論 文
The Chronicles of Narnia
における年齢観、
「子供」観、「大人」観について
――第一巻から第三巻まで――
半田 涼太
はじめに
Philip Pullmanは1998年にイギリスの日刊紙The Guardianで“The Darkside of Narnia”と題する批評文を発表し、そこでThe Chronicles of Narnia及びその作者のC.
S.Lewisを痛烈に批判した。Pullmanによれば、The Chronicles of Narniaから「成長」
に対するLewisの否定的な態度が認められるという。Pullmanは、The Last Battle
においてSusanがNarniaに行くことができなかったことを根拠にしてこのような
主張を行っている。私は以前に「Susanは「成長」したのか――C. S. Lewisの「成 長」観――」と題する論文において同批評文の正当性を検討し、Pullmanの主張が 不当なものであることを明らかにした。同論文では、まずPullmanとLewisの「成 長」観が異なることを示した。同批評文において、Pullmanは「成長」を「子供」
という状態から「大人」という状態への移行と捉えており、その一方で、Lewisは、
“On Three Ways of Writing for Children”にある記述(25-26)を参照すると、「成長」
を豊かな状態になることと捉えていることが了解される。したがって、Pullmanが 言う「成長」とLewisが言う「成長」は、それぞれ意味が異なるのである。同論文 では、続けてLewisの「成長」観に準拠してThe Chronicles of Narniaの分析を行っ た。それによって、The Last Battleにおいて提示されるSusanの状態から判断する と、彼女が「成長」したと言うことはできず、したがってこのSusanの出来事か
らLewisが「成長」を否定的に捉えていると主張することはできないことを明らか
にした。
では、Pullmanの「成長」観に準拠してThe Chronicles of Narniaの分析を行った 場合、どのような事実が浮かび上がってくるのだろうか。The Chronicles of Narnia 全体の中で「子供」から「大人」への移行が否定的に描かれている箇所はあるのだ ろうか。また、The Chronicles of Narniaにおいて「子供」と「大人」それぞれの在 り方や、「子供」という状態と「大人」という状態の関係性はどのように描出され
ているのだろうか。本論文ではその検証を行いたい。
The Chronicles of Narniaは全部で七作品あり、出版された順序と物語の時系列
が一致しない。そのような中で、本論文では初めに出版された三作品、すなわち 1950年に出版されたThe Lion, the Witch and the Wardrobe、1951年に出版された Prince Caspian: The Return to Narnia、それから1952年に出版されたThe Voyage of
the Dawn Treaderを、残りの四作品を視野に入れつつ、論述の対象とする。この三
作品を対象とするのには理由がある。それについては第1章で述べる。
第1章 検証のための作業方針について
上述の目的のために、本論文ではPullmanの言う「成長」、つまり「子供」から「大人」
への移行に関する言説にとどまらず、The Chronicles of Narniaに現れる「子供」と「大 人」をめぐるあらゆる言説を追い、それに対して考察を行う。そこで要となるのが、
“child(ren)”、“kid(s)”、“boy(s)”、“girl(s)”という語だ。The Chronicles of Narnia に現れるこれらの語を追い、その語が指し示す対象の在り方について考察を行う。
ここで上記の各単語について検討しておこう。The Oxford English Dictionary
Second Editionで、“child”という語は次のように説明されている。
I. With reference to state or age.
2.a. A young person of either sex below the age of puberty; a boy or girl.
“child”の説明の中に“boy”及び“girl”という語がある。“boy”及び“girl”は 性別の観点から“child”を二分した語であり、“child”と併せて追う必要がある語 であることが了解される。また、“kid”という語は次のように説明されている。
5. slang. a. A child, esp. a young child. (Originally low slang, but by the 19th c.
frequent in familiar speech.)
“kid”という語はまさに“child”の一語で説明され、また“child”に“young”と いう語が付された形で説明されている。ここから、“kid”は“child”とほぼ同一の 指示対象を持つ語であることが了解される。以上のことから、上記の四つの語に着 目することが、先述の研究目的を達成するために有効な作業方針であることが納得 される。
「「子供」と「大人」をめぐるあらゆる言説」と先に述べた。これには年齢や年齢 観に関する言説も含まれる。というのも、「子供」と「大人」と年齢は密接な関係を持っ ているからだ。“child”という語の説明の中に“age”や“young”という語がある ことからも、「子供」と「大人」と年齢が密接な関係を持っていることが了解される。
上述のように、本論文は分析対象となっている作品に現れる「子供」及び「大 人」をめぐる言説について考察を行うものであり、本論文が「子供」と「大人」の 分割を生産する言説となってはならない。どういうことか、一例を挙げて説明し よう。The Lion, the Witch and the Wardrobeにおいて、PeterとSusanがLucyに関 する相談をするために教授のもとを訪れることにする。その際に、Peterが次のよ うに述べる。“He’ll [the Professor will] write to Father if he thinks there is really something wrong with Lu [Lucy], […] it’s getting beyond us” (46). これは、一見す ると「子供」であるPeterが「大人」である教授や父親を頼ろうとしているように 見えるかもしれない。しかしここで注意しなければならないのは、Peterが教授や 父親を頼ろうとする理由が示されていない点である。そのため、その理由を二人が
