子ども認識の歴史的新段階 [3] −雑誌『生活学 校』の児童文化論−
著者 岡本 定男
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 39
号 1
ページ 95‑107
発行年 1990‑11‑26
その他のタイトル A Historical New Stage of the Recognition for Children [?] −The Papers on Juvenile Culture in the Journal "Seikatsu Gakko"−
URL http://hdl.handle.net/10105/1956
子ども認識の歴史的新段階〔3〕
一雑誌『生活学校』の児童文化論一
同 u ・#.叫 (奈良教育大学教育学教室)
(平成2年4月25日受理)
筆者は、全巻迄で、児童文化に対する社会的関心の成立を子ども認識の歴史的新段階の一つと して捉え、児童文化運動における雑誌『生活学校』の位置づけ及びこの雑誌に反映した児童文化 活動の典型的展開に沿いっつ、その活動と理論の特質を明らかにすることに努めた。本巻では、
この雑誌に掲載された固有の児童文化関連論考を集中的に検討することとする。
第Ⅳ章 『生活学校』の児童文化関連論文
教室内に閉じ込められた、学力を中心とした限られた能力や範囲からのみ子どもをみるのでな く、その根づき呼吸する生活の中に彼らの生きた能力や実態を捉えようとする児童観、さらには、
軍国主義化しファッショ化しつつある時局への批判的注目の姿勢を崩すまいとする社会的態度な ど、 『生活学校』に一貫して示された立場は、幾つかの節を経過しつつ確固とした土台を築いて いた1936年7月、雑誌の発行母体であった児童の村小学校が解散したのを決定的な契機に、
『生活学校』はより広く、より現実的な教育使命への脱皮を願って再出発した。全国の教師の
「尊い苦心を一人のものとせず、心からの悩みを訴え、意見や主張を出し、経験を伝え、活発に 批判し討論し」(1)あう機関として、自らの役割を位置づけたこの雑誌が、創刊当時から関心を抱
き啓蒙を続けた児童文化の問題に、従来にも増して潰極的な論陣を張ったことは、こうした児童 観や社会的態度の一つの典型的具体化であったとみることができる。 『生活学校』児童文化論の
より専門的社会的レベルでの達成を志向した論文は、この再出発を境に飛躍的に増加し、こうし た論の積み重ねは、やがて終刊間近の1938年5月号の「児童文化特集」へとつながっていくこと になる。この特集に盛られた児童文化へのアプローチは、単なる‑雑誌の児童文化論の到達点を 示すもの以上に、戦前に於ける我が国の児童文化を教育的課題として正面からとりあげ論じたも のの頂点にたっものであったといえる。以下、雑誌『生活学校』の児童文化論文に拠って教育課 題と切り結んだ児童文化論の展開を跡づけたい。
それに先だって、これらの論文の性格について見てみると、それらが編集グループと直接・間 接につながった限られた人々によって著わされていたために、問題を論ずる分野やアプローチの 仕方にも自然偏りがあった。しかし、 『生活学校』は、現実の教育的課題の解明に科学的・合理 的・建設的態度で臨んだ全国誌である故、その偏り自体は個人的なものである以上に時の問顔の 重点のありかを示すものであったと考えたい。そう捉えた上でこれらの内容を見てみると、それ は主として、児童文学(児童読物)と児童演劇(学校演劇)の二分野に集中している。従って以 下の考察に於ても、この順序で見ていくことにしよう。
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i1.『生活学校』の児童文学(児童読物)関連論文
大正中期に始まる雑誌『赤い鳥』を中心に展開された児童芸術運動は、児童観や教授法の幾多 の革新を伴った自由教育運動とも関わって、後に「児童文化」という名称の社会的定着を生む各 分野の文化内容を新たに生み出した。自由画や学校演劇、綴り方や児童自由詩といったジャンル が、優れた指導者を得て新しく生み出され、児童芸術の有力な帯域を占めていく。これらは、師 範学校付属や一部の私立学校の教科課程に反映し、学校教育の内容・方法にも一定の影響を及ぼ す程にその運動の広がりを有していった。それは、「世間の小さな人たちのために、芸術として 真価ある純農な童話と童謡を創作する最初の運動」(2)と自己規定しているところにみられるよう な児童芸術や児童文化における文学中心の運動であった。人間が他の動物と本質的に区別される 特徴の一つである言語が、人間の人間らしさの本来的表明としての文化・芸術活動において中心 的役割を果たすことは、極めて自然なことであろう。こうした一般文化や芸術における事情と並 んで、こと児童文化の世界における児童文学中心の歴史や理論の展開は、近代化達成の日本的特 徴と無関係に考えることはできまい。「民衆にいわゆるボーダーラインすれすれの生活しか許さ れなかった近代社会では、必然的に、子どものためのもっとも安価な文化としての児童文学のみ が繁栄、その他の児童文化は貧弱なままであるよりはかなかった」(3)という民衆の生活レベルの 低さと行政の文化施策の貧困に起因しているとみるべきかもしれない。とはいえ、客観的状況を 現実化させるのが、運動の主体的事情によるものであることは言うまでもない。『赤い鳥』にし ろ、明治のお伽噺の運動にしろ、それを主導的に押し進めたのが他ならぬ文学者であったこと。
