奈良教育大学学術リポジトリNEAR
フランス代表民主制の現代的展開 (1)
著者 高野 真澄
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 24
号 1
ページ 77‑97
発行年 1975‑11‑15
その他のタイトル La democratie representative moderne en France
URL http://hdl.handle.net/10105/2582
奈良教育大紀要 第24巻 第1号(人文・社会) 昭和50年 Bull. Nara Univ. Educ. Vol. 24, No. 1, (cult. & soc.) 1975
フランス代表民主制の現代的展開 (1)
高リ II ¥>.r (法律学教室) (昭和50年4月21日受理)
目 次
序 説 第3共和制前史の代表制
第1節 第3共和制以後の代表制憲法原理 第1項 第3共和制憲法と代表制 第2項 第4、第5共和制憲法と代表制 第2節 代表民主制の現代的変容
一一一む<Yの噂しq
序 説
第1項 民主主義の定着と普通選挙制の発展 (以上本号) 第2項 政党の発達とテクノクラシー (以下次号)
フランス代表民主制の現代的展開
フランスにおいて、大革命の古典的憲法原理、したがってまた代表民主制の原理が実際の政治 生活において綜合・発展せしめられるのは、第3共和制期(1875‑1940年)であった.それは、
この時期において、社会・経済機構の漸次的変革とともに、民主主義の発展、普通選挙制の定着 と政党の発達を軸とした政治的民主主義の拡大による政治環境の変化などの諸要因が伝統的代表 原理を根底から動揺させ、代表民主制の現実態の諸々の変容を惹起することになるからである。
・L t蝣* t: t
この意味で、第3共和制は、Rene Capitantのいう、 「理論上の民主主義」 democratic theorique]
から「参加する民主主義月dem。cratic participante) ‑の移行射'厄あたる。本稿での論述の中 心は、第3共和制以後現在にいたる「代表制」憲法原理とその憲法構造を解明し(第1節)、つい でこの体制以後に形成される「半代表制」的な政治生活現象を点検・分析し、代表民主制の現代 的変容を明らかにすることにある(第2、 3節) 。これによって、フランス代表民主制の憲法的 静面と政治的動面の間の平離・相魁の憲法現象を考察してみようと思う。しかし、本論に入るま えに、第3共和制前史を飾る復古・ 7月王制期から2月革命期を経て第2帝制期にいたる代表制 の消長を概観しておくことが必要であろうO 「序説」的考察とするゆえんであるO
漢(1) Rene Capitant, Democratie et participation politique, Bordas, Paris, 1972, p. 46.
序 説 第3共和制前史の代表制
1 制限選挙王制期
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高 野 真 澄
共和暦第3 (1795)年憲法は間接選挙制を維持した結果、第1次選挙人団の数は1791年より70 万人増え500万人になったが、 1793年よりは200万人減少した。共和暦第8 (1799)年および第
1帝制(1804年)期は、税額を排除したものの、公務を処理しうる最適者の信任名簿(liste de confiance)の中から議員を選任するものとし、いわばプレビシイトにより外見化された普選(i)
を実行した。このため、議会を選ぶ方法よりも議会が存在することに執着した(2)市民革命当初の 自由主義的秩序観のもとで実施された選挙資格税額制(cens electorat)が、貴族層の政治的復 権をみる復古期15年間に継承・復活せしめられたことは当然の成りゆきであった。以上の諸体制 は、その九点を議会あるいは専主の優位におく差異はあっても、 (3)いずれも基本的には代表制憲 法原理に立脚するものであった。
かくして、復古王制は、一方では旧制度の絶対君主制と貴族層の復活を阻止し、他方では共和 主義的革命勢力の誘導した絶対的民主主義と対決しつつ、上層市民層の権力掌握を正当化した政
/ヽンソヤマノ コ ン ス タ ン ロ r7 イ 1 コフ
治哲学によって自らの体制の基礎を肇園にしたのであった Benjamin Constant, Royer‑Col
lル フフンソワ キソ ドクトリネ‑ル
lard, Frangois Guizot などの自由主義的立憲君主論者達(いわゆる純理派)はつとに立憲王 制と代議制の接合に務めるが、とりわけ代議制に関しては議会をもって公共理性をもった全国民 の代表者とする近代代表制の観念と自由主義的議会主義の本質としての「議会の自由」 (自由な 討論・表決の原理)を承認する。すなわち、 B. Constant は下院を牽制する貴族上院の有用性 を強調するとともに、教養と財産による制限選挙を基礎とした純代表制においてのみ国民の政治 的自由が実現されると説き、また、 R, Collardは、 (二院制)議会は人民の代表者ではなく国民 の多様な利雷の代表者であり(この結果、普選を基礎とする民主制を退けこれにかえ機能的民主 制を主唱) 、選挙権はかかる利害を表明するに相応わしい能力・経験をもっ者に付与される義務
テイラニ
ないし職能だと規定した141 F. Guizotにおいては、君主主権を否定するが、国民主権を暴制と
レソン シヤルト
して拒否し、主権の所在を理性に求める(5)かくして、 1814年憲章は立憲王制と〔世襲的元首を もつ〕代議政体の政治理念を直裁に表現し、代議院議員の選挙権を30才以上、 300フランの直接 税納付(40条) 、同被選挙権を40才以上、 1000フランの納税(38条)とした。憲章体制は、選挙
・被選挙年令を1815年7月13日のオルドナンスにより各々21才、 25才に引き下げたが、記録によ れば、 (6)それは総人口2900万人のうち選挙権者はわずか9万人、被選挙権者は18,561人(1820年)
にとどまっているO
テ月主軸ま、修正された憲章体制で国民主権を事実上承認し(国王はもはや神権を自称せず、
フランスの王からフランス人の王となる) 、貴族(貴族院議員)世襲制を廃止し、政府の議会に 対する政治責任を樹立した。が、国民主権を基礎づける統治の実体は政治的自由の主体者を特権
ク7スモワイ1ンヌ
貴族から産業資本を擁する開明的上層市民層と理性的な中産階級の支醍‑転移させたに過ぎなか った。国民代表の独立はこの体制にとって自明かつ不動の原則であった。
1831年4月19日の選挙法(1830年憲章32条、 34条の規定による)は、選挙権資格を25才以上、
200フランの納税、被選挙資格を30才以上、 500フランの納税と規定したが、有権者は、全人口 (3200‑3500万人)の1パーセントにも満たなかった 172.000人(1832年) 、 240.000人(18 45年) )ど)かような選挙人団の貧困性はパリ地区12人の議員中、 800票の得票者が僅か2人(1837 年選挙) 、第12区のある議員は262票で当選(1847年選挙)という事実によって実証されるであ
