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商品貨幣論の現代的展開

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Academic year: 2021

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特集論文

商品貨幣論の現代的展開

泉 正樹

東北学院大学

はじめに

「貨幣的経済学の展開」を扱う本特集で筆者に求め られているのは,「価値形態論,貨幣論,信用論をつ なぐ商品貨幣論の原理的な展開の概要を示しつつ,商 品貨幣論の理論的な含意を解説する」ことである。受 注に際して,「貨幣的アプローチに基づく政治経済学は, いかなる意味で資本主義の独自な分析を行いうるのか, また商品貨幣論を採用することでどのような独自の視点 を持ちうるのかを考察する」という仕様書も提示された。 「商品貨幣論」の今日的な意味を問う的確な発注である。 以下,仕様を満たすべく造形に取り掛かるが,あらか じめ免責事項を明記し,本稿の構成の意図を示す。 他の研究領域でも同様の食い違いは生じるのかもし れないが,「商品貨幣論 Commodity Theory of Money」 という用語は,それを用いる人によって指し示す内容が 異なる多義性をもつ。本稿でも「商品貨幣論」について 云云するが,それはあくまでも筆者の知る「商品貨幣 論」であり,それ以外はさしあたり守備範囲外となる。 これが免責事項である。 それは言い換えれば,本稿で扱う「商品貨幣論」の 内容を,可能な限り明解に示すということにほかならな い。I 節はこの作業に充て,本稿の考察対象を日本の マルクス経済学の基礎理論で論じられる商品貨幣論に 限定する。II 節では,そうした商品貨幣論がどのような 市場像に通じているのか,その「原理的な展開の概要」 をあらかじめ示す。III 節では,本稿が対象とする商品 貨幣論が第一義的に関係する価値形態論の近年の研 究動向を概観し,最後に,「商品貨幣論の理論的な含 意を解説する」とともに,そのことによって「どのような独 自の視点をもちうるのかを考察する」。

I

本稿で扱う

「商品貨幣論」

まず,本稿が考察対象とする「商品貨幣論」について, その限定を行っておく。たとえば,「商品貨幣論」を否 定する論者にとって,この用語は,(1)貨幣が成立する 契機を見誤っているだけでなく,(2)貨幣を何かしらの 物品と捉えるために現代の貨幣現象も読み解けない謬 論を意味する。 話の取っ掛かりとして割り切るならば,(1)の論点は, 交換過程における試行錯誤を通じて特定の商品種が自 然発生的に交換手段の役割を担うという理解に対する 批判である。この手の起源論の片棒は,スミスに発す る古典派経済学,マルクスとその後のマルクス経済学, 今日の主流派経済学と縁が深いジェボンズやメンガー やサミュエルソンといった論者らによって担がれてきたと され,その虚構性が難じられる。貨幣の成立は,歴史 的には古代社会における租税や賠償,貸借関係を記 録するために考案された計算単位に求められるべきで あり❖1),論理的にも貨幣生成の契機を交換過程の自 生的発展に求めるのは袋小路に入るだけだとされる❖2)。 こうした批判に対して,貨幣のない状態から貨幣の ある状態への歴史的な変化を実際に目撃した人など現 存しないのだから,いずれの説も五十歩百歩である, または,考究しているのは貨幣存在の論理必然性で あって歴史的起源ではない,といった反論は直ちに打 ち返せよう。さらには,交換手段の自生,または自生 と崩壊の反復をシミュレートすることもできるそうで❖3), 基本的に(1)は平行線をたどる論点といってよい。 他方,(2)の論点は,現実認識の妥当性を問うもの である。すなわち,交換過程の発展が特定の商品種を 必然的に貨幣にするという虚構を仮に認めたとしても, 19世紀末から21世紀の現在に至るまでの貨幣のあり方 を多少なりとも追跡してみれば,もはや特定の商品種

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が貨幣の地位に就いていないことは明々白々な事実で ある,とりわけ1970 年代以降に出現し定着した現代の 不換銀行券制度によって,「商品貨幣論」は完膚なきま でに反証されているという批判である。 こうした批判を多少なりとも我が事として受け止める 論者は,基本的に〈貨幣の進化〉という論点によって応 答する。すなわち,「商品貨幣」と物品貨幣とを同一視 する先方の批判に付き合うかたちで,貨幣が取りうる姿 の一つとして商品貨幣(=物品貨幣)を位置付けるので ある。貨幣の本質を何とするかは各論者によって異な るが,そのいずれにせよ貨幣は,商品貨幣(=物品貨 幣)や国家紙幣や銀行券,銀行預金といった具合に 様々に姿を変えつつその本質を保持するというのであ る❖4)。 しかし,そのように「商品貨幣」を,数多ある貨幣の 一形態と位置付ける程度のことであれば,あえて「商品 貨幣論の現代的展開」などと大層な題目を掲げるには 及ばない。現代の貨幣現象を読み解くのには使えない けれども,金・銀といった「商品貨幣」が実在した段階 の貨幣現象はよく説明しえたというのでは,その「現代 的展開」は望むべくもない。もし本気で「商品貨幣論の 現代的展開」を探ろうとするならば,かつての貨幣現象 だけでなく,まさに現代の貨幣現象こそが, 商品貨幣 論でなければ読み解けないと構える必要がある。資本 主義の歴史的発展とともに様々な姿で実在してきた「貨 幣」を見通す理論として「商品貨幣論」を提示できるかど うか,問われているのはこの点なのである。 こうした問題に対する独自の回答が,日本のマルク ス経済学の一部から提示されている。そこでの商品貨 幣論は,「商品が基礎になって貨幣が説明できるという 論理的先行性,物財一般から商品を区別する価値の 存在に着目し,商品価値の発展した形態として貨幣を 説明しようとする論理的基底性を主張する立場というこ とになろう」(小幡[2013]102頁:註(1))とされる。商品に内 在する価値を基礎として貨幣を理解する議論が,「商 品貨幣論」と称されているわけである。以下,本稿でも 「商品貨幣論」という用語をこの意味で使用する❖5)

