論 説
沖縄返還交渉と佐藤外交
-東アジア冷戦の変容をめぐって-
野 添 文 彬
はじめに
1969年 11月、佐 藤 栄 作 首 相 と ニ ク ソ ン (R i c h a r d N i x o n ) 大 統 領との 間 で 1972年 の 沖 縄 の 日 本 へ の 施 政 権 返 還 が 合 意 さ れ た 。 沖 縄 は 、第二 次 世 界 大 戦 末 期 の 悲 惨 な 戦 闘 を 経 て 、2 0年 以 上 に わ た っ て 米 国 に 占 領 ・統治さ れ た。 そ れ ゆ え 沖 縄 返 還 は 、 何 よ り も 日 米 間 の 「戦 後 処 理 」 問題 で あ っ た 。 同時に、 沖 縄 の 基 地 は 米 国 の 軍 事 戦 略 上 の 重 要 拠 点 で あ っ た こ と か ら 、 沖 縄 返 還 は 安 全 保 障 問 題 と し て の 意 味 も 持 っ て い た 。 こうして沖縄返還交渉 では、 返還後の沖縄米軍 基 地の あ り方が 最 大の争 点 となる 。
沖 縄 返 還 を め ぐ る 日 米 関 係 につ い て は 、これまで 膨 大な研 究 が提示 さ れ て き た 1。 こ れ ら の 研 究 に よ っ て 、 日 米 そ れ ぞ れ の 政 策 決 定 過 程 及 び 交 渉 過 程 が か な り の 程 度 明 ら か に な っ てい る 。また、 返 還 後 の 沖 縄 へ の 核 兵 器 の 再 持 ち 込 み や 繊 維 問 題 、 財 政 取 決 め な ど 、 沖 縄 返 還 に 伴 う 「密約」 につ い て も解 明 が 進 ん でい る
2
。さ ら に 沖縄返還 は 、 日米 二国 間関 係の みな らず 、 東 ア ジ ア 、 当時の言い 方 で は 「極 東 」 と い う 地 域 的 文 脈 に お い て も 重 要 な 出 来 事 だ っ た 。 それは
1 河 野 康 子 『沖 縄 返 還 を め ぐ る 政 治 と 外 交 - 日 米 関 係 史 の 文 脈 』 東 京 大 学 出 版 会 、 1 9 9 4 年 ;宮 里 政 玄 『日 米 関 係 と 沖 縄 - 1945-1972年 』 岩 波 書 店 、 2 0 0 0 年 ; 我 部 政 明 『沖 縄 返 還 と は 何 だ っ た の か 』N H K ブ ッ ク ス 、 2 0 0 0 年 ;同 『戦 後 日 米 関 係 と 安 全 保 障 』 吉 川 弘 文 館 、 2 0 0 7 年 ;中島琢 磨 『高 度 成 長 と 沖 縄 返 還 現 代 日 本 政 治 史三』吉 川 弘 文 館 、 2 0 1 2 年 ;同 『沖 縄 返 還 と 日 米 安 保 体 制 』 有 斐 閣 、 2 0 1 2 年 。
2 上 記 の 研 究 に 加 え 、 信 夫 隆 司 『日 米 安 保 条 約 と 事 前 協 議 制 度 』 弘 文 堂 、 2 0 1 4 年 ;波 多 野 澄 雄
「『密 約 』 と は 何 で あ っ た か 」 波 多 野 澄 雄 編 『冷 戦 変 容 期 の 日 本 外 交 - 「ひ よ わ な 大 国 」 の 危 機 と模 索 』 ミ ネ ル ヴ ァ 書 房 、 2 0 1 3 年 ;信 夫 隆 司 『若 泉 敬 と 日 米 密 約 - 沖 縄 返 還 と 繊 維 交 渉 を め ぐ る 密 使 外 交 』 日 本 評 論 社 、 2 0 1 2 年 ;波 多 野 澄 雄 『歴 史 と し て の 日 米 安 保 条 約 - 機 密 外 交 記 録 が 明 か す 「密 約 」 の 虚 実 』 岩 波 書 店 、 20 1 0 年 。 ま た、 ド ル 防 衛 協 力 と 沖 縄 返 還 と の 連 関 に つ い て は 、高 橋 和 宏 「ド ル 防 衛 と 沖 縄 返 還 を め ぐ る 日 米 関 係 1967-1969」 『防 衛 大 学 校 紀 要 』第 109号 、 2 0 1 4 年、1-32頁など。
第 一 に 、 沖 縄 米 軍 基 地 が 、 韓 国 防 衛 や 台 湾 防 衛 に と っ て 重 要 な 役 割 を 果 た し ていた からである。 そ れ ゆ え 、 韓 国 や 台 湾 は 、 安 全 保 障 上 、 沖縄返還に 懸 念 を 示 し 、 日 米 両 政 府 に 働 き か け を 行 っ た の だ っ た 3。
加 え て 第 二 に 、 沖 縄 返 還 に 向 け て 交 渉 が 行 わ れ 、 そ れ が 実 現 し た の は 、 東 ア ジ ア に お け る 冷 戦 の 変 容 期 だ っ た か ら で あ る 。 東 ア ジ ア で は 、1960年 代 半 ば 以 降 、 ベ ト ナ ム 戦 争 や 中 国 の 核 実 験 な ど 、 緊 張 ・対立が激化 し て い たが、1970年 代 前 半 に は 米 中 接 近 、 ベ ト ナ ム 戦 争 終 結 な ど 緊 張 緩 和 へ と 向 か っ た 。 特 に 東 ア ジ ア に お け る 冷 戦 の 主 軸 は 、 米 中 対 立 で あ っ た た め 、 米 中接近は、 東 ア ジ ア の 冷 戦 秩 序 に 大 き な 変 容 を も た ら し た 。 また、 これと 関連し て 、ベ ト ナ ム 戦 争 に 疲 弊 し た 米 国 は 、 「ニ ク ソ ン ・ドクトリン」を打 ち出 す な ど 、 対 外 関 与 を 抑 制 し て 負 担 を 軽 減 す る こ と を 目 指 し た 。
そ も そ も 、 1953年 12月 に 当 時 の 米 国 務 長 官 ダ レ ス (J o h n F. D u l l e s ) が
「極 東 に 脅 威 と 緊 張 が あ る 限 り 」 米 国 は 沖 縄 を 保 有 し 続 け る と い う 声 明 を 発 表 し た よ う に 、 沖 縄 の 国 際 的 地 位 は 、 国 際 情 勢 と 密 接 に 連 関 し て い た 。 そ れ ゆ え 、渡 邊 昭 夫 が 指 摘 す る よ う に 、「ア ジ ア が 緩 慢 にでは あ るが冷 戦 か
ら脱 却 し つ つ あ る と い う と い う 大 状 況 の 変 化 が 、 沖 縄 返 還 (なら び にそ れ に と も な う 日 米 関 係 の 再 調 整 ) を 可 能 に し た 根 本 の 条 件 で あ っ た 」4。
こ のよう な冷戦 変 容 期 に お い て 、 米 国 政 府 が 東 ア ジ ア 戦 略 の 見 直 し と 沖 縄 返 還 を 連 関 さ せ て い た こ と が 、近 年 の 研 究 で 指 摘 さ れ て い る 5。 しかし、
こ の 時 期 の 日 本 政 府 の 国 際 情 勢 認 識 や 6、 安 全 保 障 政 策 に つ い て は 、 いく
3 崔 慶 原 『冷 戦 期 日 韓 安 全 保 障 関 係 の 形 成 』 慶 應 義 塾 大 学 出 版 会 、 2 0 1 4 年 、 第 2 章 ;波 多 野 澄 雄 「沖 縄 返 還 と 韓 国 ・台 湾 」 『外 交 史 料 館 報 』 第 2 7 号 、 2 0 1 3 年 ;小 林 聡 明 「沖 縄 返 還 を め ぐ る 韓 国 外 交 の 展 開 と 北 朝 鮮 の 反 応 」 竹 内 俊 隆 編 『日 米 同 盟 論 - 歴 史 ・機 能 ・周 辺 諸 国 の 視 点 』 ミ ネ ル ヴ ァ 書 房 、 2 0 1 0 年 ;河 野 康 子 「沖 縄 返 還 と 地 域 的 役 割 分 担 論 - 危 機 認 識 の 位 相 を め ぐ っ て (一) (二)」 『法 学 志 林 』 第 106巻 、 2 0 0 8 -2009年 ;劉 仙 姫 『朴 正 熙 の 対 日 ・対 米 外 交 - 冷 戦 変 容 期 韓 国 の 政 策 、 1 9 68〜 197 3 』 ミ ネ ル ヴ ァ 書 房 、 2 0 1 2 年 、 第 2 章 ;ヴ ィ ク タ ー ・チ ャ (倉 田 秀 也 訳 ) 『米 韓 日 - 反 目 を 超 え た 連 携 』 有 斐 閣 、 20 0 3 年 。 朝 鮮 半 島 情 勢 と 沖 縄 情 勢 の 相 関 関 係 が 沖 縄 返 還 交 渉 に 与 え た 影 響 に つ い て は 、成 田 千 尋 「沖 縄 返 還 交 渉 と 朝 鮮 半 島 情 勢 -B 5 2 沖 縄 配 備 に 着 目 し て 」 『史 林 』 第 9 7 巻 第 3 号 、 2 0 1 4 年。
