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アメリカ合衆国憲法と人間の尊厳Author(s)
青柳, 幸一Citation
聖学院大学総合研究所紀要, No.50, 2011.3 : 50-83URL
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アメリカ合衆国憲法と人間の尊厳
青 柳 幸 一
Ⅰ.問題の所在
近時﹆先端的科学/技術をめぐって生命倫理が論じられるようになってとりわけ﹆﹁人間の尊厳﹂は﹆相反する二つの機能を担わされている。一つは﹆人権の根拠としての人間の尊厳であり﹆それは自律=自己決定と結びつく。他の一つは﹆自律=自己決定の制約根拠としての人間の尊厳である。筆者は﹆このような﹆人間の尊論が担わされている二面性を﹆権利基底的人間の尊厳と義務基底的人間の尊厳と区分することで表している (1
(。どちらの人間の尊厳論も﹆I. Kantの﹁人間性の尊厳﹂︵Würde der Menschhe (2
(it︶を重要な淵源としている。一九四九年に制定されたドイツ連邦共和国︵以下﹆ドイツと略称︶は﹆その一条一項で人間の尊厳の不可侵性を規定している。ドイツ基本法における人間の尊厳に関して﹆すでにいくつかの小論 (3
(において検討していることから﹆本稿のテーマにかかわって必要な限りで﹆その意味内容を要約しておくことにしたい。連邦憲法裁判所の判例﹆そして支配的見解において﹆コンセンサスが成立しているのは﹆抽象的な次元にとどまっている。それは﹆人間の尊厳条項がドイツ基本法の最高規範であり﹆﹁根本規範﹂であること
. , 人
間の尊厳条項は﹆基本
権を新たに認める際の根拠であるが﹆他方で﹆基本権行使の制約根拠でもあること
. , 基本権制約根拠としての人間の尊 厳条項の特質は﹆それが絶対的に保障されることである。絶対的保障であることは﹆他の権利あるいは法益との比較衡量にかからないことを意味する。つまり﹆人間の尊厳に抵触する行為は﹆すべて違憲となる。それゆえ﹆人間の尊厳に違反するか否かは﹆人間の尊厳の定義次第ということになる。しかし﹆人間の尊厳の具体的内容を定義すること﹆とりわけ積極的定義の難しさゆえに﹆個別的・具体的なコンセンサスは成立していない。近時﹆人間の尊厳を﹁種の尊厳﹂と捉える見解も主張されているが﹆なお基本は﹆人間の尊厳は人格的人間の尊厳を意味する。ドイツでは﹆義務基底的人間の尊厳論が強く表れる。フランスの現行憲法︵一九五八年第五共和国憲法︶は﹆人間の尊厳という文言を含んでいない。しかし﹆フランス憲法院は﹆一九九四年の﹆いわゆる生命倫理法の合憲性を支持した判決のなかで﹆﹁種の尊厳﹂としての人間の尊厳論を展開している。判決によれば﹆権利﹆自由﹆ならびに憲法的原理を一括して﹆それらを再確認し﹆宣言している一九四六年憲法前文からして﹆あらゆる形態の隷従や堕落からの人格の尊厳の保護は﹆憲法的価値を有する原理である。生命倫理法は﹆人格の優位性﹆生の始まりからの人間の尊重﹆人体の不可侵性﹆完全性﹆ならびにその遺伝形質の世襲性の不在﹆そして種としての人の完全性のなかに存在する諸原理の全体を述べており﹆このように明言された諸原理は﹆人格の尊厳の保護という憲法的原理の尊重を確保することをめざすものである﹆と判示した (4
(。一七八七年に制定︵一七八八年に施行︶されたアメリカ合衆国憲法︵以下﹆アメリカ憲法と略称︶にも﹆人間の尊厳という文言は存在しない。アメリカでは﹆現在に至るまで﹆先端的科学/技術を直接的に規制する連邦法が制定されていないので﹆規制法の合憲性をめぐる連邦最高裁判所判決も存在しない。ヒト・クローニングに代表される先端的科学/技術の驚異的な進展に直面して﹆その制約根拠として人間の尊厳を強力に主張する見解は﹆アメリカにもある。その一つの例として﹆George W. Bush 前大統領の宗教的信念に基づく人間の尊厳論 (5
