Lucy詩篇におけるLucy再考 : "A presence"と
"spots of time"との関連において
著者 金津 和美
雑誌名 主流
号 54
ページ 15‑32
発行年 1993‑03‑05
権利 同志社大学英文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015104
15
Lucy 詩篇における Lucy 再考
一‑
"A presence"と spotsof time"との関連において一一金 津 和 美
Lyrical Balμ,ds第二版の序文で .• • it (= poetry) takes its origin from emotion recollected in tranquillity.. ,,1と述べられているようにWilliam Wordsworthにおいて,詩作は対象となる出来事の経験からの時間的隔たり を必要とし,経験一回想一詩作の手順を踏むものである.この手順はしばし ば, Resolutionand Independence"の水蛭取りの老人に見られるように 現実の事実の風化, fiction化を伴うものである Lucy詩篇におけるLucy の正体をWordsworthの伝記に求めようとする試みは Lucyに関する5つ の詩が書かれた頃から現代に至るまで続いており,様々な見解が述べられて いるが,3Lucyの伝記的な正体について確固たる証明は得られないままであ るa それは, Lucy詩篇にはLucyの正体についていかなる手掛かりも与え られていなしミからである. しかしむしろこの事実こそ重要視されるべきで はないだろうか.即ち Lucy詩篇をfictionの範轄において論じ直す事に より, Lucyの実像について新たな可能性が開けてくるからであるa 従って,
本小論文は LucyをWordsworthの伝記的地平から切り離して考察し,
Wordsworthの詩的空間において結ぼれる Lucy像の探求を試みるものであ る.そういった試みは,おそらく, Lucyという表象の裏側にあり,その表 象の生成の動因でもある Wordsworthの詩的id回の分析という作業として 可能であり,そこにロマン主義的なideaの顕現の一形態を発見することが できるであろう.
16 詩篇における 再考
*
f18世紀以前にく人間〉というものは実在しなかったのである
. 4 J
と述べ,MichelF oucaultは西欧文化のくエピステーメー〉の中の古典主義と近代と いう不連続に人間の出現を認める.しかし,人間の出現とともに聞かれた近 代は,同時に「歴史,時間の激烈な侵入力を回復した
J
(155)歴史の時代の 始まりでもある.近代において人間は「そこから出発して時間一般が再構成 され,持続が流れ,物がそれ固有のときに出現できる,そのような入口J
(349) として現れる.Fouc丘ultは人間の出現と,古典主義の知の空間が隠蔽して いた新たな時間の問題とを相関する出来事として扱い,そこに近代を位置づ けている.Foucaultと等しく, Paul de Manは文学史における近代,ロマン主義の 時間の問題を指摘している.de Manは, Thekey to understanding of Wordsworth 1ies in the relationship between imagination and time, not in the relationship between imagination and nature" 5と述べ, W ordsworthの 詩を想像力と時間の問題のもとに位置付けている.さらに想像力は The language of imagination is privileged in terms of truth. . . . a truth about the self. . . ". (16)と自我 (=theself)の問題に結び付けられる.ここでde Manが指す自我とは,主体と客体が合ーした地点において認められるロマ
ン主義的な自我である従って,想像力と時間の問題は,想像力が自我の 問題と関わるがゆえに,自我と時間の問題として論じられるであろう.以下,
Lucy詩篇の考察に先立ち, W ordsworthの詩において時間の問題が,自我 の主客合ーのどこに根差すのか,その位置を考察してみたい.
主体と客体を合一する自我の表像として, TintemAbbey"における A presence"という世界霊的存在が挙げられる. Apresence"は以下の詩行が 示すように,
Lucy詩篇におけるLucy再考 And 1 have felt A presence
Whose dwelling is the light of setting suns, And the round oc巴anand the living air, And the blue sky, and in the mind of man:
(11. 93‑9) 7
17
自然界と精神界に等しく存在し,両者を調停するものの表象である.しかし,
注目すべきなのは,このように調停された自然と精神はそれぞれ A pres司 回目"が認識される nature品ndthe language of the sense" (1. 108)に置き 換えられるという点である.つまり, A presence"による自然と精神の調 停は, thelanguage of the sense"という精神内に属す表象の作用として行 なわれるのである.
