長崎河岸研究覚書
流路変遷と舟運との関連を志向して
大木
5'川の流れの検証試案
‑緒言にかえて‑
‑'二つのサイロ掘り
一昨年の八月下旬から九月上旬にかけて'ごく近隣地で二つのサイロが掘られた。1つは、天童市寺津'といっても
私の宅地の一部を含む旧〝砂河原〃地内に'もう一つは'東村山郡中山町長崎の三軒屋地内に。いずれも'米作農業の
行きづまりから、酪農に活路を兄い田そうとする農家の'残暑未だ消えやらぬ下での作業だった。ただ'前者は旧地名
の示す如く、河岸段丘の砂地'いくら掘りさげても砂地ばかり。後者は同部落の中でもやや高台に位置し'約四〇糎以1下は赤味を帯びた粘土層。果たせる哉'後者の地中から一〇数片の縄文後期の土器と、平がま跡が発見され和。
長崎河岸研究覚書
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大木三五二
注川昭和四五年九月山四日付山形新聞夕刊及び「町報なかやま」昭和四五年九月1五日号に詳報されている0
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㌧二つの地をめぐる伝承三軒屋地内での発掘作業は二度にわたって行われたが'土器発見を聞きつけた農夫たちは'現場に立ち寄っては幼な
時の聞き伝えをしゃべり始めた。「この辺は'もと須川が流れたそうだ。」「最上川が流れていたとのことだよ。」と。事
実、現在同部落の西側から北側にかけて'大きく河岸段丘の跡があり、三〇〇米ばかり離れた南西の文新田部落方面か
ら小川が流れてお‑'時折'洪水のために同流域の水田が冠水のうき目にあっている。また、東側落合部落との境に、
やはり文新田方面から'ごく小規模の用水が流れ込み'その落ち口に'種々の伝説に満ちた〝仏沼〃が現在し
それは、同部落の北側に沿う一段低い地帯の集合地点でもある。
こうして'今のところ長崎地区では始めて縄文土器がこの地から発見されたり'一〇年程前、同部落北西部の物見台23地区から立派な土師器土器が発掘されたりし丹ものの'現在の部落は落合部落の延長とみられ&.さらには'落合部落
にも〝上赤坂
〃
の地名があり'今もって寺津の地籍があることなどは'応永年間'寺津の日枝神社が建立される以前4は'落合の熊野神社が寺津の産土神であったという古私鍬などとあわせて'長崎落合すらも川の流れの変化による発生地だろうと思われるのである。一四世紀半ば頃では'中の目・落合・藤内新田は不戸だったという古記録や、「ずっと
昔'最上川は長崎本町の西と南を通り'文新田・三軒屋・落合から、寺津の砂河原を流れて、藤内新田の〝古河〃に廻
った時代があった」という伝承も、古い村絵図や地形図・地名などから、全く根拠のないものではないといえるのでな5かろうか。
寛政二年のものかといわれる'山形大学附属図書館蔵﹃土屋儀兵衛文書﹄に、「往昔ハ左沢川'寺津二而落合候故'
6寺津ハ最上川之内也、後本楯江押切侯大川故・・・・・・寺津向二長崎之枝郷二落合村と言有之」とあB.また、文新田の服部
文右衛門家文書の中、慶応三年の願書に「⁚‑・先文右衛門代文政七申年之大洪水二而須川馬見ケ崎両川より水溢れ人命.Ⅵ'二者無怪我侯得共家財諸道具悉ク流失仕・・・‑」とあって他の資料と符合す数のであるが'落合にしろ'長崎にしろ'さ
らには寺津にしろ'上流からの流れを集める傾斜地に位置する川沿いの集落が、たえず河身を大きく変え'舟運拠点を
も移動させたであろうことは'容易に想像されるところである。
注即国井霞村編﹃中山の民話﹄所収〟仏沼と龍神″に'最上川の流れがだんだん北の方に移動して'この場所に水が溜まり沼
となった最も清浄の地を部落民は仏沼と呼び水葬の場としたといい'落合渡船場の川ふち大杉などを名残りだと説く。
㈲﹃山形県史考古資料編﹄所収'図録九七五
'‑
九七七'解説一五〇 ‑
一五一頁㈱拙稿﹃最上川舟運関係資料(中山町)その一﹄'地名の由来と思われる同部落の最古の三軒を尋ねても'もともとは
落合にあるようだし'宝暦一〇年の長崎村明細帳(長崎岸角兵衛文書)にも「二枝郷弐ヶ所文着荷門新田・落合」
とあって'三軒屋はでてこない.またへ天明八年の長崎楯付近近古図(﹃中山町史資料福一﹄口絵)にも枝郷落合は
あるが三軒屋はない。それが天保一四年の村絵図(中山町役場所蔵)には'端郷三軒やとして三八軒が明記されてい
る。
(7日 6日 5日 4)
大木穐山翁古記録、﹃水郷寺津史﹄二六頁'四三三頁
同着古記録及び享保年間以降幕末にわたる一五点ばかりの寺津を中心とした最上川川欠絵図面(大木所蔵)
山形市史編集資料第二二号﹄二七頁
児玉清一編﹃文新田資料服部文着荷門家文書﹄、﹃水郷寺津史﹄一八一頁などo
長崎河岸研究覚書!大木
三五四
二'長崎河岸変遷の論証
1、高瀬山をめぐりにめぐって
長崎と左沢問は、平均八〇〇分の一の傾斜で長崎下流より急となるという。昔は、この間に位置する高瀬山付近で大
滝となって村山盆地に落ち込んだことから'この高瀬山の下川向いに〝大滝原