そして、一流の実績と力量を持った人達が、その動機はともあれ、「小さな人たちのために」半 生を捧げる決意と行動力を現実のものにしようとしたこと。こうした事実こそが、児童文学を主 流として位置づける傾向の主たる要因であったとみるべきであろう。
ところで、雑誌『生活学校』が、教師主体による「過去の運動の紹介により教師らの実践を促 す形を発展させて、現におこなわれている進歩的な児童文化運動との結合の傾向」(4'を具体的に みせ始めるのは、1936年(昭和11年)に入ってからである。この年1月、書評(松田解子「模本 楠郎著『子猫の裁判』をよむ」)と紹介(戸塚廉「『児童芸術研究』」)を載せた同誌は、3 月号に専門的な児童文学論文の第1弾として柳瀬浩(菅忠通)の「児童文学の教育性(‑)」
を登場させた。「『教育性』は、児童文学の本質的契機である」に始まるこの論文は、翌月号を含 む2回連載で、明治・大正期の児童文学を概観した(5)
。ここで彼は、巌谷小波に代表される「封
建的勧憩の再生産」と「ヘルバルト学派の移植に実を結んだ初等教育界の童話教育の実践」(6)と が両々相まって明治の児童文学を性格づけ、そこにみられる「児童文学の教育性」が「ためにな るお話」として世に理解される「教訓的道徳性」に他ならないことを指摘する。そして、教育性 のこうした理解は「隠然たる勢力を持しつつ今日に迄及んで」(7)おり、それが児童文学を狭盗か つみすぼらしいものにしていると断じている。これに反して、大正期の児童文学に流れる教育性 は、「何等か目的意識的な、従って大人の側からの潰極的指導を意味する一切の関与とは無縁の ものであった」(8)という。児童芸術運動は、その作品におけるのびやかさや芸術的形象性という 点でしばしば成果を挙げ、「児童文学の教育性の理解に於いて、明治期の狭き教訓的道徳性を批 判し広き人間性の解放、児童性の称揚を啓示しながら、現実の児童には遂に指導的に対し得ず、
之を観照の具となし終った」(9)としている。
細って、この両連載の記述の一般的観点、即ち菅忠道における「児童文学の教育性」の理解
はどこに求められるのであろうか。この論文でみる限り、それは「児童に対して現実的社会に於
ける生き方を教へると云ふ指導的役割」(10)にあったといえる。従って、社会性・現実性こそその 尺度となるものであり、「児童の興味関心を的確に把へ、教育的役割の実践に於ては横極的能動 的な働き手であることを示した」(ll)いわゆる通俗少年少女小説も、この限りで評価の対象となる のである。こうした見方は、児童文学的に眺めるならば、プロレタリア児童文学運動解体後に新 しい潮流として現われた「生活主義童話」(あるいは「集団主義童話」)の立場に一定照応しつ つ、児童に対する指導性を「児童文学の教育性」のあるべき姿とみる点で、菅の教育実践家的態 度の傾斜をみることができる(12)
。
菅忠通に続いて『生活学校』が次に登場させたのは、模本楠郎であった。彼は、大正期の児 童芸術運動、なかんずく児童文学の「超階級性」を徹底して批判し、昭和初期のプロレタリア児 童文学運動の理論的指導者であったが、この頃もひきつづき創作・評論・運動の全般にわたる指 導性を発揮していた。当時の模本の立場を明確に示した論文の一つが「児童話壇と小川未明の存 在」(1936年6月号)である。周知のように、小川未明は近代日本児童文学史に不滅の作家であ り、プロレタリア児童文学運動においても、「反資本主義的」児童文学作家の統一組織『新興童 話作家連盟』(1928年10月結成)にも参加するなど、主として社会主義の立場に立って作家活動 を行った人である。/州Iは、間もなく思想上の対立からこの「連盟」を脱退し、新しい組織「自 由芸術家連盟」を結成(1929年12月)し、梶本の主要な論敵となる。こうした歴史的経緯に立っ てこの論文は書かれている。