「「大人」であること」に求める解釈は、論者の「子供」観や「大人」観に依拠した 恣意的なものである。したがって、このような解釈を行うことは、新たに「子供」
と「大人」の分割を生産する行為なのである。
The Chronicles of Narniaの「子供」と「大人」に関する研究は、これまでしば
しば「子供」の「成長」という観点から行われてきた。例えば、Jeanne Murray Walkerは、“The Lion, the Witch and the Wardrobe as Rite of Passage” において、The Lion, the Witch and the WardrobeにおけるPevensie四きょうだいのNarniaでの経 験を通過儀礼として解釈した論を展開している。また、斎藤康代は、「ファンタジー の世界と子どもたち――C・S・ルイスの描いた子どもをめぐって――」において、「子
供」達のNarniaでの経験が彼らの「成長」に寄与し、そのため彼らは「成長」す
ることができた、と、具体的な諸事例を挙げて論じている。しかしながら、このよ うな論考には往々にして論者の「子供」観や「成長」観が反映されていることに注 意しなければならない。斎藤の論考もこれに当て嵌まる。Natasha Giardinaが “Kids in the Kitchen? His Dark Materials on Childhood, Adulthood and Social Power” にお いて展開している論考は、「子供」であるPevensie四きょうだいの、Narniaでの 変化とイギリスに帰還した際の変化に着目し、「子供」と「大人」の権力関係を探っ ている点で興味深い。このように、これまでの研究では、The Chronicles of Narnia において提示される「子供」及び「大人」の在り方の検証や、「子供」という状態 と「大人」という状態の関係性の検証が充分になされてきたとは言い難い。先に述 べたように、本論文ではそれらが提示されている言説を抽出し、それに対して考察
を行う。
先に述べたように、本論文では初めに出版された三作品を論述の対象とする。こ の三作品は出版の順序と物語の時系列が一致しており、またどの作品にもEdmund という人物が主要な作中人物として登場する。三作品を通じて示されるEdmund の年齢観に着目すると、興味深い事実が明らかになる。さらに、Edmundが提示す る年齢観と語り手が提示する年齢観を比較検討することによって、The Chronicles
of Narniaにおいて提示されるそれらの観念が錯綜している様子が浮かび上がって
くる。その錯綜した様相から、年齢観をめぐるLewisの試みが明らかになるだろう。
第2章 The Lion, the Witch and the Wardrobeについて
まず、The Lion, the Witch and the Wardrobeにおいて提示される年齢観について 検討しよう。
同作品では、物語が始まる前の序文において、作者が持つ年齢観が提示されてい る。この序文には次のようなことが書かれている。すなわち、Lewisはこの物語を 彼の教女(goddaughter)のLucy Barfieldのために書き始めたが、本よりも女の子 の成長の方が早く、Lucyはもう既に妖精物語を読まなくなるほどに年を取ってし まった。しかし、Lucyがさらに年を取れば、再び妖精物語を読むようになるであ ろう、と。この序文では、妖精物語を読む年齢と読まない年齢があるという、作者 が持つ年齢観が提示されている。これと同様の年齢観がPrince Caspian: The Return to Narniaで提示される。Miraz王がCaspianに対して、Caspianはもう妖精物語に ついて考える年齢ではない、と述べるのである。これに関しては第3章で詳述する。
さて、The Lion, the Witch and the Wardrobeの物語内でも年齢が重視されるとい う事例が認められる。その顕著な例が、王の位階を決めるための基準だ。物語の終
盤でPevensie四きょうだいが王あるいは王女になる。四きょうだいに王位を授け
るAslanは、四人の位階を決める際に年齢を基準にする。AslanがPeterに次のよ
うに述べる。“I show it to you because you are the first-born and you will be High King over all the rest” (119). このように、Peterは長兄であるために“High King”
とされ、他の三人よりも大きな権威を持たされ、重い責任を負わされる。ここから、
年齢の高さと権威の大きさ、それから年齢の高さと責任の重さの相関関係を認める ことができる。
これと同様に、Edmundは自分と他人との関係性を決定する際に年齢を基準に する。語り手が次のように述べる。“Edmund gave a very superior look as if he
were far older than Lucy” (44). この説明に続いて、“there was really only a year’s
difference” (44)という補足がある。これらの文から二つのことが了解される。一
つは、先に述べたようにEdmundが自分と他人との関係性を決定する際に年齢を 基準にしていること。もう一つは、Edmundに限らず語り手も、年齢が高い人の方 が年齢が低い人よりも権威を持ち、そしてその年齢の開きが大きいほどその権威も 大きくなるという考えを持っていること。以上の二つである。以上のことから、こ の点においてAslanの考えとEdmundの考えと語り手の考えが根本的な部分で一 致していることが了解される。
上述のように、EdmundはLucyに対して高慢な表情をする。その上で、彼は PeterとSusanに対して嘘をつく。彼はLucyと同様にNarniaに行ったことがある にもかかわらず、Lucyが存在すると主張する別世界など本当はありはしない、二 人でごっこ遊びをしていたにすぎないと嘘をつくのである。嘘をつかれたLucyは 思わずその場から逃げ去る。このLucyの振る舞いについて、Edmundが次のよ うに言う。“That’s the worst of young kids, they always –” (45). ここでEdmund は“young kids”を総体化している。より詳細に述べると、EdmundはLucyのこ とを“young kid”と見做しており、さらにLucyの行動を“young kids”とされ る人々の行動へ敷衍している。さらに注目したいのは、Lucyのことを指し示すた めに“young”という形容詞を付しており、“kids”の中に差異を設けている点だ。
