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児童保護から児童福祉への転換と学校教育の位置

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* 女子短期大学部 保育科 1 はじめに

 明治・大正から今日まで継続する児童保護・福祉の実践史にとって、1947 年の児童福祉法 成立に伴う措置制度の導入は大きな転換であった。生まれた家庭という生物学的に自然な居場 所で生活することに支障をきたした児童のために、公的機関の専門職が知恵を出し合って「居 場所を決める」(1)ことが措置制度の考えの基本である。措置制度が想定する「居場所」とは、

家庭ないし家庭にかわる場であるが、学齢期の児童の場合、居場所に学校を省くことはできま い。家庭を離れて児童福祉施設に措置された児童の学校教育は、措置制度の中ではどのように 考えられていたのだろうか。それがこの論文の問題関心である。

 措置制度は、運営費用が保障される点で、施設を資金調達の労苦から自由にしたが、同時に 従来は施設の裁量に委ねられていた部分で多くの規制を伴った。

 例えば、児童保護の時代に、社会的な要保護性を備えた児童の施設で、子どもたちに学校教 育を保障することは、制度的な建前と水面下のはたらきの双方で現場の課題であり続けた。「す べての児童の健全育成」を謳った児童福祉法の柱である措置制度では、学校教育の保障はどの ように捉えられ、議論の俎上に乗り、制度の中で位置づいていったのか。ここでは、児童福祉 法制定前後の議論のなかで、具体的に施設児童の学校教育がいかに描かれているか整理する。

 なお、この論文は、児童福祉法制定によって新規にもたらされた戦後の児童福祉の措置制度 に着目する一連の研究の第一報をなすものである。措置制度の導入によって、それ以前の児童

児童保護から児童福祉への転換と学校教育の位置

 Child Welfare and Education for dependent children in Japan in 1947 田  澤     薫 *

 児童保護・福祉史にとって、1947 年の児童福祉法による措置制度の導入は大きな転換 であった。措置制度は家庭の代替たる居場所を公的責任で保障するが、学齢期児童の場合、

学校もまた重要な居場所である。そこでこの論文では、児童福祉法制定前後の議論を手が かりに、措置制度のなかで、施設入所児童の学校教育の位置を整理する。

 検討の結果、児童福祉法が導入した措置制度は、学校教育保障への取り組みに関して、

必ずしも、それ以前の児童保護での実績を継承するものではなかった。児童福祉の成立を 境に、それ以前の児童保護時代の個々の施設現場の工夫を制度化する動きもあった一方で、

児童保護期の実践理念の断絶や変容も明らかになった。

Kaoru Tazawa

キーワード  児童福祉法、措置制度、貧困による就学猶予・免除、義務教育保障、児童 養護施設

(2)

保護の実践現場から継承され得た事柄と断続を余儀なくされた事柄のそれぞれを実践に沿いな がら整理・分析することが研究全体のねらいであるが、そのうち今回は、児童福祉制度に描か れた、施設児童の就学支援について明らかにすることを目的とする。

 なお、第二次大戦後の児童福祉法成立を境に、それ以前を児童保護、それ以後を児童福祉と 呼び分けていることを断っておきたい。

2 児童保護期の貧孤児の就学

①貧困を理由とする就学猶予

 まず、児童保護期における貧孤児の就学について整理することからはじめよう。

 いうまでもなく 1872(明治5)年の学制以来、初等教育は義務教育が建前である。しかし、

就学猶予・免除規定に保護者の貧困が理由としてあげられていたことにより、戦前期において、

児童保護の対象とする貧孤児等にはそれが保障されにくい現実があった。

 1886(明治 19)年に公布された初めての小学校令では、第5条で「疾病家計困窮其他止ム ヲ得サル事故」(下線筆者、以下、引用文中の下線は全て筆者によるものである)を理由とす る就学猶予を規定している。改正された後の 1890(明治 23)年の小学校令になると、「貧窮ノ 為又ハ児童ノ疾病ノ為其他已ムヲ巳得サル事故ノ為」(第 21 条)として、就学を猶予ばかりで なく免除する規定も設けられた。この時代には、減免の手立ては講ぜられていたものの、授業 料は徴収していた。さらに改正された 1900(明治 33)年の小学校令でも、大勢は変わること はなかった(2)

 義務教育を謳いながら一定の資格要件を設けているような制度のあり様については、当初か ら異論が聞かれた。例えば、私立の感化院である家庭学校を主宰する留岡幸助は、施設開設に あたり入所児童の義務教育の扱いをめぐって、文部省と交渉したと記録にある(留岡、1909、2)。

