The Chronicles of Narnia における年齢観、「子供」観、「大人」観について
―第四巻から第七巻まで―
半田 涼太
はじめに
「The Chronicles of Narnia に お け る 年 齢 観、「子 供 」 観、「大 人 」 観 に つ い て
―第一巻から第三巻まで ―」と題する論文(以下、「先行の論文」と表記す る)において、C. S. Lewis の The Chronicles of Narnia の最初の三作品、すなわ ち1950年に出版された The Lion, the Witch and the Wardrobe、1951年に出版され た Prince Caspian: The Return to Narnia、1952年に出版された The Voyage of the Dawn Treader において提示される年齢観、「子供」観、「大人」観について考察を 行った。その結果、既存の年齢観への依拠と既存の年齢観の攪乱の間の緊張が The Chronicles of Narnia の特徴である、という暫定的な結論を得た。この暫定的な結論 は、The Chronicles of Narnia の残りの四作品及び他の諸作品において提示される年 齢観、「子供」観、「大人」観について検討した後に初めて真の結論として確定するこ とができる。本論文では、The Chronicles of Narnia の残りの四作品である第四巻か ら第七巻、すなわち1953年に出版された The Silver Chair、1954年に出版された The Horse and His Boy、1955年に出版された The Magician’s Nephew、それから1956年 に出版された The Last Battle において提示される年齢観、「子供」観、「大人」観の 考察を行い、上述の結論の理非の検証を行う。
Paul F. Ford が書き著した、Companion to Narnia: A Complete Guide to the Magical World of C. S. Lewis’s The Chronicles of Narnia という事典の体裁をした同連作の案内 書がある。この著書の中に“AGING AND DISABILITY”という項目が設けられてい る。そこに次のように記されている。“In ASLAN’S COUNTRY those who have grown old become young and lose their gray hair and wrinkles, and the very young mature only to the flower of their manhood and womanhood” (42). 或る人物から灰色の髪や皺 が消失するという出来事が生じるのは、本論文で分析対象とする The Silver Chair 及 び The Last Battle においてである。そのことはこの項目内でも言及されている。本論 文ではさらに考察を深め、この灰色の髪及び皺に関する説明が或る問題を含み持って いることを明らかにする。
論 文
同書には“ADULT(S)”及び“CHILD, CHILDREN”という項目もある。そこで は The Chronicles of Narnia で提示される「大人」及び「子供」という概念を、比較 的単純化して説明している。先行の論文でこれらの概念が攪乱される場合があるこ とを明らかにしたが、Ford はそのような事例には言及していない。本論文では、先 行の論文と合わせて The Chronicles of Narnia の七作品全てを分析対象とすることに よって、これらの概念が攪乱される事例が同連作で一貫して認められることを明らか にする。
先行の論文では、各作品ごとに、まずそこで提示されている年齢観について考察を 行い、その次に「子供」観及び「大人」観について考察を行った。しかし本論文では 同論文の分析結果を踏まえ、同論文の区分の方法を踏襲するのではなく、年齢観や
「子供」観、「大人」観に依拠している事例とこれらの観念を攪乱している事例に分け て論述を行う。また、各作品で認められる年齢観や「子供」観、「大人」観に関連す る出来事や事象は枚挙に遑がないため、特筆すべき事例を抽出し、それについて論じ る。
第 1 章 The Silver Chair について
まず、The Silver Chair において提示される、年齢観、「子供」観、「大人」観に依 拠している事例について考察を行う。
同作品には Eustace の二度めの Narnia 訪問の様子が描かれている。最初の訪問の 時に、彼は Caspian と共に旅をした(その時のことは Prince Caspian: The Return to Narnia で語られている)。Eustace は今回の訪問で、Narnia に辿り着いた後にすぐ に Caspian を見掛ける。しかし Eustace はその時にはその人物が Caspian であると 気付かない(37)。というのも、Eustace がもともといた世界と Narnia の世界は時間 の流れ方が異なるため、Caspian は Eustace が思う以上に高齢になっていたからだ。
その時に見掛けた人物が Caspian であったと知った後で、Eustace は次のように感慨 を述べる。“I can’t bear it, […] [s]eeing the King – Caspian – a doddering old man like that. It’s – it’s frightful”(44). またこの少し後で、Eustace は Caspian のことを
“an old, old man”(45)と呼ぶ。Eustace は第一に Caspian の年齢を気にしており、
Eustace が年齢観に囚われている様子が窺える。
同作品には Harfang と呼ばれる場所に住む巨人達が登場する。この巨人達も年齢 観や「子供」観に囚われている。Jill と Eustace と Puddleglum の三人が、旅をして いる途中で或る貴婦人に出会う。なお、この貴婦人も「子供」という概念に依拠して
おり、Jill と Eustace に対して“children”という呼称を用いる(80)。さて、彼女は Jill と Eustace を巧妙な方法でこの巨人達に送り届けようとする。つまり、彼女は二 人を彼女から巨人達への贈り物として巨人達のもとへ行かせようとするのであるが、
Jill と Eustace、それから二人と共に旅をしている Puddleglum がそうとは気付かな いようにして、自ら進んで巨人達のもとへ行かせるのである。彼女はそのために三 人に次のように述べる。なお、引用部分に出てくる“them”とは巨人達のことであ る。“Only tell them […] that She of the Green Kirtle salutes them by you, and has sent them two fair Southern children for the Autumn Feast” (81). Jill と Eustace に 対して“children”という呼称が用いられており、なおかつ共にいる Puddleglum が 対象から除外されていることから、二人が「子供」であることが要点となっている ことが了解される。三人が巨人の王と王妃のもとに辿り着くと、巨人の王妃が Jill と Eustace を見て“Oh, what good children!”と述べ、これを受けて巨人の王は“Yes indeed, […] [q]uite excellent children”と述べる(98)。彼らが Jill と Eustace のこと を第一に「子供」として認識していることが示されている。実は、Jill と Eustace は 料理の材料として巨人達のもとに送り届けられた。巨人の料理人は二人を調理するた めに料理本の“MAN”(「人間」)という項目を参照している(115)。この項目に書か れている内容は途中までしか提示されないが、少なくともそこに「子供」に関する記 述はない。しかし上述のように、王妃や王を始めとして、巨人達は二人のことを「人 間」よりもむしろ「子供」として認識している。このことから、巨人達がいかに強く
