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中央学術研究所紀要 第41号 018西山茂「新宗教における教団危機の克服方法」

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1.教団危機とその克服方法とは何か

 この論文は、幕末維新期以降に台頭した日本の新宗教が直面した教団危機と、それ に対する教団の対処・克服の方法を、教団の特質とからめて検討し、危機の顛末に関 する教団間の差異とその由来について、宗教社会学的に説明しようとするものである。  ここでいう教団危機とは、官憲からの取締りや、マスコミや世論からの批判、政党 や他教団からの攻撃、または自教団の内訌、さらには、それらの複合によって、教団 の維持・存続が危うくなる事態のことである。また、その克服方法とは、当該教団に よる教団危機の克服の仕方と姿勢の総体のことをいう。  だが、ここに一つの難問がある。それは、宗教にとって、教団の維持・存続は果た して目的でありうるのか否か、ということである。教団の維持・存続は人間と世界の 救済という教団の使命に従属するものなのではないのかという理念的な教団観に立て ば、教団危機はたいした問題とはならないかも知れないからである。  教団がある状況下でこのように振る舞えば、当然、教団危機が到来するに違いない と分かっていながら、敢えて危機を呼び寄せたとしか思えないような事例が、日本の 新宗教のなかには幾つか存在している。これらのタイプの新宗教を、ここでは「挑戦・ 危機招来型」に分類し、それ以外の「適応型」(危機を避け、危機を克服しようとする タイプ)の新宗教と区別しておきたい。  なお、「適応型」に属したからといって、この型の新宗教のすべてが適応に「成功」

西 山   茂

1.教団危機とその克服方法とは何か 2.教団危機の代表事例とその分類 3.挑戦・危機招来型新宗教の事例 4.適応・失敗型新宗教の事例 5.適応・成功型新宗教の事例 6.教団危機の型とその克服を可能にするもの 7.教団価値の表現としての危機への対処法

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するとは限らない。また、仮に「成功」したとしても、適応に「成功」しようとする 余り、かけがえのない教えを隠したり捨てたりしてしまっては、手段のために目的を 犠牲にしてしまっていいのかという批判を受けかねない。このように、宗教集団の場 合、適応における「成功」と「失敗」の判断は、見解の相違によって微妙に異なるの である。

2.教団危機の代表的事例とその分類

 ここでは、日本の新宗教史にみられる教団危機の代表事例として、蓮門教と天理教、 大本とほんみち、立正佼成会と創価学会という6つの新宗教を取り上げる。これらの なかには、「挑戦・危機招来型」と「適応型」の双方と、後者の場合における適応の 「成功」の事例と「失敗」の事例が、すべて含まれている。  これらのうち、最も早く教団危機に直面した新宗教は、明治20年代(1887−1896) にマスコミの集中砲火を浴びた蓮門教と天理教であった。蓮門教は、1877年(明治10) に島村みつ(1831−1904)によって北九州の小倉で開教された法華神道系の新宗教で ある。また、天理教は、1838年(天保9)に中山みき(1798−1887)によって奈良県 の庄屋敷村(現在は本部のある天理市)で立教された教派神道系(いまは諸教系)の 新宗教である。  その次に早く教団危機に直面した新宗教に、大正期と昭和前期に二度にわたって官 憲の取り締りを経験した非公認の新宗教(類似宗教)⑴の大本とほんみちがある。大本 は、1892年(明治25)に出口なお(1837−1918)によって京都府の綾部町(現在の綾 部市)で創唱され、のちに彼女の娘婿の出口王仁三郎(1871−1948)によって主導さ れた教派神道系の新宗教である。また、ほんみちは、1925年(大正14)に、生き神甘 露台の自覚を得た大西愛次郎(1881−1958)が、奈良県北葛城郡竹の内に天理研究会 を作った時に発足した天理教系の新宗教である。  そして、最も遅く教団危機を経験した新宗教に、戦後の信教自由の体制下で大きく 教勢を伸ばした立正佼成会と創価学会がある。  立正佼成会は、庭野日敬(1906−1991)と長沼妙佼(1889−1957)が1938年(昭和 13)に霊友会から分かれて創設し、戦後の1958年(昭和33)の「真実顕現」で法華経 と根本仏教を基本とする教団となった霊友会系の新宗教である。そして、創価学会は、 牧口常三郎(1871−1944)と戸田城聖(1900−1958)によって1930年(昭和5)に創 設されたとされている日蓮正宗の内棲宗教⑵であった。しかし、同会は、1991年(平成 3)に日蓮正宗と決別して、既成宗教から独立した新宗教になった。  前述したタイプとの関係でこれらを見ると、自死覚悟で外部環境に「挑戦」し、積 極的に危機を招来した事例は大本とほんみち、危機克服(適応)を目指してそれに「成

