『名古屋大學中國語學中國文學論集』第輯
30
二〇一七年三月
應劭『風 俗通義』怪神篇訳注稿(上)
道 家 春 代
本稿は、後漢應劭『風俗通義』第九、怪神篇の訳注である。
本文には原則として呉樹平『風俗通義校釋』(天津人民出版社、
一九八〇年)を用い、王利器『風俗通義校注』(中華書局、一
九八一年)、香港中文大學中國文化研究所『風俗通義逐字索引』
(香港・商務印書館、一九九六年)、趙泓『風俗通義全訳』(貴
州人民出版社、一九九八年)、及び季嘉玲「風俗通義校注」(『臺
灣師範大學研究所集刊』第二十一號、一九七七年)を参照し
た。残念ながら朱季海『風俗通義校箋』(学術書林、一九九六
年)、は入手できず、見ることができなかった。 目次
0(序)
1世間多有見怪驚怖以自傷者
2世間多有惡夢變難必效
3城陽景王祠
4九江逡遒有唐居山
5會稽俗多淫祀
6鮑君神
7李君神
8石賢士神
- 126 -
(下)に続く
0(序)
禮
(
1)
「天子祭天地、五嶽、四瀆(
2)
,諸侯不過其望也(
3)
。 大夫五祀,士門、戸,庶人祖(
4)
。蓋非其鬼而祭之,諂也(
5)
。」 又曰「淫祀無福(
6)
。」是以隱公將祭鍾巫,遇賊蔿氏(
7)
。二 世欲解淫神(
8)
,閻樂劫弑(
9)
。仲尼不許子路之禱( )
,而10
消息之節平。荀罃不從桑林之祟,而晉侯之疾間( )
。由是觀11
之,則淫躁而畏者,災自取之,厥咎嚮應。反誠據義,内省不
疚者
( )
,物莫能動,禍轉爲福矣。傳曰「神者,申也( )
。12
13
怪者,疑也。」孔子稱土之怪爲墳羊( )
。『論語』「子不語怪力14
亂神( )
。」故采其晃著者曰怪神也。15
〔注〕
(1)『禮記』王制「天子祭天地,諸侯祭社稷,大夫祭五祀。天子祭天
下名山大川,五嶽視三公,四瀆視諸侯。諸侯祭名山大川之在其地者。」
曲禮下「天子祭天地,祭四方,祭山川,祭五祀,歳徧。諸侯方祀,
祭山川,祭五祀,歳徧。大夫祭五祀,歳徧。士祭其先。」『論衡』祭
意「禮,王者祭天地,諸侯祭山川,卿、大夫祭五祀,士、庶人祭其 先。」
(2)『風俗通義』山澤篇五嶽「東方泰山。・・・爲五嶽之長。・・・南方衡 山,一名霍山。・・・西方華山。・・・北方恆山。・・・中央曰嵩高。」同四
瀆「謹按,尚書大傳、禮三正記,江、河、淮、濟爲四瀆。」
(3)『春秋左氏傳』哀公六年「秋七月,・・・初昭王有疾,卜曰『河爲
祟。』王弗祭。大夫請祭諸郊。王曰『三代命祀,祭不越望。江、漢、
雎、章,楚之望也。禍福之至,不是過也。不穀雖不德,河非所獲罪
也。』遂弗祭。孔子曰『楚昭王知大道矣。其不失國也,宜哉。』」杜
預注「諸侯望祀竟内山川星辰。四水在楚界。」『尚書』舜典「望于山
川,徧于羣神。」孔傳「九州名山大川、五岳四瀆之屬,皆一時望祭
之。」
(4)「五祀」には諸説ある。『禮記』祭法「諸侯爲國立五祀,曰司命,
曰中霤,曰國門,曰國行,曰公厲。諸侯自爲立五祀。大夫立三祀,
曰族厲,曰門,曰行。適士立二祀,曰門,曰行。庶士、庶人立一祀,
或立戸,或立竈。」注(1)引く王制鄭注「五祀,謂司命也,中霤也, 門也,行也,厲也。」注(1)引く曲禮下鄭注「五祀,戸、竈、中霤、
門、行也。」『論衡』祭意「五祀,報門、戸、井、竈、室中霤之功。」
今『論衡』の説に従う。「中霤」は家屋の屋根中央の明かり取り。
(5)『論語』爲政「子曰『非其鬼而祭之,諂也。』」
(6)曲禮下「非其所祭而祭之,名曰淫祀。淫祀無福。」
(7)『春秋左氏傳』隱公十一年「羽父請殺桓公,將以求大宰。公曰『爲
其少故也。吾將授之矣。使營菟裘,吾將老矣。』羽父懼,反譖公于
桓公,而請弑之。公之爲公子也,與鄭人戰于狐壤止焉。鄭人囚諸尹
氏。賂尹氏而禱於其主鍾巫。遂與尹氏歸,而立其主。十一月,公祭
鍾巫,齊于社圃,舘于蔿氏。壬辰,羽父使賊弑公于蔿氏。立桓公而
討蔿氏,有死者。」隱公はまだ公子の頃鄭の捕虜となったが、鄭の
大夫尹氏に賄賂を贈って尹氏の守護神である鍾巫に禱り、尹氏とと
もに脱出して魯に帰ったあと、鍾巫を祭った。隱公が弑逆されたの
は、鍾巫の祭のために蔿氏の家に宿泊していた時だった。
(8)『論衡』解除「世信祭祀,謂祭祀必有福。又然解除,謂解除必去
凶。」
(9)『史記』秦始皇本紀「二世夢白虎齧其左驂馬,殺之,心不樂,怪
問占夢。卜曰『涇水爲祟。』二世乃齋於望夷宮,欲祠涇,沈四白馬。
使使責讓高以盜賊事。高懼,乃陰與其壻咸陽令閻樂、其弟趙成謀・・
・遣樂將吏卒千餘人至望夷宮殿門,・・・二世自殺。」
()『論語』述而「子疾病。子路請禱。子曰『有諸。』子路對曰『有 之。誄曰禱爾于上下神祇。』子曰『丘之禱久矣。』」 10 ()『春秋左氏傳』襄公十年「宋公享晉侯于楚丘,請以桑林,荀罃辭。 11
荀偃、士曰「諸侯宋魯於是觀禮。魯有禘樂,賓祭用之。宋以桑林
享君,不亦可乎。』舞師題以旌夏。晉侯懼而退入于房。去旌卒享。
而還及著雍疾。卜桑林見。荀偃、士欲奔請禱焉。荀罃不可,曰『我
辭禮矣,彼則以之。猶有鬼神,於彼加之。』晉侯有間。」杜注「桑林,
殷天子之樂名。宋王者之後,魯以周公故,皆用天子禮樂,故可觀。
旌夏,大旌也。題,識也。以大旌表,識其行列。著雍,晉地。間,
疾差也。」
()『論語』顔淵「司馬牛問君子。子曰『君子不憂不懼。』曰『不憂 不懼,斯謂之君子已乎。』子曰『内省不疚,夫何憂何懼。』」 12 ()『論衡』論死「或説,鬼神,陰陽之名也。陰氣逆物而歸,故謂之 鬼,陽氣導物而生,故謂之神。神者伸也,申復無已,終而復始。人 13
用神氣生,其死復歸神氣。」
()『國語』魯語「季桓子穿井,獲如土缶,其中有羊焉。使問之仲尼 曰『吾穿井而獲狗,何也。』對曰『以丘之所聞,羊也。丘聞之,木 14
石之怪曰夔、蜽,水之怪曰龍、罔象,土之怪曰羊。韋昭注「桓
子,魯政卿,季平子之子斯也。或云得土如瓦缶,中有土羊。昭謂,
羊,生羊也。故謂之怪也。獲羊而言狗者,以孔子博物,測之也。」
()述而「子不語怪力亂神。」
15
〔訳〕
- 128 -
『禮記』王制に「天子は天地と五嶽(泰山・衡山・華山・恆
山・嵩山)及び四瀆(江水・河水・淮水・濟水)を祭り、諸
侯は域内の山川と星辰のみを祭る。大夫は家内の五カ所(門