「子供」という観念に囚われているかが了解される。
Jill は巨人達が「子供」観や年齢観を持っていることを利用する。Jill と Eustace と Puddleglum の三人は巨人達のもとから逃げ出そうと画策する。その際に、Jill が Eustace と Puddleglum に 次 の よ う に 述 べ る。“We must pretend to be awfully excited about it [the Autumn Feast], and keep on asking questions. They think we’re absolute infants anyway, which will make it easier” (108). Jill は、巨人達が三 人のことを幼児(infants)だと思っていると述べており、ここで「子供」は直接的に は言及されていない。しかしこの後で Jill が王妃に取り入ろうとする場面に次の記述 がある。“Jill put on her most attractively childish smile” (110). ここでは「幼児らし さ」ではなく「「子供」らしさ」が利用されている。Jill はこの表情を用いながら、宮 殿の中を自由に見て回る許可を王妃に求め、王妃はその許可を与える。Jill の“most attractively childish smile”が功を奏したのである。しかしながら、この“most attractively childish smile”が具体的にどのようなものであるのかは説明されない。
この後で、Jill は「無垢な、赤ん坊のようなやり方(an innocent, babyish way)」で 他の巨人達に質問をして回る。その様子が次のように説明される。“As soon as the
King and the rest of the hunting party had set off, she began making a tour of the whole castle and asking questions, but all in such an innocent, babyish way that no one could suspect her of any secret design” (111). さらに Jill は、「大人」達や巨 人を魅了する仕草を行いながら巨人と会話を試みる。その様子は次のように説明さ れる。“And then (it made her hot all over when she remembered it afterwards)
she would put her head on one side in an idiotic fashion which grown-ups, giant and otherwise, thought very fetching, and shake her curls, and fidget, and say […]”
(111-112). ここでは巨人だけでなく「大人」も引き合いに出され、それぞれが総体化 されている。Jill のこのような態度を見た巨人が次のように述べる。“They’re dear little things at that age, […] [i]t seems almost a pity . . .” (112). このように、Jill は
「子供」観及び年齢観を利用して巨人達を虜にし、操る。こうして Jill が巨人達に取 り入ることによって、三人は巨人達のもとから逃げ出すことに成功する。
語り手は人や物の大きさを説明する際に自らが持つ「大人」観を提示する。Jill と Eustace と Puddleglum の三人のもとに二人の人物が近づいてくる。語り手はその二 人の人物のことを次のように言い表す。“[T]wo people of normal grown-up human size” (79). この直前で三人は巨人と出会っているためにこのような説明がなされ る。同作品において「大人」という概念が身体の大きさによって定義されてはいない ため、厳密にはさまざまな大きさの人間の「大人」がいると考えられる。しかし、語 り手は自らが想定する人間の「大人」の大きさを具体的に示さない。語り手にとっ ては、巨人の大きさと比較した場合に人間の「大人」の大きさの多様性は等閑視さ れうるようなものであるために、具体的に説明しないのだと考えられる。語り手が 巨人の家の家具について説明する際にも同様のことが窺える。それは次のものだ。
“She [Jill] soon saw that she was right about this, for a table and chair of the right height for an ordinary grown-up human were placed for her, and the knives and forks and spoons were the proper size too” (101-102). ここでも上述のものと同様 に、語り手が想定する「普通の人間の大人(ordinary grown-up human)」の大きさが どれほどであるのか示されておらず、判然としない。
以上が The Silver Chair において提示される、年齢観、「子供」観、「大人」観に 依拠している事例の顕著なものである。次に、同作品において提示される、年齢観、
「子供」観、「大人」観を攪乱している事例について考察を行う。
魔女が Jill と Eustace、Puddleglum、それから Rilian に暗示をかける際に、年齢観 及び「子供」観を引き合いに出す。魔女は四人に向けて次のように説く。
Well, ’tis a pretty make-believe, though, to say truth, it would suit you all better
if you were younger. And look how you can put nothing into your make-believe without copying it from the real world, this world of mine, which is the only world. But even you children are too old for such play. As for you, my lord Prince, that art a man full grown, fie upon you! Are you not ashamed of such toys? Come, all of you. Put away these childish tricks. I have work for you all in the real world. (155)
ここでは「子供」が要点となっている。魔女は年齢観及び「子供」観を利用し、年 齢が低いことや「「子供」であること」を価値の低いものに位置づけ、説得を試み ている。この後で、この魔女の言葉に対抗して Puddleglum が演説めいたことを行 う。その中に次の一節がある。“We’re just babies making up a game, if you’re right.
