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松井春雄松井春雄

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小稿はいわゆる賃金労働力価値説の原理的分野における︑いわば本質論と形態論に関する︑相互の位置つけについ

ての︑私なりの疑問の二・三である︒

もとより︑この分野の賃金論も︑さいぎん最低賃金制をめぐる基本的論議︑賃金水準︑段階論︑あるいは労働市場

論︑等々にわたり︑現状分析へのまた︑その反映としての理論的アプローチが︑着々となされ︑従来のような賃金本

質論でもっての直接的把握というような価値貫徹論的方法による牽強附会が次第に淘汰されてゆきながら︑﹁賃労働﹂

︵もJ︶

の理論が刻々その位置づけを確保されてきている点は︑周知である︒かくしてこそ︑はじめてこの分野におけるイデ

オロギーⅡ現実面における内在的批判の任にたえうること︑また勿論であろう︒

しかしながら︑労賃論におけるこのような︑いわば理論の中間環冨寓①垣豆l本質と現象形態を不生産的に媒介する

廻り道ではあるがlの究明も︑労賃形態論の分野においては︑優れた先学の所論にもかかわらず︑なんとなく未整理

o未討論のままに放置︑あるいは理論的次元のみでの相対時の状況にあるのは一体どういうわけなのであろうか︒こ

のことは労賃形態一般論の位置づけ︑また︑とくにいわゆる同一労働同一賃金の原則というような︑非常に実践的展

望を望まれてきた領域について︑一層である︒ 賃金論への若干の疑問

一間題提起

松井春雄

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労働I︵力︶の質・量の命題をめぐって︑それが︑いわゆる賃金生産力説的攻勢の有力手段となる側面︑そして︑

それに対決を要請される労働組合の把握・理解・実践面という非常に現実的な盗態をまえにして︑理論の側でも︑い

わゆる同一労働力・同一賃金か︑また同一労働・同一賃金かのテーマの形をとり︑論争され︑されつつあることは︑

今更ここで述べあげる要もないだろう︒とくにいわゆる標準賃金率をももたない我が国での実状において︑かかる論

争が︑最低賃金制をめぐる諸問題は一応措くとしても︑それが︑労働︵一般︶の質あるいは量という理論・概念的領

域においてというより︑むしろより自然的な性・年令・勤続との交叉点において︑また独占段階以降における職階給 C労拝 本的見地︒ 出という形をとる︒

A労賃形態一般︑また︑いわゆる同一労働同一賃金の考え方をめぐる典型的諸説への疑点︒

BAを中心とする問題点解明のための︑とくに労働力商品をめぐる価値論的側面の歴史的・論理的とりあつかい

の諸点︒とりわけ労働力疎外の段階性への注目︒

C労賃論の理論的領域内において︑切断されがちな︵社会︶政策的なものと︑技術的なものとの対立と統一の基

註1とくに︑すぐれた問題意識をもったものとして︑伊藤淳已︑賃金計算論︑一九五三年︑馬場克三︑個別資本と経営技術︑一

九五七年所載︑賃金形態論序説︑正田誠一︑労賃形態の展開㈲︑目︑経済学研究︑士巻三号︑十七巻︑四号I小稿はこれ

に負うところおおかった︒I いま述べようとするのは︑かかる問題意識のもとで︑積極的論旨を展開するわけではなく︑ただ小生なりの疑問提

二労賃形態論の位置づけ

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への対抗等というごときアクテュアルな生々しい問題提起I否︑早急な解決策のかたちをとってきたことは︑当然で

あろう︒それはよく引あいにだされるように︑なにも世界労連の注告︑あるいは賃金運動の自己批判といったもので

はなく︑むしろ戦後の生活給︑能率給の二者択一的な考えよりの歴史的脱皮︑ベース賃金・生産力賃金に対抗してな

された︑労働運動それ自体の低賃金への抗争の産物として評価されなければいけない不可避性である︒

借︑同一労働同一賃金を軸とした労働力価値︑あるいはその価値法則と現象形態としての労賃の運行I労働の価格

法則lとの聯関ないし位置づけについては︑その代表的論点をここで述べたてる必要はない︑既に周知である︒こと

にあたらしくは吉村氏が論点をよく整理されて︑自己の主張を相当つよく発表されている︒︵経評︑一九五七・二月︑吉

村励可賃金問題における一論点L︶小論では︑これら諸論旨のもつ問題意識の一般的な線上において︑しかも︑私なりのす

こし視点の異った︑そして疑問のある二・三を述べてみたいと思う︒かって舟橋尚道氏等は︑労賃形態の段階におい

て︑労働力の価値並びに価格法則をもって︑なんらかの媒介︑変容なしに直接的に現実の賃金の認識にいたる困難さ

を指摘されつつ︑それの転化法則として労働の価格原則への注目︑それの中心的骨組ならびに︑いわゆるブルヂョワ

的原則としての同一労働同一賃金Ⅱ原則との関聯を浮彫されたわけである︒このような考え方に関しては︑原則的に

は同意見ではあるが︑なお残された多くの問題点があるように思う︒

いわゆる資本制社会における労働力の価値・価格を︑労賃という転化形態において︑いかに表示含尉三目するか

という剰余価値生産の反映をば歴史的・技術的にいかに把握するかという次元での理解のしかたは理論的にも現実的

にも︑相当に複雑である︒理論的とは︑労賃の本質Ⅱ労働力商品の価値と︑それの現象形態としての労働力の価格︑

そしてかかる労働力の価格の不合理なる現象形態として表示される労働の価格︑この二つの現象形態を経過する現実

の具体的労賃の運動を︑どのような操作を加え︑さきの労賃の本質に帰着させるか︒言いかえれば︑剰余価値の利潤

への転化︑資本制生産の現実的運動を媒介していく他方の極としての労働力の価値の労賃への転化︑また︑かかるも

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のとしての労賃形態一般と︑労働力の価値の関聯の段階より︑より具体的規定としての労賃形態の史的発展をば︑歴