Edmundは自分自身のことを“kid”と認識しており、そこで自分とLucyを差異
化させるために“young”という語を付していると考えられる。ここまでの一連 のEdmundの態度に対して、Peterが彼に次のように述べる。“You’ve always liked being beastly to anyone smaller than yourself; we’ve seen that at school before
now” (45). このPeterの言葉には、Edmundが「彼自身よりも小さな人々」を総体
化している様子が示されている。以上のことから、Edmundが物事を判断する際に、
いかに年齢に依拠しているかが了解される。
Susanも或る事柄の根拠を年齢に求める。Aslanの面前に出る際に、誰が最初に
出るかということで揉める。その時にPeterとSusanの間で次のようなやり取り がある。“Susan, […] what about you? Ladies first.” (117)というPeterの提案に、
Susanが“No, you’re the eldest” (117)と答える。Susanは、最初にAslanの面前 に出る根拠を年齢に求めている。しかし、なぜ年齢がそのような根拠となるのか、
その理由に関しては明示されない。
また、年齢は人の特徴を示すための拠り所にされる。四きょうだいが住むことに なる家が“thehouseof anoldProfessor” (9)と言い表される。教授に対して“old” という語が付されており、年齢が彼のことを示すための拠り所にされている。ま
た教授自身は次のように描出される。“He himself was a very old man with shaggy white hair which grew over most of his face as well as on his head” (9). 教授の容 姿の描写と共に彼が高齢であることが示されており、ここでも年齢が彼の特徴を示 すための拠り所にされている。
年を取ることが肯定的な事柄として提示されている箇所がある。白い魔女の陣 営との戦いの後に、LucyにはPeterが年を取ったように見える。その様子が次の ように描出される。“[H]is [Peter’s] face was so pale and stern and he seemed so
much older” (162). ここでは、年を取ることが肯定的なものとして提示されている。
以上がThe Lion, the Witch and the Wardrobeにおいて提示される年齢観である。
次に、同作品において提示される「子供」観及び「大人」観について検討しよう。
そもそも、語り手がPevensie四きょうだいのことを指し示すために、随所で
“children”という呼称を用いる。同様に、Aslanも四人のことを“children”と呼ぶ。
その一方で、Beaver夫妻や白い魔女は、「子供」や「大人」の区別なく四人に接する。
この相違は意義深い。
The Chronicles of Narniaには、各人が持つ「子供」観や「大人」観、あるいは年
齢観が覆されるという出来事が頻出する。同作品では、まずSusanが持つ「大人」
観が覆される。PeterとSusanが教授のもとを訪れる場面に次の一文がある。“She [Susan] hadneverdreamedthatagrown-upwouldtalklike theProfessoranddidn’t know what to think” (47). この一文では、Susanが「大人」に対して或る確固たる 見解を持っていたということが示されている。またそれと共に、彼女のその見解が、
彼女が「大人」と認識する教授自身によって覆されたことも示されている。つまり ここでは、Susanの「大人」観から外れる「大人」が存在しており、彼女の「大人」
観は「大人」という総体全てに当て嵌めることができるものではないことが明らか となったのである。
この訪問の際に、教授が持つ「子供」観が提示される。Susanが教授に次の ように述べる。“But there was no time, […] Lucy had had no time to have gone anywhere, even if there was such a place. She came running after us the very moment we were out of the room. It was less than a minute, and she pretended to have been away for hours” (48). この時間の経過に関する話を聞き、教授が次のよ うに返答する。“I don’t think many girls of her [Lucy’s] age would invent that idea for themselves” (48). この教授の発言には、Lucyの年齢の「女の子」は、多くの場合、
Susanが述べたような時間の経過の問題を考慮する能力を持たないという、教授が
持つ「子供」観が示されている。ここで特に注目すべきことは、この「子供」観が、
教授が論理的な推論――彼は「論理」を重視している――を行う際の拠り所の一つ
にされている点だ。もしこの「子供」観が誤ったものであったら、教授の論理的推 論は瓦解することになる。したがって、このことから、彼がこの「子供」観の確か さに自信を持っていることを窺い知ることができる。
Susanが持つ「大人」観が覆されたように、家政婦のMacready夫人が持つ「子
供」観も覆される。まず、“Mrs Macready was not fond of children” (51)という彼 女の特徴が提示される。その理由は次のようなものだ。“[Mrs Macready] did not like to be interrupted when she was telling visitorsall the things she knew” (51).
