産業教育と普通教育の関連に関する基礎的研究
その他のタイトル Basic Study on the Relationship between Industrial Education and General Education
著者 本庄 良邦
雑誌名 関西大学社会学部紀要
巻 14
号 2
ページ 59‑91
発行年 1983‑03‑28
URL http://hdl.handle.net/10112/00022780
本 庄
良 邦
日産業教育のめざすもの
( イ
) 産業教育の意義
( 口
) 史的唯物論と産業教育 口教育の産業的側面と文化的側面
一労働と閑暇の二元主義一
口全面発達とボリテフニズム (polytechnism)の教育 国 日本における現行産業教育体制について
( イ
) その現状と動向
\ 口
) 技術論と中等普通教育としての技術教育 り職業訓練論
日 産 業 教 育 の め ざ す も の
(イ) 産業教育の意義
....
産業というコトバは,「生活してゆくための仕事,はたらき」であり, 「なりわい」1)を意味す るものであるが,それは「産」と「業」とからなる合成語であることは云うまでもない。前者の
.
.
「産」は,生産 (production)の産であり,産物 (product)の産であるとともに,産出 (educ‑
tion)の産でもある。産は,いづれにせよ語原的には「換」2)からきているために,新しいものを 生み出す,または,つくりかえること,よびおこすことを表わしている。
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.
後者の「業」は,生業の業であり, 稼業や民業(民のなすわざ)の業であるから, まさしく
「なりわい」を意味する。これに最も近い外国語として, business,occupation, trade, jobま たは, earning,employmentなどがあげられる。これらは,それぞれ特有の意味をもつもので あるが,どちらかと云えば,「なりわい」的色彩が強い。 しかし, 孟子の「梁恵王下」に「君子 創業垂統」とある如く,業が「天職」または「職分」という意味をもつ場合もある。 J. デュー
1)新村出編「広辞苑」岩波書店,昭和48年, 915頁。
2)貝塚茂樹他編「角川漠和中辞典」角川書店,昭和49年, 722頁。
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イなどは,その主著, Democracyand Education, 19163'で, industryとvocation,profes‑ sion, callingなどと,さきの business,occupation, trade, jobなどとを厳密に区別して使っ ているわけではない。しかし,どちらかといえば,業は人間個人にとって根本的な生計維持のた めの純経済的な営利活動をあらわしているものである。
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従って,産業というコトバ(概念)は,物質的財貨を産み出すはたらき(労働)によって,生
計維持をはかることを意味する。このことは,英語の場合においても, industryが,いわゆる 産業や工業をあらわすと同時に,「つとめ,はげむこと」 (diligence)をも意味しているから,そ れが, work,labor, careerなどとも語義上,同じ系列のもとにあるといえる。かの室鳩巣は,
厳然たる身分社会のなかで,人びとの平等な産業的役割の労を強調して, 「農人は天地生植の財 を主どる。田畠を開いて八穀を布,桑麻を植,山に入りて,薪をとり,野に趣ては萱をかり,総 て山野河海の食物を取って,天下の衣食に労す。エ人は天地器用の材を掌る。金鉄大木の類に接 り,其材を用い,農具を出し,兵杖を作り,衣服を織り,室宅をいとなみ,総じて万の器を作り,
天下の用に労す。商人は天地の偏奇をたすけ,有を省て無を補う。余り有を取て不足に与へ,総 じて天下の財を遍して,天下に其化育を象しむ。……農工商の人•…••天地の心を心とし,人びと 相見ること一家のごと<'人に労することを好み,人を労することを悲み,ともに相労し,とも に相やしなわれて……」4)と述べている。勿論,支配階級である武士の役割(職責)は,農工商 の生産階級をまもり,悪人をおさえ,万民の患を救うことにあると強調していることは,いうま でもない。
いづれの時代であれ,人間が生存を維持し,発展せしめる限り,絶えず生活のための資料を獲 得しなければならない。 そのために人間は, 自然に働きかけてこれを変化させて, 人間の欲望 を満足させるわけであるが,ただ単に欲望満足のために自然に働きかけてこれを変えるのではな くて,実はそのことを通して自らの人間的自然 (humannature)を変化させるのである。従っ て,生産のための労働は,同時に自己の個性ないし真面目を産出する自己実現行為となる。教育 (Education, Erziehung)は, educareやer‑ziehen(外へ引き出す)からきている如く, ま