史的︒論理的にとらえていくことであろう︒このことは︑一方たんに技術的労務管理としての賃金形態︑体系の現象

的取扱いをももちろん︑厳に排除するとともに︑他方︑賃金の本質をもって直接的に現実の多様なる賃金現象を解明

するみちとも︑相当ことなるものであろう︒

また︑現実的とは︑結局のところ以上の理論的課題が処理してゆかねばならぬものとしては︑ここでのべるまでも

なく︑いわゆる再生産費をめぐる問題︑それの平均値と個別的偏侍勺同一労働同一賃金︑産業別また年令別賃金の問

題等々︑だけをあげてみても︑生活給︑能率給といったような在来からの論点以上に経・緯をなすものとし花各人各

様といってもいい位の見解が併存していることから︑多く書きつづる必要もないだろう︒

まえにのべた吉村氏の論槁により︑労働の価格論の代表的理論家として批判の第一対象にされた舟橋氏の把持され

る︑すぐれた問題意識︵ここでは︑とくに1労仇の価格とその法則L経評︑一九五四・八月を参考されたい︶は︑たかく評価

されねばならないと考えるとともに︑矢張り︑吉村氏により指摘された︑いくつかの重要なる視角につぎ︑より充全

に理論的なものとともに︑特にその後の賃金運動の現実的発展に即して︑論旨を発展される必要があるし︑また当然

されるものと思うが︑蛇足ながら︑すこし疑点をのべてみる︒第一に︑氏は︑せっかく︑流通過程において規定され

る労働力の価値概念lこの場合︑階級またはある種の職業全体の労働者に適用されるものとしてのなんらかの平均的

なものlと︑この労働力の使用Ⅱ生産過程としての労働の規定︑またそれが表示される価値関係から遮断された不合

理な労働の価格という対極を示されながら︑論をすすめて︑端的に︑平均概念あるいは本質としての労働力の価値に

対するに︑個々の具体的労働者における具体的賃金としての労働力いな労働の価格法則の究明lもとより賃金の特殊

理論としていままであまりにも素通りされていた点であるがlを対置されたがために︑いろいろの誤解が生れたので

なかろうか︒そしてまた︑このような視点をとくに︑近代的能率給さらにビドー賃金以後の異種労働間の労働の質︒

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れ︑労働力の価値そのものは︑幾重にも屈折と変容を経たかたちで︑あるいは社会的分業とは別箇の企業内系列の

枠のなかに︑現象してくる︒ここでの︑労賃形態の問題は︑けっして技術論にとどまりえたのではなく︑まさに剰 ︑︑︑ 余価値生産の相互の歴史的段階の反映として︑資本主義生産関係自身によって日々新らたに生産される本質的な︑そ

︵の色︶

れ自身の媒介の形態としてとらえねばならない︒

かくては︑いわゆる同一労働同一賃金というような︑現実の雑多な個別差をもつ賃金現象にまでいたる中間段階I

媒介項として︑それ自身︑本質としての労働力の価値からの歴史的・個別的偏碕の理論的次元で把えねばならぬ一原

則︑しかもこの原則そのものは︑生きた労働と対象化された労働との形態転換により︑それ自体価値関係とは別箇な

転化された労働の価格という虚偽の外観をとり︑これの剰余価値生産の裏返しとしての賃金形態の歴史的展開のうち

に理解されなければいけなかった原則である︒ここに同一労働同一賃金あるいは︑現実によばれる労働の質量という

課題も︑歴史的であるとともに︑それいぜんに︑基底的な︑またより抽象的なものとしての︑労賃形態一般の中に置

かれねげならなかった︒しかるのちに︑こんどは︑それの歴史的展開︑すなわち労働力商品化lの進行の歴史的局面

における労働の質・量の表示のされ方︑そして同一労働同一賃金の現段階的規定という順序で議論を発展させる必要

かかる一点において︑ここしばらくの︑同一賃金論争は︑どうも労賃形態一般の理論的具体化Ⅱ複雑化の解明すべ ︑︑︑︑︑︑︑ き内容と︑より重要であるところの︑それの歴史的段階・断面での解明との経緯とが︑一挙になされた感がないでは

ないだろうか︒この点については︑さきの舟橋氏も︑とくに留意されて︑労賃形態論の段階での価値論的側面とのよ

り深い結びつきの必要を論じられていた︒しかも︑この結びつきは︑以上の形態一般での断面と︑資本の剰余労働収

取階梯の直接的反映としての︑それの歴史的l具体的展開との二つの断面に連結されながらなされねばならない︒と

くに後者が︑たんに︑同一労働同一賃金原則というより︑賃金労働力価値説における労賃論のこんごの大きな課題の があるとおもわれる︒

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いま一つは︑このような抽象的規定より︑より具体物へ近づくにつれて︑それぞれ異質のもの︑一方は︑労働力の

価値に内包されるところの質差と他面︑それの使用価値としての労働のもつ質差・強度・時間lこれらはともに労働

量に還元されねばならないがlこの二つ︑労働力の価値と使用価値は︑これ︑比較考量不可能のものであった︒かか

るものを労賃形態が労賃形態たるがゆえに︑いかにして︑資本制生産の歴史のなかで迂回的に媒介してゆくかが︑こ

れまた︑より現実的な労賃論の課題として追及されなければならない︒いな︑同一賃金論というものも窮極において

はこの始元の問題に帰ってくるのである︒しかも︑以煙︑大略だけみたような経路を廻らねばならないところに︑現

実の同一賃金論の困難があったはずである︒

すなわち︑この節のはじめにもどって︑同一労働同一賃金論に焦点をあわしても︑同じである︒一方における労働

力商品の価値とその﹁独自的﹂使用価値の聯関をば︑より抽象的段階から具体的規定へとすすむにつれ︑社会的平均

労働と現実の労働支出の理論的解明を媒介にし︑現実の労働過程を構成する質的差異の諸要素をば︑歴史的により複

雑なものへと展開して︑労賃形態一般より︑より特殊・具体的労賃形態に重点を移行させねばならない︒そして︑そ

のうえで︑同一労働同一賃金論等を把握しなければ︑けつきよくのところ︑﹁同一の労働には同一の労賃を﹂という

たんなる形式的言表の堂々めぐりになるか︑さもなければ︑すべてを︑再生産費l育成費・文化費あるいは必要カロ 映づけてゆく︒ 而うして︑いわゆる労働力の価値が労働の価格l使用価値Iという転化せる形態において表示されることの意味す る実質的な内容は︑労働力の価値それじたいの全ゆる質的差・標準よりの偏筒の問題をば︑支出労働l社会的に規制 されたlとの対比により表示することである︒しかも︑かかる必要労働・剰余労働が内包する質差そのものこそ︑ま さに資本制労働過程の段階それじしんに依存して生成するものであった︒ここに︑労賃形態そのものが資本制生産を 媒介してゆくとともに︑その生産過程がふたたび労働過程・価値形成過程の結節としての労賃形態の歴史的展開を反