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功」した事例は天理教と立正佼成会・創価学会、そして、危機克服(適応)を目指し ながら、それに「失敗」した事例は蓮門教であった。  そこで、これらを型分けして名前をつけておくと、以下のようになる。  ① 挑戦・危機招来型──大本、ほんみち  ② 適応・失敗型──蓮門教  ③ 適応・成功型──天理教、立正佼成会、創価学会  では、以下において、これらの事例について、順次、型別に紹介し、教団危機への 対応を細かく検討してみよう。

3.挑戦・危機招来型新宗教の事例

 既に述べたように、この型の新宗教には大本とほんみちがある。両者は、ともに、 大正から昭和前期に教勢を伸ばし、この時期に官憲から二度の大きな取り締りを受け たにもかかわらず、今日まで生き延びた数少ない新宗教である。  取り締りを受けた背景の一つには、第一次世界大戦の戦後不況(1920年)から昭和 恐慌(1930−31年)にいたる一連の経済危機と、それを反映した満州事変(1931年) 以降の戦時体制下での政府の厳しい宗教政策があった。  日本の国運が上り坂であった日露戦争の終わり(1905年)頃までの官憲の新宗教取 り締りの眼目は、「反開花」的な呪的行為の払拭にあった。しかし、大逆事件(1910 年)以後の官憲は、取り締りのウエイトを天皇への反逆と不敬に移し、昭和前期には 左翼の取り締りを主眼として生まれた治安維持法(1925年に公布)が新宗教にも適用 されるようになった。  大本とほんみちの場合、取り締りのもう一つの要因に、両教の説いていた切迫した 終末予言と理想の世の到来というメッセージの存在があった。しかも、両教には、出 口王仁三郎や大西愛次郎が理想の世をもたらすキーマン(救世主、具体的には「みろ く」や「甘露台さま」)であるという位置づけがあった。両教は、こうしたメッセージ を大々的に宣伝して、布教と警世の活動をおこなった。  では、まず、大本の事例から、そのあたりの事情をみてみよう。  大本は、1892年(明治25)に開教されたものの、その後、出口王仁三郎の出奔など により教勢が沈滞していたが、彼の帰還によって1908年(明治41)に再建され、大正 初期には「鎮魂帰神法」(霊交法)と世界の切迫した「立て替え立て直し」(世直し) の予言によって急膨張を遂げた。当時の大本の教勢拡大の裏には、軍隊類似の布教組 織である「直霊軍」の存在があった。  こうして、大本は1920年(大正9)に公称信者数30万にまで発展した。この間の1916 年(大正5)、王仁三郎は、兵庫県播州高砂沖にある瀬戸内海の小島で「神島開き」を

