植民地法制萌芽期における「判事」と「判官」をめ ぐる論議
著者 西田 真之
雑誌名 明治学院大学法学研究 = Meiji Gakuin law journal
巻 107
ページ 151‑197
発行年 2019‑08‑28
その他のタイトル A Comparative Study of Hanji and Hankwan at the Early Era of Japanese Colonial Legal System
URL http://hdl.handle.net/10723/00003719
植民地法制萌芽期における「判事」と
「判官」をめぐる論議
西 田 真 之
序
本稿は,近代法史上生じた特殊な法領域の一端を考察すること,及び旧外地 における司法権の問題やその実態に検討を加えるために,日本の植民地法制の 萌芽期における「判事」と「判官」をめぐる論議を概観するものである。大日 本帝国憲法が施行された当時に日本の領土の範囲にあった本州・四国・九州・
北海道・沖縄・小笠原その他の島嶼は内地と称されるようになり,これに対し て大日本帝国憲法の施行後に新たに領土や租借地,委任統治地域として領有し た朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋群島は外地と称されることとなったが︵₁︶, こうした外地にもそれぞれ裁判所が設置され,当時の司法制度に基づき判決が 下される体制が数十年に亘り形成されていった︵₂︶。そこで,将来的にはこうし た近代期の日本の旧外地における裁判の運用や裁判に携わった司法官の実態を 包括的に比較考察することを視野に入れながら,一先ず本稿にて日本の植民地 法制を整備してゆく最中に発生した台湾総督府高等法院長高野孟矩非職事件を 題材として取り上げ,当時の内地における判事と台湾における判官に関するメ ディア内の論説を整理してゆくことを目的とする。
台湾総督府高等法院長高野孟矩非職事件とは,明治 30 年(1897 年)10 月 1 日に当時台湾総督府高等法院長の役職にあった高野孟矩が日本政府より理由を
告げられないまま非職を命じられた際に,大日本帝国憲法第 58 条第 2 項に規 定されていた「裁判官ハ刑法ノ宣告又ハ懲戒ノ処分ニ由ルノ外其ノ職ヲ免セラ ルルコトナシ」の身分保障を根拠として当該非職処分は違憲であると主張した 事件である(以下,高野事件と表記する)。日本が台湾を領有した後の明治 29 年
(1896 年)に,法律第 63 号の「台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律」が公布 された(法律番号から「六三法」と称されていることから,本稿では六三法と表記する)。 当初より六三法の合憲性が議論の的となっていたが,高野事件を契機として改 めて様々な観点から議論が交わされた。当時の議論を整理すると,高野事件を 通じて浮彫りとなった問題点としては主に,台湾には領有以前より制定されて いた大日本帝国憲法の効力が及ぶのか否かという点,さらに台湾における裁判 組織を規定していた台湾総督府法院条例が日本の内地における裁判所構成法に 相当する効力を有しているのか否かという点が指摘されていた。後者に関して は,仮に台湾総督府法院条例が裁判所構成法に相当しないとするならば,その ことを理由とする非職の処遇に関する問題の是非とも絡めて論じられた。
高野事件については,これまでいくつかの先行研究が発表されており,事件 の概要や六三法の合憲性につき,様々な点から考察されている︵₃︶。本稿では,
こうした先行研究の成果に加え,当時発行された新聞や雑誌のメディア媒体で の論説も活用してゆく。近代期にはメディアの発達に伴い,新聞や雑誌で様々 な論説が寄稿されてゆくようになるが,高野事件も高野自身の動静や取材を通 して,事件の顛末につき詳細に報道されていると共に,台湾における司法制度 や判官の身分保障の問題につき取り上げられ,論じられていた。そこで,当時 発行されていた『東京朝日新聞』・『東京日日新聞』・『読売新聞』・『台湾新報』
の新聞各紙や『国民之友』・『東京経済雑誌』の雑誌,さらに『国家学会雑誌』・
『法学新報』及び日本統治時代に刊行されていた『台法月報』の法学雑誌を活 用し,これらの新聞や雑誌に寄稿された高野事件をめぐる論説を手掛かりに,
内地での判事と台湾での判官との身分保障の違いや実態の比較につき若干の検 152
討を加えることとしたい。
尚,本稿では「臺灣」・「號」といった旧字体を改め,「台湾」・「号」の新字 体で統一して表記することとし,引用に際しては適宜句読点を施すこととする。
その際,文字の判別がつかなかったものは「○」,空欄部分は「□」と表記する。
原則として,新聞の出典は『新聞紙名』(発行年.月.日),雑誌は『雑誌名』
(巻-号(巻数がないものは号数のみ),発行年:頁),と略して記す。また新聞や 雑誌記事では,「法官」・「司法官」・「裁判官」・「判事」・「判官」等の語句が散 見されるが,厳密な定義に照らすならば,内地での司法裁判所の裁判事務を司 掌する官職を「判事」,台湾総督府法院にて裁判事務を掌る官職を「判官」,と に区分されていた︵₄︶。そこで本稿では混乱を避けるために一次資料からの引用 や,それに基づき要旨要約を紹介するものを除き,内地と台湾で区別する際に は前者を「判事」,後者は「判官」の用語を用いることとする。また,特段の 断りがない限り,本稿における憲法とは大日本帝国憲法を指すものとする。
一,植民地法制と六三法
まずは,日本の植民地法制の成立過程や六三法の合憲性をめぐる見解を簡単 に整理しておく。
大日本帝国憲法の制定時にその効力が及ぶことが想定されていた日本の範囲 につき,伊藤博文は「我カ帝国ノ版図,古ニ大八島ト謂ヘルハ淡路島,即今ノ 淡路秋津島即本島伊予ノ二名島即四国筑紫島即九州壱岐島津島津島即対馬隠岐 島佐渡島ヲ謂ヘルコト古典ニ載セタリ。景行天皇東蝦夷ヲ征シ西熊襲ヲ平ケ境 土大ニ定マル。推古天皇ノ時,百八十余ノ国造アリ。延喜式ニ至リ六十六国及 二島ノ区画ヲ載セタリ。明治元年陸奥出羽ノ二国ヲ分チ七国トス。二年北海道 ニ十一国ヲ置ク。是ニ於テ全国合セテ八十四国トス。現在ノ境土ハ実ニ古ノ所 謂大八島延喜式六十六国及各島並ニ北海道沖縄諸島及小笠原諸島トス。」︵₅︶と記
している。
明治 28 年(1895 年)に日本は清より台湾を割譲することとなり,台湾にお ける植民地体制を整備することが急務となった。その際,台湾を日本の内地と は別に植民地として統治する見解と台湾を日本の一部として同化させる立場の 見解が提議されている。
(一)植民地法制の端緒
イギリス人のウィリアム・カークウッド(William Montague Hammett Kirkwood)︵₆︶