家庭学校は非行傾向の児童を専門に入所させる感化院であって、保護者の貧困を理由とした就 学猶予免除と重ねて論じるには無理がある。しかしながら、留岡と文部省との議論からは、文 部省が描いていた義務教育が、一定水準に到達し得る範囲に対する効率的な教育であって、必 ずしも国民皆教育を意味していたのではないことが読み取れる(田澤、1999、203-220)(3)  留岡には強硬な態度をみせた文部省も、万全の自信をもっていたわけではなかった。1908 年に開催された第一回感化救済事業講習会における「感化救済事業と普通教育」と題する講演 のなかで、野尻精一文部省視学官は、保護者の貧困による就学猶予免除の規定を、「現行の小 学校教育制度への不備」と指摘している(内務省地方局、1909)。野尻視学官によれば、不就 学児童のおよそ8割が就学猶予対象児童であり、その大部分は保護者の貧困による猶予である ので、貧困を猶予理由としている現行規定では貧困の再生産を行っているにほかならない。野 尻視学官の発言は、二重構造をなしている現行制度に対して、文部省の内部にも自省的な捉え 方があったことを示している。

 もちろん児童保護を所轄する内務行政の側には、こうした子ども本位とはいえない教育制度 に対して手厳しい批判があった。1927 年に開催された社会事業調査会の特別委員会の席上で は、富田幹事が、小学校令 33 条を指して「児童から教育の機会を奪ふ不合理なもの」と評し ている(内務省社会局、1932)。

(3)

②貧孤児の就学の支援

 貧困児童の就学をいかに実現するかは、教育行政と社会事業施策の枠を超えた国家的課題で あった。人的資源の育成のために基礎教育を重視していた国の目は、不就学問題の背景に貧困 問題を捉えていた。内務省から外局として独立した社会局社会部が 1927 年に上梓した『児童 保護事業の概況』には、不就学を解消するための児童保護事業として「根本的なのは貧困児童 に関する養育施設」(社会局社会部、1927、25)であると記されている。「児童の不就学も…貧 困が其の主要な原因を為すから」(社会局社会部、1927、25)、学校へ行けないほどに貧しい子 どものためには施設に入所させる方法が有効だというのである。

 内務省は、1909 年から感化救済事業奨励助成金を制度化した。初年度予算として 22,000 円 が組まれ、助成施設・団体は毎年 100 〜 200 程度であった。公的な社会事業予算が貧弱であり、

財政的な裏づけとなる法規がほとんど皆無に等しかった(4)この時代において、優良な施設が 選ばれて少額ではあっても助成金をうけるこの制度は、施設現場を発奮させるのに有効であった。

 全国の施設のなかから特に優良だとして奨励対象に選ばれる場合、その優良さは、いうまで もなく、まずはモラルの面で優れていることを意味する。それは、社会事業が、発言する力を 持たない社会的弱者を対象とする活動である以上、不可欠な視点である。それに加え、国家的 に望ましい方向性をもった事業であることも、選考の基準になることは否定できない。

 内務省の感化救済事業奨励金の対象施設をみると、下の表に示した通り、教育事業に取組む 児童施設や貧児学校など貧困児童の教育に何らかの功績のある施設が多い。つまり、教育の領 域だけでは叶えられない就学支援の一部分を児童保護施設が担っていた。

1908 年度感化救済事業奨励金対象育児施設 30 施設の内訳(5)           (箇所)

翌年も対象 翌年は選外

育児施設 教育事業あり(就学奨励含む)

とくに教育事業なり 13

貧児学校

 その一つの典型的な施設が、宮城県にある仙台基督教育児院(以下、育児院)である。育児 院は、制度化の初回から毎年助成施設に選ばれている。育児院は、1906 年の創設当初から、

教育と養育を意味する「教養」を事業の目的に掲げ、原則として6歳以上の学齢児童に限って 入所させ、積極的に学校教育を受けさせていたことで知られている。旧職員から聞き取ったと ころによれば、戦前の育児院には、実家にあっては就学が望めない貧困家庭の児童を「学校で 勉強できるから」という口利きで、入所させることも珍しくなかったという。育児院は決して 枠通りの孤児院ではなく、地域の貧困児童の就学を実現させる教育保障センターとして機能し ていた可能性が高い。

 もちろん、育児院に限らず同様な施設の各々で、入所児童に就学を保障することは容易であっ たはずはない。本来は児童の生活面の保障を本務とする施設において、たとえば、積極的に交 渉して地域の学校に通学できるようにする、施設内に学校施設を設ける、施設内で実質的な教 育を行う等の方法で、ようやく児童の学校教育を確保していた事情がある。先に紹介した育児 院では、時期によるが、このいずれの方策も試みられていた(田澤、2006 ①、2006 ②、2004 ①、

2003)。

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3 児童福祉法制定による変化の諸相

①分析の視点

 以上のように、児童保護・福祉の歴史をながめ、戦前には、教育制度から疎外された子ども たちのための実践が、現実に存在したことが確認できた。そこで次いでは、児童福祉法による 新たな制度を検討の対象としていきたい。