But four babies playing a game can make a play-world which licks your real world hollow. That’s why I’m going to stand by the play-world” (156). Puddleglum は魔女 が使用していない“babies”という語を用いているが、いずれにせよ彼は「あなたが たは「子供」である」という趣旨の魔女の主張を否定せずに受け入れ、その上で「子 供」の力を示し、魔女が提示した「子供」観を覆している。さらに言えば、「子供」
の価値が高められさえする。この Puddleglum の言葉によって四人は魔女の魔術的な 暗示から完全に目覚め、魔法による朦朧状態から解放される。
同作品において Eustace は「子供」とされる。しかし、或る場面で Eustace から
「「子供」らしさ」が消失する。“And Jill noticed that Eustace looked neither like a child crying, nor like a boy crying and wanting to hide it, but like a grown-up crying”
(202). Jill はここで Eustace に「「大人」らしさ」を認めている。その原因は場所 の特殊性にあるようだ。この直後に次の説明が付け加えられる。“At least, that is the nearest she could get to it; but really, as she said, people don’t seem to have any particular ages on that mountain” (202). この“mountain”というのは「Aslan の山」
と呼ばれる場所のことであり、Aslan の国の一部だ。この場所で Eustace の年齢的な 在り方が攪乱されている。この場所では人は特定の年齢を持たないと説明されている が、束の間にせよ Jill には Eustace が「大人」であるかのように見えた。後に Jill の このような認識と齟齬をきたす記述が現れる。
物語の終盤で Caspian が亡くなってしまう様子が描出される(200)。死んだ Caspian の体に Aslan の血が触れると、彼の姿に変化が生じる。その様子が次のように描写 される。
And the dead King began to be changed. His white beard turned to grey, and
from grey to yellow, and got shorter and vanished altogether; and his sunken cheeks grew round and fresh, and the wrinkles were smoothed, and his eyes opened, and his eyes and lips both laughed, and suddenly he leaped up and stood before them [Aslan, Eustace, and Jill] – a very young man, or a boy. (But Jill couldn’t say which, because of people having no particular ages in Aslan’s country. Even in this world, of course, it is the stupidest children who are most childish and the stupidest grown-ups who are most grown-up.) (202-203)
この箇所はきわめて重要だ。なぜならば、ここには年齢観が攪乱される様子と共に、
The Chronicles of Narnia において提示される「子供」観及び「大人」観がきわめて 明確に示されているからだ。The Chronicles of Narnia において、徹底した「「子供」
らしさ」や徹底した「「大人」らしさ」は否定されるべきものとされており、ここで はそのことが明言されている。さて、ここでは Caspian の姿が変化する様子が描出さ れている。先述のように、物語の序盤で Caspian が老いている様子が提示される。し かしこの場面で、変化した彼に対して“a very young man”及び“a boy”という呼 称が用いられており、彼の年齢的な在り方が逆転したことが了解される。またここ で再度、Aslan の国では人は特定の年齢を持たないということに言及している。この Aslan の国において、上述の Eustace の場合には、彼は「大人」に見えると説明され ていたが、それに対して Caspian は「子供」に見えるようだ。この違いの原因は作品 内で明示されないが、このような齟齬が生じていることは興味深い。先行の論文でも 述べたように、Narnia では年齢が低い者が年齢が高くなったように変化し、年齢が 高い者が年齢が低くなったように変化する場合がある。同作品内において、Eustace は年齢が低いとされており、それに対して Caspian は年齢が高いとされている。した がって、Eustace と Caspian には逆方向の力が働く。つまり、Eustace は年齢が高く なり、それに対して Caspian は年齢が低くなる。この変化を提示する上で、単に年齢 的な在り方の変化のみを示すよりも、その変化と密接な関係を持っている「子供」及 び「大人」の間の変化を併せて示すと、人の在り方を提示する上で「子供」あるいは
「大人」という異なる語を使用することができるため、変化したことをより具体的か つ明瞭に示すことができる。このような表現上の配慮の結果、上述のような齟齬が生 じたと考えられる。
以上が The Silver Chair において提示される、年齢観、「子供」観、「大人」観を 攪乱している事例の顕著なものである。
第 2 章 The Horse and His Boy について
まず、The Horse and His Boy において提示される、年齢観、「子供」観、「大人」
観に依拠している事例について考察を行う。
The Horse and His Boy では、Narnia がある世界にある、Narnia ではない Calormen という国が物語の主な舞台となっている。Calormen の文化は Narnia の文化と異なり、
この国には独特の文化がある。しかしこの国にも年齢観や「子供」観、「大人」観が あるという点では変わりない。Calormen で生まれ育った Aravis が次のように言う。
“One of my brothers has fallen in battle against the rebels in the far west and the other is a child” (37). これは自分の家族に関する説明の一部だ。「子供」が殊に差 異化されている。同様に、Calormen でこの国の漁師に育てられた Shasta も「子供」
観や「大人」観を保持している。それは次の箇所から了解される。“This was very unpleasant, for Shasta felt all the time that this young king was the very nicest kind of grown-up and would have liked to make a good impression on him” (56). Shasta は出会った王のことを「大人」として認識している。また、Shasta が自分自身を「子 供」と見做していることが示されている箇所がある。彼は自分が乗っているウマの思 いを推察する時に、自分自身のことを“the strange boy on its back” (133)と言い表 す。また、彼は次のような独り言を言う。“I do think […] that I must be the most unfortunate boy that ever lived in the whole world” (137). ここでも Shasta は自分 のことを「男の子(boy)」と言い表している。このように、Shasta は自分自身のこと を「子供」と見做している。付言すると、彼はこの少し後に同様のことを述べるが、
その時には「人物(person)」という語を用いる。彼は次のように述べる。“Oh, I am the unluckiest person in the whole world?” (138).
上述のように同作品には複数の異なる文化が登場し、或る物事が文化によって異な る場合があることが示される。そのような中で、結婚に適切だと考えられる年齢が文 化によって異なることが示される。Shasta が Aravis に次のように尋ねる。“You’re not grown up, I don’t believe you’re any older than I am. I don’t believe you’re as old. How could you be getting married at your age?” (42). すると、これに Aravis で はなくウマの Bree が答える。“Shasta, don’t display your ignorance. They’re always married at that age in the great Tarkaan families” (42). Tarkaan とは Calormen の大 貴族のことだ。このように、結婚に適切だと考えられる年齢が文化によって異なるこ とが示される。
Aravis と Shasta(この時にはもともとの名前である“Cor”という名前で呼ばれ
ている)の二人は後に結婚する。語り手は、二人の結婚について次のように述べる。
“[S]o that years later, when they were grown up, they were so used to quarrelling and making it up again that they got married so as to go on doing it more conveniently” (188). 結婚は「大人」になってからするもの、と考えられていること が示されている。Aravis は Tarkaan の文化では既に結婚可能な年齢であったため、
ここでは文化の違いも示されている。
同作品にはウマが主要な作中人物として登場する。そのウマが人間の「子供」と