表象の作用としての自然と精神の調停は1799年に執筆された ThePrelude の前身ともなる 2巻の膜想詩においても読み取れる.この詩では, Apres‑ ence"に等しい世界霊的存在( thesentiment of being")の認知に先立って魂 が獲得する thevisionary power"と呼ぶ力に注目している.
and at that time
( 1 )
W ould feel whate' er th巴reis of power in sound To breathe an elevated mood, by formo r
image unprofaned; and 1 would stand Beneath some rock, listening to sounds that areThe ghostly language of the anci巴ntearth, Or m呂ketheir dim abode in distant winds Thence did 1 drink the visionary power. (Second Part 11. 353‑360, italics mine) 8
というよ今に thevisionary power"とは form/Orimage"や theghostly language"が媒介となって作用する精神の外的事物の認識に関係する力の呼 称、である.こういった form/Orimage",the ghostly 1anguage"という表 象は客体的世界に属するものではなく,主体の精神的内部に属す主観的な媒 質である.客体はこのような主観的媒質である表象に置き換えられ,主体の 精神内部に新たな像をとり結ぶことにより認識されるのである.即ち,それ は表象を媒介として精神外的世界の空間性をそのまま精神内に取り込むこと に他ならない.詩人は外的世界の空間性の精神内部へのとりこみに伴う精神 の空間化を what1 sawl Appeared like something in myself, a dream,l A prospect in my mind" (1l. 399‑401)と告白している 9
さらに,この精神の空間化の告白に先行する一節,
How shall 1 trace the history, where seek Th巴originof what 1 then have felt? Oft in those moments such a h01y calm Did overspread my sou1 that 1 forget The agency of sight, and what 1 saw
Appeared like something in mys巳lf,a dream, A prospect in my mind
(Second Part 11. 395‑401) は,精神の外界の認識における空間性に対して,時間性の問題を示唆するも のとして注目に価する.精神内の空間性は過去形で表現される thosemo‑
ments"という瞬間的な時間に置き換えられている一方, wh丘t1出enhave felt?"という現在完了形で表現される継続的な時間性を持ち,空間的,瞬間 的な時間を貫く何かがあることを示している.そのような時間性と空間性の 表現の問題は後に thesentiment of being"と敷街される thatspirit of reli‑ gious 10ve"に関係する問題であることを上記の引用文に続く詩行から理解
Lucy詩篇におけるLucy再考 されるだろう.
'Twere long to tell What spring and autumn, what winter snows, And what the summer shade, what day and night, The ev巴ningand the morning, what my dreams And what my waking thoughts, supplied to nurse That spirit of religious love in which
19
1 walked with Natur巴. (Second Part 11. 401‑407) that spirit of religious love"は inwhich II walked with N ature"というよ うに 1"という自己と, Nature"という他者を調停するものの表象である.
その成立には wh旦tmy dreams/ And what my waking thoughts"という空間 的な像と, 402行から404行までに示される時間(この時間は thewinter snows",the summer shade"というように空間的に認識された時間でもあ る)が関与している.精神の空間化によって取り込まれた外界の空間的像は,
精神が主観的に経験する時間によって貫かれる.このような空間的表象と時 間的表象の相互作用において, thatspirit of religious love"が現れ,自己
と他者が調停されるのである.
A presence"や thesentiment of being"という世界霊的存在による自己 と他者,精神と自然との調停は空間的表象と時間的表象の相互作用として行 われた.この表象聞の相互作用による運動性と同質の運動性が, Words‑
worthが精神に認める創造と受容の原理において見つけられる.Words‑
worthは幼子の精神を,
his mind,
Even as an agent of the one great mind, Creates, creator and rec巴iverboth. .ー
20 詩篇における 再考
(Second Part 11. 301‑303) と述べ,認識の主体が creator"として能動的に客体に働きかけ,同時に
receiver"として受動的に客体によって働きかけられるという精神の運動性 を創造と受容の原理として表している. thatspirit of religious love"の分 析において明らかになった空間的,時間的表象の相互作用において,空間性 の表現は,外的世界を表象として精神内部に取り込む精神の受容性の表現で あり,また精神が主観的に経験する時間性の表現は,客体と積極的に関わる 精神の能動性の表現である.空間的表象と時間的表象はそれぞれ受容の原理,
創造の原理に関わり,精神の運動性を写しとっているのである.ここにおい て,空間的表象と時間的表象の相互作用は精神の成り立ちに関わる問題と結 びっくことになる.従って,次にWordsworth自身の自我の認識において,
以上のような表象がいかに関わるかを確認してみたい.