さしく人間の内在的な可能性を引き出すはたらきであるから,このような教育活動は実践的な産 業労働を通してはじめて実現されるものである。このことについて,エンゲルスは自己活動とし ての労働を自己産出行為 (Arbeitals Selbsterzeugungsakt des Menschen)としてとらえ,
「労働はすべての人間生活の基本条件である。 しかも……労働が人間そのものをつくりだした」5)
とする。また, K.マルクスも「資本論」において,労働はもともと全面的な活動であったとし て「労働は,人間と自然との間の一過程である。彼は,彼の体に属する自然力たる腕や手や頭や 3) J. Dewey, Democracy and Education, Macmillan, 1916, chapt. XXIII. …•••ここでは, vocation
をindustryよりは広範なものとし,しかも主観的,人間的側面の強い概念として使用している。従っ てindustryは,どちらかといえば,客槻的側面を強調する際に使いられている。
4)室鳩巣,「不亡紗」巻二, 日本経済叢書,第三巻, 67 68頁。
5) F. Engels, Naturdialektik, 1935 (エンゲルス「自然弁証法」,岩波文庫, 1957), 200頁。
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体を運動させる。 彼は, この運動により, 外部の自然に働きかけてこれを変化させることによ り,同時に,彼自身を変化させる。彼は,彼自身の内にねむっている諸能力を発展させ,その能 カの働きを彼自身の統制のもとにおく」6)としているのである。
かくの如く,生産のための労働こそが人間にとって人間たり得る根本条件であり,実は文化や 教育も,かかる実践的な労働生活のプロセスにおける諸経験によって蓄積されてきたものである。
従って,教育が高踏的,閑暇的でなく,つねに現実の生きた生活を問題とする限り,物質的財 貨の生産を直接の対象とする産業教育を抜きにして考えることはできない。かくして,産業教育 は,人間教育の根本であり,産業労働の仕方を学ばせるものといえるのである。このような銀点 から教育をとらえ,産業教育をとらえなかったところに今日の教育的諸矛盾の根元があり,極め て遺憾なことに,特権的な自由教育 (liberaleducation)の伝統をひく普通教育(generaleduca‑ tion)と比較して,産業教育は常に第二義的,副次的なものと見倣され,はたらく労働階級のみ の教育と考えられてきた。例えば,産業革命をつとに遂行しながら,人文主義的教養のあまりに も強いイギリスにおいては, S.F.コトグラフも指摘する如く7),「科学の応用としての技術教育」
は,産業革命以降も「教養としての価値の低いもの」とされて,中流以上の階級のための中等教 育には,ながく組織されなかったのである。 即ち,「実用的価値の高いもの程,教養としての価 値の低下を示す」ものとされたのである。
このことは産業教育が中等教育の中に組織された場合でも,それはあくまで傍系としてであっ て,今日においても,精神労働と肉体労働の分裂を是認する教育観が,普通教育と産業教育の二 元的対立となってあらわれており,とりわけ学校体系として複線型を形成しているのである。こ のことが最も顕著にあらわれてくるのが,義務教育後の後期中等教育段階であり,いまや,この 二元的対立を如何に打開してゆくかが国際的に共通の教育課題となっているのである。しかし,
現実的にはアメリカにおける Comprehensivehigh schoolとCarrereducationの登場,ソ ヴィエトにおける中等普通学校におけるポリテフニズムと中等技術学校(テフニクム)の並存,
イギリスにおける三課程制(Tripartitism)・・…・(Grammar school, Technical school, Modern school)……と, Comprehensiveschoolへの移行の問題,西ドイツにおける Gymnasiumと Realschule (実科学校), Hauptschule(基幹学校)に対する Gesamtschule(総合制学校)の 試み,など,社会体制の如何を問わず,いづれも模索がつづけられているのである。特にイギリ スの場合は,すでに本紀要の創刊号8)において論究したわけであるが,その後,コンプリヘンシ ップ・スクールヘの移行がすすみ, 70年代後半では,コンプリヘンシップ・スクール (63パーセ ント),モダーン・スクール (19バーセント), グラマー・スクール (8バーセント),テクニカ ル・スクール (5バーセント)となっている。即ち,特権的なグラマー・スクールをおさえて,
6) K. Marx, Das Kapital, 1867 94 (マルクス「資本論」青木文庫, 1954), 185 6頁。
7) S. F. Cotgrove, Technical Education and Social Change, George Allen & Unwin LTD. 1958, p. 16.