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る労働力の価値は同一であるという形態であらわれるというこの実在的な同一労働力・同一賃金法則の貫徹を︑賃金

Ⅱ労働力の価格という日常的思惟形態において要求した﹂ものが同一労働︑同一賃金であり︑このことは︑また﹁同

一の質の労働力を予定する限り︑その消耗度Ⅱ労働の量が同一であれば︑その再生産費も同一である﹂とも考えら

れ︑だから﹁同一労働力︑同一賃金といっても︑また同一労働︑同一賃金といおうとも︑その本質は変らない︒﹂︵以

上︑前掲︑経評誌︑八三九五頁参照︶ここでわたしの疑問点を述べてをく︒第一に︑どうも氏の意見について気になる

のは︑賃金形態論の位置つけが明白にされていないように思われる点である︒労働力の価値規定を具体的有用労働の

質により規定される労働力群というものにより具体化された点はいいとしても︑労賃形態として大切なのは︽歴史段

階的な︑そして独占段階以降における労働市場におき︑以上の労働力群の平均値が一方において階級としての労働力

の価値規定にもつ聯関が求明されねばならぬとともに︑他方︑労賃形態の段階的な位置づけが必要とされ︑両者の発

動する支出労働l平均労働lがどのようにして個別労働にまでいたる質的差異を労働過程の変展にともない︑あるい

は︑平準化し︑また逆に差別化さして表示されてゆくのか︑これにより独占段階の資本が生産的労働にあっては︑その

生産過程における最大限の利潤を収取する法則が︑産業別・職業別また︑各個別労働の成果を通して︑実現されてゆ

くのか︑このような法則をぱ︑個別的な現象的形態として︑いかに表示されるかを把握するものこそ︑労賃面におけ

る同一労働原則の労働者的貫徹へいたる第一歩でなければならない︒還言すれば︑交換過程において決定された労働

力の価値規定に内包されている人間労働︑︵それの属性たる時間︑強度︑質︶が︑生産l労働過程にて形成される時

間︑強度︑質差という労働の規定を通していかにして︑剰余価値生産の各段階に応じて転化︑実現されてゆくかが大

切である︒そしてかかる各段階の労賃形態は︑それがいわゆる社会的平均労働との聯関にて個別的な労働支出と︑その

必要労働との比率の表示を︑いかなる形態をとり︑階級斗争により媒介されながら︑資本の価値増殖欲に奉仕されて

ゆくかを追求する労賃形態のたんなる︑技術論としてでなく︑それの歴史・理論的解明の綱をくぐさねばならぬ点が

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問題なのである︒たとえば︑マニュファクチュァ的分業・技術的基礎にたてる労働者の人為的等級制のもとでは︑労

働力の質は直接的に労働そのものの質の表示たりえたが︑逆に労働の質の平均化は不可能であった︒機械制大工業はか

かることを一変した︑それは︑このようなマニュ的出来高制︑等級制の完全な否定であり︑労働の平均的な質の出現で

あり︑労働力と労働との資本制的疎外の過程でもあった︒そして︑以上の過程の進行そのものが︑まさにコ方の極に

は労働力の価値が労働の価格に転化するゆえにこそ︑他の極には剰余価値が利潤に転化﹂してゆく資本制社会の物質

的基盤それ自体の労賃的表現にほかならないからである︒われわれはかかる労賃論の展開を︑現段階のそれにまで延

長してこそ︑はじめて︑現在時点における労賃形態の次元における同一労働同一賃金原則の労資の対抗的局面がいつ

こにあるかを探りあてうるのである︒剰余価値生産の各段階に照応せる︑労賃形態の移行・逆転の局面をぬきにし

て︑同一労働か同一労働力かを論ずることは︑それこそ不合理である︒また︑不生産的である︒げんに吉村氏は︑﹁

労働の価格論がその主張において主として︑賃金Ⅱ労働の価格の基本形態たる時間賃金によらずにその転化形態とし

ての個数賃金・能率賃金に依拠するのも︑時間賃金では︑その本質の貫徹が明白にあらわれるからである﹂︵同上誌︑

九二頁︶という具合に論をもってゆかれているが︑このことは換言すれば︑絶対的剰余価値生産は資本制生産の一般

的・普遍的基礎であるということの裏返しの表現にしかすぎず︑そして他方それを出発点とする相対的剰余価値生産

の現段階にいたるまでの︑労賃形態の表現としての労働の価格論の解明こそ︑当面︑問題になっているのでないだろ

うか︒もし︑そうであるとするなら玲氏やまた︑例の宮川氏の唱えられるような︑労働の質により規定された労働力

の質︒同じ質の労働力を考えるかぎり︑労働の量が同じであれば︑その再生産費も同じである︒というような規定

は︑それ自体︑決してあやまりではないが︑形式論理的な理窟にならないだろうか︒

問題なのは︑やはり﹁彼の労仇力のこの価値︑彼に相応した平均労仇賃金は︑かく予定された︑彼自身の労仇に無関係な彼の単

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前節にては︑ざいきんの同一労働︵力︶同一賃金論争とでもいうべきもののティピカルにして対極的な論旨をば︑