1799年の2巻の詩において,
1 might advert
To numerous accidents in flood or field, Quarry or moon, or mid the winter snows, Distresses and disasters, tragicfacts Of rural history, that impressed my mind With images to which in following years Far other feelings were attached‑with forms That yet exist with independent life, And, like their archetypes, know no decay.
Th色reare in our existance spots of time. .
(First Part 11. 279‑88, italics mine) とWordsworth自身の精神の成長に重大な役割を持つ風景, spotsof timぜ'
Lucy詩篇におけるLucy再 考 21 について言及している.ここに述べられている重要な事実は,経験された出 来事はlmagesやformsという 2つの種類の表象によって精神に蓄積される という事実である.formsは,その対象として liketheir archetypes"とい うように原型,即ち自然の事物を持ち,そのような原型の認識されたものと しての表象である.そして自然の風景を構成する事物と同様,静止的,不可 変的(= knowno decay")であり,空間的表象に属するものである.一方,
lmageは towhich町 ・ /Far other feelings w巳re在ttached‑"と感情の流動 的な変化に関わるものであり,それゆえに出来事の経験から現在までの following years"という時間を内包する時間的表象に属する. spotsof time"はこのようなlmagesやformsという時間的,空間的表象によって構 成される風景なのである.
さらに1805年版 ThePreludeでは,上の引用した部分は削除され,次の一 節が挿入されている.
A virtue, by which pleasure is enhanced, That penetrates, enables us to mount
When high, more high,丘ndlifts us up when fallen This efficacious spirit chiefly lurks
Among those passages of life in which We have had deepest feeling that the mind Is lord and master, and that outward sense Is but the obedient servant of her wi1l.
(Bk. XI 11. 265‑272, italics mine) 1799年と1805年の spotsof time"の構成要素に関する引用においてたをling
=images, outward senseニformsという等式が成立するとすれば,この2つ の引用部分に発見されるのはthemindと, formsやlmagesという表象との 聞の創造と受容の原理である.1799年の引用部分においては, the mindは
22 詩篇における 再考
受動的に imagesや, formsによって, lmpressされる立場にあるが, 1805 年の引用部分においては, feelingやoutwardsenseのlordやmasterとなっ てlmagesやformsを能動的に産み出す関係にある.この創造と受容から the mindは時間的表象と空間的表象の総体として現れてくる lmagesや formsは認識の対象となる客体と themindという主体の媒介物として機能 するものであり,このような表象を媒介としてthemindは自己と他者を調 停したもの,即ち,自我として自らを表すのである.W ordsworthにとって 表象は自我の成り立ち,自我の存在に直接関係するものであり,それらの表 象より成る spotsof time"という時間的空間は創造と受容の原理の上に存 在が認識されるthemindの原寸大の書き写しであり,精神的風景なのであ る.
以上の考察が示すように, W ordsworthにおいて自我は創造と受容の原理 に基く,空間的,時間的表象の総体として認められる.それゆえに,空間的,
時間的表象の相互作用において自然と精神を調停するところに姿を現す A presense"等の世界霊的存在は自我の表象として有効なのである.そして,
またdeManが指摘するWordsworthの時間の問題は,このような自我の成 立,あるいは自我の運動性に関わる問題である事が理解されるであろう.
しかし, 1805年版ThePreludeでは,
. but 1 should need
Colours and words that are unknown to man To paint thεvisionary dreariness.
