近世に於ける赤穂藩財政と塩田地主との封建関係
(そ の 二)
河 手 龍 海
1
筆者は先に、 「日本塩業の研究」 (第五集)を通じて、天 明期から天保期に至る赤穂藩の財政と、赤穂在地蔵元用達層 との財政的関係を記載し、併せて、同報の藩政改革を究明し た。本四はそれ以後の状態を記載し、もって、この研究の完 成を期したい。
元来、藩と出入り商人との研究は、必ずしも絶無ではない が、その具体的且緻密な復原は、必ずしも多くない。筆者は 多年赤穂藩地方史料を披見する膚に、この問題に興味を覚え ここに一文を草して、出来るだけ具体的に紹介することにし た。将来、この方面研究の何らかの参考になれば望外の仕合 わせである。
2
天保十二年、幕府のいわゆる天保改革に歩調を合わせて、
天保十三年に「取締改革令」を出した赤穂藩は、f諸事倹素、
奢普選風儀相止」ることを指示し、翌十四年には御幸触をも って改革筋のゆるまないようとの再確認がなされた。
当時、赤穂藩財政関係者は判明する限り次の人々である。
家老、森扉体、勝手桂1用人、松本太郎左衛門、村上真助、
勘定奉行、竹内操、木村直理、同下役、小川彦六、西川喜六 西川好之介。
弘化三年、藩財政窮乏に困惑した赤穂藩は在地蔵元、御用 達の代表を城中に招集し、小書院に於いて、家老、用尺、町、
勘定両奉行、大目附参席のもと、藩主の意を伝へ、更に、勝 手方用人村上慎助によって、次の如き意向が述べられた。
「只今御意被為遊候題、敦も出精相勤卿満足被為遊、追々御勝 手向御弛も可被為付之処、兎角御公私臨時之御物入多く、御凌付 かたく御苦慮被為遊、右二付御年限中ながら、猶又三ケ年之間御 手元始回向厳敷御省略御取締被仰出恐入候。本崩御不義理之御仕 向之処、敦も不時節難渋凌候テ御用弁相勤呉候処、前条之御成 行、御気ノ毒卜思召、懸り役,6一も恐入、敦ヱも対し千万t鬼入候事 二候得共、猶無理成る義相達し候事も可有之、甚タ迷惑可致候得
共、厚ク致勘弁、出精相勤候様、御頼被仰出候問、無御拠次第恐察 仕、御守申上質素節倹相守出精相勤可申候。」
右の史料に拠ると・藩の意向は改革年限中を更に三力年厳 しく省略節倹するから、献金融通をはげむようにと読みとれ
るQ
ところで、改革中というのは藩財政改革中の意味であるか ら、その申で、特に何年間か緊縮をはかるというのは、従来 の藩政改革が不十分で、全く、お題目に終っていたことを意 味する。従って、改革をひきしめようとする意図が窺えると 共に、かくすることによって、蔵元・用達層から多額の融通 金を都合させるよい口実手段ともなっている。
蔵元・用達層は、長年の融通献金に対し、歎願書を提出す る用意をしていた時のできごとであっアこ。この時の藩命を記 すと、
「御勝手向州差支之上、当暮ハ御収納ハ何心と下方多く必至郵 差支二付、江戸表御下金之御凌も付かたく候間、他邦ニテ御借入 租約定相整候処、先方不融通之ew =テ、来春迄延引断申越し、差 当り御融通付かたく、本ム御勝手向之融通ハ御軋座ニチハ不成御 法と候得共、差懸り候之間、不得己当分之事故、同所ニテ振替相 成間敷哉之処及内談二候へ共、同所も浜方8之入物ハ不時節ニ テ、例年6ハ減少折から自然と拝借之戻り札ハ少く、其上追々拝 借願ハ多、来月二も至候ヘハ、村々井浜方!i之拝借願も例年1, ハ 多数之拝階願出候様可相成候得ハ、甚以御心配ごとに可有之、乍 去御貸付無之テハ浜方凌も付かたく、猶村々之上納皆済二も差支 候様可相成ハ必定二可有御座候間、当薫別テ於御札座ハ街勝?方 工暫次之御儀なからも御取替ハ難出来候段申出、・…・無御拠次第 二付、金四千両来三月迄借入相働振替御聞を合候之様御頼被成 度、差懸候事故敦も心配ニハ可有之候得共、無余儀次第、恐察い たし厚く致勘弁候テ御用弁相勤候様有之度頼入候、爾委細ハ竹内 操5及内談可申候、」
という内容のものであった。この史料によると、札座より 融通金調達の意向か見られる。然し、札座は村方・浜方への 融資が主体であるので、この金を藩下金に使用するのは不当
Q8一
津山高専紀要(第1巻)
である。そこで、新たに蔵元層による他借の線が打ち出さ れ、三木・奥藤氏らの大坂での借入がきまって上坂、柴原氏 は既に三干両姫路、大坂から借入して三座へ提出しているの で、今回の融通は免除されるということになった。
以上のことから考えれば、融通でき難い三座資金を流用す るため、改革年限中に特に倹約年限を設けて、蔵元層に融通 させたと考えられる。
右の如き藩の動きを警戒した蔵元層は、弘化四年正月歎願 書を提出し、
「私共工も当分御借入等毎々被為仰付、兼々結構被目窪付蒙御 高恩候、私共儀色々相働他邦借入等仕、可也二御間を合セ来リ候 処、高岡年別テ浜方不景気、甚以不融通心配仕候、右之趣ニチハ 此後他邦借入等も容易二難調、此ヒバ所持之田畑塩浜郵相渡シ候 テハ相談も難相調,右成行候得ハ、自然と商売元手も手薄二相 成、年々仕送来り候東西浜人共工も無拠仕送り三儀相断候様成行 可申と奉存候、左略記ハ乍恐繭年貢御運上等相滞不納御歎奉申上 一様二至候テハ不一儀甚以北入奉存候,……是迄之成行ニチハ此 巳山之立行甚無心元、御用御間閾二相成候様成行候テハ、重々奉 恐入必至当惑心配仕候。則去ル文政六未年二も御浜申上奉伺候 通、何卒此所店卸配慮被為成下候テ」云々。
交政六年の時同様に、融通他借をストップしてくれるよう 申し出ている。右史料の如く弘化三年は塩田不景気で家業困 難もあったかと思うが、矢張り根本は藩の無制限な融通金調 達に対する予防策と受けとれる。
そこで、このような蔵元層の抵抗に対し、赤穂藩は弘化四 年早速塩田直方取締り、及び倹約諸訳を布告して対抗してい る。この時布達した塩業上の取締りは、地主・小作・浜日雇 の勤労に対するものである。そのめぼしいものを列挙すると
(一)塩田地主で手作地をもっている者は代人を定めて日雇同 様に勤務させること。富裕者といえども遊芸などにふけらな いこと。(二)小作人は家族人ともども、日雇同様に塩田に毎
