• 検索結果がありません。

去年の総会で部長に就任致しました村山博子です

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "去年の総会で部長に就任致しました村山博子です"

Copied!
48
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

第   26  号  

(2)

目      次

「琉大化学」第26号の発刊に寄せて        同窓会長  25期    下地  寛  ・・・1

先生方・随筆

  まどさんへの歌 1962年入学、13期    渡久山  章 ・・・・3   琉球大学に赴任して      海洋自然科学科化学系の助教  植村  立    ・・・・7  

25期生の近況

離島でくらして      上里  毅  ・・・・・10   科学技術に対する思い      川原  廣吉・・・・・12   福島原発事故と機器分析支援センター      棚原  朗  ・・・・・14   私の・・・・夢      平良  政枝・・・・・16

首里キャンパス時代:琉大化学科25期

 

分析化学、天然有機化学、有機化学、無機化学、物理化学  各講座  ・・・・・・・19

同窓会

琉球大学化学同窓会会則        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31

新規会員名簿(平成23年度)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34 理工学研究科所属一覧      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35

役員・各期幹事名簿      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39

広告      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40

琉大逍遥歌      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43

編集後記      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・44

(3)

「琉大化学」第 26 号の発刊に寄せて

琉球大学化学同窓会長 下地 寛(25 期)

「琉大化学」第

26

号の発刊に当たりご挨拶を申し上げます。

同窓会会員の皆様におかれましては、「化学」を礎に様々な分野において益々のご活 躍を心からお喜び申し上げます。

さて、創刊から

25

年間、表紙を飾ってきた題字とデザイン、題字は一期生でもあり同 窓会初代会長の森巌先生の書で、デザインは私たち

25

期卒の上原博紀氏が描いたも のです。「恩師、先輩、後輩を結ぶ交遊の場として、次世への新しい知恵の結晶が生ま れてくるのを期待して」デザインされたとのことです。

こうした思いが込められた「琉大化学」は、大学での古き懐かしい思い出から、学術研 究の動向、卒業生の職場紹介等々、多くの恩師、同窓会員の参加により交流、親睦、情 報交換の場として大きな役割を果たしてきております。

こうした中、私たち持ち回り運営の事務局を預かる

25

期卒の「幹事会」は、事務局担 当の記念と創刊号のデザイン担当が一緒になった機会を捉え、デザインを新しくしよう ということで、上原氏にお願いしたところ快諾いただいたのであります。

新しいデザインは、「東日本大震災という未曾有の災害から、人と人の絆の大切さに 思いを巡らした」と言います。「今後、益々広がっていく化学同窓会会員がオレンジや緑 に例えられるように個々に個性を持ちながらも、関わりを持ち和となって繋がっていくこ とを期待して」デザインしたとのことです。

私たち

25

期生が琉球大学理工学部化学科に入学したのは、1974 年の

4

月でした。

1972

年に国立大学になった直後の時代で、当時の古い新聞記事によりますと、学生運 動、狂乱物価、CTS 建設の反対闘争等の記事が踊っています。因みに、1974 年の物価 上昇率は23.2%で過去最高となっています。そして卒業する1978年は、低成長下の 長期構造不況の波にたたられた企業倒産が相次ぎ、就職もままならない時代へと突入 していました。

あれから

33

年、不況の時代、バブル期、そして又不況、そして政権交代など様々な

歴史をたくましく生きてきた同期生の皆さんは、教育界を始め医療・福祉、電力・ガス等

(4)

先生方・随筆

(5)

まどさんへの歌

渡久山  章(1962年入学、13期)

  退職して1年半過ぎた頃、知人の紹介があって、会社で働くことになった。仕事は化粧 品(医薬部外品を含む)と、健康食品の品質管理である。

  会社にはいろんな仕事がある。総務・企画、デザイン、配送(大きな部門)、社内報作成、

品質管理そして最も大きいのは販売部である。

  社内報作成係といったが、勤めている会社では毎日「心の絆」新聞が発行されている。

B4 版で両面に印刷され、3枚程度である。新聞は全員(約150名)に配られる。その新聞発 行を担当している社員さん(北海道出身)が、ある日、まど・みちお詩集を紹介してくれ た。読んでいると「まどさんへの歌」が出てきた。

 

バショウ       バショウが  1かぶ       はえていて  くれるだけで       いえのまわりが  なんとなく       すがすがしい

       

      とおりかかる  かぜまでが       みんな  わたしたちに       あいさつ  する        

      はっぱの  くにの  しきたりが       とおい  むかしから

      そうで  あるかのように

      うやうやしく・・・      (まど・みちお)

「まどさんは  生まれてきたばかり、  それなのに  風に吹かれてゆれる葉っぱの名を知

(6)

      −こんなに  ぞんざいに  ミカンを  ひきむいてしまって・・と

      うつくしく  キクのはなびらたちのように       身をよせあった  ふくろの  わを

      ひきむきながら  おもう

      −こんなに  らんぼうに  ミカンを  ひきわってしまって・・と

      ひとふくろ  口に  ふくんで       そのはるかな  あまずっぱさを       のみくだしながら  おもう

      −こんなに  かんたんに  ミカンを  たべてしまって・・と

(まど・みちお)

「詩人はとても  やさしい  やさしすぎないか  でも1994年85歳で  国際アンデルセン 賞受賞  どうすれば  生きておれるのだろうか?  そんなに  長く」(渡久山)

まめ

      豆に「まめ」という  ぴったりの名まえを       だれが  つけたのだろう

      さっぱりしている  ひきしまっている 

りっぱというほかはない  つけたのは  人間ではないのでは?

と  思われてくるほどだ

ほんとに  それはもう  このへんの 

小鳥やけものや  木や草や  雨や風や  きせつまでが 人間と  いっしょになって  ながいながい時間をかけて 磨きあげてきた名まえにちがいない

ヤブマメ  ツルマメ  ナタマメ  タヌキマメ  ああ  いい!

 

      シロマメ  クロマメ  アカマメ  ウズラマメ

      ますます  いい!      (まど・みちお)

「まどさんはどんなにか豆を好きだったことでしょう  夜毎食べていたにちがいない   小粒の青豆はぜんざいにして 

地豆(ズマミ)は水ゆでにして  ズマミは落花生ともいうさ  といいながら

(7)

  ズマミの絹ごしトーフを沢山  食べたにちがいない 

[ダイズを大豆と書くのは間違っているよね]と言いながら    京都の竹やぶの側で湯ドーフをはさんだでしょう

黒豆はフキャギにまぶしたにちがいない  でもフキャギって何?  さあーね?

赤豆を入れたご飯  運動会のおにぎり  入学祝の赤飯  まどさん入学祝にも赤飯が出された  幸運を祈る豆さ

そら豆、大きくて  やや紫色  豆はみんな空の下でそだっているのに 自分だけが  空を冠して  大きいからかな?