II

商品に内在する実現すべき価値

1 商品に内在する価値と貨幣価格 今世紀に入ると,日本のマルクス経済学の基礎理論 の領域では,商品価値の内在性に基づく資本主義像 (経済原論)が刷新されたかたちで提示された。その全 体 像は 小 幡[2009]に示されており,小 幡[2012][2013] [2014]では,それが敷衍されている。また,小幡[2016] では,他学派に対する「マルクス経済学」の独自性がど こにあるのかという論点が詳説されており,自習教材に は事欠かない。現在進行形の構築過程にある原論体 系において,『原論』著者による注釈の提示は,理論の 解像度を上げ,そのかたちをより鮮明に映し出す効果 をもつ。と同時に,以前の解像度のもとで読み手が独 自に補正していた箇所(解釈)とのズレも明確になるた め,いままさに取り組まれている研究内容を概観しよう としても,最新版とのズレのみが目に付く概説となって しまうことは大いにありうる。とはいえ,ともかくまず, 今世紀に入って刷新された経済原論が,筆者にはどの ように読めるのかという点は率直に示しておく必要があ る。商品貨幣論の現代的展開は,原論体系刷新の一 環として提示されているからである。 そのように眺めると,現在,基礎理論の領域では, 商品に価値が内在するという観点から論理体系の見直 しが行われていると見ることができる。もちろん,『資本 論』に結実するマルクスの経済学,そしてその後のマル クス経済学においても,商品に価値が内在すると見定 めるのは「いろは」であり,価値論が原論体系の基層に 位置付くという認識自体には長い伝統がある。刷新さ れつつあるのはその内容である。 周知のように,ある商品を単独で取り出して仔細に 観察してみても,価値の内在性を知覚することはできな い。日常意識において,商品価値の内在性は,たとえ ば 100 円といった貨幣価格を通して認識される。現在 であれば「円」は,日本の「通貨の額面価格の単位」(昭 和62年法律第42号「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」第 2条第1項)と規定されている。時間を遡り,これに先立 つひとつ前の法律では,「円(圓)」は,「純金ノ量目二 分ヲ以テ價格ノ單位ト爲シ之ヲ圓トÄス」(明治30年法律第 16号「貨幣法」第2条:なお「量目二分」は750mg)と規定されてい た。特 定の物 品の一 定 量を意 味したか つての「円 (圓)」に対して,現在の「円」は,抽象的な計算単位に 変化している。こうした変化はなぜ生じるのだろうか。 マルクス経済学は,それ自体としては知覚できない 商品に内在する価値を,知覚可能なかたちで表すとい う観点から貨幣価格に接近する。価値形態論である。 そのことを通して貨幣価格とは,諸商品に内在する価 値の統一的な表現様式であることが明らかにされる。

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本稿の課題の一つは,価値形態論における現在の議 論の到達点を示すことである。ただ,ここではまず,商 品価値の内在性に基づく資本主義像を,市場に焦点を 絞って駆け足で概観し,「価値形態論,貨幣論,信用 論をつなぐ商品貨幣論の原理的な展開の概要」をあら かじめ示しておく。 2 貨幣が実在する市場 商品に内在する価値は,貨幣価格で表現されてお 仕舞いなのではない。商品価値は売れること(価値実 現)を念頭に置いて表現されるのであり,それは必然的 に市場の態様を開示する貨幣論につながる。その際, 当該商品が「混ぜてしまったら見分けがつかなくなる」 (小幡[2009]54頁)という同種大量性を備え(想定 1),自分 の知り得る周囲を見回して個別的に状況判断を行う売 り手と買い手とが複数存在し(想定2),貨幣が実在する (想定 3)ならば,以下に見る独自の市場像を提示する ことができる❖6)。 まず,想定 1 に該当する商品種を所有する主体は, 自分が抱える在庫に単位当たり同量の価値があると観 念する。混ぜてしまえば見分けがつかない以上,自分 が売ろうとしている同種商品の在庫について,〈これ〉と 〈あれ〉とを区別する理由がないからである。さらに想定 2より,他の主体も同じ商品種を在庫として抱えている のであれば,そうした複数の主体が所有する在庫も混 ぜてしまえば見分けがつかない。つまり,その商品種を 誰が所有しており,誰が売り出しているかといったこと とは無関係に,「同種商品は同じ価値をもつ」(同前55 頁)という観念が売り手にも買い手にも生じると考えら れる。 ただしそれは,この商品種が,同一時点に同一価格 で売買されることを意味しない。「同種商品は同じ価値 をもつ」と考える各主体の行為が,逆に,価格のバラツ キを生み出すのである。貨幣が実在する市場(想定 3) では,買い手は商品を必要な時に必要なだけ買う。他 方,売り手の在庫には,他の商品と交換できる性質 (価値)が内在するとしても,それは各商品種の「特定 の有用性という殻に閉じ込められた状態」(小幡[2013]35 頁)にある。商品は,他の商品と即座に交換できる性質 をもつ貨幣に姿を変えなければ,他の商品を買うことが できない。このように,一方の極に売れることをまつ商 品がひしめき,その裏面として,他方の極に望むときに 商品を買える貨幣が実在する市場での売買取引は,継 起的なものとなる。それぞれの売り手が保有する在庫の 価値は,時間をかけて実現されるのである。 このため,売り出した自商品が即座に売れないとし ても,そのことは,この売り手の価格設定が誤っていた ことを直ちには意味しない。他の売り手の在庫が,たと えば単位当たり100 円で捌けているならば,混ぜてしま えば見分けがつかなくなる自分の在庫も,時間をかけ れば同じ価格で売れるはずだと考えることに不合理な 点はない。こうして,この商品種に一定の相場が形成 されることになる。もちろん,買い手の側がそれぞれの 必要に応じて継起的に購買を行う以上,各売り手の保 有する在庫は,各々の望みの時点で望みの量だけ売 れるとは限らない。競合する周囲の売り手を見回して, 時間をかければいずれ自分の在庫も相場で売れるだろ うと予想するにしても,それまでにどのくらいの期間を要 するのかは分からない。悪くするといつまでも売れない 可能性もある。「同じような価格をつけていても,たま たま早く売れるものもでてくるし,なかなか売れないもの もでてくる」(小幡[2009]68頁)と考えられるわけである。 そうであるならば,「なかなか売れないもの」のなかに は,思いのほか販売期間がかかってしまい,〈いま〉貨 幣を獲得する必要に迫られる主体が出現する可能性が ある。価値を,「特定の有用性という殻に閉じ込められ た状態」の商品の姿ではなく,貨幣の姿で保有しなけ ればならない強い理由とは何か。その一つは,この主 体が〈いますぐ〉目当ての商品を買う必要に迫られてい るからであろう。 3 商品貨幣論の原理的な展開の概要 同じ効果をもたらす異なった取引方式 このように想 定すると,そこからいくつかの売買取引を推論できるこ とが今日知られている。その端的な内容は小幡[2009] (65-77頁:「2.4 商品売買の変形」)に収められており❖7),そ ちらを参照する方がはやい。とはいえ,その大略を筆 者なりにまとめてみるならば,〈いま〉貨幣を獲得する必 要に迫られた「個々の売り手自身でできる,いちばん 手っ取り早いやり方」(同前69頁)は,「値引き販売」となる。 競合する複数の売り手よりも低い価格で売り出せば, 周囲よりも自商品が早く売れて〈いま〉貨幣を獲得できる 可能性が生じるからである。 しかし,こうした値引きは,「その事実を不特定多数 の潜在的な買い手に伝達せねばならず,それに追加的 な資材や労力を投じる必要がある」(同前69頁)。また, 「情報の伝達に時間がかかる以上,即座に売れるとい う保証はない」(同前69頁)。さらに,「まわりの売り手た

