はじめに 鹿 かしま島郡外 そで村(現・石川県七 ななお尾市)を在所とした室 むろき木家 (1)に伝存する、地租改正によって交付された「改正地券」を て (2)、能登国の地租改正について、その作業実態の一端を探究するとともに、最大時には所有地所の地価総額が一万円を超え
改正地券の伝存と、能登国の地租改正事業について、既往の研究によって明らかになっている点を確認しておこう。
一 地券制度と能登国の地租改正事業
(一) 地券制度
券制度は、狭義の地租改正に先行する地券調査によって壬申地券の交付が始まったことに端を発し、狭義の地租改正によって、
る (3)。改正地券は、当該地所について、その改正地価に定
能登国の地租改正と地主的土地集積
奥 田 晴 樹
(一)
ったのである (4)。
かくて、不用となった改正地券は、当該地所の所有者の手許に残されることとなった。当初は、地所の所有事実を公証する証券で
あったから、当該地所に関する何らかの紛議が生じた際に、行政と司法の両面で、重要な証拠能力を有するものと考えられ、大切に
保管されていたと思われる。だが、経年とともに、その多くが廃棄ないし散逸していったが、現在もなお、まとまった形で伝存する
ケースも少なくない。
そうした中で、現・石川県域に伝存する改正地券のまとまりとして、管見の限り、室木家のそれは抜群に良好な状態にあると言える。
(二) 能登国の地租改正事業 能登国の地租改正事業は、同国を管轄した七尾県の下で地券調査が開始されるが、同県の廃止により (5)、同国を管轄することとなっ た石川県が (6)それを引き継いだ。七尾県は、大蔵省租税寮改正局へ、同県管轄下の旧加賀藩領における「田地割」と称する割地慣行が
存在するため、地所の所持者を確定することが困難な事情などを理由として、壬申地券交付期限の延期を伺い出ているが、事情は能
登国合併以前の石川県も同様で、地券調査は難航したと見られる (7)。 明治七年(一八七四)四月から八月にかけて、石川県参事熊野九郎と安達敬 なおゆき之が上京し、大蔵省租税寮改正局により、地券調査を
打ち切り、狭義の地租改正へ直行するよう指導を受けた。この時点で、作業は、金沢町への市街地地券を、対象となる地所全体の一
割程度交付するに止まっていた。安達が先に帰県し、政府中央の方針を伝達し、県の担当者と協議して、方針が転換されていった (8)。 改租事業終了後に編纂された「石川県地租改正紀要」には、同県の狭義の地租改正が「明治七年十月ニ着手」 (9)とあるが、おそらく、
これは、方針転換が決定され、後述するように、作業が始動した時期を示したものと見られる。石川県は、同年一一月二八日付の県
達四二四番で、地券調査を打ち切り、狭義の地租改正へ直行することを管内へ布達している )(1
(。
しかし、明治八年(一八七五)三月三一日付で、石川県令の内田政風が依願免官となった。これは、同年二月の大阪会議を受けた、
左大臣の島津久光の動きと関連している。内田は、幕末以来、久光の第一の側近だった。久光は、政府の主導権獲得に乗り出すべく、
内田を東京へ呼び戻したものと思われる )((
(。
内田の辞任に伴い、その後任長官となった参事の桐山純孝と、県官の多数を占めた旧金沢藩士族出身者とは折り合いが悪しく、改 (二)
租事業を主管する租税課長の草薙尚志を含め、その少なからぬ者が一斉に退官した。そのため、改租作業は停頓を来たし、政府中央
より実地調査に来県した官員が金沢に足止めとなる事態に陥った。同年九月付で、安達は、こうした事情に触れて、改租作業の停頓
打開を権令の桐山に上申している )(1
(。
ところが、明治九年(一八七六)三月三〇日付の、地租改正事務局七等出仕の託摩之武の出張復命書、また、同年四月一四日付の、
同局八等出仕の入沢敏行と同一三等出仕の南挺三の出張復命書では、石川県下の加賀・能登両国の郡村耕宅地について、改租実施を
伺い出ており、同局はそれを許可している )(1
(。安達が改租作業の停頓を嘆いてから、僅か半年で急遽、作業が終了しているのである。
この急転直下の作業終了は、かつて地券調査の難航理由とされた「田地割」に、その鍵があり、また、そこに加賀・能登両国の地
