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学習を通した児童理解における教師の視点を探る

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研究ノート

 

学習を通した児童理解における教師の視点を探る

― 奈良女子大学附属小学校の実践から ―

 

創価大学教職大学院

若 井  幸 子

 

要   約

 奈良女子大学附属小学校(以下,奈良女附属小)の教育は,大正期新教育運動の指 導理念である児童中心主義に基づいた教育であり,大正期新教育運動の中心的人物で あった木下竹次(以下,木下)の『学習原論』1 に学び,児童理解の確かな方法論を 持つ教師達の存在がある。これまでの研究(「書くことによる児童理解」2 以下「前稿」

とする)で,奈良女附属小の教師達の優れた児童理解は,「日記指導」や自由研究な どの「書くこと」を奨励し,その内容を日々丹念に読み解く指導を中心とした教師の 労作業,確かな方法論に基づいているということを教師の実践事例より考察した。

 奈良女附属小の「児童理解」の中核に「書くこと」を中心にした実践があるという ことを,代表的な教師の事例で確かめることが出来たことから,今回の研究では,奈 良女附属小の教師達の学習・児童理解の視点がどこにあるのか,前稿で探った「児童 理解」に加え,大正期以来発行し続けている「学習研究」や保護者に出されている「学 年便り」などの中に現れている教師の視点を実践事例から探ってみた。そこから,日 記指導や自由研究,ノート指導など児童に「書くこと」を推進しながら,その内容を 読み解く学習・児童理解の幾つかの視点,例えば,教師と子どもの思考のずれを意識 することや,経験や観察を詳しく説明させたり書かせたり,楽しく取り組ませること を重視することなどが浮かび上がってきた。そして,それは,いわゆる単純な児童理 解の枠を超え,「学び」に取り組む児童自身を教師がどう理解しているかという学習 の視点であることも分かってきた。

 

Ⅰ はじめに―創価教育における「学びとは何か」を再考する  

 創価大学創立者池田大作先生(以下,創立者)は,創価大学設立にあたり,建学の キーワード:児童中心主義 児童理解 教師の視点 奈良の学習法

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精神に三点を掲げ,また,モットーを開学の折に示し,大学の根本姿勢とした。即 ち,建学の精神とは,「人間教育の最高学府たれ」「新しき大文化建設の揺籃たれ」「人 類の平和を守るフォートレス ( 要塞 ) たれ」であり,モットーは「英知を磨くは何の ため 君よそれを忘るるな」「労苦と使命の中にのみ人生の価値は生まれる」である。

また,創価教育の創始者である牧口常三郎先生(以下,牧口)は,自身の教育実践と日々 の実践を積み重ねた結果として『創価教育学体系』を著し,「教育は児童に幸福なる 生活をなさしめるのを目的とする」3 という結論に行き着いた。そして,様々な教育 実践の現場から思考した上で,「教育は,知識の伝授が目的ではなく,学習法を指導 することだ。研究を会得せしむることだ。知識の切売や注入ではない。自分の力で知 識することの出来る方法を会得させること,知識の宝庫を開く鍵を与へることだ。労 せずして他人の見出したる心的財産を横取りさせることでなく,発見発明に過程を踏 ませることだ(中略)昔ながらの形式的の非難が相変わらずたへないのは,蓋し教師 その人の研究指導が不十分だからだ。尚今少しく具体的に云えば教育は環境に対して 価値を見出させる事だ。(中略)即ち観察と理解と応用との方法を会得することを指 導することだ。」4 即ち,教育は知識を与えることを目的とするのではなく,自分で考え,

自分で得た知識を生かしていく方法を会得するためにある。どうすれば生涯,幸福生 活を送らせることができるかをテーマにしていると教育の目指すべき目的を述べてい る。子ども達一人ひとりが,自分自身の無限の可能性を開花させて,価値創造の喜び の人生を歩むことこそ創価教育学の目的であるということを建学の精神,そして創価 教育の創始者の言葉で確認することが出来る。

 そうであるとするならば「学ぶ」こととは,児童本人の自己実現であり,人生の最 大の目標,権利である。一生涯自分の自己実現のためにどのような学びの道があるの かそれを提示し,理解させ,一緒に前進することこそ学びの場の使命といえよう。そ れは,決して強制を暗に伴う教授が中心で無く,あくまで「自分発」,「自発能動」を 中心とするべきなのである。

 奈良女附属小の教師達もあくまでも子ども達の学びは「自分発」,「自発能動」であ ると理解し,その学びを可能にする教師の在り方,教師が子どもの学びを見る視点は どのようなものなのかを大正期以来追及し続けているとも言える。