8)拙稿「イギリスにおける教育改革の動向について」関西大学社会学部紀要,第1巻,第1号,昭和45年。
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総合制中等学校の発展を施策として強力に推進し,いままで「階級差の反映であり,その拡大再 生産の機能」を果していた学校体系を変革することによって,教育の機会均等を実現し,階級社 会の構造変革を行なおうとするものである。このことは J.フラウド, A.H.ハルゼー, J.ヴェ イジイやH.ラスキなどの等しく指摘する点である。ただ,さきの比率は,政権の変動と極めて密 接に関連しており,コンプリヘンシップ・スクールの発展は労働党政権下で顕著にみられるもの である9)0
イギリスのコンプリヘンシッブ・スクールに限らず, ドイツの綜合制学校も,またソヴィエト の中等普通学校におけるボリテフニズムも,めざすところは,学校体系としてはもとより,学校 内部(知識,カリキュラム, streamingなど)においても「教養ある人」と「働く人」の分離 理論と実践の分離を克服しようとするものである。 J.デューイの「教育は,すべての者が,何か の仕事をもっている世界の教育でなければならない。最も大切なことは,各人が日常の仕事のな かに偉大な人間的意義の存在するものをみることができるような教育を受けることである。」10)と いうコトバを思い出さざるを得ない。
(口) 史的唯物論と産業教育
しかし, J.デューイの述べるような望ましい教育は, 古代の階級的分裂以来, ながくみられ なかった。このことは,産業教育の形態を歴史的に大観すればあきらかである。即ち,それは,
まず原初の望ましい労働生活の過程における経験や技術の伝承という素朴な形態からはじまり,
中世で典型的にみられる一芸(一面)に秀でた職能人養成のための徒弟教育を経て,近代機械生 産における多面発達の可能性をもとめる産業教育にいたるのであるが,産業教育は,たえず生産 の仕組ないし生産の様式と深くかかわっていることは事実である。何故ならば,産業教育は,い づれの時代であれ「労働の仕方を教える」ものであり,「産業労働に従事するために必要な知識,
技術および態度の習得をめざして行なわれる教育」であるから,それぞれの発展段階における生 産様式と決して無関係ではない。しかも,階級社会の出現によって,さきの人間教育としての産 業教育が根底からくつがえされ,それが専ら労働に従事する生産階級のための教育となるのであ る。この生産様式 (mode of production)というのは,たしかに生産をどのような方法によっ て行なうかを定める仕方であるが,これは生産力と生産関係の統一として成り立っている概念で ある。
さきに述べた物質的財貨の生産において,人間は自然に働きかけてこれを変えるわけであるが,
その際,人間は人間相互の間でも働きかけ合うのである。その場合にとり結ぶ社会関係を「生産
9)森嶋通夫「イギリスと日本一その教育と経済ー」岩波,昭和52年,特に71頁。その後,コンプリヘンシ ッブ・スクールは, 8割を越えたが,現在,保守党政権下でまた減少しつつある。
10) J. Dewey, The School and Society, The University of Chicago Press. 1915, pp. 2122.
