オークションやクリスマス風景、蒸気 事始、西洋建築、南蛮菓子など風物や文化事項に関 して35項 目が書かれている。「外国語」の項 目では、居留地の在住外国人の増加に伴い明治40年頃まで英語以外にフランス語、ロ シア語の広告看板が見 られていた。同時に外国語熟が高まっていたようである。人力車の 車夫の大半は片言 まじりの外国語を喋 り、ちょっとしたガイ ドはやっていたらしい。また、
外国人公私邸で働 く日本人アマ‑ (amah)、今で言 う家政婦 は1年足 らずで 日常会話程 度の外国語を話す ようになっていたことなどが紹介 されている。
「異人街人物誌
」
には居留地時代 を代表する トーマス ・グラバーなどの5人の西洋人 と 居留地に関わった6人の日本人について略伝 と業績が述べ られている。菱谷論文や重藤論文では長崎外国人居留地の歴史的文献の裏付けによる史的背景と経過、
そ して貿易取引などの経済活動に重点が置かれていたが、浜崎国男著書では居留地の文化 史 ・生活史 ・風俗などの再評価が行われている点が特徴的である。
3.2.洋風建築関連研究資料
居留地時代 に関 しては前述の研究資料 を通 して多角的な検証や考察からその全容 を知る ことが可能であるが、旧居留地 と現代 との接点は現存する洋風建築 との関係において考察 することができる。居留地時代に相次いで建築 された洋風建築について、研究資料の中で 研究対象 として洋風建築の価値や研究意義 も含めて、どのように扱われているのか、以下
に紹介する。
1.小林勝 「長崎 ・明治洋館
」
小林勝 平成5年 303p.著者が昭和26年から撮 り続けた長崎洋館の写真集であるが、同時に長崎の洋風建築の記 録 として貴重な写真資料である。本書は1000部限定の自費出版 として出された。撮影開始 の昭和26年には約180棟の洋館が残っていたが、平成5年4月には69棟 に減少 していた。
内容は写真構成の 「長崎 ・明治洋館」、「ソレリゼ‑ションによる長崎 ・明治洋館」、「文集」、
「長崎の明治洋館、各棟の解説」、「長崎 ・明治洋館年表
」
の5章から構成 されている。各洋館の写真 と共に1棟 ごとに所在地、現在町名番地、建築年代、建築概要、撮影年月、
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5号 研究論文
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31昭和40年末現在の居住者名、解体年月が記載 され、解説の文中には各洋館の最初の所有者 と洋館の住人の変遷や解体 までの流れが克明に記録 されている。
「年表」は本書の中で特出 した力作である。年表は寛永10年 (1633)の鎖国政策の開始 か ら始 まり、平成5年 (1993)の旧香港上海銀行長崎支店の整備計画の立案 までの360年 に渡 る居留地関連の経過を膨大な資料 と新聞記事か ら詳細 に追って作 り上げている。年表 末 に、昭和40年 までの年表は菱谷武平著 「長崎外国人居留地の研究」、浜崎 国男著 「長崎 異人街誌」 を主たる参考文献 として使用 と明記 されて、昭和41年以降は居留地や洋風建築 に関連する新聞記事 を丹念 に収録 している。
昭和41年以降の年表 を通 して、洋風建築が文化財保護の対象 として認識 し始め られてい く過程が新聞報道か ら浮かび上がって来る。 しか し一方では、愛知県明治村へ長崎の洋館 が 「身売 り」され、地元保存の意識がまだ育っていない長崎の保存の実情 も同時に伝 えら れている。 長崎市役所技官山口光臣民が初めて本格的な調査 を行い、昭和42年11月2日に
「長崎の洋風建築
」
と遷 して長崎市教育貞会か ら出版 される。掲載 されている写真 は小林 勝氏が撮影 を行 っている。同書 は洋風建築 を歴史的に解説 し、文化的価値や洋風建築に対 する理解への資料的価値が高い内容 となっている。昭和44年に日本建築学会の全国調査が実施 され、その中で長崎市南山手一帯の居留地の 洋風建築群は重要な建物であることが同学会 によって指摘 されている。昭和46年9月、長 崎市は洋風建築の本格的実態調査 を9月か ら11月までの3ケ月間計画 し、文化財指定や保 存の リス トとして提示 した。この時点で120棟の洋風建築が現存 していた。昭和40年代 は 洋風建築群の取壊 しが次々と続いた。新聞記事の論調は洋館保存 を憂いてお り、その後 に は洋館取壊 しの記事が報道 され、長崎の文化財保存政策や対応の遅れが浮かび上がっている。