 本稿でも,前稿に引き続き,児童理解を深める視点を,児童の学びの姿を追究し続 けている代表的な教師の実践から読み解いてみたい。

 

Ⅱ 「奈良の学習法」における「学び」

 

 木下は『学習原論』の中で,「尋常小学校の第二学年児童が比例問題を作って比を 求めて解決していくところなどすこぶるおもしろいものがある。他律的教育よりも自 律的学習による方がよく進歩するということは,伝説的の教育思想からみるとあまり

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に不思議である。(中略)自律的学習法の真髄は児童が本来具有する所創作性自律性 を発揚することだ。児童には本来伸びる力がある。教師はあまりに自分の力を過信し て余計な干渉をしてはならぬ。」5との見解に基づき,学習の意義を定義し,学習が教 師の指導のもとで行われること,また,整理された環境の中で有効に行われるという こと,そして,学習はみずから機会を求め,みずから刺激を与え,また,みずから目 的方法を立てて進行するところに成立するとし,学習の目的は社会的自己の建設であ り社会文化の創造であるとした。

 奈良女附属小の谷岡義高先生(以下,谷岡先生 現 : 副校長)は,「まほろば科学館」

(奈良女子大学附属小学校 理科だより)で「奈良の学習法の秘密」6 と題して以下 のように述懐している。

「研究発表会に来られた先生方は,子どもが中心になって授業を進め,話し合いをつ なぐ授業というイメージを持たれると思います。みえている授業の部分だけをとらえ ると,子どもに司会,進行をゆだねて,相互指名で意見をつないでいき,場合によっ ては板書も子どもに任せるような,子ども主体の学習にすればよいのだと思われがち です。しかし,学習の形だけで『奈良の学習法』が成立するのではありません。実 は,独自学習という,当日の時間が始まる前から独自に学習が始まっていることが大 切なのです。先日,中学校の先生と話をしました。『我が校のような学習を中学校で 進めると,すごい子ども達に成長すると思いますよ。』と私が言うと,お決まりの言 葉『中学校は,教えなければならない学習内容が多いので女子大附属小のような学習 方法では無理です。』というような返事が返ってきます。『ああ,やっぱりこの先生も 内容に振り回されて,子どもを育てる,学びを創るということを考えたことがないん だ。』と寂しくなりました。(中略)学習も一緒です。学習に入るまでどれだけ準備が できるかが大切です。海外旅行に出かけて行う調査は,とても費用がかかるので 1回 きりです。子どもの日々の学習も,海外調査旅行と一緒で,一回きりだと考えられます。

事実,一つの課題の学習は,一回きりなのです。『一回きりの学習』という深い願い を持って,独自学習に向かわせるのが,我が校の『奈良の学習法』であり,『自律し た学びを育てる学習法』なのです。言い換えれば,『先生と子どもが一回きりの旅に 出かけるときの学習法』なのです。」と。

 また,同じく「まほろば科学館」で谷岡先生は

「我が校は,大正期から,子どもを中心とした学習のあり方を追及してきました。そ れは,現在でも大きく変化すること無く,子ども自身の取り組みを相互に学び合わせ て,高めていく学習法を続けています。知識をいかに上手に教え込むのを見てもらう のではなく,こどもが自ら学ぶ力をつける姿を見てもらうのを目的としています。こ のような学習には,学級では,朝の会や自由研究や日記がとても大切な取り組みと なります。(中略)子どもの力を中心に,博物館,科学館,昆虫館,動物園,植物園,

水族館,インターネット,大学の先生方,そして,保護者の力をも取り込んで,現在

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の世の動きにも連動した学びを大切にします。自分自身で考える力をつけること,情 報を集めてそこから学ぶ力をつける,標本や工作を上手に作ったり整理したりする力 や実験観察を根気よく進める力などをいかにつけるか,を目指して研究をすすめてい ます。(中略)学校で,中途半端な態度で『学習をしているふりをしている子ども』

を厳しくチェックして,自ら行動して,自ら学びを構築していける子どもに育てるこ とが大切だと考えます。辞書や参考書や資料を使いこなして,学校の学習に手を抜か ない子どもを育てていかなければならないのです。『さらなる独自学習』の充実を徹 底して,しっかり学び続ける子どもを育てたいと思います。自分の足で学びの道をしっ かり歩ける子どもは,将来も,社会の中で倒れないで歩けます。」7と述べ,教師のしっ かりとした学習方法,実践の積み重ねで得た信念の下で学習が行われていることにつ いても言及している。すなわち,児童中心主義,経験主義という名の下で,唯,単に カリキュラムに示されたまま,児童に体験させる,経験を積ませるという方法ではな く,教師がその経験の質の確かさ,児童に経験することがどのような価値を生むのか を,教師自らの行動,努力で確かめ,児童の自律的学習の深まりに寄与するものであ ると確認した上での授業実践なのである。教師がとことん教材の研究をし,その教材 の本質に迫ろうとする教師の学びがあっての児童中心主義であり,木下が『学習原論』