 一般に、児童福祉法による新たな制度が、児童保護期からの活動を継承・発展させるにおい て障壁でさえありえたという指摘がある。例えば、措置は都道府県の機関である児童相談所が その実権を担うが、行政機構の枠組みから県境を越えないことが原則となっている。これは、

個々の施設の特性を目指して、広範な地域から児童が入所する可能性のあった児童保護期との 根本的な違いの一つである。また、家庭的困難を抱える児童の中でも、殊に非行傾向のある児 童を専門とした感化院(のちに少年教護院)は、多くの民間施設が学齢期の児童の生活と教育 を担って実績をあげていたが、児童福祉法下では公立を原則とする教護院として改められた。

そのため、多くの民間少年教護院は廃止ないしは養護施設(今日の児童養護施設)への転換を 余儀なくされた。

 このように、児童福祉法が新たに描いた児童福祉制度のデザインは、必ずしも既存の活動の 実績と方法論を尊重したものではなかったことがわかる。児童福祉法制度をひとつの境目とし て前後を比較すると、児童保護期からの継受が見られる一方で、変容しつつ引き継がれた部分、

あるいは継承されなかったことも少なくない。そこで、ここでは、戦前期に相当の実績があっ た就学支援について児童福祉制度下への転換をたどりたい。措置制度の全般に目配りをしつつ、

下表に示した視点で措置制度の成立に際しての就学支援に関する議論を整理する作業が必要に なる。

検討の視点

第2次大戦以前 児童保護

1947 年 児童福祉法制定

第2時大戦以後 児童福祉 具体的な

理念と 施設等による実践

措置制度の導入 公的責任・公的資金

公的機関の専門性による措置

(placing)

 →  継承されたもの   変容したもの   断絶したもの

 児童保護から児童福祉へ転換を遂げるこうした社会背景の中で、施設で暮らす子どもの学校 教育がどうなったのか、その関係性を次に整理していきたい。

②継承された事柄

 児童福祉の領域に限らず、第二次大戦直後は、明治近代以来の社会制度や法制度が批判を経 て再編成された時期である。児童福祉との関連領域も例外ではなく、戦前には法律化されてい なかった部分も含めて多くの法制度が整備されていった。そのため自ずと児童福祉が対象とす る場面での子どもの日常が、関連諸法との関係性の中で位置づけられ、関連諸機関との連携の 中で捉えられるようになった。

 「この法律(筆者註:児童福祉法)は学校教育法、労働基準法、少年法、国民医療法等との

(5)

連関が極めて密接であるから常に関係機関との連絡をはかり、法律施行の円滑を期すること。」(7)

という宣言には、こうした事情が描き出されている。

 入所施設の児童が学校教育を受けることについても、以下のように、言及されている。

「養護施設、精神薄弱児施設及び療育施設に入所している児童に対する学校教育法による 教育については、次のような場合が考えられること。

(一)付近の小学校若しくは中学校又は養護学校に通学せしめる場合

(二)施設内に付近にある小学校若しくは中学校又は養護学校の分校を設置する場合

(三)施設自体を独立の小学校若しくは中学校又は養護学校とする場合」(8)

 ここに描かれている就学の3つの類型は、すでに児童保護期において施設の工夫ある実践の 中で見られたことに気付かされる。戦前期には、(一)で規定されている付近の学校へ通学す る場合のみが、公的に約束された就学方法であったことは、先に見たとおりである。現実には、

もちろん、施設から付近の学校に通う場合もあったが、場合によっては、施設内に設置された 分校や止むを得ない場合の代替として制度付けられていたいわゆる「家庭教授」(9)で学ぶこと も多かった。施設から通学することを地元の学校や地域住民から拒まれる例が少なくなかった からである。それが、児童福祉においては、3つの類型ともが福祉の方策としてあげられてい る。従来の現場の実践を法制度化した一例といえる。

 児童福祉法の描いた公的責任・公的資金による措置制度を確立させるために、児童福祉施設 最低基準を厚生省の局長通知として定め、施設を認可制にしたことは周知のとおりである。そ の最低基準を策定する際の議論は、工夫と努力に満ちた従来からの優良な実践をすべての施設 の基準に取り込もうという動きで満たされていた。

 その一例を次にあげたい。母子寮(1997 年法改正で母子生活支援施設と改称)の教化に関 する最低基準として、「寮は学童の通学する学校と連絡を密にし、校内実況を観察すると倶に 学校教職員と母と寮職員との鼎談会を年二回以上催すことが希ましい」(10)という、かなり細 かな内容を含む一文がある。一方、児童養護施設については、処遇に関して以下のような提案 がなされている。