ろう(8)すでに、 1831年法は、 〔余りにも少ない〕 (小)逮挙区‑郡単位投票の有権者数を考慮 して、 200フラン以下での最高納税者を補充したり、学会会員、退役軍人などに納税額を1007
フランス代表民主制の現代的展開(1) 79
ランに引き下げる特例を定めた。だが、かような選挙権に対する法律上の窓意的措置以上に深刻 な問題は、政府と代議院議員の間の馴れ合いによって選挙区で執務する公務員に被選挙欠格とな る者を少なくしたり、議員で再選されない場合には公務員に選任するなど、「被選挙欠格に関する 合理的な規制が完全に欠如」(9)していたことと、実際の選挙行政における諸々の「腐敗」的慣行 とが併存していたことである。
かような政治的悪弊の存在は、つとに、ラディカルな社会改革を求める政治論議を醸成してや まなかった。そして、基本的には、この頃すでに産業革命 Revolution industrielle )が始動 しており、これが財産の私的所有から産業資本制‑の進行、経済危機と失業に悩む労働階級の形 成を促がしていたし、そしてかような社会構造の変化が、勤労階級をして、団結権の要求ととも
に、普選の確立と共和制樹立という新たな価値体系の創出・実現に向けて政治過程‑駆り立てて いったことが注目される(10)
1830年にオランダから独立した隣国ベルギーは、主にフランスの7月王制憲章を範型として、
1831年の憲法を制定した1831年憲法は、立憲君主制のもとに自由主義的議会制を上積みすると いう入念な作品であっただけに、ドイツ・フランクフルト憲法(1848年) 、オ‑ストリア憲法、
(1849年) 、プロイセン憲法(1850年) 、さらにはわが明治憲法(1889年)などに影響を与えた。
だが、そのいわゆる議会主義は、権力についたブルジョアジーの支配機構として両議院の寡頭的 な代表機能と国民意思から閉された立法機能を装填し、先行の市民憲法の規定した政治体制間様、
これまた頁に民主主義と結びつくものではなかった。
注
(1) Michel‑Henry Fabre, Principes n芭publicains de droit constitutionnel, L.G.D.J., 1970, 2 eme edit., Paris, p. 233.
(2) M. Pr占Iot, op. cit., p. 64.
(3) R. Capitant, op. cit., p. 57
(4)ジャック・ドローズ‑横田地訳『フランス政治思想史』白水社、 1952年、 79‑83頁J.P. Mayer, Political thought in France, from the Revolution to the fifth republic, 1961, Routlege &
Kegan Paul, London, pp. 9‑12.
(5) G. Burdeau,Tr. de sci. pol., t. V,p. 411.さらに、テユデスクは、ギゾ一についてこう要約し ているo 「ギゾ‑は1848年以前にあっては保守党のリーグ‑であり、かれの政治体系は自由」二義、
それは権力‑の参加を国民全体の代表者としての能力と資格をもつと考えられる中産階級のみに限 定するものであるが、そうした自由主義を代議制と一体化させるところに基礎をおいていたのであ る。j (A.テユデスク‑大石明夫訳『フランスの民主主義‑1815年以後‑』評論社, 1974、
55頁)0
(6) J. P. Mayer, op cit., p9. ジョルジュ・デュプ‑ 『フランス社会史‑1789‑1960』井上幸治監 訳、 1968年, 92頁。 Fabreによると(但し調査年不明) 、総人目3000万人、うち選挙権者102,0 00人(例.セ‑ヌ県の有権者8800人、コルシカ県7人) 、被選挙権者は4分の3の県で100人、
(例.オート・ザルプ県で定数2に対し被選挙権者4人) Fabre, op. cit., p. 234.
(7) Fabre, op. cit., p. 234.
(8) Burdeau, Tr. de Sci. pot., t.v, p. 430.
80 I")野 でl;‑ 漕
(9) Ibid., p. 427. 7月王制の代議院はさながら公務員議院の様相を呈しているといわねばならない。
Burdeauの掲げるところによれば、 1832年の議員は140人、 1837年には191人、 1839年には150 人の公務員を含んでいるO
(10) 「この頃になるともはや『ブルジョア』という言葉がそのまま国民全体を意味するものでないこと がHサCかとなってきた。それは『金持ち』のことであって、決して国民全体を代表するものでな かったのである」 (林健太郎『世界の歩み』ト、岩波新書、 1971年、 5頁。)
2 2月革命と第2帝制期
1848年の2月革命の興起はフランスに直接・普通選挙と共和制をもたらし、憲法制度上この国 における「政治的民主主義」の到来を世界に告知した Burdeau が近代から現代への民主主義 の展開を自由国家における「統治される民主主義」から「統治する民主主義」 ‑の移行と要約(1) したさい、彼が指示した最も注目すべき政治現象は普通選挙制(suffrage universe!)の確立とい うことであった Burdeau流にいえば、統治する民主主義の到来は普通選挙の樹立をもって画期 とする。フランスにおける普選の導入・確立の第1期が1793年の早熟的導入だとするならば、 2 月革命は恒久的な確立画期と目される。 121 1848年4月23日の制憲議会選挙は第1帝制以来はじめ て直接・普選にしたがったものであるが、しかもそこで有効登録者の84パーセントが投票に参加
したことは1792年の国民公会選挙の10パーセントに比して注目されてよい(3)
1848年11月4日の第2共和制憲法は、満21才に達したすべてのフランス人に財産要件なしに選 挙権を付与し、満25才に達したすべての選挙人に居住要件なしに被選挙権を付与することによっ て普通選挙制を確認した(24条‑26条、 1848年3月5日デクレ24条、 25条) 。選挙人団はこれで 一挙に950万人を数え、総人[]の4分の1を占めるようになった(4)フランスにおいて立法、司 法、行政の三権に対して第M権としての選挙人権(pouvoir electoral)が構想され、また選挙権を 公務としてよりも個人権とみる見解が有力となったのもこの時期であり、この政治期の民主的潮流 の高まりの一端が窺われる。かくして、国民代表機能を一新した代議員は、自ら、寡頭的な自由 主義的議会から民主主義的議会へと転形したと自認しうるはずである(普通選挙の適用は、国会 議員のほか、 l榊丁村長、県参事会議員、共和国大統領にも及んだ).