日出て働くこと。(三)浜日雇の者は、朝五ツ時までに塩田に 出て、終日塩業に従事すること。㈹ 商人などで浜山を行な い、不案内のため、塩浜共同体の規約違反を行なっているの をさしとめる、ことなどが述べられている。倹約諸令の内容 は、音信贈答、奪始諸儀式、遊芸、茶道具、建築、仏事、祭 礼、着服、頭髪、履物、宴会、など日常生活すべてにわたっ て、厳重な倹約取締令が布達されている。このような藩の指 令に呼応して、蔵元層も、各「自家倹約定」を定めて、これ に協力を示した。蔵元柴原家の場合を見ても、十力条以上に
わたる「自家倹約定」を残している。
弘化四年i八月、招集をうけた蔵元層は江戸下し金八百両の 融通を下命された。柴原三十郎は直ちに勝手懸り用人松本、
.村上の両氏と折衝、結局五百両の線にひきさげることに成功 した。この動きと並行して、赤穂藩は大坂出入り商人、平野 屋仁兵衛、加島屋作五郎、炭屋彦五郎の三名の手代を内用と して赤穂へ呼びよせ、宴席接待にこれ勤めながら 融通金調達 の途をはかった。また、加東郡吉郎太夫三女蔵から銀百五十 貫目の借用に成功し、柴原甚十郎、三木弥次郎両名の借用印 形を終えた。
右の如き、旧び重なる藩への融通金も、蔵元層への返却は 滞りがちで、嘉永元年末の史料によると、他国借入のよんど
ころなき分のみ一部返済し、他はすべて断り延べの方針がと
られた。
3
嘉永二年になると、蔵元層に対する赤穂藩の積極的抱合策 が見られる。即ち、勝手御門方御内用懸りの任命がそれであ
る。
柴原甚一1・郎 寺田弥二郎 三本長之介 田淵新次郎 寺田佐之介
其方共儀、兼テ御改革中二付、勝手御凌万御内用懸り被仰付候 閥、御為筋之儀、万端無遠慮延原小一郎エ致内談、差図を受出精 相勤可酒淫。
酉二月
右史料中の延原小一郎とは、藩勘定奉行のことである。三 五名の蔵元層を御内用懸りに任命したことの真意は、より一 層の藩財政参画を計画せんとする藩側の意図によるものであ る。現に、このことがあるや否や、領内荒備金の預りと、最 合講、鰍賦調達講の徴収及び賦課の仕事が課せられている。
嘉永二年は、藩主が江戸常盤橋御番所御用を幕府に命ぜら れた年である。幕府の公役に就くのは名誉な事であろうが、
幕末段階にあっては費用の点から、むしろ迷惑としたところ であろう。この公役就任は早速財政にひびいている。具体的 に記載すると、これが費用捻出に困惑し、早速、国もと蔵元 用達層に命令し、秋年貢とひきかえに、資金、六百両の他借 を要求した。蔵元上席柴原甚十郎は、播州竜野におもむき、
竜野の商人栄治方から借りうけ、藩勘定所へ捉出した。
河手龍海
連年にわたる藩借財の累積、加うるに、公務、不時の入用 による追加、この借財を整理するため格別の倹約、返却の断 り延べなどを実施してきtc赤穂藩も、どうやら、その限界が やって来た。そこで、嘉永二年、常盤三三門番の公役を機会 に、同年六月藩主の直命をもって、蔵元御内用懸りに、財政 再建の委任命令が下達されtこ。その直書を紹介すると次のと
うりである。
御直書写
勝手向東西共必至差支、中にも当表之処、扶持も行届兼当惑之 事二候。然ル処、今般常盤嬌御門番田仰1寸、殊臨御普請中不時物 入等も格別昌昌ニテ役人共一統心配之段察入候。勿論在所表之成 行学容易即下テ、何等も当用之仕送り心痛之段買入候得共、何分 役場中ト申、呉々も此.ヒ可成丈之儀下シ金取斗呉候様精々可自重 候。掬勝手向之儀是迄重役共、精々骨折致精勤諸候得共、兎角不 時節、彼是以借財弥増、既二公務差支之場とも至り回申令苦慮 候。依テ致熟考候処、最早此上趣法致方も有之間敷候間、勝手成 行借財之次第共委細蔵元共工相任セ、借財凌方趣法相立候様致度 我等存:念之処、釆女、主税始メエ篤ト申談執斗呉候様洞門。
閏 四月八日
右の直書が藩主自身の独断によって発動されたものでない ことは、赤穂表の財政掛り担当の村上慎介が上摩して持ち帰 ったことから想像される。
この直書を受けて内用懸り蔵元層は困窮心配した。然し、
藩側から、 「何分一朝一夕に参り候儀二野御座程、追々帳面 等も御目二懸篤ト談シ二一二段」と申し聞かされて、一応領 主にはお請けする返信を送った。
さて、財政委任を受けた蔵元層のその後の動きを記載す る。まず、藩財政の実体を把握する必要上、勘定奉行から示 された、 「御収納井諸運上物之内諸御入用請払調帳一冊」 「 名前印形御借入之分凡調帳一冊」「御借財凡調帳一冊」剖三 冊を研究した。その結果、彼らが把握した藩財政の概要は次
の諸点に要約できる。
一、一ヵ年の収納物総高と、支出高とを差引きすると、完 全に赤字がでること。
二、従来からの借財高、新古すべてを合計すると約二十七 万両余もあること。
この内容を見て、内用ilEFり蔵元層としては如何に取り扱う べきか途方にくれた。のみならず、藩の意図がいずこにある かも不明故、先ず、内々に藩の今回直命の意図をただすこと から始めた。その結果、蔵元層がつかみえた内容は、「先差 当り名前印形」を勘弁してもらうことと、「何れ丁丁え口々
近世に於ける赤穂藩財政と塩田地主との封建関係(その二)
書き分ケ御見セ被F候筈」とのことであった。
従って、右の状況から推測すれば、長年にわたる蔵元層に 対する他借の際の名前印形がたび重なり、蔵元層のこれに対 する抵抗があり、これをおしきって他借印形を実施する為、
手段として領主の直書を持ちだし、財政委任の形をとったも のと思われる。
財政委任のことがあって後、早速急を要する借金返済の借 替の件が起った。金額は約九千両である。借替の対象者とし て、江戸藩邸出入り商人中世氏及び長島屋両家が函迫として 挙った。然し従前から両家よりの借金は多大であるので、全 額右両家に借替を依頼することは至難であった。そこで案と して、中世氏より四千両、在地で五千両都合つける議が藩側 から提出された。然し、蔵元層で五千両は到底至難の事であ ったので、種々折衝の結果、中世昌三郎より三千両、その印 形は蔵元が行なうこと、残りは赤穂表勝手方より融通する。
但し、その金は蔵元層が毎年提出している定用金をもって当 てる、ということで結論を得た。
この件が結着した嘉永二年十一月、赤穂藩は蔵元・用達の 労をねぎらう意味で、彼らを赤穂城内小書院へ招集し、家 老、用人、各奉行立ち会いのもと、夫々紋服一表つつを拝領
させた。そして、続いて、次の如き令達を下し、赤穂藩の決 意を表明した。
「唯今、御意之趣被平出導通、何レも出精相勤、被遊御満足候 追々御勝手御子も可被顎付之処、兎角御公私余時之御物入多く、