で主張したところの児童の学習の目的は,児童自身が社会的自己を建設し,社会文化 の創造の主体者となることという自覚が教師に存在する。牧口の言うところの「蓋し 教師その人の研究指導が不十分だ」という教師では児童の自律的な学習を育むことが できないのである。

 

Ⅲ 学びにおける教師の視点  

 このような実践の中で,前稿では,「書くこと」を中心にして児童一人ひとりを深 く理解した上で実践をしている教師の姿を取り上げたわけであるが,「書くこと」を 教育実践の中核に位置づけている奈良女附属小における児童理解をする「教師の視 点」を考えるとき,各学級で実践されている自由研究,日記指導,授業の振り返りな どを注視している教師の目配りの範囲は,児童生徒の生活環境から日々の授業実践ま で広範囲にわたる。

 児童理解をいかに的確に,また,時宜を得たものにするか,このことは教師が常に 学級経営の大前提として要求されていることでもあるし,常に変化し成長していく子 ども達をどう理解するか,教師をいつも悩ます問題でもある。「学び」と「児童理解」

は切っても切れない関係であるからこそ,常に「書くこと」の中に児童の成長の様子 を発見し,その心情などをきめ細かく見出そうとしている奈良女附属小の挑戦を評価 したい。

 その上で,児童が「書いたもの」をどう捉えるかという教師の視点と,共に,教師

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の立ち位置が更に重要であると考える。木下が言うところの「学習は自己の発展それ 自身を目的とする。(中略)実に教師もひとつの重宝な環境である。教師は学習の指 導者でまた,共学者である。環境に順応しさらにこれを創造することは自己の創造発 展と同一事実である。学習すれば師弟ともに全自己を活動させてともに伸び,ともに 歓ぶことができる。」8 生活と学びが一体となっている中での児童と教師の立ち位置は どこにあるのか。共に学びの道を歩む教師は,教師自身が先ず学び,教材をとことん 研究し,その価値を自ら見出し,共に伸びていこうとする環境であることが,「児童 理解」の前提でなければならないし,児童理解をする視点はそういう教師であるから こそ見出せる「児童理解」の視点である。児童の自律的な学びには,教師の成長,努 力が必要であり,教師の人間観,児童観が磨かれ,そして,子ども以上に成長し,「共 学者」としてまた,指導者として,一人ひとりの児童の可能性をどう汲み取っていく かということに着目し,児童理解をする教師でなければならない。その時はじめて,

教師本来の使命である子どもにとっての重宝な環境になるのではないか。木下の思想 を体現している教師,椙田萬理子先生(以下椙田先生)と谷岡先生の実践を追ってみた。

 

1 椙田先生の実践に見る教師の視点

(1)教師と子どもの思考のずれを意識する

 椙田先生は,授業を展開するとき,また,作文や日記指導をするとき,常に教師と 子どもの思考の「ずれ」に着目している。

 椙田先生自身,たくさんの研究授業,授業研究を積み重ねている。5年「よだかの星」

の授業実践の中で,とらわれない心で友だちの発言を受け止めている子ども達の姿を 見つけ,また,1年「ひらがな」の書き方の授業で,一人ひとりの子ども達の行動に は全て意味があり,じっくり子どもの動きを待つことの大切さを知り,そして,1年「お 店やさんごっこ」の授業では,引き出せば,学習をつくる力が,どの子にも備わって いるということに気がついている。

 椙田先生の視点に学ぶこと,それは,「生きている子ども,一人ひとりへの共感,

信頼感を強め,よりよい教師のはたらきをさぐっていきたいとしながらも,子どもの 思いと教師の思いがずれているため,教師としてのはたらきが,子どもの意欲をそい だり,活動を止めたりしていることを経験していること,そして,その原因を『教師 が自ら納得の世界で生きているように,子どもも,一人ひとり納得の世界を目指して 生きている』」9という事に着目していることではないだろうか。

 椙田先生は,教師がこの「生きている」ことへの共感や理解が足りないからこの「ず れ」が生じるのではないかとしている。教師としてのとらわれの目や耳,心が,自ら の納得の世界を狭めているからではないかと。その上でどこまでも,子どもの心を捉 えようと一人ひとりを丁寧に見ていく努力なしに思いの「ずれ」は縮まらないと述べ ている。