けれども、 「2月革命」は、もともと、共和主義的労働階級の勝利ではなくして、実質的には
レフオルミスト
7月王制での改革派(ブルジョワ・リベラル)の復権に過ぎなかった。制憲議会選挙の結果がそ れを示しているO かのいわゆる6月事件(journees de juin)で、多数派‑ブルジョワ共和派と 対決した主勢力は二L場労働者(とくにパリの)や農民ではなく、 「小作農場の労働者や家内労働 者などの、いわゆる職人的手工業労働者層(その多くは失業している) 」であった。それは「当 時のフランス資本主義の発展段階に対応した労働力構成を反映し」 (5)たものであった。政治機構 においても、 1848年体制の国民主権は、純代表制原理によってのみ実現されるものであった。憲
7‑フル
法上、すべての公権力は、直接、主権者人民から発するが(18条) 、人民は主権を直接行使しえ ない。直接・普通選挙は、立法権の基礎であるが、 「権力分立は自由な統治の第一の要件であり」
(憲法19条) 、 「フランス人民は立法権を単一院に‑‑・執行権を国民公選、任期4年の共和国大 統領に委任する」 (20条、 43条以下)。大統領は、就任前に、国民議会内において、 「国民議会に より代表されるフランス人に対して」宣誓の義務を負い(48条)国民議会を解散することはでき ない(51条)。そして、新憲法「、翌1849年5月の立法議会選挙でブルジョワ共和派が大敗したこ
フランス代表民主制の現代的舶開(1) 81
とによって、議会勢力がブルボン派とオ′レレアン派から成る右翼の秩序党 parti de ′ordre)
モンタニヤ‑ル
と左翼の山岳派に二分されるや(議席は秩序党約450、山岳派200、共和派100に変動) 、 2月 革命体制は忽ち反動体制に転化せしめL‑1れるO かくして、秩序党多数派は選挙法を改il二しノ選挙人
ドミノ1コ
名簿の登録を21才に達したフランス大成年男子について少くとも3年間同一市町村に住所(この 選挙法上の住所は住民税台帖‑の登録により証明される)を有することとした(1850年5h31(3 選挙法2条、 3条)。したがって、実際に選挙権を行使(投票)できるためには3年間の登録実績 を必要とするわけで、これは選挙年齢の事実上の引き上げに等しい。 「この改正によ‑,て、 !‑:と して労働者からなる 300万人が選挙権を奪われた。 2月革命の最大の成果であった普通選挙制は ここに事実上廃止された」 。 (6)この普選廃棄によ一'て選挙権を刺奪された卜層民衆(後進地帯中 土地所有農・手工業者層)は、先進地帯主導の資本制形成と農業危機の昂進の中で危機に陥し入 れられるが、このことによって彼らは1852年の民主‑社会改革の二主要かつ急進的な拙いT‑・に転身
を遂げ、ボナパルト体制に積極的にコミットしていく勢力となるのである(7!
ルイ ホナハルト
1851年12月のLauis Bonapart のクーデターと人民投票によっT成立した第2帝制は、共和制 と普通選挙の2月革命体制に復帰するO 小生産者層のみならず、産業資本家や初期的労働者Jl・支 持基盤としたこの第2帝国の支配体係は、政治理念的には、自らを復 主上制以後Louis Philippe にいたる君主主権‑君民主権と峻別しつつ、大革命以来の伝統的な共和:i二義‑国民:K権原理を踏
旧nu岩am
襲するo 立法院は普選により選n」され、大統領は人民の代表者として人民に責任を負い、彼Lー)に 人民投票を求める権利(droit de faire appel au peuple)をもつ。 1791年、其和暦第こ自主、さ「) には共和暦第8年とも異なり、市民は不公正な選挙のもとにおいてであれ、普選により*尖上議 員を選挙する(憲法36条、 1852年2月2日組織令)Dけれども、第2帝制は、法的には['ill日工権原 理に立脚する共和政体であった限り、それはいわゆる人民主権とも明確に[明りされる性質のもの であった。 (8)帝制の共和主義的基礎‑国民主権原理は、人民ボナパルテイスム(bonai)artisme po pulaire) の名において、新たな支配秩序原理‑皇帝権力のもとに従属せしめられる(1852年11 月7日元老院令参照)。ナポレオン的観念において、国民主権の確認は権威主義的帝制確立の前提
オトリテ
とみなされる。したがって、フランス人の皇帝(元首)の権威が、中間者(政党・議会)の介在
フレヒシイト
なしに皇帝の発意する人民投票を適して人民と直結することが予定されている,点で Prelot の
クヘルヌマン・べんソ1.]レ
いわゆる個人統治制(9)帝制民主主義は伝統的な国民主権原理にみられるデモクラシーに対する 幻想を超えた、反デモクラシーの正統性原理と結合している。
ところで、 1860年代のフランスの社会経済構造は、産業革命の完成(伝統的な保護貿易からの 脱却、産業システムの近代化に伴う資本の集中)と、それに伴う社会的諸関係の基本的な変革、
とりわけ資本と労働の階級対立が尖鋭化し、政府をして権力構造の転換を迫るものであったC か の「自由帝国」 (Empire liberal) における議会制改革や新労働政策は、経済構造の自由化に政 治的自由を対応させるべく強いられた権力機構の政治的表現であった。このような権力側の譲歩 が、結局、第3共和制の政治過程を準備することになる(10)この間の事情に‑)いてはなお解明の 余地がある。ここでは、 1870年代にかけての民主主義理念の高揚について今少し敷桁しておくこ
とにしよう。
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小市民階級とともに多数の労働者大衆が、新たな価伯大系‑普通選挙権の担い手として登場す るにしたがって、彼らは「1863年の選挙」で自己の階級の代表者を候補に立て、職能代表を通じ て労働者の社会的解放を実現することの急務を自覚する(1864年の60人宣言。 wトフランスの労 働者は第1インターに加盟)Oまた、 「1869年の選挙」では、セーヌ県第11*ベルヴィル地区の選
82 高 野 真 澄
カンペツタ
挙人は、同区の候補者Gambettaに対して命令委任的要求(選挙人の要求書Cahiers des Jlec‑
フー
teurs) を提出する。このいわゆる「ベルグィル綱領」 Belleville Programme)では、 「人
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民が一個の合法的な主権者であると信ずる者にとっては、国会に対する大臣の責任だけでは不十 分であり、人民が現実に権力を行使するのでなければならない。一切の公職の保持者、ことに執
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行権の首長は有効的に抑制されなければならない」 (ll)と宣言したあと、普選の実効化のための人 民統制的手段、たとえば全公職の公選、人民に対する直接責任などの要求項目を列記し、候補者
がその政綱に採り入れるよう求めて手交している。もとより、 1863年選挙での労働者の職能代表 の主張に対しては、 「1789年いらい階級は存しない。一人の候補者は全ての人を代表する」 ('aと 反論されているし、 1869年選挙での選挙人の命令委任的要求に対して、 Gambettaは「このノー トに記載された要求事項をみずからの政綱に加えることを約束した」 (1鞠が、 「1870年11月に、ほ
マンタ・アンベラテイ7
ぼ1世紀前Edmund Burke がブリストルの選挙人に対して力強く述べたよう'に、命令的委任の 理論に賛成できない旨を述べている」 。 (14
けれども、これらの事例はこの時期の民主主義の高揚を鋭く突きつけているものとして無視で きないであろうo つまり、 70年代にかけて高揚した普通選挙の民主的圧力は、一方で権力の分立 を脅かすとともに、他方で国民主権の虚構性と代表制の機能的鈍化に対して警鐘を鳴らし、民主 制をもって人民の疎外と蔑視に基づいて衆愚支配とみた革命期以来の伝統的見解を国民代表に対 する選挙の実質的正統性を容認して人民意志を実現する方向に政治生活を進化させる機縁となっ たといえよう。第3共和制の憲法体制はこのような自由主義的民主主義の進化の延長線上に位置 する。この意味で、普選と人民投票を組織して、人民主権と人民の一般意思の代行者としての皇 帝権力(個人権)の直結を企てた「人民ボナパルテイズム」が、民主主義の高揚に対する支配権 力の上からの反動的な操作・対応を示すものであったのに対し、労働者階級の解放を通じて社会 改革を達成すべく、コミューンの理念に基づいて、人民主権の原理の上に人民代表機関に権力を 集中する政治型態の創出を企てた「パリ・コミューン」 (1gは、その反対の極に位置づけられるであ
ろう。
注
(1) Burdeau, Tr. de sci. polリt. V, VI.かようなBurdeau の所説を検討するものとして、大石明 夫「現代民主主義に関する‑考察」名古屋大学『法政論集』 54 (1971年)
(2) Burdeau, op. cit., p.430 n (1)
(3) Robert Pelloux, Le citoyen devant l'etat, (Que sais‑ ) P. U. F., 1966, p. 22 Fabre, op. at, p. 233.