御勲章移付かたく口遊,御苦慮候。右二付、尚又来戌歳5子心迄 三カ年之間、御勝手元を始、東西御家中諸御役所ハ勿論、諸向厳 敷御省略御取締落部出一二付、其方共も、御年限杁諸事是迄同 様相心得可申候。元三御不儀理御仕向年々二及候、何レも別テ難 渋之塾風凌キ、折角御用弁相勤呉候処、何分前条之御成行、己二 当夏雲頼二短日候爵も有之、此程も又無理成立被仰出冷暖毒二王 思召、懸り役兵も伺レェも対し、擁淫辞事二面。来春ハ早々左吃 活仏本立、御仕法も面相立候間、差向之処、猶是迄無理成儀相遷 事も可有之、甚可致迷惑候得共、厚致勘弁出精相止血候様御民被 二上候間、無御三次第恐察仕御請申上質素節倹相守出精相勤可申 候。」
即ち、来る嘉永三年から五年まで三力年間東西家中をはじ め、藩財政全般にわたって倹約改革を実施するという決意の 表明である。然し、改革が実施されることは、蔵元用達層に とっては甚だ迷惑なことが起る。藩へこれまで提出した融通 金返済の断り延べがそれである。これに対する蔵元層の抵抗 を予見して、藩は嘉永二年末、返金断り延べの件をあらかじ
津山高専紀要(第1巻)
め通達した。
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嘉永三年から向う三四年間の改革を実施せんとしたやさ き、それを挫折さしたものがあらわれた。即ち、嘉永三年二 月江戸藩邸類焼事件がそれである。このため、改革は遂に見 送られ、藩邸再建の資金徴収に奔走しなければならない結果
となった。
蔵元用達は、早速招集をうけ、それぞれ御馳走にあずかっ た上で、それぞれ献金の封物をもらった。この時柴原幾左衛 門の封物内容は千両と記載されていた。封物をもらった蔵 元・用達は早速会含し、時節がら甚だ迷惑として、五力年間
に融通するよう歎願した。然し、これは藩の聞き入れるとこ ろとならず、結局三力年にわたって出金することで落着し
た。
この出金に対し、赤穂藩としても蔵元・用達層に対する反 対給附をなさざるを得ず、次の如き恩典を附与して、彼らの 反撃を緩和している。即ち、柴原幾左衛門に対しては、その 伜寿吉へ五人扶持、三木弥治郎も伜嘉平へ五人扶持、奥藤氏
は知行十石加増、田淵氏は紋服頂戴、寺田氏などは蔵元末席 へ昇格などを与えた。
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嘉永三年より計画した財政改革も、不時の江戸藩邸類焼 で、いっとはなく竜頭蛇尾に終った。その間蔵元らは、普請 費用の融通は勿論、嘉永二年の御定用金の永納をもって協力 した。然し、依然として財政は好転していない。のみなら ず、嘉永五年の史料を見ると、藩主帰国後、財政関係役人の たび重なる集会が開かれている。これは勿論財政やりくりの 協議である。遂に、「不得止御前工奉入御聴聞候処、誠被為 労尊慮」 「蔵元用達共呼出直頼二も可致候」との動きにまで なった。然し、藩役人としては、これまで蔵元・用達に対し ては、「御下ケ物は御断延」「其上御定用上納之儀、御札座 拝借ハ六ケ敷」 「他所借入ハ勿論之事」 「伺共当惑」するの みであった。しかし、主命は軽からず、全く方法なしの時点 に乗りあげた感である。
ここに於いて赤穂藩は、嘉永五年六月、蔵元筆頭柴原幾左 衛門、並蔵元筆頭三木長之助、御用達筆頭田淵新四郎の三名 を招集し、内々で、その対策を協議し、遂に、同年八月一大 決心のもとに大改革を発表した。その決意の程は次の蔵元ら へ申し聞かした史料から窺える。
御蔵元
御用達共工
唯今被遊御意候通、何レも出精相勤候殺深被遊御満足候。御勝
三Er紺ラ舘1舳煮百τ禾日厳楚套うか灯. 田宣「皆舘1ス田=韓漢ξ;仕名杵三撫借財御Eセ籾「
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之御入用も不軽、勇以必至御差支弥増、此上ハ御公務二も差障 リ、実二御家之御安危二も相拘候程之儀、且此儘ニチハ終二御見 留可付際時節も無之段、深被為労尊慮候二付、此度大御改革被仰 出、無御拠御家中ヱも年来御引米之上猶又来丑之年み已年迄五ケ 年之問、諸向御引方増被仰付候間、其方共御年限中諸事是迄同様 相心得可申候。傘茸改革二付テハ、江戸、京、大坂御借入御名目 金、極無拠口々之外御髪延二取斗、其方共へも別紙ケ条書置通、
御荘被仰出候間、乍迷惑御請可申上書。年来御借入二相成候新古 年賦口々等二鞘鳴、莫大之御用出、御下差引相嵩ミ既二昨年も大 数輩不差引之華三郎渡之御仕法被仰出八間もも無之、当年ケ様之 事とも被仰出候儀、実二銘々売用二も差支可申、彼是以御不仁之 御沙汰二も相当リ可渇感と此段厚被遊御心痛、何共重々奉恐入 候、併此上東西共御手元を始諸御役所末々迄、惣躰厳二一取締被 仰kl一、向後御山納米之内を以御暮方為取斗可申、依テ来 if /v御定
用ハ勿論、御当借一切被仰付札敷候。尤此度御仕法ハ後年之御見 留二可相iR候閥、何レも乍太儀折角出精相勤呉候様厚御頼被仰出 候。
子八月廿六日
右の史料で窺える如く、家中一同の借上率を高め、これを 五力年間行なうこと、京、大坂、江戸のよんどころない借金 返済の列はことわり延べにすること、そしてこれが実施の暁 は爾後蔵元層に対する定用は勿論、当借一切をやめる、収入 支出のバランスは藩収納米のうちでまかなう、その為には厳 重な倹約取締を実施する、このようにして、今回の改革が後 年の模範となるものにしたいという、大決意が記載されてい る。この決意の程は、今回の改革に限り、「大改革」という 語を使用して表現していることからも窺えよう。
この大改革方針に基づき、蔵元層に対する旧来の藩借金返 却規定が次の如く発表された。
別紙御趣法覚
一、去ル戊年被仰出候昨亥年冶五ケ年元居二/三朱利分御渡二相 成腎候分、猶又当子年タ五ケ年差引御断延被仰付候事。
一、去1レ弘化二己EII fe五ケ年二上納致候分、嘉永三戊甲δ五ケ年 二御返済殖規定二相戊候分、戌亥両年元入残リ之分右同様被仰 付候事。
一、昨亥暮被仰付候御当借之分、当子八月迄御断延二相戒候分、
右同様被仰付候事。
一、当子年分正月汐十二月分迄相納候御走用之儀へ来丑年δ無
河手龍海 歩七ケ年二御返済二可相成旧事。