4 渡 邊 昭 夫 『大 国 日 本 の 揺 ら ぎ 日 本 の 近 代⑧』 中 公 文 庫 、 2 0 1 4 年 、 3 8 頁 。
5 野 添 文 彬 「米 国 の 東 ア ジ ア 戦 略 と 沖 縄 返 還 交 渉 - 対 中 ・対 韓 政 策 と の 連 関 を 中 心 に 」 『国 際 政 治 』 第 1 72 巻 、 2 0 1 3 年 ;吉 次 公 介 「ア ジ ア 冷 戦 史 の な か の 沖 縄 返 還 - 『ニ ク ソ ン ・ドクトリ ン』 と 沖 縄 返 還 の 連 関 」 粟 屋 憲 太 郎 編 『近 現 代 日 本 の 戦 争 と 平 和 』 現 代 史 料 出 版 、 2 0 1 1 年 。 6 こ の 時 期 の 佐 藤 政 権 の 国 際 情 勢 、 特 に 冷 戦 の 変 容 に 対 す る 認 識 に つ い て は 、神 田 豊 隆 『冷 戦 変 容 と 日 本 の 対 中 外 交 - 二 つ の 秩 序 観 』 岩 波 書 店 、 2 0 1 2 年 、 第 2-3章 な ど 。
つ か 分 析 が な さ れ て い る が 7、 沖 縄 返 還 と の か か わ り に つ い て 正 面 か ら 論 じ た も の は な い 8。
そ れ ゆ え 本 稿 は 、 1969年 の 沖 縄 返 還 合 意 に 向 け て の 日 本 外 交 の 展 開 を 、 東 ア ジ ア に お け る 冷 戦 変 容 期 の 国 際 情 勢 が 日 本 政 府 内 で ど の よ う に 認 識 さ れ て い た の か と い う 観 点 か ら 分 析 す る こ と を 目 的 と す る 。 本 稿 で は 、 当時 の 国 際 情 勢 に つ い て 、 ベ ト ナ ム 戦 争 後 の 米 国 の 東 ア ジ ア 関 与 縮 小 を 懸 念 し て い た 外 務 省 と 、 緊 張 緩 和 の 進 展 を 期 待 し て い た 佐 藤 首 相 の 側 近 及 び ブ レーン、 及 び そ れ ら の 中 間 的 な 見 方 を と っ て い た 佐 藤 首 相 の 認 識 と 行 動 に 分 析 の 光 を あ て る 。 そ の 上 で 、 佐 藤 首 相 が 、 沖 縄 米 軍 基 地 の 軍 事 役 割 を 低 下 さ せ る 一 方 で 、 日 本 を 含 む 東 ア ジ ア の 安 全 保 障 を 損 な う こ と な く 「核抜 き ・本 土 並 み 」 で の 沖 縄 返 還 を 実 現 し よ う と し た こ と を 明 ら か に す る 。
本 稿 で は 、 まず、 1967年 11 月 の 佐 藤 訪 米 ま で に 、沖 縄 返 還 問 題 が 日 米 関 係 に お い て 争 点 化 す る 過 程 を 論 じ る 。 次 に 1968年 の 国 際 情 勢 や 日 本 の 国 内情勢、沖 縄 情 勢 が 、沖 縄 返 還 問 題 に 与 え た 影 響 を 分 析 す る 。 さ ら に 1969 年 前 半 、 日 本政府 内 で 沖 縄 返 還 交 渉 方 針 が 形 成 さ れ る 過 程 を 明 ら か に し た 上 で 、最 後 に 沖 縄 返 還 交 渉 の 展 開 を 検 討 す る 。 史 料 と し て は 、2009年 以 降 に 大 幅 に 公 開 さ れ た 外 務 省 文 書 、 米 国 政 府 公 文 書 な ど を 用 い た 。
1 . 1967年 佐 藤 訪 米 ま で の 沖 縄 返 還 問 題
佐 藤 栄 作 は 、 政 治 的 師 匠 で あ る 吉 田 茂 の 影 響 や 様 々 な 政 治 的 経 験 の 中 で、 自 身 の ナ シ ョ ナ リ ズ ム を 背 景 と し て 、 首 相 の 座 に 就 く 以 前 か ら 沖 縄 返 還 問 題 に 強 い 関 心 を 持 っ て い た 9。 とはいえ、 佐 藤 が 沖 縄 返 還 に 取 り 組 む 意 思 を 表 明 す る き っ か け に な っ た の は 、1964年 7 月 の 自 民党総 裁 選にむ け て の準 備 作 業 に お い て だ っ た 。
1964年 初 頭 以 降 、佐 藤 の 側 近 で あ る 愛 知 揆 一 を 筆 頭 に 、産経新聞記者 の
7 佐 藤 政 権 の 安 全 保 障 政 策 に つ い て は 、 中 島 信 吾 「佐 藤 政 権 期 に お け る 安 全 保 障 政 策 の 展 開 」 波 多 野 編 前 掲 書 ;吉 田 真 吾 『日 米 同 盟 の 制 度 化 - 発 展 と 進 化 の 歴 史 過 程 』 名 古 屋 大 学 出 版 会 、 2012年 、 第 3 章 な ど 。
8 渡 邊 昭 夫 が 通 史 的 研 究 の 中 で 言 及 し て い る が 、沖 縄 返 還 の 交 渉 過 程 と 絡 め て 実 証 的 に 論 じ て い る 訳 で は な い 。 渡 邊 前 掲 書 、 第 1 章 。
9 中 島 『沖 縄 返 還 と 日 米 安 保 体 制 』 2 5 — 2 6 頁 。
楠 田 實 ら 新 聞 記 者 や 、 官 僚 た ち に よ っ て 構 成 さ れ た 、 佐 藤 の 私 的 な 政 策 ブ レ ー ン で あ る 「佐 藤 オ ペ レ ー シ ョ ン (通 称 :S オペ)」 は、 7 月の総裁選に 向 け て 政 権 構 想 の 作 成 に 取 り 組 ん だ 。 この中では、 高 度 成 長 と と も に 日 本 社 会 に 生 じ て い る 「ひず み」を 解 消 す る と い う 問 題 意 識 か ら 、「社 会 開 発 」と い っ た 政 策 が 提 示 さ れ た 。 しかし、「何 か が 足 り な い 、戦 う 姿 勢 が 感 じ ら れ な い の で は な い か 」 という意見 が出 た結 果、 沖 縄 返 還 に 取 り 組 む こ と が 提 案 さ れ た の で あ る 10。
S オ ペ が 沖 縄 返 還 問 題 に 取 り 組 も う と す る 上 で 注 目 し た の は 、1960年 代 に お け る 経 済 的 相 互 依 存 の 進 展 や 米 ソ 間 の 緊 張 緩 和 と い っ た 、 冷戦 の 変 容 で あ っ た 11。 S オ ペ は 、 通 信 ・交 通 機 関 の 発 達 に よ る 人 や 情 報 の 交 流 の 増 大 、 核 兵 器 の 手 詰 ま り 状 況 、 東 西 両 陣 営 内 の 分 裂 な ど に よ っ て 「世界はも は や 戦 争 の な い 方 向 に 動 い て い る 」 と見たの であ る 。 こ れ を 前 提 と し て S オペ は、「沖 縄 問 題 は 米 国 の 良 心 に と っ て 痛 い 問 題 で あ り 、米戦略としても 沖 縄 保 持 の 重 要 性 は 薄 ら い で い る 」と理解した。 そ れ ゆ え 、「ア メリカの軍 事 戦 略 体 制 の 見 直 し は い ず れ あ る は ず 」 という判断から、 沖 縄 返 還を米 国 側 に 提 起 す べ き だ と 論 じ た の で あ る 。 具 体 的 に は 、 沖 縄 の 施 政 権 返 還 を 米 国 政 府 に 正 式 に 要 求 し た 上 で 、「沖 縄 に か ぎ っ た 日 米 琉 軍 事 基 地 協 定 」を暫 定 的 に 結 び 、 沖 縄 の 施 政 権 返 還 を 実 現 す る こ と が 提 案 さ れ た 。
佐 藤 は 5 月1 2 日、 S オ ペ の メ ン バ ー と 協 議 し 、 沖 縄 返 還 の 部 分 に つ い て、 「沖 縄 の 部 分 は 、非 常 に い い 」 と、即 座 に こ の 提 案 を 受 け 入 れ る 姿 勢 を 示 す 。 そ の 上 で 佐 藤 は 、 近 年 の 緊 張 緩 和 の 中 で 「現 状 凍 結 の 思 想 が 平 和 ム ー ド の 中 に み ら れ る 」が、 「現 状 凍 結 で の 平 和 は 困 る 」 と述べ、沖 縄や北 方 領 土 な ど の 日 本 の 領 土 問 題 が 、「現 状 凍 結 」されて解決が困難になること へ の 警 戒 を 示 し た の で あ る 。 このように佐藤は、 緊 張 緩 和 と そ れ に よ る 米 ソ 共 同支 配 体 制 の 確 立 が 、 沖 縄 返 還 問 題 の 「現 状 凍 結 」 を招くかもしれな