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おこない、出口なおの霊言を借りて、王仁三郎が「みろく」(救世主)の霊統を継ぐも のであることを宣言した。これは、大本では「顕真実」と呼ばれ、切迫した「立て替 え立て直し」が王仁三郎によって行われることを示したものとされている。  また、大本は、この年に教団名を「皇道大本」に変えている。注意深くみると、大 本が切迫した「立て替え立て直し」のメッセージを社会に訴えるときには、きまって 「皇道大本」を名乗っていることが分かる。だが、大本にとっての「皇道」は大本の理 想が込められたもので、言い古された既成の「皇道」ではなかった。  翌1917年(大正6)、大本は、機関誌の『神霊界』に、教祖のなおの「お筆先」を王 仁三郎が選抜して作った教典『大本神諭』と、世直しの書である『大正維新論』を載 せ始めた。おりしも、日本社会は米騒動(1918年)と第一次世界大戦の戦後不況(1920 年)の時を迎えようとしていたが、こうした状況に、大本は、「立て替え立て直し」の 予言と「大正維新」論(神政復古、世界大家族制度、私有財産の否定、貨幣制度の廃 止などが内容)をもって応えた。  しかし、こうした予言の強調と政治的な「大正維新」の発言は、官憲の耳目を引き 付け、1919年(大正8)には警察から第1回の「警告」を受け、ついに、1921年(大 正10)には、人心惑乱と不穏当な政治活動が咎められ、不敬罪などの容疑で王仁三郎 ほか多数の幹部が逮捕された。これが、第一次大本事件であった。  この事件で、大本の教勢は大きく落ち込んだが、この教団危機を、王仁三郎は大本 の教えの普遍化(脱国家主義化)と活動の国際化によって乗り切ろうとした。前者の いとなみには、人類愛善や万教同根の新思想の提示があった。他方、後者の試みには、 ブラジル等への海外布教や他国の諸宗教(中国東北部の紅卍会や朝鮮の普天教、ベト ナムのカオダイ教など)との交流や、エスペラント語の普及などがあった。  こうした王仁三郎の危機への対処によって、大本の教勢は急速に回復し、すぐに事 件以前の教勢にまで戻った。また、綾部のほかに、亀岡に新拠点(天恩郷、1925年に 完成)をつくるまでになった。  しかし、大本は、昭和初期に、再び、世界の切迫した「立て替え立て直し」の運動 に立ち戻ることになった。すなわち、1928年(昭和3)3月、王仁三郎は、まず、綾 部の五六七(みろく)殿で、みろく大祭を行い、自らが「みろく」の化身であること を教団内外に示し、次いで、満州事変以後の大本は、国家の「昭和維新」を掲げて、 再び国家主義的な方向へと大きく舵を切ることになったのである。  以後、王仁三郎は、こうした時局の到来を神示による時節の到来として受けとめ、 昭和青年会(男子青年会、1931年に再発足)や昭和坤生会(女子青年会、1932年に発 会)に訓練を施して挙国更生と皇道実現のための全国的な統一行動にあたらせた。1933 年(昭和8)になると、大本は再び「皇道大本」と改称した。また、王仁三郎は、こ の年の誕生日に亀岡天恩郷で昭和青年会員などを集め、白馬に乗って査閲した。

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 そして、翌1934年(昭和9)には昭和神聖会を立ち上げ、その発会式を東京・九段 の軍人会館で行った。発会式の1年後の昭和神聖会の会員数は7万5千、講演会入場 者総数100万、運動賛同者数800万(いずれも公称)になっていた。昭和神聖会は、大 本内部の昭和青年会などを主体とし、周囲に皇道派の軍人や右翼団体指導者その他の 有識者などを結集したものであった。  昭和神聖会は、名目上は「皇道精神の発揚宣布」を名目とした運動団体ということ になっていたが、同会が実際に行った活動はワシントン海軍軍縮条約破棄や天皇機関 説撃滅、岡田内閣打倒など、極めて時局的な色彩の強いものであった。  昭和神聖会の発会後、官憲による同会の取り締りのうわさが世上に流れた。うわさ を俟つまでもなく、王仁三郎自身、官憲の取り締りは必至とみていた。一方、内務省 は、うわさ通り、発会の二カ月後の時点で既に昭和神聖会と大本の取り締りを内定し ていた。そして、翌1935年(昭和10)12月、綾部と亀岡の大本の本部は武装警察隊に よって急襲され、200名以上の幹部が検挙された。その後、王仁三郎も松江で逮捕さ れ、1936年(昭和11)には、大本が結社禁止となり、大本のすべての宗教施設がダイ ナマイト等で破壊された。これが、第二次大本事件であったが、この時の取り締りの 容疑は不敬罪と治安維持法違反であった。  おりしも、二・二六事件(1936年)の前夜だったので、内務省は、大本と陸軍皇道 派との協力・資金援助を疑ったのではないかともいわれている。  この事件は大本が自死覚悟で自ら招いた要素が大きく、また、官憲の取り締りが徹 底していたこともあって、大本の危機対応の幅は、戦中における裁判での被告人側の 弁論と戦後における平和運動路線への転換などに限られていた。また、大本は第一次 と第二次の事件の後に多くの分派(生長の家や世界救世教など)を出したが、この時 の同教には分派を防止する有効な対策(危機対策)を取る余裕がまったくなかった。  第二次大本事件は日本の新宗教史上で最大の宗教取り締りであり、大本にとっても 最大の教団危機であったが、それでも大本(今日の公称信者数17万)は今日まで続い ている。  次は、ほんみちの場合であるが、二度の教団危機の年代は大本よりも少し新しいが、 時代状況は大本の場合とほぼ同じである。  ほんみちの教祖の大西愛次郎は、1913年(大正2)7月に、天理教の山口教会長の ときに神懸かりして、甘露台とは場所のことではなく自分(生き神甘露台)のことで あり、自分は「継ぎ目の年限」(1913年、天理教の教祖・中山みきの定命115歳の翌年) に現れた天理教の新天啓者であるとの自覚を得た。その後、大西は天理教本部から教 会長を罷免され故郷の奈良県に帰ってひそかに自説を説いていたが、1924年(大正13) に教師資格を剥奪され、天理教から逐われた。  しかし、大西には、1923年(大正12)頃から信者ができはじめ、1925年の春には天