「(八)就学の義務ある児童及生徒は、特別の場合を除き所在地の学校に通学せしめること。

(九)学用品は一般家庭の児童と同一程度に支給する。」(11)

 いうまでもなく、児童保護期にあっても優良な施設は上記のような工夫をこらしていた。し かし、それを全ての施設に共通のミニマム・スタンダードとすることは、全く意味を異にする。

③変容がみられた事柄 最低基準と学校教育

 策定に際しては理想論が随分と唱えられた児童福祉施設最低基準であるが、この基準が設け られたことで、かえって理想的な実践が追求されにくくなったとする評価もある。児童福祉法 案の起草作業にとりくんだ厚生省の松崎芳伸は「ゾルレンの要求を含めつつ、しかもザインの 実情からも遊離しないということに制約されており、このことは、結果から見ると、児童福祉

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施設の現状の平均値に近いものとなる」(松崎、1949、26)と述べている。戦後の混乱期にあっ ては、基準が満ちないからといって認可できない施設が多数に及んでは立ち行かないのが実情 であった。入所できる場を数量的に確保することが、何より児童福祉に適うことであったので ある。そのため、自ずと、基準の方が現実にあわせて妥協点で調整された。

 戦前の児童保護の時代には、水準の高い施設だけを対象に国がごく少額を助成することで全 体の施設の底上げが図られた。底上げとはいっても、それは公的責任によるものではなく、各々 の施設の自助努力に任されていた。それに対して、戦後の児童福祉においては、国が明確な基 準で施設の最低ラインを示し、その基準に施設が従う構図となった。基準に従い認可を受ける ことによって、施設は、その基準で算定された公的な運営資金を保証される。言い換えれば、

一旦、最低基準の水準に到達して措置制度の枠内に入った施設の運営に関する最低ラインは、

公的資金によって維持されつづけることになる。

 ここで重要なのは、保障される基準が、理想的な実践の域にははるかに及ばない、あくまで 最低ラインにあることである。生活保障を本来の守備範囲とする児童保護や児童福祉の領域に とって、学校教育は本質的に理想的な実践の域に存在する。したがって、最低基準に合致させ た児童福祉実践に学校教育はなじみにくい。 

児童福祉と学校との役割分担

 家庭、その代替たる福祉施設と学校との役割分担を明白にしようという動きが見られるの も、児童福祉成立期の特色のひとつである。先に紹介した育児院の様に、戦前期にあっては、

施設と学校の両方の機能を併せ持つような施設が珍しくはなかった。一方では、児童福祉的 なサービスを行う貧困児童のための学校も珍しくなかった。それが第2次大戦後、教育領域 が教育基本法の整備をふまえて教育の機会均等と義務教育を高らかに謳い(12)、児童福祉の領 域が児童福祉法の成立を得て学齢児童の教育保障を連動させるなかで、教育行政と児童福祉行 政の間に若干の緊張関係が生じたことがわかる。例えば、法の整備期にあっては従来の施設の 位置付けでの混乱が見られたが、ある地方からの照会に対して、厚生省は「児童福祉施設は教 育施設ではなく従って学校教育法第八十三条に規程する各種学校とは解されない」と回答して いる(13)

 児童福祉施設と学校の区分を明確に行おうとする一方で、学校現場が舞台となっても児童の 保護や福祉に関わるような事項について学校教育の介入を忌避する傾向も明確に読み取れる。

例えば、児童福祉法成立時の厚生省の事務官である川嶋三郎は、児童福祉法を解説するなかで

「学校に不良化児童がでたり、長期欠席児童がでたりしても、その児童について、学校の教官 が家庭に行って、ケース・ワークを行うようなことは適当でなく、児童相談所又は福祉事務所 に通告して、児童福祉司、社会福祉主事、児童委員等に行わせるべきものである。」(川嶋、

1951 23)と述べる。学校教育職員が家庭生活の領域に口を出すことを快しとしない見解は、

新制度とともに児童福祉専門職が誕生したからこそ生まれたものである(14)

 児童福祉法によって制度化された里親に向けた「家庭養育運営要綱」は、以下のように呼び かけている。

「里親家庭の皆様へ あなたがこの子供の親代わりとして……学齢期にある子供は、最寄 の学校へ通わせ、学習するとき必要な品物を与えるとともに、学習のよい指導をして下さ

(7)

い…学校の先生と時々連絡をとって子供の教育の向上をはかり、子供が学校を休んだりそ の他問題のある時はすぐに適当な処置をとって下さい。」(15)