1 0 楠 田 實 「『啐 啄 同 機 』 の 政 治 」 楠 田 實 (五 百 旗 頭 真 ・和 田 純 監 修 ) 『楠 田 實 日 記 - 佐 藤 栄 作 総 理 秘 書 官 の 2000日 』 中 央 公 論 新 社 、 20 0 1 年 、 8 5 9-8 6 6 頁 。
1 1 以 下 、 特 に 注 記 が な い 限 り 、 千 田 恒 『佐 藤 内 閣 回 想 』 中 公 新 書 、 1987年 、 2 5 -3 1 頁 、 1 2 1頁 。 ま た 1 9 6 0 年 代 の 冷 戦 の 変 容 に つ い て は 、 菅 英 輝 「冷 戦 の 終 焉 と 6 0 年 代 性 - 国 際 政 治 史 の 文 脈 に お い て 」 『国 際 政 治 』 第 1 26号 、 20 0 1 年 。
いと懸念 し、 こ の よ う な 観 点か ら 沖縄返 還 問題へ の 取り組 み に意欲 的 だっ た。
もっとも、 外 交 を 国 内 政 争 の 具 に し な い と い う 方 針 の 下 、 公 表 さ れ た 政 権 公 約 文 書 「明 日 へ の た た か い 」 には、 沖 縄 の 部 分 は 盛 り 込 ま れ ず 、 自民 党 総 裁 選 の 出 馬 表 明 の 記 者 会 見 で 触 れ ら れ る に と ど ま っ た 。 そ の 後 、 7 月 の 自 民 党 総 裁 選 挙 で は 現 職 の 池 田 勇 人 に 敗 れ た 佐 藤 で あ っ た が 、 池田が病 の た め 辞 任 す る と 、 11月、 佐 藤 が 自 民 党 総 裁 及 び 首 相 の 座 に 就 く こ と に な る。
ところが、 佐 藤 が 首 相 に 就 任 し た 時 期 、 東 ア ジ ア で は 対 立 が 激 化 し て い た。 す な わ ち 、1964年 10 月 に は 中 国 が 核 実 験 を 行 い 、1965年 2 月からは米 軍 が 北 爆 を 開 始 、 ベ ト ナ ム 戦 争 に 米 国 が 本 格 的 に 軍 事 介 入 し て い く 。 この よ う 国 際 情 勢 に お い て 、 米 国 に と っ て 沖 縄 基 地 の 軍 事 戦 略 上 の 重 要 性 は 高 まった。 沖 縄 米 軍 基 地 は 、ベ ト ナ ム 戦 争 で は 訓 練 ・補 給 ・通 信 の 他 、作 戦 ・ 発 進 基 地 と し て の 役 割 を 果 し 、 中 国 に対 して も、 核 報 復 や 偵 察 の 役 割 を 担
うとともに、 緊 急 時 の 戦 闘 即 応 部 隊 を 配 備 し て い た の で あ る 12。
こうした中、 佐 藤 政 権 に よ る 沖 縄 返 還 問 題 へ の 取 り 組 み は 困 難 な も の と な っ た 。 佐 藤 自 身 、 中 国 の 核 開 発 に 対 し 強 い 脅 威 認 識 を 持 っ て お り 13、 ベ ト ナム戦争 も東南 ア ジ ア と 日 本 の 安 全 保 障 の 一 体 性 と い う 観 点 か ら 捉 え て い た 14。 首 相 就 任 直 後 の 1964年 12月 14日 に は 、 ラ イ シ ャ ワ ー (E d w i n O.
R e i s c h a u e r ) 大 使 と ワ ト ソ ン (A l b e r t W a t s o n Ⅱ) 高 等 弁 務 官 と の 会 談 で、 佐 藤 は 「共 産 中 国 が 核 兵 器 を 爆 破 さ せ た の で 、 軍 事 安 全 保 障 上 の 目 的 で 琉 球 を 利 用 す る こ と が 重 要 」だ と 強 調 し た 。 佐 藤 の 考 え で は 、「日本と世 界 に お け る こ の 地 域 の 安 全 の た め に 沖 縄 を 米 国 が 使 用 し な け れ ば な ら 」 ず 、 沖 縄 返 還 問 題 の 解 決 は あ く ま で 「琉 球 諸 島 が こ の 地 域 の 安 全 を 維 持 す
1 2 朝 日 新 聞 安 全 保 障 問 題 調 査 会 『朝 日 市 民 教 室 「日 本 の 安 全 保 障 」 第 6 巻 ア メ リ カ 戦 略 下 の 沖 縄 』朝 日 新 聞 社 、 19 6 7年 、 11-28頁 ;琉 球 新 報 社 編 『基 地 沖 縄 - 返 還 の た め の レ ポ ー ト 』 サ イ マ ル 出 版 会 、 196 8 年 ;久 住 忠 男 「極 東 の 防 衛 と 沖 縄 施 政 権 返 還 の 可 能 性 について」1 9 6 5 年 4 月 1 2 日、 沖 縄 問 題 解 決 促 進 協 議 会 研 究 資 料 、 床 次 徳 二 関 係 文 書 、 東 京 大 学 法 学 部 近 代 日 本 法 政 史 料 セ ン タ ー 。
13 黒 崎 輝 『核 兵 器 と 日 米 関 係 』 有 志 舎 、 200 6年 、 第 1 章 ;中 島 信 吾 『戦 後 日 本 の 防 衛 政 策 』 慶 応 義 塾 大 学 出 版 会 、 2 0 0 6 年 、 第 9 章 。
14 菅英 輝 「ベ ト ナ ム 戦 争 と 日 米 安 保 体 制 」 『国 際 政 治 』 第 115号 、 19 97 年 、 8 0 頁 。
る こ と に 『貢 献 す る 』」 こと が前 提だ った ので ある 15。
そ れ ゆ え 佐 藤 は 、 緊 迫 し た 国 際 情 勢 の 中 で 、 沖 縄 米 軍 基 地 の 重 要 性 を 十 分 に 認 め た 上 で 、慎 重 に 沖 縄 返 還 問 題 に 取 り 組 ん で い く 。 1965年 1 月、訪 米 し た 佐 藤 は 、 ジ ョ ン ソ ン (L y n d o n B . J o h n s o n )大 統 領 に 対 し 、 日本国 民 の 沖 縄 返 還 へ の 願 望 を 伝 え る 一 方 で 、 「沖 縄 に お け る 米 軍 基 地 の 保 持 が 極 東 の 安 全 の た め 重 要 で あ る こ と は 十 分 理 解 し て い る 」 と強調 し た16。 そ の後、 佐 籐 は 、 戦 後 、 首 相 と し て 初 め て 沖 縄 に 訪 問 し た 他 、 沖 縄 問 題 閣 僚 協 議 会 を 設 置 し 、 義 務 教 育 費 の 導 入 な ど 沖 縄 へ の 援 助 を 増 大 さ せ て い く 。
この間、 ベ ト ナ ム 戦 争 に 沖 縄 の 米 軍 基 地 が 使 用 さ れ た と い う 反 感 も あ っ て、 日 本 国 内 で は 沖 縄 返 還 要 求 が 強 ま っ て い っ た 。
一 方 、 外 務 省 の 事 務 当 局 で は 、 当初、 厳 し い 国 際 情 勢 ゆ え に 、 沖縄返還 の 見 通 し な ど な い と 考 え ら れ て い た 17。 しか し外 務省の中でも中堅官僚は、
沖 縄 返 還 問 題 の 解 決 に 意 欲 を 示 し 、 水 面 下 で の 取 り 組 み を 進 め て い た 18。
そ し て 1966年 末 ご ろ に は 、外 務 省 全 体 で よ り 本 格 的 な 取 り 組 み が 見 ら れ る ようにな る。 外 務 省 内 で は 、 1970年 に 日 米 安 保 条 約 の 期 限 を 迎 え る 中 で 、 沖 縄 返 還 要 求 が 日 本 国 内 で 盛 り 上 が り 、 日米 関係 に悪影響を及ぼすことへ の 懸 念 が あ っ た 。 そ れ ゆ え 外 務 省 内 で は 、 米 軍 が 自 由 に 使 用 で き る 沖 縄 基 地 へ の 安 全 保 障 上 の 要 請 と 、 日 本 国 内 の 返 還 要 求を調和 す る解決 策 が必要 だ と 考 え ら れ た の で あ る 19。
こ う し て 1 9 6 7 年 2 月 9 日 、外 務 省 事 務 当 局 の 幹 部 た ち は 、佐 藤 首 相 に 対 し 沖 縄 米 軍 基 地 の 扱 い を 含 め 沖 縄 返 還 を 可 能 に す る 方 法 に つ い て 米 国 政 府
15 A-841 f r o m T o k y o to State, D e c 18,1964, National Security Archive (ed), Ja p a n a n d the United States: aipiomauc, security, a n d e c o n o m i c relations 1960-1976, Bell & H o w e l l Information a n d Learning, 2000[NSA], JU00375.
