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静岡大学教育学部研究報告 (教科教育学篇)第26号 (1995.3) 23〜48

日韓社会科教育比較考 (その 1)

A Comparative Thought of Social Studies

in Japan and Korea

馬 居 政 幸・ 夫 伯・ ヂ  

Masayuki UunI, Baek PoB and Yeoman

(平6年10月 11日受理)

本稿 の著者の馬居 (静岡大学)と夫伯 (韓国慶熙HOTEL経営専門大学校)は、 これ まで 日 本 と韓国の青少年の意識特性 とそれを創出す る多様 な文化の表層 と深層 における同質性 と異質 性 の構造 を明 らかにす るための比較研究 を進 めてきた。特 に、韓国青少年の 日常生活の中に浸 透す る日本の青少年文化の現状 とその問題点 について、あるいはソウル大学校師範大学の曹永 達 との共同による日韓両国の学校 と教室文化 について、実証的 に探究す ることを通 じて、 日韓 両国の間における新たな相互理解教育のあ りかたに関す る考察 を試みて きた。 そしてその研究 の中間報告 として、次の二つの論考 を発表 した。

①「 日本 と韓国における青少年文化 と意識構造の比較研究 (そ1)一新たな両国の相互理

解教育の基礎的作業 として一」(静岡学園短期大学研究報告 5号)

②「 日本 と韓国における学校 と教室文化の比較研究(そ1)」 (静岡大学教育学部研究報告・

人文社会科学篇 44号 曹永達 との共著)

さらに、 この調査研究の過程において得た資料や知見をもとに、馬居は日本 と韓国の社会科 教育のあり方の相違に起因すると思われる様々な事象について、各種教育雑誌において論考を 発表 し、そのハングル訳を夫伯が行ってきた。

また、ヂ汝晩 (韓国ソウル市立清涼高等学校教諭)は平成3年度に教員留学生 として静岡大 学大学院に派遣されてきたが、馬居 と夫伯の研究に理解を示 し、馬居の論考の翻訳に携わった。

本稿はこのような研究過程を背景に、次の二つの論考 とその翻訳を発表するものである。

①「『近 くて遠い国』で学んだこと」(初 PART H』「連続セ ミナー 授業 を創る"」 関誌 m22 1991年)

②「 生活者"に とっての 意味"と 思い"からの再構成を一新たな 人の間 (あいだ)

づ くり"のために一」(初 『現代教育科学 社会科教育』「連載講座・社会がわか るとは 何か―脱 イデオ ロギー時代の次 に来 るもの 9」 1991年12月 号 358 明治図書)

この二つの論考 は、いずれ も小・ 中・ 高等学校の教師を読者対象 とする教育雑誌 に発表 した ものである。 そのため、読 みやす さを優先 し、学術論文 としての厳密 さを欠 くことは否定でき ない。 しか し、その分、発表時の社会的背景 を直裁 に反映するもの となっている。 また、学校 教育の現場 をフィール ドとする社会科教育の研究 に とって、教師の リア リティ構造 に接近する 23

UN

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表現様式 もまた重要な課題 と考 える。

その意味で、今後の社会科教育 に関す る日韓比較研究の基礎的作業の一貫 として、本研究紀 要の場 を借 りて、上記二つの論考 とそのハ ングル訳 を発表 させていただ く。 これが 日韓社会科 教育比較研究ではな く日韓社会科教育比較考 とした理由である。

加 えて、 日本語の本文 は馬居の単著だが、翻訳作業 もまた研究の一貫であることをふ まえ、

夫伯 とヂ汝晩の共著 とした。

日本 文篇

I「近 くて遠 い国 」 で学 んだ こ と

1.梧井中学の生徒 に問われて

「おねえさん方 は、音、 日本で大 きな地震があった ときに、韓国人がた くさん殺 された こと を知 っていますか。 その ことをどう思いますか。」

「今、韓国には、 日本か らいろんな ものがいっぱい入 ってきています。今度 は経済や文化で 韓国 を支配 しようとす るのですか。」

私 は今年 (1991年)の 2月 、「韓国の人 と歴史 と教育 の交流旅」と題 し、研究室の学生11名

(女 10、 1)と友人の教師や教育委員会の人達4名と共 に、韓国の大田 (テジ ョン)市にあ る梧井 (オジョン)中学校 を訪問 した。その際、学生 と梧井中学2年の代表10名とで懇談会 を 持 った。 そこで一人の女子中学生か ら出されたのが冒頭の二つの質問である。私達 を迎 えて く れた梧井中学の宋先生の「なにか 日本のお姉 さん方に聞 きたい ことがあ りますか」との問いに、