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理研究会(後のほんみち)が設立された。その後のほんみちは、大正末から昭和初期 にかけて全国的な教勢発展をみるが、その最中の1927年(昭和2)に、大西は『研究 資料』と名付けた「救世救国の一大警告書」を世に出す決意をかため、翌1928年(昭 和3)3月から全国各地で配布宣伝した。なお、大西にこの決断をさせたものは、息 子の病気であった。  そのメッセージの主旨は、およそ、次のようなものであった。架空の神代記によっ て根拠づけられた日本の天皇には天徳も国家統治の資格もなく、それによって統治さ れている日本は間もなく大変な国難にみまわれ、八方ふさがりになって破滅するであ ろう。だが、この国難は、「救け一条」のほんみちによってのみ打開することができ、 その結果、陽気暮らしの理想的世界が実現するであろう。  「皇道大本」のメッセージには、現実の天皇制への批判はあっても、まだ理想の天皇 制への期待があった。しかし、上掲のほんみちのメッセージには、天皇の神格とその 統治そのものへの激しい否定の論理しかなかった。  1928年(昭和3)4月、大西をはじめ、資料を配布していた500名の教師たちが全国 各地で検挙され、180名が不敬罪で起訴された。これが、第一次ほんみち不敬事件であ った。しかし、裁判所は真正面から天皇と天皇制を否定するほんみちの裁判を長く維 持することをためらい、懲役4年の求刑に対して1930年(昭和5)の判決では、大西 を無罪、被告の殆どを執行猶予にして、この事件に終止符を打った。  では、このような教団危機の乗り越え策として、事件後、大西はどのような対応策 を取ったのであろうか。ほんみち関係の資料をみる限り、ほんみちが『研究資料』の ような文書の大々的な配布宣伝を控え、地道な布教に取り組んでいたことは確かであ る。しかし、第一次大本事件後に大本がしたような路線転換を、この時期のほんみち がした痕跡はない。それでも、不況と戦争という時代の危機を反映して、この時期の ほんみちの教勢は大きく伸びたのであった。  1938年(昭和13)、ほんみちは、前回と同趣旨の『書信』900万部を全国の一般人に 戸別配布した。この時に、動員された信者は数千名とされている。今回は、大西の妻 の病気が契機となった。その結果、当然、ほんみちは、二度目の取り締りを受け、大 西以下237名が不敬罪と治安維持法違反で起訴され、以後、ほんみちは結社禁止となっ た。これが、第二次ほんみち不敬事件であった。この事件で、大西は無期懲役、幹部 たちも重刑の判決を受けたが、戦後、全員が免訴となった。  ほんみちは、自らの信仰行為の結果として二度の事件(教団危機)を招き寄せたの であり、もともと、ほんみちには、危機を回避するとか危機を乗り越える(適応する) という発想自体がなかった。そのため、この時のほんみちの危機への対応策は、第二 次大本事件後の大本と同じように、戦時中における被告人側の弁論と戦後における地 道な布教路線への転換に限られていた。しかし、それでも、ほんみち(今日の公称信