模本は、小川が「今日まで、終始一貫悪戦苦闘しながら児童文学建設のために奉仕してきた恩 人」(13)であると評価を与え、小川の近作童話集『犬と犬と人の話』(『日の丸標準童話集第一 巻』1935年)に収められT=作品の評価を行う。彼の述べるところによれば、この童話集は、「現 在の日本童話界にとっても最高のレベルをしめすもの」であるという。しかし、彼がこの評価を 記した目的は、単にその作品のレベルの高さの故のみではなく、「営利的コドモ雑誌と絶録して は、吾々は作家として存在するわけにはいかない」(14)といった苦難の時代にあって、どこまでも 作家としての良心と現実的課題に迫ろうとする気迫を失っていない未明の健闘が、童話壇の範と なっていたからである(15)
。
ふりかえってみれば、この時期は、昭和初頭の『日本児童文庫』(全70巻、アルス社)、『小 学生全集』(全88巻、文芸春秋社、興文社)といったいわゆる「円本」時代の到来により、主と して同人雑誌という限られた発表舞台しか与えられていなかった児童文学界に、ようやく「児童 文学の早春」(坪田譲治)の兆しがみえ始めた時代であった。幅広い児童読物を収録した『日本 少国民文庫』(全16巻、新潮社、1936年)や草本自身の作品も含めた『新童話選集』(全6巻、
子供研究社、1937年)など良心的で優れた内容のシリーズが相次いで刊行され始めていた。一方、
後に内務省の統制を引き出し、やがて児童文化全般にわたる翼賛運動を誘う呼び水となった児童 読物の悪質・低俗化が極点に達していた時代であった。模本が、児童文学界の重鎮小川未明に対 する最大限の讃辞をおくったのは、こうした状況のもとにおいてであったのであり、彼の本心は 非常時から戦時へと逢着しつつあった時局にあって、「児童擁護」の立場をまもることであった と思われる(16)
。そして、そのためにこそ生活苦や社会的不遇と闘いながら、引き続き地道な努力
を続けていた童話作家たちに対して、「いかなる社会的諸条件の中にも、吾々は希望と努力を失っ
てはならない」と訴え、彼らとともに「『児童擁護』の任務を一層ペンを武器として奮闘」(17)し
ようとするものであった。全面的な日中戦争となった日華事変が起こり、民衆の権利と生活の耐
え難い圧迫が急速に進行しつつあった時代にあって、これは、良心的進歩的な児童文学・児童文
化運動を一歩でも押し進めようとする「統一戦線の主張」(菅忠通)そのものであった。
模本は、この評論を皮きりに「童話教育講座」を6回にわたって連載することになる。これは 童話の教育的利用に関する方法・技術を具体的に説明するもので、主として「口演童話」(聞く 童話)のあり方をめぐって述べられている。保母や教師の実際の利用を意図した丁寧な解説の中 にあって注目されるのは、その児童文学観であろう。彼は、「良き童話は最も新しき生きた児童 を取扱い、その現実生活をより良き将来へ発展せしめようとするもの」(18)であると規定する。こ れはすでに述べた「生活主義童話」の立場にたった把捉であり、こうした見解は、すでに評論集
『新児童文学理論』(東宛書房、1936年)としてまとめられていた。(19)さらに、童話作品の善悪 の基準に言及して、それが「(1)児童の立場で‑→(2)児童の関心事を‑(3)児童の理解しやすいよ うに‑(4)芸術的(文学的)に形象化されているかどうか」(20)が問題であるとして、判断の目安 を提示する。このいわば常識的とも言える公式化の試みも、「成人の文化と児童の文化とは、い つの時代も個別に対立的に発達するものではなく、従って質的相違をもつものでもない。」(21)と いった把握をした上での配慮であった。そして、こうした基準にたって、童話作者は、「『心の技 師』であり、ヨリ良き生活の組織者であり、ヨリ正しき文化建設に役立つ『精神』の培養者」(22) でなくてはならないと説く(23)
。児童文学に限らず児童芸術一般においては、児童自身の批判を受
ける事によってその一層の発達が得られるとして、「感銘調査の方法」を提示するなど、(24)総じ てこの時期の模本の理論活動は、「狭いプロレタリア文学主義の枠をこえて、一般的に、合理的 な児童文学観の基礎をきずいたもの」(25)として正当な評価を受けるべき性格のものであった。
模本にみられる統一戦線的主張は、『生活学校』に載った最後の児童文学論にも端的に示され ている。川崎大治「童話作家の叡知と愛情」はその一例である。川崎は、この中で「高い叡知と 蓮しい愛情の上に立っ作家の未来には光がある」(26)として、『赤い鳥』以来「恐らく日本で一番 永いリアリスト」である北川千代とその作品に盛られた方向に深い共感と支持を表明している。
何故なら数年来「新しい作家たちは、言いあわせたように、児童の現実に眼を向けて」(27)きてい る中で、北川の作品の中には、「子供があくまで子供の生活の中から現実を正しく認識して行く 過程」が「心憎いまでに立派に表現されている」(盟)からである。自ら生活主義童話の代表的作家 であった川崎の「あらゆる層のあらゆる児童の広汎な問題をとらえて、その文化的要求に正しく 答えなければならない」(29)とする立場は「子供クラブは決して金持ちの子供を仲間はずれにする というのではない。クラブの精神に従って協力する者はみんなクラブの子供だ」(30)として、全村 的な文化・教育活動を展開した戸塚廉らの姿勢と共通のものであった。そして川崎が、山形の‑