すこしちがった視角より︑その骨格的なもののみを選んだ︒これを︑いま別なかたちで集約すれば︑つぎのようにな

ツ︵︾○

なる肉体的欲望によって規定された限界の中に表わされるのではない︒ここに於いてはこの階級にとっての平均は︑凡ゆる商品の価 値と同様にl固定している︒lこの平均は個々の労仇者にとってかかる直接的現実性に於いて存在するのではない.労仇の価 格は労仇能力の価値の或は下に沈み︑或は上に昇る︒I賃金の大さは︑彼自身の労仇及びその労仇の個別的の質の結果として変 化して現われるLし︑︽このことは︑また﹁多数の労仇は多かれ少かれ不熟練な労仇から成立たざるを得ない︑それ故にまた多数の 労仇賃金が単純な労仇能力の価値によって規定されざるを得ないと云うことは全く確かなことであるといえ︑個々の個人にとって は︑特別の精力・才能等々によってより高い労仇部面にとび上ることの可能性が存在する︒L︵マルクス︑直接的生産過程の諸結果︑ 克・二全集補巻①一八七・八頁︶l元クズはかかることを資本による労仇の形式的包摂の項でのべている︲1.われわれ はこの断面をぱ︑実質的包摂の各段階における労賃法則として歴史的︑技術的に展開せねばならない︒そうでない同一賃金論はま さになにものも解決しない空中楼閣におわるであろう︒ 1不生産的労仇者も︑賃労仇の価格法則に支配されてくる︒可資本主義的生産に於いては⁝⁝︑自己目的と見倣され⁝⁝︑迂回

して支払われたような多くの機能や活動⁝⁝医者︑弁護士等々⁝⁝はその内容や支払が如何に種を様々であろうと︑一方では︑

賃金労仇者に転化する︒他方では彼等も⁝⁝賃金労仇の価格を規制する法則に帰する︒.⁝・・L︵マルクス︑直接的生産過程の諸結果・マル

・エン改造全集︑補①二○二−三頁参照︶

2宇野教授も︑資本論における︑労賃のとりあつかいを︑かかる媒介態として重視される︒寶本論入門︑二七頁以下︶

3吉村氏のこういった思考は︑同一労仇同一賃金論というよりも︑むしろ︑労仇組合による労仇市場の規制の論点としてより重

要と思われる︒ 1 註

一二労働力疎外の関点

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同一労働力か同一労働かという原則も︑これは︑たんなる価値か使用価値かという次元の課題ではない︒労賃形態

論の位置づけの在り方に依拠する問題であり︑労賃形態それ自体は︑たんに賃金技術論的な側面からでなく︑資本が

価値形成︑増殖行程の資本制展開における労働過程の各段階を刻々に把握・包摂してゆく本質的な媒介の形態であ

り︑剰余労働収取の各断面を質料的に反映してゆくものであった︒つぎに︑労賃形態一般の段階において︑労働それ

自身が社会的に必要な労働としてのみ価値形成過程に入るから︑労賃形態は︑かかる労働のもつ質的側面を︑一方に

おき︑社会的に必要な労働時間に還元するとともに︑資本制労働過程の展開に応じて︑他方個別的な労働の支出量を

ば前者との対比におぎ把握しなければならない︒つぎに︑かくして社会的に標準的な労働時間に通約された支出労働

と労働力の価値l必要労働との対比を示すことにより︑労働力の価値はその直接の転化形態として時間労賃形態とし

ての現象を受取っていくのである︒ここに労働の単位価格は︑その中に不払労働をふくむものたることから︑現実の

労働支出︵時間︶に逆比例して変動を示す︒そして現実の労賃額は︑労働力の価値をまさに転倒して︑すなわち︑労

働力の使用価値として表示されてゆくのである︒そしてかかる段階の不払労働の増大は︑まさに標準労働日の延長そ

のものによる絶対的剰余価値生産を裏づけ︑媒介したのである︒しかしながら︑時間払労賃はなんらかの標準労働日

を前提とするかぎり︑資本にとってはかかる労働日を出来るかぎり延長し︑また実際の労働時間をそれ以上に延長す

ることを特質とするからかかる形態にあっては︑労働者の平均値︑個別労働の質的差異の問題は表面にはでてこな

い︒ここにあってはいわゆる労働の形式的包摂の段階として︑それが資本制生産の一般的形態であるとともに︑労

働過程はいまだ変革されない古い手工業的職人的な熟練労働として︑マニュファクチュァ的熟練以前の︑労働者に人

体的に密着した︑簡単な労働行程への︑親方の監督も効く古い扶養賃金の名残りであったから壷そこには︑労賃に現 ︑︑︑ 象されてくる質や強度等は問題になりえず︑その意味で︑まさに労働力の価値の直接的転化形態たりえたのである︒

労働の価格︒また使用価値としての労働の質的属性︑その個別差をば労賃の形態としてとらえ︑それによる相対的

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が行われてはならぬ︒けだし︑浪費された材料や労働手段は︑対象化された労働の余計に支出された分量を表示する