租改正事業の歴史的特徴が凝縮されていた )(1
(。
その特徴の第一は、各村で「田地割」が実施された際に作成される「万歩帳」に記載されている、村民各戸へ配分された地所の「歩
数」を改正反別とし、当該地所に賦課される年貢諸役と小作料を合算した「合盛米」の倍額を収穫量とし、反別の地押丈量も収穫量
査定も、基本的には行わなかったことである。
第二は、改租に要する各種の具体的な数値の確定は、区戸長層との協議によったことである。石川県の区戸長層は、その大方が近
世以来の十村・肝煎層と人的に継続していた )(1
(。
これを要するに、加賀・能登両国における狭義の地租改正は、「田地割」の存在を理由として、「地租改正法」に規定ないし例示さ
れた作業方法を実質的には用いず、割地慣行に全面的に依拠して、その実施主体となった、近世以来の共同体秩序が実質的に継続し
ている、村方へ丸投げする形で作業を行ったのである。その結果は、旧加賀藩の貢租が旧幕府領などと比較して相対的に重かった事
情もあるが、大幅な減租となった )(1
(。そして、地租改正事業の第三段階である地押調査の際、「田地割」の割地慣行の解消への動きを伴い、
地押丈量が実施され、さらには耕地整理の創業(「石川式田区改正」)をももたらすのである )(1
(。
こうした中で、能登国における狭義の地租改正の歴史的特徴は、改租作業の進行における、加賀国への追随的な位置にある。加
賀・能登両国での実質的な改租作業は、明治七年一〇月三〇日付で、加賀国第四・五区へ「地租改正惣代人心得書」が布達されたこ
とによって始まる。これは、石川県が、手取川流域の加賀平野という、県域最大の穀倉地帯から改租作業に着手したことを示してい
る。その後、加賀国の各区へ実施範囲を拡大し、それに能登国の各区が続いたものと見られる )(1
(。
(三)
二 能登国地租改正の収穫反米
(一) 反当地価と収穫反米の関係
改正地価を決定する最大の因子は、当該地所から得られる収穫額である。それは、当該地所で得られた収穫の過去五ヶ年の平均実
績量に、加賀・能登両国の場合、郡単位で公定された、改租石代(一石当たりの米価) )(1
(を乗じて算出される。この収穫の平均実績量
の、一反当たりの収穫量を「(収穫)反米」という。
既往に加賀・能登両国の収穫反米を検討した際、「能登国の場合、『反米』が『万歩帳』記載の『合盛米』の倍額であったのか、ま
た各地目の反別が『万歩帳』記載の『歩数』であったのかは、ともにすこぶる疑わしいが、少なくともそれらが村方の申告数値だっ
たことは間違いなかろう。」 )11
(とし、「能登国の『反米』は、前述した通り、『万歩帳』記載の『合盛米』の倍額とはかならずしも言えない、
村方の申告数値であった」 )1(
(と推定した。その際、史料として用いた、能登国各郡各村の「反米見据」 )11
(は、各村の地所全筆の収穫反米
の平均値である「平均反米」なのか、という問題が残されていた。
その検証に要する史料は、検証対象となる地所が所在する村の「万歩帳」と、当該地所の改正地券である。前者を史料として得ら
れない場合、改正地券のみから確認できることは何か。それは、改正地券に記載された、当該地所の改正地価と改正反別から判明す
ること、すなわち「反当地価」である。この反当地価は、収穫反米に正比例する数値である。その理由は以下の通りである。
改正地価に種肥代と地租および区入費を加えた金額を、改正反別によって除することで、当該地所の反当収穫額が得られる。さら
に、この反当収穫額を改租石代によって除することで、収穫反米が得られる。以上の一連の計算に用いる諸数値のうち、種肥代と地
租および区入費は、改正地価に一定率を乗じて算出されるものである )11
(。また、改租石代は、地所の相異に関わらず、多くの府県では、
当該府県単位に一定額を公定して用いる全管内一律米価方式がとられたと見られるが )11
(、石川県の場合、前述したように、郡単位で一
定額が公定されて用いられている。したがって、反当地価と収穫反米の間に介在する数値は、いずれも定率あるいは定数であり、一
村内の地所の相異によって、反当地価と収穫反米の正比例関係を覆す要因とはならないのである。