1 6「第 一 回 ジ ョ ン ソ ン 大 統 領 、佐 藤 総 理 会 談 要 旨 」日付なし、A ' -4 4 4 第2 1 回公開外務省外交 史
料 館
; M e m o r a n d u m of Conversation, Jan 12,1965, Foreign Relations o f United States 1 9 6 4 - 1 9 6 8 V o l u m e X X I X Javan, G P O , 2 006[F R U S 1 9 6 4 - 1 9 6 8 Vol. X X I X ], pp.75-78, doc. 42.
1 7 下 田 武 三 『戦 後 日 本 外 交 の 証 言 下 』 行 政 問 題 研 究 所 、 1 9 8 5 年 、 1 5 7 頁 ;中 島 敏 次 郎 (井 上 正 也 、 中 島 琢 磨 、 服 部 龍 二 編 ) 『外 交 証 言 録 - 日 米 安 保 ・沖 縄 返 還 ・天 安 門 事 件 』 岩 波 書 店 、 2 012年 、 6 9 頁 。
1 8 中 島 『沖 縄 返 還 と 日 米 安 保 体 制 』 29-31頁 。
1 9 野 添 文 彬 「1967年 沖 縄 返 還 問 題 と 佐 藤 外 交 」 『一 橋 法 学 』第 10巻 第 1 号 、2 0 1 1 年 、3 3 1-3 3 2 頁 。
と 協 議 を 開 始 す る こ と へ の 了 解 を 求 め た 。 佐 藤 は 、 了 承 した も のの、 当初
「極 東 情 勢 の 推 移 に つ い て も う 少 し 変 化 を 待 つ 」 よう 主 張 し 、 国際情勢の 厳 し さ ゆ え に 慎 重 姿 勢 を 崩 さ な か っ た 20。
この後外務省は、 様 々 な 協 議 を 通 じ て 、 米 国側に沖縄返還問題への取り 組 み を 求 め て い く 21。 そ し て 8 月 7 日、 北 米 局 に よ っ て 、 「施 政 権 返還問 題 を 動 かし て 行 く た め に は 、 わ が 方 と し て 基 地 の 地 位 に つ い て な ん ら か の 腹 案 を 持 っ て い る こ と が 必 要 」 として、 返 還 後 の 沖 縄 米 軍 基 地 の あ り 方 を 次 の よ う な も の に し た 上 で の 沖 縄 返 還 を 構 想 す る ペ ー パ ー が 作 成 さ れ る 。 そ れ に よ れ ば 、 まず、 沖 縄 に 配 備 さ れ た 核 兵 器 に つ い て は 、 ポ ラ リ ス 潜水艦 の 登 場 な ど 軍 事 技 術 の 進 歩 に よ り 沖 縄 に 核 兵 器 を 配 備 す る 必 要 は な く な っ た と し て 、 事 前 協 議 の 対 象 と す る 。 そ の 一 方 で 、 戦 闘 作 戦 行 動 の た め の 沖 縄 米 軍 基 地 の 使 用 に つ い て は 、 「少 な く と も 極 東 の 情 勢 が 好 転 す る ま で は 事 前 協 議 の 要 な き こ と と す る 」ことが提案された。 なぜ な ら 、「極東地域に 局 地 戦 争 が 勃 発 し た 場 合 、 海 兵 隊 や 戦 闘 爆 撃 機 が 即 刻 発 進 し う る 態 勢 に あ る こ と が 有 効 な 抑 止 力 と し て 存 在 す る た め き わ め て 重 要 」 だからであっ た22。
別 の 文 書 で も 、核 兵 器 に つ い て は 、 「沖 縄 は 、アジア 大 陸 に 近 接 し て 脆 弱 性 を 有 す る た め 、 今 後 と も 全 面 核 抑 止 力 発 進 基 地 と し て 使 用 さ れ る 可 能 性 は 少 な い 」と指 摘されている。 そ の 一 方 で 、「極 東 に お け る 米 軍 の 地 上 戦 力 は 韓 国 等 に お け る も の を 除 き 、 ほ と ん ど 名 目 的 な も の と な っ て い る た め 、 沖 縄 に 戦 闘 即 応 部 隊 を 配 備 し て 、 緊 急 の 際 に 備 え る 必 要 が あ る 」 と考えら れた23。 つ ま り 外 務 省 は 、 国 際 情 勢 の 厳 し さ を 前 提 と し て 、 海 兵 隊 や 戦 闘 爆 撃 機 の 戦 闘 作 戦 行 動 の た め の 基 地 の 自 由 使 用 を 認 め た 上 で の 沖 縄 返 還 問 題 の 解 決 を 構 想 し た の で あ る 。
こ の外務 省に よ る 沖 縄 返 還 構 想 は 、 8 月 8 日、 佐 藤 首 相 に 提 示 さ れ る 。
2 0 東 郷 文 彦 『日 米 外 交 三 十 年 - 安 保 ・沖 縄 と そ の 後 』 中 公 文 庫 、 1 9 8 9 年 、 125頁 。
2 1 中 島 『沖 縄 返 還 と 日 米 安 保 体 制 』 46-50頁 ;野 添 「1 9 6 7 年 沖 縄 返 還 問 題 と 佐 藤 外 交 」 333-337 頁 。
2 2 北 米局 「施 政 権 返 還 に 伴 う 沖 縄 基 地 の 地 位 について」1 9 6 7 年 8 月 7 日 、 「い わ ゆ る 『密 約 問 題 に 関 す る 調 査 結 果 』 そ の 他 関 連 文 書 (以 下 、 関 連 文 書 )3-9。
2 3 北 米 局 「在 沖 縄 米 軍 の 戦 略 上 の 役 割 り について」1 9 6 7 年 8 月 7 日 、 関 連 文 書 3-10。
しかし 佐 藤 は 、 「沖 縄 の 施 政 権 返 還 は 高 次 の 政 治 的 判 断 を 要 す る 問 題 で あ るので、 腹 づ も り は 総 理 自 身 が 決 定 す る こ と 」 だと し て 、 外務省の構想を 拒 絶 し た 。 佐 籐 に よ れ ば 、 「日 本 国 民 が ど の 程 度 の 基 地 使 用 で あ れ ば 我 慢 し得るかを見究め、 そ の 範 囲 内 で 問 題 解 決 を 図 る こ と が 必 要 」 だというの で あ る 。 し た が っ て 佐 藤 は 「沖 縄 の 解 決 に は …時 間 が か か る で あ ろ う か ら 、 じ っくり 落着い て進 める べき 」 だと 述 べ 、 沖 縄 米 軍 基 地 に つ い て の 日 本 側 の 態 度 を 明 ら か に せ ず 、 引 き 続 き 米 国 側 の 条 件 を 探 る よ う 外 務 省 に 指 示 し たのだっ た24。
当時、 国 際 情 勢 が 依 然 と し て 厳 し い 一 方 で 、 国内では、 本土と同じよう に 核 兵 器 や 基 地 の 自 由 使 用 を 認 め な い 、 い わ ゆ る 「核 抜 き ・本 土 並 み 」 を 求 め る 論 調 が 強 ま っ て い た 。 そ れ ゆ え 佐 藤 と し て は 、 基 地 の 自 由 使 用 を 認 め る 外 務 省 案 を 受 け 入 れ る こ と は で き な か っ た の で あ る 25。