彼女は、「子供」は邪魔をすると考えているのである。そのため、彼女は教授の家 にやって来たPevensie四きょうだいに次のように言う。“And please remember you’re to keep out of the way whenever I’m taking a party over the house” (51). こ れを聞いたEdmundが、他の三きょうだいに次のように主張する。“Just as if any of us would want to waste half the morning trailing round with a crowd of strange
grown-ups!” (51). そして三人はこの言葉に同意する。ここでは、Macready夫人が
提示する「子供」観を、「子供」とされる人々自身が否定する様子が描出されている。
つまり、Macready夫人が持つ「子供」観が覆される様子が提示されているのであ る。しかしそれと同時に、Macready夫人や四きょうだいが、「子供」及び「大人」
という概念を保持しているということも示されていることに留意しなければならな い。
Edmundがライオンの石像に落書きをする場面で、語り手が持つ「子供」観
が提示される。石像に落書きをするというEdmundの行為について、語り手が
“something very silly and childish” (89)と述べる。Edmundのこの行為が好ましく ないものであることを示すために、「「子供」らしさ」が引き合いに出されている。
つまり、好ましくない「「子供」らしさ」があるということが提示されているのである。
以上がThe Lion, the Witch and the Wardrobeにおいて提示される年齢観、「子供」観、
「大人」観である。
第3章 Prince Caspian: The Return to Narniaについて
まず、Prince Caspian: The Return to Narniaにおいて提示される年齢観について 検討しよう。
同作品でも、年齢が人の特徴を示すための拠り所にされている。Black Dwarfが 五人いる状況で、彼らを差異化するために“the eldest of them”及び“the next
oldest”という呼称が用いられる(70)。彼らに関して他の説明は一切なく、ただ年
齢の差異が示されるのみだ。また、Bacchusが登場する際に、彼が次のように描出 される。“One was a youth, dressed only in a fawn-skin, with vine-leaves wreathed in his curly hair” (137). 彼のことを指し示すために“youth”という語が使用され ており、彼の年齢が示されている。この場面にSilenusも登場し、彼は次のように 描出される。“[T]he man on the donkey, who was old and enormously fat” (137). 彼 のことを説明する際に“old”という語が使用されており、彼の年齢が示されている。
また、Peterが或る部屋に突撃した際に、次のような描写がなされる。“Peter had
a glimpse of a horrible, grey, gaunt creature, half man and half wolf, in the very act of leaping upon a boy about his own age” (147). ここにある“a boy about his own
age”とはCaspianのことである。Peterが、その場にいる人物の性別及び年齢を瞬
時に見て取ったことが示されている。このように、随所で年齢が人の外見的な特徴 を示すための拠り所にされている。ここで留意したいのが、年齢が低い場合と年齢 が高い場合、それぞれがどのような特徴を示すのかということに関する具体的な説 明がない点だ。それに関しては読者の判断や想像に委ねられているのである。
年齢は外見的な特徴を示すための拠り所とされているだけではない。作中人物達 はさまざまな事柄に関して、年齢を基準にして判断したり決定したりする。
先に言及したように、Miraz王が妖精物語の受容に関して年齢を基準にして人 を二つの区分に分割する。Caspianが、昔はNarniaに喋る動物やNaiad、Dryad、
Dwarf、Faunといった生き物達がいたと語ると、それに対してMirazが次のよう
に述べる。“That’s all nonsense, for babies, […] [o]nly fit for babies, do you hear?
You’re getting too old for that sort of stuff. At your age you ought to be thinking of battles and adventures, not fairy tales” (43). Mirazによれば、Caspianの年齢では、
妖精物語についてではなく、戦や冒険について考えるべきだという。このように、
Mirazは年齢を基準にして差異を設けている。しかしながら、後に上述の生き物達
が存在することが明らかとなることによって、Mirazのこのような年齢観は不当な ものとしてその価値が決定される。むしろこのような発言は、彼自身の視野の狭さ を示すものとなる。
次の箇所では、年齢が驚きの原因となっている。MirazがCaspianを殺そうとし ており、そのため彼のもとから逃げてきたというCaspianの話を聞いたTrumpkin が、次のように言って驚く。“What have you been doing, Human, to fall foul of Miraz at your age?” (64). ここで、Caspianの年齢がTrumpkinの驚きの原因となっ ている。Trumpkinは年齢を基準にした差異を想定しており、その想定を裏切る事 態が生じたために驚いているのである。
Pevensie四きょうだいがTrumpkinと共に行う旅においても、年齢が重要な要素
となる。旅の途中で、以後の旅の行程を決めるために投票を行うことになる。そ の際に、Peterが、一行の中でTrumpkinが最も年齢が高いという理由から、彼に 最初の投票権を与える(112)。また、Lucyが一行の他の人々が自分よりも年齢が高 いことを気に掛けていることを、語り手が示す(126)。その気掛かりのとおり、後 にSusanがLucyに次のように言う。“You’ve no right to try to force the rest of us like that. It’s four to one and you’re the youngest” (129). Susanは、Lucyに一行の 行動を強制する権利はないと主張し、その理由の一つにLucyの年齢の低さを挙げ ている。しかし、一行はLucyに従うべきであったことが後に明らかとなり、この
Susanの主張は不当なものとしてその価値が決定される。ここに至り、年齢が高い
人の方が年齢が低い人よりも正しい判断をすることができるという年齢観が覆され る。
上述の投票は、いわばLucyの意見に従うか否かの投票である。その際に、
EdmundはLucyが正しいのではないかと主張し、Lucyの意見に一票を投じる(112)。
この時にEdmundは年齢のことを全く考慮していない。彼はLucyの意見の正当性
を判断する際に、彼女の年齢ではなく、過去の出来事にその根拠を求めるのである。
また、年齢という点で言えば、Edmundはこの場にいる五人のうちで、Lucyに次 いで二番めに年齢が低い。したがって、年齢が高い人の方が正しい判断をすること ができるという年齢観は、ここでも覆される。このLucyの意見をめぐる一連の出 来事では、物事を判断する際に年齢に依拠したために最善の判断をし損なったとい う事態が重層的に生じている。
上述の出来事の後に、LucyがAslanと再会する。その際に、奇妙な年齢観が提 示される。Aslanと再会した時に、LucyにはAslanが以前よりも大きくなったよう に見える。Lucyがそのことを述べると、Aslanが曖昧な言葉を返す。
‘Aslan,’ said Lucy, ‘you’re bigger.’