即座 に手 を上 げての質問であつた。

「 きた ノ」 と思わず私 は叫んで しまった。そして参観 日に教室の後 ろでわが子の発表 を待 ち 望む父親のような気分で、学生が答 えるのを待 った。

学生 は どの ように答 えたか。その内容 は本稿の最後 に示 したい。理 由は『Part II』 の読者 に も、 自分がその場 にいるつ もりで中学生の質問にどのように答 えるかを考 えていただ きたいか らである。

本誌 の読者の多 くは若い先生方であろう。昭和24年生 まれの私 より、中学生の前で悩 む私の 研究室の学生の年代 に近い方が多いのではないか。私 は朝鮮戦争 (6・25動L)に よる特需 を バネにした 日本経済の復興 とともに幼児期 を生 き延びた団魂の世代の尻尾。銃 をとった男 と銃 後 を守 った女の世代 の子 どもである。戦争の悲惨 さを被害者 として身近 に知 るとともにt加 者 としてアジアの人達 に対す る負い目(責)の一端 を感 じる世代の最後 と思 っている。(た

し、その思いの浅 さへのい らだちが、私 を韓国の旅 に向かわせた ことはあ とでのべ る。)

他方、私 と共 に訪韓 した学生 は、学校で教わったか どうか に関わ らず、書物やマスコ ミ等 に よる 情報"と して、 日本 と韓国あるいは朝鮮 (韓)半島 との関わ りの歴史 を知 ってはいた。

だが、 自分の身 にかかる問題 として 悩む"経験 はない。戦争 は受験や ンポー トのために記憶 し調べ る過去の出来事。韓国 と日本 との関わ りも例外ではなかった。

しか し、彼や彼女達 も教師 になれば、 日本 に最 も近い国が「近 くて遠い国」 といわれる理由 を教 えなければならないはず。言葉の意味 は教 えられて も、その意味の重 さ、 さらに何 よりも

「近 くて遠い国」の人達の 思い"を伝 えることは困難であろう。その困難 さに学生がいか に 気付 くか。

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日韓社会科教育比較考 (その 1) 25

最 も日本 に近 い国の中学生が率直 に問い掛 ける日本 と日本人 に対する疑間にいかに とまど "か。 日本で生活す る同年代 の人達 を教 えることを職業 として選 んだ者が、 自分の問題 とし て 悩 む"機会 をつ くること。 これが韓国に訪れ る度 に問われ (問い詰め られ)、 冷汗 を流 しな が ら学んだ ことへの私 自身の 応 え"(答えで はない)であ り、学生 と共 に韓国を訪れた 目的で あった。思わず「 きた ノ」 と叫んで しまった理 由で もある。

2。 私の韓国 との出会い

私 の韓国への関心 は、1986年10月 か ら1988年 3月 までの間、教員留学生 として私の研究室 にこられた宋在鴻 (Son Jae HOng)先生 との出会いにより始 まった。先生の現在の職場 は梧井 中学校。社会科 と国史科 を担当 し、私達 を迎 えて くれた方である。

この宋先生が留学時 に示 された非常 に真摯 な研究態度や極 めて積極的な探究心や向上心に接 し、私 は韓国の教育 の伝統 と現状 に強い興味 を覚 えた。だが何 よりも私 にとって衝撃的だった のは、帰国を前 にして語 った宋先生の次の言葉であった。

「私 は日本が嫌 いです。だか らきました。」

私 も日本 の研究者の一人 として、韓国の人達が 日本 を嫌 っていることもその理 由 も知 ってい るつ もりでいた。だが普段の私への態度か ら、宋先生 は違 うと思 っていた。 ところがそれは私 の勝手 な思い込みであったわ けである。 とまどう私の顔 をみてか、宋先生 は母国を支配 した日 本で学ぶ ことについてのア ンビバ ンンツな思いを切々 と語 って くれた。だが私 には、残念 なが ら、宋先生が語 る言葉の意味 は理解で きて も、その思いを私 自身の経験 に基づ く実感 として共 有す ることがで きなかった。

私 は、心の内を明か して くれた宋先生の信頼 に応 えるために、 また先 に述べた ように半島の 支配 にかかわる世代 を親 に持つ一人の人間 として、宋先生の思いの背後 にある韓国の人 と社会 の現実 を、 自分の五感で確かめなければな らない と考 えた。 そのため宋先生が帰国 した年の夏 を皮 きりに、先生が住む大田を訪ね、小学校、中学校、高等学校、師範大学 を何度 も訪問 し自 分の疑間 をぶつけていった。