もっと  大きな豆 

かんづめを開けると  曲がった豆が出てきたよ 

まどさん  それを食べたら  止まらなくなった」(渡久山)

ぞうさん       ぞうさん  ぞうさん        おはなが  ながいのね

      そうよ  かあさんも  ながいのよ

      ぞうさん  ぞうさん       だれが  すきなの

      あのね  かあさんが  すきなのよ    (まど・みちお)

「ぞうさんは  とても  はずかしがりや  そうだよ  はなは  ながいよ   だけどね  私だけがながいんじゃないよ  おかあさんだって  ながいんだよ   ぞうさんは  ほんとうに  はずかしがりや

  自分の思っていることが  ストレートに言えない

  あのね  聞かせてあげるね  と耳うちした [ おかあさんがすきなのよ ] 」(渡久山)

やぎさん  ゆうびん

      しろやぎさんから  おてがみ  ついた       くろやぎさんたら  よまずに  たべた

(8)

      −さっきの  おてがみ  ごようじなあに      (まど・みちお)

「まどさんはどうして僕のことを知っているのでしょうか?

  先日のこと、自分のメモに [ Yさんに書置きする ] とあった。ところが何を書置きする のか、すっかり忘れてしまった。1日たっても2日たっても出てこない。

      出てこないったら  出てこない

  仕方がないのでYさんに聞いてみようかな、メモしたのは何だったでしょうかね?」

      (渡久山)

最後にまどさんを紹介します。

1909年山口県生まれ  少青年時代を台湾で暮らす。終戦で帰国後  子供の本を編集しなが ら数多くの童話や詩をつくり、絵を描く。

北部サンプリング

  (1978年頃)

(9)

    琉球大学に赴任して  ―パリ・沖縄・不自由の情熱―

海洋自然科学科化学系の助教  植村  立

2010年4月に海洋自然科学科化学系の助教として赴任した植村  立(「りゅう」とよみ ます)と申します。赴任から、ちょうど1年半が経過しました。なんとか引っ越しをして、

住居が決まるまで、大学までバスで通っていたのが数か月前のように感じます。

私は東京育ちですが、赴任前の2年間はパリ郊外の研究所で研究をしていました。離仏 が決まり、日本人研究者の知り合いに琉球大学に行く話をしたところ、世界は狭いもので、

そのうちの1人の母は沖縄出身とのこと。いろいろ沖縄情報を教えていただきました。そ の友人によると「沖縄はフランスと似ていますよ」とのこと。たとえば、「おおらか」なと ころが似ているということです。たしかに、「内地の人」は沖縄に来るとカルチャーショッ クがあるという話をよく聞きますが、私はそれほど驚くこともありませんでした。

私は卒業後、3 年間ほど国立極地研究所という南極観測を業務とする研究所で研究員を しておりました。琉大分析化学系の初代教授の兼島清先生は、うちなーんちゅとして初め て南極に行かれたそうです。先生の著書を拝読したのですが、波乱万丈の研究人生を伝え るエネルギーあふれる文章でした。先生は、東工大で学位を取得されたとのことで、私の 母校も東工大ですので、不思議な縁を感じざるを得ませんでした。

兼島先生の著書によると琉大創設当時の実験室は木造で電気も水道もなく、水道工事は 化学科の一期生がパイプをつなぐところから始めたそうです。そのような状況で、学生た ちは「不自由であればあるほど実験に対する愛着心と探究心は益々つのり、学生たちはこ れまでの高校時代の空白を何とか満たそうと、積極的で意気込みは猛烈なものだった。」と のこと。この記述を読んだときに、私は赴任後の研究室の立ち上げで苦労を感じている時 期でした。これは時を経た激励であると勝手に解釈し、心を改めて発起したことを覚えて おります。

私の研究は安定同位体比の測定手法の開発とその地球環境試料への応用です。南極で採 取されたアイスコアとよばれる「昔の氷」の分析をしてきました。沖縄では、鍾乳石の安 定同位体分析をしています。(南極の氷と沖縄の鍾乳石は見る人が見れば「同じ」研究対象

(10)

25期生の近況

(11)
(12)

離島でくらして

      有機化学講座  745302  上里  毅

私は、久米島で生まれ、地元の久米島高校卒業し、化学科に入学、5 年間大学にお世話 になり、本島で1年間のサラリーマン生活をへて、島に戻ったいわゆるUターン組です。

大学に入学し、最初の授業が当真先生の「エントロピー」についての講義、18歳で田 舎から出てきた私にとっては、いままで、聞いたことのない内容でまったく理解ができな い、大学とは「次元の違う世界」だと最初に挫折感を味わい、その後も大学の授業につい ていくのがやっということで、勉学よりも学生生活をエンジョイする方向へ、学科やサー クルの仲間とスポーツやコンパ、キャンプ等に明け暮れる日々で、あっという間に3年間 すぎ、4年を前に単位不足、留年が決定ということで、同級生よりも1年間長い大学生活 を送りました。

今、振り返れば、その1年間の足踏みがわたしの生き方、考え方を形成するうえで大切 な時間だった思います。留年したにもかかわらず就職については、深刻に考えず、大学で 学んだ事とはまったく関係のない魚網会社に就職、1 年後、いずれは、島に帰りたいとい う思いもあり、役場の採用試験を受けたら採用とうことで急遽島にもどり、その公務員生 活も30数年たち、数年で退職、第2の人生について切実に考える今日この頃です。

さて、離島にいて楽しみの1つは、大学時代の同級生や先輩、後輩が訪ねて来たときに、

島酒を飲みながら、近況報告や大学時代の話で盛り上がるということでありますが、最近 は、機会が少なく残念な思いをしていたところ、同級生が化学科同窓会の幹事ということ で連絡を受けた後、同級生と会う機会が増えて、さらに、卒業以来あっていない同級生に もあえるではないかと、なんとなく浮き浮きした気持ちになっています。

今回、私に与えられたテーマは現在の状況ということでありますので、島の現状、仕事、

家族、今思う事等などを書き綴ってみたいと思います。

住んでいる久米島の人口は8千5百人で、島全体が沖縄県立自然公園に指定され、ラム サール条約登録湿地や、最近では巨大なサンゴの群落が発見されるなど自然環境に恵まれ た、風光明媚な島で、久米島マラソン大会等のイベントやプロ野球楽天イーグルスのキャ ンプ地、また、海洋深層水研究施設等、全国的にも知られるようになり注目されている島 です。

現在、久米島町税務課に勤務しています。これまで、学校施設以外にスポーツ施設がな かった島に、沖縄県の自治体では初めてとなるB&G財団仲里海洋センターの誘致や島の さとうきび生産の中心となっている農業生産法人設立に関する業務、住民生活に必要な水 を供給する水道事業管理に関わる業務等、小さな自治体に勤めている事により様々な分野 の仕事かできたということで、いつも新鮮な気持ちで取り組めました。

(13)

しかし、この30 年で業務内容も日々変化し、特に、事務機器の進化はめまぐるしく、

ガリ版刷りから、タイプライター、ワープロ、さらにパソコンへと変化し、進化する事務 機器に対応できず、最初は教える立場のいた自分が、いつの間にか後輩に教えてもらわな いと仕事ができないという状況で、少し肩身が狭くなっています。

久米島は、少子高齢化が進行し、人口の減少がつづき、子供の出生は年間100名前後 とかなり厳しい状況で、久米島高校から琉球大学は進学するものは数名ということでさび しい状況であります。

私は4名の子供がおり、親と同じように久米島高校から琉球大学ということで、3名の 子供は、久米島高校に通わせたのですが、琉球大学に入学するには力不足というか子供た ちは、沖縄を飛び越え、県外の大学へと進学してしまい、残念ながら琉球大学とのつなが りは薄れる一方です。末の息子に期待をしていましたが、本人も県外の大学に行きたいと いうことで、「かわいい子供には旅をさせろ」の精神で今年の4月から、県外の高校へ進学 しています。       