小学校教師であった国分一太郎の童話を「作者の持っている児童の中における生活の深さである。
心の豊かさである。題材としてとりあげたその子供たちのこころのすみずみまで、ゆきわたって いる作者の愛情の温さである」(31)と評するとき、そこには、(児童文学界内部における統一志向 のみではなく)児童文化人と教育者との内的・質的連帯の姿勢をそのまま見取ることができるの である。
以上みてきたように『生活学校』の児童文学関連論文は、一、二の例外を除き、具体的な方法
や技術に関わるものか、作家や作品への同志的評論が主であった。児童文学論としての水準の高
さを誇りうるものではないだろう。しかし、そこには苦難に満ちた時代に、良心と児童擁護の姿
勢を守り通そうとする強い意欲が満ちていたといえる。
昏2.『生活学校』の児童演劇(学校演劇)関連論文
『生活学校』の児童演劇(学校演劇)への関心は、前節の児童文学へのそれに比し顕著なもの があった。『生活学校』は、前巻で述べたように児童文化財の一分野としての紙芝居の教育的活 用をひろめ組織するうえで重要な役割を果たしたが、それはあくまでも実践的な援助に重点をお くものであった。街頭紙芝居に対する教育的・社会的批判(俗悪・不衛生・通行妨害等)を背景 に、紙芝居そのもののもつ教化力に着目し、これを生活指導や集団活動の独自の武器にまで改変 することに成功した松永健哉らの活動をその初期において支援したのである。また前節で述べた 児童文学との関わりでは、子どもや教師の関心の深さ、その影響力の大きさ等を顧慮し、児童文 化を論ずるうえでの基本的な頚城として、この分野の専門家達に筆をとってもらうという性格の ものであったと考えられる。こうして紙芝居及び児童文学との関わりが、それぞれ実践的・理論 的なものであったのに対して、児童演劇へのそれは、この両者を同時に合わせもっものであった と思われる。ここでその検討に先だって児童演劇の歴史を極めて大雑把に概観しておこう。
わが国の子どものための本格的な演劇運動は、明治の末年、巌谷小波によって始められた「お 伽芝居」と呼ばれる運動にその源流をもつものといわれる。また子ども自身による演劇活動も
「学校芝居(対話)」用の脚本が、同じく明治末年頃小波によって公にされており、その教育的 利用の基盤を提供していた(32)
。こうした素地の上に児童の演劇活動が、教育実践として清極的に
とり入れられ運動の広がりをみせるのは、大正中期以降である。児童演劇と学校劇のそれぞれの 運動の達成を反映してその後長く理論上の指導書として仰がれた坪内遭遇『児童教育と演劇』及 び小原国芳『学校劇論』(ともに1923年)の出版は、童謡・童話・自由画と並ぶ芸術教育の一分 野である演劇運動の高揚を象徴するものであった。翌年「学校に於て脂粉を施し、劇的動作を演 じて公衆の観覧に供せしむる学校劇は、質実剛健の民風作興の途に反する」として、岡田良平文 部大臣によって発せられたいわゆる「学校劇禁止令」は、芸術教育を支持する現場実践家にも反 省を促し、(33)学校劇・児童演劇の分野に限らず、すでに限界をみせ始めていた芸術自由教育運動 全般に衝撃を与えた。しかし、この訓令が一つの契棟となり、成城小学校を中心とした学校劇の 実践と研究は質的前進をとげ、昭和期に入り公立小学校教師にたちによる「学校劇研究会」
(1932年4月)結成に至る運動の再高揚期を築くことになる。一般児童演劇の運動も、「東京童 話劇協会」(劇団「東童」、1928年5月結成)をはじめとした専門劇団が当時の新劇運動を背景 に大都市を中心として次々と設立をみ、学校劇と併せ児童演劇の隆盛時代を迎えつつあった。
雑誌『生活学校』は、こうしたわが国児童演劇運動の活況の中で誕生し、歴史的にはそれを反 映する一つの鏡のような存在であったと考えられる。『生活学校』創刊号には「文化団体よりの 通信」として「日本児童劇協会」(31)を初めとした児童演劇・学校劇関係の団体・研究会が名を連 ねていたし、前巻で触れた連載「児童文化運動の研究」の第‑回「児童文化運動の近況」は、前 年に開かれた「日本児童劇協会」の座談会に因んでその所感を述べるという性格のものであった。
また『生活学校』は、戦前昭和期における最初の専門劇団であり、戦時下にあって「他の児童劇 団の衰亡をよそに堂々と児童演劇界に君臨」(35)し、戦後に到るまで意気の長い演劇活動を続けた
「東童」と密按な関わりを有していた。
ここで、「東童」について若干触れておこう。富田博之は、この劇団が戦前昭和期の中で果た した役割は、「児童演劇史というよりも、わが国の児童文化史の中でとらえてみなければなら ぬ」(36)としながら、耗けて『生活学校』との関わりについて次のように述べている。