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ちが一時的に同じように対抗してくれば,せっかくの値 下げも元の木阿弥となる」(同前69頁)のだという❖8)。こ れに加えて,「売り急いでいることを買い手に見透かさ れると,多少の値引きですぐに売り切るのは難しくなる」 (同前69頁)。とすれば,この主体(A とする)は,〈いま すぐ〉目当ての商品を買うことができる別の方法を考え るだろう。 すなわち,A にとって〈いま〉必要とされる貨幣は,目 当ての商品を獲得するために「即座に支出される媒体 にすぎない」(同前69頁)。とすれば,A にとっては「後払 いで買うという手」(同前69頁)も考えられる。A の目当て の商品種の売り手のなかに,「思いのほか早く自分の 商品が売れてしまって,手元に現金の余裕のあるもの も存在する」(同前70頁)ならば,この売り手(Bとする)は, 自商品を「より早く売るよりも,より高く売ることを望む」 (同前70頁)だろう。つまりB は,後払いで〈いますぐ〉目 当ての商品を買いたいというA の提案に乗る可能性が ある。 もちろん,実際に「信用売買」が行われるためには, A の在庫が支払期日までに売れて代金が回収できるこ とを B が信用できなければならないし,その間に行わ れる B の購買に支障が出ないという条件も必要である。 とはいえ,自商品の「値引き販売」だけでなく,「後払い で買う」ことでも目当ての商品を〈いますぐ〉獲得しうるな らば,A は「どちらが得か,天秤にかけてみる気になる だろう」(同前70頁)。また,B にとっても自商品を「より高 く売る」可能性が生じることになる。 このように,〈いますぐ〉目当ての商品を買う必要があ る A の事情は,信用売買だけでなく,さらに別の方式 を生じさせる可能性がある。すなわち,A にとっての目 当ての商品ではない別の商品の売り手のなかにも, 「思いのほか早く自分の商品が売れてしまって,手元に 現金の余裕のあるものも存在する」ことがありうる。その 場合 A は,この主体(Cとする)の手元に滞留する「当 面支出の予定のない貨幣」(同前72頁)を借り,その貨幣 でもって目当ての商品を〈いますぐ〉買いうる。もちろん, こうした「貨幣貸借」において,C が A に貨幣を貸す気 になるのは,貸付金額と貸付期間中の貨幣の利用料と に相当するだけの A の在庫が,返済期日までに捌ける と見込めるからであろう。 さらに,手持ちの貨幣に余裕がある B や C といった 主体は,A が抱える在庫を相場よりも安く買い取り,そ の「価値実現を引き受けて,自らの才覚で追加的利得 を追求する積極的な主体 D に発展する」(同前76頁)可 能性がある❖9)。A にとっては「値引き販売」をして〈い ま〉貨幣を獲得するのと同じになるが,D は,A が抱え る在庫を相場よりも安く買って相場で売ることで,その 差額を追求する。こうした「販売代位」によって D は, A が負担するはずであった保管や輸送,市場調査や宣 伝といった「販売のための資材や活動」(同前76頁)も背 負いこむ。このため販売代位は,それを補って余りある 差額が見込めなければ割に合わない。 信用売買に応じる B,貨幣貸借に応じる C,そして, 販売代位に乗り出す D は,いずれも自らの利得追求 に専 念しているだけである。しかし,A にとっては, 〈いま〉貨幣を獲得するために自ら企図する値引き販売 と同じ効果をもたらしうる別の道が開けるわけで,どれ が「得か,天秤にかけてみる」ことができるようになる。 そのことは,単に売買取引の選択肢が広がるという以 上の意味をもたらす。 固有の価格現象 すなわち,〈いますぐ〉目当ての商 品を買う必要に迫られた A の選択肢が,「値引き販売」 という「自力救済」(同前69頁)に限られるのであれば,A が在庫として抱える商品種(商品種 a とする)の「価格に はさらに大きな下方分散の圧力が加わるはずである」 (小幡[2013]89頁)。〈いま〉貨幣を獲得しなければならな いという差し迫った必要が,相場を大きく下回る即金払 い価格での投げ売りを A に踏み切らせ,総体としての 商品種 a の価格帯を幅広にすると考えられるからである。 他方,A が値引き販売以外の方法を検討できる場合, 商品種 a の価格帯は幅狭になるのだという。たとえば B が信用売買に応じうるとすれば,B の売り物である商 品種(商品種 b とする)は,即金払い価格とは区別され る後払い価格をもつことになる。そのことが,商品種 a の値引き幅の拡大を抑制するというのである。なぜなら ば,商品種 b の後払い価格に相当する貨幣量を支払 期日までに用意できそうならば,A は,商品種 a の即 金払い価格をどこまでも引き下げて〈いま〉投げ売ること に執着しなくともよくなるからである。この場合,A は, 少なくとも支払期日が到来するまでの間,商品種 a の 他の売り手と同様に,相場で売れるのを待つことができ るようになる。「こうしてみると,信用を通じた取引は, 価格に対する価値の規制力の脚バラ荷ストになっていることが わかる」(同前89頁)。 そうであるならば,同様の効果は貨幣貸借の場合に も生じると考えてよいだろう。C が貨幣貸借に応じうる のであれば,A は,値引き販売のみに賭けなくともよく なる。A は,返済期日までに元本と借入期間中の貨幣

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の利用料に相当するだけの在庫(商品種 a )を相場で 売ればよいと構えることができるからである。それは, 極端な投げ売りを A に思いとどまらせ,結果的に商品 種 a の価格帯の拡大を抑える効果をもたらすだろう❖10)。 もちろん,信用売買における商品種 b の後払い価格 と,貨幣貸借における貨幣の利用料とが,A の投げ売 りと変わらない水準に設定される可能性はある。自らの 利得追求に勤しむ B や C が,A の窮状に付け込むと いうことは大いにある。しかし,B による商品種 b の後 払い価格のつり上げは,貨幣貸借に応じうる C にとっ てはチャンスとなる。後払いで商品種 b を買うよりも, 自分( C )から貨幣を借りた方が有利になるように貨幣 の利用料を設定すれば,首尾よくA に貨幣を貸し付け られるからである。逆に,C が貨幣の利用料を吹っ掛 ければ,チャンスは B に到来する。さらに想定 2より, 信用売買に応じうる主体が B だけとは限らず,B',B", ……と複数おり,貨幣貸借に応じうる主体も C だけで なくC',C",……と複数いるならば,A をめぐる相互 牽制はさらに錯綜し,結果的に商品種 a の価格帯の拡 大は抑制されることになるだろう❖11)。こうした信用売 買や貨幣貸借は,支払期日または返済期日までに A の在庫(商品種 a )が売れていることを見込む取引であ る。その意味で B や C の目論見は,A の抱える在庫 が相場で売れることで可能になる。B・C の利得追求の 成否は,A の在庫が売れるかどうかにかかっているわ けだが,その販売過程に B・C は基本的に関与しない。 他方,販売代位において,D は A から商品種 a を 買い取り,その「価値実現を引き受けて,自らの才覚で 追加的利得を追求する」。D がそうした活動に従事する のは,商品種 a を相場よりも安く買い取り相場で売るこ とで,「販売のための資材や活動」を支出してもなお割 に合う差額が見込めるからである。その意味で D の目 論見を可能にするのは,信用売買や貨幣貸借と同様に, 相場の価格として現れる商品種 a に内在する価値であ る。ただし,D は A から商品種 a を買い取って相場で 売ろうとするのだから,買い取り価格をできるだけ低く 抑えれば,その分だけ相場との差額も大きくなる。A が 〈いま〉貨幣を獲得する必要があるという窮状に付け込 んで,D は A からの買い取り価格を,A 自身が投げ売 りするのと変わらない水準まで引き下げようとするだろう。 つまりこの場合,販売代位は商品種 a の価格帯を狭め る方向には作用しない,とひとまず考えられる。 もちろん,販売代位に乗り出せる D' や D"といった 別の主体も存在しうるわけで,さらに,信用売買や貨 幣貸借に応じうる競合者も待ち構えているとすれば,D が提示する買い取り価格は,A の状況を察知すれば自 動的に投げ売り水準に落ち着くということにはならない。 このあたりのさらに詳しい価格現象については,考察 対象とする商品種のタイプ,即金払い価格・後払い価 格・買い取り価格といった各種価格と相場との関係, 各種価格と貨幣貸借における貨幣の利用料との関係と いった点についての条件をさらに明示したモデル化が 試みられてよい❖12)。ただ,いずれにしてもこうした広 がりを生み出す起点は,それぞれの商品種に内在する 価値である。貨幣価格で表現される実現すべき価値が 内在するということが,その実現を目指す行動を個々 の商品所有者に促し,貨幣が実在する市場に特有な 価格現象を生み出す。それは,初発の売り手が抱える 在庫の将来の価値実現を見込んだ信用売買や貨幣貸 借,さらには,初発の売り手が果たすべき価値実現を 肩代わりする販売代位,といった各種の取引方式を併 存させ,相互の利得追求を牽制しあう活発な市場像に 結実する。

