はじめに 一八八一(明治十四)年、朝鮮から派遣された朝士十二名と随行員
等からなる約六十名の視察団一行は、神戸を出航して五月二十五日に
横浜へ入港し、その日の内に汽車で東京へ到着した。当初外務省が準
備した芝公園内の海軍官舎二棟に分宿したが、五月三十一日夜、上野 で開催されていた内国勧業博覧会を見学した翌日、突然神田周辺の旅
館等に散居してしまった。これ以降、朝士たちはそれぞれの任務に従っ
て本格的な視察を開始する。朝士たちは「所管之事務設置之場所等悉
一覧致度」と申し出ており、外務省ではその意向を受けて、各省使に
「専対之員御選択ニテ、本人望願相達候様御取計有之度」と配慮を依
頼した。彼らの多くは八月十日前後に東京を発して帰国の途に着くが、 (
)(
)
一 八 八 一 年 朝 鮮 朝 士 視 察 団 ( 紳 士 遊 覧 団 ) の 来 日 ( 二 )
―
朝 士 の 視 察 状 況 を 中 心 に
―狐 塚 裕 子
要旨 朝鮮朝士視察団は五月二十五日に東京へ着くと、まもなく視察を開始した。十二名の朝士たちには、それ
ぞれ担当する部署が決められていた。重要な施設の視察や公式行事への参加には多くの朝士が参加している
が、基本的には関係者だけで視察を行っている。しかし、時には担当以外の朝士たちも同行したり、独自に
視察を希望する場合もあった。朝士たちの視察を受ける官庁等も、細やかに配慮をしたり、求めに応じて資
料の提供をしているが、時には朝士たちが日本側の対応に不満を持つこともあったようだ。また民間でも朝
鮮との貿易にかかわっている商社や、アジア主義団体である興亜会も、朝士たちとの関係を深めようとして
いた。朝士たちの様子は新聞各紙で頻繁に報道されており、日本国内での関心の高さを知ることができる。
朝士たちは八月十日前後に東京を出発し、神戸、長崎を経て朝鮮に帰国した。帰国後朝士たちが国王高宗
に報告した内容は、必ずしも日本の現状を肯定的に評価したものではなかった。しかし彼らは政府の新しい
組織の中で、開化政策を担うことになる。
それまで約二ヶ月半にわたり東京を拠点に集団行動を取ったり、ある
いは任務に応じて個別、または数名で視察を行った。その他にも政府
の高官や関係者を訪問したり、官・民双方からの招待に応じたりもし
ている。
朝士たちが来日してから東京で散居するまでの状況は、前稿(一)
で外務省の対応を中心に論じたが、本稿ではその後の朝士たちの視
察状況や滞在中の様子、また日本側の対応を明らかにし、日本側から
見たこの視察団について考えて行きたい。
なお、来日した朝士それぞれの下に、多くの場合随員二名、通事一
名、従者一名が配置され、基本的には五人一組の編成であった。朝
士とその随員は次の通りである。
朴定陽(参判・従二品・四十・内務)、王済膺(参奉)・李商在(士人) 趙準永(参判・従二品・四十八・文部)、李鳳植(参奉)・徐相直(士人) 巌世永(承旨・正三品・五十・司法)、厳錫周(司果)・崔成大(五衛将)
姜文馨(承旨・正三品・五十・工部)、姜晋馨(五衛将)、邊宅浩(東莱吏)
沈相學(参議・正三品・三十六・外務)、李鍾彬(部将)・兪鎮泰(進士) 洪英植(参議・正三品・二十六・陸軍)、高永喜(主簿)・咸洛基(参奉)・
金洛雲
魚允中(応教・正四品・三十三・大蔵)、兪吉濬(士人)・柳定秀(士人)・
尹致昊(士人)・黄天彧 (
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(
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(
)(
) (承旨・正三品・四十八・海関)(士人)(士人)趙秉稷、安宗洙・兪箕煥
李 永(参知・正三品・四十六・海関)、李弼永(五衛将)・閔達鎬(司果)
閔種黙(参知・正三品・四十六・海関)、閔載厚(士人)・朴会植(東莱吏)
李元會(水軍節度使・正三品・五十四・陸軍調練)、宗憲斌(士人)・沈
宜永(武科)
金鏞元(水軍虞侯・正四品・三十九・汽船運航)・孫鳳九(士人)
[朝士名の括弧内は、来日前の官職・品階・一八八〇年末時の満年齢・担当部門。
随員名の括弧内は官職、または身分を示す。]
次に使用した史料についても記しておきたい。視察団については近
年韓国において影印本の『朝士視察団関係資料集』(以下『資料集』と
記す)全十四巻が刊行されている。これは視察団研究の第一人者、許
東賢氏によって編纂されたもので、十一巻までは朝士たちが日本から
持ち帰った文献・参考資料等、十二巻は国王に提出した報告書、十三・
四巻には、朝士や随員たちの日記や個人的な記録とみられるものが収
録されている。朝士の日記には、朴定陽『従宦日記』、李 永『日槎
集略』、魚允中『従政年表』があるが、特に『従宦日記』と『日槎集略』
は高宗の命を受けてから、帰国し復命するまでの毎日の行動が詳細に
記され、その日どこに行ったか、誰に会ったか、また朝子に限られて
はいるが、誰と行動を共にしたかもほぼ知ることができる。『従政年
表』は既に活字化されたものが収録されており、国王への報告内容は (
)( )
(
)( )
詳しいが、来日中の記述はごく僅かである。
一方、日本側から朝士の行動を把握できる史料は、後に外務省が各
官庁との往復文書を纏めた『対韓政策関係雑纂 明治十四年朝鮮国視
察員朴正 [ママ]陽来航一件』(以下『来航一件』と記す)と、新聞各紙に掲載
された記事である。『来航一件』に収録された史料の多くは、朝士た
ちへの対応を依頼する外務省と、それに対する各官庁からの往復文書
である。新聞については、今回使用したものは『東京日日新聞』『郵
便報知新聞』『朝野新聞』『東京横浜毎日新聞』(以下「新聞」を略す)、
及び『大坂新報』に限られているが、各紙とも社説以外に頻繁に朝鮮
問題を報道している。来日前後を含め、朝士たちに直接言及している
記事に限っても、それぞれ三十数回から五十数回に上っている。この
中には、他紙の記事を転載、引用している場合もあるが、いずれにせ