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関係」11)と名づけているが,重要なことは, この生産関係は主として生産手段の所有関係によっ て規定されるということである。勿論,生産関係には,生産過程内での人間相互の社会関係のほ かに,生産された財貨を分配し,交換する際の相互関係も含まれるから,生産手段の所有形態な らびに生産物の分配の形態にもとづく諸階級の経済的諸関係が含まれる。従って,生産関係の総 体としての「下部構造」12)は生産手段の所有ならびに生産物の分配がどのようになっているかに よって異なる。即ち,生産手段および分配を支配する階級が利潤追求のために生産を方向づける 資本制生産様式の場合と,ひとびとの需要を満たすために生産を計画的に公的所有のもとで遂行 する場合とでは決定的に異なるはずである。
この下部構造ないし土台に照応して,史的唯物論では,政治的,法律的な制度や組織(第1次 上構)がなり立ち,さらに思想,道徳,宗教,芸術などの社会的意識形態,すなわちイデオロギ
‑ (第2次上構)がなり立つと考え,これらを総称して上部構造となづけられている。しかも,
下部構造は基本的に上部構造を大きく規定するが,それは決して一方的なものではなく,それぞ れ相対的に独自性をもち,相互に働きかけあう。この下部構造の変動の主たる要因が生産力の発 展(技術条件を入れる)にあり,生産力がやがて従来の生産関係の枠を乗りこえ,それと矛盾す るようになると新しい生産関係をもとめる。これが「社会構成体」の変動と交替の過程であり,
人間の歴史は,いままでアジア的,古代的(貢納制),封建的および近代プルジョア的, 社会主 義的生産様式という法則的な5つの発展段階を経てきたとする。
ただ,この発展段階は決して直線的なものではなく,非同時的なものの同時的存在といわれる 如<'以前の段階の生産様式を残存させつつ発展することはいうまでもない。しかも,基本的に,
共同体的生産関係から私有財産制への道をきりひらいたものは,職業分化の結果であり,また,
古代的(貢納制)生産様式から封建制への移行は,むしろ奴隷的収奪による生産力の停滞にもと められる。勿論,古代の原動力は,たしかに奴隷的労働にあったが,それが同時に発展を妨げる 機能をも果したのである。非人間的な条件のもとで,自らの利益に何らつながらない労働からは,
決して,生産用具の改善工夫や労働意欲はうまれない。封建制は,従って,奴隷を半ば解放し,
ある程度の人格と自由を認め,労働意欲を高めることによって,増強された生産物を最大限収奪 する体制であったといえる。
職業の後継者養成としての徒弟教育は,世襲的職分団における親子関係から,商工業の発達に ともなって次第に,他人との関係における徒弟教育(養父養子)に移行するが,これが最も典型 的に発展をみせるのは,封建制の道具生産の様式においてである。しかも,この徒弟教育は,ぁ らかじめ徒弟の資格13)を厳重に規定し,さらに,その内容として単に産業教育ばかりではなく,
11) K. Marx, Zur Kritik der politischen Okonomie, 1859 (武田,遠藤,大内,加藤訳「経済学批判」
1956, 岩波文庫),序言と附録I[。
12)ソ同盟科学院,コンスタンチーノフ監修,「史的唯物論」 4冊, 1955,大月書店。
13)遠藤元男「職人の歴史」至文堂,昭和31年, 81 82頁。
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普通教育(3Rs)と,態度教育(道徳教育)をも含んでいた14)。前者の普通教育は,生産庶民層 のための学校教育が普及するに従って,次第に徒弟教育の中から離れ,分化してゆくが,後者の 態度教育は徒弟教育のなかで極めて重要視され,身分制下で仕事三昧の職人気質,名人堅気を生 み出すとともに,封建的イデオロギーを深化徹底させるために大いなる役割をはたしたのである。
なお,マクロ的に,産業教育の形態と生産様式との関連を,尾高邦雄教授のIS)「職業従事の形 態」と結びつけて示せば,下表の如くなる。