特 に、宋先生の通訳で社会科や国史の授業 に参加 し中学生 と語 りあった。 日本 とほ とん ど変 わ らない教室 と授業の中で、 日本の中学生か らは感 じられない率直 さで、次々 と私 に日本 と日 本 の中学生への疑間 と興味 を質問 して くる彼や彼女達。その言葉や表情 に、 自分の意見 を明確 にもち積極的に主張す ることを鍛 える韓国の人の育 ちの過程 を教 えられた。 また、韓国に刻 ま れた 日本の姿 を求 めて、百済の都の扶餘 を始 め古代 日本 と関わ りの深い史跡 をたずね、独立記 念館や板門店 に も行 った。 しか し、実際 に歩いての駕 きは、 どんな小 さな寺院や古墳 にも日本 の姿 を見出す ことがで きることであった。ハ ングル文字 と漢字で記 した説明板 の中に、 日本 に 文化 を伝 えた ことへの韓国の人達の誇 りと、それを自覚 しない 日本へのい らだちを感 じざるを えなかった。

他方、現代韓国の教師の日常 を経験す るために宋先生のお宅で生活。宋先生の奥 さん と行 っ た市場やデパー トで韓国の女性 の したたかさを、その姿 を撮 ろうと不用意 にむけたカメラを見 て厳 しく叱 る初老の紳士 に東洋の礼儀の国の伝統 を学んだ。零下20度近い夜 に宋先生 と駅の広 場 にある屋台 にいき、安 い焼酎 を飲 み交わ して思いを大声でぶつけ合 った。 このような韓国で の生活で学んだ ことは数 えきれないが、特 にここでは二つ課題 を提示 したい。

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3.韓国は先生、 日本 は生徒

第一の課題 は、韓国を知 ることな く日本 を語 ることはで きない ということである。

高松塚古墳 を代表 に古代 日本が百済や新羅 と密接な関係 にあった ことはよ く知 られている。

最近発掘 された伽耶の遺跡 により、日本書記 に記 された任那の 日本府が存在 しなかった ことを、

今年 (1991年)二月のNHKスペ シャルで知 った方 も多いのではないか。

だが この ような関係 は古代 のみでない。韓国での旅で痛感 したのは、第二次大戦後の日本経 済の復興 と朝鮮戦争 (六・ 二五動乱)の関係 にいたるまで、 日本の歴史 は朝鮮 (韓)半島か ら の視点 を無視 しては描 けない ことである。た とえば次の3人について私達 はどれほ ど知 ってい るだ ろうか。

李舜臣 (イ ス ン シン)安 重根 (アン ジュン クン)柳 寛順 (ユ クァン スン)

本誌の読者であればいずれ も名前 は知 っているであろう。特 に、李舜臣は、亀甲船で豊臣秀 吉の軍隊 を破 った将軍 として、少な くとも中学校 の社会科では教 えるであろう。ただ し、文禄 の役が韓国で壬辰倭乱 といわれ る理 由を追求す る授業 はどうか。李舜臣の銅像が首都 を守 るよ うに、 ソウル駅 につなが る大通 りに立 ち、文武両道 に優れた名将軍 として韓国で最 も尊敬 され ている人であ り、亀 甲船のモデルがいた るとこに飾 られて民族精神の象徴 になっている意味 を 問 う授業 はあるか。豊臣軍が半島 をどれほ ど破壊 し人々 を殺毅 したか。逆 に、捕虜 として 日本 に連行 された人達が、朱子学や陶器 を代表 に、 どれほど日本文化 を創造する役割 を担 ったかに ふれ る授業 はあるだろうか。 まして、多 くの捕虜やオランダの奴隷商人 に売 られた事実 を知 る

日本の教師 も歴史学者 もほ とん どいないのではないか。

4.韓国の教育 と子 どもにとって日本 は

安重根の場 はどうか。 日本では伊藤博文の暗殺者 としてふれ るに止 まる場合が多いのではな いか。韓国では全 く逆。「侵略の元凶」である「初代韓国統監」の命 を奪った「民族の英雄」と

して、李舜臣 とともに尊敬 されている人である。

日本で もっ とも知 られていないのが柳寛順ではないか。彼女 は15歳の少女であ りなが ら梨花 学堂 (現在の梨花女子大の前進)の学生 として「301独立運動」の先頭 にたってたたかった。

そして逮捕 されたあ と拷間 をうけて もなお主張 をまげず、17歳で獄死。現在、彼女の故郷の天 安 には広大な敷地 をもって独立記念館が建設 されている。

この独立記念館 には韓国の歴史が9ホールにわけて展示 されている。 とりわけ李舜臣の功績 や近代以後の日本 による破壊 と犠牲 を、見学 に来 る人達が一 目瞭然 にで きるように、写真や資 料 とともに実物大の模型や非常 に リアルな嘘人形の姿で再現 されている。安重根の凛々 しい像 が展示館の入 口にある。