は,日本における植民地統治のあり方につき提言を行っている。カークウッド は司法大臣宛に明治 28 年(1895 年)4 月 30 日に「殖民地制度」︵₇︶と題する論稿 を書き記し,「英国ハ植民国トシテ非常ニ成功ヲ得タル国ニシテ,決シテ他国 ノ及ブ所ニ非ラズ。今ヤ日本ハ新占領地ニ植民地ヲ謀ルニ当リ,宜シク英国ノ 経験ニ従ヒテ事ヲ為スベシ。」︵₈︶と,イギリスの植民地統治を前提に,日本の取 り得るべき最適な植民地統治の形態は君主直隷植民地であること,そして植民 地政府の組織形態についての具体的な提言を行った上で,日本の内地とは別個 に台湾の統治を行う構想を示した。
さらに,同年 7 月 24 日にカークウッドは「台湾制度,天皇ノ大権,及帝国 議会ニ関スル意見書」︵₉︶にて,日本の植民地統治と憲法との問題に言及,憲法 の適用範囲は「決シテ新獲ノ植民地ニ及バズ」︵₁₀︶とした上で,統治のあり方と しては「各邦連合スト雖モ各々別個ニ存在シ,且相互ノ関係不平等ニシテ一邦 ハ首長国トナリ,他ノ各邦ハ之ガ属邦タルモノ」︵₁₁︶を想定する。その上で,「憲 法ハ現形ノ儘ニテハ台湾ノ如キ海外遠隔ノ土地ニ施行ス可ラザルコト明瞭ナ リ。」︵₁₂︶とし,台湾に日本の憲法を適用させるためには改憲をしなければならな いとして,具体的な条項を設けることを検討している︵₁₃︶。
一方,フランス人のミシェル・ルボン(Michel Joseph Revon)︵₁₄︶が明治 28 年
(1895 年)4 月 22 日に記した「遼東及台湾統治ニ関スル答議」︵₁₅︶によると,「日 154
本ガ全然獲取シタル台湾及澎湖島ニ付テハ前者︵₁₆︶ニ反シ及ブベクダケ完全ニ 之ヲ近似セシメ,随テ此等ノ嶋嶼ヲ以テ現今ニ非ラザレバ将来ニ於テ帝国ノ真 ノ一県ト為サザルベカラザルヲ信ズ。」︵₁₇︶と,台湾を日本の一部として含めるべ きことを訴えている。具体的にはフランスのアルジェリアに対する統治方法に 依拠し,「公権ニ付テハ帝国ノ危難ヲ醸スコトナキガ故ニ,新臣民ニ速ニ莫大 ノ権ヲ賦与シテ可ナルベシ。刑律ニ付テハ日本ノ刑法ヲ施行シテ可ナリ。私権 ニ付テハ先ヅ彼土ノ習慣ヲ考査シ,以テ如何ナル手段ニ依リ又如何ナル進歩ニ 依リ日本民法ヲ漸次施行シ得ルヤヲ観察セザル可カラズ。」︵₁₈︶と指摘する。
台湾事務局委員の原敬も「台湾問題二案」︵₁₉︶の中で,ドイツのアルザス・ロー レンス地方やフランスのアルジェリア地方における統治を例にし,「台湾総督 ニハ相当ノ職権ヲ授クベシト雖ドモ,台湾ノ制度ハ成ルベク内地ニ近カラシメ 遂ニ内地ト区別ナキニ至ラシムルコトヲ」︵₂₀︶目指し,台湾を日本の内地と近い 形で統治を行うべき案を示した上で,「台湾島及澎湖島ニ施行スル為メニ特ニ 発布シタル法律ヲ除クノ外現行法律ニシテ其全部又ハ一部ヲ台湾島及澎湖島ニ 施行スルトキハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム。」︵₂₁︶の条項を含む法律案を提起した。
(二)六三法の審議及び成立の過程
このように台湾の統治方法をめぐり,台湾を憲法の外に置き植民地として統 治する植民地主義と,憲法を台湾にまで延長して適用する内地延長主義の考え が示されていたが,明治 29 年(1896 年)3 月 17 日に六三法の法案が衆議院第 9 議会に提出された際の当初の法案は下記の通りであった。
第 1 条 台湾総督ハ其ノ管轄区域内ニ法律ノ効力ヲ有スル命令ヲ発スルコトヲ 得
第 2 条 前条ノ命令ハ台湾総督府評議会ノ議決ヲ取リ拓殖務大臣ヲ経テ勅裁ヲ 請フヘシ
台湾総督府評議会ノ組織ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
第 3 条 臨時緊急ヲ要スル場合ニ於テ台湾総督ハ前条第一項ノ手続ヲ経スシテ 直ニ第一条ノ命令ヲ発スルコトヲ得
第 4 条 前条ニ依リ発シタル命令ハ発布後直ニ勅裁ヲ請ヒ且之ヲ台湾総督府評 議会ニ報告スヘシ
勅裁ヲ得サルトキハ総督ハ直ニ其ノ命令ノ将来ニ向テ効力ナキコトヲ 公布スヘシ
第 5 条 現行ノ法律又ハ将来発布スル法律ニシテ其ノ全部又ハ一部ヲ台湾ニ施 行スルヲ要スルモノハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
議会に提出された際,政府委員の水野遵は台湾では土匪の乱が起き,「今日 台湾ノ状況ハ内地ト同様ノ法律命令ヲ施行スルコトハ到底出来マセヌデゴザイ マス,(略)此後ト雖モ尚暫クノ間ハ到底人情風土ノ異ナル人民ニ対シ,土匪 乱賊ノ屢々起ル場所デゴザイマスル故ニ,其時其場合ニ応ジテ法律ノ効力ヲ有 スル命令ヲ発スルコトガ必要デゴザイマス,」︵₂₂︶と述べ,台湾においては日本と 異なる形式で統治する必要性を訴えている。
しかしながら,同法によると台湾総督は命令(これを律令と称する)を発する 立法権を有し(第 1 条),臨時緊急の場合は台湾総督が独断で律令を発し(第 3 条),評議会へは事後報告で足りることとなっている(第 4 条)。同法に基づき,
台湾総督に広大な権限を付与することには,衆議院での審議段階からその違憲 性が問われることとなった。
中村克昌は,「一般民政上ノ諸般ノ事ニ就イテ命令ヲ発スル大権ヲ附スルト 云フコトデアルカ,果シテ左様デゴザイマスレバ,随分非常ナル大権ト申サナ ケレバナラヌ,我憲法ノ第八条九条等ニゴザイマス通,法律命令ハ我国デハ□
天皇ノ外之ヲ発スル大権ハゴザイマセヌガ,果シテ民政上百般ノコトガ是ニ含 有シテ居ルト云フコトデアルカ,之ヲ伺ヒタイ,」︵₂₃︶と,法的根拠について質し
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ている。対する水野の答弁は,「全ク是ハ憲法トハ関係ナイノデゴザイマス,
憲法ハ未ダ台湾ニハ全部行テ居リマセヌ,即チ台湾ニハ憲法ノ効力ハナイノデ アリマス,故ニ此法律ノ効力ヲ有スル命令ヲ発スルコトヲ総督ニ与ヘルノデア リマス,」︵₂₄︶というものであったが,この発言が引き金となり台湾における憲法 適用の有無についての議論が高まってゆく。
櫻井義起は,「政府委員ハ台湾ニハ我憲法ガ行レテ居ナイト云フコトデアリ マシタガ,何所ノ土地ト雖モ我帝国ノ所有ニ帰スルト同時ニ憲法ヲ行フコトハ 無論ノ事デ,少シク台湾ニ憲法ガ行レテ居ラナイト断言セラルルノハ,何カノ 語弊デハナカラウカ,」︵₂₅︶と,再度疑問を投げかけているが,水野は「憲法ノ全 部ガ行レテ居ナイ,申換ユ(ママ)レバ,憲法ノ中デモ,此臣民ノ権利義務トカ云フコ ト抔ハ実際行レマセヌ,併ナガラ憲法上ノ□天皇ノ大権ガ台湾ニ行レテ居ルコ トハ無論デゴザイマス」︵₂₆︶と返答している。その後,水野は貴族院でも「憲法 ハ全クハ行レマセヌト存シマスガ或部分ハ行ハレル部分モゴザイマセウガ或ル 部分ハ実際ニ行ハレマセヌ点ガゴザイマスル,ソレ故ニ憲法ハ台湾ニ全ク行レ ナイト云フコトハ政府ハ明言ハ致シマセヌ,」︵₂₇︶と,台湾では憲法の一部の適用 範囲には含めるが,憲法の全てを適用する訳ではない,という曖昧な答弁に終 始している。
しかし,こうした姿勢には多くの議員より反発が起き,特に高田早苗は「憲 法ノ台湾ニ行レテ居ルカ,行レテ居ナイカト云フコトハ,最モ重大ナル事柄デ アル,尤モ政府ノ見込デ一部ダケハ行ハセテ居ルト看做ストカ,看做サヌトカ 云ツテ,ソレデ済ムト云フ筈ハドウシテモナイノデアル」︵₂₈︶や,「政府ハ自分勝 手ニ其一部ヲ応用シタリ,シナカツタリスルト云フコトハ,憲法ヲ蹂躙スル挙 動ト言ハナケレバナラヌ」︵₂₉︶と,政府の曖昧な姿勢を度々痛烈に批判する立場 を闡明にしていた。