(Bk. XI 11. 308‑310)
と述べ, spotsof time"に関係する概念や経験の経緯を描写するにとどまっ ている.このような描写の放棄は TinternAbbey"でも 1cannot paintl What then 1 w昌s"(11. 75‑76)という告白によって認められる. A pres‑ ence"と spotsof time",そしてそれらを構成する表象との関係を図示すれ
Lucy詩篇におけるLucy再考 23 ば, [図1]のごとくなるであろう.自伝的叙事詩としての ThePreludeの 枠組みにおいては語り手は限りなく読者に近づく,それゆえに描写の対象と なる経験の背景にある作者自身の経験的自我を切り離すことはできない.こ れが spotsof time"における描写の放棄の原因である. TinternAbb句"に おいても同様に, A presence"という表象はその対象としてnatureという 外界を持つために 1cannot paint"という描写の困難への万能な解答とはな り得なかった. A pres叩 ce"や, spotsof time"が表象化の対象とする自我 の動的な姿はその主体と客体の完全な相対化に中に認められるものであり、
その表象化において主体と客体のどちらかに視点を置くことは両者の相対的 な流動性を妨げるものだからである。
[図1]
[図2]
<A>
客 体 nature
A presence"
<A>客 体
<B>
表 象 the Ianguage of the sense
= forms & images
spots of time"
主 体 <C>
Lucy詩篇
C>
主 体 the mind
このような相対的な主体と客体の流動性そのままに自我を捉えることは,
主体と客体のどちらにも視点の中心を置くことのない純粋な表象の世界にお いて実践される[図Z].そのような世界においてLucy詩篇を捉え,次に
24 Lucy詩篇におけるLucy
Lucy詩篇における自我の表象化の問題を考察してみたい.以下, Lucy詩 篇の五つの詩をそれぞれ,
(1) Strange fits of passion have 1 known"
(n) Three years she grew in sun and shower"
(圃) 1travelled among unknown m巴n"
(N) She dwelt among the untrodden ways"
(V) A slumber did my spirit seal. として用いることにする
*
五つのLucyの詩に共通して登場するのは,語り手と Lucyと自然である.
語り手が語るのは Lucyの死による悲しみであるが,それはLucy自身を 語ることよりむしろ語り手と自然の関係,あるいは自然そのものを語ること によっていると言えるだろう. (1)では,語り手がLucyを訪ねて馬に乗っ て丘を登っている時に見つめている月の描写に終始する. Inone of those sweet dreams 1 slept,lKind nature's gent1est boom! (11. 17‑8)と,月を見 つめてLucyの家を目指している間,語り手は月=自然との一体感を経験す る Lucyの家を目指す語り手にとってその前方に落ちかかっている月は Lucy自身と連動して認められ,それゆえ, Whendown behind the cot‑ tage roof! At once, the bright moon dropped" (11. 25‑6)と視界からの月の 突然の消失は, lfLucy should bedead" (1. 28)という Lucyの死の連想へ と導く.この月z自然と語り手との一体感の媒介となって働くのはLucyな のである. (ll)においても同様に, Lucyは,自然と語り手の一体化の媒 介となる.自然は Lucyを自らの子として育て,語り手は Lucyを my Lucy"と呼ぴ,自然=Lucyであり,語り手=Lucyなのである.そして Lucyを共通項とした,自然=語り手という等式は自然が Lucyを白らの
Lucy詩篇におけるLucy再考 25 子として養おうとする物語を,語り手が語るという構造によって成立する.
全部で7連から成るこの詩のうち,最終スタンザを除く 6連が自然のLucy への言葉であり9 それを語り手は直接話法で語る.語り手が自然の言葉を彼 自身の言葉として語ることにより,話者の錯綜が起こる.つまり,このよう な直義話法は自然の言葉と語り手の言葉の境界を暖味に
L
,自然と語り手が 同一であるかのような錯覚を起こさせ 自然と語り手との一体感を表現する 効果的な手法として用いられている. しかし Lucyについての語りを通し て護得された語り手と自然との一体感はLucyの死にょうて喪失される.最 終スタンザにおいてタ Shぞdi吋、品ndleft to m吃/Thisheath, this calm, and quiet scene" (11. 39‑40)と言われるように, Lucyの死を契機として自然 は Thisheath、thiscalm、丘ndquiet scene"という静止的な空間に転位さ れ,語り手とは異次元に分離したものとして対峠するのである.U
f)の詩の最終スタンザにおいて見られる Lucyの死後の静止的な自然 の風景という空間への還元は,他のLucv詩篇に共通して認められる. (匝) における主題は死んだLucvを 彼女が還元される空間によって酉復しよう とする患いである.語り手がイギリスの風景への愛を述ベヲ Norwill 1 quit 也君shore/A second time" (11. 6‑7)と誓うのも,そのイギリスの風景が,Lucyが糸を紡ぐ炉辺であり Lucyが遊んだ樹陰であり, Lucyが見渡した 聖子原であり Lucyの存在という事実を持つ風景,空間であるからである.
イギ、リスへの回帰は失われたLucyの存在をイギリスの風景という空間に取 り戻そうとすることである.Lucy詩篇においてLucyは人間の女性として よりも,むしろ自然の空間として描かれ,その実体性の欠如は特徴的である.