このような李舜臣、安重根、柳寛順 の二人の生涯や功績 あるいは背景 となる歴史 は、 より詳 細 に、小・中学校の国語や社会科や国史の教科書 に掲載 されている。(韓国の社会科 は小学校3 年か ら始 まり教科書 も日本 と類似。1、 2年は生活科。中学校 も社会科 は日本 と同様だが、2、

3年で国史が独立 し教科書 は国定。 なお、韓国の学校制度や教科書や授業の実態 については別 の機会 に紹介 したい。)

独立記念館 は修学旅行 のコースであ り、祖父母や親が孫や子 どもに自分史 を語 る場で もある。

8月 15日 の独立記念 日には大統領が国民 に向かって演説 をす る場で もある。ただ し、日本の旅 行会社の行 うパ ック旅行や観光地図には入 らない場で もある。

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冒頭で紹介 した中学生の質問の背景が見 えて きたであろう。私 は、 これ らを見出す度 に、 自 分の不明 を耳きじ、カロ害者性の自覚の浅 さを反省せ ざるをえなかった。 もちろん、歴史的事実の 解釈 は国によって異なる:だが、 この二人 はいずれ も日本の侵略 に対 して戦 ったのであ り、そ の歴史的事実 を私達 は否定で きない。 さらに、韓国の子 ども達 は誰 もが学校で まさに人物 を通 して学ぶわ けである。 日本の子 ども達 との間にある溝 は深い と言わざるをえない。

しか し、他方で、独立記念館 に2回 3回と訪れ、宋先生のクラスの中学生 と対話 を重ねるう ちに疑間が生 じて くるのを禁 じえなかった。 日本ではな く韓国の子 ども達 に とってである。そ の疑間 を明確 に意識 したのは次の事実 に出会 った ときであった。

5.韓国の ドラゴンボール

上 の写真 は、今年 (1991年)の正 月 に慶州 か らソウル に向か う途 中で よつた駅 の側 の小 さな 本 屋 で見 つ けた もので あ る。 いずれ も日本 の漫 画 のハ ングル版 。韓 国で ドラゴ ンボールや北 斗 の挙 が子供達 に人気 が あ る とは聞 いていたが、 これ ほ どとは思わ なか った。特 に ドラゴ ンゴー ル は 日本 とリアル タイム に近 い。

さ らに、次 の二枚 の写真 を見 ていただ きたい。

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表 は ドラゴンボールにキャンディキャンディ、裏 は掛 け算 とハ ングルの一覧。 日本の五十音 と九九 にあたる。 ともに小学校入学時に子供が遊ぶ (学)もの。 これは大田で最大の文房具 店で見つけた。同 じ物が ソウルのロッテデパー トの中にある書店で も売 られていた。そこでは 日本のテレビアニメシ リーズそっ くりの絵本が文字のみハ ングルに変 えて並んでいた。冒頭の 質問の もう一つの背景である。

私 はこれ らを書店や文具店で発見 して非常 に複雑 な気分 に陥った。学校では日本がいかに悪 いかが教 えられ、 日常生活 は日本の もので一杯、 というわけである。それ も、質問 した中学生 が どれほど知 っていたか不明だが、少な くとも私が取材 した限 り、ドラゴンボールやキャンディ キャンディを日本の漫画 と知 る親 は少ない。宋先生 も例外ではなかった。

いつたい韓国の子 ども達 にとって日本 とは何なのか。そして日本の子 ども達にとって韓国 と は。

この疑間 を解 く鍵 は学生の答 えの中にあった。

6.学生の 答 え"と私の 応 え"

「知 っています。 よ くない ことです。三度 としてはならないことです・・・ 。」

「 日本の文化や商品が浴れているのは韓国だけではあ りません。それをどのように考えるか は、韓国の人達 の問題です。 自分で判断することです/」

これが冒頭の質問への学生の 答 え"である。私 は最初 の答 えにホ ッとしつつ も、後者の意 見 に とまどった。 ところが思いが けず も宋先生が、「その とお りです。非常にいい答 えです。」

と賛同の声 をかけて くれ、非 は非 として認めた上で、互いの問題点を指摘 しあえることこそ韓

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国 と日本が「近 くて近 い国」 になれ る道である、 と日本語 とハ ングルで話 して くれた。私 は感 動 した。 そして この学生 と宋先生 の言葉 に自分の疑間への 応 え"を見出 した。

侵略の事実 を認 め、その誤 りと愚か さを後 の世代 に教 え続 けること。 これが「近 くて近 い国」

になるために日本がなすべ き第一歩である。だがそれは批判 に 答 え"を出 した に過 ぎない。

問題 はその上で どう 応 え"る か。誤解 を恐れず にいえば、政府が謝 り教科書が変わ ろうとも、

最 も「近い国」で生活す る人 と人 の間にある溝 は埋 まらない と考 える。

教科書の中の日本批判 と生活の中の 日本文化の狭間で 日本の実像 に飢 える韓国の子供達。最 も近 い国 との関わ りを受験のための知識で しか間 う意欲のない日本の子供達。 この現状 が続 く 限 り、互いに「遠 い国」であ り続 けるであろう。では何が必要か。