このような対立を受け,3 月 24 日に政府は一度法案を撤回したが,2 日後に は全く同じ法案が提出された。高田は本法案が可決された場合のことにつき,
「台湾ニ此事ガ行レマスルト云フト,何事デモ台湾総督ト云フモノガ出来ルノ デ,日本ノ政府ト云フモノハ法律ノ事柄ハ議会ノ協賛ヲ経ナケレバ出来ナイ,
畏クモ□天子様ト雖モ出来ナイガ,台湾総督ハ当座一時ノ事デハアルケレドモ,
法律デモ,勅令デモ,万般ノ事ガ皆出来ルト云フノデアルカラ,元首以上ノ権 力ヲ当座ノ間ハ持ツト云フコトニ為ツテ来ル,」︵₃₀︶ことを挙げ,台湾総督に広大 な権限を与える点は憂慮すべきである旨を指摘していた。しかし,「此ノ法律 ハ施行ノ日ヨリ満三箇年ヲ経タルトキハ其ノ効力ヲ失フモノトス」の条文が第 6 条として付加され,3 年の時限立法という条件の下で衆議院を通過,27 日の 貴族院の審議でも山脇玄や渡辺清等により憲法との整合性について改めて質疑 がなされ,28 日には曾我祐準や西村亮吉により衆議院で一度撤回された法案 が再び政府により提出されたことへの確認の質問を行われたが,賛成者多数で 六三法が採択されることとなった。
二,高野事件の経緯と顛末
このような過程を経て六三法が施行されることとなったが,高野事件により 台湾への憲法の適用可否の問題に改めて焦点が向けられ,さらにそれと相俟っ て台湾の判官に対する身分保障も議論されてゆく。以下,高野事件の経緯とそ の顛末につき整理しておこう。
(一)高野孟矩と高野事件の概況
高野孟矩︵₃₁︶は,安政元年(1854 年)に盤城国元宇多郡谷地小屋村(現在の福島 県相馬郡)に仙台藩士伊達藤五郎の家臣であった高野孟直と相馬藩士佐藤氏の 娘ひさ子の次男として生まれた。武芸を修め,15 歳の時には戊辰戦争に父と 兄と共に出陣したが敗れ,没落した。その後,白石学校に入り漢学を学び,角 田県立学校の助教を経て,明治 8 年(1875 年)4 月上旬頃まで盤前県聴訟課三
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春出張所にて勤務,上京後は司法卿の大木喬任の下で法律の勉強に勤しんだ。
明治 13 年(1880 年)には大木の推薦を受け,大阪上等裁判所に検事として任 用され,翌年には松江裁判所へ転勤,明治 15 年(1882 年)に佐賀始審裁判所 検事となったが,在職中に判事へと転じた。その後も各地を転々とし,明治 17 年(1884 年)5 月には広島控訴裁判所判事,同年 12 月には広島始審裁判所 判事,明治 19 年(1886 年)7 月には静岡始審裁判所浜松支庁判事,明治 23 年(1890 年)10 月には東京控訴院判事,明治 24 年(1891 年)8 月には札幌地方裁判所所 長,明治 27 年(1894 年)4 月には新潟地方裁判所所長に就任した。芳川顕正司 法大臣の要請により,明治 29 年(1896 年)4 月に台湾総督府民政局事務官に任 じられ,法務部長を命ぜられ︵₃₂︶,さらに同年 5 月に台湾総督府法院判官兼台湾 総督府民政局事務官となり,高等法院長に任命された︵₃₃︶。
高野が渡台した当時は土匪の横行により治安が悪化しており,乃木希典台湾 総督の統治の実情に対して高野自身不満を抱いていたことから「台湾ノ施政ニ 関スル意見書」︵₃₄︶を認め,台湾統治の改善を求めている。その他にも,内地の 刑法をそのまま台湾において施行することに反対する意見書︵₃₅︶を提出している。
明治 30 年(1897 年)7 月 29 日に乃木より高野非職の上奏案が提出された。
高野はすぐさま「台湾にも憲法は施行せられ,台湾の裁判官も憲法上の裁判官 なりと信ず,御注意まで開陳し置く」という旨の電信を松方正義総理大臣・高 島鞆之助拓殖務大臣・清浦奎吾司法大臣,さらには乃木総督の各方面に送付し た︵₃₆︶。8 月 1 日には抗議文の書面︵₃₇︶を内閣宛に郵送,当該抗議文で高野は憲法 上の身分保障規定に言及し,「刑法ノ宣告又ハ懲戒ノ処分ニ由ルノ外其職ヲ免 セラルルコトナケレハ,泰然其職務ヲ実行スベシトノ律意ヲ明ラカニ欽定セラ レタルモノナレハ,今般ノ如キ無法ノ非職処分ハ幾度辞令ヲ下付セラルルモ之 ヲ受クヘキ義務ナキハ勿論,曲ケテ之ヲ受クルハ裁判官本然ノ職責ニ背戻スル ノ最モ甚シキモノタレバナリ。」︵₃₈︶と,非職命令は違憲であるため従う道理はな いと指摘した上で,「孟矩カ非職ノ辞令ヲ拒絶スルハ決シテ傲慢ノ意ニ出シニ
アラス。職責上実ニ止ヲ得サルニ出シナリ。然レドモ既ニ憲法上ノ欽命ヲ死守 シ,御委任ノ職責ヲ全フセント決心セリ。此決心アル以上ハ如何ナル強迫,如 何ナル暴力ヲ以テ孟矩ノ職席ヲ奪ヒ,且ツ孟矩ヲ追放セントスルアルモ,又此 五尺ノ身寸断セラレ粉砕セラルルトモ,一心ハ止リテ此職席ヲ守リテ,永ク此 台澎司法権ノ確立ヲ守護センコトヲ期セリ。故ニ若シモ強迫暴威ノ手段ヲ以テ,
此職席ヲ奪去ラレントスルカ如キモノアランニハ,正当防衛ノ権内ニ於テ許ス 限リ身力ヲ盡シテ之ニ抵抗シ職席ノ上ニ斃レテ後止マント決心セリ。」︵₃₉︶との 決意を表明している。
その後高野は上京,何度か総理大臣等と面会を重ね,その度に非職の処遇は 受け入れ難いことを訴えたが,10 月 1 日に正式に非職の辞令が送付されると 松方首相宛に抗議書を添付して送付︵₄₀︶,内閣は 10 月 5 日に再度高野宛に辞令 書を送付したが,高野は再び抗議書を認め,内閣総理大臣へと返送した︵₄₁︶。 高野はその後渡台,10 月 23 日に帰任届を乃木総督宛に提出した。その際帰 任届に「追て小官在京中内閣より非職の辞令送付せるも右は違法違憲の辞令に 付,直に返却に及び置き候。其際添付せる第一抗議書第二抗議書二通為念此に 添へ供貴覧候也。」︵₄₂︶との文言を付加したのに対し,乃木総督は「貴下は十月一 日非職仰付られたる旨公式を以て官報に掲載あり。且つ其旨松方内閣総理大臣 より通知に接し居れり。故に台湾総督府に於ては貴下は非職者にして職務に服 すべきものにあらずと認む。依て届書は返還候也。」︵₄₃︶との理由を述べ,高野の 主張を受け入れない姿勢を闡明にした。渡台直後の高野のインタビュー記事が 出され,「腕力を以て職務の執行を妨げ,憲兵とか巡査とかで動かそうとする なら単独だから或は負るかも知れぬが,斯くされたとて只一個の高野孟矩は亡 ぶかも知ぬが決して決して法理は滅亡せぬ。それで自分は満足なのだ。」︵₄₄︶と自 身の心境を吐露している。25 日には再度,高野は総督宛てに長文の意見書を 提出,その際には封書に高等法院長の名義を記載しなかったため意見書は受理 された︵₄₅︶。乃木は 27 日に高野と面会し,穏便に解決するよう説諭したものの,