・戸・井・竈・中霤)、士は門と戸、庶民は先祖を祭る。思う
に自分の先祖でないのに他人の先祖を祭るのは、その人に対
する諂いである」とあり、また「淫祀(祀るべきでないもの
を祀る)したとしても、何の御利益もない」ともある。
魯の隠公は公子時代鄭に囚われていたが、鄭の大夫尹氏に
賄賂を贈り、尹氏の守護神鍾巫に禱って尹氏とともに鄭を脱
出し魯に帰還し即位した。しかし鍾巫を祭るために蔿氏の舘
に滞在していたとき弑逆されてしまった。秦の二世皇帝が夢
占いで涇水の祟りがあるといわれ、それを解こうと涇水の神
の祠をたて白馬を生け贄に沈めた。しかし趙高の命を受けた
閻樂に弑された。(これらは祭祀すべきでないものを祭祀した
が御利益がなく、却って災いがふりかかった例である。)一方、
孔子は重病に臥せた時、子路が天地の神々に禱りたいという
のを止めた。それでも瀕死の状態から平癒した。宋公が楚丘
で晋侯を饗応した時、「桑林の楽」(宋に伝わる殷の天子の楽)
でもてなそうとしたのを、晋侯の家臣荀罃は辞退した。しか し舞楽が始まってしまったので晋侯は懼れて隠れた。晋の地
に到着後、晋侯は病に罹った。「桑林」の祟りとの占い結果が
でたが、荀罃はこちらは辞退したのであるから、たたられる
いわれはない、と否定し祈禱をさせなかった。その後晋侯の
病は平癒した。
これらのことを考察してみると、畏れてやたらに騒ぐ人は、
自ら災いを取りに行くことになり、音に響きが応じるように
災難が降りかかるが、誠意にもどって義に拠り、内省して疚
しいことがない人は、どんな物の怪にも動かされず、禍転じ
て福となる。伝に云う、「神は『申(伸)』であり、無限に消
長する。怪は『疑』であり、疑念から生まれる。」季桓子が井
戸を掘ったとき、羊が入った甕を掘り出した。そこで孔子に
犬と偽って「これはいったい何か」と尋ねた。孔子は「土の
怪は羊です」と言い当てた。『論語』に「子は怪力乱神を語ら
ず」とあるが、その孔子でさえ怪について語ることがあった。
そこで神や怪の顕著とされる事例を採取して「怪神」と題す
る。
1世間多有見怪驚怖以自傷者 謹按,『管子』書
(
1)
「齊公出於澤,見衣紫衣,大如轂, 長如轅(
2)
,拱手而立。還歸,寢疾,數月不出。有皇士者見 公語,驚(
3)
曰『物惡能傷公,公自傷也。此所謂澤神委蛇者也,唯霸主乃得見之。』於是桓公欣然笑,不終日而病愈。」
予之祖父郴爲汲令
(
4)
,以夏至日請見主簿杜宣,賜酒。時北壁上有懸赤弩,照於盃中,其形如蛇。宣畏惡之,然不敢不
飮,其日便得胸腹痛切,妨損飮食,大用羸露,攻治萬端,不
爲愈。後郴因事過至宣家,闚視,問其變故,云畏此蛇,蛇入
腹中。郴還聽事,思惟良久,顧見懸弩,必是也。則使門下史
將鈴下
(
5)
侍徐扶輦載宣,於故處設酒,盃中故復有蛇,因謂宣「此壁上弩影耳,非有他怪。」宣意遂解,甚夷懌,由是瘳平,
官至尚書,歷四郡,有威名焉。
〔注〕
(1)『管子』現行本にこの話はない。『莊子』達生「桓公田於澤,管
仲御,見鬼焉。公撫管仲之手,曰『仲父何見。』對曰『臣無所見。』
公反,誒詒爲病,數日不出。齊士有皇子告敖者,曰『公則自傷,鬼
惡能傷公。夫忿滀之氣,散而不反,則爲不足,上而不下,則使人善 怒。下而不上,則使人善忘。不上不下,中身當心,則爲病。』桓公
曰『然則有鬼乎。』曰『有。・・・野有彷徨,澤有委蛇。』公曰『請問
委蛇之狀何如。』皇子曰『委蛇,其大如轂,其長如轅,紫衣而朱冠,
其爲物也惡,聞雷車之聲,則捧其首而立。見之者殆乎霸。』桓公辴
然而笑曰『此寡人之所見者也。』於是正衣冠與之坐,不終日而不知
病之去也。」
(2)『山海經』海内經「有人曰苗民。有神焉,人首蛇身,長如轅,左
右有首,衣紫衣,冠旃冠,名曰延維,人主得而饗食之,伯天下。」
(3)呉樹平、王利器ともに盧文弨『羣書拾補』の「『語』下當有『之』
字,否則『語驚』二字衍」を引く。今「語之,驚」として訳す。
(4)『後漢書』楊李翟應霍爰徐列傳「應奉字世叔,汝南南頓人也。曾
祖父順,字華仲,和帝時爲河南尹、將作大匠,公廉約己,明達政事。
生十子,皆有才學。中子疊,江夏太守。疊生郴,武陵太守。郴生奉。
・・・(奉)子劭。」汲県は河内郡に属す。
(5)『後漢書』酷吏列傳「(周)紆・・・乃密問守門人曰・・・又問鈴下。」
李賢注「漢官儀曰『鈴下、侍閤、辟車,此皆以名自定者也。』」
〔訳〕
謹んで考察いたします。『管子』の書に次の話が載せられて
いる。「斉の桓公が沢に狩に出たとき、紫衣を着た、車輪ほど
- 130 -
の太さで、車の轅ほどの長さの蛇身の人が、立って拱手の礼
をしているのを見た。帰還すると桓公は病に倒れ、数ヶ月寝
室から出られなかった。皇士というものがお目にかかって公
の話を聞くと、驚いて申し上げた、『物の怪なぞが殿を傷める
ことができましょうか。殿が自ら我が身を傷めているのです。
それは委蛇という沢神です。霸者になるものしか見ることは
できません。』これを聞くと桓公はにっこりと笑い、その日の
内に病は癒えた。」
私の祖父応郴が汲県の令だったとき、夏至の日に主簿の杜
宣を招いて酒をふるまった。その時壁に掛かっていた赤弩が
盃に映った。その形は蛇のようだった。杜宣はそれを畏れ、
内心嫌だったが、飲まないわけにはいかなかった。その日す
ぐに胸や腹がきりきりと痛くなり、飲食ができなくなった。
ひどく身体が弱り、治療に万端手をつくしたが治らない。後
日応郴は仕事のついでに杜宣の家に立ち寄り、様子を見舞い、
わけを尋ねた。すると「あの蛇を畏れております。蛇が腹に
入ったのです」と答えた。郴は役所に帰り、仕事をしながら
よくよく考えてみた。振り返ると壁に掛かった弩が目に入り、
きっとこれだ、と思った。そこで役所の下吏を迎えにやり、 杜宣を抱きかかえて車に乗せ連れて来させ、同じ場所で酒を
用意した。盃の中には先と同じくまた蛇がいた。そこで杜宣
に言った、「これは壁に掛かった弩の影だ。怪でも何でもない。」
杜宣の疑念はすぐに解け、大いに喜んだ。この後病は治癒し、
官は尚書に至り、四郡の太守を歴任し、威名を揚げた。
2世間多有惡夢變難必效
謹按,『晏子春秋』
(
1)
「齊景公病水(
2)