互 いの いま"に 学 びあい教 えあう"こ と。 そのために、利害 に引 きず られた政治や経済 の次元でな く、新たな時代 の担い手 となる両国の若者や子供達が直接知 りあえる機会 をどれだ けつ くるか。 これが「近 くて近い国」の条件であ り、私が韓国で学んだ もう一つのヾそして最 も重要な課題。学生 との旅 を私 自身の 応 え"と した理由である。

今年の 11月 、次の 応 え"への歩みを進 める予定である。改 めて新たな出会いを本誌で報告 で きることを願 って「近い国」への第一報 を終わ りたい。

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生活者"にとっての 意味"と 思 い"からの再構成 を

一新たな 人の間 (あいだ)づくり"のために一 1.金浦空港 を守 る若い兵士

今年 (1991)の二月、私 は学生 とともに韓国を訪れた。 目的は友人の宋在鴻先生が勤める大 (テジ ョン)市の梧井 (オジ ョン)中学校 と宋先生の母校 の公州師範大学 との交流。 その帰 国 日の朝、名古屋空港行 きのJALに乗 るためにソウルの金浦空港 に着いた私達 を待 っていたの は、自動小銃 をもった兵士。学生 とほぼ同年齢 と思われた。ソウル在住ガイ ド歴15年の察(チ)

さんが「 こんなこと始めて」 と駕 きつつ慎重 に先導 して くれた。私 も訪韓 は5度目だったが始 めての経験。空港へのバスの中で昨晩 までの出来事 を賑やかに語 って (騒いで?)いた学生達

も、急に借 りて きた猫のようになって兵士の間 をぬけて察 さんの後 を追った。

もっ とも、兵士が守 っていたのは入 回のみで空港の中は従来 どうり。察 さん と再会 を約束 し てジャンボ機 に乗 り込んだ。 ところが上空 に上が るとともに始 まった前夜七時のNHKテレビ

ニ ュースに、見覚 えのあるシーンが映 った。(日本の時間 と情報の流れに遅れないようとのJAL

のサー ビスなのか、救命用具の案内の後 に放映)軍用機の前で若 い女性がパイロッ トに花束 を 贈 る傍 らで子 どもを抱 いた母親 らしい女性が泣 いているシー ン。昨夜 ホテルで見 たKBSの

ニ ユー ス と同 じ映像だった。ただ し、ハ ングル語 は片言の挨拶のみの私はt意味不明の まま見 過 ごしていた。それがNHKのアナウンサーの声か ら、湾岸戦争のために韓国軍の輸送機が飛 び立つ際 に行われた儀式 と兵士 を見送 る家族の別れのシー ンであることがわかった。 さらにそ の輸送機が、私達 が四 日前 に金浦空港 に向けて名古屋空港 (小)を発つ時 に、 ジャンボ機の 窓か ら見た自衛隊の輸送機 と同型であることにも気付いた。

空港の兵士。機内のニュース。 ホテルのニ ュース。小牧基地の輸送機。その関係が見 えて く るに したがい、私の胸 に、「ああ、 またか ノ」 という思い と5年前の苦 い経験が蘇 って きた。

2.日本 は私達の犠牲で豊かに

私 は1986年の正月に静岡県青年の船の講師 としてt始めて韓国 (釜)を訪れた。中国の青 島市訪問後の寄港のため、僅か一泊二 日の滞在であったが、半島 とその先 に連 なる列島 という 最 も近 い国に住 む 人 と人の間 (あいだ)"にある溝が、いかに深 く埋 めがたい ものかを感 じ取 ることがで きた貴重な旅であった。特 に、釜山の国連墓地で聞いた次の言葉 は私の 社会 (科 )観"を根底 か ら揺 さぶった。

「 ここは6・25動乱の時 に韓国を助 けに来て くれて亡 くなった恩人の墓地です。あそこに立 っ ている旗 の国の人達です 。・・ 日本 は来 ませんで した・・・ 日本が高度成長できたのは私達の 犠牲があったか らです・・・ 」

通訳の女性の言葉である。私 には特別 に反 日感情 をもった方ではな く、50歳前後の温厚な韓 国の女性 と思われた。だが、通常の名所 旧跡の見学 と同様 に記念撮影の場 を求めて墓地の中を 無遠慮 にうろつ く日本の若者の姿 を見て、 日頃の思いを語 らずにおれなかったのか。 その声 は 静かで はあるが厳 し く問い掛 ける響 きであった。 しか し私 は、最初彼女の言葉の意味 を理解で きなかった。私 自身の朝鮮戦争観 と余 りにも異なっていたためである。彼女 には私の理解する 朝鮮戦争 という歴史的事実 は存在 しない、 といった方が正確だったか もしれない。