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 また,小学校国語「『読むこと』の授業をつくる」10の中で椙田先生自身がその「ず れ」をどう捉え克服したかを述べている。このことをかつて,奈良女附属小で教育課 題実地研究に参加した本学教職大学院の院生に対して,赤裸々に語ってくださったこ ともある。それはまさに,教師と子どもの「意識のずれ」の実体験だったし,そして また,椙田先生自身の「自己満足」への挑戦とも言えるものであった。

 椙田先生が教職大学院の院生に淡々と語ってくださったのは,1991 年 11 月の国語

「ごんぎつね」の授業の時のことである。

 五場面から六場面へはいるところで「おれがくりや松たけを持っていってやるのに,

そのおれにはお礼を言わないで神様にお礼をいうんじゃあ,おれは引き合わないな あ」といっているごんが,「その明くる日もくりを持って,兵十のうちへ出かけたこ とをどう思いますか」と問いかけた。

 この日,子どもたちは,参観の先生方に囲まれ,張り切って自らの思いを表現して いた。椙田先生も落ち着いた気持ちで子どもたちの発言を聴いていた。しかし,途中 から椙田先生はあることにとらわれるような聞き方になっていった。

 それは,「どうして,子どもたちは『ごんは,兵十と仲良くなりたかった』という 考えを誰も言わないのであろうか。大概のクラスでは出てくる意見なのに。今日まで に叙述の押さえが足りなかったのだろう」と。頭の中は次第に『なかよし』という言 葉を待つ聞き方になっていった。だが,とうとうその時間には出てこなかった。集中 力を欠いたまま,何とか授業を終えた。

 授業後,参観されていた知り合いの先生が目を細めて「いやあ,子どもっておもし ろいですね。その子なりにごんと兵十の関係をいろいろに考えて表現するものですね。

聞いていて楽しかったですよ」といわれたその時に,はじめて椙田先生は,はっと我 に返ったのだった。「何ということだろう。いちばん子どもたちのことを知っている はずの担任が,一人ひとりの発言を楽しむどころか,ある言葉を待ちながら子どもた ちに失望しながら聞いていたのだ。」

 これまで,子ども一人ひとりを大事にしよう,そして,子どもの個性を引き出し「子 どもの思考に添っていこう,子どもの筋にのっていこう」と何度も耳にし,自らも使っ てきた言葉が,体を素通りしていただけだったのだ。授業でやってきたことは,自分 が教材を解釈したとおりに,その思考過程をたどらせていただけだったとわかったの である。結局「なあんだ。私は,自分自身の為に授業をしていたのか。自分の都合よ い授業をしていたんだ。」という思いを強くしていった。

 そして,率直に子ども達に「どこをどう直せばよいのか教えてほしい」と相談する と子ども達からは,「先生は,次々に『…はどうですか?』『…をどう思いますか?』

とみんなに問いかけてきます。だから私は,考えが終わっていないのに,次のことを 言われるのでついていけないなあと思います。また,もっと自由に発言できて堅苦し くない授業にしたいです。」等の発言があった。

(7)

「ずれ」を認識しその「ずれ」を超えるために,椙田先生は,まず,子ども達に「聴 く」ところから始め,「ある子どもの発言を聞いているのは教師の私だけではないのに,

まるで,聞き手は担任一人しかいないかのように。」勘違いしていたことにも気づく。

いわゆる教師の仕事は「つなぐ」ことであることに気がついたのである。そして,も ういちど,子ども達に「もどし」自分の殻をやぶる 2年間の挑戦を始めたのだった。

「子どもを頼りに授業の殻を破り」「子どもの追求を楽しむことの不十分さ」に気づき,

「子ども観」を変えていった。子ども観が変わったとき,椙田先生は子ども達が「見 通しをもって学習していること」「自らの学習をつくっていること」「自らを認めるこ とによって飛躍する」子ども達が見えてきた。

(2)楽しくおこなう

 椙田先生は教師の指導について,「楽しみながら表現する場(がっこうニュースの じかんですよ:1年生の実践 学習研究392号2001年8月 p32)を教室に作りたい,特 に低学年の子どもたちが,自分を出すことをいとわず,進んで表現できるような学習 を考えていきたいと常々思う。」と述べ,音読を楽しんだり口の体操を取り入れたり,