のであり︑l価値形成上の生産物に入りこまないからである︒﹂︵資本論︑長谷部訳︑一巻︑三蚕ハ・七頁︶

そして︑また︑このような単純な出来高制それじたい︑時間制による一層大なる労働日延長と単価切下げをさまた

げるものでなく︑機械制大工業に入ってからも︑それが労働者の抵抗による標準労働日の限界点までつ︑ついた点︑労

賃形態の発達それ自身︑一つの階級斗争の所産であることとともに留意しておかねばならない︒

論をもとにもどして︑前述のようなマニュフアクチュア労働の等級制︑労働の質そのものの労働力への人間的反

映︑そしてこの労働過程を媒介したマ一三的出来高制︑これらは︑機械制工業︑とくに資本制大工業によって︑原理

的・組織的に否定・粉砕されてゆくのである︒いまや︑かつての人間労働力は︑労働手段にとって代られ︑かっては

人間労働がなした原料加工をすべて作業機が行う︒更にはマニュフアクチュア的分業の産物であった動力機自体も人

間的な主観的制限から解放され︑媒介する伝力機構もまた強大な自動装置になる︒機械制大工業における労働過程

は︑それが同一作業機の機械協業によるにせよ︑それが機械体系︑機械による分業作業の段階的過程を通過するにせ

よ︑大工業の発展は両者を相乗し︑自動的原動力機に連結されるやそれ自体一の自動体系を形成する︒ここにあって

は原材料半製品の移転作業をも自動化する︒

機械制大工業における労働過程は︑かってマ一三フアクチュア労働の骨格をなした特殊化された一面的熟練をぱ機

械の補助労働に転化し︑かかる機械の助手が遂行する労働を均等化し水準化させる︒労働条件が労働者をつかう︑労

働過程における彼等の精神的能力は手労働から分離され︑かっては労働者に固有のものであった肉体的・細目的な熟

練やエネルギーは機械体系中に体化されてしまい︑ほとんど無意味なものになる︒人間労働力を基礎にしたマ一三フ

︑︑︑ アクチァュ労働はそれじたいの胎内から労働力疎外の地盤を産みだしてゆくp労働力商品化の第一歩は完成する︒

ここに︑労働力の価値︒価格の労賃への転化それの使用価値による表示の実質的展開が歴史的にも論理的にも組織

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化していくのであるけれども︑他方かかる機械体系による相対的剰余生産そのものは︑その出生期にあって︑いわゆ

る機械の資本制的充用のもつ内在的矛盾が大きく作用する︒必要労働の減少度との矛盾的対立のうえに︑更なる絶対

的剰余労働の無制限な延長は資本自身の意識の外で一の強制律となる︒それとともに︑理論的には労働力の価値分割

を起し︑たんに機械による補助労働の女子少年労働による代替のみならず︑基幹熟練労働そのものを前者と等質化

し︑労働市場より放逐する︒この段階にてはすでに機械によって標準化された労働の質と機械の速度︑かかる対象的

要因に強制される強度︑これに加うるにいまだ無限定な労働時間があらわれる︒すでにして産業的に無窮化せる労働

手段の運行が労働者に自立化している︒十八世紀後半から十九世紀半ばにいたる労働時間延長と単価切下げの槙粁と

しての出来高賃金がそれを痛烈に物語っている︒ここに︑資本の蓄積法則とこれを媒介してゆく生産技術・労働行

程︒産業革命の一般化︑この両者を人工的に促進するものとしての社会政策︑標準労働日の国家的強制があらわれる︒

猶︑われわれはかかる標準労仇日の法的規制をばいわゆる労仇力の価値規定をめぐる﹁商品交換の法則Lじたいの抽象規定の資

本制生産の発展にともなう具体化局面として把握さるべきであり︑可自由競争が資本制生産の内在的法則を︑個々の資本家に対し

︵階級斗争による国家の︶外的強制法則として有効ならしめるLという深い意味あいを反省しなければいけない︒また︑同様に︑

いわゆる社会政策と労賃管理との連関lIこれは次節lを通じてみただけでも︑すでにして労賃形態の展開それじたいが資本制

生産のそれぞれの段階に固有する労仇過程の分解法則により基本的に支配され︑生成・展開・後退の近代化過程をたどらねばなら

なかったことは︑この際︑とくに留意しておかねばならない︒過去の労賃論にしばしばみられるように︑職種︑産業種類等々のご

ときたんなる偶発的︑技術論的局面のみを主柱とし社会的に分布していくものではないのである︒

借︑このようにして︑十九世紀後半以後資本制労働行程じしん時間延長と強度増大という相互排除的な一の結節点

にぶちあたる︒労働者の抵抗による労働日の立法的標準化がこれを媒介する︑ここに︑資本は相対的剰余労働の加速

的増大を余犠なくされる︒とともに︑相対的剰余労働の性格︑労働関係は激変する・標準的な労働時間・生産力の一

般的成立の頂点に︑労働の強度化︑労働時間の密度の社会的度量の増大が至上命令となってくる︒労働日の短縮じた

(17)

285

い主観的には︑一定時間内に動かされる労働者の個性的能力を創造するとはいえ︑資本の手中にある機械体系はこの

ようなことを客観的に否定する︒それは機械の速度と個人の作業面の拡大と受持ち台数の倍増により自然的に強制さ

れてくる︒マニュフアクチュア労働体制の完全な排除である︒

例のクチンスキイはかかる結節点を誤って捉え︑労働時間延長が強度を弛め労働生産力を沈下し新規改良を無効ならしめあるい

は労働の肉体的な不可能性から資本家み今つからも時間短縮に向うというように機械的解訳に陥っている︒︵喬﹈.﹈・宍弓ミロ江.臣①

目彦①○国①﹄①尉闇四噸①全①埼疹忌凰蔚島.号旨①﹄ぐ①号①叩の①尋①捧具︸・﹀︑旨ご

︒つぎに︑これまでの行論における賃労働分解の方法的側面は︑けつきよく︑労働一般の形式的規定の現実的な発現

である︒人間労働は︑労働力より分離するとともに︑その内容とも切断されてくる︒すなわち︑労働はここに特殊性

をもった個人との癒着をやめる︒かかる状態は︑市民社会のものとも近代化したアメリカでもっとも発展する︒ここ

ではじめて︑﹁労働﹂・﹁労働一般﹂︑たんなる労働という範嶢の抽象が︑実際に真実となる︑すべての社会形態に妥当

するもっとも簡単な抽象は︑実際上︑真実にもっとも近代的な社会の範嶬として現象するのである︒︵経済学批判序説︶

そして︑かかる労働力疎外の近代産業的条件は完備された︒それは︑標準的な機械・原材料の成立過程であり︑社会

︵1ユ︶

的必要労働時間の歴史的形成であり︑また労働強度の社会的標準化そのものであった︒

ここに︑かってのふるい単純な時間払労賃や出来高払労賃における︑労働内容の人身的結合や無規定さは除去され

て︑無差別な一般的な労働の形式的規定が成立する︒近代的労賃形態の一般的基礎が完成する︒そして労働力疎外の

かかる形態的側面を反映するものとしての資本的要因も現実的に展開してくる︒理論的にもまた︑歴史的にも一定高

度の資本制の発展である︒それは商品価値の費用価格・利潤への転形であり︑さらには生産価格の成立︑一般的利潤

率の均等化の過程により︑一般化する︒そして︑生産諸部面間の労賃および労働日の︑したがって剰余価値率の均等

化は︑資本制生産が進歩し︑あらゆる経済的諸関係がこの生産様式に従属するにつれ︑ますます自己を完遂してゆ

く︒︵資本論︑三巻︑訳︑一三○頁︶而うして︑逆に︑機械制大工業の労働組織︑標準労働日の確定やその単純協業の再現

(18)