 児童福祉の機能の一部である里親は、実親の代替として、「学校の先生と時々連絡をとって」

児童の教育支援をすることが期待されていると分かる。

④戦前の児童保護とは大きく異なる事柄 施設児童の教育保障

 次には、戦前からの断絶ともいえる、戦前の児童保護とは大きく異なる事柄に目を移したい。

 まず最初に留意しておきたいのは、施設入所児童に対して義務教育を保障する発想が、教育 基本法下の教育の機会均等と義務教育の実現の議論と共に新たに生まれたことである。

 例えば、児童福祉施設のなかでも、養護施設、精神薄弱児施設、療育施設、教護院は、学齢 期の児童を入所させる施設である。自ずと、その学校教育を考慮する必要がある。このことに ついて、児童福祉法は、「養護施設、精神薄弱児施設及び療育施設に入所中の児童のうち、学 校教育法第二十二条又は第三十九条の規定により就学させられるべき者に対する教育について は、学校教育法の定めるところによる」(第 48 条第1項)という規定を有している。児童福祉 法案の起案作業に取り組んだ松崎芳伸は、この部分について以下のように述べる。

「「学校教育法の定めるところによる」というのは、文部省所管の小学校、中学校等へ通学 させるという意味であり、その小学校、中学校等が、普通家庭の児童の通う村の学校であっ てもよいし、村の学校へ通わせては、あれは、「親のない子だ、浮浪児だ」などと差別扱 いされ、この児童の福祉に害があると認められるときは、村の学校の分教場を、養護施設 等の施設の中につくり、都道府県の学務当局と連絡して、地方教官に派遣を求めてもよい。」

(松崎、1948、161-163)

 松崎の説明に見る限り、施設内学校(ないし施設内学級)のきっかけは、地域学校からの締 め出しや拒否ではなく、施設の入所児童本人の福祉にとって、地域の学校への通学が望ましく ない場合である。児童本人を本位とする考え方に基づく判断であるから、その場合も施設職員 の工夫と努力によってどうにか代替の教育が享受できるのではなく、学務当局に掛け合って教 員の派遣を求めることが出来る。施設の入所児童の義務教育もまた、一般家庭からの通学児の それと同等だと、児童福祉は考えているといえる。

措置制度に基づく財政的措置

 児童福祉施設に入所している児童の教育を保障しようとすると、児童保護期において難儀で あったのが費用の確保であった。戦前は時期によって徴収されていた授業料は、施設が行政に 申請し、さらに施設長が運動することで免除される例が多かったが(16)、学校へ通うためには、

通学のための衣服、靴、学用品、かばん、昼食等々、細々とした物品を要した。また、学級費、

教材費、遠足費等々、授業料とは別に学校へ納める費用の負担もあった(17)

 こうした事情を踏まえれば、児童福祉において、施設入所児童の義務教育のために通学経費 を措置費に計上したことは英断である。児童福祉法制定当時の厚生省事務官である高田正巳は、

(8)

「児童福祉施設に入所している児童を小中学校にかよわせるための費用としては、施設に支払 われる費用のうち、事業費の中に一人一日当り2円 39 銭をおりこんでいる」(高田、1951、

318-319)と、児童福祉法の運用の実際を説明している(18)

 しかしながら、高田自身が述べるように、高等学校以上の教育になると一転して「児童福祉 法も、生活保護法も、なんら財政的措置をしていない。したがって、児童を高等学校以上の学 校にやるためには、当該施設の負担でこれをおこなうか、育英資金を利用するか、他人の好意 による以外にはない」(高田、1951,318-319)といった状況になる。

 児童保護の時代を振り返ってみれば、財政的措置は皆無であったので、入所児童を通学させ ることは、施設に資金を調達する覚悟を強いた。その厳しさのため、施設にとっては義務教育 段階の就学支援なのか、上級学校への就学支援なのかの差異はあまり問題にされなかった面が ある。

 児童福祉法下では、小中学校への通学費用の財政措置を行えるようになった背後で、施設入 所児童の教育のゴールを国が線引きする結果を招いた。義務教育支援の財政基盤だけが確保さ れたことが、かえって、施設入所者にはそれ以上の教育を受けることを想定しないというメッ セージ性を備えた面は否定できまい。

⑤児童の就学についての見解

 学校と施設との領域区分を明確化しようという動きとは裏腹に、児童福祉の専門職にとって、

通学状況の把握は必須と考えられている。学齢児童にとって学校が生活全般と切り離せないと いう認識が、社会的な共通理解になってきたからだろう。一例として、特に児童福祉を扱う民 生委員である児童委員が担当区域について、知っていなければならないこととして、「教育の 状況。未就学者数、出欠状況、児童及び保護者の教育程度、児童図書館等の利用状況、その地 方民の教育に対する関心等」(19)が挙げられている。教育への視点なしに生活への支援や地域 福祉は実現できないのだという福祉行政の意図がうかがわれる。