しかし、 外 務 省 で は 、 返 還 後 の 基 地 の あ り 方 を 明 確 化 す る こ と な し に 米 国 側 と 協 議 し て も 沖 縄 返 還 問 題 の 進 展 が な い こ と へ の 焦 燥 感 が 高 ま っ て い た。 この時期、 外 務 省 で は 、 ベ ト ナ ム 戦 争 の 終 結 後 、 米国がその負担から 東 ア ジ ア へ の 関 与 を 縮 小 し 、 そ れ に よ っ て 地 域 が 不 安 定 化 す る こ と で 日 本 の 安 全 保 障 に 悪 影 響 を 及 ぼ す こ と へ の 懸 念 が 高 ま っ て い た 。 9 月、 外務省 北 米 局 で は 、「ヴ ィ エ ト ナ ム 戦 争 後 に 当 然 予 想 さ れ る べ き 米 国 内 の 反 動 、す なわち、 ア ジ ア よ り の 責 任 解 放 へ の 動 き を い か に し て 最 少 限 に 止 め 、 もっ て わ が 国 を 含 む 極 東 の 安 全 の た め 米 国 の 抑 止 力 を 保 持 す る か を 深 く 考 え お か な け れ ば な ら な い 」 と指摘されている。 そ の 際 、 日米安保条約を1970年 以 降 も 維 持 す る た め 、 日本側としては、 同条約の義務を正 し く履行 す る こ とで、 地 域 安 全 保 障 に 貢 献 す る 必 要 が あ る と さ れ た 。 日米安保条約上、 米 国 側 の 日 本 防 衛 に 見 合 っ た 日 本 側 の 責 任 は 、 「極 東 の 平 和 と 安 全 の た め に 米 軍 に 日 本 の 基 地 使 用 を 認 め る と い う 第 6 条 」、い わ ゆ る 「極 東 条 項 」の履 行 に 他 な ら な い 。 そ れ ゆ え 、 「安 保 体 制 堅 持 の た め に は 今 後 は 第 6 条 の 性
2 4 三 木 大 臣 発 在 米 下 田 大 使 宛 第 1 3 0 2 号 「沖 縄 小 笠 原 問 題 (総 理 と の 打 合 せ )」1 9 6 7 年 8 月 9 日、
関連文書3-11。
2 5 野 添 「1967年 沖 縄 返 還 問 題 と 佐 藤 外 交 」 3 4 2 頁 。
質 に つ い て 日 本 国 内 に お け る 啓 蒙 が 必 要 」 だ と 考 え ら れ た 。 そ の 上 で 、 日 本 の 国 力 増 強 と と も に 米 国 の 負 担 分 担 要 求 が 高 ま っ て い く こ と が 予 想 さ れ る中、 「沖 縄 問 題 も 米 側 の 観 点 よ り す れ ば そ の よ う な 趨 勢 の 一 環 と し て の み 採 上 げ ら れ る 」 と指摘され たの であ る26。
これに対 してこ の 時 期 、 佐 藤 側 近 や ブ レ ー ン の 間 で は 、 漸 進 的 に 国 際 情 勢 が 緊 張 緩 和 へ 向 か い 、 む し ろ 沖 縄 返 還 が 容 易 に な る こ と へ の 期 待 が 高 まっていた。 S オ ペ か ら こ の 年 、首 相 秘 書 官 に 就 任 し た 楠 田 實 は 、6 月、オ ズ ボ ー ン (D a v i d L . O s b o r n ) と会 談 し 、 米 国 政 府 内 で は 、 中 国は東アジ ア に お い て も は や 脅 威 で は な い 、 と 考 え ら れ て いると観 察 した。 米 国政 府 が 中 国 を 脅 威 だ と 認 識 す る 限 り 、 沖 縄 返 還 の 可 能 性 は な か っ た 。 しかし、
楠 田 の 考 え で は 、 「中 共 も い つ の 日 に か 必 ず や 平 和 共 存 へ の 道 を 辿 る であ ろう」 し、 日本の 国 力 増 大 と い う 観 点 か ら 見 て も 、 沖 縄 返 還 に よ っ て 、 共 産 主 義 陣 営 が 有 利 に な る こ と は な い 。 こ の 点 を 踏 ま え て 楠 田 は 、 「中共は も は や脅威で はな い 」 という認識 に基 づい て、 沖縄返 還 を米国 側 に求め る べ き だ と 考 え た の で あ る 27。 佐 藤 自 身 、 1967年 を 境 に 、 そ れ ま で 警 戒 的 だ っ た 中 国 へ の 認 識 を 徐 々 に 修 正 し 、 中 国 を 国 際 社 会 に 組 み 込 み 、 その穏 健 化 を 図 る 方 針 を 示 し て い く 28。
9 月1 2 日 の 首 相 の 私 的 諮 問 委 員 会 で あ る 沖 縄 問 題 等 懇 談 会 で は 、 軍事専 門 家 の 久 住 忠 男 委 員 が 、 「遅 く と も 1970年 ま で 」 に 「ヴ ィ エ ト ナ ム 戦争 も 終 結 し 、 中 共 の 情 勢 も 落 着 い て 米 中 関 係 も 多 少 好 転 の 兆 し が 現 れ る 」 との 見 通 し か ら 、 1970年 ま で に 沖 縄 の 「核 抜 き ・本 土 並 み 」 返還を実現するこ と を主 張 し た 。 も っ と も こ れ に 対 し 佐 藤 は 、 「そ れ は ち ょ っ と 早 い よ う な 気 が す る 」と述べている29。 このように佐籐は、国 際 情 勢が変 容 し緊張 緩 和 が 進 む と い う 点 で は 、 彼 の ブ レ ー ン た ち と 認 識 を 共 有 し て い た が 、 その見
2 6 北 米 局 「外 務 大 臣 訪 米 の 際 の 安 全 保 障 及 び 沖 縄 、 小 笠 原 問 題 に 関 す る 協 議 に つ い て 」1967年 9 月2 0 日、 関 連 文 書 3-15。
2 7 楠 田 實 『首 席 秘 書 官 - 佐 藤 総 理 と の 10年 間 』 文 芸 春 秋 、 19 75 年 、 147-149頁 。 2 8 神 田 前 掲 書 、 第 2 章 第 3 節 。
2 9 佐 藤 外 務 大 臣 発 下 田 大 使 宛 、 第 16 02号 、 「沖 縄 問 題 等 懇 談 会 の 模 様 」 1 9 6 7 年 9 月 1 2 日 、H 22- 021、 外 務 省 外 交 史 料 館 。
沖 縄 法 学 第 4 4 号 (2015)
通 し は よ り 慎 重 な も の だ っ た と い え る 。