私 に とって朝鮮戦争 は、社会主義・ 共産主義 に基づ く中華人民共和国や ソビエ ト連邦の軍 に

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日韓社会科教育比較考 (そ1)

支 えられた朝鮮民主主義人民共和国 と、 自由主義・ 資本主義 に基づ くアメ リカ合衆国を中心 と す る国連軍 に支 えられた大韓民国が、北緯38度線 を境 に行 った戦争。 ドイツの分裂 と共 に、ソ 連 と米国 という二つの超大国による第二次大戦後の 世界秩序 を決定づける戦 い"、 とい う位置 づ けであった。 また 日本の戦後史の通説では、 この戦争 に前後 して米軍の占領政策が変更。い わゆる 逆 コース"と総称 され る時代 に入 り、 その象徴が世論 の反対の中で設置 された 自衛隊 の前進の警察予備隊、 とされる。

したがって、 この戦争 を契機 に生 まれた自衛隊 を憲法違反 と位置づ け、反戦平和 を主張する 論者 は多い。だが、韓国の人達 を救いに行かなかった とい う視点か ら日本の戦後史 を問 う言葉

に私 は出会 った ことはなかった。

しか し彼女 に とって この戦いは、1950年 6月 25日 に北か らの戦車が北緯38度線 を越 えた こ とによ り始 まり、300万人の人命 と人 口の四分の一 にあた る1000万人 を越す人達の家族が離散 す る犠牲 を払 って、韓国が 国家の存亡 をか けて戦 った内戦"であった。国連軍 として参加 し た国の人々 は、 自らの犠牲 を省 みず助 けて くれた恩人。 日本 は犠牲 を払わずに獲得 した経済的 利益 をもとに高度成長への道 を走 ることによって豊かになった国である。

もっ とも彼女の意図は、 日本が国連軍 に参加すべ きであった とい うことではないであろう。

日本の再軍備 を最 も厳 しく非難 して きたのが韓国の人達である。無頓着 に墓地 を歩 く日本の若 者 を見て、 日本の豊か さが誰 を犠牲 に して獲得 した ものか を自覚 しない ことへの憤 りか ら出た

もの、 と考 える。

ただ し、 このように彼女の言葉の意味 を推 し量 ることがで きるようになったのは後の こと。

その時 は、頭が混乱 し返す言葉がなかった。本来 な らば、占領下 にある敗戦国 日本が国連軍 に 参加で きるわけがなかった と反論 (いいわけ?)し、 日本の平和主義 を主張すべ きだつたか も しれない。だが、砲弾の中を逃 げまどった彼女の思いに勝 る論理 を、今 なお私 は持つ ことがで きない。 その意味で、彼女の歴史解釈が どうであれ、彼女の言葉 は、私の朝鮮戦争観や半島に 住む人達への関心、 さらにはその前提 の社会 (科)認識 のあ り方の問題 に気付かせて くれた。

3.通訳の女性の言葉 に学んだ こと

まず一つは朝鮮戦争の捉 え方。社会主義 と資本主義 とい う体制間の対立 として位置づける視 点が、 どれほ ど戦場 となった半島の人々の生活世界 を無視す ることであったか。 このような認 識 は、社会主義、資本主義いずれの立場 に立 とうと、 また客観的で精緻 な論理構成であればあ るほ ど、朝鮮特需 を浮揚力 として、東西の冷戦の狭間で高度経済成長 を可能 にした 日本 という 国家の枠の中の社会で生活す る私 自身の現状 (位)を正 当化す る歴史 0社会認識 としての役 割 を果たす (これがイデオロギーの意味)、 か らである。

問題 は戦争の原因で も正当性 で もない。1950年に半島で生 じた戦争の意味 を捉 える際 に、彼 女の言葉の背後 にある戦火で破壊 された人々の生活 に とっての意味 と、その5年前の戦争 によ

る破壊 を復興で きた列島に住む人々の生活 に とっての意味 とを比較・ 関連づ けたか どうか。 ま た この ことは、朝鮮戦争や戦後史のみではな く、古代以来の半島 と列島に住む人達相互の関係 を、生活者 に とっての意味"とい う視点か ら捉 え直す必要があることを示唆 していると考 える。

その二つは社会認識の方法の限界。社会主義、資本主義のいずれにせ よ体制の相違 に歴史的 社会的事象の認識 を還元する方法である限 り、戦争 は人々の命 を奪 い生活 を破壊す る、 という 生活者の常識 を見失 うとい うこと。 さらにこの ことは、客観性、普遍性 を重ん じる科学的方法