聞くことの楽しさや自分のことを伝えるうれしさを味わえるような機会を作っている。

「ことばのお店やさんごっこ」(学習研究 386 号 2000 年 8 月 p4)のグラビア写真を見 ても子ども達の楽しさが伝わってくる実践の様子が見て取れる。

 その実践は,継続的に続けられており,1989年の一年生の実践事例:「『ぼくにげちゃ うよ』を読む」の中にも「物語の世界を楽しむことができる学習」「想像の世界で遊 ぶことができる学習」を掲げ,独自学習でも,相互学習でも物語を楽しむ工夫を重ね ている。(学習研究319号1989年6月 p46)そして,楽しさを大切にするという視点は,

低学年だけではなく高学年での実践でも展開され,「子どもたちに読む力をつけたい,

国語力をつけたい,ひとり学習が進められる力をつけたい(中略)と願って,これま で指導してきた。そして,できるだけ子どもたちが読むことの楽しみを増やして,進 んで本の世界に身をおいてほしいものだと考えてきた。」として,「すでに身につけて いる国語力で理解する楽しさ」「さらに高度な理解を目ざし,思考を深めていく楽し さ」を 5 年「わらぐつの中の神様」11で検証し続けている。「自発」「自発能動」の学 習には「楽しさ」が一番であるし,子どもが積極的に取り組むのは,学びが楽しいか らである。

 

2 谷岡先生の実践に見る教師の視点

(1)「経験」「観察」を「詳しく」

「今の教育の能率の上がらぬのは,教師に教育方法上の知識の欠乏と,それが実行技 術の練習の不足との二点に約することが出来,而してその知識の欠乏は結局,目的観 念の不明確と之に達する方法観の貧弱とに約することができるであろう。そこで,其 の一つの修養だけでも優に第一流の分業者と名声を競うことが出来よう。(中略)創

(8)

価教育の本質上から眺めた所では,まだ半分でしかない。(中略)人格陶冶を仕事の 対象とする,教育技術者としては,(中略)被教育者即ち学習者の生活が無意識の行 動から跳躍して,意識的である許りでなく,己の仕事に明目的であり,且つそれに向 かって計画的の手段を選んで進行することが出来ねばならぬ。この域に被教育者を到 達させることによって初めて能率の最高限度に上げしめることが出来ると信ずる。合 理的学習とは之をいう。」12『創価教育学体系』で牧口が教師の指導力について述べて いるところである。谷岡先生の授業実践の価値について考察したおり(「創大教育研 究」第21号 p68)目的観と確実な方法論を持った指導として谷岡先生の授業実践の核 心を示した。

 その上で,谷岡先生の実践を詳細に見てみると,「こぎつねノート」(校内誌2009年 8月号)に次のような内容が書き留められていた。

「今日は月の勉強をするので,友達の意見を良く聞いて,しっかり考えたいと思い ます。」と,最初の子どもが発表しました。新学期当初に,「このような『めあて』は,

本当の自分のめあてではありません。奈良女子大学附属小学校の良くない形の,仕方 なく言う時の,決まり文句なんですよ。」と,お話をします。このめあては,「今日は サッカーをするので,友達の様子をよく見て,しっかり頑張りたいと思います。」「今 日は割り算をするので,先生の話を良く聞いて,しっかり考えたいと思います。」と 言うような,その場を単に乗り越えるための,頭を使わない型式の言い方なのです。」

学習に自ら関わっていこうとする意欲が感じられない,上滑りの言い方です。そこ で,「もっと具体的に,自分は月の観察をして,どんなことを思ったのか,考えたのか,

何が分かったのかを,言えばよいのですよ。」ともう一度,言い直させます。

 そうすると,「私は満月の色の変化が気になっていました。東の空に出た時の色は オレンジ色で,上に動いてくるとだんだん黄色くなってきました。夕日が当っている からかなと思いました。」と,自分の気になることを発表できました。続く子ども達も,

「月には海と陸があるという話が,前回出ていて,それはクレーターの数の違いだと 分かりました . 子ども新聞には,月に水があると書いていて,この海のことと関係が あるのかなと思います。」また,次の子どもは,「三日月は,夕方6時頃見えて 9時頃 沈んだので,3時間で沈むので,出ている時間は短いなと思いました。」などと,次々 と危なさそうな意見が続きます。「聞いている私はどきどきします」という内容である。

 谷岡先生は常に「経験」・「観察」を「詳しく書く」というポイントを子ども達に教え,

子ども達にもしっかり「聞く」ことを教え,お互いに意見を交換しながら「つなぎ」

そして自分に「もどって」来ることを示す授業を心がけている。

 すなわち,子どもたち一人ひとりがどのような「経験」をし,どのように「観察」

しているのか,そしてそれをどのように「詳しく書いているのか」に常に着目してい るのである。一人ひとりの「経験」の質と量を常に「詳しく書いているか」と着目す るという教師の視点が浮かんできた。