生 産 様 式 I 産 業 教 育 1職業従事の様式 I 従 事 の 動 因 アジア的共同体 労働過程 職業天命制 召命(カリスマ),社会的選出 古 代 的 貢 納 制 徒弟教育(親子関係) 職業世襲制 身分(伝統)
封 建 制 徒弟教育(養父養子関係) 職業世襲制 身分(伝統)
近代ブル(資ジ本ョ制ア的) 近代産業教育 職業自由制 選択意志(営利,打算)
社 会 主 義 ボリテフニズム 職業社会制 計画性
従って,「教育」を下部構造に照応する第 2次的上部構造とするならば, それは,道徳や思想 などとともに,イデオロギーの一つの形態としてとらえられるから封建社会では,いわゆる封建 的道徳(分限主義)や教育がみられ,また,近代社会では資本主義的下部構造の規定をうけて,ぃ わゆるプルジョア的教育が出現し,さらにこれが支配のための有力な武器となる。しかし,生産 階級の力の増大と,支配的上部構造に対抗して解放のための「自己教育」の思想ならびに運動の 発展がみられると,教育は新しい文化の創造によって,新しい社会の生成を促がす要因ともなる。
さらに,重要なことは,産業教育が生産力発展の質に大きくかかわるということである。人間 が生産を達成するためには,いうまでもなく労働対象と労働手段,労働力という三つの構成要素 が必要である。労働対象は人間の労働力が働きかける対象のすべてをさし,これに加工を施して 目的物である財貨に変えるわけである。従って,これには自然の生のままの原料もあれば,手を 加えて改善されたものもある。労働手段は人間が労働対象に働きかける際に,それを助け使用す る方途のすぺてをさしており,生産用具をはじめ,生産に必要な土地,建物なども含まれている。
この生産用具の発達が,何よりも労働の効果を高めるが,生産手段は労働力と結びつかなければ ものをつくり出すことはできない。生産力というのは,これら両者が結びついた際の物質的生産 の能力をいい,労働力の再生産としての教育が,改善された労働対象や労働手段の発達とかかわ りながら生産力の発展をもたらす。従って,とりわけ産業教育は,生産や生産物の分配,交換に 関係する人間の能力を再生産するわけであるから,労働対象や労働手段に関する科学的理解と習 熟を目的とすると同時に,新しい意識や世界銀の形成にもかかわっているのである。即ち,この 14) E. A. Lee, Objectives and Problems of Vocational Education, McGraw‑Hill, 1938, pp. 45.
15)尾高邦雄「職業社会学」岩波書店,昭和16年, 381頁。
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場合の労働力は,人間の能力を表わしているから,これを教育学における「学力」としてとらえ られるから,産業に従事するために必要不可欠な学力を高め,科学的な世界銀と人間的な意識の 生産の高まりを目指して行なわれるのが,産業教育であるといえる16)。
は 教育の産業的側面と文化的側面 ー一労働と閑暇の二元主義_
前述の如く,産業教育を青少年および成人を対象として,「産業に従事するために必要な知識,
技術ならびに態度の習得をめざして行なわれる教育」と規定すれば,いわゆる普通教育が普遍的 文化の伝達をめざし,広く日常生活に役立つ基本的共通(Basiccommon)の教育を志向するも のであり,従って,それは特定の産業ないし職業をめざさない教育であるから,産業教育と普通 教育とは,まさに対立概念であるとする考え方がある。このような見解の背後には,職業陶冶と 一般陶冶の分離,生産のための産業教育と伝統的特権的自由教育との分離を是認する教育観がう かがえるのである。
教育の産業的,職業的側面と,教育の文化的,教養的側面との対立をギリシャ以来の二元論よ り論究した J.デューイは, 「哲学上の諸観念を定式化する抽象的で一般的な用語と,職業教育 の実践的な具体的細目との間には大きな隔りがあるように見える。しかし,教育上の二元的対立,
労働と閑暇,理論と実践,身体と精神,精神の状態と外界(mentalstates and the world)と の対立の基礎をなしている知的前提を頭の中で再吟味すれば,それらの対立がついには,職業教 育と1)教養教育の対立に達することが明らかになるであろう。」2)として,両者の分離対立を解く