 ところで、そもそも国の就学に対する見解は、児童保護から児童福祉への転換の中でどのよ うに変化しただろうか。その手がかりとして、児童相談所の専門職として新設された児童福祉 司と児童委員の相談業務に関して述べた書類の中にある「学齢児童の正常生活は、やはり就学 ということにあるのであるから常に学校及び家庭と連絡して、不就学児童の就学を奨励し、家 庭に於ける不就学の原因を除去するよう努めることは極めて必要である。」(20)という文言に着 目したい。

 児童保護の時代に国家が躍起になっていた就学問題は、その背後に、人的資源の育成という 至上課題が見え隠れする。すなわち、ここでは、学校へ通うこと自体の価値が云々されている のではない。就学の成果として読み書きの出来る、書類を媒介として情報共有し得る国民を養 成することが価値とされた。ところが興味深いことに、育児院旧職員に対する聞き取り調査に よると、就学を支援した施設現場職員の就学観は、まったく異質なものであった。学校へ通う ことは、子ども本人の将来への準備であることはいうまでもなく、加えて、生活リズムが整い、

同年齢児童との関わりでさまざまなことを学び、就学期そのものに価値がある、というのであ る(田澤、2004 ②)。また、育児院で育った元院児に対する聞き取り調査によれば、就学は直 接的に労働から免れることを意味した。この元院児は、小学校5年生で奉公へ出るために育児 院を退所した時を振り返り、以来、学校で勉強することも子どもらしい遊びをすることもなかっ

(9)

た、と述懐した(田澤、2007)。就学が子どもらしい遊びの時間と不可分であったという指摘は、

当事者ならではの視点である。

 児童福祉における就学の価値付けは、「学齢児童の正常生活は、やはり就学ということにあ る」(21)という見解から顕著に読み取れる。学力としての成果はもちろんながら、毎日学校へ 通うということそれ自体が、知識の獲得、勤勉習慣の確立、同年齢集団との仲間関係等だけで なく、睡眠や食欲といった生活感覚に照らしても児童福祉の増進に不可欠であるという理解が、

ここではなされている。いうまでもなく、すぐれて、児童保護期の就学支援施設の現場感覚に 通ずるものである。

⑥新たな動き

 最後に児童福祉制度が新たに生み出した、児童施設・学校以外の関係機関との連携の必要性 について言及しておきたい。

 児童福祉法が新規に生み出した機関に児童相談所がある。つまり、児童福祉法以降、貧孤児 を支援する者に、施設や学校だけでなく、児童相談所スタッフが欠かせなくなった。児童相談 所の専門職員−つまり児童福祉司−は、児童の生活の支援という側面では間接的かつ中間的な 存在ながら措置権を体現する存在である。

 児童の日常生活に関わる情報を支援者が共有する場合、そこに児童と直接的な関わりを持た ない者が加わるのは困難を伴う。それを実地で可能たらしめようというのが、措置制度なので ある。優れた生活感覚を備え実践上の工夫に満ちた優良な施設実践者からすれば、新たに生じ た児童福祉司への説明責任は余剰の仕事と捉えられても無理はない。児童福祉は、他職種との 連携を基本構造に据えたことで、新たな難題を抱えたともいえる。

 実際に、児童福祉確立期より今日にいたるまで、児童福祉と関連諸領域の専門職間の連携は 時代を超えた課題であり続けている。「児童福祉法の施行以来、学校と児童相談所、児童福祉司、

児童委員等、児童福祉機関との間に密接な連携協同の行われているところでは、それぞれの機 能を十分に発揮しつつ児童福祉の具体的増進に寄与しているのであるが、所によっては児童福 祉法の精神がよく理解されていないままに、学校と児童福祉機関との連携が整わず、児童の福 祉の増進に欠けるところのある向も少なくないようであるから」(22)という児童福祉法成立当 時の児童福祉関係者の学校に対する嘆きは、そのまま今日のものでもある。

4 結びにかえて

 1947 年の児童福祉法成立の頃にスケッチされていた施設入所児の学校教育について、主と して当時の行政資料や行政担当者の筆による文献をもとに整理した。

 児童福祉法に裏づけられた児童福祉の成立の模様を、施設入所児童の学校教育を軸として概 観してきたが、改めて、児童福祉法案が審議された参議院厚生委員会での小川友三委員の発言

「この児童福祉法の立法の精神は親心で、あると思つております。」(23)が想起される。一つの 法律とそれに伴う社会制度をきわめて情緒的に親心になぞらえる是非はともかくとして、確か に、児童福祉法を諸側面から眺めてみると、戦前期にあっては施設の現場で親の代替として活 動した現場職員らの工夫や努力から生まれた成果を、法制度の中に取り込もうとした跡はそこ ここに確認できた。そのことと、児童福祉法が根柱として打ち立てた措置制度が果たしてなじ

(10)

むものであったのか、是非とも検証せねばなるまい。

 また、真に重要なのは、それらの社会的仕組みがいかに機能したかであることはいうまでも ない。次には、聞取りに力点を置きながら、一つの典型である仙台基督教育児院と学校教育と の関係における、継承、変容、断絶を整理していきたい。

(1)placing =措置:1947 年8月5日法案(英文):児童福祉法研究会編、1979、575-588 また、その考え方は、

ゴールドスティンらの主張するところの placement(養育付託)に共通点を多く見出すことが出来る。:A.