(を挙げることができる。また﹆倫理の
観点から﹆制約根拠として人間の尊厳を援用する論者もいる。たとえば﹆G. J. Annas は﹆ヒト・クローニングを人間の尊厳に対する深刻な脅威である﹆と主張している。そこで言われる人間の尊厳の内容は﹆﹁単に手段としてのみ扱ってはならず﹆常に目的として扱え﹂というKantの第二定言命法である。それは﹆アメリカでも﹆﹁最も感動的な一節﹂であり﹆﹁最も重要で最も大きな影響を与えた﹂命題であると評価されてはいるが﹆しかし﹆その具体的内容は﹁まったく明瞭ではない﹂と批判されてもいる (6
(。アメリカにおける憲法論のレヴェルでは﹆基本的に﹆選択の自由と結びつけて人間の尊厳が援用されることが多い。そこでの人間の尊厳論は﹆道徳的人格を有する本性的人間像ではなく﹆行為者︵agent︶としての人間という捉え方 (7
(である。ヒト・クローニング問題においても﹆ヒト・クローニングを用いて子供を産む権利を主張する論者が﹆その根拠として人間の尊厳を援用している。生殖の権利=基本的権利説を主張する代表的論者である J. A. Robertson は﹆すでに別稿で論じた (8
(ように﹆﹁私たちすべての人間の尊厳が﹆尊重されることを欲する﹂という主張から出発する。彼の言う﹁尊厳﹂は﹆自律﹆決定する自由﹆選択する自由を意味する。Robertsonは﹆最高裁判例も肯定する﹁産まない権利﹂︵避妊の権利﹆中絶の権利︶=﹁基本的権利﹂からその議論を種発させる。そこから﹆Robertsonは﹆産まない権利と産む権利はコインの両面の関係にあるので﹆産む権利も﹁基本的権利﹂である。その権利を実現するために﹆すべての手段を用いることが認められる (9
(。つまり﹆不妊に悩むカップルがヒト・クローニングという手段を用いて子供を産む自由も﹆﹁基本的権利﹂である。したがって﹆それに対する制約も最も厳格度の高い審査基準で審査されることになり﹆基本的に制約することは許されないことになる。このように﹆Robertsonの見解にひとつの典型を見出すことができるのであるが﹆アメリカにおいては人間の尊厳論は﹆権利基底的なそれが中心になっているように思われる。本稿で考察する核心的問題は﹆なぜアメリカでは権利基底的人間の尊厳論が中心となっているのか﹆である。まず﹆
どのような連邦最高裁判例において﹆人間の尊厳がどのような機能を果たしているのかを﹆確認したい。さらに﹆そのような人間の尊厳論のアメリカ的淵源を探求するために﹆植民地時代からアメリカ憲法制定に至るまでの政治思想を跡づける。そこから明らかになる理論的対立が﹆現代的リベラリズムとコミュニタリアン的共和主義の論争という今日の問題に結びついていることが確認される。
Ⅱ.連邦最高裁判例における人間の尊厳
1.人間の尊厳と選択の自由
ドイツの連邦憲法裁判所の場合には﹆判決において人間の尊厳が頻繁に登場する。他方で﹆アメリカの連邦最高裁判決の場合には﹆人間の尊厳が憲法上規定されないこともあって﹆人間の尊厳が判決で語られることは多くはない。そのような一般的状況のなかで﹆注目されるのは﹆生命の始まりと終焉にかかわる判決において人間の尊厳への言及が見られることである。
︵
認しておきたい。 プライヴァシーの権利の容認が起点となった。国家権力に対するプライヴァシーの権利を認めた二つの判決について確 連邦最高裁判決において自律論が明確に語られるようになった判決の流れを概観するためには﹆個人の権利としての 1︶プライヴァシーの権利