これを要するに、反当地価は収穫反米の異同を確認する数値として用いて差し支えない、ということである。その前提に立つと、 (四)
以下の二つのケースが想定できよう。
第一に、各村の地所各筆の反当地価が同一の数値である場合、各筆の収穫反米は同一の数値となり、それが「反米見据」である蓋
然性が高くなる。従って、各村の地所各筆の収穫量は、「反米見据」に各筆の「歩数」を乗じた数値となる。この場合、「反米見据」
は各村の地所全筆の収穫反米の平均値、即ち平均反米ではないこととなる。
第二に、各村の地所各筆の反当地価の数値に異同がある場合、各村内で、地所各筆の収穫量を個々に決定された蓋然性が高くなる。
(二) 室木家伝存の改正地券による検証
そこで、室木家に伝存した改正地券を用いて、その辺を検証してみよう。
室木家に伝存した改正地券は全部で一五三三枚に上るが、表1はその枚数を地目と取得年次別に整理したものである。また、表2
表1 室木家伝存改正地券枚数一覧(明治10~21年)
年次枚 数総計地目田畑 宅地、郡村宅地 新開試作地、鍬下 山林秣 場藪地、藪柴草山 荷結場、干場 塩浜 池、池・沼 荒 地
105 5 11428 118 7 3 1 1 558 12626 82 6 6 8 1 729 1313 1 14 143 1 71 3 78 151 27 28 161 1 2 1711 2 1 14 1839 3 5 1 48 1912 1 1 14 2040 1 1 42 211 1 合計1,177 207 16 2 71 9 2 35 2 1 10 1 1,533 注) 出典は七尾市役所市史編纂室所蔵「室木家文書」。(五)
は、その中から、二つの村の、同じ地目の田の地券で、取得年
月が同一のものについて、その反別と地価、そして反当地価を
表示したものである。
表2の反当地価を一覧すると、二つの村では、同じ地目の田
の地所各筆の反当地価、従って収穫反米の数値の間に異同があ
ることがわかる。これによって、各村内で、地所各筆の収穫量
を個々に決定していることが判明したと言えよう。
ただし、それが「万歩帳」の「合盛米」を二倍した数値であ
るか否かは、もう一方の検証材料である「万歩帳」を史料とし
て得られないので、依然とした不明である。しかし、元来、改
租作業が加賀国各郡に後続する関係にあった能登国で、約半年
の短期間で、加賀国とともに改租作業を竣功するには、地租改
正事務局から来県した官員の出張復命書に記載された通り、「万
歩帳」の「合盛米」を二倍した数値をもって、各筆地所の収穫
量とした蓋然性が極めて高いと考えられよう。
もっとも、各村の地所全筆の収穫量の合計値を、同じく反別
の合計値で除して得られた数値、即ち各村の収穫反米の平均値
である平均反米と、「反米見据」との関係をどう理解したらよ
いのか、という新たな疑問が生起して来よう。
各村の代表者が、「万歩帳」に記載された「合盛米」を二倍
した数値を、「歩数」の合計値で除して得られた数値(A)を、
諸村間の協議の場に持ち寄り、それを比較検討して、適宜、増
表2 改正地券の反当地価
郡 村 地目 取得年月 反別(反) 地価(円) 反当地価(円)
羽咋 上畠 田 明治10年10月 1.2000 63.814 53.178
0.0966 3.996 41.366 0.1933 7.993 41.350 0.0566 2.353 41.572
鹿島 河崎 田 明治13年2月 0.2500 14.760 59.040
0.1533 9.640 62.883 0.1166 7.320 62.778 0.1100 6.900 62.727 0.1266 7.960 62.875 0.1266 7.960 62.875 0.1966 12.790 65.055 0.0366 2.460 67.213 0.0966 6.060 62.732 0.0966 6.060 62.732 0.1733 10.890 62.839 0.0533 3.350 62.851 0.0666 1.180 17.717 注) 反別は小数点第5位以下、反当地価は同第4位以下を切り捨てた。