但シ、右転通被門出三間、来ル九月β十二月分迄被仰付居候 分も無相違上納可有之候。尤来丑年5ハ御定用御免被成型事。
一、御普請用之分三ケ年二相納可申分、最理学暮満納二可相戎、
.十二月納町分ハ御用捨被成下候事。
但シ、右御返済方角儀ハ、先例も有之候問、追テ可被曝出候 事。・
一、銘々名前印形を以心意入之御名目違井他邦銀主口々除外極無 一脈口々凡七万両余田も及不容易義二有之候問、此度被仰付候 後栄講を以追々済方御取斗、引続其方共工も御差引被成下候思 召二有之候間左様相心得出精可致心配候事。
一、右四外先達テfi無品出有之候御年限中御山延二相成居候口々 尚又五ケ年右同様被仰付点事。
子八月
右の各項目を通じて一貫している点は、今回の木改革期 間、借金返済ことわり延べということである。そして、藩の 資金調達方法として後栄講の設立を蔵元層におしつけたこと である。後憂講設立にあたっては蔵元らを一人一人招集して 依頼し、賜物を与えて懐柔した。後栄講の計画内容は、一口 が五分から二十五匁の掛け金で、その間を十段に区分し、資 産の高によって、掛け金を区分した。一力年に三度とり集め る方法で、都含二万千口を予定した。従って、蔵元・用達そ れぞれ揖け金は異るわけであるが、一例として柴原幾左衛門 の割りあてを見ると、次のようになっている。
覚
一、後疵講 札弐拾五匁贋 千弐百口 但シ、壱ケ年三会宛拾ケ年之間
右害心を以当年弐会忘霜残り無下ハ来丑年工相廻り可申事。
子八月 御勘定所 柴原幾左衛門様
となっている。右の史料から見ると、柴原幾左衛門の掛金は 一回分が札三十貫目、一力年分が九十貫目となり、相当大数 の金額にのぼる。前記史料の如く、嘉永六年より大改革によ って、定用金提出を免除するという特例に浴したとはいえ、
三栄講によって、それ相当、或いはそれ以上の調達を強要さ れたわけで、決して蔵元・用達層が、大改革で楽になったと はいえない。資金調達の肩がわりにすぎない。そこで、柴原 幾左衛門としても大当惑で、
「何分大数之儀故、連も満会迄懸札凌難付候間、半数之処 夫々御預り申三度心得臨」といい、「併如何之御沙汰二相成
近世に於ける赤穂藩財政と塩田地主との封建関係(その二)
候哉、心配大当惑之儀二御座候。」と心配している6
さて、藩の大改革実施に呼応して、蔵元・用達は白粛的に 「御年限切替倹約申合」を行って、藩の方針に協力した。こ の倹約申合せは、文政六年、天保六年、弘化四年と、藩政改 革時に申し合わせ来ったことであるが、今回も、追加条文な どを加えて、再確認したものである。内容は、音信贈答の停 止、年始諸儀式の省略化、諸勧進奏賀の停止、年始でも木綿 着用のこと、遊芸、書画の停止、新造作の禁止、茶煎諸道具 の買入れ禁止、諸見物の場所への停主の出席禁止、客接待は 一汁一菜にするという内容であった。
また、右の如き倹約を自発的に行なうと共に、藩に対して 次の如き内容のものを要求している。即ち、年始献上扇子料 の廃止、諸勧進寄附寺社由緒ある分も織留のこと、御家中よ
りの内談御断り、郡方御内用年限中御断り、調達講会の時料 理申止、歳暮の時の目録、塩肴申止、他所商人一切差留のこ
となどであった。
また各蔵元・用達の自家倹約、出入り番頭・下人に対する 倹約条文をもつくって自戒している。これらの取締令とあわ せて、塩販売に対し、東西浜人、石炭問屋に取締令が下達さ れている。以上を総合して、藩の大改革に対する決意、これ に呼応する蔵元・用達層の協力の程が窺えよう。
このようにして始まった嘉永六年からの大改革の中心は藩 札座改革であった。先ず、藩は札座改革にあたり、準備段階
として柴原幾左衛門、三木弥治郎、柴原甚十郎、三木長之助 を内々で蝋画へ招き、右四名を帰座御役所掛りに任命して協 力を依頼した。この役は、時々説話へ出席して諸帳面取調 べ、南海永続の仕法を勘弁する役であったが、役所出席の儀 については、ことわることにした。
この事があって閻もなく、次の如き命令がでた。
柴原幾左衛門 三木弥治郎 柴原甚十郎 三木長之介工
其方共儀此度御札座御改革二付、寺田達之介初持浜之内都合六 軒前、御札座役所工御借七三仰kS三間、右を以御三金如何様焦申 平し御趣法之御奉立二相成候様漏斗可申候。
即ち、塩浜六軒前を借上げ、これをもとに札座の充実をは からんとする計画である。元来三座と柴原氏らとの関係は、
竹内操時代より、度々借上げがあり、近来は毎度借上げがあ って、当年までの処、三千五百両程借上げ:金がたまっている
津山高専糸己要 (第1巻)
そこで、高座からの拝借金、銀札お預り銀と差引いて、五百 両程が藩の借上げとなっている。ところが、今回の改革で、
五ケ年閲支払いを停止した。けれども札二二金が至って手薄 故、当年新たに柴原、三木両家へ出金命令を出して借上げた
うえ、更に、六軒前をもとにした備金貯金をするというのが 当時の現状であったのである。その結果、柴原氏はこれをも とに播州日雨漏、堀馬之承から弐百貫目程借入し、藩へ提出
した。
右の如き柴原氏の功績に対し、赤穂藩は次の如き恩典を与 えて、その労にむくいている。即ち、柴原幾左衛門に対して は、伜寿吉に代勤及び拝領紋服勝手次第着用御免、また、柴 原甚十郎に対しては、その伜松三郎に幾左衛門の家族同様の 取扱い、かつ、帯刀御免という恩典であった。
更に、今回大改革により咋年より始めた三栄講の取集金、
及び、五年後浜運上御礼銀とも柴原甚十郎、三木長之助へ預 け置き、その内を返銀入用次第繰出す命令を柴原、三木両氏 に出しているQ
ところで、今回の改革の一つに藩札改革が取りあげられて いたのであるが、そのたてなおしを待つ前に、札座の資金逼 迫は限度に到達し、両替も出来難い状態にあった。これは、
異国船渡来につき警備の臨時武用金、及び家中に対する武用 金に札座金を流用したことから生じている。
三座両替が不可能になれば藩札は停止となり、領内に及ぼ す影響ははかり知れないものがある。従。て、柴原、三木、
奥藤、前川、田淵氏らは、札座奉行を中心に鳩首して打開案 をねったが、彼らによる献納金は底をつき四阿ともできず、
遂に、最終手段としで、一日に一人一両あて、十人まで、合 計十両つつ両替する。その他は両替差止めの触書を領内に出
した。