現在は妻と2人で暮らすには広すぎる家で、子育てや、仕事、地域活動等も一段落して、

趣味の野菜づくりもできるようになり、今後の生活設計に思い巡らしているところであり ます。

  離島には、政治家や、国、県の官僚、大学の教授、スポーツ選手、芸能人等が訪れ、そ の都度交流があり、身近で話を聞く機会も多く、常に新しい情報がはいってきます。そう いうネットワークを活用する事で、無限の可能性を秘めていると思います。

また、公務においても1人で複数の業務をこなすため、県外へ行く機会も多く。離島で の生活は、いつも、刺激的で日々勉強の積み重ね、自分にとって離島での暮らしは、あっ ていると思うし、これからも住み続けていきたいと思います。

最後に私の「夢」ということで、この30年間子育てを含めて、島から、プロ野球と東 京6大学野球で活躍する野球選手の誕生を心待ちにしていましたが、いまだその「夢」は 実現しておりませんが、実現の折には、仲間で応援にいきます。

(14)

科学技術に対する思い

物理化学講座    川原  廣吉 

  10年ひと昔と言いますが、1979年に卒業して以来32年が経 ちましたので、私の大学時代はすでに大昔と成りました。この 間社会環境の変化や科学技術の進歩は著しく、今日では「日進 月歩」という表現では追いつかない程のスピードで変化を遂げ ています。

そんな中、日本での今年の春先に起きた東日本の大地震と、

それに伴う原子力発電所の事故は私たちに大きな衝撃を与えたのは周知のとおりです。世 界に誇る原子力発電の日本の技術が自ら崩壊したことは、日本のみならず、世界に大きな 衝撃と問題提起を投げかけたのではないでしょうか。

今回、琉球大学化学科同窓会誌に寄稿させて頂く機会を得ましたので、大学時代から現 在に至るまでの自分自身の環境の変化と、その時々の科学技術に対する思いを振り返って みました。

  私は卒業論文で依然から興味を持っていた「分離膜を使用した海水の淡水化」に関する 研究を、物理化学渡久山研究室でやらせて頂きました。同じゼミの同級生は当時渡久山先 生の沖縄における水組成中の Cl分布の研究に関連したテーマではなかったかと記憶し ています。私はその後、東大生産技術研究所の研修生として同技術の最先端の研究を学ば せて頂きました。当時基礎研究段階のこの技術も、今では実用化された技術として広く普 及し、世界各地で大型プラントとして稼働しています。このことは一つの技術の変遷を見 ることができた良い経験でした。その後約二十年間化学関連の会社に技術者として勤務し、

水処理技術や金属表面処理技術の研究開発、実用化に携わりました。この間の仕事はまさ に私達の日常生活と密接に関連する技術に関するものであり、科学技術を身近に感じるも のでした。と同時に技術の商品としての徹底した経済性、開発スピードの追及など、競合 他社との競争に明け暮れる世界であり、「快適や利便性、経済発展と豊かさを追い求める社 会と、その道具である科学技術」に、漠然と疑問を感じるようになったのもこの時期でし た。日本で、そして一企業の中で日々の業務に忙殺される毎日に嫌気がさし、一度外から 日本を眺めてみたい気持ちに駆られ、娘の結婚独立を機に、JICA(現、国際協力機構

)シニア海外ボランティアとして南太平洋のサモア国に二年間赴任することにしました。

私が45歳の時でした。派遣国には美しい海と豊かな自然に恵まれた学生当時の沖縄によ く似た南太平洋の孤島、サモア国を選びました。技術支援の内容は「都市廃棄物対策」で、

同国の都市化に伴う廃棄物の処理と減量化を支援するもので、廃棄物処分場の整備と減量 化を図るための有機性廃棄物のコンポスト化技術の普及が主な活動でした。一般家庭の約

(15)

70%を占める主食のバナナやタロイモの残材を、村単位の共同体でコンポスト(堆肥)化 し、野菜栽培へ活用することでごみの減量化と、住民のゴミ問題への啓蒙が狙いでした。

この2年間の現地での生活とスタッフや住民との交流を通じて感じたことは、「経済的豊か さと心の豊かさ」は必ずしも一致しないということでした。サモアは経済的には貧しい国 でありながら人々は皆穏やかな表情で、ゆったりとさも周囲の自然と共生するかのような 生活ぶりであり、経済大国日本での常に何かに追いかけられ、急がされているかのような 日々の生活と対比してしまいました。しかしこの国でも便利な車や、テレビ、電話などを 求め、そのために現金収入を求める若者が多いことも事実であり、経済発展を望むのは人 類の自然の姿なのかもしれません。加えて実感したことは南海の孤島のこの地域にも、こ れまでの先進諸国が謳歌してきた経済発展のつけとも言える環境破壊が影響を及ぼしつつ あることでした。温暖化による海面上昇や都市ごみの増加など地球環境のクローズドシス テムを改めて実感させられたものでした。その後も転々と各国を回ることを希望していま したが、親の病気で帰国せざるを得なくなり、日本逃避行の生活は僅か2年で打ち切らざ るを得ませんでした。そして帰省後幾つかの職を変わり、現在は実家近くの温泉施設に勤 務していますが、将来再び海外での支援活動を希望しています。

今年の大地震と原発事故は、科学技術の恩恵を謳歌し盲信してきた人類への警鐘であり

、大袈裟な言い方をすれば人類の経済至上主義への警鐘、価値観を問い質されているよう な気がします。科学技術は両刃の剣。利便性、快適な生活を手に入れるための便利な道具 である一方、それがもたらす弊害も心しておく必要があることを実感する今日です。

(16)

福島原発事故と機器分析支援センター

琉球大学機器分析支援センター    分析化学講座  棚原  朗

  「腐葉土から検出された放射性セシウムは,4,910Bq/kgです。」の電話連絡に沖縄県の 担当者は「えっ!」と絶句した。基準の10倍を超える値である。

  すでに新聞等の報道により,沖縄県内に放射性物質で汚染された腐葉土が販売されたこ とは周知のとおりである。今年8月,県の簡易測定で異常値が確認され、当センターに測 定依頼があった。簡易測定の状況を聞くとかなりの濃度であることが想像された。Ge半 導体検出器による精密な測定結果を県の担当者に伝えたときの反応が上記である。翌朝の 新聞はトップでこれを伝え、県は沖縄県全域を対象にした調査を開始した。それに伴い,

県内各地から大量の測定試料がセンターに送り込まれてきた。

  琉球大学機器分析支援センターは、学内共同利用施設で高額な汎用機器を集中管理し、

機器を常に最良の状態に維持し学内の利用者に供することを業務の目的としている。その 中で、学外に対し分析依頼を受けるいわゆる「受託試験」制度を設け機器の利用拡大を図 っている。これまでは年間10件程度の依頼であったが、今年度は9月中旬にして500件 を超える依頼分析があり,そのほとんどは福島原発事故に伴う放射能測定である。

  その後の県内調査で,さらに高濃度の放射性セシウム17,500Bq/kgを含む腐葉土が見つ かり,これまで他府県で報道されている値の中でも高濃度の値であった。センターでは放 射化学を学ぶ学生アルバイト5名を導入し,前処理や測定に対応している。当然,学生に 対する被曝管理も厳重にした。一ヶ月間で100検体を超える腐葉土と土壌を測定し,時に は報道機関へのプレス発表に間に合うようにと,夜中の3時過ぎまで測定したこともあっ た。