こうした認識を 踏ま え、 佐 藤 は 「返 還 と 極 東 の 安 全 問 題 は 両 立 す る 」 と い う 信 念 の 下 30、 同年 11 月 の 訪 米 に 向 け 、 漸 進 的 に 沖 縄 返 還 問 題 に 取 り 組 もうとした。 そ の 際 、 目指されたのが、 日 米 共 同 声 明 に 「両 三 年 内 」 の沖 縄 返 還 時 期 の 決 定 、 と い う 文 言 を 挿入 する こと だった31。 佐 籐 は 11月 6 日、
米 国 政 府 内 に 豊 富 な 人 脈 を 持 つ 若 泉 敬 京 都 産 業 大 学 教 授 に 対 し 、 「両三 年 内」 の 沖 縄 返 還 の 時 期 決 定 、 とい う 文言を 入 れ る べ く 米 国 政 府 に 働 き か け るよう依 頼する32。
一 方 、 米 国 政 府 内 で も 、 国 務 省 な ど に よ っ て 、 経 済 成長 に よ る 日 本 の ナ シ ョ ナ リ ズ ム や ベ ト ナ ム 戦 争 へ の 反 発 が 、 沖 縄 返 還 問 題 と 結 び 付 き 、 日米 関 係 を 悪 化 さ せ る こ と が 懸 念 さ れ 、 沖 縄 返 還 問 題 の 検 討 が 開 始 さ れ て い た。 もっとも、 軍 部 の 反 発 や 返 還 後 の 基 地 の あ り 方 の 見 通 し が 立 た な い こ とから、 1967年 の 時 点 で は 、沖 縄 返 還 に つ い て コ ミ ッ ト メ ン ト す る こ と は で き な い と 考 え ら れ て い た 。 こ の よう な米 国政 府に と って、 若泉が持参し た 「両 三 年 内 」 の 文言は、 沖 縄 返 還 の 時 期 が 明 示 さ れ て い な い と い う 点 で 好 都 合 な も の だ っ た 33。
こうして、 佐 藤 の ワ シ ン ト ン 到 着 後 、 日本首脳会談を経て、 1 1 月1 5 日に 日 米共同声 明が合 意 さ れ る 。日米共同声明では、日米両政府が、 「沖 縄 の 施 政 権 を 日 本 に 返 還 す る と の 方 針 の 下 に …沖 縄 の 地 位 に つ い て 共 同 か つ 継 続 的 な 検 討 を 行 な う こ と 」 を合意した。 そ し て 「両三年内に双方の満足しう る 返 還 の 時 期 に つ き 合 意 す べ き 」 と い う 点 を 日 本 側が要 望 してい る 34。
このように、 1967年 の 日 米 首 脳 会 談 に 至 る 過 程 で 、沖 縄 返 還 問 題 が 重 要 な 外 交 課 題 と し て 論 点 化 す る こ と に な っ た 。 そ し て 、1967年 11月の日米共 同 声明で、 厳 し い 国 際 情 勢 が 変 化 し な い 限 り 、 沖 縄 返 還 は 実 現 しない と い
3 0 『楠 田 實 日 記 』 115頁 。
3 1 大 浜 信 泉 『私 の 沖 縄 戦 後 史 - 返 還 秘 史 』 今 週 の 日 本 社 、 1 9 7 1 年 、 8 1 頁 。
3 2 「両 三 年 内 」 と い う 文 言 に つ い て は 、若 泉 敬 『他 策 ナ カ リ シ ヲ 信 ゼ ム ト 欲 ス 』文 芸 春 秋 、1 99 4 年 31頁、34頁、79頁。
3 3 野 添 「196 7 年 沖 縄 返 還 問 題 と 佐 藤 外 交 」 344-355頁 。
3 4 「19 6 7 年 11月14日および1 5 日のワシントンにおける会談後の佐藤栄作総理大臣とリンドン・
B ・ ジ ョ ン ソ ン 大 統 領 と の 間 の 共 同コミュニケ」『外 交 青 書 』 12号 、 22-26頁 。
- 36 -
沖縄 返還交渉と佐藤外交:野添
う 「ブ ル ー ス カ イ ・ポ ジ シ ョ ン 」 を 米 国 側 が 取 り 下 げ ら れ た こ と は 、 外交 面 で 意 義 が あ っ た 35。
そ の 一 方 で 、 こ の 共 同 声 明 の内容 に ついて 、 日本政府内では、 沖 縄返還 の 実 現 可 能 性 に つ い て 疑 問 が あ っ た し 、 米 国 政 府 内 で も 、 沖縄返還にい か な る コ ミ ッ ト メ ン ト も し て い な い と 考 え ら れ た 36。 特 に 米 国 政 府 内 で は 、 依 然 と し て 、 実 際 の 返 還 時 期 は 、 ベ ト ナ ム 戦 争 の動向 に 依存す る と考え ら れ て い た 37。 そ れ ゆ え 、 いつ、 ど の よ う に 沖 縄 返 還 が 合 意 ・実 現 さ れ る か
という道筋は、 こ の 時 点 で は 不 明 確 な ま ま だ っ た の で あ る 。
2 . 1968年の国際情勢の変動と日本政府の対応
翌 1968年 は 、国 際 情 勢 や 米 国 の 国 際 的 優 位 を 揺 る が す 事 件 が 多 発 し た 38。
朝 鮮 半 島 で は 、 1 9 6 8 年 1 月 2 1 日 、 北 朝 鮮 の 特 殊 部 隊 が 韓 国 大 統 領 官 邸 (青 瓦台) を襲撃、 さ ら に そ の 二 日 後 の 1 月2 3 日には、 米国の調査 船 プエブ ロ 号 を 北 朝 鮮 の 砲 艦 が 拿 捕 す る 。 さ ら に 1 月3 0 日には、 北ベトナム軍がテト 攻 勢 を 仕 掛 け 、 米 国 世 論 に 大 き な 衝 撃 を 与 え た 。 経 済 的 に も 、 ベト ナ ム 戦 争 の 戦 費 増 大 や 日 欧 の 経 済 成 長 に よ っ て 米 国 の 国 際 収 支 は 悪 化 し 、 3 月に は ド ル 危 機 が 生 じ た 。 また同年、 米 国 内 社 会 で は 、 ベ ト ナ ム 反 戦 運 動 が 盛 り上がる。
1968年 初 頭 に 連 続 し て 勃 発 し た こ れ ら の 事 件 は 、米 国 内 で 、 自国が海外 に 過 剰 に 関 与 し て い る の で は な い か と い う 疑 問 を 生 じ さ せ る こ と に な っ た。 このような中、 3 月3 1 日、 ジ ョ ン ソ ン 大 統 領 は 演 説 で 、 北 爆の部分的 停 止 を 表 明 す る と と も に ハ ノ イ に 対 し て 交 渉 を 呼 び か け 、 同時に次期大統 領 選 挙 へ の 不 出 馬 の 意 向 を 示 す 。 こ の ジ ョ ン ソン 政権の ベ トナム 戦 争政策 の転換は、 この 後 ニ ク ソ ン 政 権 に よ る 米 国 の 冷 戦 戦 略 見 直 し へ の 端 緒 と な
3 5 河 野 前 掲 書 、 2 5 7 頁 ;中 島 『沖 縄 返 還 と 日 米 安 保 体 制 』 7 4 頁 。 3 6 野 添 「1 967 年 沖 縄 返 還 問 題 と 佐 藤 外 交 」 356-357頁 。