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者数31万)は、1961年(昭和36)に大西の次女・玉を天啓者とする分派(ほんぶしん) が出るという新たな危機に遭いながらも、今日まで続いている。

4.適応・失敗型新宗教の事例

 この型に属する新宗教の事例は、蓮門教ただ一つである。蓮門教は、教祖の島村み つが北九州の小倉で開教したあと、1882年(明治15)に東京に進出し、神道大成派(の ちに大成教)に属して合法的な布教を開始した。当時は、「ご神水」による病気直し (コレラの予防と治しなど)の現世利益を売り物にして教勢を伸ばし、伯爵・川村純義 らの華族にまで教線を広げた。  明治20年代(1887−1896)は、日本の新宗教の最初の飛躍的教勢拡大期にあたって いたが、それはまた、病気直しなどの現世利益を強調する新宗教が新聞等のマスコミ から「邪教」扱いされて、激しく攻撃される最初の時期でもあった。蓮門教と天理教 は、その二つの代表的な事例であった。  明治24年(1891)、まず、『読売新聞』が、尾崎紅葉の小説「紅白毒饅頭」を連載し て「ご神水」で有名になった蓮門教を間接的に批判した。しかし、1894年(明治27) になると、3月から10月まで、『萬朝報』が数十回にわたってキャンペーン記事「淫祠 蓮門教会」を連載して、蓮門教の「ご神水」(医薬制止)と「夜講」(風俗紊乱)、「非 神道的儀礼」などを徹底的に攻撃した。  1894年の蓮門教は公称信者数90万を数えていたが、マスコミの攻撃に晒された後に 急速に教勢を落とした。その背景には、マスコミの批判だけではなく、このような騒 動を看過できずに蓮門教への指導と処分に乗り出した警視庁や内務省、および、組織 内に蓮門教を抱えていた大成教の動向があった。  具体的には、警視庁と内務省社寺局が蓮門教を内偵し、教祖を召喚尋問した結果、 「ご神水」が差し止められたほか、申請中の蓮門教の別派独立願をも却下した。また、 大成教は、「ご神水」・「夜講」・「非神道的儀礼」等について蓮門教に改革を指示すると ともに、島村みつ教長を解任(1897年に復帰)した。  これらのことは蓮門教に壊滅的な打撃となり、蓮門教の教勢を急速に衰えさせた。 加えて、1897年(明治30)には教祖の後継者と目されていた島村信修(養子)が死去 し、続いて、1904年(37)には教祖のみつも死去した。  教祖の死後、教長の後継者問題に大成教が介入したため、蓮門教は二派に分裂した。 そのため、島村仙修を二代教長とする蓮門教は、1911年(明治44)に所属教派を神道 本局に変えた。さらに、蓮門教は、1924年(大正13)には、扶桑教へと所属を変更し たが教勢の挽回につながらなかった。そして、1931年(昭和6)に二代教長の仙修が 死去すると、蓮門教は実質的に消滅するにいたった。

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 明治20代のマスコミからの批判に端を発した蓮門教の危機は、所属教派や政府・官 憲の動きを誘発して大きな問題に発展したが、これに対する蓮門教側の有効な危機対 処策はないに等しかった。所属変え等の教祖死後の危機対策があるにはあったが、こ れも蓮門教の教勢の挽回にはつながらなかった。その結果、適応しようとした蓮門教 が消滅し、危機を招き寄せた大本やほんみちが今日まで教団を維持しているという皮 肉な結果が生じた。蓮門教が、何故、適応に失敗したのかについては、あとで議論す る。