「大人」を分割して認識している。ウマの Bree(この時にはまだ名乗っていないた め、この時点では本来は名前は不明)が人間の Shasta に次のように述べる。“I forget you’re only a foal” (19). 人間である Shasta に対して、「ウマの「子供」」を意味す る“foal”という語を使用している。使用している単語は特殊なものであるが、いず れにせよ Bree が Shasta のことを「子供」として認識していることが了解される。
Bree の別の発言からも同様のことが了解される。Bree が Shasta について次のよ うに述べる。“I, who called myself a war-horse and boasted of a hundred fights, to be beaten by a little human boy – a child, a mere foal, who had never held a sword nor had any good nurture or example in his life!” (128). “a little human boy”、“a child”、“a mere foal”と、同義のことを言い方を変えて繰り返している。Shasta が「子供」であることが強調されており、要点となっている。次の箇所からは、
ウマである Hwin と Bree が人間を「子供」と「大人」の二項に分割していること が了解される。“The Horses were rather tongue-tied for they weren’t yet used to being talked to as equals by Humans – grown-up Humans, that is. They didn’t mind Aravis and Cor” (179). ウマが人間の「子供」と「大人」を分割して認識しており、
相手が「子供」であるのかあるいは「大人」であるのかによって意識や態度が変わり さえすることが示されている。両者の差異はそれほどまでに大きいものとして認識さ れているのである。
仙人(Hermit)という特異な存在も、「子供」と「大人」を分割して認識している。
仙人が次のように述べる。“There are two mere children in the Narnian line. What can the King be about to let them into battle?” (159-160). ここでは、「子供」は戦に加 わるべきではない、という考えが示されている。この「子供」のうちの一人は Corin である。この少し後に仙人は“Corin is fighting like a man.” (160)と述べる。“like a man”という比喩は、Corin が“man”でないからこそ可能なものである。仙人のこ れらの言葉では、「子供」と「大人」が分割されており、Corin が「子供」と見做され ていることが示されている。
この前にも「子供」は戦に加わるべきではないという考えが示されている箇所が
ある。Thornbut が Corin に次のように言う。“I have the strictest orders from King Edmund to see to it that your Highness is not in the fight. You will be allowed to see it, and that’s treat enough for your Highness’s little years” (152). Thornbut は Corin に、戦に参加せずそれを見るにとどめよ、と伝えている。Thornbut は Corin の年齢を根拠にして彼の戦への参加を禁じている。しかしなぜ年齢がその根拠となる のか、その理由は明示されない。
Corin は戦に参加したいと思っているため、Thornbut のこの言葉に反論する。二 人は口論を始め、それはやがて取っ組み合いに発展する。その取っ組み合いの様子 が次のように描出される。なお、Corin は人間であり、Thornbut は Dwarf、つまり 小人だ。“It would have been an even match for, though Corin had longer arms and more height, the Dwarf was older and tougher” (152). 肉体的な勝負において、奇妙 なことに年齢という抽象的な要素が勝敗の要因にされている。なぜ年齢が勝敗の要因 となるのか、その理由は示されない。
この少し後で、Edmund が直接に Corin に戦への参加の禁止を説く。Edmund は次 のように述べる。“No one doubts your courage. But a boy in battle is a danger only to his own side” (153). ここでも戦への参加をめぐって「「子供」であること」が考 慮されているが、その理由は明示されない。
結局 Corin が戦に参加してしまった後で、彼の父親であり Archenland という国の王 である Lune が Corin に次のように述べる。“At your age a rod to your breech were fitter than a sword in your fist, ha!” (164). Corin の年齢では戦に参加すべきではな いという、Lune が持つ年齢観が示されている。
先行の論文において、The Lion, the Witch and the Wardrobe で年齢が王や王女の 位階を決定する基準になっていることについて述べた。The Horse and His Boy にも 同様の事例がある。物語の終盤で、Shasta が実は Lune 王の息子であり、もともとは Cor という名前で、この国の王子の Corin と双子であることが判明する。その後で、
Cor と Lune が、世継ぎが Corin であるのか Cor であるのかということに関してや り取りを交わす。Cor が“But if we’re twins we must be the same age.” (186)と述 べるのに対して、Lune は次のように答える。“Nay, […] [o]ne must come first. Art Corin’s elder by full twenty minutes” (186). ここでも王位の継承権をめぐって生ま れた順序、つまり年齢が重視されている。
また先行の論文では、Edmund の年齢観の変化についても論じた。第一巻の The Lion, the Witch and the Wardrobe で、彼は物事を判断する際に年齢を拠り所にし たために物事の重要な部分を見誤る。しかし第二巻の Prince Caspian: The Return to Narnia では、彼は年齢を判断基準にすることをやめ、その結果望ましい判断を下
せるようになる。そして第三巻の The Voyage of the Dawn Treader でも、彼は年 齢を物事の判断の拠り所にすることがない。物語の時系列として、The Horse and His Boy は第一巻と第二巻の間に入る。同作品に Edmund が登場するのだが、ここ で彼が「子供」観を拠り所にする様子が認められる。そのような事例は二つある。
一つは、先に述べた、Edmund が Corin に戦に参加しないように伝えるものだ。結 局 Corin は戦に参加してしまうが、Edmund の言葉とは裏腹に、彼は Lune が誇りに 思うほどに戦で活躍する(164)。したがって結果的に、この Edmund の「子供」観は 覆される。もう一つは次のものだ。Edmund が、Corin が一行からこっそりと抜け出 したことについて彼を咎める。厳密な説明を付け加えておくと、ここで Edmund は Shasta のことを Corin と勘違いして、Shasta に忠告の言葉を述べてしまう。さて、
Edmund の忠告の中に次の文言がある。“To run away might pass for a boy’s frolic with some spirit in it” (56). ここでは、「男の子」には特別の配慮が許されるという 考えがあることが示されている。このように、Edmund は二度に亘って「子供」観 に依拠するのだが、この時はどちらも第一巻の時とは違いがある。以前は Edmund は相手を見下すために年齢観を用いていたが、今回は相手を配慮するために「子供」
観を用いている。別の言い方をすると、自分のためにではなく、相手のために「子 供」観を用いているのである。興味深いことに、上述の Edmund の配慮は、第一巻 で Peter が Edmund のために行った配慮と似ている。Peter は Edmund のために次 のように述べる。“He is our brother after all, even if he is rather a little beast. And he’s only a kid” (80). 意義深いことに、Edmund は後に配慮する側になっているので ある。付言すると、The Horse and His Boy では、Lune 王も Calormen の王子に対 して同様の配慮を行う。彼は次のように述べる。“Nevertheless, in consideration of your youth and the ill nurture, devoid of all gentilesse and courtesy, which you have doubtless had in the land of slaves and tyrants […]” (181). ここでは、「若さ」つ まり年齢だけでなく、文化の違いも考慮されている。いずれの場合も、なぜ年齢や
「「子供」であること」が配慮の対象となるのか、その理由が明示されないことに留意 する必要がある。
以上が The Horse and His Boy において提示される、年齢観、「子供」観、「大人」
観に依拠している事例の顕著なものである。次に、同作品において提示される、年齢 観、「子供」観、「大人」観を攪乱している事例について考察を行う。
一つは、先述のように戦をめぐって Edmund の「子供」観が覆される事例がある。
また、Shasta の「大人」観が覆される事例がある。それは次のものだ。“Having been brought up by a hard, close-fisted man like Arsheesh, he [Shasta] had a fixed habit of never telling grown-ups anything if he could help it: he thought they would always