〃
の地名が生まれたのだと説かれる。事実'今もって'左沢線羽前長崎・南寒河江問の鉄橋下の川原に立って川上を眺望するに'小塩部落北側から大きな落差
をもって急カーブする最上の流れをみることができる。確かにこの地域は'地形的・地質的条件のために、年々再々洪1水に見舞われ、本流の川筋を我物顔に移動させてき&.従って'河港としての役割は'すでに中山氏築館当時より果た2しておっただろ気か'その不安定さは、その後の河岸制度の整備につれて'船町・寺津・本楯等にその比重を譲らざる
を得なかったものと思われる。
元締六年から七年にかけて'米沢上杉蒲では西村久左衛門らによって'左沢・黒滝の難所を開き'荒砥から長崎まで3の舟路を完成したことは画期的なものだが、元締六年(ハ九三)当時'高瀬山の御林は長崎舟場より舟送されてい群。
その数二千二一五本というからへかなりの規模を有した舟場とみてよかろう。
注Ⅲ中山町長崎の円同寺文書に「‑‑元締之度より追々最上川欠込侯間‑⊥享保十二未年現在地に移転‑‑宝暦七丑年大洪水
にて旧寺跡一町人反歩の中七割まで川欠にあって流失・・・‑」とあり'また'同町土橋佐東彦右衛門家文書に'安政六年の
大洪水以来'大滝原から上河原地区の川欠が年々ひどく領主側への見分'堤防工事の願書を提出しているが'明治の初年
になってそれが認められ一〇〇問にわたる大がかりな堤防工事が長崎・小塩・岡・土橋四か村合同で行われた詳細な内容
が控えられている。他に'押棒常太郎著稿本﹃寒河江町史(部落編下)﹄や'長崎・寺津の古絵図からも最上川流路変動
がわかるLt長崎の上河原・申河原。川端・下川などの地名もその由来を物語っている。
㈲長崎中山氏の祖'継信が'伏熊・用・深沢・中郷などの高地から'舟運の便利な川沿いの肥沃な地を選んで至徳元年長崎
に館を開き'孫の宗朝代文安二年に城池が完成したといわれるが'この頃に新地開発も大いに進み'城下町の整備と共に
舟着場の利用は地方商人ばかりでなく'外来の大商人も入り交って'にわかに活気を呈した。東海林荘九郎著﹃中山鏡﹄
参照
㈲寒河江史編纂書祷1二輯﹃村書上げと廻米資料﹄所収'寒河江領御林反別本数帳
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、酒田の豪商尾開又兵衛を相手どる享保四年(一七一九)七月'長崎村の訴訟人理右衛門は、庄屋長石衛門と連名で'尾関叉兵衛を糾弾して漆山御役所
へ願い出た。事の次算は次のとおりである。
漆山御領の江戸御廻米遅賃金の中、五〇〇両を為替で売払ったのに'叉兵衛が何やかやと三六〇両を滞らせており'
大変迷惑している。どうも返す様子もないので、右金子を早速堵明させるよう酒田御役所に連絡してほしいという'願lウ︼書のあらましであhS/Oこの理右衛門なる人物が、元禄年間大庄岸を勤めたという小野利右循門なるかは不明だが'いずO'れにせよ'当時これだけの衝に当たる経済力を彼がもっていたということ'そして「米六百俵余'大豆六十俸余」等々
の取引商人たらしめ得る舟場的機能も'その裏付けにあったのではないかと考えられるわけである。
﹃酒田市史史料編第一集﹄三十六人御用帳上所収'享保四年乍恐以口上書付奉顧候御事
長崎本陣は'古く小野利右衛門大庄屋の時、自己の屋敷(現役場敷地)をこれにあて'自分はその西隣元町地内に移った
とか'現在の円同寺寺屋敷は小野利看衛門の寄進によるなどといわれている。天保一四年の村絵図でも現役場敷地西隣り
にその名がみえる。
長崎河岸研究覚童早1大木
三五六
㈱注用記録
3、煙草船、落合河岸より下る
大石田町角吉右衛門文書から、船町河岸が延文元年(二二五六)に始まったのだということについて'当時の水路整1備上疑問視されている向きが多>T。それにしても、寛文一〇年(一六七〇)以前に船町の上流'山辺'吉原にも船で貨2物を送っ争というから'河岸制度云々は別としても、相当古くから船での貨物輸送が行われていたのは事実だろう。ま
して、下流の最上川沿いにある長崎地区の場合は尚更である。
山辺町大蔵の稲村七郎左衛門家文書によれば'享保五年(一七二〇)に大阪の大和屋作右衛門等に蝋を送ったときの
記録で'大蔵から山野辺までは長崎の善屋が運び'山野辺から長崎までは舟頭太郎兵衛が運送し'長崎から七郎兵衛が3上乗りとなって太郎兵衛の舟で酒田まで運んでいかし'船町の阿部三石衛門日記には'翌六年四月二三日に'八郎兵衛.4四般二二右衛門二娘・弥平治一腰の各持胎に煙草を積み、始めて須川下流の落合から川下しを行ったとあ聖水量の関5係で'船町まで遡るにも寺津で瀬取船に積替える必要が多かっねであろうから'船町経由の落合河岸まで駄送したこと6も十分考えられることだろう。事実'上山蒲の廻米も一時'落合から積下したという資料が残っているようであ聖
注
(5日 4日 3日 2日 1)
﹃水郷寺津史﹄二五五貢
同着二五五‑二五六頁
﹃山辺町郷土概史﹄三七八頁
﹃水郷寺津史﹄二五六頁
拙稿﹃最上川舟運関係資料(中山町)その一所収二