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高野は頑として聞き入れなかったため会談は失敗に終わった︵₄₆︶。10 月 28 日に 総督の命を受けた山口高等法院長代理が官舎の引渡を要求したのに対し,「そ は以ての外なり。余は正当の現任者なることは憲法上何の疑を容れん。総督府 若し暴力を加へなば余は死を以て之を擁護せむのみ。」︵₄₇︶と拒否,磯辺台北県警 部長が首藤大稲埕警察署長及び塩川台北県保安課長の巡査数名と共に訪れ,押 し問答の末短刀が持ち出される騒ぎにまで発展し,最終的には加藤重三郎覆院 法院長から諭され,不承不承高等法院から去ることとなった︵₄₈︶。翌日には,高 野より総督宛てに伺書が提出されたものの,総督は現任者ではない者に対して 指令することはない,との姿勢を示した︵₄₉︶。日本へ帰着後早々,首相宛に台湾 にて高等法院長としての職務に当たらされることなく暴力で妨げられ,法院を 強制退去させられた理由を面会して問いたい旨の親展書を認めた︵₅₀︶。
高野は自身に対する処分は違憲であり司法権が侵害されている点を強く抗議 したが︵₅₁︶,非職処分の決定は覆されることが無かったため,明治 32 年(1899 年)
7 月に東京地方裁判所に松方正義大蔵大臣を相手取り訴えを提起,彼自身未だ に台湾高等法院長の地位を失っておらず,国は俸給支払義務を怠っているとし て俸給の支払いを請求した︵₅₂︶。数日後には,島田三郎・田口卯吉・三宅雄二郎 が発起人となり,富士見軒において高野や新聞記者を招いた研究会が催される 等の運動や会合も相次いだが︵₅₃︶,明治 32 年(1899 年)10 月の判決では,俸給 の支出は大蔵大臣ではなく台湾総督府の所管に属するため松方を相手に訴訟を 提起することは不適当であること,また官吏の俸給は公法上の債権としての性 格を有することから民事裁判で私法上の債権を求めることは適当ではない,と の理由から訴えを却下する旨が言い渡された︵₅₄︶。
高野はこの判決を不服として東京控訴院へ控訴したが,明治 33 年(1900 年)
2 月に言渡された判決では,「民事訴訟法に於ては文武官の俸給を以て一の債 権とし,之を差押ゆることを許し,若し第三債務者にして支払ひを為さざると きは訴を以ても尚ほ且請求し得べきことを規定しあるを見れば,我現行法規の
下に於ては官吏俸給支払請求争訟の如きも亦民事裁判所の管轄に属する者なり と解釈せざるを得ざる者とす」︵₅₅︶として官吏の俸給に関する訴え自体は民事裁 判所の管轄内であるとしたものの,判官の俸給は台湾総督府の所管に属すると し,控訴を棄却した。
さらに,高野は大審院に上告したが,「官吏ノ俸給ハ官職ニ附随スルモノナ ルカ故ニ,其未タ官吏ノ手ニ帰セス国庫ニ対スル権利トシテ存在スル間ハ公法 上ノ債権ニシテ私法上ノ債権ニ非ス,従テ其債権ノ存否ヲ判定スルモ亦公法ノ 解釈適用ノ外ナラサルヲ以テ,特別ノ規定アルニ非サレハ司法裁判所ノ管轄ニ 属スヘキモノニ非ス」︵₅₆︶,との判断がなされ,高野の敗訴が決定した。
(二)高野支持運動の模様
当時のメディアでは連日に亘り事件の動向を詳細に報道すると共に,各地に おける高野支持運動の状況を伝え,事件の進捗状況に着目している。
事件は,早くより法学者の関心を集めていた模様である。明治 30 年(1897 年)
9 月 30 日には東京専門学校にて「台湾法官は憲法の保障ありや否や」という 演題で岸小三郎・山田一郎・鈴木喜三郎・志田鉀太郎・坂本三郎が出席する予 定であることが報じられている︵₅₇︶。
10 月に高野が渡台する直前には,富田鐡之助・飯田宏作・山田一郎を発起 人とする高野孟矩氏招待会が有志により開催された。同会は同月 15 日,麹町 区富士見軒にて中御門侯・船越衛・松岡康毅・藤井三郎・後藤新平・島田三郎・
鈴木充美・元田肇・大岡育造・栗原亮一・大竹貫一・田中正造・中島又五郎・
守屋此助・三宅雄二郎・曲木如長・十文字信介・首藤陸三・望月小太郎・小手 川豊次郎・太田実等,総勢 150~60 名の人たちにより開催され,まず高野が事 件の顛末及び憲法上身分の保障が定められているために非職は憲法に違背する 旨を訴える演説を行った後,山田一郎・田中正造の両氏による演説が行われ た︵₅₈︶。翌 16 日には,再び富士見軒において尾崎三良・松岡康毅・島田三郎・
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田口卯吉・箕浦勝人・安川繁成・坂谷芳郎・佐久間貞一等 50 名余が出席する 経済学協会例会が催され,高野の演説の後,懇親会が開催された︵₅₉︶。
10 月 17 日には新橋から台湾へと発つ際には見送る人が多く,横浜まで見 送った者も数十名おり,車中で十文字信介が「堂々大政府持余一法官」と諧謔 したのに対し,高野は「孤忠唯托春秋筆,千古自知分正奸」の句を誦した︵₆₀︶。 渡台した高野を慰問するために,同月 23 日には富田鐡之助や飯田宏作が中心 となり台湾へ派遣する人員の選定を行っている旨が報道されている︵₆₁︶。 法院からの立退きの騒ぎがメディアで取り上げられるにつれ,高野支持の運 動は益々活発化していった。11 月 2 日,台北で弁護士の小林勝民等の有志が 政談演説会や懇親会を開催することが計画されていたにもかかわらず,警察官 より度重なる妨害を受けたため開催することが出来なかったが︵₆₂︶,高野の処遇 をめぐる反発のために退官した前台北地方院長の川田藤三郎・前覆審院長の加 藤重三郎・前新竹地方法院長兼台北地方法院判官の戸口茂里・前嘉義地方法院 長の竹内平吉と共に日本へ帰途に着いた際には,各地で支持者より熱烈な歓迎 を受けた。11 月 10 日に佐賀,16 日に広島,17 日に岡山,18 日に大阪,21 日 に名古屋,22 日に静岡の各地で慰労会が催され,それぞれの場で高野は自身 の非職は違憲である旨の演説を行った︵₆₃︶。23 日に新橋へ到着した際には,富 田鐡之助・松岡康毅・飯田宏作等を中心として 200 名余りが集まり一行を出迎 え,有志により演説が行われたが,演説の最中に警吏より止められた︵₆₄︶。 12 月 1 日には,飯田宏作を発起人とする慰労歓迎会が江東中村楼にて催さ れ,板垣伯・曽我子爵・富田鐡之助・尾崎行雄・鳩山和夫・田口卯吉・島田三 郎・元田肇・千坂高雅等,200 名を超す代議士や弁護士・実業家・新聞記者等 各界の人たちが集まり,高野を激励した上で憲法違反の状況を批判した︵₆₅︶。 こうした各地での会合の他にも,明治 31 年(1898 年)早々には川上音二郎 により事件の劇が上演されることが計画され,脚本は既に脱稿されたものの,
政治的理由により脚本が不認可となるならば内閣及び警視総監に直接談判する
旨の記事も報じられている︵₆₆︶。