よ朝士に対する世間の関心の高さを窺うことができる。事実関係につ
いては新聞の記述内容以外裏付けがとれないものもあるが、朝士たち
の行動について彼らの日記等から確認できるものに関しては、ほとん
ど齟齬がない。誤報して、数日後に訂正記事が掲載されることもあっ
た。「韓人」「韓客」「紳士」等の表現が多用され、具体的な関係者や
人数などがわからない場合も多いが、限界はあるにせよ、新聞報道は
有効な史料といえるだろう。 (
)
(
)
(
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) 一、朝士たちの活動 ─概要─
先述したように、東京に着いて間もなく朝士たちは五、六箇所に散
居した。その後更に宿舎を移転することもあり、彼らの分宿状況に関
しては明確でない部分もあるが、朴定陽・嚴世永・沈相學、李 永・
閔種黙・趙秉稷、洪英植・魚允中、李元會・金鏞元がそれぞれ随員と
共に同宿し、その他の趙準永、姜文馨と随員は他に居を定めたと推察
される。同宿した朝士たちの間にはある種の共通点を見ることがで
きる。朴定陽と嚴世永は参判、従二品で朝士たちの中では最も職位、
品階が高く、対外的には視察団の代表的立場にあったと思われる。李
永・閔種黙・趙秉稷は共に税関調査を任務としており、一緒に行動
することが多い。李元會・金鏞元は軍事専門家として、視察朝士の中
では最も遅い時期に任命された。他の朝士たちが東莱暗行御使に任ぜ
られ、制度や情勢探索を任務としていたのに対し、陸軍操練、汽船運
航という陸海軍の軍事的な面を担当している。一方若手の洪英植・
魚允中は、日本側から一行中唯一の開化派と目されており、来日前か
ら他の朝士との確執が伝えられていた。滞在中も彼ら二人が独自の
行動を取ることがしばしばあり、実質上は彼らが視察団で主導的立場
にあったと見なされていたようである。
朝士たちは主に東京の宿舎を拠点とし、担当部署の視察に当たった。 (
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時には数日かけて関東近辺の施設や行事の見学に行くときもあり、ま
た税関担当者のように、しばらく横浜に滞在して調査に当たることも
あった。朝士たちは基本的には配下にある随員、通事と共に行動した
と思われる。しかし随員が単独で行動することもあり、また朝士の代
わりに視察に行ったり、代理で会合に出席することもあった。来日直
後の報道の中には、視察中随行員が記録をしている描写があるので、
書記としての役割も推測される。ただ随員の中には高永喜のように政
府から朝士に準ずる扱いをされた比較的高位の者もいた。
朝士たちの日記や日本側史料を総合すると、彼らは東京に着いた直
後は、政府高官や担当部署へ挨拶に出向いたり、また清国公使館も訪
れている。高官の私邸には約束無しに訪れているようで、不在や病気
のため会えず、名刺を置いてくることもあった。例えば『日槎集略』
には次のようにある。
往宝田町右大臣岩倉具視家、而病未見、又往永田町太政大臣三条
実美家、而在政府未退云、又往永田町左大臣熾仁親王家、而接見
只叙寒暄数語、三大臣第宅倶是広大侈麗(中略)大清公使何公留
名帖而去、未逢甚悵(六月三日) 諸公又来会、随訪開拓長官黒田清隆於三田一目 [ママ]丁私第、而出他未 逢、留名帖、又訪内務省卿松方正義於三田一目 [ママ]丁私第、而接見暫
話、又訪太政参議寺島宗則於白銀猿町私第而接見、又太政参議伊 (
)( )
(
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(
)(
) ()藤博文適在座同為酬酌六月八日
六月三日には三大臣の私邸を訪問するが、有栖川熾仁親王とは時候
の挨拶をする程度で、三条実美、岩倉具視には会えず、何如璋清国公
使とは入れ違いになってしまった。また六月八日には高官の私邸を歴
訪するが黒田清隆には会えず、寺島宗則宅に立ち寄った際に、たまた
ま伊藤博文と同席することになり、懇親に及んだことがわかる。
一方役所に関しては、当初は外務省を通し了解を得てから訪問して
いるが、具体的に調査が始まってからは、自由に訪れているようで、
高位の役人が不在の時もあった。しかし実際の調査や資料収集段階に
なると、実務担当者で事足りる場合が多かったろうから、支障はな
かったと思われる。
朝士たちの活動は、当然担当部門の視察・調査が中心であった。事
務章程を始めとする規程等の収集は、まず最初にすべきことであった
ようだ。担当部署に依頼してこれらの提供を受け、漢学者等に漢訳を
依頼して帰国後の報告に備えることもあった。彼らが帰国後提出し
た文献は、『資料集』によると次の通りである。
朴定陽『日本国内務省職掌事務 全 附農商務省』
『日本国内務省各局規則』一~三 『日本国農商務省各局
規則』一、二
魚允中『日本大蔵省職制事務章程』『財政聞見』一 (
)( )
(
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(
)( )
嚴世永『日本司法省視察記』一~七
姜文馨『工部省』
趙準永『文部省(所轄目録)』
洪英植『日本陸軍総制』上下
李元會『日本陸軍操典』一~四
沈相學『外務省』一~四
閔種黙『日本国際條例目録』『各国條約 第一』
『居留條例 第二』『貿易則類 第三』『六港開場 第四』
『税関規則 第五』『各国税則 第六』
李 永『各港税関職制』『税関事務』『貿易章程』『朝鮮国半年輸
出入表』『商船入港節次』『海関録』
魚允中『横浜税関慣行方法』
このような文献収集の一方で担当部門の視察を行うのだが、先述し
たような政府高官との交わり、重要な施設、設備、行事などについて
は団体で行動している。次の記録は、魚允中が帰国後高宗に報告した
視察場所、面会した高官達である。すべての朝士が同じ経験をした
のではないし、欠落していると思われるものもあるが、熱心な視察を
行った朝士の事例である。ただここには「博覧会」を除き、行事的な