spoil or stop whatever you were trying to do” (67). Shasta が「大人」を総体化して いる様子が示されている。しかし語り手は次のように述べて、Shasta のこの認識が 誤っていることを示す。“He had, you see, no idea of how noble and free-born people behave” (67). このように、語り手が Shasta が行う「大人」の総体化が不当なもので あることを主張することによって、彼の「大人」観は覆される。しかし、当然ながら この語り手の言葉は Shasta には届かない。したがって、Shasta は自分の考えが不当 なものであることに気付くことができない。
以上が The Horse and His Boy において提示される、年齢観、「子供」観、「大人」
観を攪乱している事例の顕著なものである。
第 3 章 The Magician’s Nephew について
まず、The Magician’s Nephew において提示される、年齢観、「子供」観、「大人」
観に依拠している事例について考察を行う。
Andrew はしばしば自分の年齢を気に掛ける。Andrew が Digory と Polly に次の ように言う。“I can’t expect two youngsters like you to find it much fun talking to an old buffer like me” (20). Andrew は、Digory と Polly の二人と Andrew 自身の 間に年齢を基準にした境界を定めている。この後で、Andrew は Polly に何も告げ ずに彼女を別世界に送るということをする。Digory がこの Andrew の行為を非難 する。その中で、Digory は Andrew に次のように述べる。“Well why didn’t you go yourself then?” (26). これに対して Andrew は次のように述べる。“Me? Me? […]
The boy must be mad! A man at my time of life, and in my state of health, to risk the shock and the dangers of being flung suddenly into a different universe?” (26).
自分自身で別世界に行かない理由の一つに、Andrew は自らの人生における現在い る地点を挙げている。これは、言い換えれば年齢のことだ。Andrew は別の箇所で も“at my time of life”という表現を用いる。それは次の箇所だ。“I’m dreadfully shaken. Most upsetting! And at my time of life!” (73). これは彼が厄介な状況に陥っ た時の発言だ。ここでも Andrew は自分の年齢を気に掛けている。Andrew は鏡に 写った自分の姿を見た時にも自分の年齢を気に掛ける。彼は鏡に写った自分の姿を見 て次のように述べる。“Andrew, my boy, […] you’re a devilish well preserved fellow for your age. A distinguished-looking man, sir” (74). Andrew は Narnia でライオン の姿を見た時にも自分の年齢を気に掛ける。彼はライオンの姿を見て次のように述べ る。“If only I were a younger man and had a gun –” (96). Andrew はこの少し後に
も同様のことを述べる。“If I were a younger man, now – perhaps I could get some lively young fellow to come here first. One of those big-game hunters. Something might be made of this country. The climate is delightful. I never felt such air. I believe it would have done me good if – if circumstances had been more favourable.
If only we’d had a gun” (101). Andrew はこのライオンに対して対決姿勢を表明し ており、その上で自分の年齢及び銃を所持していないことを気に掛けている。また この発言では、Andrew が Narnia の力を感じていることが示唆されている。後に彼 はこの Narnia の力をはっきりと感じ、その効力を次のように言い表す。“And then the climate! I feel twenty years younger already” (103). ここでも年齢が要点になっ ている。Andrew はこの少し後にも同様のことを述べる。“There’s no knowing how long I might live if I settled here. And that’s a big consideration when a fellow has turned sixty. I shouldn’t be surprised if I never grew a day older in this country!
Stupendous! The land of youth!” (103). このように、Andrew はしばしば自分の年齢 を気に掛ける。彼が年齢という観念に囚われている様子が示されている。そしてこれ らの彼の言葉から、彼がより若い方がより望ましいと考えていることを窺い知ること ができる。
Andrew の年齢を気に掛けるのは彼自身だけではない。語り手は彼のことを
“The old man” (70)や“the foolish old man” (74)と呼び、彼の心臓のことを“His poor old heart” (72)と言い表す。また Jadis は Andrew に“old fool” (96)と呼び掛 け、Aslan は Andrew のことを“this old sinner” (158)と言い表す。彼らはとかく Andrew が年齢が高いことに注目し、そのことを提示するのである。これらの事例で は、年齢が高いこと、ひいては年齢が或る人の特徴を示す指標とされ、また、それら が人を認識するための一つの拠り所にされている。
Andrew は相手が「子供」であるのか否かを気に掛けもする。彼は Digory と Polly に次のように言う。“Two children are just what I wanted” (19). 彼は「子供」を 欲していた理由を次のように説明する。“I wanted two children. You see, I’m in the middle of a great experiment. I’ve tried it on a guinea-pig and it seemed to work.
But then a guinea-pig can’t tell you anything. And you can’t explain to it how to come back” (19). 「大人」であっても Andrew の目的に適うはずであるが、しかし Andrew はその対象を「子供」に限定している。この限定の理由は明示されない。ま た、彼は或る話を“it wouldn’t be proper to explain them to a child” (25)と言って 省く。「子供」に適切な話とそうでない話が差異化されている。これは彼が「子供」
と「「子供」でない者」を差異化していることを示唆する。このように、Andrew は 自分の年齢を気に掛けるのと同様に、相手が「子供」であるのか否かを気に掛ける。
付言すると、話を省くという点では次のものも同様だ。語り手は過去に Andrew と Letty の間にあったことを“a long, dull story of a grown-up kind” (74)と言い表し、
このことを詳述することを避ける。これを提示しないということは、語り手が語り掛 けている対象が「大人」でないことを示す。
Andrew は、自らの実験を進めるために Digory と Polly を彼の部屋に閉じ込め る。語り手がこの Andrew の行為に対して次のように述べる。“It was dreadfully unlike anything a grown-up would be expected to do” (19). ここで、語り手は「大 人」の在るべき姿を提示しており、語り手が持つ「大人」観が示されている。後に提 示される次の記述も同様だ。“Children have one kind of silliness, as you know, and grown-ups have another kind. At this moment Uncle Andrew was beginning to be silly in a very grown-up way” (73). ここでは或る種の「子供」観及び「大人」観の 存在が示唆されている。「子供」に関しては、この「愚かさ(silliness)」の具体例は示 されない。「大人」のものに関しては、この後で「大人」である Andrew の行動が具 体的に提示されており、そのことを指し示している。Andrew は着飾って Jadis から 気に入られようとするのであるが、この Andrew の行動が“very grown-up way”で あるという見方は語り手の「大人」観に依拠したものだ。
以上が The Magician’s Nephew において提示される、年齢観、「子供」観、「大人」
観に依拠している事例の顕著なものである。次に、同作品において提示される、年齢 観、「子供」観、「大人」観を攪乱している事例について考察を行う。
Charn における Digory と Polly のやり取りは興味深い。ここで二人が持つ「子供」
観及び「大人」観が示され、それと共に「子供」観及び「大人」観が攪乱される。二 人のやり取りは次のものだ。
‘That’s all you know,’ said Digory. ‘It’s because you’re a girl. Girls never want to know anything but gossip and rot about people getting engaged.’