ことが今日の民主的な社会における重要な教育課題であるとする。彼は先ず「職業」という概念 (vocation)を,ただ単に生活の手段としてではなく,これを自らの calling(職分または天分)
への自覚と,広く他者との関連における社会的役割の遂行としてとらえている。従って, 「ただ 一つの方面の活動のみを目指して教育することほど馬鹿げたことはない。」3)そのような狭い教育 活動は,「人間として発達していない一種の怪物(akind of monstrosity)」4)をつくり出すもの であり,しかもそのような教育は極めて「効果のうすい,非教育的なもの」5)であると論破する。
また,職業を「直接目にみえる物質的財貨の生産に関する仕事のみに限定することを避け」6),有 機的な連帯社会における細目機能の担い手が分有するところのすべての役割活動 (sharedacti‑
16) K. Marx, F. Engels, 古在由重訳「ドイツ・イデオロギー」 1956,岩波文庫,特にpp.5072. 1) J. デューイは,もっぱら職業教育という概念を使い,しかもこれをculturaleducationと対比して使
用しているが,彼のいう職業教育と産業教育とはほぽ同じ内容をなすものと解してよい。
2) J. Dewey, Democracy and Educatian, An Introduction to the Philosophy of Education, Mac‑
millan, 1916, p. 358 (Chapt. XXIII, "Vocational Aspect of Education.") 3) ibid., p. 359.
4) ibid., p. 359. 5) ibid., p. 363. 6) ibid., p. 358.
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関西大学「社会学部紀要」第14巻第2号 vity)とみなす。
さらに重要なことは,さきの二元的対立が,ただ単に教育上の対立ばかりではなくて,これが 深く社会のあり方と関連していることである。デューイは云う。「この根深い二元的対立, すな わち労働のための教育と閑暇の機会を楽しむ教育とは,それ自体で成立しているものではなくて,
・・。・・・・・。・
社会生活の内部の分裂を反映している。……これら両者が, もし, ともに一つの社会のすべて の成員に平等に分配されていたならば,教育上の機関や目標に何らの衝突も起らなかった筈であ る」 と。 このような見解は,デューイばかりではなく, ソヴィエト教育学においても同様にみ られ,「教育を労働との対立的な位置においた炉社会において,その対立が成立し,いわゆる階 級的教育が行なわれたとする。
では,デューイの場合,この根深い二元的対立をいかにして克服するか,彼によれば,常に教 育の課題は,産業社会の現実を如何に教育に反映させるかにあり,端的にいえば,社会的適応と しての今日の産業教育(職業教育)の中心課題は,産業技術文明の基礎を如何に正しく科学的に 継承するかにあり,産業社会に個人を如何に的確に適応させるかにあるとする。かの如く,産業 社会と教育の関係は密接不可分であって,生産を媒介とする社会過程を考えないで,社会機能と しての教育は考えられない。従って現代における産業教育の中心的課題は,現代産業社会の生産 技術にあり,「商工業の様式の変革と同様に,変化した社会情勢の所産であり, また形成されつ つある社会の必要に応じようとする」9)ものである。かくして, デューイによれば産業教育は基 本的に社会的適応の過程となる。しかし,ここで大切なことは,社会的適応としての産業教育は,
既存の生産関係や思想,生活習慣等に一方的に順応,同化させるための教育ではないということ である。
「教育は,しばしば個人と環境との適応を可能ならしめる習慣の形成であると解せられている。
この言葉は,成長(growth)の核心をついた言葉である。しかし,この場合,適応ということは 目的を達成するための手段をコントロールするという能動的な意味に解されなければならない。
...