ものは記されていない。また高官の中に伊藤博文の名前は特に挙げら
れてはいない。 (
)(
) 長崎 造船所、工作局、学校、高島煤鉱
大阪 鎮台兵演操、砲兵工廠、造幣局、製紙所、博覧会、病院、監獄
京都近郊 女紅場、盲唖院、琵琶湖
東京近郊 外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・工部・農商務各省、開
拓使・元老院
大学校・士官学校・戸山学校・師範学校・工部大学校・海軍
兵学校・機関学校・語学校・農学校
電信・郵便・印刷・瓦斯局・教育博物館・博覧会・製紙所・
集治監・砲兵工廠・育種場・横須賀造船所
高官 三条実美、巌 [ママ]倉具視、寺島宗則、副島種臣、山田顕義、井
上馨、大山巌、川村純義、松方正義等
朝士たちは民間の団体・個人とも交流している。外務省は来日前か
ら視察団に関し、民間と自由に交流できることを保証していた。例
えば早くから朝鮮に進出していた高須謙三の共同商会や大倉喜八郎の
大倉商会は、滞在中の便宜を図ったり懇親会を開いたりしている。
留学生の関係では福沢諭吉が知られているが、その他重野安繹や末松
二郎等個人的に意見交換を行う者もいた。アジア主義団体である興
亜会も彼らとの交流を待ち望んでいた一つであるが、これについては
後述する。 (
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二、日本側の対応
外務省で朝士の連絡役となったのは宮本小一大書記官であるが、彼
の依頼に応じて各省使でも朝士たちの視察をサポートする専対員が設
置された。その身分は様々であり、各省使の意識を計る尺度と言える
かも知れない。現時点で判明している専対員は、次の通りである。
大蔵省 大書記官石丸安世、一等属金田清風
内務省 権大書記官西村捨三
陸軍省 少将小沢武雄
海軍省 大尉曽根俊虎、中秘書堤従正
文部省 特に設置せず、丁寧に対応すると回答
開拓使 五等属小寺秀信、六等属竹内拾兎一
『来航一件』によると、ほとんどすべての省使が視察への協力を明
言している。文部省は専対員を置くことはしないが、どの施設でも丁
寧に対応することを約束し、管轄下の学校や施設の名称、住所、休館
日等を記して参考に供している。また少将を専対員とし、「毎日午前
第八時より午後第二時迄之間ニ於テ、休暇日之外は何時来省相成候而
は [ママ]差支無之候」と回答した陸軍省など、積極的な姿勢を示している
省もある。朝士の中では海軍の担当者は特に決められていなかったが、
海軍省で専対員となった曽根俊虎は興亜会の中心メンバーであった。 (
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) 日本側は朝士たちの要望に応じて、様々な施設の視察に協力してい
る。ただしそこには自ずと日本側の誘導が働いているはずである。特
に日本の「富国強兵」「殖産興業」化の度合いを示すような施設や行
事に、積極的に招いている様子が窺われる。
たとえば朝士は着京直後の五月三十日に、当時上野で開かれていた
内国勧業博覧会を視察しているが、これに関して当日宮本小一は博覧
会事務官にあてて、案内人の準備と有益なものを解説してくれるよう、
次の様に依頼している。
本日午後朝鮮国視察官一行会場看覧トシテ相越候ニ付而は、不案
内之者徒ニ満場ヲ彷徨験覧致候迄ニ而は、彼ノ視察上実益無之遺
憾之儀ニも被存候間、乍御面倒案内者一名御差出看覧順序御指示、
又有益ノ事物ニ付而は、其概略ヲモ解説被致候様及御依頼候。尤
通弁人等ハ付添可罷出候間、左様御承知相成度、此段及御照会候
也。
この視察には朝士十一名、随員十名という一行の大部分が参加した
が、結局一部を見ただけで時間切れになってしまった。その後博覧
会事務局長の品川弥二郎は、六月十日に行われた褒賞授与式へ朝士た
ちを招待したのだが、天皇臨席のもと、政府高官、外国公使等が出席
して行われた式典について、李 永は詳細に記している。このとき
褒賞を受けた四つの組織・個人の内の一つが、富岡製糸場であった。 (
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後に金鏞元等が富岡まで視察に出かけたのは、この褒賞授与が影響を
与えていたのかもしれない。
軍関係の視察も多かった。施設だけではなく、例えば陸軍観兵式や
教導団の火入れ式、海軍兵学校や陸軍士官学校での演習、野戦地医療
演習などの実地訓練、隅田川での軍艦・端舟の競漕、砲兵工廠や横
須賀造船所などの視察には、多数の朝士が参加している。近代的な洋
式軍隊や製造技術を見せることは、日本の国力を誇示するに最も有効
的な手段であったに相違無く、後述するように、帰国間際になって宇
都宮の大演習の視察に出かけた朝士もいたのである。
三、朝士たちの視察事例
次に史料から明らかにできる、朝士たちの具体的な視察事例を見て
いきたい。
(1)朴定陽
朴定陽は先述したように視察団の中では最も職位、品階が高く、高
宗から最初に任命された七名の内の一人である。当時四十才と平均的
な年齢に属するが、名簿の中では最初に記されているように、形式的
には視察団の中心的存在であったと思われる。来日前は刑曹参判の職 (
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) にあり、視察担当は内務省であった。彼が同伴した随員の一人李商在
(当時三十一才)は、後に独立協会設立の中心人物となった。朴定陽
が帰国後提出した資料から判断すると、彼は内務省以外に農商務省も
視察対象としたようである。彼の『従宦日記』は高宗十八年から
二十年の三年間にわたる毎日の詳細な行動記録であり、国王の命を受
けてから釜山での滞在を経て日本に渡航し、帰国して記録をまとめて
国王に提出するまでの日々を知ることができる。日本での行動に関
しても、訪問先、面会人はもとより、その際の同行者の名前も記され