(六)
減して「反米見据」(B)を合意・決定する。各村の代表者は、それを持ち帰り、村内の了解を得て、A・Bの二数値の比較係数を、「合
盛米」を二倍した数値に乗じて、各村内の地所各筆の収穫量を決定していったのだろうか。勿論、村内の了解が得られなければ、諸
村間の再協議に付されざるを得まい。いまのところ、これが想定し得る作業経緯として、最も蓋然性が高いものだろう。
なお、「反米見据」における各村の宅地の数値は、異同がほとんど見られないか、あっても僅少である )11
(。屋敷地は、割地の対象外
で )11
(、当然、「合盛米」の数値を元来、欠いている。したがって、諸村間の協議の場で、適宜、決定していく外はなかろう。勿論、村
内の了解はこれにも必要だろう。いずれにしても、宅地の数値の有り様も、「反米見据」の決定経緯と、改租作業上の役割とに関する、
上記の想定を傍証することになろうか。
三 能登国改租結果と地主的土地集積の歴史的連関
(一) 室木家の地主的土地集積の推移
次に、室木家に伝存した改正地券を用いて、同家による土地集積の動向を追跡し、その地主としての成長経緯を検討しよう。
その改正地券について、表3は取得年月順に地目・反別・地価、表4は地目別に取得年次・反別・地価を整理して表示したもので
ある。さらに、表5は、それらに基づき、室木家における土地集積の推移について、石川県の郡村耕宅地改租終了後、松方デフレ不
況開始以前の明治一〇年(一八七七)から一四年(一八八一)と、それ以後の一五年(一八八二)から二一年(一八八八)の二つの
時期に分けて、主要な地目別に反別と地価を整理して表示したものである。
そこから、室木家の土地集積は、松方デフレ不況開始以前の前半期に、主要な地目すべてにおいて、反別・地価額で大半を占めて
いることがわかる。集積された地所を地目別に見ると、田は、反別で九〇・〇九パーセント(小数点以下第三位を四捨五入、以下同様)、
地価額で八九・二七パーセント、畑は、反別で九七・七三パーセント、地価額で八九・七二パーセント、宅地は、反別で八五・〇〇パー
セント、地価額で八四・八一パーセント、山林は、一四年のみで、反別・地価額とも一〇〇・〇〇パーセントを占めている。
勿論、この中には、室木家が地租改正事業の開始以前の時期に取得した地所も含まれている。しかし、残念ながら、その時期、と
りわけ幕末に至る近世における土地集積の状況をうかがう史料を欠くため、それを明らかにすることができない。
(七)
表3 室木家伝存改正地券一覧(明治10~21年)
年月日 地 目 反 別 地価
(反) (歩) (円)
明治10年10月 田 1.5 14 78.156 明治10年12月 田 0.6 22 34.870 明治11年2月 田 0.4 18 23.850 明治11年3月 田 101.2 5 3,518.890 明治11年5月 田 0.6 18 14.140 明治11年3月 畑 8.3 13 101.160 明治11年5月 畑 1.9 3 19.080 明治11年3月 宅地 3.6 8 110.170 明治11年5月 宅地 0.2 5 4.320 明治11年3月 秣場 0.6 29 0.892 明治11年3月 藪 0.7 7 11.890
明治11年5月 荷結 9 0.040
明治12年4月 田 84.1 27 2,170.219 明治12年11月 田 65.1 4 3,470.230 明治12年12月 田 10.1 3 260.320 明治12年4月 畑 7.0 28 61.230 明治12年7月 畑 1.9 18 22.720 明治12年11月 畑 1.2 24 25.470 明治12年4月 宅地 0.6 18 12.539
明治12年11月 宅地 0.6 27.850
明治12年4月 池 24 0.152
明治12年9月 池 0.3 21
明治12年11月 池 0.2 16
明治12年4月 荒地 0.1 29
明治12年4月 秣場 0.9 0.911
明治13年2月 田 1.6 1 97.330 明治13年6月 新開試作地 2.9 2
明治14年1月 田 0.9 1 34.940