嘉永七年四月十日に両替制限に対する命令を出した後の赤 穂領内民心の動揺を記載すると、
一、下方一統何となく人気話声、周章心得違の者が続出し、処罰 を受ける者も出てきた。
二他所より米の買入れができず、米不足になって、郡奉行所への 歎願が多くなった。
三、柴原氏らの蔵元層は持ちあわせの米を放出した。また、塩と 米と交換のため兵章へ出船して、米調達をはかった。
四、石炭賀入れの両替は、停止しないことゆえ、安心はするもの の、現在入金がないので不安である。
というような、不安な状態が現出した。これが長びく時は
農民一揆が当然考えられ、為政者、蔵元らの富裕者はこの対 策に十分考慮を払わねばならなかった。柴原氏の持ち米五、
六十石の放出、五月中だけ一日両替金二十両にした処置はそ れである。
四月以来両替制限を行なった赤穂藩は、七月になって、領 民の不穏なる動きを融和させるべく、蔵元・用達層の在村す る些々に、その居村の売り米をひきうけるよう指示せねばな らなかった。農民の反抗を恐れる点は、蔵元・用達も同一一一 ゆ え、藩の指示を待つまでもなく、前々から実施していたこと である。前記柴原氏が塩とひきかえに、兵庫から米を積み帰
っていたのはその一例である。まアこ塩田労働者は田畑耕作を しない賃労働者であるので、柴原氏の取りはからいで、賃銭 のうち四合つつ白米を渡すことにし、塩田経営者の生産塩の 塩代は半分正金で渡すよう取り扱った。
この周、赤穂藩は柴原、三木氏などを招集し、三座備金を 獲保せんとし、たびたび他借の手を打ってみナこが、皆不成功 で終っている。そこで、遂に、嘉永七隼七月末、両替の仕法 がえとして、二歩両替の方法をうちだした。当時の仕法書を 紹介すると次の通りである。
覚
一、御領分融通銀札当分二歩繭替二〆引替可遣、尤追々吉法二復 シ候隊可申付事。
一一、両替場当分轡屋加里屋横町前川泰太郎工員門出候問、同人方 ユ罷出ケ様丁目付置事。
一一,金銀銭を以売買之儀ハ旧法明鑑堅停止申付候事。
一一、塩代金銀銭占法之通御札座へ急度入金可致旨、塩問屋井船持 共工可申付仏事。
但シ、浜人等二おいても塩売買之儀、旧法円通ワ心得違無之様 可致、猶先達テ御沙汰二相或候目代五歩ハ向後御下ケ無之候 事。
一、塩代之儀勿論、其他金銀銭請取候ハハ瑚隔たりとも、御札座へ 相可、両替冠して通用可庶事。
一、米麦ハ勿論、其他諸品買入等、川下り物、入津ものとも、代 上都テ御仕法之通両替弓返遣事。
但ン、浜入用石炭ハ勿論、其他買入候四品、本文同蔭之事。
一一 、貸借丼売買共諸事取引之儀ハ、右桐場之1立を以、厳重二取扱 候様可申付候事。
一、米麦商売之者共、急之米買入、下方差支無之様可五心。若し 売続出来不払族ハ、ヅキ米商内差口可申付事。
一、右卸仕法破仰出候二付テハ、小前之もの差向当惑之振も有之 候閉、村々小売米之分ハ、是IZ之通リ、来ル朔日迄三日之内、銀
河手江海 札無位落売遣し可申事。
但シ、西浜日雇賃銭米、来月朔日迄是迄之通リ相渡し可遣候。
右之通、当分御改法被仰出候間、諸色売買人等迷惑之次第も間々 可有之候得共、篤}申添仕入致シ、小前之者共難渋二およひ不申 候様、正路二売買致し可遣候。若し心得違之族有之ハ急度可及沙 汰候。
七月
右の史料で判明する如く、札座今回の仕法がえというの は、藩札の位い落ちを意味する。そうすることによって、藩 銀札の余裕金を出そうという、最も劣悪、苦肉策であり、物 価のインフレを招く方法であった。さらに、正金銀獲得策と して、塩代金の三座でのひきかえを強力に指令してもいる。
この仕法が下令されると、予想通り混乱が起った。例えば 柴原氏に対し、備前福補の者が八九十人もおしかけ、質請を 要求、銀札を是れまで通り請け取ってもらいたいと乱暴二三 に及んだ事件が起っている。
七月より二歩札両替仕法を行って、新藩札を発行して来た が、九月頃になると、領民の新札に対する感情も悪く、商人 の売りおしみで物価は上昇し、農民不穏の形勢があらわれて 来た。そこで、藩論はこの事態を憂慮し、柴原、三木、前川 の諸氏と内評、恩借による現金確保策を立てた。そのため、
三木長之助、前川覚介の両氏は早速上坂、種々交渉の結果、
大坂塚口屋木左衛門から三千両の借金に成功した。そして、
十二月九日より両替を開始した。翌安政二年、柴原幾左衛門 は大坂での他借を行なわんとして、質入浜を用意して上坂し 炭彦、米長らの商人に頼談したが失敗、七十日余の滞留をし てむなしく帰国した。そこで、昨年借用した塚口屋からの借 入を計画し、昨年借金の三千両をまず返済し、かわって、咋 年以上の六百貫目の借用を行なった。その交渉過程には、柴 原幾左衛門が札座奉行の懇命により、やむなく上坂して調印 するなどの一こまもあったが、すべて、「御領内変に及候位
」という、百姓一揆の発生をおそれる、藩・蔵元・用達らの 共通の利害がかくさせにのである。
この時、蔵元層が質入れした塩田は、浜十五軒前(柴原幾 左衛門)十四軒前(三木弥次郎)六軒前(三木長之介)三軒 前(前川覚介)二軒前(山本与左衛門)計四十軒前であっ た。この時分柴原幾左衛門の所有塩田は、赤穂西浜だけで約 二十町歩であったから、今回の質入れは、所有塩田の約半分 以上であったといえる。もって、その覚悟の程が窺えよう。
このような過程を経て入取した借用金は、安政二年六月、
近世に於ける赤穂藩財政と塩田地主との封建関係(その二)
両度にわたり、馬十三駄つつに分けて持ち帰った。そして、
去年四月以来閉鎖していた札座両替を開門するはこびになっ
た。
以上、柴原氏をはじめ二、三の蔵元らによって、札座借入 金に成功し、ついで、新札は塩の現金入で、古訓は備え金で 両替が可能になり、領民の反抗を無事かわすことができた。
このような柴原氏の尽力に対し、赤穂藩は「格別興野思 召、道中持鎗既成御免候」という特権を与え、その労にむく いている。然し、これと同時に、内用として江戸出府を命じ られたが、これは親の病気を理由にことわっている。その際 の感想として、「全ク御勝手方之極内御作意ト奉察、誠不寄 存大心配、此己後如何之御沙汰可有之哉難斗可恐事二候。J
と心配している。
ところで、右の心配は程なく現実となって現われた。即ち 安政二年十一月に下令された新規融通講の計画がそれであ