十日,夜夢與二日鬭而不勝。晏子朝,公曰『吾夢與二日鬭,寡人不勝。我其死
也。』晏子對曰『請召占夢者。』立於閨
(
3)
,使以車迎占夢者。至,曰『曷爲見召。』晏子曰『公夢與二日鬭,不勝。恐必死也。』
占夢者曰『請反具書
(
4)
。』晏子曰『無反書。公無所病。病者 陰也(
5)
。日者陽也。一陰不勝二陽,公病將已。』居三日,公病大愈,且賜占夢者。占夢者曰『此非臣之功也,晏子教臣對
也。』公召晏子,將賜之。晏子曰『占夢者以臣之言對,故有益
也。使臣身言之,則不信矣。此占夢者之力也,臣無功焉。』公
召吏而使兩賜之。晏子不爲奪人之功,占夢者不蔽人之能。」
〔注〕
(1)『晏子春秋』内篇雜下「景公病水,臥十數日,夜夢與二日鬭不勝。
晏子朝,公曰『夕者夢與二日鬭,而寡人不勝。我其死乎。』晏子對
曰『請召占夢者。』出於閨,使人以車迎占夢者。至曰『曷爲見召。』
晏子曰『夜者公夢二日與公鬭不勝。公曰寡人死乎。故請君占夢,是
所爲也。』占夢者曰『請反具書。』晏子曰『毋反書,公之所病者陰也。
日者陽也。一陰不勝二陽,公病將已。以是對。』占夢者入。公曰『寡
人夢與二日鬭而不勝。寡人死乎。』占夢者對曰『公之所病陰也。日
者陽也。一陰不勝二陽,公病將已。』居三日,公病大愈,公且賜占
夢者。占夢者曰『此非臣之力,晏子教臣也。』公召晏子,且賜之。
晏子曰『占夢者以占之言對,故有益也。使臣言之,則不信矣。此占
夢之力也,臣無功焉。』公兩賜之曰『以晏子不奪人之功,以占夢者
不蔽人之能。』」
(2)水腫病。むくみか。 (3)『春秋公羊傳』宣公六年「趙盾已朝而出,與諸大夫立於朝。有人 荷畚,自閨而出者。」何休注「宮中之門,謂之闈,其小者謂之閨。從
内朝出,立于外朝,見出閨者,知外朝在閨外,内朝在閨之内,可知。」
(4)呉樹平は于鬯『香草續校書』の「具」は「其」に作るべき、「反」
は「翻」の意で「翻書」は「檢書」の意であるとの説を引きつつ、
「反」は「返」と通じていて「反具書」は家に書を取りに帰るの意 か、とも云う。王利器は『晏子春秋』及び『太平御覽』が引く『晏
子春秋』は「具」を「其」に作るが、「具」が正しいとする。趙泓
は「请让我翻书查查」と訳すが「具」について注記がない。」今于
鬯の説に従う。
(5)二句、『晏子春秋』に従い「公之所病者陰也」として訳す。
〔訳〕
謹んで考察いたします。『晏子春秋』に次の話がある。「斉
の景公が水病(むくみ)を発症して十日たつと、夜二日(二
つの太陽)と闘って負けるという夢をみた。晏子が登朝する
と、公は『夢で二日と闘って私が負けた。私は死ぬだろう』
と言った。晏子は『どうか占夢者をお召しになって下さい』
と応え、内宮の小門に立って、占夢者を車で迎えに行かせた。
占夢者は到着すると『お呼びになったご用件は』と聞いた。
晏子は『殿が二日と闘って勝てなかった夢を見て、必ず死ぬ
だろうと恐れておられる』と言った。占夢者が『占夢書を調
べさせて下さい』というと、晏子は『調べるまでもない。殿
の病は水病で、水は陰、日は陽です。一陰(景公の病気)が
二陽に勝てなかったのだから、殿の病はまもなく治るでしょ
う』と言った。(そしてそれを公に告げるよう言った。占夢者
- 132 -
は景公に会い、晏子の云うとおり夢解きをした。)三日後公の
病はすっかり治り、占夢者に褒美を授けようとした。占夢者
は『これは私の功ではありません。晏子さまが教えたとおり
に夢解きをしたのです』と辞退した。公は晏子を召して褒美
を授けようとすると、晏子も『占夢者が私の言葉を申し上げ
たので効果があったのです。もし私が自分で申し上げていた
らお信じにならなかったでしょう。これは占夢者の力であり、
私には功はありません』と辞退した。公は吏を召して両人に
褒美を授けさせた。晏子は人の功を奪わず、占夢者も人の能
を隠さなかったからである。」
3城陽景王祠
謹按,『漢書』,朱虛侯劉章,齊悼惠王子,高祖孫也
(
1)
, 宿衞長安(
2)
,年二十,有氣力。高后攝政,諸呂擅恣,章私忿之。嘗入侍宴飮,章爲酒吏,自請曰「臣,將種也,請得軍
法行酒。」有詔可。酒酣,章進歌儛,已而復曰「請爲太后耕田
歌。」太后笑曰「顧汝父知田耳,若生而爲王者子,安知田乎。」
曰「臣知之。深耕廣種,立苗欲疏。非其種者,鉏而去之。」太 后默然。頃之,諸呂有亡酒者,章拔劍追斬之,而還報曰「有
亡酒一人,臣謹行軍法斬之。」太后左右大驚。業許之矣,無以
罪也。自是諸呂畏憚,雖大臣亦皆依之
(
3)
。高后崩,諸呂作 亂,欲危社稷,章與周勃共誅滅之(
4)
,尊立文帝(
5)
,封城 陽王,賜黃金千斤。立二年薨(
6)
。 城陽(
7)
,今莒縣是也。自琅琊(
8)
、青州六郡(
9)
及渤海( )
10
都邑( )
、鄕亭( )
、聚落( )
皆爲立祠( )
,造飾五二千石11
12
13
14
車,商人次第爲之,立服帶綬,備置官屬,烹殺謳歌,紛籍連
日,轉相誑曜,言有神明,其譴問禍福立應,歷載彌久,莫之
匡糾。唯樂安太傅陳蕃
( )
、濟南相曹操一切禁絶,肅然政清15 ( )
。陳、曹之後,稍復如故( )
,安有鬼神能爲病者哉。16
17
予爲營陵令( )
,以爲章本封朱虛( )
,幷食此縣。『春秋國18
19
語』「以勞定國,能御大災( )
。」凡在於他,尚列祀典。章,20
親高祖之孫,進説耕田,軍法行酒,時固有大志矣。及誅諸呂,
尊立太宗,功冠天下,社稷已寧。同姓如此,功烈如彼,餘郡
禁之可也,朱虛與莒,宜常血食
( )
。於是乃移書曰「到聞此21
俗,舊多淫祀,糜財妨農,長亂積惑,其侈可忿,其愚可愍。
昔仲尼不許子路之禱
( )
,晉悼不解桑林之祟( )
。死生有命22
23 ( )
,吉凶由人( )
,哀哉黔黎,漸染迷謬,豈樂也哉,莫之24
25
徵耳。今條下禁,申約吏民,爲陳利害,其有犯者,便收朝廷。 若私遺脱,彌彌不絶,主者
( )
髠截,嘆無反已( )
。城陽景26
27
王,縣甚尊之。惟王弱冠,内侍帷幄,呂氏恣睢,將危漢室,
獨見先識,權發酒令,抑邪扶正,忠義洪毅
( )
,其歆禋祀( )
,28
29
禮亦宜之。於駕乘烹殺,倡優男女雜錯,是何謂也。三邊紛拏
( )
,師老( )