(9)

 また,4年「骨と筋肉」の授業では,事前に子どもが扱いやすい素材の準備,実験 器具の整備,学習環境,主な活動の選定などについて考え,骨や筋肉について,谷岡 先生自身も独自学習用のノートを一冊用意して,基本的な資料調べ,用語調べをして いた。そして,子どもの持っている素朴な疑問を明らかにすることが大切だと,子ど もの独自学習の最初の「学習のめあて」をじっくり読んで,子どもの思いを整理して いた。

 谷岡先生は,このように理科学習における「めあて」を持つことがいかに子ども達 の成長と密接に関係しているかを述べ,そしてその「めあて」の「質」について論を 進めている。

 それは取りも直さず,谷岡先生の学習を深める教師の視点がどこにあるかというこ とを示しているものであり,牧口の言うところの「被教育者即ち学習者の生活が無意 識の行動から跳躍して,意識的である許りでなく,己の仕事に明目的であり,且つ それに向かって計画的の手段を選んで進行することが出来ねばならぬ。」13との指摘,

学習者の意識を明目的にする「経験・観察」から「詳しく書く」という道を示すこと によって「被教育者を到達させることによって初めて能率の最高限度」14に導くとい う試みにも思えるのである。

(2)楽しさを発見する

 そして,谷岡先生も椙田先生同様,楽しさを大切にしている。

「学習研究」に寄せた原稿に次のような内容があった。

 子ども達は毎日日記を書いています。四月の当初から一年生の日記を読むのを楽し んでいると,子ども達は自然や生き物や夢の中で生きていることが見えてきました。

A 君は「ゆめ」という日記を書いてきました。「よるぼくはハリネズミになる夢をみ ました。ねるまえに おかあさんに もりのほんやさんを よんでもらいました。そ のほんに ハリネズミがでてきたからです。ゆめはどうしてみるのでしょうか?(四 月十九日)また,朝「今日は,さんぽにいくよ。」というと,「さんぽって,勉強か」「さ んぽ,さんぽ,たのしいな」と,大騒ぎで始まりました。(中略)そんな小さなさん ぽの第一歩でしたが,子ども達はダンゴムシ,コガネムシ,テントウムシ,アブラム シ,ヨモギハムシ,モンシロチョウ,アマガエルなどを見つけて,大喜びです。学校 の土手の小さな草むらに,こんなにたくさんの虫たちがいるのです。初めて手の上に カエルをのせて,大騒ぎしている子がいます。(五月二十一日)教室の後ろの棚の上は,

さんぽでつかまえた生き物や家からの虫たちで,いっぱいになってきました。虫は標 本にするものではなく,飼い続けるもので,死んだら涙を流して悲しむものだと,子 どもに教えられました。15

 一年生の日記を紹介して谷岡先生と子どもたちが「学ぶ喜び」を発見し,「学び」

を楽しんでいる様子がそこにあった。

 そして,「こどもと作るさんぽの歌」16も作っていた。

(10)

 一年「こぎつねのさんぽ」

① 春の空 いいてんき きつね先生せんとうに みんなでいこう あみもって  おたまじゃくし ミミズたち カエルのがっしょう すてきだな ケロケロケロ  クワックワックワッ  ケロケロケロ クワックワックワッ

② 青い空 白い雲 くさばな むしたち わらってる みんなでさんぽ 楽しい な モンシロ アゲハに コガネムシ セミがはやしでないている ミンミンミ ン セミが ミンミンミンなくよ みんな大好き 虫とりだ

③ くじらぐも とびのって こぎつねたちが あそんでる どんぐり公園 じぞ う山 せいたかのっぽの きりんそう どんぐりたっぷり とれました コンコ ンコン きつね コンコンコン なくよ 真っ赤な秋に そまってる

④ さむい日も 元気だぞ 北風なんか へっちゃらだ いっしょに歩こう 雪だ るま 風にふかれる みのむしさん ヘビやカエルも 出ておいで コンコンコ ン 雪が コンコンコン ふるよ 星組さんぽ どこまでも

 歌を口ずさむ,歌が心にうかんでくるほど自然の豊かさにふれ,本来,獲得すべ きとされていて難しい学びの道,自ら学ぶ「自発」「自発能動」の学びを子ども 達と一緒に楽しんでいる。

 二年生の歌は「こぎつね奈良さんぽ」という歌で一年生の時に作った歌があったの で一学期中に歌が出来上がったそうだ。

 K君は「歌作りは,私は一年の時から作っていて,今は二つ歌ができています。こ れを,六年までつづけて発表したいです。三年までは元気な歌にして,四年からきれ いな,ささやくような歌にしたいと思います。朝の会を,もっと日本中の学校に広 げていきたいと思います。」kさんは「歌の題は『こぎつね奈良さんぽ』です。まだ,