る。この計画は安政三年から六力年間掛け続ける方法であっ
た。
先年来札座仕法でいたでを受けた蔵元・用達層は、この融 通講計画が発表されると、一致して反対した。理由は、(一)
近来、御仕法口々の差引きが延引され、他国借入返済に不義 理をしていること。(二)一昨秋札座仕法で札の位落ち、且浜 方大不景気で商売がふるわないこと。(∋ 一昨年村々え売米 など命ぜられ、軽からざる損失があることbなどであった。
なお、講出金反対の根拠史料として、蔵元・用達らが,長 年月藩に借し上げし、現在返金延期になっているものを種別 に、別紙半切に認めて差し出したものが残っている。小藩に おける在地富裕層からの借金事情が判明するゆえ、長文をい
とわず次に記載してみる。
覚
一、御調遷講 嘉永六丑暮御割戻し之事。
一、天保十五辰年春被仰付 天保六未年十二月御封ニテ被仰付 五十年賦 , 同十五辰年二酉迄御年延之事。
一、天保七癖年5同十二丑年 天保十五辰年五十年賦被仰付。
迄三度二御三方へ差出分 其後嘉永三戊年十二月来ル寅年三 五十年賦 五ケ年御年延被仰出題分。
一、天保f五葉五月御封テ被 嘉永三戊甲5寅迄五ケ年御年延被 仰付
十ケ年御割済之分 一、脳弓含講
一、御当分出シ
仰出。
嘉永四三ノ心元利二〆卯年迄五ケ 年元居三朱利御渡シニ被仰付。
右同断。
一、午未申酉四ケ年御差引詰 右同断。
右三筆嘉永五子年八月、一統御呼出ニテ、当三年迄五ケ年御断延 之事。
一、弘化二 巳年6・
粗筆迄五ケ面出シ之分 一、嘉永三島年
御類焼駒之分 一、嘉永四亥十二月 御三ニテ被仰付候分 一、嘉永五子年 御定用量之分 一、同五子暮 元銀一割宛 御下ケ之分
津山高専紀要(第!巻)
会釈嫡子代々帯刀御免、大土手浜年貢運上とも永々御免の特
嘉永五子臨機元、当辰年迄五ケ年 御断延之事。
御下ケ鍬下候儀伯楽テ御沙汰翻転
嘉永五子八月御呼出ニテ当辰年迄 五ケ年御断延。
嘉永六書暮無歩二〆ttケ年二御下 ケ之処、丑暮一ケ年御断延之事。
同六丑暮御呼出ニテーケ年御婆延 之事。
但y、五三利分、五朱元入。
一、御借入取次之口々 年月規定色々有之品分御差引之事 一、後栄講 嘉永五子十月δ寅七月迄幽札御下 ケ如何之事。
一、去卯年八月前当分差出候 当辰四月切、御運上ニテ御差引二 口 相成候分。
一、御講御徳用 去暮口数割合二〆差出候分。
五月 御用達中 御蔵元申
右の史料で判明する如く、:金額の記載はないが、天保以来 断り延べが連続しているのに気がつく、以て、蔵元・用達層 の経済的負担がわかろう。
この願書は、勘定所札座へ提出されたが、その後、沙汰な く、安政三年十一月になって、その処置がいいわたされた。
結論は、しばらく年延べであった。然し、赤穂藩としては、
何らかの処置を痛感し、借金一貫目につき約三升の割り合い で米を与える方法をとった。天保六年より安政三年までの 間、蔵元・用達一統が出銀した額が約三千五百十五貫程であ ったから、約百石の米が下賜されることになった。参考まで に柴原幾左衛門の金額を記すと、出前括約九百八十七貫余、
頂戴米二十九石余となっている。
此の間、赤穂藩勘定方の方に移動があり、従前の勘定奉行 安東氏は退役遠慮、徒士席へ落席、下役小川氏は退役、西川 三木両氏は遠慮の処罰を受けている。その原因を知る直接的 史料を見ないが、思うに、札座改革の失敗及び今回の蔵元。
用達層の融通講反対の動きが関係していると思われる。
そのkめ、藩はやy低姿勢となって、右の如く、借金に対 し、幾割かの下賜米を与えたと解釈出来る。またv安政三年 暮には、柴原幾左衛門に対し、内用向出精として、御給人御
典を与え、その懐柔をはかっている。差はあるが三木両氏に も恩典が与えられている。
然し,このような恩典賜与は、必ず次の融通下命の伏線に なることを忘れてはならない。翌安政四年正月、早速定用金 融通の事が割りあてられた。これは去る嘉永五年大改革の際 今後は定用金は課さないという約束であ,tこのが破られたわ
けで、藩としてはiこの点心苦しく思い、「右之勢御当借ハ ー切被仰付間敷候」と弁解している。一ケ年定用金高は金二 千七百両、これを月毎に割って蔵元.用達層に出さしてい る。柴原氏も一応不本意であったが、何分、去年暮、浜年貢 運上銀御免などの恩典に浴しているので、やむを得ない態度 に出ている。「安政四年は、右の定用金融通が年頭初にあって 後,十一月末まで、融通金のことは全々なかった。のみなら ず、右定用金も、十二月末頃には大体清算を完了した。しか し、十二月暮に、是非とも江戸下し金にせまられ、米切手と ひきかえに、総計七十五設定用割りで融通させられている。
また、翌安政五年も七月に馬借の儀があり、恩典の紋付羽織 拝領とひきかえに融資させられている。
6
安政五年は、嘉永六年からはじまった藩政大改革五ケ年計 画の終った翌年である。従って、従来のいきさつからすれ ば、次の改革命令の出る年である。然し、文書の上で、それ
らしいものを発見しない。それでは、嘉永以来の改革に成功 して、次の改革はとりやめになったのであろうか。それにし ては、たび重なる蔵元層の融通金が多すぎる。結局は、大観 するに、改革失敗で勘定方の交替があり、それ以後、改革ら しきものなく、ずるずると破局を迎えたといえよう。安政五 年段階ではもう改革の意欲もなくなっているように見うけら
れる。
安政六年の蔵元層の動きを見ると、月掛け貯金の事があ る。藩家老はじめ家申一統、月掛手伝の議決をし,三ケ年間 差し上げることになつアこので、領分村々も、一万人、かまど 数一万にして、日掛け一厘つつ行なうことにした。そこで、
この動きに合はして、蔵元.用達層は別口に、一ケ年分派三 貫百目が課せられた。このほか、柴原幾左衛門は、札座奉行 と共に上坂し、先年借用の塚口屋よりの借金に対し、かけ合 いを行なっている。この仕事は相当の難物であったらしく、
藩としてもその功を認め、「差塩木宿問屋株料上納御免」の 恩典を与えて労にむくいている。
河手龍海
万延元年は、去る安政五年蔵元。用達層らから借用し、安 政六年に返済した金の再借の件がある。史料によると、柴原 幾左衛門は札三十六貫、三木佳一郎七貫、三本長之助十六 貫、奥藤叉治郎、寺田達之助は各十二貫目を再提出してい
る。