器弊,朝廷旰食( )
,百姓囂然( )
。禮興在30
31
32
33
有年( )
,饑則損( )
。自今聽歳再祀,備物而已,不得殺牛,34
35
遠迎他倡,賦會宗落,造設紛華。方廉察( )
之,明爲身計,36
而復僭失,罰與上同。明除見處,勿後中覺。」
〔注〕
(1)『漢書』漢五王傳「高皇帝八男。呂后生孝惠帝,曹夫人生齊悼惠 王肥,・・・齊悼惠王子,前後凡九人爲王。太子襄爲齊哀王,次子章
爲城陽景王,興居爲濟北王。」
(2)漢五王傳「齊哀王襄,孝惠六年嗣立。明年,惠帝崩,呂太后稱 制。・・・明年,哀王弟章入宿衞於漢,高后封爲朱虛侯,以呂祿女妻 之。後四年,封章弟興居爲東牟侯,皆宿衞長安。高后七年,・・・三
趙王既廢,高后立諸呂爲三王,擅權用事。」
(3)漢五王傳「章年二十,有氣力,忿劉氏不得職。嘗入侍燕飮,高
后令章爲酒吏。章自請曰『臣,將種也,請得以軍法行酒。』高后曰 『可。』酒酣,章進歌舞,已而曰『請爲太后言耕田。』高后兒子畜之,
笑曰『顧乃父知田耳,若生而爲王子,安知田乎。』章曰『臣知之。』
太后曰『試爲我言田意。』章曰『深耕種,立苗欲疏。非其種者,
鉏而去之。』太后默然。頃之,諸呂有一人醉,亡酒,章追,拔劍斬
之,而還報曰『有亡酒一人,臣謹行軍法斬之。』太后左右大驚。業
已許其軍法,亡以罪也。因罷酒。自是後,諸呂憚章,雖大臣皆依朱
虛侯。劉氏爲彊。」
(4)漢五王傳「其明年,高后崩。・・・呂祿、呂産欲作亂,朱虛侯章
與太尉周勃、丞相平等誅之。章首先斬呂産,太尉勃等乃盡誅諸呂。」
(5)漢五王傳「於是大臣乃謀迎代王,而遣章以誅呂氏事告齊王,令 罷兵。・・・齊王既罷兵歸,而代王立,是爲孝文帝。」
(6)漢五王傳「城陽景王章,孝文二年,以朱虛侯與東牟侯興居俱立,
二年薨。」
(7)『漢書』地理志下「城陽國,故齊,文帝二年別爲國。莽曰莒陵。 屬袞州。・・・縣四,莒、・・・陽都、東安、慮。」『後漢書』郡國志三徐 州「琅邪國,秦置。建武中省城陽國,以其縣屬。・・・莒,本國,故 屬城陽。・・・東安,故屬城陽。陽都,故屬城陽,有牟臺。」 (8)注(7)郡國志参照。
(9)郡國志四によれば青州には、濟南國・平原郡・樂安國(もと千
- 134 -
乘國)・北海國・東萊郡・齊國の六郡國が属する。
()地理志上「勃海郡,高帝置,莽曰迎河,屬幽州。」郡國志二に よれば「勃海郡」は冀州に属する。 10 ()『商君書』徠民「地方百里者,山陵處什一,藪澤處什一,谿谷流 水處什一,都邑蹊道處什一,惡田處什二,良田處什四。以此食作夫 11
五萬,其山陵、藪澤、谿谷可以給其材,都邑、蹊道足以處其民,先
王制土分民之律也。」『管子』度地「故百家爲里,里十爲術,術十爲
州,州十爲都,都十爲霸國,不如霸國者國也,以奉天子。」
()『漢書』百官公卿表上「大率十里一亭,亭有長。十亭一鄕,鄕有
・・・三老、有秩、嗇夫、游徼。列侯所食縣曰國,皇太后、皇后、公 12
主所食曰邑。」
()『列女傳』楚老萊妻「老萊子乃隨其妻而居之,民從而家者,一年 而成落,三年成聚。」 13 ()『後漢書』劉玄劉盆子列傳に、赤眉軍中に斉巫がいて城陽景王を 祀り、そのお告げによって城陽景王の末裔である劉盆子を帝にまつ 14
りあげたことが見える。「劉盆子者,太山式人,城陽景王章之後也。
・・・王莽簒位,國除,因爲式人焉。・・・(赤眉)軍中常有齊巫鼓舞祠
城陽景王,以求福助。巫狂言景王大怒,曰『當爲縣官,何故爲賊。』
有笑巫者輒病,軍中驚動。・・・六月,遂立盆子爲帝,自號建世元年。」 李賢注「以其定諸呂,安社稷,故郡國多爲立祠焉。盆子承其後,故
軍中祠之。縣官謂天子也。」また光武十王列傳には、琅邪國中に城
陽景王の祠があったことを載せている。「琅邪孝王京,建武十五年
封琅邪公,十七年進爵爲王。・・・京國中有城陽景王祠,吏人奉祠。 神數下言宮中多不便利,京上書願徙宮開陽,・・・肅宗許之。」
()『後漢書』陳蕃列傳「陳蕃字仲舉,汝南平輿人也。・・・太尉李固 表薦,徵拜議郞,再遷爲樂安太守。時李膺爲青州刺史,名有威政, 15
屬城聞風,皆自引去,蕃獨以清績留。」李膺は司徒胡廣の辟召を経
て青州刺史に遷った。陳蕃が樂安太守を拝したのは、胡廣が司徒で
あった漢安元年(一四二)十一月から本初元年(一四六)閏六月の
間ということになる。
()『三國志』武帝紀「光和末(一八四),黃巾起。拜騎都尉,討潁 川賊。遷爲濟南相,國有十餘縣,長吏多阿附貴戚,贓汚狼藉,於是 16
奏免其八,禁斷淫祀,姦宄逃竄,郡界肅然。」裴松之注「魏書曰『初,
城陽景王劉章以有功於漢,故其國爲立祠,青州諸郡轉相倣效,濟南
尤盛,至六百餘祠,賈人或假二千石輿服導從作倡樂,奢侈日甚,民
坐貧窮,歷世長吏無敢禁絶者。太祖到,皆毀壞祠屋,止絶官吏民不
得祠祀。及至秉政,遂除姦邪鬼神之事,世之淫祀由此遂絶。』」
()『搜神記』「元康五年(二九五)三月,臨淄有大蛇長十許丈,負 17
二小蛇,入城北門,逕從市入漢陽城景王祠中,不見。」『宋書』五行
志五にも見える。
()『後漢書』楊李翟應霍爰徐列傳「(應)劭字仲遠・・・(中平)三年
(一八六),舉高弟,再遷,六年(一八九)拜太山太守。」『意林』 18
引『風俗通義』(佚文)「俗云五月到官,至免不遷。今年有茂才除蕭
令,五月到官,破日入舍。視事五月,四府所表,遷武陵令。余爲營
陵令,正觸太歳,主簿令余東北上,余不從。在事五月,遷太山守。」
『漢書』地理志上「北海郡,景帝中二年置。屬青州。・・・縣二十六,
營陵,或曰營丘。」注「應劭曰『師尚父封於營丘,陵亦丘也。』臣瓚
曰『營丘卽臨淄也。營陵,春秋謂之緣陵。』師古曰『臨淄、營陵,
皆舊營丘地。』」地理志上「琅邪郡,秦置。莽曰塡夷。屬徐州。・・・
縣五十一・・・朱虛。」
()『後漢書』郡國志四青州「北海國,景帝置。・・・十八城,・・・營陵,
・・・朱虛,侯國,故屬琅邪,永初元年屬。」 19 ()『國語』魯語上「展禽曰『・・・夫聖王之制祀也,法施於民則祀之, 以死勤事則祀之,以勞定國則祀之,能禦大災則祀之,能扞大患則祀 20
之。非是族也,不在祀典。』」
()『漢書』髙帝紀下「故粤王亡諸世奉粤祀,秦侵奪其地,使其社稷