いちごがりや,木津川さんぽの歌を作っていないので作りたいです。」と話している。

「当初,一・二番の歌をつくったのですが,その後さんぽに行くたびに,歌が増えて いくのです。K君が書いたようにイチゴがりさんぽの歌,木津川さんぽの歌,南大門 さんぽの歌,奈良太郎(東大寺の鐘)の歌も,もうできました。」と谷岡先生のコメ ントがあった。

 筆者自身も一緒にさんぽに出かけているような感動を覚え,学びに「楽しさ」が加 わればどれほどのやる気を引き出せるかとの良き範例と思えた。もちろん「さんぽ」

という学習の意義を考えた奈良女附属小の教師の確かな視点があることは言うまでも ないと思う。

 

(11)

Ⅳ 奈良女附属小における児童理解の核心  

 木下は『学習各論』において「国語学習の要旨(国語生活の核心は綴る心)」17と 題して国語生活は思想交換の生活であり,思想交換の心身作用を通じて自己の発展に 参するものは発展的国語生活であり又国語学習生活であるとの論を展開している。こ れも,前稿で述べたことではあるが,すなわち,奈良女附属小で,「書くこと」がしっ かりと学習と児童理解の骨格としての存在になっている姿,学習の振り返りや,授業 の感想なども含め生活の中に木下が指摘したように「綴ること」を中心におく「学び」

を確立している,その上で,「書くこと」を学習の中核にすえることによって,児童 一人ひとりを教師が理解するという縦の関係と,児童自身がお互いによく理解しあう という横の関係の人間関係を,より深く築く手段を持ち,研究を重ねている。その 実際を,「教師の視点」という角度で,「学習研究」や「学年だより」などを読み直し,

継続的に教師の代表事例として研究させていただいている椙田先生,谷岡先生の児童 理解の姿をさらに掘り下げて見つめてみた。そうすることで,再び「奈良の学習法」

を学ぶ意義を捉えなおすことができたと思う。

「学習即ち生活であり,生活直ちに学習となる。日常一切の生活,自律して学習する 処,私共はここに立つ。他律的に没人間的に方便化せられた教師本位の教育から脱し て,如何に学習すべきか。如何にして人たり人たらしめ得るか,そのよき指導こそ教 師の使命である。…」18「自律的学習は一見はなはだ困難のようではあるが組織計画 がよく樹ちさえすれば決して困難なものではない。誠に面白いものである。自律的学 習における目標と経路とは大体においては学者の思索によって案出のできないことも なかろうが,学習に要する基礎的科学に精通しているものが,広く深く学習に関する 経験を基礎として,学習の理論と方法とを組織するのでなくては到底十分なものは得 られるものではない。われわれは学習者のこれならよかろうと思うところに向かって 突進させる。それで学習上に欠陥が出たら他の方法によって其の欠陥を排除すること を努める。欠陥が出るからというて実行を躊躇することはしない。もちろん例外もあ るが大体の方針を茲に定めておく。学習を実施してみると,真に学習者が学習指導の 指導者であることを痛切に味わうことができる。」19と,『学習原論』で木下は,学習 はみずから機会を求め,みずから刺激を与え,また,みずから目的方法を立てて進行 するところに成立すると述べていることは前にも触れたところである。

 奈良女附属小の教師達の実践はその源流を汲みながらの実践である。

 椙田先生が,「作文指導,この一年」と題して「学習研究」に寄せた原稿がある。

「こどもの作文発表を聞く時間は,実に楽しい。これは,わたしひとりではない。学 級の数多くの子がかんじていることでもある。友人の作文に聞き入り,楽しんでいる。

そして,彼らもまた,一週間に一度の自分の出番を心待ちにしている。このような時 間を共有できるようになったのは,この一年間の作文指導と深いつながりがある。そ

(12)

れを顧みることによって,今後の作文指導の方向を探ってみたいと考える。」20 と述べ,

子どもの内面世界を生かすことによって,内外共に全面的に生きることができると書 くことの意義を強調していた。その状態に行き着くまでの指導の努力を積み重ねてい ることは当然見て取れる。