「『生活学校』は、ファシズムの嵐が吹き荒れる暗い谷間にあって、進歩的な教師の良心の灯
としての役割をもったが、劇団東童の活動は、この雑誌に結集する各地の教師を励ます、児童文 化運動の象徴としての意味を持ったのではなかったかと思う。 『生活学校』の創刊から一九三八 年八月の終刊までは、東童の第三期の前半に当たるが、この三年はどの間に、この雑誌には、柳 瀬 浩(菅 忠道)や、松田解子、石田三郎らの東童の劇評がのり、編集長戸塚 廉による『劇 団東童訪問記』 (37年2月号)が載り、宮津 博の『東童』第28回公演の台本『テンプルの歌』
が掲載されるというぐあいである。こんなことからも、東童の活動が、暗い谷間の時代に進歩的 な児童文化運動の象徴としての意義をもち、 『生活学校』に集まる教師たちを励ます存在であっ たことがうかがわれる。 」<サ7)
この指摘によっても、 『生活学校』に拠った教師たちが、学級文化・児童文化の活動を旺盛に 展開してきたことと同時に、 「東童」に代表されるより社会的専門的広がりをもった児童文化運 動への横極的志向を有していたことを知ることができるだろうO ここに、 『生活学校』のこの分 野への実践的関心が端的に示されていたといえる。
では、以下にこの分野への理論的内発的関心が如何なるものであったかを見ていくことにしよ う。 『生活学校』は、この分野に関する特集を二度組んでいるが、本格的な評論は二度日に始ま る。(38)この特集の冒頭を飾った論文の中で、柳瀬 浩(菅 忠通)は、児童劇の実際には指導性 が全く失われており、 「理論的にも児童劇の教育的効果は様々に上げられてゐるが、それに端的 に窺われる如く、多くは抽象的一般的に終始しつつ、現実に生きてゐる児童の生活指導とは無縁 の論議に堕してゐる」(39)と述べた。こうした把握は、菅個人の児童文化への専門的歴史的研究に 負う所もあったが、児童問題が社会的な関心にのぼり、生活綴方運動に象徴される児童への現実 的アプローチを果たしてきた教師たちの印象・観点とピダリと一致するものであったと思われる。
ここには『生活学校』の児童劇論、そして児童文化論の目ざすものが既に語られていたといえる。
「児童の現実の生活に取材せる、又彼等の生活指導のために価値ある劇。教師・青年・学校生 徒・児童の共済による指導性の高き劇。之等の創造、上演こそが、新しき意義を獲得せる学芸会
のステーヂを飾るべきものである。 」(40)
菅の示したこの端的な方向性の歴史的位置を知るには、大正期の学校演劇に関する次のような 代表的見解と比較してみることが必要であろう。
「子供には子供らしい戯曲、それには出来る丈け自ら作らせるか、若しくは種々の戯曲の中か ら彼等自身をして自ら選ばしめるやうにするがよい。大人は、出来るだけ傍観的の態度を取って なるべく干渉しないがよい。そうすれば、その選ぶ戯曲も幼稚な子供は幼稚なものを、進んだ生 徒は進んだものを演ずるようになる。そして各々その程度に適するようになる。 」 (41)
野口授太郎のこの立場は、 「出来る限り児童の自然性を尊重し、それに大人のさからしさを加 へない」(42)新教育の立場そのものからの演舞である。ここには、 「たとえば、成績の悪い子供で も優等生と同等の立場で活躍させることができて、かれらの劣等感を救うのに都合のいい教育手 段にもなること。引込思案の生徒を雄弁な人物に扮させて抑制されてゐた表現欲をひきだしてや ること。家の貧しい児童に大金持の子供の役をふりあてて、いささかでも持つ者の幸福を与へて やること」(43)といった姑息な意図さえない徹底した自由主義の姿勢が見事に示され、 「云はば児 童の王国を学校劇の姿で実現するような解釈」(ォ)の一典型といえるものであった。また野口は、
「学校劇の利益」として、 (り 感情陶冶 ② 知的価値 ③ 道徳的価値(子供の興味と協力か
ら生まれる)の三つをあげていた(45)が、こうした見解は昭和期に入っても継承され、公立・私
立学校を含めた代表的なものであったと考えられる。昭和8年、内務省社会局内に設けられた
「日本感化教育会」の講演会に招かれた長谷川俊彦は、学校劇の本質・目標にふれ、 「第‑は、