①Griswold v. Conneticut, 381 U.S. 479︵1965︶ Griswold 判決は﹆修正一条﹆三条﹆四条﹆五条﹆九条の各条項からの放射によって形成される﹁半影﹂︵penumbras︶を根拠にして﹆夫婦のプライヴァシーとして避妊の自由を認めた。Griswold判決は﹆いわば夫婦の寝室をプライヴァシー︵閉ざされた私的空間︶として保護し﹆﹁夫婦の寝室内﹂への警察官の立ち入りを認めなかった。そのことは﹆閉ざされた私的空間におけるある種の行為を政府の制約なしに保護したことを意味する。それゆえ﹆Griswold 判決を﹁プライヴァシーによって個人の選択が確保される (10
(﹂ことを認めた判決と位置づけることもできる。②Eisenstadt v. Baird, 405 U.S. 438︵1972︶
Griswold 判決のこのような趣旨は﹆一六歳未満の未成年者に避妊具の販売を禁じたニューヨーク州法を違憲とした Eisenstadt 判決において﹆結婚生活と関係なく﹆より一般的に拡大される。法廷意見は﹆﹁もしプライヴァシーの権利に何がしかの意味があるならば﹆それは﹆結婚しているか独身であるかにかかわらず﹆子供を産むか否かの決定のような﹆人に基本的に影響を与える事柄に対する政府の不当な侵入からの自由という﹆個人の権利である﹂︵405 U.S., at 453︶と述べている。このように﹆アメリカ判例においては﹆プライヴァシーの権利のなかに﹆いわゆる自己決定権が含まれている。
︵
Roe さらに﹆妊娠中絶を制約するテキサス州法を違憲無効とした判決 11( Roe v. Wade, 431 U.S. 6781973①︵︶ 2︶妊娠中絶の権利
(において﹆プライヴァシー権のなかに自己決定権が含まれることが﹆一層明確になる。法廷意見によれば﹆﹁プライヴァシー権は﹆……修正一四条に規定された﹃個人の自由﹄および﹃州政府の行為への制限﹄という概念に基礎をもつものであるが﹆……それは﹆〝妊娠中絶するか
しないか〟という女性の決定を含むほど広いものである﹂︵410 U.S., at 153︶。②Carey v. Populations Services International, 431 U.S. 678︵1977︶
Carey 判決において﹆初めて自律という言葉を用いてプライヴァシーの観念が論じられることとなる。法廷意見は﹆﹁﹃出産にかかわる個人の自律への憲法上の保護が﹆そのような要素に左右されるものではない﹄ということを明らかにしてきた﹂︵431 U.S., at 453︶﹆と述べている (12
(。③Thornburgh v. American College of Obstetricians, 476 U.S. 747︵1986︶ Thornburgh 判決では﹆﹁中絶をするか否かについての……女性の決定以上に﹆まさに正真正銘に私的そのものであり﹆個人の尊厳および自律にとってより基本的な決定は﹆ほとんど存在しない。そのような選択を自由に行う女性の権利は﹆間違いなく基本的権利なのである﹂︵476 U.S., at 772︶﹆と判示されている。このように﹆本判決では﹆﹁個人の尊厳および自律﹂と両者が併記された形で言い表されている。④Planned Parenthood of Southeastern Pennsylvania v. Casey, 505 U.S. 833︵1992︶
Casey 判決 (13
(では﹆ペンシルヴェニア州法が定める中絶に関する条件の合憲性が問題となったが﹆裁判官の意見が複雑に入り組み﹆同意意見と部分的反対意見がついている。当該州法は﹆インフォームド・コンセントを与えなければならないこと