 また,谷岡先生は「学習は基本的には個人的なものです。一人ひとりに計画書を書 かせ,それを提出させて,自分の学習,個人の観察を作らせることを大切にしたいと 思います。目的意識,問題意識を,しっかり個人に持たせることを心がけます。」21と 述べ,その上で,時間の使い方や準備の仕方,記録の仕方,などを指導しながら,一 人ひとりが問題意識の継続できるように様々な手段を講じている。数人ずつ集めて進 行状況のヒヤリングをしたり,小さなグループでの交流会を開いたり,子ども同士の 意見交流をさせたり,教師の意見を与えたり,学級全体での交流,ポスターセッション,

観察途中の展示会などなど…。

 本当に細かく常に一人ひとりに注目し続けている学習上の「教師の視点」が基本的 に存在している上で奈良女附属小の教育実践があるということが「児童理解」の前提 に存在している。

 椙田先生は椙田先生の「視点」で,そして,谷岡先生は谷岡先生の「視点」で子ど もの学習を見つめている。前稿で述べた奈良女附属小の児童理解の姿をさらに進め,

 奈良女附属小の児童理解核心は,以下の三点にまとめられる。

 ・一人ひとりの児童に対する温かな眼差しで子どもの成長をつかんでいる。

 ・一人ひとりの児童理解に迫る方法論の確かさは経験と観察に裏打ちされている。

 ・一人ひとりの児童理解を確実にする不断の教材研究,その深さが継続されている。

 

Ⅴ おわりに

 今回も,一人ひとりの目の前にいる子ども達のことを実際に観察し,一回一回の授 業に労を惜しまず児童中心主義の実践をしている奈良女附属小の教師は「成長し続け る教師」であることを見つめることができた。

 教師は自らをいかに磨き,向上させていったらよいのか。牧口は『創価教育学体系』

のなかで,教師の理想としてのペスタロッチに言及し,ペスタロッチの功績はその墓 碑銘に刻まれた「己の為にせず人の為にする」との賞賛ではなく,「教育学上の真理 の発見者であるとするものである。少なくとも発見の先駆,教育の革命者,教育の科 学的建設の先覚者として教育史上に,従って文化史上に不朽の地位を占むるものと断 定するものである」と「その子弟を教育する教師に改良工夫の方法を授けた上に,自 らその熱心なる模範となったこと」「実にペスタロッチの真の価値は熱心なる経験の 基礎の上に,燃ゆるが如き学究的真面目があるによるのである。この両方面の全備具 足こそペスタロッチの真価値で,その中の何れかの一面を欠くならば敢えてペスタ

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ロッチを俟つに及ばぬのである」22と述べている。この牧口の理想のままに,奈良女 附属小での教育を創価大学教職大学院で学ぶ一人ひとりが新たな視点でとらえ直し,

真摯に学び,率直な研究成果を世に示していくことが,労を惜しまず指導してくださっ た奈良女附属小の先生方はじめすべての皆様に感謝することになると考える。

引用文献

1 木下竹次『学習原論』目黒書店 1923年

2 若井幸子「『書くこと』による児童理解」創大教育研究24号 20年3月 p1 3 牧口常三郎『創価教育学体系』牧口常三郎全集第5巻 第三文明社 1983年 p130 4 牧口常三郎『創価教育学体系』牧口常三郎全集第6巻 第三文明社 1983年 p285 5 木下竹次『学習原論』世界教育学選集 明治図書 1972年 pp17-22

6 谷岡義高 理科だより「まほろば科学館」奈良女子大学附属小学校 2008 年 2 月 25日 No. 113

7 同 2006年2月13日 No. 30

8 木下竹次『学習原論』世界教育学選集 明治図書1972年 p13

9 椙田萬理子『学習研究』391号2001年6月 奈良女子大学附属小学校 p18 10 学校国語「読むことの授業をつくる」文学編 光村図書 2011年 p19 11 同 『学習研究』379号1999年6月 奈良女子大学附属小学校 pp44-49

12 牧口常三郎『創価教育学体系』牧口常三郎全集第6巻 第三文明社 1983年 p457 13 同 p457

14 同 p457

15 谷岡義高『学習研究』382号1999年12月 奈良女子大学附属小学校 pp58-63 16 同    『学習研究』387号2000年10月 奈良女子大学附属小学校 pp24-25 17 木下竹次『学習各論 下』教育の名著9 玉川大学出版部 1972年 p19 18 木下竹次「創刊の辞」『学習研究』創刊号 1922年4月1日

19 木下竹次『学習原論』世界教育学選集 明治図書 1972年 p21

20 椙田萬理子『学習研究』295号1985年6月 奈良女子大学附属小学校 pp52-57 21 谷岡義高 『学習研究』393号2001年10月 奈良女子大学附属小学校 p38 22 牧口常三郎『創価教育学体系』牧口常三郎全集第6巻 第三文明社 1983年 p80-86

参照

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