‘You looked exactly like your Uncle when you said that,’ said Polly.
‘Why can’t you keep to the point?’ said Digory. ‘What we’re talking about is –’
‘How exactly like a man!’ said Polly in a very grown-up voice; but she added hastily, in her real voice, ‘And don’t say I’m just like a woman, or you’ll be a beastly copy-cat.’
‘I should never dream of calling a kid like you a woman,’ said Digory loftily.
‘Oh, I’m a kid, am I?’ said Polly, who was now in a real rage. ‘Well you needn’t be bothered by having a kid with you any longer then. I’m off. I’ve had enough of this place. And I’ve had enough of you too – you beastly, stuck-up,
obstinate pig!’ (50-51)
この口喧嘩で「「子供」であること」が攻撃の対象となっている。Digory は、まず Polly の性別に対して攻撃を加える。これを受けて Polly も Digory の性別に対して攻 撃を加えるが、その際の単語の選択にずれがある。つまり、Digory が“girl”という 語を使用しているのに対して、Polly は“man”という語を使用しており、それらが 指し示す対象として年齢の点でずれがあるのである。この点が、次の Digory の攻撃 の契機となる。Polly は、Digory が使用した“girl”を、不正確にも自らが使用した
“man”に年齢の点で対応する“woman”にずらしてしまう。これに対して Digory は、自分は Polly のことを“woman”などと言ってはいない、Polly は「子供」だ から“woman”などと言うことはできない、と謗る。Digory は Polly のことを「子 供」として認識しており、Polly が「「子供」であること」を誹謗の対象としている。
Digory にとって「「子供」であること」は誹謗の対象となるようなことなのである。
その一方で、Polly にとっては、「子供」であるのか否かは重要でないことが示唆され ている。というのも、Polly は全く気に掛けることなく“girl”を“woman”に置き 換えており、また誹謗の対象となっている「「子供」であること」を、形振り構わず になのかもしれないが、いずれにせよ受け入れているからだ。ここで特に注目したい のは、皮肉にも、この時に語り手によって Polly の声が“a very grown-up voice”と 形容されていることだ。Digory は Polly のことを「子供」だと言って謗るが、Polly からは図らずも「「大人」らしさ」が滲み出ているのである。したがって、Digory の 誹謗は当を得ていない。Polly は作品内において、Digory だけでなく語り手を含め てあらゆる人々から「子供」と認識されている。その彼女から「「大人」らしさ」が 表出することによって、「子供」観及び「大人」観が攪乱される。とはいえ、その後 にある“in her real voice”という表現から、この Polly の“a very grown-up voice”
は彼女の「本当の声」ではないことが了解される。
Digory が持つ「大人」観が覆される事例がある。語り手が、Digory が持ってい る見解について次のように述べる。“If he [Digory] had heard that bit about the land of youth a few days ago he would have thought Aunt Letty was just talking without meaning anything in particular, the way grown-ups do, and it wouldn’t have interested him” (81). Digory は「大人」が特に意味のないお喋りをすると考えてい たが、そのようなお喋りが、実は特別な意味を持ったものである可能性が示されてい る。この時点で既に Digory が持つ「大人」観に変更が迫られているが、後に Narnia がこの“the land of youth”である可能性が示され(103-104)、その後 Narnia から持 ち帰った特別なリンゴによって Digory の母親の体調が快復した時(167-169)に、この
Digory の「大人」観は完全に覆される。
以上が The Magician’s Nephew において提示される、年齢観、「子供」観、「大人」
観を攪乱している事例の顕著なものである。
第 4 章 The Last Battle について
まず、The Last Battle において提示される、年齢観、「子供」観、「大人」観に依 拠している事例について考察を行う。
Tirian の身に起こる一連の出来事から、Tirian や語り手が年齢観や「子供」観、
「大人」観に囚われていることが了解される。Tirian が過去の出来事(The Silver Chair で語られていること)に思いを巡らせる場面に次の記述がある。“[…] two mysterious children had suddenly appeared from the land beyond the world’s end
[…]” (43). “two mysterious children”とは Jill と Eustace のことだ。二人に対して
“children”という呼称を用いていることから、Tirian が二人のことを第一に「子供」
と認識していることが了解される。Tirian はこれに続いてさらに過去のこと(Prince Caspian: The Return to Narnia で語られていること)に思いを巡らせる。そこに次の 記述がある。“[…] Caspian also had been helped by children” (43). この“children”
とは、Peter、Susan、Edmund、Lucy のことだ。Tirian が彼ら四人のことも「子供」
と認識していることが了解される。Tirian はさらに過去のこと、すなわち Peter、
Susan、Edmund、Lucy が王座に就いていた頃のことに思いを巡らせる。その時の ことが次のように説明される。“[…] they had reigned (all four of them together) at Cair Paravel, till they were no longer children but great Kings and lovely Queens, and their reign had been the golden age of Narnia” (43). 殊 更 に“they were no longer children”と説明されており、「子供」であるのか否かが要点となっている。
Tirian は、続いて次のように考える。“Aslan – and children from another world, […]
[t]hey have always come in when things were at their worst. Oh, if only they could now” (43). そして Tirian は次のように叫ぶ。“Children! Children! Friends of Narnia!