(4)もとより、憲法で「すべてのフランス人」 (25条)といい、 「すべての選挙人」 (26条)という のは、フランス人男子であり、それは国民の半数(女性)を排除した形式的普選一一成年男子普選 suffrage universe! masculin ‑ の到来を意味するo
(5)桂圭男「二月革命と第二帝政」井上編『フランス史』 (新版) 、 1968年,山川出版社、 387頁。
但し、 6月蜂起にかかわった主体‑勢力的契機についての評価は史学学界にも異論があること、
そこに単なる飢餓暴動を超えた「革命的要素」を見出そうとする研究動向につき、喜安朗「二月 革命におけるパリ労働者階級の構成について」 『史学雑誌』 66編11号、 1957年。とくに、同「フ ランスにおける資本と労働の『初期的』対抗と六月事件」 『歴史学研究』 1960年 237号参照。
(6)桂圭男「前掲論文」 396頁 Felix Ponteil, Les institutions de la France de 1814 a 1870
フランス代表民主制の現代的展開(1)
LO3
83
P.U.F., 1966, p. 280.
(7)中木康夫「フランス第二帝制‑ボナパルテイズムの成立」 『法政論集』 53 (1971年)は、第2帝 制成立の社会経済的基礎、とりわけ農民蜂起の役割を積極的に評価する。
(8) Louis‑Napoleon Bonaparte の国民主権論、とくにMontesquieuに依拠するとみなされる彼の 代議制論については、本地立「ルイ・ナポレオン‑ボナパルトの政治思想」 『思想』 1972年11月
に詳論されている。
(9) M. Prelot, op. cit., p. 414.
(10)第二帝制の権力機構の構造的転換を資本制の進化過程‑経済構造の変質との関連において有機的
・統一的に把握しようとするものとして、たとえば前掲中木論文のほか、桂圭男「英仏通商条約 とフランス第二帝制の構造転換」 『歴史学研究』 (1956年) , 201号.同「フランス第二帝国の 経済政策について」神戸大学『研究』 28号(1962年)0
(ll) David Thompson, Democracy in France since 1870, Oxford univ. pr., 1969, p. 119.
(1功 柴田朝子「第一インター前後のパリ労働者階級の状態について」 『史学雑誌』 68編12号(昭38) fUi,
(13)石原司「急進派とその政治行動」山本編『フランス第三共和政の研究』有信堂、 1966年, 8頁.
(14) D. Thompson, op. cit, p. 120.
(15)パリ・コミューンは、大革命期のジャコバンの興起と同様、短期間の試みであったとはいえ、人 民を「真の主権者に高め」 (杉原泰雄「国民主権と人民主権」 『世界』 1972年6月号、 56頁) 、 代表を「真の人民代表Ia veritable reprdsentation populaire 」に創造することによって国民代 表の原理とその制度を克服しようと試みた点で、特筆に値するであろう。それは、労働者階級の 角砺女を通じて「社会革命」を達成しようとするコミューンの理念に基づいて(コミュ‑ンの理念 につき、憲法史的関連で捉えた柳教授の一連の業績参照、柳春生「プロレタリアートのディクタ トゥーラ」の歴史的考察『文化評論』 1972年8月、 132号、 56頁以下、同「パリ・コミューンに おける代表観念にかんする憲法史的考察」 『法政研究』38巻2‑4合併号、 486頁以下、同「パ リ・コンミューンにおける国家統治の原理」 『比較法研究』 34号、昭和48年5月) 、人民主権原 理のうえに人民代表機関に権力を集中する政治形態を創出せんとするものであった。ここでは、
とにかく、大革命以来の代表制は踏襲される。直接民主制的な要因は見出すことができず、代表 の権威が認められている。が、代表の構成上の特質には注目すべきものがあり、とりわけ1871年 3月27日、パリの「20区共和主義中央委員会」ガコミューン選挙に関して発した宣言がこれであ る。この宣言は、 「われわれが平和裡に達成しようとし続けている革命的コミューンの理念の勝 利を確保するために、その一般原理を決定しかつ諸君の受任者が実現し擁護すべき綱領を作成し ておくことが重要である」と前置きし、コミューンの理念は、政治形態としては、自由および人 民主権と両立しうる唯一のものである共和制を条件とする、と述べたあと、つぎのような「コミ ューン型代表制」の基本構造を提示している。
これを要約すれば、つぎの四に帰着するであろう。 (I)選挙権はこれをもって直接・普通選 挙とする (n)選挙の範囲はすべての官吏、司法官に拡大する (m)代表については従来の 抽象的な国民の代表を現実的な勤労階級の代表とする (IV)代表者については、全国民のため に意思する権力の単なる指名とすることなく、権限と使命において予め限定された具体的な委任
‑この委任はすでに歴史的に批判されたような特殊意思の表明ではなく、必然的に実現せら れるべき当面の政策の指示を含む(柳・前掲「パリ・コンミューンにおける代表観念にかんする
84 ・imm 璽 越
憲法史的考察」 490百) ‑ を受領する受任者mandataire たらしめ、受任事項の処理に責任 を負担せしめる。
しかし、コミューンの敗北は、フランスの民主主義を普通選挙による議会の支配に呼び戻し、
議会の人民からの法的独立を確認するものであったO
第1節 第3共和制以後の代表制憲法原理
第1項 第3共和制憲法と代表制
1791年憲法で実現された古典的な代表制憲法原理は. 2つの王制(1815‑1830‑1848年)と2 つの帝制(1804‑1814年、 1852‑1870年)を経て、 1875年の第3共和制憲法のもとで原則的に維 持される(それが社会の進展に伴って政治生活上次第に民主化の洗礼を受けるようになることに ついては、後述第2節参照)0
° ° ° ° ° 4 °
第3共和制憲法(1)は、憲法体制の基本において、大革命以来のフランス憲法史の「発展的所産」(2) であり、革命期憲法の共和制、国民主権、代表制などの制度の基本大綱を公式的に継承しているC すなわち、共和政体forme republicaine du gouvernement]は憲法改正の提案の目的となしえ ないものであり、フランスに君臨した家族の成員は共和国大統領に選出される資格を有しないこ とが明確にされている(憲法の一部改正に関する1884年8月14日法2条)O国民主権は、憲法上明 言されていないが、憲法制定者にとって論議の余地ないものとみなされている(3)そして、代表 原理は、国民主権を基礎とした1791年憲法の伝統を踏襲しており,直接・普通選挙によって構成 される国民議会(1875‑ 2 ‑25公権力組織法1条)が公権力の組織において優越的地位を保持し、