劇の実演によって劇的な美的情操を陶冶すること、それによって人格の完成へ寄与すること。第 二には、劇の実演によって知徳の滴糞に資すること」(46)であると述べていたO長谷川は、このう ち第二の方面を重視すべきだとしたが、これは野口のまとめたものと全く同一のカテゴリーの中 での歴史的重点の推移を示すものにはかならなかった。即ち、学校劇(学芸会)の実際及び理論 における主流は「子供の自然に出たもので満足すべき」 (野口援太郎)ものから、平素の学習を 表現するもの(教材を劇化したいわゆる「教材劇」はその代表的なもの)へと変化していたので あり、こういう劇を子供たちは、 「退屈をガマンして静粛に観ることを虫要されている」(47)のが 現状であった。菅の示した学校劇(学芸会)における「指導性」の蛍調は、こうした歴史的文脈 の中でとらえられるべきものであった。 「学芸会・児童劇の活路のために」と題する菅 忠道の この一文は、学校外における一般児童劇が全体的にその「黄金時代」を過ぎつつあり、それと相 即不離の関係にある学校劇(学芸会)も、 「明らかに行き詰っている」(胡)ような状況の中で、そ の質的前進を図ろうという意欲がこめられていた。
ところで、求められるべきこの「指導性」 、即ち児童の現実生活に取材し、現実に生きている 児童に働きかけるような「指導性」は、誰によって、どのように獲得されるものであったのだろ うか。 「世代の後継者たる子供達をあらゆる場面で導いて行くことは、云ふ迄もなく重要なこ と」(49)であって、当時の学校劇(学芸会)に支配的であった「非現実的」ないし「教材的」傾向(50) は、この点で最も批判されるべきものであった。それらに共通してみられる性格は、 「都会の中 産階級以上の子供を材料とし、それらの子供の『生活』を専ら心理学的にのみ見て、 ‑ (略) ‑ 都会にしても工場地帯や下町下層の子供の現実生活を描いたものが殆どない」 (51)ということであっ
ママ
た。しかし「子供たちが楽んで脚色したり準備したり演じたりする日常生活こそが重要」なので あって、 「子供たちに、彼等自身の力で生活を豊かにすることを学ばせる、殊に文化的娯楽を創 造し享楽させることの指導こそ学芸会の任務」なのではないか。この意味では、大きな講堂と立 派な引幕とピアノがなければ、いい劇は出来ないなどと考えるのは誤りであって、 「時には青年 なども湿って、簡単素朴に持たれるもの、そこには爺さん婆さんまで加って観たり批判したりす るようなもの」(52)も必要となる。ここには、 「今日の教育の目標と任務」が「児童の生活拡充の 力を発達させることだ」とし、そのために「現実の事物の諸関係を真実の姿に於て認識し、その 深い洞察と広い展望の上に立って環境を改善し、自分たちの生活を豊かにして行く所の知性」(53) の開発こそが重要だとした観点が貫かれている。従って、子どもの生活の中に劇を生み、劇の中 に子どもの生活を深く考えさせ、それを変革する一つの糧を兄い出させようとすること、それが
『生活学校』の立場であった。しかし、 「公立校の学芸会は年に四・五回やりますが、下層の職 員の意見はなかなか通らない」(54)と言われるような当時の学校において、こうした劇や学芸会は 望むべくもなかった。勢い、それは自覚的教師による自分の学校内での細々とした試みに終りが ちであった。こうした中にあって、昭和3年、町の子ども会から出発しながら短時日のうちにラ ジオや映画に出演し、 『朝日新聞』を初めとした大新聞にその劇評まで取り上げられまでに成長 していた「東童」の活動は、 『生活学校』に結集した教師達にとって一つの救いに似たものを持っ ていた。先述した富田博之の指摘そのままであった。秋田での三年間の教師生活の後東京に転じ て来た山田文子は、 「私の学級経営記録」の中で次のように記している。
「私はこの前の校外生活調査により、子供たちが近所の活動写真館の俗悪な映画を見にいくのを
知り、どうかして健全な明日への力を与える児童文化を欲しいと思った。学校でやる映画には勿
論俗悪のなんかはないが、あのナンセンスな漫画(和製)だけは、どうも感心しない。子供をひ きつける事は非常なものだが、毒にも薬にもならない。何か科学的なストーリーを持った漫画な どやったら面白いだろうと思ったが、そこへ東童劇場の三月公演を知り有志の子供らを連れて見 に行ったが、子供らの喜びは大きかった。 」(55)
『生活学校』に載った児童演劇関係の文章のうち、半数近くがこの「東童」に関するものであっ たことにその期待の度合いが端的に示されている。
ところで、 「東童」のめざす演劇とはどのようなものであったのだろうか。主宰者の宮津 博 は、次のように述べている。
「我々が常に供給する演劇とは、港刺として行動的な舞台から児童観客の心理をアピールするも のであり、ダイナミックな集団的な創造から児童観客の社会的生活的意欲を昂めるものであり、
演劇といふ総合体の特徴的な芸術組織を明確に提出して、児童観客の心理内容の情緒的複雑化を 計るものであるということだ。 」(56)
この時期、戸塚、菅、模本といった雑誌の編集グループ格の人達は、 「東童」の公演を直接に 観、劇団を訪れ、また招待会に呼ばれるなど密接な関係を築く中で、 「この人たちの違うところ は子供にやらせる劇であると共に、劇を観せることによって子供を啓蒙し組織してゆくところに ある。大人と子供でやる劇、時には子供は一人も出なくてもいい劇、然し子供のための劇、子供 を啓蒙するための劇」(57)であることを確信し、 「深い感謝と尊敬の心」(58)を抱くようになってい た。富田博之のいう「児童文化運動の象徴」という表現は、決して誇張ではないことがわかる。