ている。
彼が東京滞在中の五月二十五日から八月八日までの七十六日間に、
外出したことが明らかな日は四十八日、そのうち、担当部署である内
務省や農商務省、及び関係施設に出向いたのは十八日、政府関係者が
宿舎に来館したのは五回である。他の朝士と共に政府高官に会ったり、
招待された陸軍操練や民間の懇親会の他、清国公使館にも七回出向い
ている。ただし、本来視察対象として重要な施設と思われる富岡製糸
場に金鏞元、宗憲斌(李元會随員)が赴いたとき、彼自身は同行せず、
随員の一人王済膺を派遣している。朴定陽が視察した担当部署の関係
施設は、日記によると次の通りである。
内務省、農商務省、三田種育場、養蚕所、農具製作所、警視庁、
駅逓局、千住製作所、東京集治監、競馬会、石川島監獄、駒場農 (
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学校、西今原樹木試験場、王子村製糸所、品川琉璃造作所
彼の日記には心情的なことは記されておらず、淡々とした行動記録
に留まっているため、具体的な状況がよくわからない。ただ、新聞に
は熱心に視察を行っている様子が記されている。
朝鮮人ハ先頃より度々内務省へ出頭し、事務の順序等を質問せし
に付、其質問の廉々を内局書記官より各局課へ廻達されたれバ、
担任の局長課長より其質問の答書を作りて内局へ差出せしを翻訳
し、同省の事務章程と共に贈与されしよし。
このように多忙な視察の日々ではあったが、その中でささやかなエ
ピソードも残している。
参判朴定陽氏は我が国の盆栽を好み、渡来以降既に数種の盆栽を
諸方へ注文したるよし。
朴定陽は一八八七年、初代駐米公使として米国に赴任している。
(2)李 永
李 永は当時四十六才、正三品で来日前の官職は兵曹参知であった。
ほとんど同年代の閔種黙、趙秉稷とともに、海関(税関)を担当して
いた。従ってこの三名は同じ宿舎に滞在し、共に行動することが多かっ
た。彼が記した『日槎集略』は行動記録としての緻密さに加え、状況
を詳細に記したり、時には感想や感情なども窺うことができるもので、 (
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) 大変興味深い史料である。彼は既に長崎や神戸に滞在していた時も、
該地の税関長や書記官と「税務問答」をしているが、東京に来てから
は一層足繁く大蔵省や税関関係者と会い、早くから資料の収集に努め
ている。
彼が東京滞在中に外出したことが明確な日数は五十五日であるが、
その多くが担当部署であり、その他の日でも日本人関係者が宿舎を訪
れることが屡々あった。また六月十九日から七月十四日までは横浜に
滞在し、殆ど毎日税関に通っている。
彼が大蔵省の関税局関係者と会ったのは三十一回であるが、清国公
使館関係者に会って「税則問答」を行うこともあった。したがって
大変熱心に視察している印象を受ける。
『日槎集略』からは、李 永が他の朝士たちを訪問したり、或いは
訪問を受けるなど、朝士相互の交流の様子を知ることもできる。近隣
に住む重野安繹を訪れ、歓談をすることもあった。また朝鮮の留守宅
から朝士たちに手紙が届いていることもわかる。
ただ、彼は日本の諸制度の中で長所となるものを受容しようという
姿勢を見せながらも、「日本が旧制度を一度に廃棄し、全ての制度を
西欧化した訳」を理解できず、これを「日人が喜んで行ったもの」か、
との疑問を捨てることができなかった、と評されている。このことは、
勧業博覧会の褒賞式に出席したときの感想からも推察できる。彼は玉 (
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座や外国人、日本人招待客の観覧席、備品など場内の配置や式典の様
子を色彩も交えて詳しく記しているのだが、還幸の際の天皇が乗った
馬車や海陸軍楽隊、旗をかざした騎兵隊数十名、武装兵士「幾百名」、
その他「朝官陪従」している様子を次の様に記している。
其威儀節次似以簡便為務而 [カ]至於章服之制大非礼度中出来者也
彼は五月三十日に博覧会を見学した際には、「其中機械之如織機脱
稃等機実為可用」と、織機、脱穀機について関心を示し、その有用
性について評価しているのだが、式典に関しては天皇の威儀や手続き
が朝鮮に比して「簡便」であり、服制に至っては「大非礼」と感じて
いた。また式典から退出する際の「男女混合」にも驚いている。
しかし褒賞式の感想以上に印象深い記述は、六月十五日に日比谷練
兵場で行われた陸軍観兵式の際のエピソードである。この式には天皇
の名代として有栖川熾仁親王が出席し、ロシア海軍中将レソフスキー
の他、三条、岩倉の両大臣、大木喬任、伊藤、山田顕義、西郷従道の
四参議、大山巌陸軍卿が出席したが、「朝鮮人へも観覧を許されたり」
と報道されており、巌世永と李 永以外の朝士十名が参加していた。
当日の詳しい様子はわからない。ただ彼らに招待の話があったとき、
外務省は朝士たちに「並進」を求めたらしい。
聞陸軍省観兵式設行云、而自外務省請諸公諸公並進、余懣甚未往
李 永は外務省の要望に気分を害して参加を拒んだようである。恐 (
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) らく「並進」を見せ物のように感じ、朝鮮朝士としての矜持が、それ
を許さなかったのであろう。
(3)洪英植と魚允中
洪英植と魚允中は、来日前から視察団の中での開化派と伝えられ、
釜山での集合の際にも二人は行動を共にしている。既に日本語を理解
していた、という報道の信憑性は疑わしいが、「すでに心は日本人」
と言われており、守旧的な他の朝士とは出発前から確執が伝えられ
ていた。洪英植は陸軍、魚允中は大蔵省を担当していたが、着京以来
二人は同じ宿舎に滞在し、担当部署の視察以外でも一緒に行動するこ
とが多かったようだ。
彼らは長崎に着くと、他の朝士とは異なり直ぐさま意欲的な視察を
始めている。例えば長崎近郊の炭坑には、二人と金鏞元だけが出かけ