レジ‑ム・ん7レサンタチ7‑7‑ル
法律の優位が措定されている。代表制の型態は完全な純代表制であるO 第3共和制憲法における純代表制の原理をっぎの3点に分説しよう0
第1.公職に対する人民統制の手段は存在しないし、また存立の余地はない。議員は、ひとた び選出されるともはや選挙区の代表でなく、全国民の不可分な代表として一定の任期(代議院議 員4年、元老院議員9年、代議院議員の選挙に関する1875年11月30日組織法15条、元老院の組織 に関する1875年2月24日法6条、 7条)と職務の独立(年金受給、命令的委任の無効、歳費支給 の原則等につき前記1875年11月30日組織法10条、 13条、 17条)が保障される1871年、フランク フルト条約の批准後、代議院議長はアルザス‑ロレ‑ヌ県の代議院議員が提出した辞表を拒否し たが、これは集合的委任に基づく国民代表の不可分性の原則に基づいた措置とみなされる。いわ ゆる「白地辞表」 (demission en blanc)は第3共和制のもとで無効とせられた(4)かってスイ スやドイツの若干の地方やアメリカ諸州で行なわれ、現に行なわれているような、選挙人による 議会解散権(集団解職制Aberrufungsrecht )や個々の議員に対する解職権(Recall )はフラ ンスでは認められていない。また、社会主義国家で整えられつつあるような人民の罷免権を担保
リ コ‑ル
するための罷免法制はフランスに無縁である。社会主義国家では地方ソビェト機関も統合的な国 家権力機構の一環とされ、各代議員は勤労者人民(選挙人)から訓令違反、活動の怠慢につき審 査され、召還の対象とされている(ソビェト憲法142条、同国各級議員リコール手続法。ポーラ ンド憲法88条、ユーゴスラグィア憲法7条、同基本法32条、 33条など)0
政党に眼を転ずると、第3共和制憲法は政党の存在を了定していないし、初期の議院規則も院 内政派の活動について触れるところがないO議院では,議員個人としてでなく政派の代表として 発言することは禁止され、代議院での政派の結社届は議長によって無効を宣せられた。 (5)また、
フランス代表民主制の現代的展開(1) 85
政党の、所属議員に対する命令的委任の付与は議員の国民代表性と自由委任の原則にたった古典 的議会制憲法のもとで許容されうべくもなかった1896年、代議院議長は当選した議員が予め政 党の委員会に提出していた辞職書(lettres de demission)を受理することを拒んでいる。いわ んや、圧力集団が議会におけるそのメンバーに命令的委任を付与することは議員職の自由な行使 を脅かすものとして第3‑第5共和制を通じて禁止されているところである(6)
第2.公務に対する人民統制の手段は認められない。立法権は両議院(代議院と元老院)が各 々定立する議事規則に基づいて行使する(1875年2月25日法1条) 。憲法は大統領に立法に関し て発案、裁可、再議要求の権限を留保しているが、国民に対しては発案、表(票)決権はもとよ り、特定の問題(法案)に関して諮問に応えて意見を表明することも立法権を制約するものとし て許容していない。
すなわち、 (I)国民の決定を求める狭義の国民投票(r純rendum de decision は憲法上承 認されていない。 1905年、国教分離法案を国民の表決に付する提案は代議院議長により違憲とし てしりぞけられている(7) (n)法令の制定・改廃を求める請願権(droit de petition)は、個人 の表現の自由の‑形式として憲法史上に意義をもつものであるが、受理官庁に対する拘束力がな いばかりか、半代表制的手段としての有効性も多くを期待することができなかった (ffl いわ ゆる諮問投票制(referendumde consultation についてみると、たとえば議員歳費、比例代表制 に関し議会の表決前に市民の意見(avis)を徴することとした議員提出法案は、ともに議院にお いて違憲としてしりぞけられている(1908年12月6日、 1914年1月31日(8)設問投票制はスエー デン(憲法49条) 、オーストラリアがこれを認めているほか、ベルギーでも、立法権は憲法上国 王、代議院、元老院の3部門の排他的権限としつつも(憲法26条) 、慣行上人民の希望表明手段 として承認していることと対比されよう(9) (IV)憲法改正権は両議院に専属している(1875年 2月25日法8条)0
第3.議会解散による国民の審判は事実上期待不能のものである。それは、憲法上、国民主権
スウレニテハルルマンテ‑ル
と代表委任の純理的適用の所産として議会主権制が確立されていること、大統領の解散権 (憲 法は大統領の議会解散権を大臣の副署、元老院の同意を条件としそ認めている、 1875年2月25日
マク マオ ン
法5条参照)がMac‑Mahon の誤用(5 ‑16事件)によって不行使の慣行に途をひらいたこ とによって、不発・不能の状況におかれている。議会解散制に対するこのような抑制装置は、選 挙間期における民意の表明を阻止することによって、国民主権の原理を著しく形骸化する結果と
なっている。
以上、憲法規定の概観から、われわれは古典的な「代表制」憲法原理が第3共和制期において 維持されていることを確認できよう。フランス国民にとって、議会は、 1789年以来、依然として 国民の主権的意思の唯一の表現態として、民三主主二義のアーチの要石であるとみなされる。学説に おいても、たとえば、 Esmeinは人民の直接立法権は代表制の精神に反するものであるとし、そ の理由としてそれが制度の均衡を破壊し政治の運用を阻害し、分裂の原因となるといい、また議 会の審議権を弱めると述べている。 uOlかくして、パリ・コミューンに象徴される政治制度を別に
すると、第3共和制の憲法構造は、 Rousseauのいう「イギリス人民が自由なのは議会の議員を 選挙する間だけのことで、議nが選ばれるや否や、たちまち奴隷となり、無に帰Lてしまう」 (ll
とする提言が完全に妥当するといえようC,
注
86 扇 町 E mIII*
(1) 「第3共和制憲法」は、王党派と共和派の両勢力の妥協により成立したもので、 3つの憲法的法 律、すなわち(1)公権力の組織に関する1875年2月25日の法律(2)元老院の組織に関する1875年2 月24日の法律(3)公権力の関係に関する1875年7月16日の憲法法律から成りたっている。
(2)山本桂一「フランス第三共和政における各種法律の諸相」 『フランス第三共和政の研究』 1966年 有信堂、 273頁。
(3) CarrJ de Malberg, op. cit., t. D , p. 168.