III

商品貨幣論の現代的展開

1 本稿が念頭に置く「価値形態論」 「価値の存在に着目し,商品価値の発展した形態と して貨幣を説明しようとする」商品貨幣論の「原理的な 展開の概要」は,こうした市場像に端的に示されている。 もっとも前節の構成は,貨幣の存在を前提し,「原理 的な展開」の方に力点を置いた概説であった。本節で は,「商品価値の発展した形態として貨幣を説明しよう とする」という,商品貨幣論の本体部分について,現 在の到達点を示す。 本稿で念頭に置く商品貨幣論は,直接的には価値 形態論として論じられるが,そこでは現在どのような議 論がなされているのだろうか。ここで直ちに,本稿にい う「価値形態論」の限定を行っておく必要がある。なぜ ならば,この用語も「商品貨幣論」と同様に,論者に よってその指し示す内容が異なるからである。周知のよ うにマルクスは,経験的には誰でも知っている「この貨 幣形態の生成 die Genesis dieser Geldform」(Marx[1890]S. 62, 訳94頁)を示すことを価値形態論の課題に据え,そ

の論証は「ブルジョア経済学によってただ試みられたこ とさえないこと」(ebd.,訳93-4頁)と自負した。結論として

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のマルクスの直観は,貨幣形態(貨幣価格)を,諸商 品に内在する価値の統一的な表現様式と位置付ける点 にあると筆者は理解するが,その論理化の是非をめ ぐって議論百出となった。 本稿の問題関心からそれらを二分すれば,一方の極 に,『資本論』の説き方で基本的によいとする諸見解が, そして他方の極に,オリジナルの価値形態論はマルクス の直観を論理化できていないとする諸見解が対峙する。 その端的な分岐は,「簡単な価値形態」(以下,「形態I」と 記す)における〈20エレのリンネルは1着の上着に値する〉 という価値表現が,「逆関係を含んでいる」(ebd. S. 63, 訳 96頁)とマルクスが説くことへの評価に見て取ることがで きる❖13)。 第一の立場は,『資本論』が提示する「逆関係」には 一定の理由があり,マルクスの説くところを素直に辿れ ばその理解にさしたる困難はないとする❖14)。これに対 して第二の立場は,「貨幣形態の生成を示す」という価 値形態論の課題に鑑みて「逆関係」を認めることはでき ず,その理路は独自に考察されなければならないとす る。筆者の理解するところ,この第二の立場の主張と は要するに,「逆関係」の成立は 20 エレのリンネルと1 着の上着との物々交換を意味するのであり,そうであ れば議論はそこで打ち止めになるはずで,「貨幣形態 の生成」など示す必要はない,ということである。 確かに,リンネルの価値を表現する材料になることで リンネルに対する「直接的交換可能性」(ebd. S. 70,訳107 頁)を獲得している上着が,自らの価値を表現する材料 としてリンネルを等価形態に置く「逆関係を含んでいる」 のであれば,リンネルは上着に対して「直接的交換可 能性」を獲得する。この場合,形態 Iとして表現された リンネル価値は即座に実現できることになり,他方でマ ルクスが「商品の命がけの飛躍」(ebd. S. 120,訳191頁)とい う標語で強調しようとした,販売の偶然性を抱える市場 が考察の俎上に載ることはなくなる。それは,前節で概 観した市場像に手が届かないことを意味する。 「逆関係」を明確に棄却し,マルクスの価値形態論を 再構成する有力説を提示したのは宇野弘蔵であった。 すなわち,商品所有者の存在を明示した宇野は,リン ネルの「所有者がそのリンネルと交換して得ようとする」 (宇野[1964]30頁)上着を等価形態に置くと見定めたので ある。そのことによって件の価値表現は,リンネル所有 者の側からなされる一方的な交換要求であり,上着所 有者が「逆関係」の交換要求をリンネル所有者に向ける とは限らないことが明確にされた。こうした再構成に よって,商品と貨幣との非対称な関係の生起を綴る書 式が用意されたと筆者は理解する。本稿が念頭に置く 「価値形態論」は,こうした流れを汲む議論である。 2 二つの難問 ただし,議論の出発点が妥当であるということと,そ こから展開される議論自体が妥当であるということとは 別の問題である。『資本論』であれ何であれ,書かれ た内容の論理的な真偽を淡々と精査する宇野の手法は, 宇野自身が示した論理体系に適用されてこそ一貫する。 価値形態論でもそうした考察は積み重ねられ,関連す る二つの難問が提示されたように筆者には読める。 その一つは,価値形態論内部の論理展開について のもので,「拡大された価値形態」(以下,「形態II」と記す) から「一般的価値形態」(以 下,「形 態III」と記す)への「移 行」をどのように説くかという問題である。『資本論』にお いてマルクスが提示したオリジナルの価値形態論にはい くつかのバリエーションがある。現在普及しているバー ジョンの「移行」は,直接的には前項で棄却した「逆関 係」を用いて説かれている。ただしそれは,「一般的価 値形態の考察の内部でいわば排除 Ausschließung の 論理とでもいうべきものによって補完されている」(小幡 [1988]52頁)ともされる。 マルクスは,リンネルが相対的価値形態にある形態II を分析し,それが形態 I の「諸等式の総計からなってい るにすぎない」(Marx[1890]S. 79, 訳122頁)とする。そして, 形態 I が「逆関係を含んでいる」ことを想起させ,「そこ で,20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンド の茶 または=etc.という列を逆にすれば,すなわち事 実上すでにこの列に含まれている逆関係を言い表わし てみれば,次のような形態が与えられる」(ebd., 訳122-3 頁)として,形態 III を導き出す。しかし,形態 II には, リンネル以外の諸商品がそれぞれ相対的価値形態にあ るケースも想定されるはずで,それらの「逆関係」も当然 考慮されなければならない。つまり,論理的には形態 IIIは,無数の形態 IIの「逆関係」を示すものとして,あ らゆる商品種が一般的等価形態に置かれる価値形態 に帰結する❖15)。つまり,形態 I における「逆関係」を 仮に認めたとしても,それを用いて形態 II から形態 III への「移行」を説こうとすれば,論理的な破綻は必定な のである。 もっともその程度のことはマルクスも先刻御承知で, 「ある商品が一般的等価形態(形態 III)にあるのは,た だ,それが他のすべての商品によって等価物として排