ているし、大阪の陸軍操練視察の際には、二人は銃を借りて射的を試
みたという。
着京後、陸軍担当の洪英植は、李元會とともにしばしば陸軍省に足
を運び、視察、研究に励んでいる。
朝鮮人の依頼に応し、一昨日の午前十時より日比谷の練兵場に於
て教導団歩兵生徒一大隊の火入演習を執行されしに付、小沢陸軍
少将も其場へ臨まれたり。右陸軍の事視察を担当する朝鮮人ハ、 (
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参議洪英植、水軍節度使李元會にて、海軍の事を視察するハ参判
趙準永、承旨嚴世永等の諸氏なりとかいふ。右に付洪、李の二氏
ハ屡々陸軍省へ出頭して、陸軍の大体より諸兵操練等の事まで心
をこめて研究し、帰国の頃までにハ其大要を覚へねバならぬと云
ひ居る由、此頃火薬の製造方を伝習せしめんとて其随員二名を板
橋の火薬製造所に出頭せしめたり。又本日ハ軍医本部にて右の二
氏を招き、治療の法及ひ陣中救療法等を一覧せしめらるゝと。
一方、魚允中は帰国後『随聞録』を著して日本の現状を詳しく考察
しているが、『従政日記』には滞在中の具体的な記事がほとんどない。
「魚允中は遊覧団の中でも一目置かれる存在であった」と言われてい
るが、当時の新聞からは魚允中独自の動きを推測することは難しく、
多くが洪英植と二人に関する記事である。中でも視察団における二人
の特殊な立場が強調されている。
朝鮮人一行の中(中略)開化党ハ僅か二名のみにて、(中略)右
開化党ハ大に幅を利かし万事の指揮及び諸官署への応接向きハ、
右二人が取仕切て負担する由(後略)
二人については、視察以外でも独自の動きが見られる。例えば大倉
商会の大倉喜八郎が六月二十日に朝士たちの歓迎会を開いた後、従来
から同商会の釜山支店で関わりのあった金鏞元、高永喜と共に、この
二人だけを招いて歓談している。これは、彼らが常に日本側から「開 (
)( )
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) 化派の二人」と意識され、期待されていたことの現れだろう。この席
で洪、魚の二人は、次の様に質問をしたという。
貴国の商賈ハ何れも大資本を有し、富豪にして商業を営まるゝ様
に見受けたり。是には何か宜しき仕法の有ることならんと思ハる
れども、窺ひ知るに由なし、何とぞ此事の御教示を承りたく(後
略)
これに対し大倉は、酒席での誤りを避けるため、後に自らの意見を
漢文体の文書にまとめて、二人に送っている。また二人は六月
二十二日に高永喜を伴い、印刷局、第一国立銀行を巡ったあと東京日
日新聞社を訪れ、新聞紙の組み立て方などにつき質問をしたという。
このように、日本の経済活動にも興味を示しているが、二人が最も
熱心な視察を行ったのは、軍関係であったようだ。
朝鮮紳士洪英植、魚允中の両氏にハ、昨日午前九時頃海軍省へ参
られ、省内を残らず一覧したる後海軍兵学校へ到り、次長本山中
佐の案内にて生徒の授業、及び摂津艦にて戦争操練、帆前操練を
観覧し、正午十二時頃再び本省へ立ち寄りて帰寓せられし(後略)
他の朝士と共に軍関係の視察、行事に参加しているのはもちろんで
あるが、それ以外にも二人が独自の動きをしていたことは、二人が
帰って間もなく他の六名の朝士が右記の兵学校を訪れ、視察をしてい
ることからも窺われる。 (
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ところで魚允中の高宗への視察状況報告には、先に紹介した部分に
続いて次の様な記述がある。
日主之北巡也、追至宇都宮観兵、至日光山奉審孝廟御筆是白乎旀
これは、天皇を追って宇都宮で演習を見、その後日光の見学に行っ
た、というものである。七月二十三日外務卿代理上野景範は陸軍卿大
山巌に宛てて、洪英植、魚允中、高永喜からの希望として、次の様に
依頼している。
滞京韓客之内、別紙之人員今般宇都宮対抗運動拝見相願度旨申出
候。本省よりハ花房義質外ニ通弁壱人従者壱人同伴可罷越存居候。
可然御取計相成度及御依頼候也。
これに対し、大山から了承の旨返答があり、陸軍から中尉一名を派
遣して世話に当たることを報告している。朝鮮公使花房義質は帰国
してまだ間もなかったし、自身が朝士に付き添った記録は他には見ら
れない。この宇都宮大演習は明治天皇の東北、北海道巡幸にあわせて
催され、天皇立ち会いのもので行われた大規模なものであった。八月
一日の郵便報知は次の様に記している。
西郷中将、山田中将及ひ浅井歩兵大佐は宇都宮の大演習見分の為
め出張せられ仏国公使館付の歩兵大佐プーゴアン、韓客法 [洪]英植、
魚允中、高永喜の諸氏も亦同地へ赴き、花房弁理公使も韓客に同
行せらると。また大演習ハ来る三四日の両日と定まり、初日ハ鬼 (
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) 怒川を挟みて氏家、阿久津、沢辺にて仮設敵運動を行ハれ、次日
ハ不期対抗運動を施行せられ、東軍ハ阿久津、西軍ハ宇都宮に陣
し、其間にて対戦せられるといふ。
彼らの宇都宮行き自体は他の朝士たちに知らされていたが、詳しい
説明はされていなかったのではないかと思われる。このころすでに朝
士たちは帰国の準備を始めており、朴定陽、李 永等六名は、八月三
日に別れの挨拶のため二大臣や外務省を訪ねている。二大臣、井上外
務卿、花房ともに「他出」と記していることから、花房が洪英植ら
と共に宇都宮に行ったことは知らなかったようである。朝士たちは八
月六日に横浜に行き、四、五日滞在した後帰路に付く予定だったが、
六日になっても洪英植等が宇都宮から戻らないため、これを延期せざ
るを得なかった。結局彼らは七日夜に戻って来たが、まだ出発する
ことができなかったため、洪英植は十七日発航の船で出発し、後で神
戸で合流することを約束している。他の朝士たちは、「若於後船便不
到神戸、則諸公不必更待、先則発行云々」と、もし到着しないならば、