不得血食。」注「師古曰『祭者尚血腥,故曰血食也。』」 21 ()()(序)注参照。
22
10 ()(序)注()参照。 23
11 ()『論語』顔淵「司馬牛憂曰『人皆有兄弟,我獨亡。』子夏曰『商 聞之矣。死生有命,富貴在天。君子敬而無失,與人恭而有禮,四海 24
之内,皆爲兄弟也。君子何患乎無兄弟也。』」
()『春秋左氏傳』僖公十六年「春隕石于宋五。隕星也。六鷁退飛, 過宋都風也。周内史叔興聘于宋,宋襄公問焉曰『是何祥也。吉凶焉 25
在。』對曰『今茲魯多大喪,明年齊有亂。君將得諸侯而不終。』退而
告人曰『君失問。是陰陽之事,非吉凶所生也。吉凶由人。吾不敢逆
君故也。』」
()王利器、『漢書』王陵傳、『後漢書』何敞傳を引き、「主者,主 事之吏」とする。趙泓は「为首的」と訳す。王利器に従う。 26 ()呉樹平、「反」は「及」の誤りではないか、とする。王利器も
「及」にする。これに従う。 27 ()『論語』泰伯「曾子曰『士不可以不弘毅,任重而道遠。仁以爲己 任,不亦重乎,死而後已,不亦遠乎。』」注「包曰『弘,大也。毅, 28
強而能斷也。士弘毅,然後能負重任,致遠路。』」
()『説文解字』「歆,神食气也。」『周禮』春官宗伯「大宗伯之職,・
・・以禋祀祀昊天上帝。」鄭注「禋之言煙,周人尚臭,煙,氣之臭聞 29
- 136 -
者。」
()『後漢書』楊震列傳「羌虜鈔掠,三邊震擾,戰鬭之役至今未息, 兵甲軍糧不能復給。」『漢書』衞青霍去病傳「昏,漢、匈奴相紛挐, 30
殺傷大當。」注「師古曰『紛挐,亂相持搏也。拏音女居反。』」
()『國語』晉語四「子玉釋宋圍,從晉師。楚既陳,晉師退舍。軍吏 請曰「以君避臣,辱也。且楚師老矣,必敗。何故退。」韋昭注「老, 31
罷也。圍宋久,其師罷病。」
()『春秋左氏傳』昭公二十年「伍尚歸。奢聞員不來曰『楚君大夫,
其旰食乎。』」杜注「將有呉憂,不得早食。」 32 ()『文選』嵇康「養生論」「終朝未餐,則囂然思食。而曾子銜哀,
・・・七日不飢。」李善注「囂然,飢意也。」『漢書』王莽傳「贊曰是以 33
四海之内,囂然喪其樂生之心,中外憤怒,遠近倶發。」注「師古曰
『囂然,衆口愁貌也。音五高反。』」
()『管子』牧民「凡有地牧民者,務在四時,守在倉廩。國多財則遠 者來,地辟舉則民留處,倉廩實則知禮節,衣食足則知榮辱。」 34 ()『周禮』地官司徒「以荒政十有二聚萬民,・・・七曰眚禮,八曰殺
・・・哀。」鄭注「荒,凶年也。鄭司農云『救飢之政,十有二品。眚禮, 35 掌客職所謂凶荒殺禮者也。・・・』玄謂・・・眚禮,謂殺吉禮也。殺哀,
謂省凶禮。」 ()『後漢書』第五鍾離宋寒列傳「(第五種)永壽中,以司徒掾清詔
使冀州,廉察灾害。」李賢注「廉,察也。」 36
〔訳〕
謹んで考察いたします。『漢書』に次のようなことが記載さ
れている。朱虚侯劉章は、斉悼恵王の子で高祖の孫である。(恵
帝崩御の翌年)長安に入り宮中に宿衛した。当時二十歳で気
力は充実していた。高祖の呂后が摂政し、呂氏一族が専権を
恣にしていることに、劉章は心中怒りを持っていた。ある日
呂太后の酒宴に侍ると、劉章が酒吏(運営役)を命じられた。
章が自ら「私は将軍の種(血筋)ですので、軍法で酒宴を監
督させてください」と申し出ると、太后は許可した。酒宴が
盛り上がるころ、章は進み出て歌舞し、終えるとまた「どう
か太后様のために耕田歌を歌わせて下さい」と請うた。太后
は笑って「おまえの父親なら田作りを知っていようが、生ま
れながらにして王子であるおまえが、田作りを知っているわ
けがない」といった。章は「知っております」と答え、「畑を
深く耕して広く種を播き、苗を植えるには間を開ける。種違
いが雑じっていたら、鋤ですいて引っこ抜く」と歌った。太
后は黙り込んだ。しばらくすると呂氏の親族で酒が飲めず席
から逃げるものがいた。章は剣を抜き追いかけて斬り捨てる
と、戻ってきて「酒から一人逃亡いたしました。私が謹んで
軍法に照らして斬り捨てました」と報告した。太后と側近た
ちは大いに驚いたが、すでに太后が許可していたことなので、
罪に問わなかった。この一件以後、呂氏一族は彼を畏れ憚り、
大臣たちも皆朱虚侯章に心を寄せるようになった。呂后が崩
御すると、呂氏一族は乱を起こし、漢の社稷は傾きかけた。
章は周勃と共に呂氏を誅滅し、文帝を尊立した。章は城陽王
に封じられ、黄金千斤を賜ったが、立って二年で薨去した。
城陽国は今の莒県である。琅邪国と青州六郡から渤海に及
ぶまでの大小の都市、郷亭、聚落は皆城陽王の祠を立て、二
千石の大官が乗る車を五台造って飾り立てた。それは商人た
ちが順繰りに交代で造った。また城陽王の像に大官の装束を
着せ印綬を帯びさせ、属官たちの像も造ってならべた。家畜
を殺し煮てお供えし、王を称える歌を歌い、連日入りみだれ
て,乱痴気騒ぎをした。この神は全てを見通す目があり、神
罰神佑はたちどころに応じると評判で、年を経るごとにます
ます栄え、その状態を誰も糾すものがいなかった。楽安太守
陳蕃と済南国相曹操の二人だけは一切を禁絶し、その治内は 粛然と政令が行き渡り静まった。陳蕃と曹操が離任した後は
段々と元通りになってしまった。とはいえ、鬼神(城陽景王)
が(禁止した陳蕃と曹操に)病をもたらすなどということが
あっただろうか。
私応劭は(青州北海郡内の)営陵県の令になったとき、以
下のように考えた。劉章は最初朱虚侯に封じられ、併せてこ
の県の食禄も授かった。『国語』魯語には、「国を安定させる
のに功労があった、大災を禦ぐことできた」などの功績が、
祀られる条件として「祀典」に列記されているとある。劉章
はまさしく高祖の実の孫であり、進んで「耕田」にかこつけ
て呂氏の専横を批判し、軍法により酒席を取り仕切り呂氏の
一人を斬り捨てた。この時にはもうすでに(呂氏を排除する
という)大志を抱いていたのである。呂氏一族を誅滅すると
太宗文帝を尊立した。その功績は天下に冠たるものであり漢
の社稷はこれにより安寧を回復した。かように劉氏の同姓で
ある上に、さように功績が強烈なのである。他郡が城陽王の
祠を禁ずるのは可しとして、朱虚国と莒県は常に祠を立てて
血食(牲)を捧げるべきである。