例えば, (
I I
)では自然は A lovelier flower/On earth was never sown"(11.2‑3)と始まり, Lucyの人柄,容姿として様々な自然の事物をもって 表現している.そこには自然の空間が構成され,提示されるが Lucyとい う人潤の実像は決して認められない.自然による Lucyの描写のみならず,
(百)において語り手はLucyを
26 Lucy詩篇におけるLucy再考
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(IV 11. 5‑8) と,あるいは (V)では, rolled round in earth's diurnal course,/With rocks, and stones, and tre巴s"(11.7‑8)と自然の事物を用いて表現し,結局,
自然の空間の構成に帰結している.語り手の言葉によっても Lucyは,一つ の自然の空間として表現されるのである.つまり Lucy詩篇における Lucyは実体的な存在ではなく,つねに空間的な像=visionなのである.
Lucyは自然界と空間性を共有し,さらに語り手にとっても空間的に認識さ れ,その空間性をもって自然と語り手の一体化の媒介として働くのである.
以上のことから Lucyに Apresence"等との類似性を読み取ることは容易 であろう.自然とは,語り手という主体に対する客体であり, Lucyは A presence"と同様,主体と客体の境に存在して,両者を同時に具有している.
Lucyを媒介として主体と客体は同一化を果たすことができるのである.
Lucyという主体と客体のあわいに成り立つ空間は両者の合一,または分離,
どちらにおいても消滅する必然性のある空間であり,従って, LucyはVl‑
sionとしてしか存在しえず Lucyの死はその空間性の消滅の表現にほかな らない.
Lucyの Apresence"との類似性について指摘したが, A pres叩 ce"の 持つ空間性に対するもう一つの具有性である時間性はLucy詩篇ではLucy
という空間の必然としての死によって与えられる. (ll)の最終スタンザに おいて Lucyの 死 が 語 り 手 に 残 し た Thisheath, this calm, and quiet scene"という空間は Thememory of what h且sbeen/ And never more will be" (1l. 41‑2)と言うように Lucyの死によって現在という時点を境にし て存在,非存在に分かれる空間である. しかし,もともと空間とは可変的な
Lucy詩篇におけるLucy再考 27 時間に対し,不可変的であり,常に存在し,常に現在である.従って,
Lucyの残した空間は非存在であり,かつ存在しているという矛盾を包括し,
過去,現在,未来という時間性を一極に集中させ,同時的に取り込んだ超時 間的空間でなければならない.また, Lucy自身もそのような超時間的なも のとして描かれている.例えば, (町)の詩,
She dwelt among the untrodden ways Beside the springs of Dove, A Maid whom there were none to praise
And very few to love:
ρ v VJ
e E
e L u n i
臼m
s o y台
c u ヨnα
い に
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a恒
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dmE l
0 ・1V A
Fair as a star, whom only one Is shining in the sky.
She lived unknown, and few could know When Lucy ceased to be;
But she is in her grave, and oh, The difference to me'
第一スタンザは過去形でLucyの非存在をうながし,次の第二スタンザは Lucyを空間的に表現し, onlyonelIs shining"と現在形を用いてLucyの 不変的な存在を感じさせる.さらに第三スタンザでは最初の2行が過去形で 被女の死を語っているが 3行目では同じ死を語るのに Butshe is in her grave"と存在のBe動詞を現在形で用いている. sheis in her grave"もま た前行の Lucyceased to be"もどちらも Lucyの死を意味する一行である が,この同じ事実を述べる最初の2行から 3行目への移行に挿入されている
28 詩篇における
But"は何に対する包ut"なのだろうか.このような But"の暖昧性は3行 日の sheis in her grave"の現在形のBe動詞 1S'の機能上の意味と内容上 の意味との隔たりから来る暖味性に集約される.内容上のLucyの死という,
過去の存在と現在の非存在に対して,機能上,この存在を表すBe動詞は,
Lucyの存在の不変性をも示している.従って,この is"は,過去,現在,
未来という時間的広がりを有し,その時間的暖味性ゆえに超時間的な存在を 示しうる 1S である.このような lS"は Lucyという存在の性質を象徴的 に示している.また (V) においても,
A slumber did my spirit seal; 1 h品dno human fεars
She s町 meda thing that could not feel The touch of earthlv ve旦rs
N 0 motion has she nov,人noforcE日
She n巳ith巳rhears, nor s巴es; Roll巴dround in臼 rth、sdiurnal course,
With rockesう丘ndstones,呂ndtrees.