(4) Eugとne Pierre, Traite de droit politique,さIectoral ef parlementaire, 4 e Jdit., no. 314 et s.
(5)野村敬造「フランス憲法と政党」 『公法研究』 30号(1968年) , 65乱 16) G. Burdeau, Dr. const, et inst. pol., p.529.
(7) M.. ‑H. Fabre, op. cit., pp. 224, 225.
(8) Burdeau, Tr. de sci. pol, t. IV, p. 210, R. Pelloux, op. cit, p. 52 (9) P. Wigny, op. cit., t.l, p. 236.
(10) Esmein, Deux formes de gouvernement, R.D.P., 1894, pp. 24, 41.
(ll) J.‑J. Rousseau, Du contrat social, liv. m , chap, xv, p. 302.
第2項 第4 第5共和制憲法と代表制
それでは、第2大戦後の1946年の第4共和制憲法および1958年の第5共和制憲法における主権 の原理と代表民主制の憲法構造はいかなるものであろうかが問われなければならない。本項では この問題領域を検討する。
第4共和制憲法(1946年) 3条は、国家における主権の所在(保持者)に関して、 「国民の主 権はフランス人民に属する」 (La souverainete nationale appartient au peuple frantais.,と 述べている。
第5共和制憲法(1958年) 3条も、 「国民の主権は人民に属する」 (La souverainetd nationale appartient au peuple‑ )と規定しているO
主権の原理に関して類似の表現をもつこれら両憲法の規定は、一見奇異で、それだけに確定し 難い面がある。つぎの諸説が予定されるであろう。
(I)両憲法において伝統的な国民主権の原理は建前上変っていないが、ただ国民主権をいか
^msA旨i
に行使するかに関して新しく人民による主権の行使を認めたことが評価される(Bastid;
(Ⅱ)両憲法において伝統的な国民主権の原理はともに人民主権の原理に変革されたとみるべき
コス ト 7 ロ レ
である Coste‑Floret) (m)両憲法は表現上の類似にかかわらず、それぞれの立脚する 主権原理は全く異なり,人民主権はドゴール憲法においてはじめて樹立されたとみるべきである
ランビコ̲エ シヤンヌニ
(Lampue, Jeanneney )0 (vI)両憲法はすでに第3共和制以来承認されてきた半代表制下の人民
フア7ル パルリア
主権の原理を継承しており、ただそれを憲法上確認したものとみるべきである(Fabre,Berlia).
上記のうち、 (I)と(Ⅱ)に関しては、第4共和制憲法制定のさいに、主権の所在をめぐっ てBastid 教授(当時議員)が国民主権を、委員会報告者であったCoste‑Floret が人民主権 を主張して双方の間に鋭い原理的対立がみられ(Bastid‑ Coste‑Floret 論争) 、憲法は両論 の《妥協》 として「国民の主権はフランス人民に属する」という表現をとったという経緯がある。
第4共和制の憲法制定者が伝統的な国民主権の原理を市民が国政の権力の一部分を保持すること を容認する人民主権の原理にとってかえたいと望んだ(lJのは、近時の選挙人団の構成の拡大に象 徴される政治的自由の進展と民主主義の要請、とりわけ国民の政治的要求に徴してある意味で自
フランス代表民主制の現代的展開(1) 87
然なことと思われる。しかし、それにもかかわらず、主権は同時に国民にも人民にも属するとみ
一・t i‑> ‑'
ることは論理的に矛盾しており、そうだとすれば両憲法の法形式は、 「互いに相容れない主権の 2つの概念を結合している」 (2㌧点で法律論としては承服Lがたいところがある。
両憲法の主権条項の解釈としていかなる解釈が最も妥当かつ整合的であろうか。まず、上記(Ⅲ) のいうように、両憲法において伝統的な国民主権原理は人民主権原理に変革されたとみるべきで あろうかo 戦後の両憲法は、議会の地位に関して、国民代表の不可分性を示す白地辞表の無効、
命令的委任の禁止の原則を承認し、人民主権原理を容認するいかなる結果も受け容れていない。
すなわち,議員の個別的罷免 revocation)は集合的委任の法理から許されないし(議員の地位 は選挙区の異動によって影響を受けない) 、 (3)一定数の選挙人の要求ないし択議に基づいて全体 としての議会または各個人の議員の職を剥奪する集団的罷免(recall)ももとより許されていな い(選挙は法令により定期に行なわれ(国民議会議員の任期は5年、全員改選、元老院議員は9 年、 3年毎に3分の1改選) 、議員は、任期満了前に、解散,無資格、懲罰による除名、自由意 思による辞職など憲法、法令の定める場合のほか、その意に反して罷免されない)。各議院は議員 の被選挙資格および選挙の適法性を審査する権限を有し、議院のみが議員の辞職を受理すること ができる(公権力の関係、に関する1875年7月16日法10条、 1946年憲法8条)。さらに、当選前に、
選挙人との間で交わされた公約、公約違反に備えて予め差出す事前辞表( demission anticipee) ないし白地辞表(demission en blanc) は、いずれも、違法、無効である。
° ° ° ° ° ° ▼ t
とくに、命令的委任の禁止は、第4共和制憲法には明示の規定はないが(命令的委任の禁止を 排除するBastid の修正案は拒否された) 、 (41第5共和制憲法では「すべての命令的委任の無効」
(Tout mandatimperatif est nul.)が明言されている(27条1項)O そして、この命令的委任禁 止の原則は、選挙人と議員の間のみならず、政党と議員の関係においても妥当することであるO 今日、 「政党と党員たる議員の関係の組織形態は、後者の前者に対する服従であり、武装解除で ある」 <5>(Kheitmi] といわれるように、議員の国民代表としての独立性は、議員の政党所属関 係に,おいて相対化しているO かように、現代の政党の強力は、伝統的な議会主義に立脚する自由 主義的代表原理の前にたちはだかり、後者が否認した命令的委任を議員に対する政党強制として 復活させ、 「委任の問題の新しい形式」 <6>(Laubadとre)を創出している。けれども、実定憲法 が代表制原理を法認している以上、議員の国民代表性を基礎づける自由委任の原則を否定したり、