明治14年1月 鍬下 8.0 27
明治14年11月 山林 362.1 6 294.414 明治14年12月 山林 198.3 7 145.937 明治14年11月 柴草山 1.2 12 0.812 明治14年12月 柴草山 0.6 11 0.162
明治15年2月 畑 26 1.340
明治15年1月 柴草山 7.1 8 3.510 明治16年9年 宅地 0.2 14 4.380 明治16年10年 池・沼 3.2 1 3.655
明治17年2月 田 15 0.885
明治17年6月 田 0.1 20 8.280 明治17年10月 田 0.2 22 14.590 明治17年12月 田 1.1 16 64.510 明治17年6月 宅地 0.4 6 17.730 明治17年6月 畑 0.4 21 3.630 明治18年2月 田 15.7 8 600.080
明治18年3月 田 5 0.680
明治18年5月 田 13 1.470
明治18年6月 田 0.6 16 24.260 明治18年7月 田 1.8 5 30.990 明治18年8月 畑 0.1 28 0.629 明治18年3月 柴草山 0.2 20 0.090
明治18年3月 干場 15 0.070
明治19年1月29日 田 0.1 26 13.980 明治19年3月15日 田 0.2 5 9.730 明治19年3月23日 田 2.3 25 41.170 明治19年4月13日 田 0.5 23 12.070 明治19年3月23日 池・沼 0.4 5 0.470 明治19年3月23日 池・沼 0.1 21 1.190 明治20年1月08日 田 1.3 6 68.910 明治20年2月10日 田 2.0 8 110.610 明治20年2月11日 田 0.6 19 18.660 明治20年2月19日 田 4.2 11 87.740
明治20年2月19日 畑 2 0.060
明治20年2月19日 郡村宅地 0.2 5.630 明治21年4月21日 藪 0.1 7 1.970 合 計 913.2 7 11,695.663
(八)
表4 室木家伝存改正地券地目別一覧(明治10~21年)
年次
(明治)
田 畑 宅地、郡村宅地 新開試作地、鍬下
反 別 地価(円) 反 別 地価(円) 反 別 地価(円) 反 別 地価(円)
反 歩 反 歩 反 歩 反 歩
10 2.2 6 113.028
11 112.3 1 3,067.888 19.6 10 220.848 3.8 3 114.490 12 170.3 4 5,906.669 10.5 10 109.653 1.3 8 40.380
13 1.6 1 97.330 2.9 2
14 0.9 1 34.940 8.0 27
15 26 1.340
16 0.2 14 4.383
17 1.7 13 88.265 0.4 21 3.630 0.4 6 17.730 18 18.2 7 657.480 0.1 28 0.629
19 3.3 19 76.970
20 8.2 14 285.920 2 0.060 0.2 0 5.630 21
合計 318.9 6 10,328.490 30.9 7 336.160 6.0 1 182.613 10.9 29
年次
(明治)
山 林 秣 場 藪地、藪 柴草山
反 別 地価(円) 反 別 地価(円) 反 別 地価(円) 反 別 地価(円)
反 歩 反 歩 反 歩 反 歩
10
11 0.6 29 0.892 0.7 7 11.890
12 0.9 0 0.911
13
14 560.4 3 440.351 1.8 23 0.974
15 7.1 8 3.510
16 17
18 0.2 20 0.090
19 20
21 0.1 7 1.976
合計 560.4 3 440.351 1.5 29 1.803 0.8 14 13.866 9.2 11 4.574
年次
(明治)
荷結場、干場 塩浜 池、池・沼 荒 地
反 別 地価(円) 反 別 地価(円) 反 別 地価(円) 反 別 地価(円)
反 歩 反 歩 反 歩 反 歩
10
11 9 0.040
12 2.7 1 0.152 0.1 29