‘That is because you are older, little one,’ answered he.
‘Not because you are?’
‘I am not. But every year you grow, you will find me bigger.’ (124)
ここでLucyの年齢とAslanの見え方に関係があることが示されているが、それが
どのような関係性であるのか明確に示されてはいない。これ以後にもこのAslanの 返答の意味が明確になることはなく、この年齢とAslanの見え方の関係性に関する
Aslanの言葉は、さまざまな解釈を許容する曖昧な状態のまま残される。
同作品に、人の感情を揺り動かすために年齢観を利用するという事例がある。
MirazがPeterから一騎打ちの果たし状を受け取る。その際に、MirazがPeter の挑戦に応じるように仕向けるために、GlozelleがMirazに次のように述べる。
“No man of your Majesty’s age […] would be called coward by any wise soldier for refusing the combat with a great warrior in the flower of his youth” (156). Glozelle
はMirazを嗾けるために、Mirazと彼の対戦相手の年齢に焦点を合わせている。よ
り詳細に言えば、GlozelleはMirazの年齢を挑戦者の若さと対比して示し、二人の 年齢の違いを一騎打ちの挑戦を退けても臆病者とは思われないことの理由にして いる。このGlozelleの言葉に対して、Mirazは次のように述べる。“So I’m to be a dotard with one foot in the grave, as well as a dastard” (157). このMirazの発言か ら明確に了解されるように、Glozelleは年齢の高さを人を貶すための材料にしてい る。MirazはGlozelleの言葉に触発されて、当初は受ける気のなかった一騎打ちの 挑戦を受けることにする。ここでは年齢の高さが望ましくないものとして提示され ている。
物語の終盤で、Narniaへの訪問が可能か否かが、年齢を基準にして決定される ことが明らかになる。このことに関してPeterが次のように述べる。“At least, from what he [Aslan] said, I’m pretty sure he means you [Edmund and Lucy] to get back some day. But not Su [Susan] and me. He says we’re getting too old” (188). ここから、
Narniaが年齢を基準にして人を受け入れたり拒んだりするということが了解され
る。次巻のThe Voyage of the Dawn Treaderでは、今度はEdmundとLucyがAslan から同様のことを伝えられる。しかしながら、これらのAslanの言葉に反し、The Last Battleにおいて、PeterとEdmundとLucyは再度Narniaへ行く。なぜ行くこ とができるのかは、同作品内でDigoryが説明する(153)。これに関しては、The
Last Battleについて論じる際に詳述したい。
以上がPrince Caspian: The Return to Narniaにおいて提示される年齢観である。
次に、同作品において提示される「子供」観及び「大人」観について検討しよう。
同作品にはPevensie四きょうだいの二度めのNarnia訪問の様子が描かれてい
る。再びNarnia にやって来たことが判明した後で、Peterがきょうだいの他の三
人、殊にSusanに次のように言う。“We must […] [c]heer up, Susan. It’s no good behaving like kids now that we are back in Narnia. You’re a Queen here” (26). こ こでは、「子供」である彼らが「「子供」のように振る舞ってはならない」と自らを 律し、自己規定に揺さ振りをかけている様子が描出されている。なぜ彼らは「子供」
のように振る舞ってはならないのか、その理由は少し後に明確になる。Lucyが次 のように述べる。“But, Peter, […] look here. I know I can’t swim for nutsat home – in England, I mean. But couldn’t we all swim long ago – if it was long ago – when
we were Kings and Queens in Narnia? We could ride then too, and do all sorts of things. Don’t you think –?” (33). これに対して、Peterが次のように述べる。“Ah, but we were sort of grown-up then, […] [w]e reigned for years and years and learned to do things. Aren’t we just back at our proper ages again now?” (34). Peterによれ ば、かつてNarniaにいた頃(つまりThe Lion, the Witch and the Wardrobeの終盤で 描かれている頃)には彼らは「いわば大人」であったが、しかし再びNarniaに戻っ てきた現在は「彼らの本来の年齢」であるという。イギリスとNarniaにおける自 分の能力の違いに関するLucyの疑問に対して、Peterは彼らの能力の変化と年齢 を関連付けている。ここから、Peterが、さまざまな能力を持っている状態を「大人」
と考えていることが了解される。そのためPeterは、Narniaでは「「子供」のよう に振る舞ってはならない」と述べたのである。ここでは能力の差異に基づいて「子 供」と「大人」が差異化されている。
次の箇所ではLucyが持つ「大人」観が提示される。Lucyが共に旅をする一行 に“The Lion, […] Aslan himself. Didn’t you see?” (110)と問うと、Susanが彼女に
“Where did you think you saw him?” (111)と問い返す。これに対し、Lucyは足を 踏み鳴らしながら次のように述べる。“Don’t talk like a grown-up, […] I didn’t think I saw him. I saw him” (111). ここでは、言葉の使い方において「「大人」らしい」も のとそうでないものが差異化されており、「「大人」らしい」言葉の使い方が好まし くないものとして提示されている。Susanの「大人」らしさという点では、この後 で彼女の声が“grown-up voice”と表現される箇所がある(126-127)。しかし、それ が具体的にどのような声であるのかについては明示されないため、読者は各々が考 える“grown-up voice”を当て嵌めることになる。これと同様に、The Magician’s Nephewに、Pollyの声が“grown-up voice”と表現される箇所がある(50)。これに 関しても、それが具体的にどのような声であるのかについては明示されない。
次の箇所では、「「男の人」であること」及び「「男の子」であること」が人の 特徴を示すための拠り所にされている。“[B]oth the High King and King Edmund looked more like men than boys” (135). ここで、“men”及び“boys”という語が、
PeterとEdmundの特徴を示すために対比的に用いられている。これは「男の人」