と第一スタンザの過去形と第二スタンザの最初の2行の現在形に対する最後 の2行の時制が非常に暖味である.最後の2行を前の2行の分詞構文と考え,
hぉあるいはhadが.省略されると考えればLucyは現在,岩や石と共に εarth's diurnal course"をめぐっているのか,それは彼女の死までのことで 今は違うのか,という疑問が生じる.しかしどちらか確定的な解答を求め るのは無益で、あり,むしろ,このような暖味な時制を用いることでLucyの 存在に対する不確かさが生じ Lucyの過去であり,かつ現在であるという 複雑な時間性が効果的に表現されるのである。10
主体(=語り手)と客体(=自然)の媒介となり,時間性と空間性を同時
Lucy詩篇におけるLucy再考 29 にあわせ持つ表象である Lucyを, Apresence"や spotsof time"と同様,
自我の表象として考えることができるであろう. しかし, Lucyの死という 出来事によって惹起してくるLucyの超時間性はより多くを物語っている.
即ち,それは精神,自我の永遠性である Lucyの死に対し,語り手が She seemed a thing that could not feel! The touch of earthly years" (V 11. 3‑4)と語るように,人間の時間的有限性は強く意識されている.しかし,
この時間的有限性の認識による危機感は Rol1edround in巴 紅 白'sdiurnal course,lWith rocks, and stones, and trees" (11. 7‑8)と,死んだLucyを空 間に転化し,時間的有限性を中和することによって緩和される.また, (1) においても,死んだ、Lucyを彼女が生きたイギリスの自然の中に回復しよう とする,失われた時間を空間によって取り戻そうという考えは特に顕著であ る.いずれにせよ,主体の時間的有限性は客体の空間的無限性によって中和 されることにより克服されるのであり Lucyはそのような中和作用の媒介 として働く時間的空間的表象である Lucyの超時間性はこの中和作用ぷ起 因し, Lucyが表象する自我の永遠性の表現である.
このような自我の永遠性の顕示は Lucy詩篇の位置するfictionという 純粋な表象の世界において可能である.死という人間の時間的有限性は 寸InternAbbey"やThePreludeのような自伝的要素を含む世界ではなく fictionの世界においてのみ完全に克服され得るからである Lucy詩篇に おいて語り手は作者Wordsworthと等式で結ぼれる存在ではなく,また,自 然は経験的世界から切り離された Lucy詩篇の世界にのみ存在する完全に 表象化されたものなのである.主体と客体の完全な表象化によって両者は Lucyという時間的空間的表象による調停を受け,相対化が可能となり,創 造と受容の原理に基づく自我の動的な姿がありのままに写しとられる.そし て,その創造と受容の原理によって主体の時間性と客体の空間性は完全に中 和され,精神はその時間的有限性を克服するのである.
30
*
ロマン主義に先立つ古典主義はPicturesqueに代表される空間的美学の時 代である.W ordsworthは創造と受容による動的な自我の姿を表現するのに 新たに時間性の表現を必要としたのである 11時間性の表現は創造の原理に 基づき,積極的に外界に働きかける自我の主体性の表現である.また,さら にLucyの超時間性に示される,現在のうちに過去,未来を含む複雑な時間 性は,自我の永遠性と関わる表現である.このような時間性の表現が実践さ れたものとしてLucy詩 篇 はWordsworthの作品において,重要な意味を 持つのである.そして,自我の表象としてのLucyの考察は Lucyの正体 について一つの確定した解答を求める事自体が誤りであるという結論に導く であろう.この作品を完全な五ctlOnとして読むことによって,そこに私達 は動的な自我の姿,また自我の永遠性を見ることができるのである.
注
1 Alexander B. Grosart, The Prose Works of William Wordsworth (New York: AMS Press, Inc., 1967) Vol. U, p. 96.
2 Stephen Gill, William Wordsworth, A Life (Oxford: Clarendon Press, 1989), p 201:
Wordsworth, Dorothy and John Wordsworth had met the actural leech gathere two years earlier, and on 3 October 1800 Dorothy had noted details a‑ bout his appear昌nceand his life‑story in her journa. lNow Wordsworth returned to the encounter, drew on his memory and on the winter昌ccount,and trans formed the informa!Ions by his own imagination, compelling it to serve his needs."