. , 未
成年者が中絶する場合には﹆両親の一方の同意を得ることを原則とすること
. , 婚
姻中の女性の場合には﹆夫へ通知した旨を記載した文書に署名すること等の規制を設けていた。連邦最高裁は﹆それらの要件のうち夫への通知要件のみを﹆女性に﹁不当な負担﹂を負わせるとして﹆違憲とした。
O’Connor, Kennedy, Souter 三名の共同意見のなかで注目されるのは﹆尊厳と選択の自由との結びつきである。法廷意見によれば﹆﹁選択は﹆個人の尊厳と自律にとって核心である選択は﹆修正一四条によって保護された自由の中心に
ある。自由の中心部には﹆存在﹆意義﹆世界﹆そして人生の神秘に関する自己の観念を定める権利がある﹂︵505 U.S., at 851︶。そして﹆プライヴァシー権は﹁人間が生涯でなしうる最も親密かつ個人的な選択﹆個人の尊厳および自律にとって中心的な選択を﹂保護するものであり﹆﹁自由の核心には﹆存在﹆意味﹆宇宙﹆および人間の性の神秘についての各人の概念を定義する権利がある。もしこれらの事柄についての信念が政府の強制のもとで形成されるならば﹆そのような信念が人格の徳性を規定することはできないであろう﹂︵505 U.S., at 688︶﹆と判示されている。
Stevens一部同意﹆一部反対意見は﹆﹁憲法上の選択の自由の部分は﹆われわれすべてに与えられる平等な尊厳である﹂︵505 U.S., at 920︶﹆と述べている。
O’Connor ら三名の共同意見も Stevens 意見も﹆尊厳と自律とを併記しているが﹆両者の関係は分明ではない。どちらの意見も﹆尊厳を選択の自由と結びつけて捉えている。本判決では﹆女性に﹁不当な負担﹂︵undue burden︶を課するものでなければ中絶への条件づけを是認している﹆両意見が異なるのは﹆何をもって﹁不当な負担﹂と考えるかである。
︵
Cruzan v. Director, Mo. DepS. 2611990’t of Health, 497 U.①︵︶ 3︶生命の終焉と人間の尊厳 Cruzanは﹆一九八三年一月の交通事故によって遷延的植物状態になった。両親は﹆人工的な水分・栄養分補給を中止するように病院に求めたが﹆病院側拒否。両親はミズーリー州の事実審裁判所からその許可を得た。しかし﹆州最高裁は﹆州のリヴィング・ウイル法が定める書式または明確で説得的な証拠が必要であるが﹆本件ではそのようなものが示されていないとして﹆水分・養分補給の中止は認められない﹆と判示した。連邦最高裁は﹆五対四という僅差であったが﹆原判決を維持した (14
(。
法廷意見は﹆判断能力のある者には望まない医療を拒否することにつき憲法上保障された自由の利益を有するという原理の先例からの推論可能性を認める。そして﹆判断能力のない者の場合に関して﹆法廷意見は﹆下級審判決︵Superintendent of Belchertown State School v. Salkewicz, 373 Mass. 728[1977]︶に言及している。当該下級審判決は﹆重い知的障碍をもつ六七歳の男性がプライヴァシーの権利とインフォームド・コンセントの権利に基づいて化学療法の抑制を求める訴えを認めた判決である。法廷意見は﹆障碍をもたない人も障碍をもつ人も同じ権利を有する﹆﹁なぜなら人間の尊厳の価値は双方に及ぶ﹂という当該下級審判決の判示を引用している。にもかかわらず﹆法廷意見は﹆原判決を支持した。法廷意見によれば﹆判断能力を欠いているような者の場合には代行者による表明が必要となるとして﹆州は代行者に対する要件を定めることができる。なぜなら﹆州は人間生命を保護する利益を有するからである。しかも﹆﹁生と死との間の選択は極めて個人的な﹆明白でかつ圧倒的な最終性を有する決定である﹂ので﹆州は﹆この決定の個人的であるという要素をより厳格な証拠上の要件を課すことで保護することができる。州は﹆生命の﹁質﹂を考慮に入れずに﹆生命保護に対する無条件の利益を主張することができる。確かに家族は強い感情を有しているが﹆それは必ずしも利害を離れたものとはいえない。本件では﹆ミズーリー州法が課している要件を満たしているとはいえない。