286

ともみられる労働の形式的均等性︑単純・無差別性がこの局面における生産過程を媒介するにいたる︒すなわち︑か

って資本にとり︑相対的剰余労働収取の困難さを呈示していた労働表示の不確実さが除去され︑形式的規定としての

労働が︑標準的時間︑強度質の表示として︑標準的な機械の速度︑標準的な原材料の搬入︑とともに十九世紀後半以

後の機械制大工業の労働組織における資本の生命となってくる︒すでにして︑生産組織そのものの自動体系化・大量

生産化の基盤が顕著になり︑生産流通への独占資本の計画介入の段階に入っている︒以前の単純な時間払︒出来高払

の労賃形態は合理性をもたず︑労働・労働量は時間で測定されようと︑生産物数量で表示されようと︑かまわない︒

労働の単純化︒同質化︑そして︑社会的必要労働の具体化︑一般化の過程は︑逆に︑〃それを媒介とする必要労働と剰

余労働をするどく暴露するにいたる︒それとともに︑社会的必要労働という価値規定に規制された必要労働十剰余

労働が現実に全支払労働として現象する過程も︑いまは︑日常的な範嶬の媒介を経て︑生産量・生産物形態への対応

物となってくる︒一方におき︑支払労働そのものがそれの直接的形態としての可変資本より流動資本に変容され︑労

賃は商品の費用価格の構成分子に転じ︑原価計算においては原価化する︒他方︑剰余労働じしんは︑かかる費用価格

の超過分に変容される︒まさに矛一方の極には労働力の価格が労賃という転化形態で現われるからこそ︑反対極に︑

剰余価値が利潤という日常的範辱に転化する︒資本の価値増殖の神秘化が完成する︒ここにおいて︑もはや︑労働力

とそれの転化せる労賃は決定的に疎外され後者に支配されるかぎりでの前者が︑その交換を規定する︒権利対権利と

して定立された商品交換の法則︑労働力の交換過程︑いな生産と︑それの現実的消費過程Ⅱ労働は切断され︑人間労

働力そのものは︑その再生産を規制する諸条件と離れ︑資本の生産手段と化す︒他方このことは︑労働力の価値・価

格と区別された労働の価格︑かかる仮象の成立要因であった不払労働の陰蔽も現実的に不可能にし︑利潤形態として

明示されてくることを意味する・資本制生産︑労働過程はそれのもつ内在法則とは全くちがった日常的諸現象に転倒

する︒労賃形態の段階的進展がかかる機能を歴史的︒技術的にはたしてきた︑それじしん媒介態としての特殊資本制

(19)
(20)

288

本の集積︑生産の社会化過程じたいにひそむところの剰余価値生産の質的高度化の要因であろう︒この段階に強く出

てきた一般的利潤率の支配であり︑均等化である︒かかる資本の動向は︑前述のように︑理論的には︑社会的必要労

働の形成を意味するとともに︑これを現実的に媒介してゆく労働過程︑労賃組織の固定化として直接的に反映する︒

ここでは労働力商品の価値規定はまったく疎外され︑転倒された不合理な労働の価格形式の独立化を完成してゆくと

ともに︑他方︑いままではたしてきたふるい労賃形態の機能たる相対的剰余労働収取の促進は停止するにいたる︒

すでにして︑市場関係からも標準的な労働表示の要素を形成した大工業労働は︑労賃そのものの均等化・個別的格

差の縮少傾向をはらまざるをえなくなってくる︒労働市場における標準的労働の購買は原材料のそれとおなしく資本

の生命であった︒いまや︑かかる標準的なものはそのうちに一の矛盾の展開となり︑資本にとって邪ま物になってき

た︒まさにそれはいわゆる資本制的機械充用のもつ内在的矛盾と相似のかたちをとって︑労賃形態・機能の否定的傾

向を呈示するにいたる︒このことは︑今度は逆に︑一たん疎外された︑労働力の価値そのものを浮び上らせる︒労働

力の価値が︑労働の価格を強く索制する︒このことは︑産業別労働組合の統一賃金率の要求の成立条件であるととも

に資本にとり致命的条件となる︒アメリカにおける出来高労賃の一九○○年代よりの衰退がこのことを物語ってい

る︒︵森五郎︑経営労務管理論︑二三一頁︑目・凄○珀亀目の具ご罰①の星⑩︑嗣蜀1m参照︶

ともあれ︑資本市場・商品市場におけるこの段階以降の個別資本の超過利潤追求にあらわれる︑激烈な競争は︑労

働市場に対しては︑いわゆる労働力価値以下の価格︑特に労賃総額の低下︑就業率︑労働構成の下降的移動︑労働諸

条件︑諸権利をめぐる法律的譲歩と攻撃の緊迫が独占体形成への資本蓄積の最大の槙粁となる段階であるが︑かかる

過程は︑労賃形態・組織にとっても︑急激な変展と労・資双方の︑より組織的な目的意識性発揮の段階に突入するわ

けである︒いわゆる︑近代的労務管理・工程管理・賃金管理の政策的・人工的関係がこの局面を本格的な出発点とし

てスタートしてくること当然である︒

(21)
(22)