と「男の子」が差異化されているという前提があって初めて可能なことである。し かしながら、ここでも両者にどのような差異があるのか具体的に示されることはな い。その差異がどのようなものであるのかという事柄の判断は読者に委ねられてい る。
Mirazに一騎打ちの果たし状を送ろうと提案するCaspianに、Peterが次のよう
に述べる。“You’re wounded, […] [a]nd anyway, wouldn’t he just laugh at a challenge
from you? I mean, we have seen that you are a king and a warrior but he thinks of you
as a kid” (150). Peterによれば、「子供」は一騎打ちの相手とはならないという。こ
こでは「子供」と「「子供」でない者」が差異化されている。
一騎打ちに関して「子供」と「「子供」でない者」を差異化していないCaspian も、別の場面では両者を差異化している。彼はAslanから“Do you feel yourself sufficient to take up the Kingship of Narnia?” (175)と尋ねられ、そうは思わない と答える。その理由は、“I’m only a kid” (175)というものだ。このように、Caspian はここで「子供」と「「子供」でない者」を差異化している。しかし、どちらの場 合も、なぜ「子供」が一騎打ちをすることや王位に就くことに相応しくないのか、
その理由は明示されない。
次の箇所では、作中人物が持つ「子供」観が覆される様子が描出されてい る。DwarfのTrumpkinがPevensie四きょうだいに出会った際に、彼らのこと を次のように言い表す。“I suppose you are the four children out of the old stories”
(91). そして次のように述べる。“I think they’d [Caspian, Trufflehunter and Doctor Cornelius had] been imagining you as great warriors. As it is – we’re awfully fond of children and all that” (91). Trumpkin達は「偉大な戦士」を待ち望んでいたので、
四人ではその期待を裏切るという。Trumpkinにとっては、四人は「偉大な戦士」
ではなく「子供」なのである。ここから、「偉大な戦士」と「子供」が相容れない 様態と見做されていることが了解される。さらに、Trumpkinは四人のことを“my dear little friends” (91)と 呼 ぶ。 こ れ に 対 し て、Edmundが“Little from you is really a bit too much” (91)と述べる。というのも、TrumpkinはDwarfであり、体 が小さいからだ。また、Trumpkinは少し後にEdmund に対して“lad”と呼び掛
ける(93)。このように、Trumpkinは四人に対して偏見を持っている。その偏見は
「子供」をめぐるものだ。PeterはこのようなTrumpkinの偏見を覆そうと画策する。
そしてEdmundがTrumpkinと剣技の手合わせを行うことになり、Edmundが勝
利する。その次に、SusanがTrumpkinと弓の力量を競い、Susanが勝利する。さ
らにLucyがTrumpkinの傷を治癒し、最終的にTrumpkinは四人のことを見直す
(96-97)。Pevensie四きょうだいは「「子供」であること」に纏わり付く偏見を拭い
去るのである。このように、この一連の出来事では、Trumpkinが持つ「子供」観 が提示され、それが覆される様子が描出されている。この後、TrumpkinはPeter
とEdmundに呼び掛ける際に思わず“youngsters”という呼称を用いたのを、自ら
“Kings”と言い直すことさえするようになる(107)。しかしその一方で、語り手は 物語の中で一貫して四人のことを“children”と呼んでいることに留意しなければ ならない。
EdmundはTrumpkinに剣技の手合わせを申し入れる際に、彼から「子供」と 見做されていることを利用する。EdmundはTrumpkinに次のように述べる。“I’ve got something to ask you. Kids like us don’t often have the chance of meeting a great warrior like you. Would you have a little fencing match with me? It would be frightfully
decent” (92-93). ここで、Edmundは下手に出るために「子供」と見做されている
ことを利用している。「子供」が「偉大な戦士」――先にTrumpkinが用いた表現 だ――と対比的に用いられており、Edmund自身のことを指す“Kids like us”と、
Trumpkinのことを指す“a great warrior like you”が見事な対照を成している。
「子供」が或る事柄と対比的に用いられるという点では、次の箇所も同様だ。
Lucyが夜空を眺める際に、次のような説明がなされる。“She had once known them [the Narnian stars] better than the stars of our own world, because as a Queen in Narnia she had gone to bed much later than as a child in England” (102). ここで、「女 王」と「子供」が対比的に用いられている。同一の人物でも、場合によってその人 の在り方が異なることが示されている。またそれと共に、その在り方が異なること によって、その人の行動が変化することも示されている。
上述のように、LucyはかつてNarniaでは「子供」というよりも「女王」であっ た。このことに関連した記述がある。EdmundとTrumpkinの剣技の手合わせの前 に次のような描写がある。“As they [Pevensies] came back up the stairway, jingling in their mail, and already looking and feeling more like Narnians and less like schoolchildren” (92). また、この手合わせの最中に次のような説明がなされる。“But the air of Narnia had been working upon him ever since they arrived on the island, and all his old battles came back to him, and his arms and fingers remembered their old skill. He was King Edmund once more” (93). このように、Narniaで過ご すことによって、四人から徐々に「「子供」らしさ」が消えてゆく。しかし、先に も述べたように、この物語において語り手は一貫して四人のことを“children”と 呼んでいる。
Pevensie四きょうだいが、Trumpkinが持つ「子供」観を覆した様子を先に示し
た。しかし次の箇所において、四人は「子供」と「大人」をめぐる或る観念に囚 われている。Pevensie四きょうだいとTrumpkinがCaspianのもとへ向かう道中 で、Pevensieの四人が次のように感じる。“Up till now the children had only been thinking of how to get to Caspian. Now they wondered what they would do when they found him, and how a handful of Dwarfs and woodland creatures could defeat an army of grown-up Humans” (101). このように、四人は先にTrumpkinが持つ「子 供」観を覆したにもかかわらず、奇妙なことにここでは「子供」と「大人」をめぐ