13 14 15
16 3.2 1 3.655
17
18 0.1 15 0.070
19 0.1 21 1.190 0.4 5 0.475
20 21
合計 0.1 24 0.110 1.0 21 1.190 6.3 7 4.282 1.0 29
(九)
そこで、その問題の判断材料の一端を得るため、室木家の土地集積について、立地の面から見てみよう。
表6は、室木家が集積した地所を、郡・村別に取得年次・反別・地価を整理し、村の旧領主も表示したもの
である。表7は、さらに、それを旧領主・郡・村別に整理し直して、それぞれの地価の合計額を表示したも
のである。
それらによれば、集積した地所の村別の地価合計額は、室木家が在所とする外村が二三・八七パーセントで、
全体の四分の一弱、外村を含む旧加賀藩領の鹿島郡諸村が九三・三八パーセントを占めている。地目で見ると、
山林は、一四年に外村のみで、反別の六四・八三パーセント、地価の六六・九〇パーセントを占めている。た
だし、外村に所有する地所の地価合計額に占める山林の割合は、一〇・四三パーセントにすぎない。
表8は、室木家が所有した地所が所在する村について、地方制度上の変遷を表示している。これによると、
明治地方自治制下の「町村制町村」 )11
(では在所の旧外村が属す西 にしぎし岸村などの五ヶ村、戦後地方自治制下の自治 体では同じく中 なかじま島町と能 のとじま登島町の二町であり、現在はいずれも七尾市に属している。
表9は、室木家が集積した地所を、年次別に郡・村・旧領主・反別・地価を整理して表示したものである。
そこから、旧領主を異にする諸村での土地集積が、前半期の明治一一年(一八七八)と一四年に集中してい
ることがわかる。
室木家の土地集積は、表3に見えるように、松方デフレ不況以後の後半期に、最終的には、その所有する
地所の地価総額が、一万円の大台を超え、一万一六九五円六六銭三厘に達している。さらに、明治二七年
(一八九四)の「大地主交名届」 )11
(には、所有地の地価総額は一万三六二七円四二銭二厘と記されている。これが、
史料で確認し得る、室木家の土地集積のピークであり、以後は漸減傾向に転じたと見られる )11
(。
なお、この「大地主交名届」には、その時点における室木家の所有地の立地とその地価額が記載されてい
る。それによれば、西岸村が四〇七二円八九銭八厘(二九・八九パーセント)、豊 とよかわ川村が六一六五円四六銭九 厘(四五・二四パーセント)、西 にしじま島村が一四七一円七二銭一厘(一〇・八〇パーセント)、熊 くまき木村が一九一七円
三三銭四厘(一四・〇七パーセント)だった。これらの四ヶ村はいずれも鹿島郡に属すが、明治二一年の時
表5 室木家における土地集積の推移(明治10~21年)
年次
(明治)
田 畑 宅地、郡村宅地 山 林
反 別 地価(円) 反 別 地価(円) 反 別 地価(円) 反 別 地価(円)
反 歩 反 歩 反 歩 反 歩
10~14年 287.3 13 9,219.855 30.2 16 331.841 5.1 11 154.870 560.4 3 440.351 15~21年 31.5 23 1,108.635 0.6 21 4.319 0.8 20 27.743
合 計 318.9 6 10,328.490 30.9 7 336.160 6.0 1 182.613 560.4 3 440.351
(一〇)
点では、羽 はくい咋郡の上 うわばたけ畠・河 かわち内両村にも所有地が立地しており(表6を参照)、両村が属すこととなった釶 なたうち打村(表8を参照)が右の
文書には見えない。
これは、「大地主交名届」が、明治二三年(一八九〇)五月一七日付の法律第三六号で公布された「郡制」の規定により、郡会議
員の被選挙権を有する「郡内ニ於テ町村税ノ賦課ヲ受クル所有地ニシテ地価総計一万円以上ヲ有スル」「大地主」(第二章第九条) )11
(と
して、当主の室木弥八郎を、西岸村長が鹿島郡長へ届け出た文書であるため、鹿島郡内に立地する所有地のみが記載されているため
だろう。さすれば、室木家が集積したピーク時の地所は、史料によって確認し得る、右の地価総額一万一六九五円六六銭三厘を上回ると見