……適応は受動的ななれを意味するだけでなく,更に能動的な意味をもつ。適応ということを完 全に定義すれば,それは環境に我々の活動を適応させると同時に,我々の活動に環境を適応させ ることなのである」10)と。つまり, 社会環境にはたらきかけて,これを変化されることによって 彼ら自身を社会に適応させるのである。デューイの「生活とは,環境への働きかけを通して,自 己を更新して行く過程 (self‑renewingprocess)」11)なのである。従って,産業教育は既存社会 の環境の諸矛盾を克服する改革的な過程に位置づけられる。「社会の改造は, たしかに教育の改
7) ibid., p. 293. (Chapt. XIX, Labor and Leisure)
8)オゴドロニコフ,シンビリョフ,(福井,勝田,清水共訳),「ソヴィエト教育学」,青銅社,昭和28年, pp.4551.
9) J. Dewey, The School and Society, The University of Chicago Press, 1915, p. 4. 10) J. Dewey, Democracy and Education, Macmillan, 1916, pp. 5556.
11) J. Dewey, op cit. p. 2.
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革に依存する」12)から,デューイにおける二元的分裂の克服は, 産業教育の社会改革的機能にも とめているものである。連続的に成長するアメリカ社会への信頼,民主主義と人間的自然 (hu‑ man nature)に対する確信と,教育に対する決定的な確信というオプティミズムで,果してこ
の根深い二元的分裂が克服できるかどうか。
現実的にみて,普通教育と産業教育の二元的対立は,また教育制度としての普逼的平等化と,
配分的多様化としてあらわれる。 1930年代に,配分的多様化の立場より,平等主義 (egalitaria‑ nism)に対する批判が綜合制ハイ・スクールに集中的にあらわれる。例えば, T.H. Briggsの
「大投資」 (Greatinvestment, 1933)や, J.T. Tildsleyの「アメリカ中等教育の高まる濫費」
(The mounting wastes of American secondary education, 1936)や, I.L. キャンデルの
「民主主義の矛盾」 (Thedilemma of democracy, 1934)のなかに明らかにみられる。 これら の見解を総括的に整理すれば13),綜合制は,あまりにも「平均人礼讃」 (cultof mediocrity) であり,「無色の中庸」 (colourlessmean)であるという。また,綜合制を学習のレベルからみ ると,学習の「のろい者には速すぎ,速い者にはおそすぎる」 (too fast for the slow, and too slow for the fast)から,「進路,特性,能力に応じた多様化」を推進することが必要であ
り,また教育投資論からみて多様化がより効率的であるとする。
もともと,歴史的にみてアメリカの教育には,ジャクソン的平等主義の原理と,ジェファーソ ン的能力主義の競争原理が混在しているといえる。 1957年のスプートニック・ショックより, 58 年の「国家防衛教育法」 (NationalDefense Education Act)によって能力主義的人材開発政 策が強力に推進され,時あたかも技術革新の進展による高度工業化社会に対応して,アメリカで は教育の科学化,現代化運動が展開される。従って, 1960年代は高い学力形成をめざした時期で あるといえる。その後,教育の普及,高度化によるヒズミが顕著にあらわれ, 1970年代に入ると,
それに対応して「教育の人間化」,「ゆたかな学校」,「わかる授業の展開」などが強調され,いわ ゆる全人教育 (whole‑person)がもとめられる。 まさに注目すべきことは, これと結びついて 教育の多様化と個別化が,さらにすすめられたことである。
産業教育に関する最近の動向としては, (I)中等後教育 (post‑secondaryeducation)とし ての高等教育の大衆化のなかで, 特に職業型短期高等教育の発展と, (II)学習社会論の登場,
さらには, (皿)学校教育におけるキャリア教育の導入にその特色を見いだすことができる。学 習社会 (learningsociety)は,学校の如き特定の資格や条件を必要とせず,いつでも,どこで も,誰でも,何でも,互いに学び合うことができる社会であり, ユネスコの生涯教育 (lifelong education)や, OECDのrecurrenteducation (還流教育,回帰教育)とともに,現代的な 意味をもつ。
12) J. Dewey, Education Today, Van Rees Press, 1940, p. 132.