先に出発すると釘をさしたのである。
このように洪英植、魚允中のふたりは、滞在中他の朝士たちとは明
らかに距離があった。『日槎集略』においても、李 永が二人と接触
している記述は他の朝士に比してごく僅かであった。 (
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(4)金鏞元
金鏞元がどのような人物なのかよくわからない。彼は李元會と共に
軍事専門家として視察団に加わっており、他の朝士のような復命書も
残っていないという。また他の朝士たちとは若干異なる認識をされ
ている時もあり、彼を準朝士、と表現する新聞もあった。しかし彼
は一八七六年に来日した第一次修信使金綺秀の随員中、上官の一人と
して高永喜と共に名を連ねており、その時の身分は「画員司果」であっ
た。今回の任命は朝士の中で最も遅い時期であったが、それは仁川
開港に備えて汽船と銃砲購入のために来日する筈だった李東仁の不慮
の死により、急遽命ぜられたものとも言われている。
一方釜山領事近藤真鋤の書翰からは、彼が日本領事館と以前から関
わりを持っていたことが窺われ、「化学篤志之者」として認識されて
いた。その意味では来日朝士の中では最も日本側と近い人物であった。
具体的な内容はわからないが、一八八〇年末には、公使花房義質が金
鏞元を公使館で雇用したいという希望を持っていたという。これに対
し近藤は、名指しで指名することは朝鮮側の「官ノ猜忌ヲ来タシ同輩
ノ嫉妬ヲ引キ、必然不測之災害ヲ招クニ至ルヘク」として断念するよ
う求めている。近藤によれば、金鏞元は釜山でガラス製造の伝習を
受けた経験があり、その関係から石炭の採掘にも意欲を持っていた。
また彼自身は訪日を希望していたが、「官ノ猜疑」と「国俗」により (
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) 自ら意志を表明することを躊躇していたため、近藤や花房は朝鮮政府
から命令が下されるよう、側面から支援しようとしていたようだ。
視察員としての派遣が決定したあと、金鏞元は近藤に「蒸気船運転及
製造方其他玻瓈製造写真等技芸伝習致度」と申し出ていたという。
これらを総合すると、金鏞元は思想的な意味での「開化派」というよ
りも、技術的な面に強い興味を抱いていた人物と思われる。
金鏞元は来日直後、洪英植、魚允中と共に早速長崎近郊の炭坑を視
察している。東京へ着いてからも、極めて精力的な視察を続けたこと
は、宮本が色々な施設に対して配慮を依頼していることからもわかる。
六月二十日過ぎには、王済膺、宗憲斌と共に富岡製糸場に出かけて
いる。王済膺は朴定陽の、宗憲斌は李元會の随員である。彼らは富
岡の他に新町にも立ち寄り、宮本小一から農商務省に対し、「両所ノ
内いつれの紹介ニ出タル事カ、島村養蚕家田島武兵衛方ヘモ往覧、同
人方ニテモ一方ならす丁寧の説明ヲ受ケ、養蚕新論全部被恵深ク感謝
致候旨、昨日一行帰京之上金氏より親シク申出候」と謝意が示され
ている。七月には「金鏞元ナル者金銀分析術研究志願」として、大
蔵省に対し分析試験所の見学願いが出されたが、「当所之義ハ試験科
之者甚人少ニ而、日々ノ工程ニ逐ハレ、実ニ寸暇ヲ難得次第ニ付、質
問等ニ応接候様ニは相成兼、誠ニ試験室も手狭ニ而傍観之席も無之ニ
付、到底御依頼ニは難応」として一旦断られている。しかし、のち (
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に大阪本局ならば「傍観質問位」は差支えないかもしれないとの連
絡があったため、再度外務省から願いでた末、ようやく大阪造幣局か
ら許可が下り、金鏞元はすぐに出発する準備にかかっている。八月
には生野やその近辺の鉱山へも視察に出かけているが、これに関して
は「今般朝鮮視察渡来之挙ハ彼国従来之旧套ヲ脱シ開進ヲ促ス尤美事
ニ付、東京各官庁ニ於テモ皆懇切之誘導被加候ニ付、於貴所モ可成御
補助、本人素願相達候様御周旋之儀御依頼仕候」と特別な配慮を要
請している。その他彼は随員孫鵬九を、ガラス製造技術研究の為、品
川の製造所へ通わせてもいる。
このように彼は日本各地で科学技術、鉱山関係を中心に視察を行っ
ているが、本来の任務とされた「汽船運航」については、他の朝士と
共に軍艦観覧に行ったことしかわからない。八月に他の朝士が帰国
したのちも日本に留まり、興亜会の会員になったようだが、八月
二十五日に宿舎を引き払ったという。
四、興亜会と視察団
興亜会は一八八〇(明治十三)年二月、欧米列強に対抗して「聯亜
洲諸邦之士、協合共謀、興正道、而拯衰頽」することをめざし、その
ための具体的な事業として「亜細亜諸邦ノ形勢事情ヲ講究シ、并セテ (
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) 言語文章ノ学ヲ習修スル」ことを目的として設立された。設立推進
の中心人物は、曽根俊虎や渡辺洪基であったと言われ、初代会長には
伊達宗城、副会長は渡辺が就任したが、活動には末広重恭や加藤政之
助等の自由民権論者や宮内省の宮嶋誠一郎、外務省の関係者等が多く
参加していた。李 永と交流をもった重野安繹も会員の一人である。
同年七月の名簿によると、すでに二七三名の会員がいて、外務省の朝
鮮関係者では公使花房義質はもちろん、釜山領事近藤真鋤、元山領事
前田献吉、奥義制なども名を連ねており、当時金玉均、朴泳孝ら開化
派によってひそかに日本に送り込まれていた開化僧李東仁も東本願寺
寄留の「浅野継允」として参加していた。また清国公使何如璋の名
も見ることができ、創立一年後には会員は四〇〇名ほどになっていた
という。
興亜会が目指したのは、日本・清国・朝鮮の連帯であり、現地の情
報を得るために清や朝鮮在住の会員に通信員としての役割を依頼する
こともあった。朝鮮で通信員を依頼された一人が、東本願寺釜山別院
で開化派と日本側を結びつける役割を果たした奥村円心であった。