フロイト、J. ゴールドスティンほか、中沢たえ子訳、1990

(2)1900(明治 33)年改正小学校令においては、第 33 条に「保護者貧窮ノ為児童ヲ就学セシメ能ハザル時ハ 其ノ義務ヲ免除又ハ猶予スルコトヲ得」と規定されている。

(3)感化院入所児童の就学猶予・免除規定の成立に関しては、相澤仁、1987、に詳しい。

(4)恤救規則、棄児養育米給与方ぐらいである。

(5)『人道』48(1909 年4月5日)・60(1910 年4月5日)をもとに筆者が作表した。

(6)共にキリスト教主義による先駆的施設として制度をリードしてきた北海道家庭学校と横浜家庭学園のみが 例外的に民間のまま認可された。北海道家庭学校の前身は、先に述べた留岡幸助による家庭学校であり、

家庭学校が感化法のモデルとなったことは知られている。

(7)「児童福祉法施行に関する件」(1948 年3月 31 日次官依命通牒)、厚生省児童局『児童福祉法関係法令通牒』

1948 年所収

(8)「児童福祉法施行に関する件」(1948 年3月 31 日次官依命通牒)、厚生省児童局『児童福祉法関係法令通牒』

1948 年所収

(9)小学校令(明治 23 年)第 22 条

(10)「児童福祉施設最低基準日本社会事業協会案」(1947 年 12 月)『児童福祉法成立資料集成 下』p.683、p.693

(11)「児童福祉施設最低基準日本社会事業協会案」(1947 年 12 月)同上

(12)教育刷新委員(審議)会 第一回建議事項(昭和 21 年 12 月):文部省『学制百年史 資料編』所収

(13)岡山県知事からの照会に応えて「児童福祉施設と各種学校との関係に関する件(1948 年6月 19 日)」『児 童福祉法成立資料集成 下』p.p.495-497、

 なお引用した一文には、「右の点については文部省とも打合せ既に諒解済であることを申し添える」と いう但し書きがついている。障害児のための学校の寄宿舎も、育児院のような貧孤児のための施設とは別 の意味で、学校教育と児童福祉の両方の機能を併せてもつ。これらについても、学校教育と児童福祉の分 化が積極的に、半ば強引に進められた。以下にその際の説明を紹介したい。

 「学校教育法による盲ろう学校の寄宿舎はそれが学校の施設機構と一体となっている場合には、そのま ま児童福祉法の療育施設(盲ろうあ児施設)としては認可し難いが、最近各地で切り換えを希望する向も あるようであるから」「療育施設と公立学校とは、児童福祉増進のために相互に共同するべきは勿論であ るが、療育施設の運営は都道府県民生部(局)所轄の下に、公立学校の運営は都道府県教育委員会所轄の 下に」「療育施設(盲ろうあ児施設)は学校寄宿舎とは異なるから盲ろう学校に通学しない児童(学齢期 以前の児童、義務教育を免除された児童等)をも当然収容し、その目的を達し得るものでなければならな いこと。」(「盲ろう学校寄宿舎を児童福祉法の療育施設(盲ろうあ児施設)として切り替えることについて」

(1949 年5月 19 日)、『児童福祉法成立資料集成 下』p.p.505-506)

(14)今日的課題との関連でいえば、この傾向が学校教育関係者の児童福祉領域への関心の薄さを招き、保護や 援助を必要としている学齢児童の救済を難しくしているとして、学校教育と児童福祉の相互連携や学校関 係者に対するケースワークの研修が、岸和田事件以降に活発化している。

(15)「家庭養育運営要綱」第四号様式 児童委託通知書の欄外注記『児童福祉法成立資料集成 上』p.484

(16)授業料免除にいたる様子については、当時の育児院の日誌からも読み取ることが出来る。

(17)育児院(仙台)から立教中学校(東京)へ進学者が出た際に立教中学校から示された準備物リストが残っ ており、細々とした物品が多岐にわたり、相当費用がかかることを示している。(『書類綴』1913、仙台基 督教育児院所蔵資料、目録番号 24)

(18)児童保護期には就学を猶予・免除されていた貧困家庭の児童を、戦後の新時代にあっては何としても義務 教育の対象とするというのは、児童福祉領域のみならず、文部行政にとっても悲願であったとみられる。