13) I. L. Kandel,'、Someunsolved Issues in American Education", in The Educational Forum, March, 1956.
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特に, 1970年代以降において,どちらかといえば普通教育を伝統的に尊重してきたアメリカに おいて,職業準備のためのキャリア教育 (careereducation)が,連邦政府の指禅の下に展開さ れてきたことは誠に興味深いことである。キャリア教育登場の背景には,さきのハイ・スクール における普通教育の空洞化,高校生の生活不適応現象とドロップ・アウトの増大,さらには大学 教育への幻想(特に,文科系大学卒業者の就職状況の悪化)などから,(イ)特に,ハイ・スクール における職業準備教育の必要性が生じたことと,もう一つの方向は,(口)ハイ・スクール終了後,
いままでの如く四年制大学に進学せずに,職業資格獲得のための community collegeや職業 訓練機関に進む傾向が顕著にみられるようになり,新しい職種に対応した極めて現実的な教育・
訓練が強く要請されてきたことである。後者の場合,日本においては,ややおくれて昭和51年に 発足した「専修学校」がほぼ同じ性格をもつものである。ヨーロッパ諸国においては,産業教育 と普通教育を如何に近づけるかが検討され,努力されているとき,前者のアメリカにおけるキャ リア教育は,まさに注目に値するものといえる。日本においては,高等学校新学習指導要領の重
. . .
.
. .点の一つに「地域や学校の実態等に応じて, 勤労にかかわる体験的な学習の指導を適切に行な う」ことがあげられているが,これは,むしろ,働くことを通して望ましい勤労観や職業観の育 成に資するものである。勿論,アメリカのキャリア教育のなかにも,このような目標が含まれて はいるが,キャリア教育は,さらにより現実的な要請からその推進が期待されているのである。
それは深刻な「若年失業者の問題」であり,若年労働者の需要と供給のアンバランスからくる失 業と,職業に必要な基礎学力の不足,ならびに自己理解不足,進路情報不足,労働意欲不足など から生ずる失業をいかに解決するかという立場から考えられた特別な教育活動なのである14)。
口 全 面 発 達 と ポ リ テ フ ニ ズ ム (polytechnism)の 教 育
デューイと思想を異にするマルクスは,近代産業教育に対する社会的必要性を,産業革命によ って基礎づけられた資本主義生産様式にもとめて,その著「資本論」において,近代的機械的大 工業の要求する特質を,むしろ,労働の転変と機能の流動及び労働者の全面的な可動性にもとめ ている。「近代的工業は機械,化学的処理,その他の方法によって,生産の技術的基礎とともに,
労働者の機能および労働過程の社会的結合をたえず変革する。
かくして,それは,また社会内分業をたえず変革し,一生産部門から他の生産部門へ多量の資 本および労働者を間断なく移動させる。従って,大工業の本性は,労働の転変,機能の流動,労 働者の全面的可動性を条件づける。」!)としている。かくして,徒弟教育による一面的なモノテク ニズムに代って新しい近代的な生産様式の担い手を養成するためのボリテクニックな産業教育が 要求される。マルクスは,「大工業は,資本の転変する搾取欲のために, 予備として保有され,
自由に利用され得る窮乏した労働人口という奇怪事に置き換えるに,転変する労働需要のための 14) S. P. Marland, Career Education, A Proposal for Reform, McGraw‑Hill, 1974.
1) K. Marx, Das Kapital, 186794, マルクス「資本論」青木文庫版, 775頁。
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