万延元年末、借用出札、当借の分とも来年四月目で返済引 きのばしの指令が出たが蔵元層・らは承知せず、約三分の一貸 し下げを要求し、それに当る米を獲得している。万延年代に なると、藩の方が相当低姿勢になり、遂に蔵元層の高姿勢が 顕著になって来る。万延元年末v柴原幾左門に対し、「当年 御当借出精相勤面打世事」として羽織地拝領の事があるのも 右のことを証明するものの一つである。
文久元年になると、まttもや講による集金が計画実施され ているほかに、藩収支の全体を柴原氏に内示し、.塩屋村年貢 千石をていとうに、約千貫の他借を計画し、四百五十貫目の 借金に成功している。この際藩から内示された趣法書を左に 紹介すると、
覚
一、銀四百五拾七貫拾壱匁三分七厘 東西諸入用辻 一、銀三百八拾八貫八百九拾五匁六:分ホ厘 御借財町田之帰
一 銀五拾八貫三百三拾三匁三分三厘三 一 銀四百貫目
一 銀拾七貫五百目
〆千弐百六拾三貫四百七匁三分三 内
五百五拾九貫四百八拾七匁四分四厘四 百四拾壱貫七百廿壱匁壱分
五拾貫目
百七拾四貫三百八拾八匁九分八厘三
九拾貫目 百弐拾貫目 三百五拾貫目
近世に於ける赤穂藩財政,と塩田地主との封建関係(その二)
御講御割戻し之辻 御米買入之辻 柴原幾左衛門β元千 貫目今度御借入之内 御定用三百五十貫目 月々出銀塾図夏日
御払米代 諸御運上辻 御領分融通講御山用 御内用筋御講懸札:不 足
御零附米代 浜穴割御用出之分 柴原EE h千貫目之内 御定用出
〆千四百八拾五貫五百九拾七匁五分弐厘七 差引過
弐百弐拾弐貫百九拾目四分九厘四 外二
六百五拾貫目 柴原氏グF貫目御借入之内三百五拾貫目 御定用引残リ当暮迄出銀
又
弐百七拾九貫七百四拾三匁九分弐厘弐
御収納米御渡シ四丁引過米代百五十引替二〆此贋銀之分
千百五拾壱貫九百三拾四匁弐分壱厘六
此過勤を以御零駒之内高歩口御返済之上ハ年々耳隠造畢三百 八十八貫八百九拾五匁六分六厘之内相減シ可申事右減方之儀 追テ取調巨細可申出事。
酉二月廿八日(交久元)
以上の如き趣法書であった。右の趣法に従がい、柴原幾左 衛門は播州地方の富裕町人に懸命に掛け台い、龍野の商人菊 治より、塩田十七軒前売券証文質入れにして、銀四百五十畏 を借用した。この借用については、藩から、
規定一札
御勝手御借財御存法用二付、御連出シ被仰出候処、此度銀四百 五拾貫目調達差出候二付テハ、其村御収納米高之内陸引宛預ケ置 候所相違無同論。御返済方ハ御勘定所澄年々規定通り相続シ可申 候。万一違約之節ハ右を以勝手次第差引高申出候。為後日依而如
件。
文久元酉年 中嶋佐門 印 十一月 松本堅助 〃 柴原幾左衛門殿
右の如き一札を受領し、返済金は村収納年貢米をひきあて にして、年々勘定所から払う確約をもらった。
以上の尽力に対し、藩が蔵元に与えた恩典は、柴原に、
(一)御発駕、御帰城御送迎の時、藩主よりお言葉を頂戴する こと。(⊃ 年限中父子とも、年始慰斗目勝手次第着用許可の こと。(三)二男に対し、地他とも帯刀御免、という内容であ った。まtこ、寺田左之輔に対しても、柴原幾左衛門に協力し た理由で、二人扶持増して五人扶持にし、伜左一郎に代勤許 可及び地他とも苗字帯刀御免の特典を与えた。
文久二1・]三は赤穂藩にあって多事の年である。まずb藩主の 交代による加督相続、ついで初お国入りのことがある。つい で、この年は調幕府の変革により参勤交代制の緩和がある。
そのため、前藩主及び幕府の面々が帰国し、長屋普請造作に 莫大な予算を必要としている。藩としては予期しない変革 故、財源に困惑し、藩主の直命をもって、蔵元。用達層に用 金を下命した。総金額は彼ら一統にして約一万両、柴原氏個 人は三千両という莫大な金額であった。柴原氏は早速播州日 飼村堀午下亟へ俳談して銀五十貫目、大坂炭彦より七十貫
目b松武にて五十貫目、計百七拾貫目を借用して差出した。
しかし、全体として約一万両の用金は大金ゆえ、なかなか提
津山高専糸己要 (第1巻)
出がむつかしく、翌文久三年正月になって、一万両が六千両 に減額され、やっと提出の運びになった。
文久二年は、右とは別に、後年高野の仇討(明治四年)と して、世人を震骸させた事件の原因になった文久の殺害事件 が起った年でもある。事件の内容は、文久二年十二月九日夜 四ツ時過ぎ、家老森主税が詩会から帰宅の途中、ニノ丸御門 口附近で、足軽七人に殺害され、また、勝手掛6用人村上慎 助も同刻頃自宅に於いて、足軽四人に殺害された事件であ る。殺害された森主税、村上慎助(輔)の両名は、多年赤穂 藩の藩財政改革に尽力し来った者である。今、殺害に及んだ 理由を、当時の斬回状から述べて見ると、森主税は、「大任 ノ職二居ラレナガラ、還テ自巳ノ権威ヲ振ヒ、恣二暴政ヲ働 キ、慨慷忠直ノ士ヲ押へ、一藩ノ士気ヲ遊惰二落シ、……当 君御幼若ノ瑚二乗ジ、民ヲ虐ゲ驕奢日々二増長シ、……下々 二至ル迄モ、困苦ノ余り上ヲ恨ミ奉ル可ク、……度々時勢ノ 淺変等申入レ候ヘドモv一向容レ候模様之レ無ク、…一・一年来
ノ逆罪ヲノガレン為メ、外二正義ヲ唱フルト錐ドモ、内々ハ 三曲ノ者ヲ近附ケ、種々ノ好計ヲ廻ラシ、誠二国家ノ疲弊:、
下民ノ銀苦、斯二至テ三極リ旧故、実以テ切歯二三ヘズ……
」といわれており、一方村上慎助は、「漢籍二相泥ミ候力、
執政之身柄ヲモ弁ヘズ、皇国ノ大義ヲ更二丁ゼズ、徒二私ノ 権威二相募リ、文ヲ表二飾リ内心二好曲ヲ相持チ、己が隠謀 ヲ以テ森主税二万事ノ所置ヲ致サセ、好曲ノ次第一々挙ゲテ 数フルニ及バズ。第一己二三ヒ候者ハ昇進致サセ、忠勇節烈
ノ士ト錐ドモ、己が意二叶ハザル者ハ押シ込メ、其上、町家 百姓ドモ、耶力黄臼ノ貯ヘコレ有ル者ハ、其手段ヲ廻ラシ、
矯二茶会等二事寄セ、己が手元へ近附ケ、人知レザル様二相 虐ゲ……」といわれている。
以上を要約するとs多年の改革が実を結ばず、政権を墾断 して、人民塗炭に苦しんだ。特に、己が意に逆う者を遠ざ け、手段を廻らして町入から収奪をほしいままにした。と述 べている。いま、限られた史料からこの事件を解剖してみる
と、当時の一般的赤穂藩藩財政事情から推すと、満足な改革 の成果は期し難い。けれども、多年にわたり政権を掌握し1 政治の衝に当っていた者としては、比較的無為無策である。
元来、森氏治下の赤穗藩は、国老家として森氏三家、並び に各務氏があり、互に軋回して3常に強者の専政となった。