290

する方法は︑やはり︑労働のより一層の疎外過程に俟つ以外になく︑労働自体の形式的要素の標準化を︑|その労働表

示の形態的骨組に置かねばならなかった︒機械制生産の労働過程は部分作業を行う部分機械︑これを操縦︑監視する

労働︑作業へと分解されてゆく︒このような機械補助労働の︑更なる分解はいわゆる動作の抽出であろう︑これを

ば︑価値増殖過程の使用価値形態として捉えれば︑職務である︒

十九世紀末以降のテーラーシステム︑コンベアーシステム︑あるいは第二次大戦以後あらわれた︑TWI︑品質管

理等々の経営管理技術も︑それをば価値増殖過程の使用価値形態としてみたかぎり︑それは︑生産関係の激動︑これ

にもとづく労働力価値への裸身的要求たる最低賃金︑最低労働条件要求とのするどい緊張関係のもとに︑発揮され

る︑労働過程分解の︑独占段階での価値増殖過程の要請として︑一般化されうる︒

だが︑テーラーにはじまる職務分析は︑機械に規定された労働の形式の分解でなく︑いまだ︑人間的技能に束縛さ

れる余地を残す︑労働そのものの要素分析であった︒この段階にあっては︑労働そのものの主観的要素は客観的な労

働表示とは結合しない︒ここにおいて単純化された労働が機械の系列により確定され︑自動体系が専門単能機械の系

列そのものにより客観的に確定され︑生産物価値の使用価値形態が一定の比率で把握され︑作業と職務の分析が︑経

営内・企業内の価値編成として統一されねばならなくなってくる︒一九三○年代より一般化した職階方法は︑このよ

.︵ワ﹄︶

うな段階における労働過程分解の要求の目的意識的再編成として出てきたものである︒︵正田誠一︑前掲論文︑経済学研

究︑十六巻三号︑一○四・五頁参照︶

いわゆる職務給をふくめて︑いな︑それに至る近代的能率給と呼称される二○世紀以降の労賃形態の一般的成立︑

変遷の物質的条件の大略である︒かかる物質的条件は︑資本︒労働の対抗関係を経て︑如何なる次段階の労賃をふた

たび高次の段階におき産出してゆくのか︑論がそれるが︑きたるべきオートメンション段階の労賃形態の解明にとっ

ても︑それがたんなる単次的なる経営技術的・労務管理論としてのみ分析されてはいけない理由であろう︒

(23)

291

借︑かって資本主義生成期の単純なる労賃形態は︑歴史的にも技術的にも︑労働行程と価値増殖行程を︑労働力商

品の価値関係と価値生産物のそれを媒介する物化された現象形態へと段階的に転化してゆくことにより︑労働力の価

値︑価格が労働の価格に実質的に転化していった︒そして︑不払労働を陰蔽することにより︑労働力の価値をそれの

使用価値形態においていかにして表示するかが資本の全生命となった︒結節点は︑労働表示諸要素の標準度の獲得

と︑個別差の拡大におかれた︒資本による労働の形式的包摂が実質的な包摂関係に進展するに従い︑それが可能とな

る︒労働過程の激変である︒紡績業における労働機に端を発する機械の発展が労働生産力を一変するとともに︑流通

過程にある人間労働力の価値決定要因をば生産過程における現実の労働諸要素と︑除々に切断してゆく︑他方︑産

業革命の全般化・段階的発展そのものも︑また︑標準労働日の制限過程に媒介されてゆく︒そして︑労働の強度と労

働時間の排斥点において資本の実質的包摂が完成する︒労働生産力はここに資本の生産力と化す︒しかしながら︑発

展した資本制生産は︑資本市場・労働市場を貫徹してゆく生産力と生産関係の矛盾的進行のピークにおき︑労賃形態

の機能固定化の壁に打ちあたらざるをえないこと前述のとおりである︒相対的剰余価値生産の一般的成立は︑すでに

して︑ふるい単純なる刺戟的能率給といった生産力賃金そのものの資本的基盤を崩壊させる︒残された路の基本線は

二つであった︒一つは︑一たん︑機能を縮少した︑そして︑すでに︑労働内容より疎外された︑労働の形式的諸要素

を︑さらに分解させることであった︒この条件はまた︑独占企業・大企業における機械体系の互大な作業機構化︑生

産期間の短縮︑資本の回転期間の短縮︑資本蓄積の増大に相俟つ労働者数に比する固定資本・間接費・原動力馬力数

の相対的増加と︑独占体による労賃総額の圧縮により加重される︒そして︑かかる段階における労働過程・価値増殖

過程を現実に媒介してゆく労賃形態の移行条件はつぎのようなものであった︒

ふるい︑古典的な出来高払の剰余労働収取の機能停止のあとにでてきた︑時間・出来高労賃の相互規定段階より︑

職務給にいたる過程でみられる移行条件がそれである︒一般的には︑かっての時間払・出来高払の算定形式であった

(24)