O’Cooner 同意意見も﹆患者の尊厳を理由にして﹆医療方法を決定する自由を肯定している。それによれば﹆患者の意志に反する手続は﹆﹁患者の自由﹆尊厳﹆そして彼女自身の扱いの方法を決定する自由に負担を負わせる。適正手続条項は﹆医療行為を拒否する自由の利益を保障しており﹆水分・栄養補給も身体への侵入とその拘束を伴う以上﹆かかる医療行為に含まれる。さらに﹆代行者による決定も﹆必要な場合には憲法上認めなければならないことがある。判断能力を失ったときに医療を拒否することに関して﹆予め明確に表明しておく人は少ないのである﹂。
Brennan 反対意見︵Marshall, Blackmun同調︶は﹆いわゆる植物状態にある状態を﹁本人が尊厳を失った状態﹂と
捉えている。そして﹆反対意見によれば﹆Cruzanは﹆望まない人工的な栄養・水分補給から解放される﹁基本的権利﹂を有し﹆これはいかなる州の利益よりも優先する。州が定める手続は﹆過度の手続的障碍といえ﹆この﹁基本的権利﹂を侵害する。法廷意見は﹆治療を中止するという決定が誤っている場合に﹆取り返しのつかない結果を招くというが﹆そのことは治療を中止しないという決定が誤っていた場合にも同様である。本人の尊厳を失った存在は継続し﹆家族の苦痛は長引き﹆本人の残す思い出は歪められる。②Washington v. Glucksberg, 521 U.S. 702︵1997︶連邦最高裁は﹆憲法上の特別の保護が付与される﹆つまり﹆それを制約する法令の合憲性が﹁厳格審査の基準﹂によって審査される権利・利益を﹁基本的権利﹂と呼んでいる。Glucksberg 判決 (15
(では﹆自殺幇助器具を用いて﹁死を早める権利﹂が﹁基本的権利﹂であるか否かが﹆争われた。法廷意見は﹆﹁基本的権利﹂性の認定基準として﹆﹁高度に個人的で﹆親密な決定﹂アプローチではなく﹆﹁歴史・伝統﹂アプローチを採る。そして﹆法廷意見は﹆Cruzan判決との違いを強調する。Cruzan 判決で問題となったのは﹆﹁自分自身の死を早める権利﹂ではなく﹆﹁判断能力がある人の﹆生命維持のための水分・栄養分補給を拒否する憲法上の権利﹂である。それは﹆コモン・ローなどで長く保護されてきた伝統を有するので﹆﹁基本的権利﹂といえる。しかし﹆本件で問題となっている自殺幇助器具を用いて﹁死を早める権利﹂は﹆そのような保護を受けたことはないとして﹆﹁基本的権利﹂性を否定した。
Glucksberg 判決は﹆自殺幇助器具を用いて﹁死を早める﹂ことが個人の自律に委ねられた事柄ではない﹆とした判決といえる。
︵ Bowers v. Hardwick, 478 U.S. 1861986①︵︶ 4︶性的行為への寛容 Bowers 判決 (16