かって、鞍懸寅次郎らが藩政改革を企図しで、森主税らに阻 止されたことは有名であり、右の斬好状にも表現されてい
る。文久二年の暗殺事件が起ったのも、鞍懸寅次郎らと志を
同じくし、また、親戚関係にもあった野上鹿之助や、山下新 一らの報復行動ともとれるふしが多分にある。いわば私斗的 面が案外強いというのである。ただ、この事件を起したのが 足軽という下級武士であり、また、彼ら十三名の者がv事件 後脱藩して、長州藩に走り、長州戦争の時鴻三軍に編入され たことから、赤旧藩における開明派と解釈さ2/るむきがあ
る。しかし、あまり公式論的に分析し終ることには少々抵抗 を感じないわけにはいかない。
文久二年の暗殺事件後、藩の主導権は依然として上級武士 の手にあり、この事件によって動揺したきざしはない。のみ ならず、この事件をさかいに、むしろ強化された感がある。
即ち、赤穂前藩主は事件後,直ちに江戸より森徹之助を帰国 させ、政治勝手掛りを命じ、藩の運営を行なわした。彼は帰 国すると、文久三年、家臣一同の半扶持を断行し、蔵元t用 達らには、一万金の融通調達を強要した。後には、半分の五 千両は藩で都合し、残り五千両を柴原幾左衛門、三木長之助 三木弥治郎に請負わすことで終っているが、その要求態度は 極めて高圧的で、森主税在職中には見られなかった変化であ る。彼が前藩主の要請で遠路帰国し、藩主の期待にそわねば ならない面目の問題があったにせよ、その政治支配は極めて 強烈であった。柴原氏などの蔵元層はその威力におされて、
ただ恐れ入るのみであった。柴原幾左衛門が融通をしぶった 時、「徹之二様殊之外御腹立、今より幾左衛門呼出、急度申 付方も可有之」と激怒しているのは、この事情を知るよい材 料である。勿論,今回の柴原氏らの融通金に対し、拝領物を 下賜することは忘れていない。
文久三tE八月、任期満了した森徹之助が退役して帰府した 後は、家老各務氏が勝手掛りに就任した。しかし、就任後特 別に藩政改革を実施して,財政たてなおしを行なわんとする 動きは見られない。たX 文久三圷の事として注目されること は、江戸の藩勘定奉行小川慎太郎が、申世氏の手代藤兵衛と 共に赤穂へ帰国し、塩専売のことを巾し入れたことである。
塩専売の内容は、赤穂藩がかって交丁年闘,大坂、江戸販売 に対して計画実施したものと同一内容である。即ち、赤穂塩 を江戸へ廻送する際、これまで問屋へ一両につき三匁の口銭 で売っていたのを、江戸藩屋敷へ塩売三方の回附を送り、江 戸屋敷が売捌きを掌握する形をうちだしたことである。そし て、それによって生ずる益金年六千両程を江戸屋敷の仕法に あてようという計画である。この計画は江戸問屋の反対、及 び赤穗在地問屋の反対で結局は不成立に終った。理由は、江
河手龍海
戸廻送にあたり、他国船に売らないということは不可能であ ること、それは、在:地問屋の不利益をも7こらすこと、などに あった。
文久四年は、この江戸へ塩廻送の問題が大きくとりあげら れ、柴原氏は利助を江戸へ派遣して、江戸塩専売の調査を行
なわすなどの協力をやむなく実施した。結果は前記の如く、
実施不可能であった。
この江戸塩売捌方法の失敗は、忽ち、船持ち、塩問屋、浜 人一統へ割り金借り上げの形となって降りかかって来た。い ま、東西浜人へ下令された命令内容を紹介すると、
東西浜作人一統工 従来御勝手向御差支之上、近来引続公私御物入多、其上昨牢来 上之様奉初、漸御引越相済候処、前々此度従公辺江戸表エ御引移 三旬出候二付テハ、来春御帰府側御含も被為在、殊二此頃之不容 易時勢ニテ軍用之御手宛,其外度々大坂御警爾御入数御差出シ 等、此度ハ別テ御入費不軽舟上、当身攻納米引方多、勇以当暮之 御出置旧為様,依之浜入一統工別紙封吻之通、浜割御用銀御借入 三七出候。何レも毎々之儀、迷惑ニハ可有之候得共、無御拠次 第,深江冥福、来ル朔日限リ上納可致候。尤御返済之儀ハ、来丑 年〃十ケ年割ニシテ御返シ被成候司i左様相心得可申候。
子十一月 穴割左導通
上浜、砂面ソニ付、 拾四匁四分 中浜 〃 拾 匁四分 下浜 〃 七 匁四分 東浜
上浜 〃 拾六匁四 E 中浜 〃 拾弐匁四分 下浜 〃 八 匁四分
右の史料から窺えることは、文久の参勤交代昭和で、江戸 づめの者が帰国し、多大の経費を要した上、また、幕府政策 の変化で、帰悪しなければならないようになったこと、その 他,大坂警備のため必要とする経費に困り、江戸塩専売の方 法をうちだし、経費の捻出をはからんとしたが、うまくゆか ず、最:悪の方法である、浜人の所有塩田穴数に比例した融通 金借り上げを行なって切りぬけようとはかっている。
文久四年は右のほか、柴原幾左衛門に三百二十貫、三木弥 治郎に百貫、三木源治右衛門に八十貫、計五百貫目という前 代未聞の融通銀が下令されている。ところが、元治・慶応年 間になると、これまで、頻繁に下令されていた融通金のこと が、史料の上では非常に減少して来る。慶応年代に至って
近世に於ける赤穂藩財政と塩田地主との封建関係(その二)
は、全く、融通金に関する藩との交渉史料がない。これは、
藩財政がたてなおったためでは勿論なかろうし、また、柴原 氏が没落したためでもない。柴原氏が藩の前途を予見して融 通しなかったのか,全く不思議である。
七
以上、幕末段階に於ける赤穗藩財政の状況を、蔵元。用達 層の動きを通じて記載した。結論としていえることは、藩財 政改革を実施して、財政のたてなおしを企図したものの、長 年にわたる藩権力をめぐる藩上層武士の私斗は、徹底的な改 革をなしえず、開明的下級武士もその進出がはばまれ,偶発 的行動で終っている。何回にもわたる改革指令も不徹底に終 始したので、藩財政に参画し来った蔵元層も、融通金の調達 のみに追われ、幾多の犠牲のみの要求で終始した。改革の不 徹底は札座に関する藩札の位落ち,両替の不始末となってあ らわれ、藩の危機を一時招来した。そして、結局、十分な改 革の実現を見ることなしに、ずるずると泥沼に落ちこみ、幕 末維新時に於ける行動も日和見的なものにならぎるを得なか
った。
後記
本論攻作成にあたって使用した史料は、柴原文書(赤穂)中の 天保年間から慶応年間に至る「年中用事控」に拠った。