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の手順 を踏 む限 り避 けえない限界で もあると考 える。

科学的社会認識の方法 を追求す る限 り、戦争 による破壊 を数量的に示 し、原因や影響 を合理 的・ 論理的に説明することはで きて も、そ こで離散 した人達の思い自体 を表現することはで き ない。 それは非合理で特殊的・ 個別的な もの。肉親の死の悲 しみを、敵 を殺す行動にも、生 き 抜 く勇気 に も変 えられるのが人間。科学の日で見れ るのは、一定の社会的状況の元で取 りうる 様 々な選択肢 とその条件、あるいは意思決定の確率論的傾向。個々の選択主体固有の悲 しみや 怒 りの深 さではない。

通訳の女性の思いの理解 は、科学的認識の問題ではな く私 自身の他者理解の深 さの問題であ る。科学的社会認識 はそれを磨 くための一つの手段であって も全てではない。 もし全て として 位置づけるな らば、その こと自体が他者の理解 を妨 げる要因 となろう。

そして私 に とって「社会がわか る」 とは、先の 生活者 に とっての意味"と、 この 生活者 の思い"の理解 にかかわ るもの。社会の合理的・ 普遍的理解 は研究者の目的であって、生活者 には一つの情報 にす ぎないか らである。

だが問題 はここか ら始 まる。 このように指摘す る私 自身はあ くまで 見 る側"であ り 意味

づ ける側"にいる。朝鮮戦争や過去の半島 と列島の関係 に対する 認識主体"ではあるが、そ

の中で 生 きる主体"ではない。だが今年の二月の名古屋空港 に向か うジャンボ機での経験の 意味 は異なった。

釜山での通訳の女性の言葉への私の反省 は、あ くまで私 自身の社会の捉え方の問題であった。

だが もし金浦空港 を守 る兵士や子供 を抱 く母親 に、同様 に問われた ら私はどう答 えたか。

日本 も派遣 (兵)するといえば、かっての侵略 に基づ く新たな危惧の言葉が、逆 に平和主義 を主張すれば、再 び日本 は私達 を犠牲 にす るのか、 と非難の言葉が返 ってきたか もしれない。

何 よ りも日本ではな くあなたはどうす るのか、 と問われた場合の答 えは。

4.脱イデオロギーの意味

湾岸戦争 は偶発事件ではない。脱 イデオロギーの時代故 に生 じた もの。 その中で 日本が問わ れたのは、GNP個人比世界一、世界の富みの15%を有す る経済大国 として世界の再秩序化のた めに何 をするか。東西対立の狭間で米国に依存 しつつ自国の貧 しさを理由に経済的利益 を追 う 道 は断たれた。

脱 イデオロギーの時代 とは、世界がイデオロギーの呪縛か ら解放 され、理想社会が実現 した のではない。単 に、既存のイデオロギーでは秩序 を維持できな くなった ことを意味するにすぎ ない。かってD.ベル等 によ り1960年代 にイデオロギーの終焉 と両体制の収飲理論が提起 され た。共産主義や資本主義 とい うイデオロギーに代わ り、科学(K.ポッパーの反証可能 なピース ミール・ サイエ ンス)のみが人類の未来 を築 く、 という論理である。だが このような科学観の 誤 りは国連墓地での言葉で明 らか。科学への信仰 もまた一つのイデオロギー となる。

人間は世界 と社会 を あ りの まま"ではな く、習慣や信仰 あるいは科学や学問な どの 概念 装置"とい うレンズを通 して しか認識できない。 したがってレンズの種類 により無限に変化す るのが人間の社会認識の特性である。そのため、①多様性を否定し単一の世界観に統合するか、

②多様性を前提に個性的な認識を育成するかが、社会認識の教育の最重要課題 となる。そして、

複数の①の立場が世界と社会の支配をめぐり対立するときにイデオロギーが生まれる。イデオ ロギーとはデマゴークやプロパガングではなく、「特定集団の利害を正当化するための信念や論

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理の体系」だからである。

しかし湾岸戦争をはさむ世界の激変は、①では今後の世界のあるべき方向を描 くことができ ず、②の立場から多様な国や民族や社会や文化が多様なままに 共に生きる道"を創造 しなけ ればならないことを示 した。その問題を解 く舞台に、日本 も上が らなければならない。だが日 本にとってより困難な問題 は、単一民族・言語 (の文化・ イデオロギー)を前提に同質性 を重 視 してきた自国の中の世界を、異質性重視に転換することではないか。一人ひとりが 互いの 違いを認めつつ共に生 きる方法"を日常生活の中に創造 しなければならないのである。 これが