て、間違いなかろう。ただし、鹿島郡内の所有地の立地範囲が、明治二一年の時点で立地していた旧諸村が属すこととなった、四ヶ
村の範囲を出ていないところから見て、羽咋郡などへの拡大もさしたる規模ではなかろう。
これを要するに、室木家は、郡村耕宅地改租終了前後から松方デフレ不況開始以前の時期に、主要な地目において、その大半の地
所を集積しているのである。立地の面では、近世における土地集積の中核をなすと考えられる、在所である外村を中心として、旧加
賀藩領の鹿島郡諸村へ拡大している。また、鹿島郡内の幕府領や羽咋郡の諸村での土地集積も、該期にその大半がなされている。
つまり、室木家の地主的土地集積は、その大半が松方デフレ不況開始以前の時期に、在所の外村を中心とする鹿島郡域で進展した
が、その規模は現在の七尾市域に収まる範囲内のものだった、と見てよかろう。
(二) 近代地主制形成の歴史的理解との関連
一九五〇年代に展開された地主制論争では、地主的土地集積の要因をめぐって、二つの立場が対峙していた。
第一の立場は、年貢諸役の村請制規範により、村の貢租負担能力の確保が要請され、村落指導層(村役人、「豪農」)による貢租の
代納がなされ、その結果、彼らが質地地主化する一方、村民の離農や離村が抑止されたことに淵源するというものである )1(
(。そこから、
質地請け戻し慣行の遍在も理解されていく )11
(。
第二の立場は、購入肥料に依存して綿や菜種などの商品作物の生産を営む大坂周辺の農村地帯を、戦前の戸谷敏之による「摂津
型」地域とする理解 )11
(を継承し、高請地の本田畑を小作する「第二次名田小作」に、その淵源を求める津田秀夫の所説である )11
(。この場
(一一)
鹿島 半浦 加賀藩 12 田 59.4 14 1,426.650
12 池 0.2 16
13 新開試作地 2.9 2
16 池・沼 3.2 1 3.655
地価合計 1,430.305
鹿島 無関 加賀藩 12 田 0.4 5 5.930
地価合計 5.930
鹿島 南 加賀藩 12 田 11.5 2 363.083
12 畑 6.3 13 59.035
12 宅地 0.6 18 12.530
12 秣場 15 0.038
14 山林 22.8 9 6.513
14 柴草山 0.4 3 0.062
19 田 1 5 16.961
地価合計 458.222
鹿島 田岸 幕府 12 田 7.7 4 140.698
12 畑 2.1 18 22.720
14 山林 173.6 9 138.436
地価合計 301.845
鹿島 奥吉田新 加賀藩 12 田 2.3 29 123.838
地価合計 123.838
鹿島 萩屋 加賀藩 12 田 4.9 23 180.290
18 田 0.6 16 24.260
地価合計 204.550
鹿島 河崎 加賀藩 13 田 1.6 1 97.330
15 畑 26 1.340
20 田 0.3 16 18.850
地価合計 117.520
鹿島 奥吉田 加賀藩 14 田 0.9 1 34.940
17 田 0.1 20 8.280
17 田 1.1 16 64.510
17 宅地 0.4 6 17.730
17 畑 0.4 21 3.630
18 田 15.7 8 600.080
19 田 0.1 26 13.980
20 田 1.6 22 91.760
地価合計 834.910
鹿島 長浦 加賀藩 14 鍬下 8.0 27
15 柴草山 7.1 8 3.510
18 田 5 0.680
18 田 1.8 5 30.990
18 柴草山 0.2 20 0.090
18 干場 0.1 15 0.070
地価合計 35.340
鹿島 豊田町 加賀藩 17 田 0.2 22 14.590
20 田 1.3 6 68.910
地価合計 83.500
鹿島 別所 幕府 20 田 0.6 19 18.660
地価合計 18.660
羽咋 河内 加賀藩 20 田 4.2 11 87.740
20 畑 2 0.060
20 郡村宅地 0.2 0 5.630
地価合計 93.430