  センターは放射能分析について県内外からの依頼を受けているが,まずは県内を優先し ている。これまでウコン,モズク,菓子,ドリンク剤,セラミック製品などを測定したが,

幸いにも県内産を原料にした製品からは原発事故起源の放射性核種は検出されていない。

しかし,食材を含む多くの製品を本土に頼っていることから,今後本県への流入は懸念さ れるところである。

  測定依頼の他に電話による相談も多く,そのほとんどは放射能に対する情報不足からく る不安である。そのような県民の不安を払拭するために,腐葉土を扱う県の担当部署,市 町村の担当者,消防署,学校教育者そして一般市民を対象に,「正しく放射能を理解し,正 しく怖がる」ことを目的にした講演会もすでに5回行った。今後も要請があればできるだ け対応していきたい。

  全国でも放射能測定を通常業務の一つとしている研究機関は少なく、沖縄では琉大のみ である。これまで、沖縄国際大に墜落したヘリ事故に伴う放射能測定を実施したこともあ

(17)

る(H17)。ホワイトビーチに寄港する原潜の放射能漏れに対する与勝住民の不安を払拭す るための講演も行ったこともある(H22)。

  一見,放射能と我々の生活はかけ離れた存在のように思える。しかし,電力エネルギー

の30%を原子力発電に頼っている以上,国民の原子力に対する知識は必要と考える。そう

いう意味でも,今回の原発事故を機に国民が原子力に感心を持って正しく理解し,今後の エネルギー対策を考えてほしいものである。

  当センターは,放射線測定器以外にも多くの汎用機器を有し,学内外からの依頼を受け ている。沈埋トンネルの防火タイルの品質管理,オリオンビールとの共同測定,クワン草 の成分分析等々である。これらに実際携わる技術職員の研修や研究発表への参加などによ りスキルアップを図るなど,測定技術の向上にも努めている。

  最後に,センターでは大気中の放射性核種の測定を約10年前から行っているが,今年4 月に原発起源の放射性核種が検出されたデータが下図である。天然放射性核種の210Pbや

7Beより1桁  2桁も低い量であり,南よりの風が吹く5月からは全く検出されなくなっ た。

図  沖縄県の大気中で検出された放射性核種

(18)

私の・・・・夢

天然有機化学講座  745318  平良  政枝  

  中学時代住んでいた家の一部屋を、ある老夫婦に貸していた。高校受験を控えて精神的 プレッシャーと戦いながら受験勉強に勤しんでいた私にとって、その老夫婦はうらやまし い存在であった。朝から何をするでもなくゆったりお茶を飲んでいる2人を見ていると、

「私もいつになったらああなれるのかしら。」と、思ったものである。ついに、高校に合 格したが、入学前のオリエンテーションで、「君たちは大学受験生だ」と言われ、悲鳴を 上げたのを覚えている。やっと受験勉強から解放されたのに・・・。考えは甘かった。さ らに、一生の中で一番勉強するだろうと思っていた大学受験より競争率が高かった採用試 験、その他、仕事上での研修・・・結局、生きている限り学ばなければいけないと気がつ いたのはいつだっただろう。 

  私は大学を卒業して後、中学校の理科の教師として社会生活をスタートした。もちろん 大学で勉強しなかった莫大な知識・技能が必要で、授業のために夜遅くまで教材研究やら 予備実験やらに明け暮れていた。化学を専攻したが、中学理科は、化学・物理・生物・地 学の4領域を扱うので、他3領域は特に学びながら仕事した。ある程度経験を踏めば最初 の頃ほど時間を必要にはならないが、教科の特性上、常に新しい知識、情報の収集や更新 は必要であり、また、文部科学省は社会の需要に合わせて新しい理念を発信し続けるので、

必要に迫られて研修せざるを得なくなった。 

  ワープロやパソコンなるものが登場したときも、仕事上使えなければいけなくなったの で、夜中までマニュアルと格闘した。 

  ここまで書けば、苦労のエンドレスの印象を与えかねないが、結構、楽しく学んだこと もあった。教育センター(あの頃は首里にあった)で植物の標本を作製するために、野外 を歩きながら植物の和名を覚え、特徴を調べるのは新しい発見があって楽しかった。その とき指導してくれた指導主事は、どの植物の名前を聞いても答えてくれる生き字引で舌を 巻いた。植物群落や地層、岩石の野外研修も未知との遭遇の連続で楽しかった。貝の名前、

○○ダマシモドキに笑ったり、植物の体のつくりの神秘さに感激したり、星・星座の話に 魅了されたり、物理のおもしろ実験に夢中になったり、教材に使う植物や岩石、おもちゃ、

道具を揃えるのも楽しかった。学んだ内容は忘れたものも多いが、学ぶ楽しさは忘れない。 

  いつの頃からだろうか、記憶力に自信がなくなってきた。最初から自信があったわけで はないが、特に無くなってきた。教師が覚える生徒の数は約200名とある本で読んだと き、私の受け持っていた生徒の数を数えたら40名×5クラスで丁度200名。ピッタリ だ。この200名の名前と顔を1年かけて覚えるが、覚えた頃に新しい年度で生徒が入れ 替わる。前学年度のはデリートしなければ新しいのがインプットできない容量になったと

(19)

き思い知らされた。ところが最近では記憶したはずの言葉が出てこない。焦ることがある が、同年代の知人の同じ経験談を聞いて、自分を慰めている。 

  記憶力は衰えても、無くなることはない。少なくとも意識して覚えたら・・。と自分に 言い聞かせ、自分を試す意味で、数年前英会話の学習を始めた。大学の教養英語以来、長 い間、英語と無縁の生活だったのでかなりの基礎からやり直しだったが、努力すれば新し い単語も覚えられることが分かった。自分自身に証明できた。証明できたところで、脳ト レの意味でも、海外旅行を楽しむためにも、少しずつ英語の勉強は続けてくつもりである。 

  この頃の楽しみは、海外旅行である。と言っても金と時間の都合で年1回行ければよい 程度だが。初めての景色を見たり、不思議なものに遭遇したり、色々な国の人たちの生活 を垣間見たり、土産屋を見て回ったり、実に愉快で足腰の許す限り、金の許す限り世界中 を回ってみたい。このためにいつまでも健康でいたい。事前にその土地のことを少しは調 べてから行けば、尚楽しい。向学心ではなく好奇心のレベルだが。 

  現在、島尻教育事務所で社会教育主事として勤め、社会教育・生涯学習等を担当してい る。自分でも全く予想外のポジションであった。折しも教育基本法に 生涯学習の理念 が新たに追加された。「国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることがで きるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することが でき、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。」と いう内容である。この条文を受けて事業を行うのだが、私自身が必要と感じて来ただけに、

やりがいのある仕事である。さらに、以前の仕事が 科学 や 生徒 を対象としてきた だけに、多くの 様々な社会人 を相手にした仕事はこれまでと違って新たな楽しさがあ る。 

  また、後輩(理科の教員)を育成する立場にもあり、これに関しては責任が重い。多く の学校を訪問し、授業を見せて頂く機会がある。ICTの活用をふんだんに取り入れ、授 業の様子は少々変わってきたが、教師の情熱はしっかりバトンタッチしていきたい。でも、