各地で内閣の失政を批判する運動も起きており,明治 30 年(1897 年)10 月 24 日に,仙台民友倶楽部で高野の違憲抗議に同情を表明する決議がなされて いるのを契機として︵₆₇︶,11 月 27 日には宮城進歩党支部総会で高野の非職を違 憲とする決議がなされている︵₆₈︶。憲法擁護義団は,松方首相を始め各大臣に辞 職勧告書を送付︵₆₉︶,国民協会も事件を取り上げ,内閣不信任案の上奏案を提出 し内閣の責任を問う旨を明らかにしている︵₇₀︶。高野と同時期に職を辞した各判 官も活動を行う旨が伝えられていたが︵₇₁︶,明治 30 年(1897 年)12 月 4 日には 神田錦輝館にて加藤重三郎・川田藤三郎による憲法擁護のための演説会が催さ れることとなり︵₇₂︶,さらに同月 15 日には,栃木における憲法擁護演説会の場 で戸口茂里・竹内平吉・川田藤三郎が事件の概要を述べた上で内閣の憲法違反 に抗議︵₇₃︶,それぞれ群馬・新潟・長野に向けて遊説を行う予定であることも伝 えられた︵₇₄︶。このように,国内で高野支持運動が徐々に拡大していった様子が 新聞報道から確認出来る︵₇₅︶。
高野自身が非職を頑なに拒む姿勢を貫いている様子も報道されている。判事 若しくは地方長官として適当な場所へ転任することも伝えられていたが︵₇₆︶,高 野は台湾へと再び赴く決意を周囲に伝えていた︵₇₇︶。高野が非職に抗議するため に渡台する際には,東京地方裁判所の工藤検事正や控訴院の各判事より円満な 解決をするよう勧告されたものの,強行して台湾へ戻ることを訴えたとい う︵₇₈︶。高野に対しては新たに発足した伊藤内閣より懲戒を解き,以前よりも待 遇の良い地位に任用することが打診されたが,彼は未だに台湾高等法院長の地 位にあることを主張し続けた︵₇₉︶。明治 31 年(1898 年)の 7 月から 8 月にかけ て高野が台湾高等法院長の肩書のままで欧米漫遊の計画を立て,日本政府が憲 法に頓着していないことを世界に知らしめる目的を果たそうとしていたことも 明らかにされている︵₈₀︶。
高野が台湾へ赴く際には,「世論の氏に対して冷淡なるが如き観あるは政府 164
党たる進歩党の新聞紙が現内閣に遠慮して大声疾呼せざるが故のみ,国民は氏 に同情を有すると知れ,」︵₈₁︶や「高野事件は実に現内閣の大失策なり,居留地 発行の外字新聞は挙って内閣の非立憲的挙動を非難せり,蓋し此の事件は外交 上に少からざる妨害を与ふるならん,」︵₈₂︶との報道がある一方で,否定的な見 解で報じるものも見受けられる。例として『台湾新報』内に掲載された記事,
「法院内部の昨今」(1897.10.9)及び「高野氏渡台の理由」(同)が挙げられる。
前者では,「出処進退は最も慎重を要す,憲法の保障は他に之を論議し主張す るの方法あるべし,之を自家の進退に依りて決せんとするが如きは最も不可な り,特に裁判官たる者冷( マ清マ )平静を要す,若し果して此の如き卑劣の挙動ありと すれば吾人は最早寛仮する能はざるなり,(略)( マ冷清マ )なれ,平静なれ,吾人は 我法院の為め将た判官諸氏の為軽挙妄動することなからんことを勧告す」︵₈₃︶と 冷静な対応を促している。後者では,「高野氏如何に頗僻なりとて非職被仰付 たる以上は,我は判官なり,高等法院長なり,とて見苦しくも椅子にかじりつ くの愚を為さざるべし,好し又憲法の保障とやらがあるとして其の処分の不当 なるにもせよ其の当否を裁決(先づ其の抗議を受理する処ありと仮定して)するま では非職は非職なり,高野氏如何にりきみても非職の効力を没すること能はざ るべし」︵₈₄︶と,非職の処遇を受け入れるべきことを記している。
三,裁判所構成法における「判事」と台湾総督府法院条例における
「判官」
メディア媒体に寄稿されている意見では,台湾への憲法の適用可否について も改めて問題が再燃している模様が窺え,「台湾法官に関する疑問(台湾に於け る憲法の効力如何)」(『読売新聞』1897.9.10)では,憲法の一部は台湾に適用し得 るとの学説を紹介する。また,柳門吾の「台湾法官意( マ マ )見問題」(『法学新報』
79,1897:51-54)では,事件と相俟って六三法の合憲性そのものが新聞各紙で 問われている現状が示されている。
他方,新聞や雑誌内で主な論点の一つとして挙げられているのは,裁判所構 成法と台湾総督府法院条例との関連や,憲法で身分が保障されるところの判事 と台湾総督府法院条例に基づく判官との関係に着目したものである。
(一)判事と判官の地位に関する規定
最初に判事と判官の地位の違いを検討するために,裁判所構成法及び台湾総 督府法院条例に掲げられている諸規定について見ておこう。
裁判所構成法は明治 23 年(1890 年)に制定され︵₈₅︶,判事の身分保障は下記 のように規定されていた。
第 67 条 判事ハ勅任又ハ奏任トシ其ノ任官ヲ終身トス
第 73 条 第七十四条及第七十五条ノ場合ヲ除ク外判事ハ刑法ノ宣告又ハ懲戒 ノ処分ニ由ルニ非サレハ其ノ意ニ反シテ転官転所停職免職又ハ減俸 セラルルコトナシ,但シ予備判事タルトキ及補闕ノ必要ナル場合ニ 於テ転所ヲ命セラルルハ此ノ限ニ在ラス
前項ハ懲戒取調又ハ刑事訴追ノ始若ハ其ノ間ニ於テ法律ノ許ス停職 ニ関係アルコトナシ
第 74 条 判事身体若ハ精神ノ衰弱ニ因リ職務ヲ執ルコト能ハサルニ至リタル トキハ司法大臣ハ控訴院又ハ大審院ノ総会ノ決議ニ依リ之ニ退職ヲ 命スルコトヲ得
第 75 条 法律ヲ以テ裁判所ノ組織ヲ変更シ又ハ之ヲ廃シタル場合ニ於テ其判 事ヲ補ス可キ欠位ナキトキハ司法大臣ハ之ニ俸給ノ半額ヲ給シテ欠 位ヲ待タシムルノ権ヲ有ス
さらに,判事が職務上の義務に違背した場合の具体的な懲戒の規定は,明治 23 年(1890 年)に制定された判事懲戒法内に次の条文が設けられた。
166
第 1 条 凡ソ判事ヲ懲戒スルハ左ノ場合ニ於テ懲戒裁判所ノ裁判ヲ以テスヘシ 第 1 職務上ノ義務ニ違背シ又ハ職務ヲ怠リタルトキ
第 2 官職上ノ威厳又ハ信用ヲ失フヘキ所為アリタルトキ 第 2 条 懲罰ハ左ノ如シ
第 1 譴責 第 2 減俸 第 3 転所 第 4 停職 第 5 免職
第 8 条 懲戒裁判所ハ各控訴院及大審院ニ之ヲ置ク
第 14 条 控訴院ニ於ケル懲戒裁判所ハ院長及部長ヲ除ク外其ノ院ノ判事及其 ノ管轄区域内ノ総テノ下級裁判所ノ判事ニ対スル懲戒事件ヲ管轄ス 第 15 条 大審院ニ於ケル懲戒裁判所ハ左ノ事件ヲ管轄ス
第 1 第一審ニシテ終審トシテ大審院ノ判事,控訴院長及控訴院部長 ニ対スル懲戒事件
第 2 控訴院ニ於ケル懲戒裁判所ノ裁判ニ対スル抗告及控訴
一方,明治 29 年(1896 年)5 月に定められた台湾総督府法院条例は,以下の 8ヵ条より成る律令であった。
第 1 条 台湾総督府法院ハ台湾総督ノ管理ニ属シ民事刑事ノ裁判ヲ為スコトヲ 掌ル
第 2 条 台湾総督府法院ヲ分テ地方法院覆審法院及高等法院トス其管轄区域ハ 行政区画ニ依ル
第 3 条 地方法院ハ県庁支庁及島庁所在地ニ各一箇所ヲ置キ其管轄区域内ニ於 ケル民事刑事ノ第一審裁判及刑事ノ予審ヲ為ス所トス
台湾総督ハ地方法院管内必要ト認ムル地ニ常設若クハ定期ノ地方法院 出張所ヲ置クコトヲ得
覆審法院ハ台湾総督府所在地ニ一箇所ヲ置キ各地方法院ノ裁判ヲ覆審 スル所トス
高等法院ハ台湾総督府所在地ニ一箇所ヲ置キ覆審法院ノ審判ニシテ適 法ニ非サルモノヲ破毀匡正スル所トス
第 4 条 各法院ニ判官ヲ置ク
判官ハ勅任又ハ奉任トス台湾総督之ヲ補職ス
裁判所構成法ニ於テ判事タルノ資格ヲ有スル者ニ非サレハ判官タルコ トヲ得ス
但当分ノ内地方法院判官ハ此限ニ在ラス 第 5 条 各法院ニ院長ヲ置ク判官ヲ以テ之ニ補ス 院長ハ院内及下級法院ノ裁判事務ヲ監督ス