一般に「児童の自主的創造的活動の展開が児童文化運動の基礎」であるが、子どもの自主的児童 劇や教師の指導性には限界があり、 「高き指導性のある複雑な興味ある内容」(5mを持つことは困 難である。編集グループに代表される人々が示した「東董」への深い関心はこういう意味では必 然的なものであった。しかし、 『生活学校』に結集する人々の心深い願望は、優れた演劇の大衆 化にあったのであり、 「全国の農村に何一つ文化的な娯楽機関も与えられず、月に一銭二銭の文 集の費用にも不自由している多くの子供たちに」 「東童のような高い演劇文化を楽し」(60)ませる ことであった。 「東童」に代表される優れた専門劇団はまさに「深い感謝と尊敬」の対象であっ たが、児童文化の極端な偏在性、そして先述してきたような学校劇(学芸会)の非指導性や形式 性を思うとき、彼らの課題意識は、さらに鮮明かつ切迫したものにならずにはいなかった。優れ た児童文化を摂取し広めることは彼らの重要な関心であったけれども、もっと大切なことは彼ら 教師達が、その日常的な教育実践の中で児童演劇のもつ機能を最大限に活用し、子ども達の生活 を子ども達自身の力で高め豊かにしてやることであった。学校内に限ってみれば、 「子供のクラ ブ活動、劇クラブ等があって、それが学級組織の一部になってゐて常にその発表会が行われ、学 級の日常生活に深い交渉をもったものが、力相応に発表されてゆくこと」(61)、このことこそが、
彼らのなすべき現実的課題であった。貧困な村や町の中にあって、小学校は「地域文化の中心と しての機能を果たすべき」(62)であり、そのためには教師が自らの努力によって「活路」を切り拓 いて行く以外になかったからである。 『生活学校』の児童演劇論は、そこから出発して再びそこ へ戻っていったのである。
これまで、 『生活学校』に媒介された学級文化活動と、それとは独自の児童文化専門家の手に
なる論文を検討してきた。前者が、教室・学校における教育実践の一環ないしは発展としての児
童文化に関わるものであるのに対し、後者は、より社会的な文化活動の一環ないしは特殊領域と
しての児童文化に関わるものである。両者の間には、多くの共通の領域や視点が存在している半 面、活動ないしは立論の足場と方向性において明らかな懸隔がみられるように思われる。このこ とは戸塚に代表される雑誌編集グループの児童文化観を反映するものだとみられるが、それは運 動的レベルにおける両者の相互依存性(相互発展性)を、そして内容的レベルにおける異質性を 基調としていたといえるだろう。活発で旺盛な児童文化活動の交流を収録した「学級文化交流の 貢」創設に関わる次のような把振からも、こうした観点を伺うことができよう。
「児童文化を外部から与えるだけでなく、日本の子ども全員が対象となる教育の場で、それを消 化し吸収して、子どもの文化創造を組織することによってはじめて子どもの発達に役だっ」(63)
こうした把握が、学級文化活動を積極的に推進した教師達の共通理解であったとも考えられる とすれば、このことは『生活学校』の児童文化活動とその反映としての児童文化論を主として構 成したのが、教育の場で展開された教師達の学級文化活動とその理論であったことを示している。
先にみてきた『生活学校』の児童文化関連論文は、教育現場での児童文化活動(学級文化活動) をより一般的・社会的な児童文化の中に積極的に位置づけ、関連づけるためのものであったとい えるのである。こうした特徴は、児童劇・学校劇を論じた論文においてとりわけ明瞭にみること ができるだろう。既に前巻でも述べたように、教師の指導性によって子どもの文化創造を組織化 すること、ここにこそ『生活学校』の児童文化活動とその理論の最大の特徴があった。教育実践 と児童文化運動の発展的相互依存関係、学級が学校だけでなく村や町の文化環境に想いを馳せ、
子ども自らによる手作りの文化創造を組織し、優れた文化財の専門的創出に期待しそれを励まし た一群の教師達の其撃な活動、それが『生活学校』を媒介にした児童文化活動の特筆さるべき基 本構造であった。
註
(1) 「新しい出発に当って」 『生活学校』 1936年10月号、 P. 3.以下、これ迄の証と同様、雑誌
『生活学校』からの引用は、いちいち出所を斬らないで、年、月、号のみ記すこととする。
(2) 『赤い鳥』発刊に先だって配付された宣伝文。
(3) 上 笠一郎『日本の児童文化』国土社、 1976年、 P. 2.
(4) 戸塚 廉「 『生活学校』教育運動(ll)」 『教育』 1954年5月号、 P. 118.