来年の今頃はどこでどんな仕事をしているか予想もつかない立場である。 

  この世に生を受けて半世紀余、私が子どもの頃の大人に比べて、現代の大人は結構いろ いろと学ばなければいけない、生涯学習の時代に変わってきた。コンピュータの進化もめ ざましく、うかうかしていたら生きた化石になりかねない。 

  科学技術の進歩の恩恵に授かるのもよいが、柔らかい日差し、緑の木陰の下でベンチに ゆったり腰掛け、時間を気にせず、優しいBGMの中で、コーヒーを片手に好きな本をの

(20)
(21)

首里キャンパス時代:琉大化学科25期

 

天然有機化学  ・・・第2理学ビル  2階 有機化学      ・・・第2理学ビル  2階 分析化学      ・・・第2理学ビル  3階 無機化学      ・・・第2理学ビル  4階 物理化学      ・・・第2理学ビル  4階

女 子 寮 第 1 理学 ビ ル

農学 ビ ル

法 文ビ ル 図 書館

本部

風 樹 館

土 木 ビ ル 男 子寮

体 育館

教養 教 室 A

タ ン ク

教養 教 室 教養 教 室 E

ク ラ ブ 室

教 養 教 室 D

工 芸 ビ ル 食 堂

クラ ブ 室 教育 ビ ル

機 電 ビ ル 守 礼 門

至崎山 至 鳥 堀 龍 潭 大 通 り

至観音堂 第 2 理学 ビ ル

至 山川

龍潭

城 西 小 学 校

円覚寺

(22)

     

第2理学ビル  1970年代後半

     

2011年  現在の風景(首里杜館)

(23)

分析化学講座  745305  兼島  浩 (首里の思い出編) 

  学生番号74年生(生まれた年ではありませんよ)は、夜景のすばらしい首里キャンパ スで学生生活を送ることができた。今、首里城が復元され、世界遺産となって観光客の姿 が絶えないが、当時は理系ビル、生協、図書館・・・ガジュマルの木などがあり、のんび りとした構内であったと思う。 

  入学したてでお互いをあまり知らないなか、化学の基礎実験などをとおして仲間の絆を 強めることができた。重量分析は時間がかかり、徹夜になることも多かった。運よく朝か ら初めて夕方に終わればいいが、夕方からとなると夜中までかかり、ついつい隣の講義室 で仮眠して、目が覚めたら朝の講義が始まっていたという話もきいた。飲み会といえば、

理系ビル屋上や405号室(あの頃、居酒屋やカラオケがあったかな?)。コンパで 405 教室を翌朝まで占拠。西原の琉大キャンパスでは今も、学内でこのように学生が酒を飲み 交わすことがあるのかな。理系ビル屋上・・・この場所こそ、那覇の夜景が一望できる琉 大最高の場所だったと私は思う。   

  琉大祭で行った安里交差点の大気調査、分析教室恒例の泊まり込みサンプリング調査、

4年次での卒業研究など深夜までかかることが多かった。今のようにデジタルの機器がま だ十分そろってなかったので、体力と友達力(観測を替わってもらったり、夜食を差しい れしてもらったり)がかなり必要だったと思う。卒研では大森先生の指導により炭酸カル シウムの実験を行った。室温10 度の低温室を使って作業をした後、室外に出るとそこは 30度を超える真夏の気温となり、この温度差には参ってしまったが、今では懐かしい思い 出である。

 

分析化学講座  745314  平  哲夫        教育雑感

  大学卒業後、教職に携わることになり、これまでを振り返って一言で語るならば、「人間 関係の難しさと同時に素晴らしさ」を噛みしめることができた34年間でした。生徒との 関係はもとより、保護者、同僚教師、地域住民、教育関係者、議員の方々等の多くの人と の関わりの中で、様々な葛藤や体験を積

み重ね、私自身、ここまで歩むことがで きた。おそらく、こうした多くの人との 関わりは他業種の方でも同様にあるとは 思いますが、「卒業式」で味わうことがで

(24)

ところで、最近の子どもたちを見ていると、他者とかかわる力(関係力)が正常に育っ ているかどうかが、大変、気になっている。と言うのも、今の子どもたちの生活には、イ ンターネットや携帯電話が深く浸透しており、メール等のやりとりと引き替えに「自分に 快適な関係だけを作り上げる」という人間関係の希薄さが生じてきているのではないだろ うか。こうした関係からは、嫌な相手との関わりから生まれる感情をうまく処理していく

「打たれ強さ」が獲得されにくい。「居心地の良さに慣れすぎると気の合わない者に上手に 対処できなくなる可能性がある」のだが、子ども達が巣立っていく社会では、嫌な相手や 気の合わない者と接して、生きて行かざるを得ないことは当然のことである。

  人は顔と顔を付き合わせて、交流することが基本であり、そうしたアナログな世界で生 きていくことが、明白である以上、それだからこそ、嫌なことも抱え込みながら、どうに かバランスを保って生きていく力こそ、「社会を生きる力」そのものである。

  子どもたち一人ひとりにこうした「社会を生きる力」の土台を創ってあげるのが、教師 の役目であり、「卒業式」でこうした人との関わりの大切さを伝え、感動を味わってみたく、

日々の職務に精進しています。

 

分析化学講座    745332    山田  保   −学生時代の思い出編− 

  大学に入学したのは今から37年前、ずいぶん昔のことである。久々に大学時代の記憶 をたどると、大学一年次の分析化学の実験で、コーラやビール瓶をカットしたものをビー カーとして使っていたり、牛乳瓶を気体発生装置として活用しているのを見てびっくりし たのを覚えている。

  陽イオンの検出実験では塩化水素の白い煙で充満した実験 室や、硫化水素の臭いの中でいつの間にかにおいを感じなく なって実験を続けることも多かった。塩酸の入ったポリ容器 に手を突っ込んでフラスコなどを取り 出すなど、今なら考えられないような 状況での実験であった。実験室では待 ち時間の間に麻雀をやり、いつの間に

か麻雀に熱中しすぎて、気がつくとるつぼが溶けてしまったこと や、電気炉で焼き芋を焼いて食べていたことなどもあった。

  4年次では分析化学の教室で北部の河川水の水質調査があり、

化学の魅力やおもしろさを感じ、研究者の仕事に就こうと考えた 時期もあったが、気がつくと高校の化学の先生となり、今に至っている。大学時代の経験 が、現在の仕事につながっていることに改めて感謝したい。 

     

昔・・・昔

(25)

分析化学講座  745326  大城(前里)陽子  学生時代を振り返って

同窓会第4回幹事会で学生時代の思い出や近況報告等を会誌へ載せようということが決 まった。うん、まだ1ヶ月もある、大丈夫だ。

そして時が過ぎ昨夜、首ちりどぅし(友)〔昔、男の人はそう言った。無二の親友の意 味、今では死語かな?〕の村山さんから原稿について電話があった。えっ、もう締め切り だったっけ?確か20日までだったかな?と思い正直焦った。