そこで私は次のような文書を県内に出した。「この地の風俗
- 138 -
を見聞するに、昔から淫祀多く、財を浪費し農事を妨げ、長
きに渡って民が混乱している。その奢侈は怒るべきであり、
その愚は憐れむべきである。昔孔子は子路が自分の病快復の
祈禱をすることを許さず、晋の悼侯は病が桑林の祟りとされ
たがお祓いをしなかった(が、二人とも治癒した)。『死生に
命あり』『吉凶は人に由る』という。なんと哀れな民よ、ずぶ
ずぶと迷謬に染まっている。楽しむどころではない、懲罰す
る者がいないだけだ。今この文書を下して禁じ、吏民に約条
を申し渡し、損得を説明する。もし違反する者があればすぐ
さま朝廷に収監する。もし密かに見逃していつまでも淫祀が
だらだらと続くようなら、取り締まり担当の吏は髠刑(剃髪)
に処す。その時になって嘆いても手遅れである。城陽景王は
県が大変尊重している。景王は弱冠二十歳にして内廷に侍従
し、呂氏の専横が漢室が危うくしているときに、唯一人いち
早く状況を認識し、酒吏の立場を借りて軍法を発令し呂氏を
懲らしめ、邪悪を抑え正義を扶け、忠義且つ果断であった。
このような景王を祀り柴を焚き煙を捧げることは、礼として
宜しいことである。しかし車乗をしたて家畜を殺し煮て供え、
倡優を呼び集め、男女乱れて歌舞するとはなんたることか。 現在三方の辺境での紛争が長引き、軍の将兵が疲弊し武器も
毀損し、朝廷は苦慮して時間通り食事する余裕もなく、人民
も飢えに苦しんでいる。豊作の年には礼は厚く行い、飢饉の
時には簡略にするものだ。これより以後は一年に二回の祀り
は許すが、祭器をそろえるだけにしなさい。牛を殺すこと、
遠くから他地の倡優を迎えること、宗族や村落に金品を割り
当てて徴収すること、華美な飾りをすることはしてはならな
い。担当吏はよく民の様子を観察し、自分の身のふり方を考
えよ。それでもなお分不相応な祀りが発覚したならば、罰は
上に同じである。不要な礼を見たならば除き、後で気づくこ
とのないようにせよ。」
4九江逡遒有唐居山
(
1)
九江逡遒有唐、居山(
2)
,名有神(
3)
,衆巫共爲取公嫗,歳易,男不得復娶,女不得復嫁,百姓苦之。
謹按,時太守宋均到官
(
4)
,主者(
5)
白出錢給聘男女。均曰「衆巫與神合契,知其旨欲,卒取小民,不相當。」於是勑條
巫家男女以備公嫗。巫扣頭服罪,乃殺之,是後遂絶。
〔注〕 (1)『後漢書』宋均傳に見える話。注(4)参照。 (2)『漢書』地理志上「九江郡,秦置,高帝四年更名爲淮南國,武帝 元狩元年復故。莽曰延平。屬揚州。・・・縣十五。・・・浚遒。」注「晉
灼曰『音酋熟之酋。』師古曰「浚音峻。遒音才由反。』」『後漢書』郡
國志四揚州「九江郡,秦置。・・・十四城。・・・浚遒。」呉樹平は「浚
遒」に作るべきであり、「浚遒」が「逡遒」に改められたのは晋以
後なので、後人が妄改したとする。
(3)呉樹平、王利器ともに盧文弨『羣書拾補』に従い「名」は「各」
の誤りとする。これに従う。
(4)『後漢書』第五鍾離宋寒列傳「宋均字叔庠,南陽安衆人也。父伯, 建武初(二五)爲五官中郞將。均以父任爲郞,時年十五。・・・遷九 江太守。・・・浚遒縣有唐、后二山,民共祠之。衆巫遂取百姓男女以
爲公嫗,歳歳改易,既而不敢嫁娶。前後守令莫敢禁。均乃下書曰『自
今以後,爲山娶者,皆娶巫家,勿擾良民。』於是遂絶。永平元年(五
八),遷東平相。」李賢注「以男爲山公,以女爲山嫗,猶祭之有尸主
也。」宋均については「正失篇」にも見える。
(5)担当の吏。「城陽景王祠」注()参照。
26
〔訳〕 九江郡逡遒県に唐山と居山の二山がありそれぞれ神がいた。
多くの巫がおり、それぞれの山神のために民の中から男女を
選び夫と妻にし、毎年交代させていた。務めが終わった男性
はもう妻をめとることができず、女性は嫁ぐことができず、
民はこれに苦しんでいた。
謹んで考察いたします。時に宋均が九江郡太守に任命され
着任すると、担当の吏が神の夫・妻にされた男女に金銭を給
付しますと報告した。宋均は「巫たちは神と契約していて、
神の好みや希望をよく知っているのだから、民から夫・妻を
選ぶのは不適切である」と言った。そして巫家の子女を夫・
妻に当てるよう命じた。巫は扣頭して罪に服したので殺した。
その後この習俗は絶えた。
5會稽俗多淫祀
(
1)
會稽(
2)
俗多淫祀,好卜筮(
3)
,民一以牛祭。巫祝賦斂受謝,民畏其口,懼被祟,不敢拒逆。是以財盡於鬼神,産匱於
祭祀。或貧家不能以時祀,至竟言不敢食牛肉,或發病且死,
先爲牛鳴。其畏懼如此。
- 140 -
謹按,時太守司空第五倫到官
(
4)
,先禁絶之。掾吏皆諫, 倫曰「夫建功立事在敢斷,爲政當信經義,言『淫祀無福(
5)
』『非其鬼而祭之,諂也
(
6)
。』律不得屠殺少齒(
7)
。令鬼神有知,不妄飮食民間。使其無知,又何能禍人。」遂移書屬縣,曉
諭百姓,民不得有出門之祀。督課
(
8)
部吏(
9)
,張設( )
罪10
罰,犯,尉以下。巫祝依託鬼神( )
,恐怖愚民,皆按論之,11
有屠生( )
輒行罰。民初恐怖,頗搖動不安,或接祝妄言,倫12
勑之愈急,後遂斷,無復有禍祟矣。
〔注〕
(1)『後漢書』第五倫傳に見える話。注(4)参照。『後漢紀』にも見
える。孝明皇帝紀下巻「(永平十八年冬十月)戊戌,蜀郡太守第五
倫爲司空。倫字伯魚,京兆長陵人也。・・・遷會稽太守,爲政清浄不 煩,化行於民。・・・會稽俗信淫祀,皆以牛羊請禱。是以財盡於鬼神,
産盡於祭祀。或家貧不能以時禱祀,至諱言牛不敢食其肉,發病且死
先爲牛鳴,其畏懼如此。倫乃禁絶之,掾吏皆請諫不可。倫曰『夫建
功立事在於爲政,爲政當信經義。經言,淫祀無福,非其鬼而祭之,
諂也。今鬼神而祭之,有知,不妄飮食於民間,使其無知,又何能禍
人。』遂移書屬縣,曉喩百姓,『民不得有出門之祀,違者案論之,有
屠牛輒行罰。』民初恐怖,頗搖動不安,倫勑之逾急,後遂斷絶,百 姓遂以安業。」
(2)『漢書』地理志上「會稽郡,秦置。高帝六年爲荊國,十二年更名
呉。景帝四年屬江都。屬揚州。」『後漢書』郡國志四揚州「會稽郡,
秦置。本治呉,立郡呉,乃移山陰。」