(では﹆ソドミー行為を犯罪とするジョージア州法の合憲性が争われた。判決は﹆七対二で﹆合憲判決であった。従来﹆連邦最高裁が﹁基本的権利﹂と認めてきたのは﹆結婚︵Loving v. Virginia,388 U.S. 1[1967]︶﹆子どもをもつ権利︵Skinner v. Oklahoma, 316 U.S. 535[1942]︶﹆自分の子どもの教育と躾を指図する権利︵Meyer v. Nebraska, 262 U.S. 390[1923]; Pierce v. Society of Sisters, 268 U.S. 510[1925]︶﹆夫婦のプライヴァシー︵Griswold判決︶﹆避妊具を使用する権利︵Griswold 判決﹆Eisenstadt 判決︶﹆そして身体の完全性︵Rochin v. California, 342 U.S. 165[1952]︶﹆そして中絶の権利︵Casey判決︶である。法廷意見によれば﹆ソドミー行為の自由は﹆﹁基本的権利﹂と認められているいかなる権利とも類似していない。﹁基本的権利﹂といえるのは﹁それを犠牲にしての自由や正義があり得ないような﹆秩序ある自由の観念に含まれる基本的自由﹂や﹁この国の歴史と伝統に深く根づいた﹂自由である。家族﹆婚姻﹆生殖と同性愛行為との間の関係は﹆何ら立証されていない。同性愛行為を高度に個人的で﹆親密な関係における行為と位置づけることも可能であるが﹆法廷意見は﹆﹁高度に個人的で﹆親密な決定﹂アプローチではなく﹆Glucksberg 判決が採用した﹁歴史・伝統﹂アプローチによって﹆同性愛行為を禁止する州法を合憲とした。②Lawrence v. Texas, 539 U.S. 558︵2003︶
Bowers 判決から一七年後﹆同性愛に対する社会的認知度も高まるとともに﹆連邦最高裁の裁判官の多くが交代した︵Bowers 判決に関与した九名のうち﹆五名が交代している。︶こともあってか﹆Lawrence 判決 (17
(は同性愛行為を規制する
州法を違憲とした。法廷意見で注目されるのは﹆尊厳と選択の自由を結びつけていることである。法廷意見によれば﹆自由は﹆住所や私的場所への進入から人を守るだけではなく﹆さらに空間的限界を超えてひろがり﹆思想﹆心情﹆表現﹆親密な行為の自由などが保護される。Bowers 判決は﹆﹁ソドミー行為を行う自由﹂の﹁基本的権利﹂性を問題にしたが﹆結婚が性交渉の権利につきるというのと同様に﹆主張を過小評価している。本件州法は﹆性行為を禁止するだけではなく﹆選択の自由に含まれる人間関係の構築をコントロールしようとしている。成人はこの関係を構築して自由人としての尊厳を保つのであり﹆憲法は同性愛者がこの選択をする権利を認めている。法廷意見は﹆Bowers 判決が依拠した歴史に関しても批判を投げかける。ソドミー処罰の歴史の起源は古いものではなく﹆各州が同性愛行為を処罰対象にしたのは一九七〇年代以降である。また﹆Bowers 判決時には二五州にソドミー法があったが﹆現在では一三州に減っている。そして﹆その一三州においても﹆合意に基づく大人の私的なソドミー行為に対してはソドミー禁止法が執行されていない。同性愛者も自律に基づく核心的な選択を追求することができる。諸外国も﹆同性愛行為を容認する方向にある。先例拘束の法理に基づく反対意見に対して﹆法廷意見は﹆先例拘束の法理は判決の尊重と法の安定のために重要だが﹆絶対的ではないし﹆Bowers 判決は変更を許さないほど個人と社会の信頼を得ていない﹆と批判する。適正手続条項の自由に対する権利は﹆政府の干渉を受けずに行為に従事する完全な権利を与える。問題となっている州法は正当な目的を促進せず﹆個人の私生活への干渉を正当化できないとして﹆法廷意見は当該州法を違憲とした。先例拘束の法理に基づいてBowers 判決を変更することに反対する反対意見によれば﹆ソドミー行為は﹆歴史と伝統に根ざした﹁基本的権利﹂とはいえない。法廷意見による外国の事例への言及も﹆無意味な傍論にすぎない。民主主義的手続によって同性愛者の地位向上を図るのはよいが﹆新たな憲法上の権利を創造するべきではない。