昭和51年3月長崎市教育委貞会か ら 「南山手の洋館」 が発行 され、続 いて昭和53年 に
「東山手の洋館
」
が出された。昭和50年代 には保存 に向けての気運が高 ま り、本格 的な洋 風建築の調査や専門家で構成 される委員会や研究会が発足 し、行政か らも条例設置に向け ての動 きが起 きた。 しか し消えゆ く洋館 は跡 を絶たなかった。昭和60年代 には、長崎市が旧香港上海銀行 を解体する計画を立て、それに対 して市民か ら保存要望の声が上が り、やがて市民 レベルの本格的な保存運動へ と繋がっていった。香 港上海銀行 は居留時時代の貿易の発展 に伴い設置された日本で最初の外国の金融機関であっ た。明治5年 (1872)に大浦海岸通のアンダース ンが代理 とな り、その後 リンガ‑商会が 代理店 を営み、明治37年 (1904)に大浦海岸通 りに3階建の レンガ造 りのビルを建築 した が、昭和6年 に閉鎖 となった。昭和63年1月にはこの旧香港上海銀行保存の署名連動が始 まり、 日本建築学会が建物調査 に入 り調査結果が長崎市へ提出され、保存 を提示 した。同 年の年表には市民連動の 日を追 う度の盛上が りと、建物調査の経緯が詳細に記 されている。
平成 に入 ると、1月に長崎市都市景観条例の施行が始 まり、現存する洋風建築のい くつ
32
長崎外 国人居留地関係資料 に関す る一考察
かが文化財指定を受けることとなった。ようや く保存への法的効力が発揮 されはじめて来 た。平成元年9
月
4日現在で69棟の洋風建築が現存。平成3年、束山手 ・南山手地区が国 の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。また、出島復元運動 と復元の法的整備 も合 わせて詳細 に報告 されている。昭和26年にオランダ大便 より出島復元への強い要望があり、実に50年以上 も復元が未だに継続中なのである。
洋風建築の取壊 しの一因に、洋風建築が市民生活の中に 「普通
」
に存在 してたために価 値 を見出だせなかったことが伺える。 洋風建築は石造 りではな く、ほとんどが木造建物で あったため耐用年限の限界が都市開発の波 と重なり取壊 しに拍車がかかった。観光都市長 崎の顔で もあった居留地時代の 「遺跡」
としての洋風建築が取壊 された後で、歴史的 ・文 化的価値の再評価が行われ、ようや く保存 に向けて行政の動 く所 となったことが本書の年 表か ら読取ることができる。本書の 「文集
」
には、居留地時代の貿易商人や亡命ロシア人など居留 していた外国人に ついて著者 自信の交流を交えて書かれている。それは居留外国人の伝記 とも読める。巻末の参考文献は、居留地研究者へ居留地研究資料 としての貴重な文献 リス トとなり得 ると思われる。
2.山口光臣 「長嶋の洋風建築
」
昭和42年 179p.山口氏は長崎市教育委貞会社会教育課に所属 していた時に洋風建築の実態調査 を担当 し た。前述の小林氏の著作 によると、長崎の洋風建築の調査が始まったのは、昭和34年村松 東大助教授 (当時)がグラバー邸を国の重要文化財に指定する調査のために長崎を訪れ、
松村助教授の調査が契機 となったことである。山口氏は昭和39年から調査 を開始 し、長崎 の洋風建築の全容 についての実態調査が初めて実施され、3年後の昭和42年に本書は刊行
された。
内容は、写真 による洋風建築の現況 (昭和40‑41年当時)の紹介、開港以前の出島を中 心 とした洋風建築を史料 を通 じて検証 し、開港後の洋風建築の建築過程や建物の構造部材 ・ 主な建物の解説などがが詳細に報告されている。 特出すべ きは、保護対象の洋風建築や保 存育成すべ き洋風建築をリス ト化 し提示 している点である。木造の洋風建築が老朽化 し、