(一二)
表6 室木家伝存改正地券地所所在地別一覧(明治10~21年)
地所所在地 年次 地目 反 別 地 価
郡 村 旧領主 (明治) 反 歩
鹿島 外 加賀藩 11 田 79.0 4 2,284.470
11 畑 9.5 8 123.650
11 宅地 3.3 16 104.790
11 秣場 0.6 29 0.892
11 藪地 0.7 7 11.890
14 山林 362.1 6 294.414
14 山林 0.2 3 0.168
14 柴草山 1.2 12 0.812
18 田 13 1.470
21 藪 0.1 7 1.976
地価合計 2,824.532
羽咋 上畠 加賀藩 10 田 1.5 14 78.156
地価合計 78.156
鹿島 豊田 加賀藩 10 田 0.6 22 34.870
11 田 0.4 18 23.850
12 田 60.1 11 3,289.940
12 畑 1.2 24 25.470
12 宅地 0.6 27.850
19 田 0.2 5 9.730
地価合計 3,411.710
鹿島 山戸田 加賀藩 11 田 19.2 12 937.290
11 畑 4.6 20 53.540
12 荒地 0.1 29
地価合計 990.830
鹿島 横見 加賀藩、幕府 11 田 8.2 12 199.450
11 畑 2.5 9 24.540
11 宅地 0.2 22 5.380
地価合計 229.370
鹿島 瀬嵐 加賀藩、幕府 11 田 1.1 0.740
11 田 0.6 18 25.140
11 畑 2.9 3 19.080
11 宅地 0.2 5 4.320
11 荷結場 9 0.040
14 山林 1.6 16 0.820
14 柴草山 0.2 8 0.100
19 田 0.5 23 12.070
地価合計 62.310
鹿島 須曾 加賀藩 11 田 3.6 7 96.978
地価合計 96.978
鹿島 閨 加賀藩 12 田 23.8 6 397.406
12 畑 0.7 15 2.428
12 池 24 0.152
12 池 2.3 21
12 秣場 0.8 15 0.873
16 宅地 0.2 14 4.383
17 田 15 0.885
18 畑 0.1 28 0.629
19 田 1.3 20 24.209
19 池・沼 0.4 5 0.475
19 塩浜 0.1 21 1.190
地価合計 432.630
(一三)
表7 室木家における土地集積の立地
表8 室木家伝存改正地券地所所在諸村の変遷
旧領主 郡 村 地 価(円) 地価合計(円)
加賀藩 鹿島 外 2,824.532
11,050.804
豊田 3,411.710
山戸田 990.830
須曾 96.987
閨 432.630
半浦 1,430.305
無関 5.930
南 458.222
奥吉田新 123.838
萩屋 204.550
河崎 117.520
奥吉田 834.910
長浦 35.340
豊田町 83.500
羽咋 上畠 78.156 171.586
河内 93.430
加賀藩、幕府 鹿島 横見 229.370
291.680
瀬嵐 62.310
幕府 鹿島 田岸 301.845
320.505
別所 18.660
地 価 総 計 11,834.575
村 名 訓 み 町村制町村 戦後の自治体 備 考
外 そで 西岸村
中島町 中島町は、昭和29年(1954)3月31日に発足、平成
17年(2005)3月1日に七尾市と合併
豊田 とよた 豊川村
山戸田 やまとだ 熊木村
須曾 すそ
西島村 能登島町 能登島町は、昭和30年(1955)2月1日に発足、平成
17年3月1日に七尾市と合併
閨 ねや
半浦 はんのうら
無関 むせき
南 みなみ
奥吉田新 おくよしたしん 豊川村
中島町
萩屋 はぎや 萩屋村は明治20年(1887)に土川村へ合併
河崎 かわさき
奥吉田 おくよした
長浦 ながうら 西岸村
豊田町 とよたまち 豊川村
上畠 うわばたけ
釶打村 釶打村は昭和20年(1945)4月1日に鹿島郡へ所属変更
河内 かわち
横見 よこみ
西岸村
瀬嵐 せあらし
田岸 たぎし
(一四)