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除されるからであり,また排除される限りでのことであ る」(ebd. S. 83, 訳130頁)という,「排除の論理」とよばれる 論点も提示している。「逆関係」を用いた「移行」で出現 する無数の一般的等価物を,「排除の論理」で絞り込む ということなのかもしれない。しかし,そうであるならば, 「移行」を実質的に執行しているのは「排除の論理」のみ ということになろう。実際,価値表現における「逆関係」 を認めない諸論者による「移行」は,「排除の論理」一本 で追究されることとなった。その展開が,一つ目の難 問である。 もう一つは,価値形態論の結論と現実との対応関係 をどのように考えるべきか,という問題である。仮に, 「排除の論理」で一般的等価形態に置かれる商品種を 絞り込めたとしても,そのことは,1970年代以降に一般 化した現代の不換銀行券制度とどのように関係するの か,という問題である。商品貨幣論はあくまでも基礎理 論の話で,現実はそれを越え出てしまっているというの は一つの回答だが,そうであれば II 節で述べたように, 「商品貨幣論の現代的展開」など望むべくもない。価値 形態論をどういうかたちで結構させるかという問題は, 現実の貨幣現象に対する認識を左右する。これが二つ 目の難問である。 3 商品貨幣論の現代的展開 宇野は,「マルクスのいわゆる拡大されたる価値形態 の,各商品における展開は,必ずいずれの商品の等 価形態にも共通にあらわれる特定の商品をもたらすこと になる」(宇野[1964]35頁)と説いた。それぞれの商品所有 者が行う交換要求の中には,「必ず」誰もが交換を要求 する「特定の商品」が存在し,それが一般的等価形態 に置かれて「排除」されるというのである❖16)。この宇野 の問題提起を引き受けるその後の研究は,「必ず」の是 非をめぐって,大きく二つに分岐する。 一つ目の展開は,「必ず」の内容を精緻化しようとす る方向での深化といってよい。細かく見れば差異は見 出せるが,その論理を一言でまとめるならば,〈多くの 商品所有者から共通に等価形態に置かれる商品は, あらゆる商品所有者から共通に等価形態に置かれる〉 ということになる❖17)。もっとも,出発点に位置する〈多 くの商品所有者から共通に等価形態に置かれる商品〉 については,そうした〈想定〉を置くというかたちになっ ている点は留意されてよい❖18)。確かに,商品所有者 がそうした商品の存在を知りうるならば,当初その商品 を等価形態に置いていなかった商品所有者も,〈多くの 商品所有者から共通に等価形態におかれる商品〉だか ら欲する,と推論することに不合理な点はない。 この後で触れる「二つ目の展開」においては,この想 定の一般性を論証しえないということが出発点になる。 これに対して「一つ目の展開」から,だからそういう〈想 定〉なのだと返答されれば,両者の主張は平行線を辿 る。形態 IIから形態 III への移行は,個別商品所有者 が自己の欲求を満たそうとして展開する私的な交換要 求の絡み合いを通じて成し遂げられるという主張は, 「一つ目の展開」における〈想定〉を受け入れるならば, 一定の合理性がある。しかし,問題はその先にある。 すなわち,「一つ目の展開」に沿って形態 IIから形態 III への移行を説くと,そこから導かれる貨幣形態には 一定の制約がかかるという問題である。諸商品種の中 から特定の商品種が一般的等価物として排除されると いう論理展開の当然の帰結として,当該論理体系にお ける貨幣の役割は,その商品種が担うことになる。もち ろん,流通手段としての側面のある範囲については, 貨幣商品の象徴によって置き換え可能かもしれない❖19)。 また,貨幣の支払約束が,あたかも貨幣そのものと見 紛うばかりのふるまいをすることもあろう。しかし,それ らはあくまでホンモノの貨幣あっての象徴や代理であり, それ自身が貨幣なのではない。そうした分かりきったこ とをここであえて持ち出し,そこに問題の所在があると するのは一体どういう了見か。 それは,「一つ目の展開」が指向した論理的一貫性 とは異なる方向に現実が発展したように見えるというこ とである。ここで念頭に置いている「現実」とは,1960 年代に生じた金投機に対処する金プール協定の形成と 廃止(金の二重価格制)を経て,1970 年代以降に一般 化して今に至る現代の不換銀行券制度を指す❖20)。と りわけ,1971 年 8 月の金・ドル交換停止を契機として生 じた変動為替相場制の出現と国際機関によるその追認 は,あらゆる商品所有者から共通に等価形態に置かれ る特定の商品こそがホンモノの貨幣である,という観点 に基づく現実認識を困難にしたように思われる。もちろ ん,基礎理論の領域で規定される貨幣と現実の貨幣 現象とを一対一に対応させ,そこにズレが認められるか ら理論が誤っていると言い募るのは,理論の抽象性を 理解できない児戯であろう。資本主義の歴史的発展の 中で様々にあらわれる貨幣現象を統一的に把握する 〈理論〉なのであり,個別の貨幣現象とのズレはある意 味当然である。 しかし,少なくとも筆者には,現代の貨幣現象と,