日本 とそこに籍を置 く者にとっての脱イデオロギーの意味である。

そしてこれこそ社会科教育の真価が問われる舞台であるはず。

理由は社会科 こそ戦争への反省に基づき、②の立場から学習者個々の日常に即 して生活を創 造するために新設された教科であつたからである。だが実際には、①の立場からの多様な社会 科論が、互いに正当性 を主張し対立することはあっても、学校の外や卒業後 も含めた学習者 自 身の多様な生活にとっての意味をどれほど重視 してきたか。学習者は、①の知識を教えられる 容器か、教師や研究者にとっての理想的子 ども像 (これも①)のラベ リングの対象 として捉え

られてこなかったか。

5。 人の間 (あいだ)づくり"を

この図は社会科が対象 とする社会的世界の領域 を、 日常的―非 日常的" 私的一公的"と う二つの分析軸で四種 に分類 した ものである。

これ まで社会科 は、Ⅲ とⅣの領域 を軽視 (無視・ 否定?)し、 Iと その正 当化のための Ⅱの 領域 の 知識"を教 え、その理解 (記?)度を 社会がわか る"基準 として こなかったか。

日常的 (目的合理的)

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私 的

(個0特殊的) (禦団・ 普遍的)

<遊>

非 日常的

<聖 (宗教、学問、

科学、イデオロギー)>

(価値合理的)

公的な IとHには、文字通 り公 (おおやけ)に誰 もが認 める 正解"が必ずある。 しか もⅡ はその 正義"を証明す る。 まさに学校 で 教 える知識"は 正 し く善"。 理解 (記?)し い学習者 は 誤 りで悪"となる。

だが Iと Ⅱが どうであれ、Ⅳの生活 は存在 し続 けなければな らない。Ⅲの遊 び も人類史 とと もにある。それに対 して、Iと Ⅱの歴史 は、戦争 に敗れて後の40数年。せいぜ い遡 って ヨーロッ

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パ近代か明治の文明開化。脱 イデオロギーは Iと Πの問題 にすぎない。

ただ し、私的な生活 と遊 びの領域であるⅢ とⅣの答 えは複数で曖味。相手 により異なる場合 も多々ある。お まけにその基準 は、Ⅲは 楽 しさ"、 Ⅳは 幸せ"といった 主観的"なもの。

また この領域の特色 は 知 る"だけでは価値がないこと。具体的で個別的な 生 きる場"に

ける様々な ヒ ト、モノ、 コ ト"との 間 (あいだ)"で 駆使"され る過程 において、その意 味 と価値 は創 られ る。教室で教師が強いて勤 (勉)めさせて も無意味。 知 ること"と で きる

こと"の (あいだ)"にある溝 は、科学的知識の追求のみでは埋 め られない。

釜山での とまどいは、通訳の女性のⅣか らの問いに私の Iと Ⅱが答 えられなかったか ら。ジャ ンボ機上では、若い兵士 と母親のⅣへの答 えを私のⅣが見出せなかった ことによる。だがⅣで ある以上、その答 えは兵士や母親 にもない。私 と彼や彼女 との あいだ"に創造す るものだか

らである。

本来一人 ひ とりの生活 を豊かにする手段が Iと Ⅱであるはず。だが豊かを追求す る過程でI とⅡが 自己 目的化 しなかったか。 その結果が、湾岸戦争、経済摩擦、外国人労働者、男女共同 参画型社会・・・ に とまどう現代 日本の社会状況ではないか。 その責任 を社会科 もまた免れな い と考 える。

今必要なのは本来の目的であるⅣ、すなわち 生活者 にとっての意味"から公的な Iと Πを

再構成す ること。 そのためには、特定の研究者の理論や外国の書物 に一元的な正解 を求 めるの ではな く(脱イデオ ロギーの もう一つの意味)、 多種多様 な 生活者の思い"の あいだ"に い と答 えを創造 し続 けるしかない。そしてその基盤 は、 どのような人 とも コミュニケーショ ンの網 目 (ネッ トワーク)"を張 ることので きる主体 の育成。すなわち 人の間 (あいだ)を "こ とので きる力 (智?)の育成 こそ、私 は 社会がわかる"ための第一歩だ と考 える。

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日韓社会科教育比較考 (その 1)

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表 は ドラゴンボールにキャンディキャンディ、裏 は掛 け算 とハ ングルの一覧。 日本の五十音 と九九 にあたる。 ともに小学校入学時に子供が遊ぶ (学 ぶ )も の。 これは大田で最大の文房具 店で見つけた。同 じ物が ソウルのロッテデパー トの中にある書店で も売 られていた。そこでは 日本のテレビアニメシ リーズそっ くりの絵本が文字のみハ ングルに変 えて並んでいた。冒頭の 質問の もう一つの背景である。 私 はこれ らを書店や文具店で発見 して非常 に複雑 な気分 に陥った。学校では日本がいかに

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