興亜会は第二回通信使金弘集一行が来日したとき、「興亜会ノ主旨
及ビ目的ノ在ル所ヲ記シ、又本会ノ報告書及ヒ規則書ヲ添ヘ以テ修信
使ニ贈リ、懇信ヲ結ハン」として、興亜会の存在をアピールし、帰
国前日の九月五日には上野精養軒に彼らを招いて懇親会を催してい (
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る。金弘集は不参加であったが、随行員李租淵、尹雄烈、姜瑋三氏が
これに応じ、日本側からは渡辺洪基、中村正直等が参加した。「朝野
東仁」として李東仁の参加も記録されている。食事の外、筆談や詩の
応答など懇親は六時間に及んだという。
朝士視察団が来日したとき、先述したように曽根俊虎は海軍省の専
対員となっている。会員から親睦を望む声が起きたので、朝士たちを
招待し、六月二十三日午後三時から神田開化楼に席を設けることに
なった。しかし朝士たちの多くは任務が終わっていない、としてこれ
を辞退し、朝士からは洪英植、魚允中のみが参加した。李元會は病
として随員沈宜永を代わりに出席させている。日本側からは副会長の
本田親雄、末広重恭、宮嶋誠一郎などが出席し、全参加者五十九名と
いう盛会であった。この時の様子は会報で次の様に報告されている。
一同会し、杯を上げ、筆談す。笑う者あり、詞を読む者あり、演
説する者あり、盛会。従来未だ相まみえることの無かった三国人
が同一席に会し、胸襟を開き楽しむ。(原漢文)
またこのとき詠んだとみられる洪英植、魚允中の詩も掲載されてい
る。
洪英植
澹溟如帯隔東陲、為結深知歩険夷、過境都従流水去、松竹而今式好時
同生斯世又同洲、三国衣冠共一楼、今逢兄弟兼知己、不負扶桑作壮遊 (
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) 魚允中
邦土相連海一陲、殷勤談笑説攘夷、多謝諸君須努力、政値東風不競時
衣冠会三国、万里即同隣、共尽綢繆策、何応禦外人
新聞では会員以外の者も多く出席したとして、この模様を伝えてい
る。
此日天気晴朗にして開化楼は東京を一目に看下し、風景頗ふる美
なり。互に杯を交へ、通弁を以て談話を為し、又ハ詩賦を以て意
志を伝へ、朝鮮人も喜悦の色面に現ハれ点灯後孰れも歓を尽して
解散せり。
ところで朝士たちの多くが帰国した後も日本に留まっていた金鏞元
は、その後まもなく同盟者として興亜会に入会したとあり、興亜会社
中宛て一文を送っているが、その中の一節に次の様にある。技術の進
歩をもとに国力の増大を図り、アジアの連帯を進めていこうという考
えを見ることができよう。
泰西先発軔、縦横衒技芸、光熱与電吸、分明四字偈、以是為国用、
以是為軍制、(中略)猗嗟諸君子、遂設興亜契、黽勉宜加厚、合
縦以結締、進々基富強、共期千万歳(後略)
このようにいわゆる開化派と見なされた朝士たちが、興亜会に興味
を示している様子が見て取れる。また興亜会会員が朝士たちに期待す
るところも大きかったが、開化派以外の朝士たちの関心を喚起するに (
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は至らなかったようである。
その後、興亜会はこの年十月に第三次修信使、翌十五年に第四次修
信使が来日した時も懇親会を開いている。そして壬午事変後に派遣
されたこの第四次こそが、朴泳孝を修信使とし金玉均、徐光範などを
含む、まさに開化派中心の使節団であったのである。
おわりに 八月十日、朴定陽、趙準永、嚴世永、姜文馨、李 永、沈相學、閔
種黙の七名の朝士と、随員十四名、従者、通訳十三名の一行は、まだ
仕事を終えていない朝士たちを残して横浜を出航した。十五日には趙
秉稷、洪英植、李元會の三朝士等が魚允中に見送られて横浜を出航、
十八日に神戸で合流した。洪英植や李元會は銃器や弾薬の購入手配も
済ませていた。朝士たちは二十二日に三菱の千歳丸に乗り込み、兵
庫県令森岡昌純と花房公使の送別を受けて出航した。花房は乗船して
彼らを送ったという。魚允中はその後もしばらく日本に滞在してい
た。交詢会のメンバーになったともいわれているが、十月二十三日に
神戸で第三次修信使趙秉鎬と会い、その後長崎を経て上海に向かい、
天津で李鴻章と会談を行った。再び長崎に戻り、修信使一行と合流し
て帰国したのは、十二月三十日のことである。 (
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00) 先発した朝士たちは八月二十六日、釜山に入港して領事近藤真鋤の
迎えを受けた。近藤は九月二日、外務卿井上馨に宛てて次の様に報告
している。
本月(八月)廿六日入港ノ郵船千歳丸ニテ朝鮮紳士朴定陽以下八
名、随員及中野七等属等無恙帰港致候ニ付、直様本館ヘ招請、茶
菓ヲ供シ暫時休息為致候処、孰レモ旅寓中格別ノ御懇遇ヲ受ケ、
諸取調事件ハ勿論各処見物ニ至ル迄首尾克相了リ、欣幸ノ趣厚謝
申出、豆毛弁官所迄引取リ、翌廿七日東莱ヘ相登リ候由。尤モ当
日ハ下官東莱府使ヘ引合事件有之相越候序、其旅宿等ヘ訊問致度
申遣候処、朝士一同下官休息所迄罷越、帰京差急候ニ付、明廿八
日ヨリ各出立致候旨噂有之候間、尋常ノ談話而已ニテ事情相探リ
候余暇モ無之相別レ申候。
近藤は彼らから「諸事情」を探りたかったようだが、彼らが帰京を
急いでいたため、その余裕がなかったとしている。
朝士たちはその後、各所に別れて収集した資料の整理をし、国王へ
報告する準備をしている。例えば朴定陽は九月四日に大邱の把溪寺に
着くと、翌日から十人の役人を集めて書類の整理に取りかかり、その
後漢城へ旅をしながら作業を続け、最終的にこれが終わったのが十月
二十日である。翌日城外へ泊まり、二十二日に趙準永、嚴世永、姜文
馨、李 永、沈相學と共に高宗へ「東莱府暗行御使」としての復命を (
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果たし、書類を提出した。洪英植、閔種黙の復命は二十三日、趙秉稷