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形態IIから形態IIIへの移行に基づいて導出されるホン モノの貨幣とがかけ離れすぎているように思われる。現 代の価格の度量標準(貨幣単位)でもよいし,現代の金 融機構の内部で債権・債務関係を通じて形成される信 用貨幣でもよいが,現前の貨幣現象を遡求していって も特定の商品種という意味でのホンモノの貨幣には辿り 着けない。こうした現実を前に,資本主義はホンモノ の貨幣が消失してしまうような歴史段階に足を踏み入れ たのだという説明は,一つのありうる行き方である。し かしその場合には,現代資本主義が,資本主義の一 般原理を逸脱した資本主義ならざる資本主義という語 義矛盾を抱えることになる。または,現代においても変 わることなく特定の商品種が一般的等価形態に置かれ ていると説明する工夫もありうるのかもしれないが,そ の行き方は個人的には周転円を想定することと同じで あると考える。 こうした観点から「移行」の問題を考えてみると,「二 つ目の展開」のうちに,基礎理論の領域から現代の貨 幣現象を読み解く可能性が見出せるように思われる。 「二つ目の展開」においては,形態 IIから形態 III への 移行の必然性について,個別商品所有者の交換要求 行動の追跡だけで論証することはできないとされ,「商 品 経 済 の 外 部」(岡 部[1996]239頁)や「外 的 条 件」(小 幡 [2009]40頁)といった要因の作用が取り入れられる。商 品と貨幣とが相見える,すぐれて商品経済的な領域で ある〈市場〉を成り立たせる契機として,初発の商品概 念以外の条件が必要であることが明示されるようになっ たわけである。もっともそうした内と外との関係の意識 的な追究を通して,「二つ目の展開」では,「かりに貨 幣の生成が商品経済の外部との関係を不可欠としてい るとしても,商品経済それ自体の論理との整合性が保 てなければ,貨幣は商品経済の中にその地位を得るこ とはできない」(岡部[1996]239頁)という点が明確にされた。 おそらく,このあたりが現在進行中の当該研究の突 端付近であるが,「二つ目の展開」はそこからさらに微 妙に,しかし結果として大きく分岐する。分かれ目は, 「商品経済の外部で誕生したもの」(同前249頁)であった としても,それが「商品交換の論理との整合性を維持で きる限り」(同前),個別商品所有者はそのモノを貨幣とし て受け入れる,という命題を認めるか否かにある。より 端的にいうならば,法貨規定のみで創出されるフィアッ ト・マネーを想定するとして,個別商品所有者がそれを 共通に等価形態に置くと考えるか否かという問題である。 ここまであからさまに論点の定式化を行えば,価値 形態論の組み立てから純粋なフィアット・マネーを導き出 すことには何かしらの躊躇を感じよう。なぜなら,形態 IIから形態 III への移行に際して何らかの「商品経済の 外部」なり「外的条件」なりが必要であるということと,諸 商品が他商品を用いて価値表現を行っている世界に, 外部から何らかのモノが投げ入れられるということとは 同値でないからである。もちろん,そのような意味に 「商品経済の外部」や「外的条件」を想定するのであれ ば,フィアット・マネーも問題なく価値形態論によってカ バーされるのかもしれない。 しかし,オリジナルの価値形態論から貫く論旨,すな わち,形態 IIから形態 III への移行は,特定の商品種 が「さまざまな商品の中から抜擢され,ノミネートされ た」(小幡[2009]44頁)ことを意味するという観点を堅持する ならば,そこに「商品経済の外部」から投げ入れられる モノが顔を出す余地はない。あくまで諸商品種の中か ら特定の商品種を絞り込む「商品経済の外部」なり「外 的条件」なのである。初発の商品概念に引っ掛からな い純粋なフィアット・マネーは,端から一般的等価形態 に置かれる「商 品」として候 補になりえない。つまり, 「原理的には説明できないような,純粋なフィアット・マ ネーは実際にも通流しない」(小幡[2012]226頁)のであり, 現代の不換銀行券のように一見フィアット・マネー「らしき ものが存在するとすれば,それはどこかに商品貨幣の 契機を取り込んでいることになる」(同前),というのがこ の方向の結論になる。 ただし,そこには先に見た「二つ目の難問」が待ち構 えている。すなわち,「不換銀行券もまた一種の商品 貨幣」(同前225-6頁)だというが,現代の不換銀行券は 一体,どのような「商品貨幣」なのかという問題である。 形態 II から形態 III への移行を,特定商品種の「ノミ ネート」として理解する以上,そこから導き出されるのは 先に見た「一つ目の展開」と同様に,特定の商品種を ホンモノの貨幣と位置付ける貨幣形態となるはずである。 従来,こうした貨幣理解に基づいて,信用論の領域で 貨幣の支払約束としての兌換銀行券が論じられてきた。 しかるに,現代の貨幣単位を遡求してもホンモノの貨 幣には辿り着けそうにない上に,銀行券は不換化して いる。1950 年代から60 年代にかけて日本で活発に議 論された不換銀行券論争の一大争点をなした,〈不換 銀行券の本質は何か〉という問題が,今日,より先鋭 化したかたちで再現されているのである。

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むすびにかえて

衽衲

なぜいま,商品貨幣論なのか

現在,この難問を突破しようとする議論が提示され つつある。まさに当該研究の突端であるが,人跡未踏 の領域を切り拓こうとする先駆的な試みであるだけに, その取り組みを概説できるだけの整地はまだなされてい ないように筆者には見える。ただ,「合成的な債務証 書」(小幡[2013]98頁)や「商品セットの証券」(江原[2018b]60 頁)といった工夫を通して論理化が目指されている直観 とは,要するに,従来とは異なる型の貨幣形態がありう るということである。商品には実現すべき価値が内在し, それは他商品を用いて相対的に表現されるという価値 形態論の組み立てに則り,かつ,形態 II から形態 III への移行には「外的条件」が要されると見定めるならば, 特定の商品種が一般的等価形態に置かれてホンモノの 貨幣と化し,それが後続の貨幣・信用論の基礎になる, というのとは異なる型の貨幣形態が示されようとしてい ると筆者は理解する。 改めて,従来の価値形態論に基づいて現代の貨幣 現象を読み解こうとする際に突き当たる最大の難所はど こかと率直に考えてみる。それは,一般的等価形態に 置かれる商品種が一つに絞り込まれた型の貨幣形態を 前提として現実を眺めなければならないという点にある。 貨幣商品が単一の商品種に絞り込まれると考えるから, 価格の度量標準はその商品種の物量として規定せざる をえなくなるのである。また,貨幣商品が特定の商品 種として特定できるから,信用論はその支払約束という かたちで展開し,兌換銀行券へと行き着かざるをえなく なるのである。 しかしもし,商 品に内 在する価 値の表 現 様 式に, 「等価物として単種商品が用いられる場合と,複数種 の商品セットが用いられる場合の2パターンが考えられ てよい」(同前60頁)とするならば,後者のパターンからは 現代の貨幣現象を読み解く可能性が生じる。「複数種 の商品セット」に名称を与える「外的条件としての計算貨 幣規定」(同前62頁)によって価格の度量標準が設定され, それが個々の商品種の物量に還元できない総体として の商品セットを意味するのであれば,その要素をなす 個々の商品種は,ホンモノの貨幣を構成する要素では あっても,セットとして存在するホンモノの貨幣ではない ということになろう❖21)。また,そうした貨幣概念に基づ く信用論は,ホンモノの貨幣である特定の商品種の支 払約束というかたちでは展開のしようがなくなる。つまり, この型の貨幣形態から導かれる信用貨幣は,原理的に 不換銀行券へと行き着かざるをえないと考えられるので ある。多分に筆者の思い込んだ読み方だが,このよう に読んでよいとすれば,そこにはさらに検討すべき論点 も残されているように思われる。 たとえば,現在の研究の最先端は,等価物として 「複数種の商品セットが用いられる」可能性と,そのセッ トに名を授けて価格の度量標準を設定する「外的条件と しての計算貨幣規定」とを提示する。姿かたちの上では 似ても似つかぬ異種商品の集まりを,同一グループとし て概念化する計算単位への着目がなされているわけで ある。ただ,異種商品をセットに束ねてグループ化する ということであれば,形態 IIで「特殊的等価形態」(Marx [1890]S. 78,訳120頁)に置かれる諸商品種全体に対して 適用する方向もありうるのではないか。形態IIから形態 III への移行を経て貨幣形態に辿り着くのではなく,形 態 IIで「特殊的等価形態」に置かれる商品種全体を統 べる「外的条件」として「計算貨幣」を位置付け,一息に 貨幣形態へとよじ登るルートである。もとより,最新の 研究動向に触発されて着想だけ披歴してみても話にな らないが,先行研究が分厚く堆積する当該領域におい てもなお,開発途中のフロンティアが存在するということ は確かである。 もちろん,次々と移りゆく現象をいたずらに追いかけ, その度に基礎理論を作り替えるというのでは,資本主 義の一般理論には到底手が届かない。ただ,様々な 諸現象を〈資本主義的〉と捉えようとするならば,そのよ うな認識を可能にする枠組みは整えておく必要がある。 本 稿で概 説を試 みた商 品 貨 幣 論の新たな展 開は, 1970 年代以降に出現した現代の不換銀行券制度が曲 がりなりにも存続する理由を,基礎理論の問題として受 け止めるものであるといってよい。商品には実現すべき 価値が内在し,それは,一般的等価形態に置かれる 「商品」を用いて貨幣形態として表現される。このことは, 時代性や地域性といった要因に左右されることのない, 資本主義的な市場に共通する原理である。ただ,その 実現方式には少なくとも二つあるということが,商品貨 幣論の現代的展開を通して示されようとしているので ある。 現在,資本主義は「歴史的に発展し,その姿かたち を変えてきたし,今日また,大きく変貌を遂げつつあ る」(小幡[2009]2頁)という問題関心に基づいて,そうした 変化を説明できる基礎理論の開発が進められている。