そういえば学生時代、締め切り間際にレポートを徹夜で仕上げていたなと思い出した。

この焦り感、当時味わったのと一緒だ!振り返れば35 年以上経っても私は学生時代と変 わっていないのだ、私は一人苦笑した。

  さて、学生時代の思い出といえば、日の目を見なかった電流計のことだ。うろ覚えだが 2年次の伝導度測定実験(?)のときだったと思う。村山さんとペアーを組み、実験装置 を全てセットし、導線の接続順序を確認してスイッチをONにした。

ところが電流計の針は振れない。再度スイッチを入れた。同じだ、針は振れない。おか しいな?導線の接続順序に間違いはないし、きっと、電流計のプラスとマイナスの接続の 間違いだろうと二人の意見が一致した。

+−を入れ替えスイッチをONにした。後は、誰もが容易に想像できる結果となった。

針が振り切れた可哀想な電流計は、その場で没となった。原因は、単なる接触不良(オヨ

〜ヨ〜)。

その時の桂先生のお言葉『命あるものはいつか死ぬ、形あるものはいつか無くなる。た だ、それが早いか、遅いかです。でも、その電流計は、今箱から出したばっかりでした。

一度も日の目をみることなく去っていきますね・・・。』

目を白黒させている二人に優しく、しかし残念そうに声をかけてくださった桂先生の様 子が35年経った今でも記憶の奥に鮮明に残っています。

  現在は、学校給食でパン・米飯を供給する仕事に携わっています。

飽食の時代に、食べ物の大切さ・有り難さを子供たちに教えることを目的とした食育。

些細な異物にも反応する子供たち。その観察力・視力の良さに感心させられることもある。

将来の日本を担う子供たちのためにパン・米飯を供給できる有り難さを胸に、年を感じな がらも仕事に励んでいる今日この頃です。

天然有機化学講座  745322  仲本  勝也   

(26)

在首里城となり、毎日多くの観光客が訪れ校内からも闊歩している観光客が見渡せ、昔の 面影は何一つ無く寂しい限りである。首里高校に勤務していると 30 余年前に通った守礼 の門や龍潭池前の通りや、勉学に励んだ第2理系ビル、いっぱい遊んだ学生寮等が鮮やか に思い出され毎日です。

1984年の採用以来ずっと中部のみの転勤を繰り返していましたが、最後の最後になって 那覇地区へ転勤になり、なれない職員なれない校内のシステム、出勤時の混雑、早朝講座 週3日等、朝早くから帰るまで、毎日が大変な忙しさの中頑張っています。厳しい中では あるが残り少ない教員生活を充実していきたいと思います。

有機化学講座  745301  石川  正

  昭和53 年に大学を卒業して、数年は就職できずに臨時の仕事をしていました。病院で の臨時職をきっかけに希望する職業ではなかったが、早く就職に就きたくて病院に就職し、

医事課で医療事務することになり、専門的な知識を得るため半年間医療事務の学校へ通い、

それ以来、医療関係の仕事に携わって日々忙しさと厳しさの中精いっぱい努力してきまし た。その間に、変わったと言えば、コンピュータの技術的な進歩に伴い、パソコンが導入 されて受付、会計等が簡素化された事や、月初めに手書きで作成していた診療報酬明細書 がプリンタより、印刷できるようになったことで、仕事にゆとりができるようになった。

  月日が流れるのは早いもので、気が付けば卒業して30数年が経ち、来年で定年退職の 予定です。退職後は、気長に楽しく暮らしていけたらと考えています。

有機化学講座    745307  具志堅  三好

一年留年をして卒業することになりました。しかし就職も決まらず、自宅で就職のため の勉強をしていた時でした。5 月の半ばごろ、突然、外間  宏三先生から電話を頂きまし た。「就職は決まりましたか。福岡の方で製薬会社が面接をするから来てくださいと話があ りましたよ。よかったら行ってみたら。」と電話番号を教えて頂いた後、早々に電話を切ら れました。まあ暇だから、福岡に遊びにでも行ってくるかと、考えて 2、3日後に製薬会 社に電話をしてみました。「来週、面接があるので福岡に来て欲しい」と言われました。

彼女に相談して福岡に行きました。面接の前にテストがあり一般教養程度の問題と、作 文を書かされました。そのテストが終わるとき、突然「君は合格してます。」と会社の課長 さんに宣言されました。問題は面接のときなのですが、どうして勤務地を沖縄に拘るかを 支店長に追求され、しぶしぶ「彼女が沖縄に居るので、沖縄がいいです。」と話しましたが、

3年間福岡勤務を命ぜられました。

しかし、今のかみさんは福岡支店の事務員をしていた方で、つまり今自宅は福岡の小郡 市にあり、現在この10月から単身赴任で沖縄に来ています。もちろん製薬会社のMRと して。流れにまかせて。

(27)

有機化学講座  745312  新城  秀樹    いろいろ回り道

  大学を1年浪人して化学科に入学、その後いろいろ訳あって少々回り道をしながら5年 後に卒業。それでこの1974年入学の同期の皆さんとは卒業の年度がずれてしまいまし た。しかし、よく振り返ってみると同じような道を辿ったのが何名か存在したので先生方 には迷惑をおかけしましたが気後れすることがありませんでした。この5年間を振り返っ てみると入学以来バイトとサークル活動(実際は筆をほとんど握らない書道部)に明け暮 れていたように思います。朝5時になると農連市場のバイトにでかけその後授業へ、さら にその後は週に3回の家庭教師、そしてサークルへ(実際には部の運営が主で筆を握るの は展示会の2〜3日前)、時には悪友につきあって?  麻雀と家へと帰るのはいつも午前様 という有様でした。今考えるとよく体が持ったものである。しかし、良くも悪くも想い出 の深い楽しい首里キャンパスであった。

  勉学に関しては高校の授業と のギャップが大きく、特に教養 化学の講義があまりにもわから ないことが多く追いつけなかっ たためいつも四苦八苦、試験の 前に先輩が貸してくれたノート がどれだけ有り難かったことか。

  そうこうしているうちに瞬く 間に4年が過ぎ就職が決まらず、

そのため中学校の教員免許を取 得する目的で大学5年目に突入、

その間に農学部を受けた講義が面白かったので(おそらく食い物に関する学問が私の水に あったのだと思う)さらにあと2年間を西原キャンパスの農学部大学院で過ごすことに。

その後教員採用試験も何回か落ち、合格後も採用になるまで3年間フラフラと回り道・・・・。

  そんな回り道の多い私でしたが大学生活で一緒に過ごした仲間と今でも交流が持てると いうことは今の私の大きな財産になっているように思います。(今年は久しぶりのメンバー に月1で会えるのが楽しみになっています)

有機化学講座  745333  与座  範弘    卒業後編

1974年 遠足で

(28)

等を扱う分野である。当時の私には未知の分野であり、はじめて聞く専門用語やはじめて 触れる分析機器等に戸惑いを覚えながら、何とかやってこられた。これも学生時代を含め いろんな方の指導のお陰であり、唯々、感謝あるのみである。また、セラミックスの分野 は化学と重なるところも多い、と気がついたのも仕事を始めてからである。漠然とではあ ったが、何かしら化学と関連のある仕事につきたいと思っていた願いが、少しは叶ったの かなと思っている。

こうした仕事をさせてもらったお陰で、思いもよらぬ関わりや思い出もいくつかできた。

いろんな意味で人生の貴重な時間を過ごした首里キャンパス、現在は沖縄の文化、歴史を 象徴するお城として、また、世界遺産として沖縄県の代表的な観光スポットの一つとなっ ている。その首里城正殿が復元される中で、首里城の古瓦や復元瓦、遺物について、原材 料の探索から遺物の分析等、仕事を通じて少し関わらせてもらった。お世話になった場所 への少しばかりの恩返し、と私なりに密かに抱いていた思いの一つである。