第 6 条 総テ裁判事件ハ地方法院ハ一人覆審法院ハ三人高等法院ハ五人ノ判官 ヲ以テ之ヲ審問裁判ス
合議裁判ニ在テハ院長ヲ以テ其裁判長ト為シ院長事故アルトキハ上席 判官ヲ以テ之ニ充ツ
第 7 条 各法院ニ検察官ヲ置ク
検察官ハ勅任又ハ奉任トシ台湾総督之ヲ補職ス
検察官ハ刑事訴追ヲ為シ其裁判ノ執行ヲ指揮シ国ノ訴訟ニ付テハ国ヲ 代表ス
上級法院ノ検察官ハ下級法院ノ検察官ヲ監督ス
地方法院検察官ノ職務ハ警部長及警部ヲシテ便宜之ヲ代理セシムルコ トヲ得
第 8 条 各法院ニ書記ヲ置ク 書記ハ判任トス
168
書記ハ民事刑事ノ審判ニ関スル準備ヲ為シ法廷ニ立会調書ヲ作リ及一 切ノ訴訟記録ヲ整理保管ス
書記ハ前項ノ外交官ノ指揮ニ従ヒ法院ニ於ケル諸般ノ事務ニ従事ス
当該条例では台湾の司法機関を規定しているが,内地とは名称が異なってお り,台湾総督の管理下で台湾総督府法院が設置され(第 1 条),各法院で裁判を 行うのは判官となっている(第 4 条第 1 項)。また,判官には裁判所構成法の判 事の資格を有するものが任じられるが(同条第 3 項),地方法院の判官は判事の 資格を有さなくとも任命され得る規定となっており(同条同項但書),判事は裁 判所構成法第 57 条により 2 回の競争試験を経たもののみが任じられる要件と なっているのに比して軽いものとなっている。また,判官の身分保障に関する 条項は置かれていない。
さらに,俸給の面から判事と判官の地位の比較をすると,その相違も見えて くる。試しに表にて示すと,明治 27 年(1894 年)に定められていた判事の俸 給は[表 1]の通りであり︵₈₆︶,これに対して,明治 30 年(1897 年)時点での 台湾法院判官は[表 2]に基づき,年俸が支払われることとなっていた︵₈₇︶。 内地では裁判所の設置場所という条件を除いては判事の基本給が一律となっ ており,昇給の面で人数の制約が一部なされている。これに対し,台湾法院で は高等法院長・覆審法院長を除き,基本給の段階から予め判官の人数制限が設 けられている。しかも,明治 30 年(1897 年)2 月時点での判官の俸給を見ると,
高等法院では院長の高野は 2 級俸,山口武洪判官は 7 級俸,結城顯彦・浜崎芳 雄・服部甲子造・竹内平吉の各判官は 9 級俸となっており,また覆審法院では 院長心得の加藤重三郎は 7 級俸,瀧野種孝・大橋済の各判官は 9 級俸,広井崎 太郎判官は 10 級俸となっており,本来規定されていた俸給額と相異する変則 的な給与体系となっていた。地方法院になると,そもそもの定員数にも満たな い判官しか赴任しておらず,上級法院と併せて地方法院でも勅令で定められて
[表 1]判事の俸給(明治 27 年(1894 年))
裁判所
年俸
大審院 控訴院 地方裁判所 区裁判所
院長
(1) 部長
(3) 判事
(25) 院長
(7) 部長
(15) 判事
(85) 所長
(49) 部長
(70) 判事
(315) 判事
(651)
(5000 円)1 級俸 ○
勅任
(4000 円)2 級俸 ①
(3500 円)3 級俸 △ ②
4級俸 上
(3000 円) ○
(4)▲*1
(2500 円)下
(2500 円)1 級俸 *2
奏任
2 級俸
(2200 円) △ ①
(2000 円)3 級俸 ○
△
③
(1800 円)4 級俸
(1600 円)5 級俸 ○ ④
6 級俸
(1400 円)
7 級俸 △
(1200 円)
△ (2)*3
(1000 円)8 級俸 ○ ▲
(130)*4
(80)*5
(900 円)9 級俸 ○
10 級俸
(800 円)
△ △
11 級俸
(700 円)
12 級俸
(600 円) ○ ○
( )の数字は任命される人数の定員を示す。
丸印は基本給,三角印は場合に依って昇給することが認められるものを示す。原則として△は年功による昇給である。
○や△内の数字はそれぞれ以下の場所に設置されている裁判所を示す。
1 =東京・大阪 2 =東京・大阪以外
3 =京都・横浜・神戸・長崎・函館・新潟・仙台・名古屋・広島・熊本 4 = 1・3 以外
* 1 第 3 条「大審院判事ノ中四人大審院検事ノ中一人ヲ限リ特ニ勅任ニ進メ四級俸ヲ給スルコトヲ得」
* 2 第 5 条「東京及大阪ノ地方裁判所長ニシテ一級俸ヲ給セラルル者ハ特ニ勅任ニ進ムルコトヲ得」
* 3 第 6 条「東京及大阪ノ地方裁判所判事ノ中各一人ハ七級俸ヲ給スルコトヲ得」
* 4 第 8 条「地方裁判所判事及区裁判所判事ニシテ予審掛ヲ命セラレタル者ハ百三十人ヲ限リ九級俸又ハ八級俸ヲ 給スルコトヲ得」
* 5 第 9 条「区裁判所判事ニシテ其ノ裁判所監督ヲ命セラレタル者ハ八十人ヲ限リ九級俸又ハ八級俸ヲ給スルコトヲ得」
△
1△
3△
4△
1170
[表 2]判官の俸給(明治 30 年(1897 年))
法院 年俸
高等法院 覆審法院 地方法院
院長(1) 判官(5) 院長(1) 判官(3) 院長(15)判官(30)
1 級俸
(3500 円)
○
勅任
2 級俸
(3000 円)
3 級俸
(2500 円)
▲
(2)* ▲*
奏任
4 級俸
(2200 円) ○
(1) ○ 5 級俸
(2000 円) ○
(5)
6 級俸
(1800 円) ○
(1)
7 級俸
(1600 円) ○
(1)
○
(5)
8 級俸
(1400 円) ○
(3)
9 級俸
(1200 円) ○
(2)
○
(5)
10 級俸
(1000 円)
11 級俸
(900 円) ○
(15)
12 級俸
(800 円)
13 級俸
(700 円) ○
(15)
14 級俸
(600 円)
( )の数字は任命される人数の定員を示す。
丸印は基本給,三角印は場合に依って昇給することが認められるものを示す。
*第 2 条但書規定「高等法院判官ノ内二人及覆審法院長ニハ特ニ三級俸ヲ給スルコトヲ得」
いた俸給表とは異なる形で運用されていた︵₈₈︶。俸給の仕組みやその運用実態を 見ても,台湾判官は内地の判事と異なっていたことが分かる。
こうした判事と判官との違いが関連する規定の面から浮き彫りとなるが,こ れは高野の処分をめぐる意見の相違としても表れている。
(二)判事と判官との峻別について
高野の非職処分を適切なものとする見解の 1 つには,台湾は未だに日本と同 等の司法制度を整備出来ていないために憲法の効力が及んでおらず,よって台 湾の判官には憲法で規定されているところの身分保障を付与することが出来な い,という考えが示されている。例えば,小澤政許「台湾ニ於ケル帝国憲法ノ 効力」(『法学新報』81,1897:4-18)では,憲法の制定は一国の文化の反映であり,
その規定は未開の地域には施行されるべきではないことを理由に新たな領土で ある台湾を当然に覊束すべきではないことを指摘している。小澤は,「台湾ト 憲法」(『法学新報』83,1898:17-24)で再び意見の対立軸を整理する。