Quick. Come to me” (44). Tirian は Narnia のためにやって来た人々を「子供」と認 識しており、「子供」を呼び寄せようとしている。このように、Tirian が Narnia を 危機から救ってきた人々を第一に「子供」と認識していることが示される。
Tirian が上記のように叫んだ後に、彼は奇妙な体験をする。Tirian は、なぜか自 分がもともといた場所ではなく、七人の見知らぬ人々がいる部屋にいることに気付 く。語り手がその時の Tirian の認識を次のように述べる。
Two of these people were very old, an old man with a white beard and an old woman with wise, merry, twinkling eyes. He who sat at the right hand of the old man was hardly full grown, certainly younger than Tirian himself, but his face had already the look of a king and a warrior. And you could almost say the same of the other youth who sat at the right hand of the old woman. Facing Tirian across the table sat a fair haired girl younger than either of these, and on either side of her a boy and girl who were younger still. They were all dressed in what seemed to Tirian the oddest kind of clothes.
But he had no time to think about details like that, for instantly the youngest boy and both the girls started to their feet, and one of them gave a little scream. The old woman started and drew in her breath sharply. The old man must have made some sudden movement too for the wine glass which stood at his right hand was swept off the table: Tirian could hear the tinkling noise as it broke on the floor. (44-45)
語り手のこの説明は Tirian の認識を代弁しているものと考えて構わないだろう。
Tirian はこの場にいる人々を識別する際に、主に年齢に基づいている。さらに、この 引用部分にある“He who sat at the right hand of the old man was hardly full grown, certainly younger than Tirian himself, but his face had already the look of a king and a warrior”という箇所は、Tirian が年齢観をめぐる固定観念を持っていることを示す。
この出来事の後で、Tirian はもともといた場所で目覚める。彼が目覚めた直後に、
彼の前に先程の七人のうちの二人が現れる。この二人が次のように説明される。“He saw at a glance that they were wearing the same queer, dingy sort of clothes as the people in his dream; and he saw, at a second glance, that they were the youngest boy and girl out of that party of seven” (46). ここでも年齢に基づいて二人のことを 識別している。
この後にも同様のことがある。Tirian は別の状況で再度この七人に出会う。そして その場にいる人物が“the youngest of the Queens”や“the youngest of the Kings”
と、年齢によって差異化される(122)。この時に Tirian は七人のうちの一人である Peter によって、同じく七人のうちの一人である Polly のもとに導かれる。Polly は語 り手によって「最も高齢の女王(the eldest of the Queens)」という呼称が用いられ、
彼女の様子が次のように説明される。“[B]ut even she was not old, and there were no grey hairs on her head and no wrinkles on her cheek” (123). ここでは年齢観が 攪乱されているが、それと共に年齢観が逆説的に示されてもいる。「最も高齢」であ
るが「高齢」ではないという説明は撞着的だ。高齢でないことを説明するために、髪 が灰色でないことや皺がないことをあえて提示しており、高齢である場合に通常想定 される状態を逆説的に示している。そもそも Polly の髪が灰色であったことや彼女の 頬に皺があったことは提示されていない。それにもかかわらずこのような説明がなさ れていることから、語り手が保持し依拠している年齢観が、無自覚のうちに前提とさ れていることが了解される。既存の年齢観に依拠しつつ年齢観の攪乱がなされている ため、撞着的な表現となっているのである。
以上のように、Tirian の身に起こる一連の出来事から、Tirian や語り手が年齢観 や「子供」観、「大人」観に依拠していることが了解される。
以上が The Last Battle において提示される、年齢観、「子供」観、「大人」観に依 拠している事例の顕著なものである。次に、同作品において提示される、年齢観、
「子供」観、「大人」観を攪乱している事例について考察を行う。
第二巻の Prince Caspian: The Return to Narnia 及び第三巻の The Voyage of the Dawn Treader において、Narnia を訪問する条件として年齢が問題になることが 示される。しかし、この Narnia 訪問の条件は The Last Battle で崩れる。かつて Narnia を訪問したことのある七人が、「Narnia の友(friends of Narnia)」として集 まりを持っていることが示される。そしてその七人のうち、まず Eustace と Jill が Narnia にやって来る(46)。その際に、Eustace が Tirian に次のように述べる。“It had to be us two who were to go to Narnia, you see, because the older ones couldn’t come again” (50). しかし、この Eustace の言に反して、二人よりも年齢が高い他の 五人も最終的に Narnia にやって来る(122)。なぜやって来ることができたのか、そ の理由は Digory が説明を行う(153-154)。年齢が比較的高い人々が Narnia にやって 来ることによって、Narnia 訪問の条件から年齢という要件は除外される。このよう にして、Narnia 訪問の条件として、年齢に基づいた制限は崩れる。
Aslan の代弁者を騙るサルの Shift の周りに獣達が集っている場面がある。そ こで仔ヒツジが発言を行うのだが、その行為に対して次のような説明が付され る。“‘Please, please,’ said the high voice of a woolly lamb, who was so young that everyone was surprised he dared to speak at all” (34). 年齢的な在り方と発言権が 関連付けられている。仔ヒツジは、その幼さゆえにそもそも発言などしないと考え られている。しかしこの仔ヒツジの発言は、“They knew it was the best question anyone had asked yet.” (34)というように、他の獣達の当初の考えとは裏腹なもの だ。こうして、年齢が発言の権利や発言の内容の正当性に関連するという、獣達が 持っている考えが覆される。
この仔ヒツジの発言に対して、Shift は逆上して次のように述べる。“Baby! […]
Silly little bleater! Go home to your mother and drink milk. What do you understand of such things?” (34). Shift は仔ヒツジの幼さに焦点を合わせて批判を行っている。
しかし上述のように、他の獣達が仔ヒツジの幼さを根拠にして仔ヒツジの発言の是 非に疑問を持ったが、その年齢観は覆された。幼さは批判の対象となりえないこと が既に明らかとなったにもかかわらず、Shift は引き続きその点を批判し続けるので ある。Shift はこの前で年齢が高いほど賢いと主張しており、この箇所から彼が年齢 と賢さを関連付けていることが了解される。彼は次のように述べる。“I’m a Man. If I look like an Ape, that’s because I’m so very old: hundreds and hundreds of years old. And it’s because I’m so old that I’m so wise” (32). この発言において、高齢であ ることが知恵があることの根拠にされている。しかし、上記の仔ヒツジの発言や仔ヒ ツジに対する Shift の発言から、この発言の内容が信憑性のないものであることが明 らかとなり、この年齢観は覆される。
同作品に、容姿をめぐる年齢観が崩される事例がある。Narnia の空気の影響で、
Jill と Eustace が「大人」のようになる。その様子が次のように描出される。“[I]n fact they both seemed to be already much stronger and bigger and more grown- up than they had been when he first met them a few hours ago. It is one of the effects which Narnian air often has on visitors from our world” (56-57). このよう に、Narnia の空気の影響によって二人の年齢的な在り方が変化する。この事例では 年齢的な在り方が変化0 0しているだけであり、年齢的な在り方を喪失0 0してはいない。後 に、Jill が容姿をめぐる年齢的な在り方を喪失する。Tirian が Jill に再会した時に次の ような説明がなされる。“It was Jill: but not Jill as he [Tirian] had last seen her, with her face all dirt and tears and an old drill dress half slipping off one shoulder. Now she looked cool and fresh, as fresh as if she had just come from bathing. And at first he thought she looked older, but then didn’t, and he could never make up his mind on that point” (122). ここで Jill は年齢的な在り方を喪失し、年齢観がより一層攪乱さ れている。この場には「最も高齢の女王」である Polly もいる。彼女については先に 述べた。彼女の年齢的な在り方も攪乱される。ここには Digory もおり、彼が次のよ うに述べる。“Only I think you and I, Polly, chiefly felt that we’d been unstiffened.