292

ところの生産量・労働時間が︑それぞれ肝瞬剛Ⅱ州蝿弾綿叩・旺蜜弼囲Ⅱ州搬朏剛雌︲によって置き換えられる︒このこ

とは︑要するに労賃の尺度単位が︑かっての自然的時間の代りに︑一単位の作業所要時間の成立の結果︑単位時間

当労働価格と単位生産物当価格の一致を意味する︒そして︑唯蜜e任寓富誘×州網鴨蝋坤Ⅱ珊瑚盤という一般的形式

︵nJ︶

の成立となって結着してくる︒さきにみた労働過程における非人間的・疎外の進展が︑かかる自然的時間・生産量測

定の工学的形態を与えている︒すでに︑そこには人間労働力の系列でなく︑作業・作業単位の系列化があらわれてい

る︒そして︑ふるい形態での労働表示の支柱であった︑標準的時間・強度の結節は意義をうしない︑いまでは︑単位

作業量における必要労働時間の標準度と︑人間労働力より決定的に分離された機械・作業の強化過程の直接的反映と

しての単位作業・時間・強度・労働質における結節点の追求と︑個別的偏差の評量が︑近代的労務管理の必要性とし

て労賃刺戟の支柱となる︒テーラーを中心とする多率出来高払そして︑次にくる︑フォード的集団刺戟制にその典型

がみられてくる︒そこでは︑ふるい単純なる労賃形態が展開した労働力の使用価値表示といった労働の価格への転化

の現象すらも決定的に否定されて︑資本・機械じたいの使用価値が︑直接的に労賃形態を規制するに至る︒労賃形態

を媒介とする資本の労働力疎外はここで完成の域に達する︒

しかしながら︑資本制生産関係を前提とするかぎり︑資本にとっての労働力疎外は︑まさに逃れざる宿命である︒

さきにふれた︑職務給における経営内の作業系列に基づく労働力評価・労働表示方法の目的意識性の再編成といった

ものは︑それが労働力の価値にとって︑まさに対極的な拒否制度として完壁のものであるといった次元のみからで

は︑労・資双方の労賃政策としては︑無意味であろう︒労働力の疎外というものは︑それを止揚しうる物質的条件を

成熟させる程度に応じて︑それじたいの疎外・物化を完成してゆくものである︒一面における︑資本制の各段階にお

ける労働者の労働力価値追求の意識的抵抗の在り方︑他方における︑生産l労働過程の自動化を反映してゆく︑オート

(25)

293

マテイックな労賃形態︑これがいつの日かこの社会における労賃形態じたいの自己否定の要素の醸成︑その本来の機

能ストップの否定的側面を序々に内包してゆく一点に留意しなければならない︒後述のように︑労賃論が︑いまや勝

義の階級的な労賃政策論に転身せねばならぬゆえんであろう︒この生産力と生産関係の両面の労賃形態における統一

的把握が︑両面が現象する最高の形態としての職務給以降の労賃政策論のこんごの基本的な課題でなければならない

が︑小槁の範囲外として︑いまは措かねばならない︒ただ例示として次をあげるにとめてをく︒すなわち︑①つの

重要な側面は︑さきにもみた︑一九三○年代以降︑いわゆる計測日給制言8の胃&己畠君︒烏︑また以後のより複雑・

詳細な職務分析・職務評価︺号:騨言号唇.に労働過程把握の基礎をおいた職務給制度の展開が︑その技術的側面︒ま

た﹁評価の主観性﹂といった︑従来からの一般的解訳のほかに︑いま一つの根幹が必要であることである︒それは︑

高く︑はげしい出来高労賃諸形態のあとに︑ふたたび︑出現してきた︑日給制であり︑日賃金︑週賃金の定額化現象

である︒これは労賃の安定度の問題であり︑労賃率の点からは︑労働組合よりする最低作業度の保証要求となり︑一

たん拒否された労働力価値と直接的に関係してくるが︑いづれにせよ︑かかる︑刺戟賃金のあとに基本給・ベース・

レートを評価要素の中心点とする標準作業率の固定化傾向がでてきたことは︑まさに労賃史における劃期的なことと

いわねばならない︒それとともに︑このような職務給に温情的にさまざまな人間的要素を入れる考えは︑それを︑

ふるい古典的な時間給に逆転させることであり︑問題の中枢を避けるものとなるであろう︒︵前掲︑正田誠一︑論文︑

十七巻四号︑五三頁︑増地庸治郎︑賃金論︑旧版︑十三章以下︑参照︶

②つは︑やはり︑職務給制度と︑経営内作業系列に対応する労賃分配の聯関にとり︑異種作業単位・職務分析にお

ける︑いわゆる共通単位・要素の測定方法の展開であろう︒いわゆるビドー点数制における共通単位への還元が︑そ

の後にくる職務給の先駆的役割としてみられているのは周知であるが︑そのことも︑も早やいままで︑みてきた範囲

内では︑労賃形態の発展段階のうちに︑とくに︑労働表示における労働力疎外の極限形式におき把握してゆかねばな

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(28)
(29)

297

この節では︑こんどは一節での問題意識にかえり︑労働力商品の価値とその﹁独自的使用価値﹂の原理的な再整理

をもって︑はじめるはずだったが︑都合により︑結論的行論を簡単に述べるにとめておく︒

われわれは︑資本制労賃現象のうち︑とくにその商品における価値が使用価値において表示される形式をぱ︑労賃

形態の一般的規定として把え︑それが︑理論的に具体的なもの︑または複雑なものへ上向する過程をば︑資本制生産

過程の発展段階のうちに分析してゆかねばならなかった︒そして︑その最も成生した段階における︑労働の表示要因

の内在的追求の要請の一端をとらえやこれを労働力疎外の関点︑そして︑かかる労働過程を包摂してゆく価値増殖の

使用価値形態の展開にもとめたoも早や︑人間労働力と︑労働は︑現実の労働表示のプロセス︑労賃形態におき︑終

局的に分離されてしまった︒しかし︑これを︑労賃形態の中で打破する路は︑決して︑現実の労働表示方法の﹁科学

化﹂Ⅱ﹁不合理化﹂の超越的否定にとどまることを意味しないことを︑前節で指摘した︒

しかしながら︑以上は︑原理的に否定・転倒された労働力の価値関係の問題であるとともに︑労働力の再生産費I

育成費によっても︑生活費によっても︑直接的に説明されえないところの個別差における労働の質・量問題という︑

二重の形態論の解明を要請される︒これをばへ労賃形態の展開過程のうちに︑いかに分析するかの課題の一つがまさ

に︑同一労働か労働力かをめぐる︑一方における直接に同一視する考えと︑他方︑二者択一とする考え等を産みだし

たものであった︒賃金本質論と賃金形態論の局面の相違である︒がしかし︑われわれは︑かかる労働力の疎外現象Ⅱ

労賃形態の展開という次元をよく見きわめるとともに︑常識論としての﹁労働の対価﹂といった﹁日常的範嶬﹂にと

どまっては︑労働力の﹁疎外﹂すらも忘却してしまう︒ここに︑いままでの︑実に不生産的ともみえる迂回路を経

て︑理論的にも︑現実的にも︑ふたたび︑労働力の価値関係に分析のホコ先を向けねばならないのは自明である︒ま 四むすびにかえて

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