また,台湾には憲法の規定が適用されるとの見地に立ちながら裁判所構成法 が台湾に施行されていない,あるいは同等の効力を有する法律が存在しないこ とを根拠として高野の処分は合憲である,と説く論説もある。卜部喜太郎「台 湾判官論」(『法学新報』78,1897:3-6)では,憲法で規定されている身分保障は 刑法の宣告又は懲戒法により職権を免じられる可能性があることを理解した上 で与えられるものであり,台湾では未だに判官の懲戒法が施行されていない以 上,憲法上の保障は与えられないとの見解を示す。長野保「高野法院長ニ非職 ヲ命シタルハ違憲ナルヤ否」(『法学新報』80,1897:31-35)も,台湾は憲法の適 用範囲に含まれるとの立場にありながら高野の処分を違憲とは見ていない。ま ず,台湾の判官は台湾における司法権を行うものであるため憲法上の裁判官と 認められ,憲法の保障を享有するとした上で,憲法上の解釈が裁判官の官職を 保障することに止まるのか,それとも裁判官の現職を保障し非職としないこと
172
までも含まれるのか,ということを論じる。さらに,憲法で保障されるのは裁 判官の官職に過ぎず,現職の保障は裁判所構成法第 73 条の基づくものである が,台湾の判官の保障は別になされていないこと,よって台湾判官は憲法の規 定に基づき官職としての保障はあるが,裁判所構成法に依拠して与えられる現 職の保障は無いために,政府が高野に非職を命じた措置は違憲ではないことを 説明する。高梨虎雄による「台湾ニ於ケル法官問題ヲ断ズ」(『国民之友』363,
1897:702-708)でも,判事は裁判所構成法の規定に基づく身分が保障されるの であり,憲法のみでその身分が保障されるのではないこと,台湾においては裁 判所構成法の効力が及ばず,さらに台湾総督府法院条例でも判官が終身官であ ることを保障していないことを理由に挙げ,判官は憲法の保障を受けないもの と断じている。
「所謂憲法問題」(『東京日日新聞』1897.9.18)では,高野の非職問題は裁判所 構成法との兼ね合いが問われていることを示す。台湾には裁判所構成法が施行 されておらず,別に台湾総督府法院条例があるものの裁判所構成法と同一視す べきかは疑問であること,つまり,内地は裁判所,台湾では法院と称し,前者 は法律によって定められ,後者は委任命令に根拠付けられているために性質上 相違するものであること,さらに台湾総督府法院条例では台湾の判官は裁判所 構成法上の判事の資格を有することを要件とする規定が置かれているが,この 規定により裁判所構成法が施行されていることとはならず,裁判所構成法での 判事と台湾総督府法院条例での判官とは同じものとは言えず,台湾の判官は何 によってその身分を保固するか,さらには台湾の法令が憲法上の保護を受ける ものか,という疑念を示している。
この背景には,当時の政府が取っていた見解によるものが大きく影響してい ると見られる。内閣の見解を掲載する「高野法院長の非職理由」(『東京朝日新聞』
1897.10.3)及び「高野法院長非職の理由」(『読売新聞』1897.10.3)によると,憲 法の保障はある法律の作用によって生ずるものであり,憲法の規定それのみで
は享有するものではないこと,判事は裁判所構成法により身分の保障を受ける のであり,台湾においては台湾総督府法院条例の他に何等法律が無く,さらに 裁判所構成法を施行するための勅令の発布も無く,台湾の司法制度は内地の状 況と全く別個であることを高野非職の理由として述べている。こうした日本と 台湾における司法制度の違いを指摘する記事は,他にも「台湾の裁判官及び検 察官」(『東京朝日新聞』1897.10.19)や,「台湾の裁判官及検察官」(『読売新聞』
1897.10.19)にも見られるものである。また,某官人の話を紹介している「台湾 法官の進退に関する憲法論」(『読売新聞』1897.9.11)では,台湾に裁判所構成法 が施行されていないことに多少の疑念はあるとしつつも,台湾に憲法が施行さ れており,裁判官は刑法の宣告又は懲戒処分の外はその職を免じられることは ないが,高野の処遇は免官ではなく非職であるとの見地から,高野の処分は必 ずしも憲法に抵触するものではない,という考えが示されている。
判事の佐藤博愛が寄稿した「与高野孟矩氏之書」(『台湾新報』1897.10.10・12・
13)は,高野の主張が認められるためには,台湾にも裁判所構成法のように刑 法の宣告あるいは懲戒の処分がなければ処分を受けることが無い旨が明文化さ れていなければならず,且つ判事懲戒法のように懲戒裁判所の構成及び訴訟手 続き,懲戒の種類や程度が定められていなければならないが,これら規定が台 湾で欠けている以上は憲法上の保障を受けられない,と論述する。
「台湾の司法権」(『台湾新報』1897.10.27・28・29・30・11.5・9・14・16・12.4・7・
8・9・12・15・16・17・23・24)での論旨をまとめると,次のようになる。台湾 総督は正式な手続きを経た六三法に基づき,立法権及び行政権を委任されてお り,高野自身も台湾の特殊な事情に鑑み,実情に適合している法であることを 是認していたことを示した上で,台湾において司法権の明文規定がないことを 理由に台湾の判官は当然に憲法第 58 条の保障を受けるべきとの高野の論調は 受け入れられない,とする。台湾総督は立法機関たる評議会を擁し,如何なる 命令をも発することが認められており,よって台湾の司法権は六三法に基づき
174
総督に付与された命令権より生ずる。憲法第 37 条に「凡テ法律ハ帝国議会ノ 協賛ヲ経ルヲ要ス」と規定されていることからも,所謂律令は憲法の法律とは 異なるものである。一方で,司法権は憲法第 57 条及び第 58 条にて規定されて いるように法律によって行われなければならないこと,即ち裁判所は法律によ り構成され,裁判官は法律に定められた資格を要すことが求められており,こ の要件を具備した段階で憲法上の保障を受けられるべきである。台湾の法院は,
六三法を根拠とする台湾総督の命令による台湾総督府法院条例に基づき構成さ れ,その判官も法律では無くして命令により任命されたものであり,憲法の保 障を享受することにはならない。論者の中には,台湾の判官も裁判所構成法に 定めた資格を要する,との規定に基づき,裁判官の身分保障を受けられると説 く者もいるがこれは誤解である,と指摘する。というのも,地方法院の判官は 裁判所構成法の規定に依らない,とする文言が台湾総督府法院条例内に盛り込 まれているためであり,判官の地位の違いにより憲法上享有する保障に差異が 設けられることにつき疑問を呈する。また,高野支持者の意見として憲法第 24 条「日本臣民ハ法律ニ定メタル裁判官ノ裁判ヲ受クルノ権ヲ奪ハルルコト ナシ」の規定を理由に反対論を説くが,これに対しては,裁判を受ける権利が 認められると同時に裁判の衡平を保つために裁判官に対する懲戒法が定められ ており,司法権の独立を制限していることを挙げて反論する。
竹内我漢の「法院判官非職処分合法論」(『台湾新報』1897.11.25・26・27・28・