無機化学講座  村山  博子        −近況編―

学生時代は遙か遠くになり、自分の卒論の内容もすっかり忘れてしまいました。覚えて いるのは卒論の期限が迫ったあの恐怖の時間と、桂先生、普久原先生のやさしい指導のお 陰で何とか完成し卒業することが出来たという感謝の気持ちだけです。なぜか気が合って 卒業後も良い友達になった前里さんに出会えた事と、その彼女とそして同期のみんなと一 緒に楽しく過ごした時間が私の大

学での最大の思い出です。

卒業後、全く違う世界を歩いて 来て、同窓会にも出席せず、あれ 程お世話になり迷惑をかけたであ ろう先生方にも礼を欠き、学生時 代の仲間とも疎遠になっていまし た。この度、我が年度に同窓会の 幹事の役割が回って来た事がきっ かけとなり久しぶりに皆に会いま した。何年ぶりかに会うみんなは

年齢を重ね確実に外見は変わっていました(勿論私を含め)が、変わらないみんながそこに 居て、すぐに学生時代に戻りました。久しぶりに聞く名前の近況報告、あ〜そうだ、居た な〜!なつかしさでいっぱいです。これを機にせっかくの大学時代の縁をもっと大切にし て行きたいと思った今日この頃です。 

私は今、株式会社  比謝川電気  という電気工事会社で取締役総務部長を務めておりま す。外線工事、内線工事の電気工事を中心にその他設備工事を手がける創業50年の業界 では中堅の会社です。昨今の不況で絶え間なく経営改革に取り組む大変な毎日を過ごして

1977年 万座ビーチ

(29)

います。まったく畑違いの仕事ですが、大学で学んだ事は何かの形で活かされていると信 じています。ご縁があり我が社の名前を耳にした時には思い出していただければ幸いです。

無機化学講座    745330  森山  紹政    (思い出)

  1977年 4 年次であった私は、無機化学にて卒業研究を行っておりました。当時、無機 化学に所属していたのは、私の他に村山博子の一人だけであった為、研究室は、毎日がと ても静かであったように記憶しております。研究以外の遊びや、行事に関しては、同じ 4 階フロアにあった物理化学の同期と一緒のことが常でした。たしか、両研究室の先生方も 一緒に釣りに行ったことがありました(場所は、たぶん残波岬あたり)が、魚が 1 匹も釣れ ず、終いには、持って行った餌のサンマを皆で焼いて食べて楽しんだ記憶があります。ま た、少ないお金を出し合ってチーズケーキを買い誕生日も皆で祝い合ったものです。

当時の私は、物理化学以外の研究室とも割と多く交流を持っておりました。思い出の一 つに天然有機化学に同行して西表島に研究材料のサンプリングに行ったことがあります。

教官であられた森先生、国吉先生そして学生の仲本勝也、平良政枝(その他に 1,2 人)に旅 行気分で部外者の私が加わりました。思い出すのは西表島に着いた初日の夜のことです。

私たち学生は付属農場の来客用の宿舎でのんびり過ごしていたのですが、森先生と国吉先 生は、私たちの宿舎から少し離れた場所にあった農場職員の施設で職員の方々と宴会を始 めてしまいました。夜もふけてそろそろ眠りにつく頃だったと思います。突然、農場の職 員が駆けつけて来て、先生方が暴れているので何とかしてほしいとのこと、急いで現場に 行ってみると、お二人 の先生は既に泥酔状態 で歩くこともままなら ない状態で私たち学生 がお二人を担いで宿舎 に お 連 れ す る 羽 目 に・・・。余りの重さ に宿舎までの距離がと ても長く感じたのはた ぶん私だけではなかっ

たと思います。       

(30)

物理化学講座    745303  上原  栄淳

光化学オキシダントに注意(越境大気汚染)

 

  今回、同窓会誌編集委員から25期生全員が寄稿するよう依頼があり、内容・テーマは自 由であるとのことであったことから、本県の大気環境について感じたことを書いてみたい と思います、拙い文章ではありますがご容赦願いたい。 

  沖縄県では、大気汚染の原因となる大規模な燃焼を伴う工場の立地がほとんどない、海 風のため大気の滞留が少ない、等の状況から本県では顕著な大気汚染は発生しないものと 思っていませんか。 

  しかしながら、近年、沖縄県でも大気汚染の一つである光化学オシキダント濃度の上昇 が確認されております。 

  光化学オキシダントは、工場のばい煙や自動車の排ガスに含まれる窒素酸化物等が、紫 外線を受けて光化学反応を起こし生成されるオゾンを主成分とするもので、オキシダント の濃度が高くなると、目の痛みや喉の痛みなどの健康被害を引き起こす可能性があります。 

  国内ではオキシダント生成の原因物質となる窒素酸化物(NOx)と揮発性有機化合物

(VOC)の排出量は減少傾向にありながら、全国的にオキシダント濃度の上昇傾向が見ら

れており、沖縄県でも特に4月から6月にかけて高くなる傾向があります。 

  これらのオキシダント濃度の上昇については、国立環境研究所の研究により中国大陸側 からの汚染物質の流入(越境大気汚染)が原因と言われています。 

  県内では、平成21年5月に光化学オキシダント濃度が大気汚染防止法に定める注意報発 令基準である0.12ppm近くまで上昇したことから、マスコミ等を通じて県民に対し警戒の 呼び掛けを行ったことがあります。 

  光化学オキシダント注意報が発令されますと、屋外での激しい運動は控える、体の弱い 人は外出を控える、などの注意喚起が行われることとなり、学校等では体育の授業や運動 会等が中止となることがあります。 

  現在、県内には常時測定局7局設置してオキシダントの常時監視を行っており、測定結 果については、全国の大気汚染状況としてリアルタイムで下記ホームページにて公開され ていますので、活用して頂ければと思います。 

 

【  そらまめ君(環境省大気汚染物質広域監視システム)  http://soramame.taiki.go.jp/  】 

(31)

物理化学講座  745304    上原  博紀

毎年8月上旬、那覇市民ギャラリーで彫刻のグループ展

(個我の形象展)が開催されている。彫刻の好きなメンバ ーが彫刻研究会なるものを立ち上げ、その活動の一環とし ての提示会である。(今年で15回目の開催)

研究会は、17年前に沖展会員を中心に9名のメンバー で結成され、私も声を掛けていただいた。活動は、年1回 のグループ展を中心に2ヶ月に1度の会合を持ち、彫刻談 義を楽しみながら、情報交換を行っている。

私が彫刻を始めたのは、30代半ばである。当時は油絵 が好きで、主に人物をモチーフに悪戦苦闘していたが、表 現の更なる深化?を求めて人体彫刻に挑戦したのが切っ掛 けである。そして、20年余り彫刻の魅力にどっぷり漬か ってしまった。その魅力については、各自、直ぐに体験し て知っていただくことにして、作品の1つを紹介したい。