3 Ernest de Selincourt (The Poetical Works of William Wordsworth, Vo. lII, p. 472) は, Aslumber did my spirit seal"はDorothyの死を想像して書かれたものであ ろうという Coleridgeの見解に従い LucyをDorothyであろうと述べている.ま た, F. W. Bateson (Words祝!orth‑AR日nterpretat;叩n,1954, p. 152)はLucyを Dorothyと考える事により, Lucyの夫折,そして恋愛詩であるにもかかわらず性 感情が欠加しているという問題点を解決している.即ち, Dorothyを詩の中で殺す
Lucy詩篇におけるLucy再考 31 ことにより,近親相姦の危機を回避しようとしたのだと述べる.W ordsworthと Annette Vallonの関係の調査を行った E.Legouis (William Worthworth and A1I‑ nette Vallon, 1922, p. 82)は, LucyをAnnetteの対極に位置し, Annetteとの訣別 をLucy詩篇において詠っているのだと考える.そしてLucyをWordsworthが ホ } クスヘッド在学時代の終り頃,またはケンブリッジ在学時代の休暇中に故郷で見そ めた少女であると述べているが,憶測の域をでるものはない.また, H. M.Margo勾 liouth (Worthworth and Coleriゐe,1953, p. 52‑3)は, Mary Hutchinsonの妹,
Margaretを挙げている.彼女は23歳で天折し,彼女の死の二年半後にLucy詩篇が 執筆されたことから, Marg品retをLucy詩篇に描かれた条件を満たす人物であると している 以上のように Lucy詩篇におけるLucyの考察は, W ordsworth自身の 経験の範囲においてLucy詩篇執筆の経緯を探る事によって行われてきた.しかし,
一方でLucyをWordsworthの詩一般に現れる, W ordsworth的アーキタイプの一 変種であるとし,詩作品の範時においてのみLucy詩篇の考察を行う高橋康也氏 (fエクスタシーの系譜J,1966, p. 83‑104)の試みは, Lucy詩篇研究の最近の動 向を示すものとして非常に示唆的である.
4 Michel F aucault, Le Mots et Les Choes
r
言葉と物Jp. 328 田村倣訳,新潮社,1974 :以下,ページ数のみ本文中に記載する.
5 Paul de Man,Time and History in Wordsworth," p. 16, Diacritics, 1987 Winter; 17(4) :以下,ページ数のみを本文中に記載する.
6 精神と自然,自己と他者という対立するものを,意識の同一性のうちに取り入れ,
両者を調停するものとしての自我の定義は,主にFichteに基づいた(シュヴ、ェー グラー『西洋哲学史j岩 波 文 庫 奈 川 敬 三 村 松 一 人 訳 下 p.184‑202). Fichteと同様に, Coleridgeも自己の存在と他の存在との認識の隔たりを満たす絶 対的真理の存在を信じ,それを主体と客体を合ーしたところの主体,絶対=自我 (spirit, self, and self‑consciousness"と 呼 ば れ る ) に 求 め て い る (Biographia Litera円丸 ed.J. Shawcross, London: Oxford UnIv. Press, 1907. Vo l.1, p. 180‑
186.)
7 Ernest de Selincourt品ndHelen Darbishire (eds.), The Poetiιal Works 0/ William Wordsworth (Oxford: Clarendon Press, 1940‑9), Vol. II, p. 260. Wordsworthの詩 の引用はこの版によるものとし,以下,行数のみを本文中に記載する.
8 Johnathan Wordsworth, M. H. Abrams, and Stephan Gill (eds.), The Prelude 1799, 1805, 1850 (New York, London: W. W. Norton & Company, c1979), p. 22 The Preludeの引用はこの版によるものとする.
9 cf神尾美津雄『間,飛語目,そして精神の奈落ーイギリス古典主義からロマン主 義へ j (英宝社, 1989, p. 231‑320)
10 de Manは Therewas a boy", Essays 咋onEpitaph, The River Duddonにおいて W巴canonly seize upon this present in th̲e perspective of its past and its future."
(12)と表現される,現在のうちに過去と未来を内包した複雑な時間性を分析してい る.
11 cf. Paul de Man,The Rhetoric of Temporality,"保坂嘉恵美訳,