(3)『漢書』文帝紀「代王報太后,計猶豫未定。卜之,兆得大橫。」
注「應劭曰『龜曰兆,筮曰卦。卜以荊灼龜,文正橫也。』」『禮記』
曲禮上「龜爲卜,筴爲筮。卜筮者,先聖王之所以使民信時日,敬鬼
神,畏法令也,所以使民決嫌疑,定猶與也。」
(4)『後漢書』第五鍾離宋寒列傳「第五倫字伯魚,京兆長陵人也。・・
・建武二十七年(五一),舉孝廉。・・・二十九年(五三),・・・追拜會 稽太守。・・・會稽俗多淫祀,好卜筮。民常以牛祭神,百姓財産以之
困匱。其自食牛肉而不以薦祠者,發病且死先爲牛鳴。前後郡將莫敢
禁。倫到官,移書屬縣,曉告百姓。其巫祝有依託鬼神,詐怖愚民,
皆案論之。有妄屠牛者,吏輒行罰。民初頗恐懼,或祝詛妄言,倫案
之愈急,後遂斷絶,百姓以安。・・・肅宗初立,擢自遠郡,代牟融爲
司空。」
(5)(序)注(6)参照。 (6)(序)注(5)参照。 (7)牛馬は歯の数で年齢を数える。
(8)『漢書』隽疏于薛平彭傳「武帝末,郡國盜賊羣起,暴勝之爲直指
使者,衣繡衣,持斧,逐捕盜賊,督課郡國。」注「師古曰『督謂察
視之。』」
(9)『後漢書』郭陳列傳「(陳忠上疏)自今彊盜爲上官若它郡縣所糺
覺,一發,部吏皆正法,尉貶秩一等,令長三月奉贖罪。」李賢注「上
官謂郡府也。若,及也。部吏謂督郵、游徼也。正法,依法也。」
()設置する。『論衡』齊世「人民嫁娶,同時共禮,雖言男三十而 娶,女二十而嫁,法制張設,未必奉行。」 10 ()「巫祝」もと「坐祀」に作る。呉樹平は『後漢書』の「其巫祝有 依託鬼神,詐怖愚民,皆案論之」に依って改める。これに従う。 11 ()『拾補』「生」を「牛」ではないかとする。王利器はこれに従い
「牛」に改める。『後漢書』『後漢紀』ともに「牛」。これに従う。 12
〔訳〕
會稽の俗は淫祀が多く、卜筮を好み、民はいつも牛を牲に
して祭っていた。巫祝は民から金品を集めて謝礼として受け
取っていた。民は巫祝の口から出る神のお告げを畏れ、祟り
を怖がってそれを拒むことができなかった。そのため民は鬼
神の祭祀に財産をつぎ込んで失った。ある貧困の家は時節の
祭ができないので、自分たちも牛肉を食べないと誓い、(栄養 失調のため)発病して死にそうになると、死ぬ前に牛の鳴き
真似をした。それほどに鬼神を畏れていた。
謹んで考察いたします。後の司空第五倫が会稽郡太守に任
命され赴任すると、真っ先に淫祀を禁絶した。属掾の吏は皆
諫めたが、第五倫は「そもそも功を建て事を為すには果断で
あらねばならず、政を為すには経義を信じなければならない。
曲礼に『淫祀に福無し』といい、『論語』に「その鬼にあらず
して之を祭るは諂いなり』という。律では幼畜を屠殺するこ
とは禁じられている。鬼神にもし知があれば(経書や律に反
して)妄りに民間に飲食することはしないだろうし、もし知
がないとすれば、(牛の牲がなくてもわからないだろうから)
又どうして人に禍をもたらすことができようか。」そして文書
を郡下の属県に通達し、百姓に道理を説明し、民が家の外に
でて祀りを行うことを禁じた。担当部署の吏を監督し、罰則
を設けて違反した吏は尉が拘束し獄に下した。巫祝が鬼神に
かこつけて愚民を恐怖させれば裁判を行い、牛を屠殺する者
がいればすべて罰した。民は初め鬼神や巫祝を恐れ、やや不
安になり動揺し、巫祝の妄言を聞き入れたが、第五倫は更に
厳しく取り締まった。その後淫祀は断絶したが、禍も祟りも
- 142 -
起きなかった。
6鮑君神
(
1)
謹按,汝南鮦陽(
2)
有於田得麏(
3)
者,其主未往取也(
4)
。商車十餘乘經澤中行,望見此麏著繩,因持去。念其不事,持
一鮑魚置其處
(
5)
。有頃,其主往,不見所得麏,反見鮑魚,澤中非人道路,怪其如是,大以爲神。轉相告語,治病求福,
多有效驗。因爲起祀舍,衆巫數十,帷帳鍾鼓,方數百里皆來
禱祀,號鮑君神。其後數年,鮑魚主來歷祠下,尋問其故,曰
「此我魚也,當有何神。」上堂取之,遂從此壊。傳曰「物之所
聚斯有神。」言人共奨成之耳。
〔注〕
(1)『抱朴子』内篇道意に「天下有似是而非者,實爲無限。將復略説
故事,以示後人之不解者」として「鮑君神」「李君神」「石賢士神」
の三話を続けて載せる。『太平廣記』三一五淫祠にも出典を『抱朴
子』としてこの三話を載せる。文は三書とも少し異なっている。文
意の通じにくいところは、『抱朴子』と『太平廣記』を参考にして
訳す。 (2)『後漢書』郡國志二豫州「汝南郡・・・三十七城・・・鮦陽,侯國。」
(3)のろ。くじか。鹿より小型で角がなく、牙がある。 (4)『太平廣記』「昔汝南有人,於田中設繩罝,以捕麞而得者,其主
未覺。」
(5)『太平廣記』「有行人見之,因竊取麞去,猶念取之不俟其主。有
鮑魚,乃以一頭置罝中而去。」呉樹平はこれに拠り「事」は「俟」
の誤りとする。『史記』貨殖列傳「鮐鮆千斤,鯫千石,鮑千鈞。」索
隱「魚漬云鮑。」始皇本紀「會暑,上轀車臭,乃詔從官令車載一石
鮑魚,以亂其臭。」
〔訳〕
謹んで考察いたします。汝南郡鮦陽県でのこと。ある人が
田野に仕掛けた網にノロが掛かった。網の主はそれに気がつ
かず取りに行かないでいた。商人の車が十数台で沢の中を通
りかかり、遠くから繩に絡まって入るノロを見つけ、持って
行こうと思った。しかし網の主が現れるのを待っていられず、
代わりに鮑魚(塩漬けの魚)を一尾置いていった。しばらく
して網の主が来ると、ノロは掛かっておらず、塩漬けの魚が
あった。沢の中は人が通るところではないので怪しみ、神様
の仕業だと思い込んだ。この事がだんだんに語り伝えられる
うちに「(この魚の神は)病気を治し福を招き、霊験あらたか
である」という話になってしまった。そこで「鮑君神(塩漬
魚神)」と号し、祠が建てられた。数十人の巫が集まり、祠の
前に帷帳が張られ、鍾や太鼓が打ち鳴らされ、数百里四方か
ら人々が祈禱にやってくる騒ぎになった。その後数年経って、
魚の元の主が祠を通りかかり、何の神様か尋ねた。話を聞く
と「これは私の魚です。神様であるはずがない」といって、
祠堂に上がり祀ってあった魚を取ってしまった。それから祠
は取り壊されてしまった。伝に「物の聚まる所に神あり」と