これと直接抵触するような政党の強制は、道義的拘束力はともかく、法的には許されず、その効 力は否定されると解すべきである。 (7)議員と政党の関係における「強制委任方式は、政党の活動 家に対してのみ、より多くの参加の機会を支えうるものであり、その結果として有権者を《疎外》
1ドガー ル フオ‑ル
することになろう」 (8)(Edgar Faure 第5共和制憲法が規定しているように、 「政党は国民主 権と民主主義の原則を尊重しなければならない」 (4条)ことからいって、政党による過度の党 議拘束に限界を設け、代表制と政党制の調和を図ることが憲法の要請とみるべきであろう。した がって、 (I)議員の意に反する政党強制の負課は許されないO たとえば、候補者の選択・指名 にさいし党指令の遵守を辞職保証書と引き換えに要求したり、当選後の所属議員に対して不規律 のゆえに一方的に辞職を要求したり‑、あるいは議員の政党からの除名、脱退もしくは党籍変更の 場合に議員たる資格を失なわしめることなどである。 t朝 川)議員は選挙区から独立し全国民の 代表者として「職務の遂行に当っては自己の良心にのみ服従」 (lqするo議員には討論・表決の自 由および不逮捕特権が保障されている(26条)0 「国会議員の表決権は個人的である」とする現行 憲法の規定(27条2項)も政党強制の濫用を防止する趣旨を含んでいる1959年、大統領が下院
88 高 野 真 澄
議員の過半数が提出した臨時国会召集の要求を、圧力団体(農業団体)の誘導に基因するとして 拒絶したのも、命令的委任禁止の法理が関連しているといわれる。 (ll)
うえに考察したところから、両憲法は人民主権を容認する諸要因を受け容れていないし、むし ろ命令的委任の無効や議員の独立性を宣明していること、そして基本的にはそれぞれの全体の法 理からみて、両憲法は代表民主制の法的基礎として伝統的な国民主権の原理のうえに立脚してい ると解される。とすれば、 (Ⅲ)説のいうように人民主権はドゴール憲法で創始されたとみるこ
とは皮相的だといわねばならない。ドゴール憲法においては先行憲法においてよりも国政の重要 事項についての直接民主制をより強く採用するようになった点で、代表制の直接制化を強化して いることは認められるが(いわゆる半直接制) 、このことをもってドゴール憲法の基礎に人民主 権制を見出すことはできないであろう。また、半代表制論を肯定し、両憲法が半代表制を基礎づ けた主権原理(人民主権)を確認したとみる(IV)説(1功も、先に述べた趣旨から賛成しがたいo この説は第3共和制いらいの事実上の人民主権的傾向の存在をもって直ちに憲法上の国民主権原 理の支配体制を止揚したものとする点で、事実関係と法的関係を混同しているといえよう。改め
tMMamwci喝
ていえば、両憲法において主権の保持者ないし帰属点は、公式上、国民 Nation であり、人民
コ‑ルユしクト7ル
Peuple)はフランス国民のうち権力に参加する‑選挙人団に組織された‑市民の全体 (1958年憲法3条2項)を意味すると解される。つまり、統一体としての国民の主権は、不可分
DSKZEZIi
一体をなす集合体としての人民(peuple en corps)叫こ属し、人民(peuple)がその代表者 を通じまたは自ら人民投票により行使する。集合体としての人民の主権は国民主権を行使する憲 法上の直接機関として保持するものである。換言すれば、第4、第5共和制憲法において代表制
を基礎づける法原理は国民主権の原理であり、この原理が貫徹されている。けれども、両憲法は 公権力組織における主権行使の方法(従来の代表議会のみによる主権の行使)を変更し、人民は 代表者とならんで国民の主権を行使する憲法上の地位を占めるようになった。人民は国民主権を 行使する憲法上の機関としての立場において国民の主権を保持する。かように、両憲法の規定に
ナソオノ 7‑7ル
おいて、 nation 主権とpeuple 主権が奇妙な形で妥協されているようにみられるが、必ずしも 主権原理上の矛盾はないと考えられる。このようにみてくると、純代表制にしても、半代表制に
しても、さらに半直接制においても、その前提する主権原理は国民主権の原理であり、いずれも 国民主権の権力構成原理を共通分母とする代表制の具体的な展開様式であるということができる。
(14要するに、第2大戦後のフランスの第4、第5共和制憲法は、国民主権の原理とそれの具体的 表明である代表民主制‑議会の独立性を否定しておらず、その限りにおいて民主主義による制約 から自由な議会制がなお依然としてフランス国民にとって最良の統治形態であるようにみえる。
注
(1) M デュヴェルジェ『前掲書』 、20頁 (2) Burdeau, Tr. de sci, pol., t. V, p. 432.
(3) 1956年1月2日に実施された第3回国民議会選挙は、アルジェリアでは実施されず同県において 議員の選出をみなかったけれども、本国で選出された議員が当時のアルジェリアを含む国民全体 の代表者である地位に変更はないとせられた Benoit Jeanneau, Droit constitutionnel et institutions politiques, Librairie Dalloz, 1967, p. 14. )これに対して、大統領は彼に全権を付
与した1962年4月13aの法律に基づいて、ア′レジュリア諸県選出議員の委任を終了させるオルド 十ンスを制定した(1962年7IJ 4 H).この措置に対しては国会で批判的意見が出されたBurdeau,
フランス代表民主制の現代的展開(1) 89
Dr. const, et inst. pol., pp. 127,128.
(4) Fabre, op. cit., p. 216
(5) Mohammed Rechid Kheitmi, Les partis politiques et le droit positif frangais, L.D.G.Jリ
Pans, 1964, p. 104.
(6) M. De Laubadとre, Cours de droit constitutionnel et d'institutions politiques ( Licence lらre annee, 1955‑1956), Les cours de droit, p. 156.
(7) M.R. Kheitmi, op. cit., pp. 100 et s.