30・12.1・2・3)では,統治権が及ぶところには憲法は有効であり,台湾領有と 共に憲法は効力を有するとしつつも,現実に行われているかどうかは全く別の 問題と指摘する。その上で,終身官の保障を享有すべき裁判官は一定の資格を 得なければならないが,憲法で規定されているところの裁判官とは台湾の判官 にも該当するか否かについては別途検討を要し,憲法が規定する法律上の裁判 官の資格は第 57 条及び第 58 条を根拠とするもの以外に,第 9 条の独立命令を 根拠とするものがあるとの見解を示している。この独立命令を発令するのは,
台湾の場合は内地の立法を正式に運用することが出来ないことに外ならず,律 令は独立命令の一種である。よって,律令により身分を与えられる台湾法院の 判官は命令上の裁判官であるために憲法第 58 条の保障を享有せず,また台湾 総督府法院条例により保障を与えられるものではない。というのも台湾の判官 は裁判所構成法に基づく判事と同等の資格を有している状況にはなく,裁判所 構成法の資格を有するものは高等・覆審の法院に限られており,全ての判官に は完全な裁判上の知識を期待出来ないこと,裁判組織としても合議制ではなく 各院長は院内及び下級法院の裁判事務を監督することが規定されていること,
よって判官としての能力が欠乏した者が裁判を執り行う危険性が孕んでいる以 上,憲法第 58 条に基づく終身官たる保障は与えられない,と結論付ける。最 後に,現段階では台湾の判官には身分保障を付与出来ない状況を改める方法と して,裁判所構成法を施行すること,新たに特別法を制定すること,台湾総督 府法院条例を改正すること,の 3 方法があることを示す。
このような台湾の抱えている立法上の問題を端的に示し,司法制度改革の必 要性を指摘した論稿として,有賀長雄「台湾ニ関スル立法ノ錯誤(附高野問題)」
(『国家学会雑誌』172,1901:1-15)が挙げられる。有賀は六三法自体が憲法違 反であるとする。というのも,憲法第 8 条で緊急勅令を規定しているのは制限 的なものと解するべきで,公共の安寧秩序が害される場合にのみ勅令が行われ るべきものであるにもかかわらず,台湾総督府は法律の効果と均しい命令を発 することが可能となっている点で違憲であること,さらに内地においては一時 勅令で以て規定しつつも帝国議会の事後承諾を経なければならないが,台湾総 督の律令は事後承諾の原則はなく,憲法の精神に違反する点を指摘する。但し,
六三法は違憲ではあるが,相当の手続きを経て発効したる以上は有効である,
とする。そして,植民地の体制として属領地主義と別格行政地主義の立場によ り,高野問題の解釈が異なる点を挙げる。属領地主義では憲法に規定のない事 項は憲法の逐条は行われないため,台湾の法院と内地の普通裁判所は連絡を通
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じる必要が無く,名称は内地では裁判所・判事と称するのに対し,台湾では法 院・判官と異なる名称が用いられ,よって判官は判事ではなく,身分保障は無 いために高野は免職となる。対する別格行政地主義では,憲法の逐条が行われ,
内地一般と事情の異なる点にのみ特例が設けられるため,特段の事情が無い限 り裁判所構成法の規定が適用されることとなる。仮に裁判所構成法自体が適用 されずとも,憲法の司法権に関する条項は適用され,台湾の判官は内地の判事,
法院は裁判所と同一視され,故に判官は理由なくその地位が奪われることは無 く身分保障はあるという結論に至る。六三法が制定されている以上,別格行政 地主義に依らなければならず,高野が永久官として訴えたこと自体は無理もな いことと見る。但し,裁判所と法院との関係を見るならば現実には内地のよう に裁判所が相互に連絡して通じ合っておらず,その欠陥により判官の地位につ いて問題が生じる事態となったのであり,仮に別格行政地主義を維持するので あれば裁判制度を整備する必要性があることに言及する。有賀は台湾統治のた めに制定された六三法は違憲であるとしながらも,議会の手続きを経ている以 上は有効なものであり,憲法の効力は台湾に及ぶことには賛意を示すが,内地 と台湾の状況の差により裁判所と法院を同等のものと扱うことには疑問を唱えると 同時に,植民地に対する統治方法の混乱により高野事件が発生した状況を考察す る︵₈₉︶。
(三)判事及び判官に対する身分保障について
他方で,台湾には憲法が適用されること,尚且つ裁判所構成法が施行されて いなくとも台湾総督府法院条例では裁判所構成法で規定する資格を有する者が 判官と任命されるとの規定があるために,台湾の判官にも憲法上身分を保障し なければならないとの見解を説く立場もあった。
脇田勇の「台湾判官ハ憲法第五十八条ノ保障ヲ享有スルヤ否ヤヲ論ス」(『法 学新報』79,1897:41-51)では,筆者は台湾が日本の版図に属する限り日本の
憲法は実行され,六三法にて台湾総督に憲法の一部である立法権を委任してい ることからも憲法は台湾に行われていること,律令は法律と抵触するものでは なく法律に代わるものとして効力を有しており,台湾判官と雖も日本の司法権 の下で活動する以上は憲法で規定されているところの裁判官として論じても支 障は無いこと,そして判官の独立は憲法の条項により当然にその独立が保障さ れるもので,台湾総督府法院条例と裁判所構成法との関係や懲戒法の有無を問 わず超然に独立するものであることを訴える。また,山口政吉「台湾法官独立 論」(『法学新報』80,1897:36-46)でも台湾には憲法の効力が及ぶと説いた上で,
憲法第 58 条の条項が自動的に台湾にも適用されるか否かについては見解が分 かれているとしつつも,憲法が新領土に効力を及ぼす以上,台湾判官の独立が 保障されるべきとの立場を主張する。さらに,裁判所構成法で規定されている 判事の非免退職について台湾では実施されておらず,唯憲法の規定が自動的に 適用されるために,判官は当然に憲法に依って独立を担保されるものである,
と説明する。
判官は憲法の規定により超然にその身分が保障されるとの見解は,高野自身 も 主 張 し て い る。 高 野 へ の 取 材 記 事「高 野 孟 矩 氏 を 訪 ふ」(『台 湾 新 報』
1897.10.23)内では,台湾には憲法が当然適用されていること,判官の保障は裁 判所構成法や懲戒処分の規定によって得られるものではなく,憲法の規定のみ で保障されるものであると述べている。「梅法制局長官と法官独立問題」(『東 京朝日新聞』1897.10.30)及び「高野問題に関する新法制局長官の意見」(『読売新 聞』1897.10.30)によると,当時の法制局長官であった梅謙次郎も,台湾総督府 法院条例や裁判所構成法の有無にかかわらず,身分の保障は憲法の条項により 独立して当然保護されるべきものと述べている。また,バリストルの望月小太 郎による「台湾法官の独立権」(『東京日日新聞』1897.10.10)の論稿でも,憲法は 一定の領土内において施行されるものであり,台湾も日本の新領土となったと 同時に憲法の適用範囲に含まれるため内地と台湾で異ならないこと,裁判官の
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