37 W alterPoole, JCS and N a tion a l P o lic y 1965-1968, O fficeo fJo in tH isto ry, 20 12 , p.251.
3 8 1 9 6 8 年 に 起 き た 様 々 な 出 来 事 の 国 際 政 治 史 や 冷 戦 史 上 の 意 義 に つ い て は 、 菅 「冷 戦 の 終 焉 と 6 0 年 代 性」 Je rem iS u ri, P o w e ra n dP r o t e s t :Glo b a Revolution and the Rise of Detente, H a rv a rdU n iv e rsity P re s s, 2 0 03; C aroleF in k, PhilippG a sse rt, a n dD etierJ u n k e r (e d s), 1968: TfteWo rldT ra n sfo rm e d, C am b rid g eU n iv e rsityP re ss 1 9 9 8 ; 岡 本 宏 編 『「1968年 」
- 時 代 転 換 の 起 点 』 法 律 文 化 社 、 1 9 9 5 年 な ど 。
- 37 -
る39。
1968年 に は 、 日 本 国 内 で も 日 米 関 係 を 揺 る が す 事 件 が 勃 発 し た 40。 1 月 には、 米 原 子 力 空 母 エ ン タ ー プ ラ イ ズ が 佐 世 保 に 寄 港 し 、 日本国内で反対 運 動 が 盛 り 上 が っ た 。 同月、 プ エ ブ ロ 号 事 件 に 対 応 す る た め 、 グアムから B 5 2 が 2 月 6 日に 嘉手納基地に着陸、そ の 後 、ベ ト ナ ム 戦 争 へ も 出 撃 し 、沖 縄 住 民 に 大 き な 不 安 を 引 き 起 こ す 。 さ ら に 5 月 6 日、 佐 世 保 に 寄 港 し た 米 原 子 力 潜 水 艦 ソ ー ド フ ィ ッ シ ュ の 放 射 能 漏 れ 疑 惑 が 大 き く 報 道 さ れ た 。 6 月 2 日には、板 付 基 地 を 発 進 し た F 4 C フ ァ ントム 戦 闘機が九州大学構内に 墜 落 す る と い う 事 件 が 起 き る 。 こ れ らの事 件 によ っ て 日 本 国 内 で 米 軍 基 地 に 対 す る 反 発 が 盛 り 上 が り 、 米 国 政 府 は 日 米 関 係 や 在 日 米 軍 基 地 の 維 持 ・ 運 用 の 行 方 へ の 懸 念 を 強 め て い く 。
一 方 、日本政府内では、牛 場 信 彦 外 務 次 官 が 、 5 月 の ア ジ ア ・太 平 洋 地 域 大 使 会 議 で 、 「日 米 関 係 は う ま く い か な い 。 悪 化 し た わ け で は な い が 歯 車 が う ま く か み 合 」 わ な い と 述 べ た よ う に 、 日米関係の行方に つ いて懸 念 が 強まった41。 3 月3 1 日の ジ ョ ン ソ ン 大 統 領 演 説 も 、日 本 国 内 で 「ベトナムに 関 す る 米 国 の 政 策 の 敗 北 と 再 検 討 を 認 め る も の で あ り 、 アジ アからの米国 の撤退の 前兆」として受け止められた42。 外 務 省 は 、米 国 の ア ジ ア 関 与 縮 小 へ の 動 き が 加 速 さ れ る の で は な い か と さ ら に 不 安 を 強 め 、 6 月の日米政策 企画協議では、米 国 の 「新孤立主義」への傾向に強い懸念を表明している43。
沖 縄 返 還 問 題 に つ い て も 、 1968年 前 半 は 、 「安 保 関 係 で い ろ い ろ 厄 介 な
39 J o h n L. Gaddis, Strategies o f C o n t a i n m e n t A Critical Appraisal of A m e r i c a n National Security Policy D u r i n g the Cold W a r , O x f o r d University Press, 2005, p.296.
4 0 1 9 6 8 年 の 日 米 関 係 に つ い て は 、 玉 置 敦 彦 「ジ ャ パ ン ・ハ ン ズ -変 容 す る 日 米 関 係 と 米 政 権 日 本 専 門 家 の 視 線 、 19 65-68 年 」 『思 想 』 20 0 9 年 。 また、 朝 鮮 半 島 情 勢 、 ベ ト ナ ム 情 勢 と 沖 縄 情 勢 と の 関 連 に つ い て は 、 成 田 前 掲 論 文 を 参 照 。
4 1 ア ジ ア 局 北 東 ア ジ ア 課 「昭 和 4 3 年 度 ア ジ ア ・太 平 洋 地 域 大 使 会 議 議 事 要 録 」 1 9 6 8 年 1 0 月、
「歴 史 資 料 と し て の 価 値 が 認 め ら れ る 開 示 文 書 (写 し )」 0 4 - 9 8 4 外 務 省 外 交 史 料 館 。 41 ア レ ク シ ス ・ジ ョ ン ソ ン (増 田 弘 監 訳 ) 『ジ ョ ン ソ ン 大 使 の 日 本 回 想 - 二 ・二六 事 件 か ら 沖 縄 返 還 、 ニ ク ソ ン ・シ ョ ッ ク ま で 』 草 思 社 、 1989年 、 2 0 6 — 2 0 7 頁 ;T o k y o 710 6 , April 3, 1968石 井 修 、 宮 里 政 玄 『ア メ リ カ 合 衆 国 対 日 政 策 文 書 集 成 第 12期 第 3 巻 』 柏 書 房 、 2003年
( 以 下 『集 成 12-3』 の よ う に 略 記 )、 2 8 7 - 2 8 8 頁 。
43 O w e n to the Secretary, "US-Japan Planning Talks-Information M e m o r a n d u m " , J u n e 26 , 1 9 68 , Policy Planning Council, Subject Files, 1963-1973, B o x 66, R G 5 9 , National Archives, Collage P a r k . M a r y l a n d [ N A ] ; Re s ea r c h a n d Analysis Division, G a i m u s y o ,
"Japan's Role in Asia" M a y 22,1968, Policy Planning Council, Subject Files,1 9 6 3 -1973, B o x 66, R G 5 9 , N A .
問 題 が 続 発 」 したため、 「物 事 が 返 還 交 渉 を む ず か し く む ず か し く す る よ うに動」 い て る と 外 務 省 内 で は 考 え ら れ 、 日米間の協議は進んでいなかっ た44。 しかし、 日米関 係の 安定 化の ため 、東 郷 文 彦 ア メ リ カ 局 長 を 中 心 に 、 外 務 省 は 、 7 月以降、 沖 縄 返 還 の 早 期 解 決 に 向 け て 再 び 動 き 始 め る 。
注 目 す べ き は 、 外 務 省 の 沖 縄 返 還 に 向 け た 取 り 組 み に は 、 ベトナ ム 戦争 後 の 米 国 の ア ジ ア 関 与 縮 小 へ の 不 安 が 反 映 さ れ た こ と で あ る 。 東郷 の 見 方 で は 、 ベ ト ナ ム 戦 争 後 、 米 国 が 「孤 立 主 義 」 に 向か う 可 能 性 が あ り 、 日本 に も 負 担 分 担 を 期 待 し て い る の で 、「沖 縄 返 還 問 題 解 決 に は 、わ が方の 日 本 及 び 極 東 の 安 全 保 障 問 題 に 対 す る 積 極 的 な 姿 勢 が 重 要 」だった 。 そ れ ゆ え 、 対 米 交 渉 に 際 し て 、 返 還 後 の 沖 縄 米 軍 基 地 の 使 用 に つ い て 「あらかじめわ が 方 と し て 受 容 れ う る 『あ る種 の 自由』 につ き十 分 の 準 備 を 整 え 」 るべき で あ る 。 す な わ ち 、核 兵 器 に つ い て は 、国 内 世 論 の 抵 抗 が 極 め て 強 い の で 、 沖 縄 へ の 常 備 配 備 は 不 可 能 だ が 、 「非 常 事 態 に お け る 持 込 み に 関 し て 事 前 協 議 の 交 換 公 文 に 加 え て な ん ら か の 保 証 」 を す る 必 要があ る 。 また戦闘作 戦 行 動 の た め の 基 地 使 用 に つ い て は 、沖 縄 は 、米 国 側 に と っ て 、極 東 有 事 、 特 に ま ず 朝 鮮 半 島 有 事 、 次 に 台 湾 有 事 に お け る 有 力 な 発 進 基 地 で あ る た め、 い ち い ち 事 前 協 議 が 必 要 に な る こ と は 軍 事 的 に 問 題 が あ る 。 日本側に とっても、朝 鮮 半 島 有 事 の よ う に 、安 全 保 障 上 、 「米 軍 の 自由使 用 を当然 に 認 め る 場 合 も あ り う る 」 のだった45。