(11)

児童福祉法案を審議する衆議院厚生委員会で、学校給食の実施に関する山崎道子委員の質問に答えて、森 戸文部大臣が「…少くとも学校にともにおる間は同じような生活ができるようにしたいと、私どもは念願 しております。」と答弁していることからも、そのことは窺われる。(衆議院厚生委員会 1947 年9月 22 日、

議事録 p.25)興味深いことには、貧児学校の場での給食は、戦前は学校や社会事業と行うものがまちまち であったものが、戦後においては、文部省が学校教育の中で行うことが文部省・厚生省間で合意されてい る。これも、領域の住み分けを明確にした例である。(衆議院厚生委員会 1947 年9月 29 日、議事録 p.p.28-29、

野本品吉の質問に答えて米澤常道厚生省児童局長)

(19)「児童福祉司及び児童委員活動要領送付に関する件」(1948 年)『児童福祉法成立資料集成 下』p.p.431-437

(20)「児童福祉司及び児童委員活動要領送付に関する件」同上

(21)「児童福祉司及び児童委員活動要領送付に関する件」同上

(22)「学校における児童福祉法の徹底について」(1948 年 12 月3日)『児童福祉法成立資料集成 下』p.585

(23)参議院厚生委員会 1947 年 11 月 11 日、議事録 p.284

 この研究は 、 平成 20 年度科学研究費(基盤研究(C))「児童保護から児童福祉への転換と措置制度に関する 史的研究」の成果の一部である。仙台キリスト教育児院(仙台基督教育児院の後身)には大変お世話になった。

ここに記して感謝申し上げます。

 この論文は、2008 年度、日本教育学会における口頭発表の内容をもとに、そこで得られた議論を踏まえて、

大幅に加筆修正したものである。

<引用文献>

相澤仁「教護院児童・生徒の学籍問題(その1)」『立教大学教育学科年報』30、1987、p.p.1-19

A. フロイト、J. ゴールドスティンほか、島津一郎監修、中沢たえ子訳『子の福祉を超えて』岩崎学術出版社、

1990

川嶋三郎『児童福祉法の解説』中央社会福祉協議会、1951:『児童福祉法基本法制第5巻』(復刻版)

厚生省児童局『児童福祉法関係法令通牒』1948:『児童福祉法基本法制第 3 巻』(復刻版)

児童福祉法研究会『児童福祉法成立資料集成 上巻』ドメス出版、1979 児童福祉法研究会『児童福祉法成立資料集成 下巻』ドメス出版、1979 社会局社会部『児童保護事業の概況』1927、社会局社会部

高田正巳『児童福祉法の解説と運用』時事通信社、1951:『児童福祉法基本法制第8巻』(復刻版)

田澤薫『留岡幸助と感化事業 思想と実践』勁草書房、1999

田澤薫「仙台基督教育児院史にみる施設児童の学校教育」東北社会福祉史研究連絡会『東北社会福祉史研究』

21、2003、p.p.11-20 

田澤薫「第二次大戦以前に施設から進学した子どもたち−仙台基督教育児院の事例からの一考察−」東北社会 福祉史研究連絡会『東北社会福祉史研究』22、2004 ①、p.p.19-28

田澤薫「山田省子氏聞き取り記録」平成 15 年度科学研究費報告書5、2004 ②

田澤薫「戦前期の児童保護施設と或るミッションスクール−仙台基督教育児院と尚絅女学校の関わり−」尚絅 学院大学『紀要』52、2006 ①、p.p.17-27

田澤薫「第六章 戦前・戦中・戦後の育児院の「聞き取り」」仙台キリスト教育児院 100 年史編纂実行委員会編『仙 台キリスト教育児院 100 年史』2006 ②、p.p.142-16

田澤薫「仙台基督教育児院聞き取り記録」平成 18 年度科学研究費報告書、2007 留岡幸助「感化事業回顧十年」『人道』55、1909,11,5、

内務省社会局『社会事業調査会報告(第二回)』1932:社会福祉調査研究会編『戦前期社会事業史料集成 17』(復 刻版)日本図書センター

内務省地方局『第一回感化救済事業講習会』1909:社会福祉調査研究会編『戦前期社会事業史料集成 18・19』(復 刻版)日本図書センター

松崎芳伸『児童福祉法』日本社会事業協会、1948:『児童福祉法基本法制第4巻』(復刻版)

松崎芳伸『児童福祉施設最低基準』日本社会事業協会、1949:『児童福祉法基本法制第 12 巻』(復刻版)

文部省『学制百年史 資料編』帝国地方行政学会、1972

(12)

<参考文献>

厚生省『児童福祉のために』1950

山高しげり編『こどものしあわせ 児童福祉法とはどんな法律か』清水書房、1949

参照

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