You youngsters won’t understand. But we stopped feeling old” (126). Digory は、
自分が若くなったように感じると自ら述べる。この Digory の発言に対して Jill が次 のように述べる。“Youngsters, indeed! […] I don’t believe you two really are much older than we are here” (126). このように、この場面で Jill や Polly や Digory の年 齢的な在り方が変化したり、彼らが年齢的な在り方を喪失したりする様子が描出され る。また、この後に Tirian の父親である Erlian が変化した様子が示される箇所もあ
る(160)。Erlian もまた若くなる。このようにさまざまな人の年齢的な在り方が変化 し、年齢観が攪乱される。
Ford は先述の“AGING AND DISABILITY”の項目の中で、Polly や Digory、そ れから Erlian に上述の変化が生じるのは Aslan の国においてであるかのように書い ている。しかしこれらは Narnia で起こった出来事である。第 1 章で述べたように Eustace と Caspian に同様の変化が生じるのは Aslan の国においてであるが、しかし The Last Battle では誰一人として Aslan の国を訪れる者はいない。むしろ、自分達が 今いる場所が Aslan の国ではないことを Jill が証言する場面(152)や、Lucy が Narnia から Aslan の国を見晴るかす場面(163)が描出される。
以上が The Last Battle において提示される、年齢観、「子供」観、「大人」観を攪 乱している事例の顕著なものである。
おわりに
以上、The Chronicles of Narnia の第四巻から第七巻において提示される年齢観、
「子供」観、「大人」観について考察を行った。既存の年齢観や「子供」観、「大人」
観への依拠とこれらの観念の攪乱の併存ゆえに、The Chronicles of Narnia で提示さ れる年齢観や「子供」観、「大人」観は錯綜しており、時に齟齬をきたしていること さえあることが明らかとなった。また、年齢観の攪乱に関して次の事実が浮かび上 がってきた。Narnia という場は年齢的な在り方を変化させる力を持っているが、そ の変化には一定の法則がある。すなわち、年齢が低い者は年齢が高くなり、年齢が高 い者は年齢が低くなるのである。これは、The Silver Chair において徹底した「「子 供」らしさ」及び徹底した「「大人」らしさ」が否定されるべきものとして示されて いることに通じる。しかし年齢的な在り方において単に中庸の状態が称揚されている わけではない。より詳細に述べると、年齢が低い状態は年齢が低い状態で望ましくな い点を持っており、また年齢が高い状態は年齢が高い状態で望ましくない点を持っ ている、そしてそれぞれの望ましくない点を排除した状態が理想とされているので ある。この理想的な状態は、肉体的な面に関しては Narnia―特に誕生したばかり の Narnia―や Aslan の国で魔法的な力によって実現される。精神的な面に関して は、それがこの理想的な状態にある人が、真の Narnia へ行くことができるのだと考 えられる。
本論文は先行の論文で得た結論を裏付ける結果となった。既存の年齢観や「子 供」観、「大人」観への依拠とこれらの観念の攪乱の間の緊張が The Chronicles of
Narnia の特徴である、と結論づけることができる。しかし「特徴」と言うからには、
厳密には他の諸作品において提示される年齢観、「子供」観、「大人」観についても検 討し、The Chronicles of Narnia において提示されるこれらの観念と比較しなければ ならない。そのような研究を行えば、それぞれの作品の特徴や関係性が鮮明に浮かび 上がってくるだろう。
参考文献
半田涼太「The Chronicles of Narnia における年齢観、「子供」観、「大人」観につい て―第一巻から第三巻まで―」、『白百合女子大学児童文化研究センター研 究論文集』(白百合女子大学児童文化研究センター)20号(2017年):97-117.
Ford, Paul F. Companion to Narnia: A Complete Guide to the Magical World of C. S.
Lewis’s The Chronicles of Narnia. Rev. ed. New York: HarperOne, 2005.
Lewis, C. S. The Horse and His Boy. Harmondsworth: Penguin Books, 1965.
―. The Last Battle. Harmondsworth: Penguin Books, 1964.
―. The Lion, the Witch and the Wardrobe. Harmondsworth: Penguin Books, 1959.
―. The Magician’s Nephew. Harmondsworth: Penguin Books, 1963.
―. Prince Caspian: The Return to Narnia. Harmondsworth: Penguin Books, 1962.
―. The Silver Chair. Harmondsworth: Penguin Books, 1965.
―. The Voyage of the Dawn Treader. Harmondsworth: Penguin Books, 1965.