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その基本は,市場や社会的再生産を構成する諸概念 を明らかにした上で,その現実における現れ方は複数 ある,という造りになっている。たとえば,資本概念の 基本は「自己増殖する価値の運動体」と定義されるが, それが現実の世界で「個人資本家」として現れるのか, 「結合資本」として現れるのかについては,基礎理論だ けでは一意に定まらない❖22)。また,資本のもとでの労 働編成の基本は「協業に基づく分業」となるが,それが 労働者の熟練を消極化するかたち(「機械制大工業 型」)で現れるのか,熟練を独自に活用するかたち(「マ ニュファクチュア型」)で現れるのかについても,基礎理 論だけでは一意に定まらない❖23)。この他にも資本主 義の原理像には,基本概念の現れ方が分岐する箇所 が「開口部」として備わっている❖24)。そこに「外的条件」 が作用することで,あるまとまった姿の資本主義が構成 される。 商品貨幣論は原論体系の一部を構成するだけでは ない。そこには通貨制度の分岐をもたらす「開口部」が 備わっており,他の領域の「開口部」との分岐と組み合 わさることで,いくつかの資本主義のタイプを論理的に 構成する際のポイントになる。こうしたアプローチは,な ぜ現実は変化するのかという問いに対して,そもそも資 本主義は原理的にいくつかの状態で現れる可能性をも つから,という回答を用意する。この点が,商品貨幣 論の現代的展開が有する理論的な含意である。ただし, 論理的に構成される資本主義の諸タイプは,現実には ある順序で現れ,歴史的な発展を示す。論理的には 等位であるはずの諸タイプが,現実には先後関係を 伴って現れるのはなぜなのだろうか。筆者の読み違い かもしれないが,こうした問いを立てられることこそが, 商品貨幣論の現代的展開を通してもたらされる独自の 視点である。 注 * 本稿はJSPS科研費JP18K01529の助成を受けたものである。 ❖1) さしあたり楊枝[2012]第6章,Ingham[2004]Ch. 6などを参照。 ❖2) 貨幣生成に関する伝統的理解に対して,大きく二つの方向から の批判がある。一つは,貨幣生成の問題を独自に引き受けるポ スト・ケインズ派の方面からのもので,その契機は,個を統べ る社会的権威による計算単位と支払手段との制定に求めるべ きだとされる(簡便な整理として,内藤[2011]第1章,Ingham [2004]Ch. 2などをさしあたり参照)。 もう一つは,貨幣の生成というそもそもの問題設定が的外れ であるとする方面からの批判である。そこでは,商品や市場の 何たるかは貨幣の存在を前提してはじめて規定できる,または, 商品と貨幣との関係は一方から他方が導出されるといった先後 関係にはなく,両者は市場を構成する独立の要素であるとされる。 各提唱者によって,貨幣の自己循環論法,貨幣的アプローチ, 貨幣的価値論といった名称での自己規定がなされている。筆者 は賛成しないが,今日,諸学派の垣根を越えて一定程度支持さ れる見解といってよい(岩井[1993],植村・磯谷・海老塚[2007] 第1章,片岡[1994],正木[1992],向井[2010]第3章・第4 章などをさしあたり参照)。 ❖3) 安冨[2000]第3章。なお,安冨[2010]第1章(3-26頁)に安冨 [2000]の概要が簡潔に示されている。 ❖4) 貨幣の本質を交換手段と見定める論者(主流派)の議論として

Samuelson & Nordhaus[2010]pp. 458-9を,一般的等価または 価値の独立形態と見定める論者(マルクス派)の議論として Lapavitsas[2005]pp. 400-1をさしあたり挙げる。 ❖5) 商品に備わる「他の商品と交換できるという一般的性質,交換可 能性,すなわち交換性を価値とよぶ」(小幡[2009]29頁)という 観点を共有できるならば,本稿で扱う商品貨幣論は,「商品に は『価値がある』以上,どの商品も潜在的には貨幣たりうる資格, すなわち貨幣性をもつ。諸商品に内在する貨幣性を基礎に,貨 幣を特殊な商品と考える立場」(小幡[2009]44頁)と定義できる。 ❖6) ここに挙げた「想定1」〜「想定3」は,筆者による小幡[2009]の 解釈である。 ❖7) 小幡[2013]第5章にも同様の議論が収められているが,同章の 初出は1979年(小幡[2013]250頁を参照)であり,かなり早い 時期に提示された独創的な論点である。 ❖8) 商品に内在する実現すべき価値が,相場価格として表現されて いるにもかかわらず,「まわりの売り手たちが一時的に同じように 対抗」してくるのはなぜか,という点はさらに詳論されてよい。 ❖9) 主体Dの登場は,小幡[2009]では,貨幣を貸し付ける主体C の「発展」として説かれている。ただ,主体Bが信用売買に応じ られるのは,「手持ちの貨幣に余裕があったから」(小幡[2009] 72頁)であり,「その点ではBも潜在的にはCのような貨幣の貸 し手になる性格を具えている」(同前72-3頁)という指摘に鑑み て,本稿では本文のように解釈した。 ❖10) 小幡[2009]70-5頁,小幡[2013]87-90頁,201-6頁などでは, 値引き幅を抑制する効果をもたらす取引として,信用売買が明 示的に取り上げられている。ただ,Aにとって信用売買と貨幣貸 借とが同じ効果をもたらすという点に鑑みて,本稿では本文のよ うに解釈した。 ❖11) 商品種aの売り手のなかには,商品種bとは異なる商品種を 〈いますぐ〉買う必要に迫られるA'や,逆に,後払いの販売に応 じうるA",貨幣貸借に応じうるA‴といった様々な主体が存在 しうる。こうした多様性は他の商品種の売り手にも想定できるた め,そこで生じる価格現象は商品種aと同様になると考えられる。 ❖12) 江原[2018a]第1章では,「資本主義的商品」の分類として,生 産価格が成立するタイプと成立しないタイプという判別軸と,「一 定期間内での個々の商品の入れ替わりが激しいタイプ」(江原 [2018a]40頁):「世代交代型」(同前41頁)と「持ち手は変わっ