る或る観念に囚われているのである。
以上がPrince Caspian: The Return to Narniaにおいて提示される年齢観、「子供」
観、「大人」観である。
第 4章 The Voyage of the Dawn Treader について
まず、The Voyage of the Dawn Treaderにおいて提示される年齢観について検討し よう。
同作品でも、年齢が人の特徴を示すための拠り所にされている。Caspianが次 のように描出される。“Last of all came the stranger – a golden-headed boy some years older than herself [Lucy]” (16). Caspianについて、金髪であること、「男の子」
であること、それからLucyよりも年齢が高いことが示されている。また、Caspian が話し掛けた人物(名前が示されない)が次のように描出される。“[A] languid and rather dandified young person without any armour at all” (52). ここでは、こ の人物の年齢が低いことが示されている。人間だけでなく竜等の生き物も、その 特徴を示すために年齢が拠り所にされる。竜を見た時にEustaceが感じたことを、
語り手が次のように述べる。“Even in his fear Eustace felt that it was an old, sad creature” (76). そして後に、この竜は語り手によって“the old dragon” (98)と呼 ばれる。竜に対して“old”という形容詞が付され、年齢が高いことが示されてい る。また、船に乗ったLucyが海の中を眺めている時に或る生き物を見掛ける。そ の生き物が次のように描出される。“Suddenly she saw a little Sea Girl of about her own age in the middle of them [fishes]” (197). Lucyが見た“Sea Girl”が、彼女と 同じくらいの年齢であることが示されている。ここで留意したいのが、彼ら“Sea
People”がどのような年齢観を持っているのかが全く示されない点だ。Lucyと同
じような年齢に見えても、実際には全く違う年齢である可能性がある。ここでは、
Lucyと語り手が、自らが持つ、外見に関する年齢観に依拠して彼女の年齢を判断 している様子が描出されている。このように、随所で年齢が人の特徴を示すための 拠り所にされている。そのような中で、年齢と外見の特徴の関係をめぐって矛盾 が認められる箇所がある。船旅をしている一行が、船に或る人物――後にRhoop 卿であることが明らかになる――を乗せる。その人の様子が次のように描出され る。“Edmund thought he had never seen a wilder looking man. Though he did not otherwiselookvery old,his hair wasan untidymop ofwhite,his facewasthin and drawn, and, for clothing, only a few wet rags hung about him” (155). Edmundが
Rhoop卿の年齢を推測しているが、彼が何に基づいてRhoop卿の年齢を推測した のか示されない。この状況では、EdmundはRhoop卿の外見から年齢を推測する しかない。しかしながら、ここには、その外見とEdmundが見て取った年齢が一 致しないと記されている。このように、ここには年齢と外見の特徴をめぐって矛盾 がある。しかしいずれにせよ、ここでも年齢が人の特徴を示すための拠り所にされ ている。
同作品でも、或る人が持つ年齢観が覆されるという事例がある。Gumpas
とCaspianが奴隷に関する話し合いを行う際に、Gumpasが提示する年齢観が
Caspianによって否定される。二人の話し合いは次のようなものだ。
‘Your Majesty’s tender years,’ said Gumpas, with what was meant to be a fatherly smile, ‘hardly make it possible that you should understand the economic problem involved. I have statistics, I have graphs, I have –’
‘Tender as my years may be,’ said Caspian, ‘I believe I understand the slave trade from within quite as well as your Sufficiency. […]’ (55)
このやり取りにおいて、GumpasはCaspianの年齢を問題にしている。それに対
し、Caspianは年齢は問題とならないということを主張する。つまり、ここでは
Gumpasが持ち提示する年齢観が、Caspianによって否定されるのである。
EustaceがLucyのことを判断する際に年齢に依拠して見誤るという出来事があ
る。EustaceがLucyについて日記に次のように記す。“Even at her [Lucy’s] age she ought to have that amount of sense” (64). EustaceはLucyの愚かさの原因を年 齢に求めている。しかし、このEustaceの非難が当を得ていないことが、物語の展 開から明らかとなっている。Lucyを非難するこの言葉は、皮肉なことにEustace 自身の愚かさを表すものなのである。
同 作 品 に は、 年 齢 規 定 の 厳 密 さ に 関 す る 問 題 が 認 め ら れ る 箇 所 が あ る。
Monopodsの長が、Lucy達旅の一行に次のように述べる。“So my little girl, who’s just about your little girl’s [Lucy’s] age, and a sweet child she was before she was uglified, though now – but least said soonest mended – I say, my little girl she says the spell, for it’s got to be a little girl or else the magician himself” (121). 魔法を作動させ るために、呪文を唱える人の年齢及び性別が条件になっている。呪文を唱える人の 年齢と性別によってその魔法が作動するのか否かが決定されるのであれば、年齢及 び性別は、それぞれその中での差異が明確に画定されうるということになる。しか しながら、その具体的な規定は示されない。ただLucyがこの条件に適合するとい
うことが示されるのみである。Narniaに来るための条件も同様だ。先述のように、
同作品では、Aslanが今度はEdmundとLucyに、二人はもうNarniaにやって来る ことはないと伝える(209)。 Aslanはここでも二人の年齢の高さを理由にしており、
したがってここからNarniaが年齢を基準にして人を受け入れたり拒んだりすると いうことが了解される。しかしその具体的な条件は示されず、漠然としている。
年齢が人の感情を、ひいては人の行動を左右する事例がある。Lucyは、友人 であるMarjorie PrestonがAnne Featherstoneと話している様子を、魔法の本に よって覗き見る。その時に、MarjorieがLucyのことを悪しざまに言う。このこ とについて、AslanがLucyに次のように述べる。“She is weak, but she loves you.