いうが、これは(この話のように)人々がよってたかって神
を仕立ててしまうことを言うのである。
7李君神
(
1)
謹按,汝南南頓(
2)
張助於田中種禾,見李核(
3)
,意欲持 去,顧見空桑中有土,因殖種,以餘漿漑灌(
4)
。後人見桑中 反復生李(
5)
,轉相告語。有病目痛者息陰下,言「李君令我 目愈,謝以一豚。」目痛小疾,亦行自愈(
6)
。衆犬吠聲(
7)
,因盲者得視,遠近翕赫,其下車騎常數千百,酒肉滂沲
(
8)
。 間一歳餘,張助遠出來還,見之,驚云「此有何神,乃我所種耳。」因就斮也
(
9)
。〔注〕
(1)「鮑君神」注(1)参照。『搜神記』にもこの話を載せる。 (2)『漢書』地理志上「汝南郡,・・・縣三十七,・・・南頓,故頓子國,
姫姓。」注「應劭曰『頓迫於陳,其後南徙,故號南頓。故城尚在。』」
なお応劭は汝南南頓人。
(3)『抱朴子』「有一李栽」,『太平廣記』「見一李核」。「栽」は苗木。 (4)『抱朴子』「應在耕次,助惜之,欲持歸,乃掘取之。未得卽去,
以濕土封其根,以置空桑中,遂忘取之。助後作遠職,不在。」
(5)『抱朴子』「後其里中人,見桑中忽生李,謂之神。」
(6)『抱朴子』「其目偶愈,便殺㹠祭之。」
(7)『潛夫論』賢難「諺曰『一犬吠形,百犬吠聲。』」
(8)『抱朴子』「傳者過差,便言此樹能令盲者得見,遠近翕然,同來
請福,常車馬塡溢,酒肉滂沱。」『搜神記』「目痛小疾,亦行自愈。
衆犬吠聲,盲者得視,遠近翕赫,其下車騎常數千百,酒肉滂沲。」
(9)『抱朴子』「如此數年,張助罷職來還,見之乃曰『此是我昔所置
李栽耳,何有神乎。』乃斫去便止也。」
〔訳〕
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謹んで考察いたします。汝南郡南頓県でのこと。張助とい
う者が畑で稲を植えていて、李の種から芽がでているのをみ
つけた。持って帰ろうと思い、桑の木の幹にうろがあって中
に土があるのを見つけ、とりあえずそこに植え、残っていた
飲み水をかけた。(しかしそれをすっかり忘れてしまい、その
後仕事で遠方に出かけてしまった。)後になってある人が桑か
らなんと李が生えているのを見つけ(神の木だと思っ)た。
これがだんだんに語り伝えられた。目の痛みを病んだ人がこ
の木の蔭で休み、「李の神様、私の目を治して下さったら、お
礼に豚を一頭差し上げます」と祈った。目の痛みは大した病
気ではなく、帰り道に自然と治ってしまった。犬が一頭吠え
出すと方々の犬がそれに合わせて吠え出すように、この話が
大げさに伝わり「盲者の目が見えるようになった」となり、
遠近から大勢が集まり、李の木の下には常時車や馬が数千百
も停まり、お供えの酒肉が溢れかえるほどになった。その後
一年余り経って、張助が遠方から帰ってきた。この有様を見
て驚き、「これが何で神様でしょうか。私が植えた木です」と
いった。それでこの木は切られてしまった。 8石賢士神
(
1)
謹按,汝南汝陽
(
2)
彭氏墓路頭立一石人,在石獸後(
3)
。 田家老母到市買數片餌(
4)
,暑熱行疲,頓息石人下,小瞑, 遺一片餌,去,忽不自覺(
5)
。行道人有見者,時客適會,問 因有是餌,客聊調之,「石人能治病,愈者來謝之(
6)
。」轉語,「頭痛者摩石人頭,腹痛者摩其腹,亦還自摩,他處於此
(
7)
。」 凡人病自愈者,因言得其福力,號曰賢士。輜輦轂擊(
8)
,帷 帳絳天(
9)
,絲竹之音,聞數十里。尉部常住護視,數年亦自 歇沫,復其故矣( )
。10
〔注〕
(1)「鮑君神」注(1)参照。『封氏聞見記』と『太平御覽』八六〇飮
食部にも「風俗通」としてこの話を引く。
(2)『漢書』地理志上「汝南郡,・・・縣三十七,・・・女陽。」注「應劭
曰『汝水出弘農,入淮。』師古曰『女讀曰汝。』」
(3)『抱朴子』「汝南彭氏墓近大道。墓口有一石人。」『封氏聞見記』
巻六羊虎「秦漢以來,帝王陵前有石麒麟、石辟邪、石象、石馬之
屬,人臣墓前有石羊、石虎、石人、石柱之屬,皆所以表飾墳壟,如
生前之儀衞耳。・・・風俗通又云『汝南彭氏墓頭,立石人、石獸。・・・』」
(4)『周禮』天官冢宰下「籩人・・・羞籩之實,糗餌、粉餈。」鄭注「玄
謂,此二物皆粉稻米黍米所爲也。合蒸曰餌,餅之曰餈。」
(5)『抱朴子』「田家老母到市,買數片餅以歸,天熱,過蔭彭氏墓口
樹下,以所買之餅,暫著石人頭上,忽然便去,而忘取之。」
(6)『抱朴子』「行路人見石人頭上有餅,怪而問之。或人云『此石上
有神,能治病。愈者以餅來謝之。』」
(7)『抱朴子』「如此轉以相語云,『頭痛者摩石人頭,腹痛者摩石人腹,
亦還以自摩,無不愈者。』」
(8)『史記』蘇秦列傳「臨菑之塗,車轂擊,人肩摩。」
(9)『文選』班固「封燕然山銘」「玄甲輝日,朱旗絳天。」
()『抱朴子』「初但雞肋,後用牛羊,爲立帳帷,管絃不絶。如此數 年,忽日前忘餅母聞之,乃爲人説,始無復往者。」 10
〔訳〕
謹んで考察いたします。汝南郡汝陽県でのこと。彭氏の墓
の墓道の入り口に人の石像が獣の石像の後ろに立っていた。
村の老婆が市場に行って団子を数個買ってきた帰り道、暑さ
の中歩くのに疲れて、この石人の足下でしばらく休み、うた
た寝をした。帰るとき団子を一個置いたまま、すっかり忘れ
てしまった。道行く人がこの団子を見つけ、ちょうど通りか かった旅人に、なぜここに団子があるのか聞いた。旅人はか
らかって「この石人は病気を治すことができるのです。治し
てもらった人がお礼に置いたのです」と冗談を言った。その
言葉がだんだんと伝わって、「頭痛なら石人の頭をなで、腹痛
なら腹をなでて、帰ってから自分の痛いところをなでると治
る、他のところも同じようにする」ということになってしま
った。病気が自然と治った人は皆神様のお力だと言い立て、
石人のことを「賢士」と名付けた。それから病人を載せた幌
車が轂を打ち合うほど集まり、空が見えなくなるほど絳い帷
帳がびっしり張られ、神に捧げる管弦の音が数十里向こうま
で聞こえた。県尉の担当部署が常駐して様子を監視していた
が、数年後には(御利益がないとわかったらしく)自然と収
束し、元通り静かになった。