その価値 を評価 されぬまま、 1棟、2棟 と消えて行 く現状 に対する著者の保護対策への提 言 とも言える。
ポル トガル貿易 に伴い宣教師が来 日しキリス ト教が広 まったことは前述 したが、慶長19
年 (1614)頃の長崎には11の教会の所在が伝えられている。その後オランダ商館の出島移 転 に伴い商館 などが出島に並んだ。これらが長崎の洋風建築の初めである。 しか し、キリ ス ト教禁教令 によりこの洋風建築は破壊 されてしまった。よって、本書の洋風建築は居留 地時代直前の幕末 ・明治時代 を対象 としている。
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5号 研究論文
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33長崎の洋風建築の特徴 は、横浜 ・神戸などのように有名な建築家 によって建て られた建 物が少な く、西洋建築技術の未経験 な日本人大工が洋風 を見 よう見 まねで設計施工 した木 造の擬洋風建築である。著者はこの 日本人大工や 日本人棟梁 にも焦点を当て、無名の大工 に対 して も彼 らを研究調査 している。「幕末 ・明治時代の居留地建築 を語 るには、 その基 礎 を造 った彼 らの苦心の跡 を見逃 してはならない。」と大工や棟梁の業績 を再評価 している。
日本人棟梁が請負 った洋風建築の建築過程 は、外国人施工主 との交渉の中で作業が進行 してお り、異文化間の接触の一面で もあった.交渉 における言語 ・習慣 ・風習の相違か ら 両者間の意思の融通 を欠 く結果 ともなった。本文中にはフランス人プチジャン神父が大浦 天主堂建築工事の完成 を控 えての書簡の中で 日本人棟梁 について 「職人が足 らず、い くら 催促 して も彼 は殿様風 に振舞い時間をつぶすばか り、いつ も人を馬鹿にした風をしている
」
と綴 っている。 言葉が通 じない誤解や居留地各地の建築が重な り職人を手配するために起 きる職人不足の状況 をプチジャン神父が理解で きなかった様子が伺 える。
洋風建築の総数について著者 は居留地時代の古地図や写真資料 を基 にしてその実数 を出 している。居留地初期の木造家屋の総数は209棟、居留地中期以降は420棟増え790棟であっ た。そ して昭和42年現在 はその4分の 1程度の138棟が確認 された。138棟の内訳は旧居留 地内に85棟 、旧居留地外 に53棟が現存 し、建築時代 を分類すると幕末14棟、明治初期18棟、
明治中期63棟、明治後期43棟である。これ らのデータを附表にして居留地内区域 に分け、
洋風建築の所有者名文は居住著名度に記載 している.建築明細一覧表 には、138棟全 ての 構造概要 (木造・2階 ・桟瓦葺 ・寄棟 ・ベランダなど)の調査結果が記載 されている。
同氏が保護対象の洋風建築 として指摘する46棟 には大浦天主堂など居留地洋風建築の 目 玉 とも言 える大型建築が含 まれている。保存育成すべ き洋風建築は27棟が挙げられてお り、
その中に既 に今 は失 くなって しまった 「高島炭鉱舎」 も含 まれていた。具体的な保存の対 策は言及 されていないが、対応策が急がれることを山口氏はその リス トの中で訴 えている
と思える。
同書刊行後の昭和42年以降 も次々と洋風建築が消えていった経過は小林氏の中で述べた。
しか し、保存や歴史的価値の対象 としての洋風建築の評価 を認識 させ るきっかけとなった のは同書である。著者は調査 にあた り、残存の洋風建築は住宅 として使用 されてお り、建 物内部の調査 においてはプライバシーを侵す恐れがあ り詳細 な調査が困難であった と初の 実態調査の難 しさを綴 っている。対象 になった洋風建築の中には、私の祖父母が住 んでい た懐か しい南山手の洋風建築 も含 まれ、当時の居住者名に祖父の名を見つけ、山口氏が こ こを訪れ調査 を行ったことなどに思いを巡 らした。残念なことに祖父母が住んでいた洋風 建築 も取壊 され、跡地には新 しい大浦カ トリック教会が建 っている。この一角は南山手の 洋風建築群 を成 していた場所であった。