She was afraid of the older girl and said what she does not mean” (136). ここでは、
AnneがMarjorieよりも年齢が高いことが示されており、Anneに対するMarjorie の恐怖と二人の年齢の違いが関連付けられている。つまり、Aslan によれば、
MarjorieがLucyのことを悪しざまに言ったことの理由は、MarjorieとAnneの年 齢の違いなのである。
人間の形をとって地上で安息の時を過ごしている星であるRamanduという人物 が登場する。彼から、通常の年齢過程の逆転現象を認めることができる。Ramandu がLucy達一行に次のように述べる。
‘I am a star at rest, my daughter,’ answered Ramandu. ‘When I set for the last time, decrepit and old beyond all that you can reckon, I was carried to this island. I am not so old now as I was then. Every morning a bird brings me a fire- berry from the valleys in the Sun, and each fire-berry takes away a little of my age. And when I have become as young as the child that was born yesterday, then I shall take my rising again (for we are at earth’s eastern rim) and once more tread the great dance.’ (176-177)
Ramanduは日毎に若くなってゆくという。“young”という状態から“old”という
状態へ変化するという年齢における通常の順序が逆転しており、年齢観が攪乱され ている。同様の現象が一行の船員にも起こる。世界の最果てへと向かう海上で、一 行は海から水を汲んでそれを飲む。その水が彼らに影響を与える。その中で、特定 の船員が年齢の点で影響を受ける。その様子が次のように描出される。“And one or two of the sailors who had been oldish men when the voyage began now grew younger every day” (198). ここでも通常の年齢過程の逆転現象が起こっており、年 齢観が攪乱されている。
以上がThe Voyage of the Dawn Treaderにおいて提示される年齢観である。次に、
同作品において提示される「子供」観及び「大人」観について検討しよう。
語り手が特定の作中人物を「子供」と認識していることが提示される。語り手は Caspian、Edmund、Lucy、Eustaceのことを“[t]he children” (44)と呼ぶ。別の箇 所では、Edmund、Lucy、Eustaceのことを“three children” (206)と呼び、その 少し後には“[t]he children” (207)と呼ぶ。このように、語り手は特定の人物を「子 供」と認識し、そのことを提示する。
Eustaceが持つ「子供」観が覆されるという事例がある。EustaceがLucyについ
て日記に次のように記す。“I suppose a kid like L. [Lucy] doesn’t realize the danger”
(31). ここでEustaceが述べている「危険」とは、船や航海に関する危険のこと
だ。EustaceはLucyがそのような危険に気付かない理由を、彼女が「子供」であ ることに求めている。しかし、Lucyが「子供」であるために船や航海のことを知 らないというEustaceの見解は当を得ていない。実は、Eustaceがこのように日記 に記す前に、Lucyがこれまでに何度も航海をしてきたという事実が提示されてい るのである。その事実は次のように提示される。“[T]he motion of the ship did not worry her [Lucy], for in the old days when she had been a queen in Narnia she had done a good deal of voyaging” (21). Eustaceが「子供」と見做すLucyの存在によっ て、「子供」は危険に気付かないという彼の「子供」観は覆される。ここでは、或 る人が「子供」であるとしても、その人はその人のことを見る人の「子供」観から 逸脱する経験をしている可能性がある、という事態が描出されている。このように、
或る人がどのような経験を経てきたのかということに関する判断基準を、その人が
「子供」であることや「大人」であることに求めることはできないのである。
肉体的な特徴をめぐる「子供」観が提示される事例が二つある。一つは、
Eustaceが竜になった際の語り手の描写だ。彼の腕を語り手が次のように描出する。
“The bracelet which had fitted very nicely on the upper arm of a boy was far too small forthethick,stumpy foreleg ofa dragon” (82). 大きさが変わることのない腕 輪という指標を介しながら、“thick”及び“stumpy”という語によってその太さが 示される竜の前脚と対比される形で、「男の子」の上腕の細さが示されている。こ こで注目すべきは、“Eustace”という個人名ではなく、“boy”という語が用いら れている点だ。「男の子」が総体化されているのである。もう一つは次の箇所だ。
“It was a tiny boat, barely four feet long, and the paddle which still lay in it was in proportion. They thought that either it had been made for a child or else that the people of that country had been Dwarfs” (100). ここでは船の小ささが論点となっ ている。この小さな船に乗ることができる者として、「子供」が小人であるDwarf