(5) 菅は、大正期に入って本格化する亜谷亜村、松村武雄らの『童話研究』に学びながら、それが 拠り所としていた神話学や民族学による研究方法と異なった社会科学的方法によって児童文化の 一分野である児童文学の歴史的研究に先鞭をつけた。彼は、この論文とはぼ時を同じくして大阪 で発行されていた雑誌『児童芸術研究』 (1934年11月〜)にも「明治以降に於ける児童文学研究 の発達」を連載していたが、ともに習作時代の論文である。
(6) 柳瀬 浩「児童文学の教育性(‑) 」 1936年3月号、 P.15及びP.16.
(7)同上、 P.17.
(8)同「児童文学の教育性(二) 」 1936年4月号、 P.8.
(9) ‑ (ll)ともに同上、 p.11、 P.9、およびp.ll.
(12) 「生活主義童話」は、その代表的作家とされる塚原健二郎の「明日一児童の為に‑集団主義童 話の提唱」 ( 『都新聞』 1933年9月2日〜5日)という評論によって初めて明確なものとして姿 を現わし、さらに模本楠部の「児童文学の新段階」 (初出不明. 1936年2月)といった論文によっ て一応の定着をみたとされる。作家としては、川崎大治、岡本良雄、下畑 卓らが挙げられるが、
その主題は「児童における社会性の発達を扱ったものが多かった」 (菅 忠道『日本の児童文学』
大月書店、 1956年、 P.213)と言われている。なお、近年の研究では、 「生活主義童話」は、そ
(13 (14 (15)
もそも「生活教育と結びついて展開してきた児童文学の主張」 (向川幹雄「昭和戦前期」日本児 童文学学会編『日本児童文学概論』東京書籍、 1976年、 P.72)であるともされる。これは、児 童文学史を時間的経過の中でのみとらえ記述しようとする従来の傾向からようやく脱皮を志向し つつあると考えられる日本児童文学史研究の一例を示すものと考えられる。
『生活学校』 1936年6月号、 P.14.
ともに、同上、 P.16.
菅 忠道は、かつて、こうした模本の姿勢に触れ、以下のように述べていた。
「なにしろ、二・二六事件以降、ファッショ化の進展は急テンポでした。それまでも『非常 時』のかけ声でしめつけられ、時勢はきびしくなっていましたが、それが『準戦時体制』と いわれるようになってきたのです。そのような体制のなかで進歩的な児童文学、児童文化の 灯は消さず、もっと輝きのあるものにするには、どうしたらよいのか.模本さんは『われわ れ』といい、時には『われわれの陣営』ともいわれましたが、その『われわれの立場』に立っ て、何をどうしたらよいかをいっも真剣に考えておられた人ですね。そういう発言のなかで、
とくに戴く印象に残っていますのは、 『われわれは孤立してはいけない』ということでした。
統一戦線の主張なのです。一一(略) .・‑‑それを児童文学の面で推進することが模本さんの 使命だったのです。 」 ( 「自伝的児童文学史(19)」 、日本子どもの本研究会編『子どもの本棚』
1973年9月号、 P.25.)
(16) 模本楠郎「最近日本の児童読物界」 『生活学校』 1937年11月号、 P.29.
(17 ともに、同上、 P.29及びP.33.
(18) 「童話教育と作品の善悪」 1937年1月号、 PP. 5‑6
(19) ここには「プロレタリア児童文学によく見られたような公式主義やイデオロギーの注入につい ての反省なども率直に述べられ」ており、 「いってみれば時代の記念碑のような」 (菅 忠通
「自伝的児童文学史」日本子どもの本研究会編『子どもの本棚』 1973年9月号、 P.25)意味を もつ主張が幾つか込められている。
(20) 註(18)に同じ. P.7.
(21) 模本楠郎『新児童文学理論』 P. 60.
(22) 同「口演童話の作り方」 1937年5月号、 P.54.
(23) ここで「ヨリ正しき文化建設に役立っ精神」は、児童の「ヨリ正しい集団的、自立的、創造的 生活」から生まれて来るものとされる。註(18)に同じ P.8
(24) 模本楠郎「感銘調査の方法」 1937年7月号、 P.58.
(25) 閑 英雄『新編 児童文学論』新評論、 1968年、 P.46.
(26) 川崎大治「童話作家の叡知と愛情」 1938年4月号、 P.35.
27) ともに同上、 P.34及びP.33.
(28) ともに同上、 P.32.
29) 同上、 P.35.
(30) 川崎大治「農村子供クラブの生活」 1935年3月号、 P.7.
(31) 註(26)に同じ、 P.34.
(32) 富田博之『日本児童演劇史』東京書籍、 1976年、 P.17及び同「明治期の児童演劇」菅 忠通、
滑川道夫編『近代日本の児童文化』新評論、 1972年、 PP.148‑154.
(33) 例えば、中野伝‑ 「学校劇の受難から整正へ」 ( 『教育の世紀』 1924年10月号)は、こうした 反応の一端を示し「脂粉を施し、仮装をなし、興行化する学校劇が、質実剛健の民風作興に反す
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