しかし、 1968年 に は 、 日 本 本 土 と 沖 縄 で は 、 「核 抜 き ・本 土 並 み 」 返還 要 求 が さ ら に 高 ま り 、 日 本 政 府 もこれ を 無視す る ことは で きなく な って い た46。さらに、 米 国 の ベ ト ナ ム 戦 争 政 策 の 見 直 し と と も に 国 際 情 勢 が 好 転 す る こ と へ の 期 待 も 高 ま っ て い た 。 三 木 武 夫 外 相 も 、 外 務 省 幹 部 と の 協 議 で、 米 国 側 に 対 し て 「核 抜 き ・本 土 並 み 」 をぶつけてみたい と漏ら し てい る47。 8 月1 5 日、 外 務 省 幹 部 が 上 述 の 沖 縄 返 還 構 想 に つ い て 説 明 し た の に
4 4 東 郷 前 掲 書 、 141-142頁 。
45 ア メ リ カ 局 長 「沖 縄 の 基 地 の 地 位 について」1 9 6 8 年 8 月 6 日 、 関 連 文 書 3-28。
46 1 9 6 8 年 の 沖 縄 返 還 問 題 を め ぐ る 日 本 本 土 と 沖 縄 の 政 治 状 況 に つ い て は 、 中 島 『沖 縄 返 還 と 日 米 安 保 体 制 』 101-117頁 。
4 7 「沖 縄 継 続 協 議 に 関 す る 大 臣 の 考 え 」 1 9 6 8 年 5 月 1 8 日 、 関 連 文 書 5-20。
対 し 、三 木 は 、「米 大 統 領 選 挙 前 か つ ベ ト ナ ム 和 平 未 達 成 の 現 在 か か る 重 大 問 題 で 米 側 と 話 し 合 う の は 時 期 尚 早 」 だ と 否 定 的 態 度 を 示 し た 。 三 木 の 考 えでは、 「ベ ト ナ ム 後 の 米 ア ジ ア 政 策 の 再 検 討 も あ り 得 る 」 し、逆 に 「ベト ナ ム 戦 争 中 は ど う し て も 軍 事 優 先 と な っ て 了 い 、 基地 の 態 様 も 規 制 さ れ て 了う」。 そ れ ゆ え 現 状 で は 米 国 側 と の 協 議 で は 「白紙」の態度 を 維持するべ き だ と 主 張したの で あ る 48。
佐 藤 首 相 と そ の 周 辺 も 、沖 縄 返 還 実 現 は 、「ベトナムの 帰 趨いか ん にあ る ことは、明瞭」だ と 考 え て い た 。 そ の た め 沖 縄 返 還 実 現 に と っ て 、 「ベトナ ム 問 題 に 和 平 の 曙 光 が み え て き た と い う こ と は 、 政府 に と っ て も た い へ ん 歓 迎 す べ き 」だ と考 え ら れ た の で あ る 49。 佐 籐 首 相 自 身 、 3 月3 1 日のジョン ソ ン大統 領 声 明 に 対 し 、 佐 藤 は 「和 平 へ の 途 が 開 け た 事 は 幸 と 思 ふ 」 と日 記 に 記 し 50、ベ ト ナ ム 和 平 へ の 見 通 し を 肯 定 的 に 受 け 止 め た 。 木 村 俊 夫 官 房 長 官 も 記 者 会 見 で 、ジ ョ ン ソ ン 大 統 領 声 明 に つ いて、 「北 爆 停 止 は 、沖縄 返 還 に と っ て む し ろ プ ラ ス の 要 素 が 大 き く な っ て き た 」 と述べている51。
この間、 佐 藤 は 、 返 還 後 の 沖 縄 米 軍 基 地 の あ り 方 に つ い て は 「白紙」 と い う 態 度 を 貫 い た 。 1967年 12月 11日 の 衆 議 院 予 算 委 員 会 で 述 べ た よ う に 、 沖 縄 が 返 還 さ れ る ま で の 「そ の 間 に 国 際 情 勢 、 国論、 科学技術の面で動く だ ろ う か ら 、 核 付 き と か 基 地 付 き と か は 先 の 問 題 と し て 先 に な っ て 考 え れ ばよい」と い う の が 佐 藤 の 考 え で あ っ た 。 特 に 国 際 情 勢 に つ い て は 、「ベト ナ ム 問 題 は そ の う ち に 解 決 す る だ ろ う 、 中 共 も 共 存 政 策とる よ うにな る か もしれない」 「核 の 抑 止 力 も 科 学 技 術 の 発 達 で 変 わ る だ ろ う 」。 したがって 佐 藤 は 、 基 地 の あ り 方 に つ い て 、 実 際 の 返 還 時 期 の 国 内 外 の 情 勢 に 合 わ せ て 決 定 す る と い う 「幅 の 広 い 折 衝 を す る べ き 」だ と 主 張 し た の だ っ た 52。 こ の よ う に 佐 藤 は 、 国 際 情 勢 や 科 学 技 術 の 変 化 も 見 通 し な が ら 沖 縄 返 還 問 題
4 8 米 北 長 「大 臣 (沖 縄 問 題 ) ブ リ ー フ メ モ 」 1 9 6 9 年 8 月 1 5 日 、外 務 省 外 交 記 録 H 2 2 -02 1 、 外 務 省 外 交 史 料 館 。
49 楠 田 『首 席 秘 書 官 』、 176 頁 ;山 田 栄 三 『正 伝 佐 藤 栄 作 下 』 新 潮 社 、 1 9 8 8 年 、 1 5 4 頁 。 50 佐 藤 栄 作 (伊 藤 隆 監 修 ) 『佐 藤 栄 作 日 記 第 三 巻 』 朝 日 新 聞 社 、 1 9 9 8 年 、 2 6 1 頁 。 5 2 『朝 日 新 聞 』 1 9 6 7 年 1 2 月 1 2 日 朝 刊 ;『毎 日 新 聞 』 1967年 12月 12日 朝 刊 。 5 1 『毎 日 新 聞 』 1 9 6 8 年 4 月 2 日 朝 刊 。
を 漸 進 的 に 解 決 し よ う と し 、 外 務 省 に よ る 沖 縄 返 還 問 題 に 向 け た 動 き に も 否 定 的 態 度 を 示 し 、 1 1 月 の 自 民 総 裁 選 挙 ま で 動 こ う と し な か っ た 53。
沖 縄 で は 、 11月1 1 日、 初 の 琉 球 政 府 行 政 主 席 公 選 が 行 わ れ る 。 そ こ で は、 沖 縄 の 即 時 無 条 件 返 還 を 主 張 す る 屋 良 朝 苗 が 勝 利 し 、 米 国 政 府 や 日 本 政 府 に 衝 撃 を 与 え た 。 米 国 政 府 内 で は 、 沖 縄 基 地 の み な ら ず 、 在 日 米 軍 基 地 や 日 米 関 係 を 維 持 す る た め に は 、 沖縄 返 還に合 意 す る こ と が 不 可 避 だ と い う 合 意 が 形 成 さ れ て い く 54。
日本政府内でも佐藤は、1 1月1 5 日、1969年秋に 訪 米して 沖 縄 返 還 問 題 の 進 展 を 目 指 す 決 意 を 示 し 、「基 地 の あ り 方 を ど う 処 置 す る か 、検 討 し な け れ ば な ら な い 段 階 に 来 て い る 」 と述べた55。
また、 外 務 省 は 、 沖 縄 で の 選 挙 が 、 沖 縄 住 民 に と っ て 「心理的大転回の 機 」 となり、 「保 守 、革 新 を 問 わ ず 個 々 人 の 生 活 設 計 の 立 場 よ り 、返 還の時 期 の メ ド つ け を 切 実 に 求 め 」 る だ ろ う と 予 想 し た 。 そ れ ゆ え 、 こうした沖 縄 住 民 の 要 望 に 応 え る た め 、 「政 府 と し て は 第 一 に 復 帰 の メ ド を つ け る た め …一 致 し て 米 本 国 と の 折 衝 に 全 力 を 傾 け る べ き 」 だ と 考 え ら れ た 56。 こ うして、 外 務 省 も 沖 縄 返 還 実 現 に 再 び 動 き 出 す 。 東 郷 ア メ リ カ 局 長 は 、 選 挙 当 日 の 1 1 日、 ジ ョ ソ ン 大 使 と の 会 談 で 、 「今 後 沖 縄 の 事 情 は む つ か し く ならう」 との 見通 し を 示 す とと も に、 沖 縄 返 還 問 題 を こ の ま ま 放 置 し て お くわ け にはい か な い と 強 調 し た 。 そ の 上 で 「有 事 に お け る 核 の オ プ シ ョ ン 、 朝 鮮 戦 争 再 発 の 場 合 の 自 由 使 用 、 と 云 う よ う な こ と で 話 を 始 め る し か な い」 と 自身の構想 を伝 えて いる 57。
とはいえ、外 務 省 は 、「西 太 平 洋 及 び 極 東 に お け る 米 戦 略 の 要 た る 沖 縄 の 米 軍 基 地 の 機 能 を 維 持 し た い と の 米 国 の 軍 事 的 要 請 につ い て 、軍部のみな らず、 議 会 特 に 両 院 軍 事 委 員 会 の 保 守 的 傾 向 よ り し て 急 激 な 変 化 が お こ る
53 State2 4 7 6 6 9 , 0 ct 1 , 1 9 6 8 『集 成 12-4』178-179頁 。 5 4 宮 里 前 掲 書 、 288-290頁 な ど 。
5 5 『朝 日 新 聞 』 1968年 11月 15日 朝 刊 。
5 6 外 務 省 ア メ リ カ 局 「沖 縄 行 政 主 席 選 挙 後 の 諸 問 題 」 1 9 6 8 年 1 1 月 6 日 、H 22-011、 外 務 省 外 交 史料館。
5 7 米 局 長 「米 大 使 と 懇 談 の 件 (沖縄)」 1968年 11月 12日 、 関 連 文 書 3-32。