は二十四日であった。朝士たちの任務は、翌年二月二日の魚允中の
復命をもって終了する。金鏞元もしばらく日本に留まったとみられる
が、その後の様子ははっきりしない。
その後朝士たちは統理機務衙門の改革に伴い、視察担当に相当する
部署に登用されて、高宗の開化政策に従事したと思われる。ただ彼ら
が日本の現状を肯定的に見ていたわけではない。彼らの復命の内容を
分析した許東賢氏は、肯定的にとらえていた者は魚允中と洪英植だけ
であり、朴定陽など八名は否定的だったとしている。
一方日本では朝士たちの視察が今後の朝鮮に及ぼす影響を、期待を
もってとらえていたようだ。朝鮮における頑固な守旧論は単に「無知」
であるからに過ぎず、日本の現状を知れば自ずと開化に向かう筈だと
楽観的に考えていたと思われる。
しかし実際はそれほど簡単なものではなかった。洪英植はこののち、
金玉均等と共に急進的な開化派の一員として甲申政変を起こし、そこ
で命を落とすことになるが、視察団来日時点で最も急進的な開化派と
見られていた魚允中は、その後清国側に近づき、日本政府から警戒さ
れるようになるのである。日本側から見た視察団の意義については今
後の課題である。
一八八一年の朝士視察団は一応無事に終了した。朴定陽はこの年の (
0)( 0)
(
0)(
0) 日記の末尾に、「日本国遊覧二百五十七日、我境滞留一百四十二日、
彼境遊覧一百十五日」と記している。高宗から命を受けて出発し、
復命するまで二百五十七日の日々であった。
【註】 [史料の年代は、特に断りのない限り、一八八一年のものである。]
(
)『対韓政策関係雑纂明治十四年朝鮮国視察員朴正陽来航一件』(以下『来 [ママ]
航一件』)一八二・一八三。外交史料館蔵。なお史料番号は、アジア歴史資
料センターがデジタルアーカイブとして公開している、コマ番号による。
(
)拙稿「一八八一年朝鮮朝士視察団(紳士遊覧団)の来日─外務省の対応を
中心に─」(『清泉女子大学紀要』第五六号、二〇〇八、二七〜四三頁)(以
下拙稿①)。
(
)魚允中は来日予定とされていた閔永翊の随員も同行したと思われる。兪吉
濬、柳定秀、尹致昊は日本留学を目的としており、来日後慶応義塾や同人
社に入学している。拙稿「一八八一年朝鮮朝士視察団(紳士遊覧団)の日
本派遣─日本側から見た派遣経緯─」(『清泉女子大学紀要』第五一号、
二〇〇三年、四九〜六八頁)参照。
(
)随員の身分は、鄭玉子「紳士遊覧団考」(『韓』三─五、一九七五、阿部洋
訳)一四頁参照。原文は一九六五年刊の先駆的論文である。
(
)許東賢編『朝士視察団関係資料集』全十四巻。国学資料院、二〇〇一年、
ソウル。
(
)『従宦日記』と『従政年表』は『資料集』の第十三巻、『日槎集略』は第
十四巻所収。
(
)註( )参照。
(
)六月二十六日付『朝野』。前日付の興亜会会合出席者の訂正である。
(
)『来航一件』一九八、『従宦日誌』、『日槎集略』等による。 (
0)( 0)
(
0)許東賢「一八八一年朝鮮朝士日本視察団に関する一研究─『聞見事件類』
と『随聞録』を中心として─」(『神奈川法学』、三七─一号、二〇〇四年、
郷田正萬・吉井蒼生夫訳)一八七頁。
(
)拙稿「一八八一年朝鮮朝士視察団(紳士遊覧団)の釜山集結と新聞報道」
(『清泉女子大学人文科学研究所紀要』二九号、二〇〇八年)一一頁。
(
)五月二十日付『朝野』。
(
)高永喜はこのとき正四品、第一次修信使の際上官として来日しており、内
国勧業博覧会褒賞式には、十二名の朝士と共に招待を受けている(『来航
一件』一八一)。
(
)『日槎集略』陰暦五月八日条。
(
)『日槎集略』陰暦五月十二日条。
(
)『来航一件』一八六。
(
)六月二十五日付『東京日日』。
(
)『従政年表』一九五頁。
(
)『来航一件』一六六。拙稿①三三頁参照。
(
0)拙稿①三五頁参照。六月二十日付『東京日日新聞』。
(
)秋月望「末松二郎筆録談に見られる「近代」─一八八一年の「紳士遊覧団」
との交流を中心に─」(『近代交流史と相互認識』Ⅰ、日韓共同研究叢書、
慶應義塾大学出版会、二〇〇一年)。
(
)内務省に関しては六月九日付『郵便報知』。他は『来航一件』一五四、二一五、
二二九、二三八。
(
)『来航一件』二一五〜二一八。
(
)『来航一件』二六一。
(
)『来航一件』一八五。
(
)六月一日付『東京横浜毎日』。
(
)『日槎集略』二五頁、陰暦五月十四日条。
(
)六月十六日付『郵便報知』。
(
)六月十三日付『郵便報知』。 (
0)六月十五日付『朝野』。
(
)六月十五日付『東京日日』。
(
)六月十七日付『郵便報知』。
(
)六月三日付『東京日日』。
(
)七月十五日付『朝野』。
(
)当時農商務省は内務省構内にあった。『従宦日記』二九九頁、陰暦五月五
日条。
(
)『資料集』に収録されている『従宦日記』は、高宗十八年から二十年の記
録であり、終始一貫した丁寧な書体で書かれているので、実際にはいつま
とめられたのかはわからない。
(
)『従宦日記』二七三─三二二頁。
(
)六月二十五日付『東京日日』。
(
)六月四日付『東京横浜毎日』。
(
0)前掲許東賢論文に一覧表が掲載されている(一九三頁)。
(
)朝士たちの多くが東莱暗行御使として任命されている。この任務は極秘と
されており、本来ならば漢城外で命令書を開封してそのまま旅立つもので
あった。
(
)前掲許東賢論文、二〇三・二〇四頁。
(
)『日槎集略』二五頁、陰暦五月十四日条。
(
)同右、二三頁。陰暦五月三日条。
(
)註(
)に同じ。
(
)六月一六日付『郵便報知』。
(
)『従宦日記』三〇二・三〇三頁、陰暦五月十九日条。
(
)『日槎集略』二六頁、陰暦五月十八日条。
(
)五月六日付『東京横浜毎日』。
(
0)五月二十六日付花房義質宛近藤真鋤書翰(『花房義質関係文書』一一〇─
三五)。『花房義質関係文書』(以下『花房文書』)は首都大学東京付属図書
館蔵。本稿ではマイクロフィルム版(北泉社、一九九六〜七年)を使用する。