(8)ェドガール・フォール‑弥永康夫訳『疎外からの脱出』 1970年、読売新聞、 374'仁等O (9)この意味で、党籍離脱を辞職にかからしめる党t;議員の契約《辞職保証書か(engagement
d′honneur フランス社会党党則16条) は法的効力に疑問がある(この点、参照、高野衰澄「
全国民の代表」声部、池臥 杉原編『憲法演習』 1973年、青林古院新杜、 424 ‑430頁)0 (10) Schleswig‑Holstein Landessatzung 9条o免責を受けるのはあくまで議員としての職務行使
としてなされた行為にかぎり、単に公の集会でなした演説、新聞による意見の発表は含まれない M. Duverger, La cinq, republ., p. 96. )。
(ll) Burdeau, Dr. const, et inst. pol., pp. 129, 5】1.
(12) Fabre, op. cit., p. 203.わが国では樋u教授がこの説に立ち、 「普通選挙が確立し直接民主制を 原理的に排斥せず逆に理念的な目標とするような段l掛こなってから以後に/〕いては、 Peuple 主 権以外のものを想定することは不可能である」とされる(樋川掛‑‑ 『議会制の構造と動態』木鐸 社、 1973年、 197貢。 )
Burdeau, op. cit., p. 122.
(14)杉原泰雄「国民主権と人民主権」 『世界』 1972年6月号、 58貢以F:.
第2節 代表民主制の現代的変容
‑変容の要因‑
序 説
フランスの代表民主制は、とりわけ第3共和制末期以降、新たな政治生活の展開に逢着して憲 法上の制度と政治的現実との間に平離を示すようになる。それだけに、代表民主制の制度と現実 のこの平離現象がいったいいかなる要因に基づくものであるかについて相当な分析を施しておく 必要があるであろう。ここでは、以下の検討の前段階として、問題の所在を概括的に示しておく
ことにしよう。
第3共和制の後半期になると、民主主義を通じて「社会の変革」を実現せんとする政治理念が 高まり、緩慢ではあるが人民の意思を実現する制度として代表制を運用せんとする方向が定まっ てくる。二?政治傾向は,テユデスクの指摘するように,仙政治思想的には自由民主主義を推しテモグラテイラテイカル
進めた急進民主主義に負うところが大きい。それでは、代表制に(民主的)変容を迫る政治要因 としていかなるものが挙げられるだろうかo 代表民主制の現代的変容の要因として、第1に,氏 主主義の定着・普通選挙制の発展 第2に、政党の発達を挙げることができると思う Duverger のいうように、普通選挙の採用と組織政党の出現は代表民主制を変化させた本質的な要因(2)に数 えられるであろう。フランスの政治生活におけるこれらの新機軸の出現は、国民主権の表現の面 で代表制の新たな価値観を創出して徐々に古典的代表理論に対して緊張と動揺を投ずるとともに、
「主権表現の諸条件」 t3)を変更することにより代表制を変容させ、学者のいわゆる「半代表制」
90 高 野 真 澄
(Gouvernement semi‑representatif)を成立させることになる。けだし、営々と生きつづけて きた共和主義的精神に定礎された民主主義の定着‑普選の確立・発展と政党の漸進的な発達の結 果、選挙人団の政治的役割は強化し、大衆(masse)の政治過程‑の進出がみられ、従来の純代 表制ないし古典的議会制モデルを人民優位的方向‑発展させ、ここに至って(治者と被治者の自
I}‑‑ 'I蝣 a i蝣h
同性) (Carl Schmitt)という民主制の原理念に照応する情勢をみるようになった。
うえにみた政治的変化は、基底的には、この時期における社会・経済構造の変化に対応してい る。われわれは、第1次大戦(1914‑1918年)と大戦後に、資本主義の飛躍的な発展、人口の都 市集中、交通通信手段の発達、資本と労働の新たな緊張関係、これに伴なう労働運動の高揚、労 働者階級・新中産層の勢力結集などをみる。このような社会・経済関係の発展に照応しつつ、代
一'i・1 .
表民主制は、フランスのみならず西欧諸国においても、現代的な変容‑ 「古典的議会主義と 民主主義との同盟」 '4) (R. Fusilier' を惹き起していく。
イギリスでは、すでに19世紀後半、とりわけ1867年の第2次選挙法改正Second ReformBill' 以降、政党は組織を強化し、紀律を高め、その働きは議会と政府を政治過程において一体化し,
普選によって拡大した選挙人に対して統合的な政治責任を負担する。ここでは、国民の選挙によ って多数党となった政党の党首が内閣総理大臣となる(首相は形式的には庶民院で選出されるが、
実質的には選挙によって決まる)。かくして、この国における政党制の発達は政治生活における人 民の優位を承認するいわゆる半代表制を実現している。これは、名誉革命の産物である議会主権 制を克服し、事実上の直接民主制と目される内閣政治制 cabinet government を実現したこ
とを意味する。フランスの政党は、イギリスにおけるように民主制の発展に貢献するまでに自律 的な発達を遂げるに至らなかったが、前世紀後半以来進行した普通選挙制の拡大が大戦を経てい
よいよ選挙人の政治的権利を高揚し、労働者の団結権の強化と相侯って、古典的議会制の欠陥と されている国民代表と国民の間の平離の克服と社会立法の獲得にすすみ、また比例代表制が採用 されて政党の組織化を促した。かくして、選挙人は、憲法上の建前はともかく、事実上は権力保 持者の地位を占め、それに由来する民主的圧力は徐々に国政に影響を加えるようになった。ベル
ギーでも、 1920年と1921年に、それぞれ比例代表制の採用、第4階級‑の選挙権の拡大(普通選 挙を確立Lかつ従来の複数投票を廃し1人1票の平等選挙とする。女子の選挙権も明文化する。
が、その実施は1949年)のための憲法改正を行ない、国民の希望表明手段として重要事項の諮問 投票制(referendum de corlsultation を憲法慣習として発展させたD そして、ベルギーを含む多 くのヨーロッパの立憲君主制(スエーデン、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ルクセンブル グなど)は、行政府と立法府の協調の促進と普通選挙による人民の国政参加により、議会君主制 憲法体制‑発展を遂げたのである。
第1次大戦と戦後のインフレ、財政危機、 30年代の大恐慌を経由したフランスは、第2次大戦 後、社会・経済制度の再建をはかる。その過程で資本主義の飛躍的な発展(企業の集中・独占の 傾向)を生起し、戦後フランスの社会・経済構造を前世紀末のそれから根本的に変革するととも に、政治生活のあり方‑政治体制をも基本的に変容させずにはおかない。近代代表原理を継承す るフランスの議会制は、これら戦後政治社会の新たな事態‑要請に対していかに対処し、またど のような運用上の変化を迫られることになるであろうか。本節では、第3共和制末期以降、フラ
ンスの政治生活にみられる代表制の現代的変容の要因について考察することにする。
注