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ていても商品自体は同一のものが常に売りに出されているタイ プ」(同前40頁):「転売型」(同前41頁)という判別軸が提示さ れている。それらの組み合わせから4タイプの商品種の分類がな され,その価格現象が詳論されている。 ❖13) 古くは宇野弘蔵と久留間鮫造との間で交わされた論争が挙げら れよう。宇野衾久留間論争を現代的な問題関心から捉え返した 論考として,江原[2017]がある。 ❖14) この立場を端的に示す直近の文献として,佐々木[2018]66-75 頁が挙げられる。 ❖15) このことは,初版『資本論』本文の価値形態論では指摘されてい る(Marx[1867]S. 42-3, 訳74-6頁を参照)。また,同様の趣 旨は「当惑のあまり,ファウストのように考えこむ」(Marx[1890]S. 101,訳159頁)という言い回しで,初版『資本論』から一貫して 「交換過程論」において指摘されている。 ❖16) この宇野の議論を検討した論考として岡部[1996]240-8頁(第2 節)を参照。 ❖17) 原論体系の一環としてこの点が明記されている教科書として,さ しあたり日高[1983]21-4頁,山口[1985]19-7頁,伊藤[1989] 30-33頁を挙げる。 ❖18) この「想定」は,たとえば,「多数の拡大された価値形態があると き,それらの多くに共通の等価形態におかれている商品があると すると」(日高[1983]22頁)というかたちや,「全商品所有者を価 値表現のパターンによってリンネル・グループとコーヒー・グループ の二グループに分け,……リンネル・グループはいずれも茶を等 価形態においており,これが多数派であるとする。茶を等価形 態においていないコーヒー・グループは少数派である」(山口 [1985]21-2頁)というかたち,さらに,「ある程度の数の商品の 拡大された相対的価値表現において,いくつかの商品が共通の 等価商品に選ばれているにちがいない」(伊藤[1989]31-2頁)と いったかたちで置かれている。 ❖19) 流通手段としての貨幣の象徴化の議論については,さしあたり Marx[1890]第1篇第3章第2節c「鋳貨 価値章標」を参照。 その批判的検討として山口[1984]補章を参照。 ❖20)1960年代以降の国際通貨体制に生じた出来事については,さ しあたり石見[1995]第4章・第5章,山本[1997]第4章・第5章 を参照。 ❖21) このことと「計表本位制」との違いが,江原[2018b]62-4頁(とり わけ注19):66頁)では慎重に区別されている。 ❖22) さしあたり小幡[2009]79-81頁,304-5頁(問題56の解答)を 参照。 ❖23) さしあたり小幡[2009]122-33頁,小幡[2012]55-60頁を参照。 ❖24) その全体像については小幡[2009]を参照。 参考文献 •伊藤誠[1989]『資本主義経済の理論』岩波書店 •岩井克人[1993]『貨幣論』筑摩書房 •石見徹[1995]『国際通貨・金融システムの歴史』有斐閣 •植村博恭・磯谷明徳・海老塚明[2007]『新版 社会経済システムの制 度分析:マルクスとケインズを越えて』名古屋大学出版会 •宇野弘蔵[1964]『経済原論』岩波全書(引用は岩波文庫版(2016年) から行った) •江原慶[2018a]『資本主義的市場と恐慌の理論』日本経済評論社 •江原慶[2018b]「価値形態論における計算貨幣」経済理論学会編『季 刊 経済理論』第54巻第4号,桜井書店,55-67頁 •江原慶[2017]「価値の量的表現論」『東京大学 経済学論集』第82巻 第1号,41-63頁 •岡部洋實[1996]「貨幣『制度』生成の論理」河村哲二編『制度と組織の 経済学』日本評論社 •小幡道昭[2016]「マルクス経済学を組み立てる」『東京大学 経済学論 集』第80巻第3・4号,2-30頁 •小幡道昭[2014]『労働市場と景気循環:恐慌論批判』東京大学出版 会 •小幡道昭[2013]『価値論批判』弘文堂 •小幡道昭[2012]『マルクス経済学方法論批判:変容論的アプローチ』 御茶の水書房 •小幡道昭[2009]『経済原論:基礎と演習』東京大学出版会 •小幡道昭[1988]『価値論の展開:無規律性・階級性・歴史性』東京大 学出版会 •片岡浩二[1994]「貨幣生成論の批判的検討:貨幣の存在論序説」 『大阪市立大学 経済学雑誌』第95巻第3・4号,133-153頁 •佐々木隆治[2018]『マルクス 資本論』角川選書 •内藤敦之[2011]『内生的貨幣供給理論の再構築:ポスト・ケインズ派 の貨幣・信用アプローチ』日本経済評論社 •日高普[1983]『経済原論』有斐閣選書 •正木八郎[1992]「マルクスの貨幣商品説再考」『大阪市立大学 経済学 雑誌』第92巻第2号,1-31頁 •向井公敏[2010]『貨幣と賃労働の再定義:異端派マルクス経済学の 系譜』ミネルヴァ書房 •安冨歩[2010]『経済学の船出:創発の海へ』NTT出版 •安冨歩[2000]『貨幣の複雑性:生成と崩壊の理論』創文社 •山口重克[1985]『経済原論講義』東京大学出版会 •山口重克[1984]『金融機構の理論』東京大学出版会 •山本栄治[1997]『国際通貨システム』岩波書店 •楊枝嗣朗[2012]『歴史の中の貨幣:貨幣とは何か』文眞堂

•Lapavitsas, Costas[2005]“The Social Relations of Money as Universal Equivalent: A Response to Ingham”, Economy and Society, Vol. 34, No. 3, pp. 389-403.

•Ingham, Geoffrey[2004]The Nature of Money, Polity Press Ltd.

•Marx, Karl[1890]Das Kapital. Band I, 4. Aufl., in Marx-Engels Werke, Band 23, Dietz Verlag, 1962(岡崎次郎訳『資本論』国民文庫,第1分 冊,1972年)

•Marx, Karl[1867]Das Kapital Band I, 1. Aufl., in Marx-Engels Ge-samtausgabe II-5, Berlin, Dietz Verlag, 1983(岡崎次郎訳『資本論第一 巻初版』国民文庫,1976年)

•Samuelson, Paul A. & Nordhaus William D.[2010]Economics, 19th Edition, International Edition, McGraw-Hill

参照

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