テーマ「風の行方」

これからの時代、どのような方向に世の中に動いていく のか静かに耳を傾けよ。

物理化学講座  745323    比嘉  榮三郎

  学生の頃は、先生や先輩・仲間とともに、安いウイスキーを飲み交わし黒の舟歌を歌い ながら夜が更けるのも忘れ、学業だけでなく人生についても語り明かしたことが、今でも 頭の隅の遠い記憶の領域に残っている。 

  化学の実験は深夜におよぶこともあり、ビーカーでラーメンを作ったり、おにぎりを買 って皆で食べたり、たまには研究室で徹夜を過ごし朝があけるのを待って帰ることもあっ た。 

  研究の合間には、運動不足解消のため先生や研究室仲間とキャッチボールをしたりして 過ごし、同期生一同で泊りがけの旅行に行き楽しく過ごしたこともあった。 

  琉大際でのナイアガラの滝・花火大会、天候が悪い荒波のなかを船に酔いながら強行し た座間味島キャンプ。金城先生の大宜味別荘での泊りがけの夏祭り・テナガエビ採り。オ

(32)

  最近は、パソコンの動画サイト「YOUTUBU」にアクセスすることも多くなり、あの頃 はやった「岬めぐり」「22才の別れ」・・・・・などのファークをビール片手に歌ってい る自分がいる。なぜか、若い脳で覚えた歌はなかなか忘れないようだ。 

  この化学科での様々な体験、先生方や仲間との交流は、卒業してからこれまでの人生に 大きな影響を及ぼしているものと、今でも、そしてこれからも思い続けているだろう。 

物理化学講座  745324    比嘉  隆 

  高校生の頃、本土復帰という沖縄にとって大きな転換期の中、琉球大学化学科への進学 を選択したのは、当時社会問題として連日取り上げられていた「公害問題」について何と なく関心を持ったことがきっかけであった。 

  1 年間の浪人を経て入学した私は、勉強しなければいけないという気持ちとは裏腹に、

サークル活動に時間を費やし、卒業後のことも特に考えること無く大学生活を過ごしてい た。その結果、卒業も送れ、就職浪人も経験した私ではあったが、現在、数年先の定年を 前にした公務員として環境行政に携わっている。 

  不勉強だった私は、大学の先生方に多くのご迷惑を掛けた出来の悪い学生であった。そ のため、学内の試験の時は常に悪戦苦闘、就職試験等でも出来たと思うことはまったく無 かった。この歳になっても時々当時の頃の夢を見ては、冷や汗をかいている。 

このような時に思い起こすことは、K先生の「一時が万事」、T先生の「労力を惜しむな」

の言葉である。つくづく目的を持った学生時代を過ごすべきだったとの後悔の念と併せて、

私のような学生を見守って下さった先生方に対する感謝の気持ちで一杯になる。 

心からお礼を申し上げます「有難うございました」。

     

2004年 12 月  居酒屋で忘年会

(33)

同 窓 会

・ 琉球大学化学同窓会会則

・ 新規会員名簿(平成23年度)

・ 理工学研究科所属一覧

・ 役員・各期幹事名簿

千 原 キ ャ ン パ ス

(34)

琉球大学化学同窓会会則

(目的)

第1 条  本会の目的は、化学する心を育み、会員相互の親睦と琉球大学化学及び海洋自然 科学の発展に貢献することを目的とする。

(名称及び事務局)

第2 条  本会は、琉球大学化学同窓会と称し、事務局を理学部海洋自然科学科(化学系)

事務室に置く。

(会員)

第3 条  本会の会員は次のとおりとする。

(1)正 会 員  琉球大学化学科卒業生、海洋自然科学科卒業生、理工学研究科化学関連 研究生並びに関連する大学院生。

(2)特別会員  正会員以外の琉球大学化学科現旧職員、及び琉球大学教官で本会の主旨 に賛同する者。

(3)準 会 員 琉球大学化学科在学生、海洋自然科学科(化学系)在学生、及び正会員

以外の同大学院生。

(4)賛助会員 本会の主旨に賛同し、役員会で推薦した者。

(事業)

第4 条  本会は、前条の目的達成のために、次の事業を行う。

(1)会誌の発行

(2)会員名簿の管理

(3)琉球大学海洋自然科学科(化学系)教官の退職激励会及び叙勲者、受賞者の激励会。

(4)その他、本会の目的達成のために必要な事業。

(会員の努め)

第5 条  会員は転職、転居、改姓の都度、その旨本会事務局に通知するものとする。

(役員の構成)

第6 条  本会に次の役員を置く。

会長1名、副会長1名、事務局長1名、会計1名、書記2名、琉大海洋自然科学科

(化学系)幹事1名。

各期幹事1名、準会員幹事1名、会計監査委員2名。

(役員の選出) 

第7 条  役員は次のとおり、会員の中から選出する。 

(1)会長、副会長は各期持ち回りとし、総会において選出する。 

(2)事務局長、会計、書記、会計監査委員は会長が委嘱する。 

(35)

(3)琉大化学幹事は海洋自然科学科(化学系)主任があたる。 

(4)各期幹事は各期で互選する。役員は各期の幹事を兼ねることができる。 

(役員の任務)

第8 条  役員の任務は次のとおりとする。

(1)会長は、本会を代表し、会務を総括する。

(2)副会長は、会長を補佐し、会長に事故ある時は、その職務を代行する。

(3)事務局長は、会長の指示により、会務を統率し、その事務を処理する。

(4)会計は、会計事務を処理する。

(5)書記は、会議の議事録の整理と文書事務を処理する。

(6)琉大幹事は、大学側を代表し、大学と同窓会との連絡調整の任にあたり会務が円滑 に遂行できるようにする。

(7)各期幹事は各期を代表し、同窓会と同期生との連絡調整の任にあたり、会務が円滑 に遂行できるようにする。

(8)会計監査委員は、本会の財産及び会計等の諸帳簿を監査し、その結果を総会で報告 する。

(顧問の設置)

第9 条  本会は、特別会員及び本会に貢献した者の中から若干名の顧問を置くことができ る。顧問は会長の相談に応ずる。

(役員、顧問の任期)

第10条  役員、顧問の任期は次のとおりとする。

(1)役員の任期は1年とする。

(2)顧問の任期は2カ年とし、再任を妨げない。

(総会)

第11条  1.総会は年度1回、定期総会を開催する。

2.定期総会は次の事項を審議決定する。

(1)会則の改正(2)役員の選出(3)会務報告及び会計報告

(4)予算、決算の承認(5)その他必要な事項

3.会長が必要と認めたときは、臨時総会を開催することができる。

4.総会の議長は会長が務める。

参照

関連したドキュメント

西九州新幹線は、武雄温泉・長崎間、線路延長約 66km

を軌道にのせることができた。最後の2年間 では,本学が他大学に比して遅々としていた

白山中居神社を中心に白山信仰と共に生き た社家・社人 (神社に仕えた人々) の村でし

ンコインの森 通年 山梨県丹波山村 本部 甲州市・オルビスの森 通年 山梨県甲州市. 本部

本判決が不合理だとした事実関係の︱つに原因となった暴行を裏づける診断書ないし患部写真の欠落がある︒この

[r]

その認定を覆するに足りる蓋然性のある証拠」(要旨、いわゆる白鳥決定、最決昭五 0•

± KRKy-2也音洞遺跡蔚山市南区新亭洞青銅器中期松菊里炭化材Ⅱ区1住居跡,材NO1密陽大学校博物館/郭