5.適応・成功型新宗教の事例

 この型に属する新宗教には、蓮門教と同様に、明治20年代に台頭してマスコミから 攻撃された天理教と、戦後に急膨張して、一躍、代表的な新宗教となった立正佼成会 と創価学会がある。  まず、天理教の場合から検討してみよう。天理教は、すでに1885年(明治18)に神 道本局の傘下に入って布教の合法性を確保していたが、1887年に教祖を亡くした天理 教は翌1888年に中山眞之亮初代管長と松村吉太郎本部員(のちに高安大教会長)が天 理教会本部設置出願のために上京し、同年中に東京・下谷に本部(翌年、奈良に移転) の設置を許された。  以後、天理教が最後の教派神道として別派独立を許された1908年(明治41)までの 間、松村吉太郎が天理教の独立と危機回避のための渉外役を一手に引き受け、その功 績が管長から認められて1909年(明治42)に表彰されている。彼が天理教の独立と危 機回避のために如何に苦労したかについては、彼の自伝⑶に詳しい。  明治20年代に、天理教は最初の発展期を迎え、教会数と信者数を大きく伸ばした。 1888年(明治21)の教祖一年祭に本部に集まった信者は3万人を超え、教祖の墓が完 成した1892年(明治25)の墓前祭と1896年(明治29)の教祖10年祭に参集した信者は 各10万人であったから、当時の信者数はその数倍はあったろうと思われる。  しかし、1893年(明治26)から、林金瑞編述の『辯斥天理教』ほか多数の天理教批 判書が出回るようになり、以後、1896年頃まで、『中央新聞』など多くの新聞が天理教 批判を開始し、やがて内務省の注目するところとなった。1896年4月に、出された「内 務省秘密訓令」は、天理教らの新宗教に、風俗紊乱・医薬制止・寄付強要等の疑いが あるとして、その厳重取締りを全国の府県庁に通達している。  この前後に、天理教は、1894年(明治27)に日清戦争のために1万円の献金をした り、1904年(明治37)に始まった日露戦争の戦時国債を260万円分も引き受けたりし て、天理教に対する政府の心証を良くする工作を積極的に行った。天理教にとっては、 これが精いっぱいの教団危機の回避策であった。

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 1899年(明治32)、天理教は第1回目の別派独立請願書を内務省に提出したが、その 労も空しく、翌1900年(明治33)に請願は却下された。そこで、天理教は、却下の前 から準備していた「明治教典」を1903年(明治36)に完成させた。「明治教典」は、天 理教独自の神名や創世神話(泥海古記)を伏せて、国家神道の枠組に合わせたもので あった。  1899年以来、天理教の独立請願は、5回にわたって行われ、何度も却下されながら、 1908(明治41)に、ようやく独立を許可された。こうして、天理教は教派神道最後の 公認宗教となることが出来たが、それは「明治教典」の制定など天理教の重要教義の 自発的な歪曲を代償とするものであった。独立後の天理教は順調に発展し、今日では 175万の公称信者数を擁する大教団になっている。しかし、天理教は、戦後に、それま での重要教義の歪曲を是正する「復元」を行わざるを得なかった。  次に、戦後に発展した立正佼成会と創価学会の事例の検討に移りたい。両教団は、 戦後に新宗教の両雄(現在の公称信者数は、立正佼成会が430万、創価学会が830万) となった法華系の新宗教で、いち早く中央集権的な教団組織を確立したために、教団 指導者の交替や教団危機の際に分派を出さなかった珍しい新宗教でもある。  最初に、立正佼成会の検討を始める。同会は、1938年(昭和13)に、庭野日敬(1906 −1999)と長沼妙佼(1889−1957)の二人によって創立された霊友会系の新宗教であ る。この二人の関係は、神懸かりする霊能者と法華経の教えを重視する審神者の組み 合わせであった。  第二次世界大戦の敗戦直後の昭和20年代(1945−1954)は、それまでの厳しかった 宗教統制が解け、信教の自由の下で多くの新宗教が覇を競い合った時期であったが、 同時に、人々が廃墟と窮乏とアノミーのなかにあって、生活の悩み事の現世利益的な 解決を新宗教に求めた時期でもあった。こうしたなかで、現世利益を重視する布教に よって佼成会の教勢は大きく伸びたが、教団が発展するにつれてマスコミからの批判 も次第に多くなっていった。  1952年(昭和27)2月、NHKのラジオ放送番組「社会の窓」が「蔵敷事件」を報道 した。これは、立正佼成会の姓名鑑定で子供の死を予告された女性信者(東京都北多 摩郡大和村蔵敷在住)が母子服毒(青酸カリ)心中をした、というものであった。  「蔵敷事件」の報道を契機に、新聞各紙が一斉に立正佼成会を批判し始めた。そこ で、立正佼成会は新日本宗教団体連合会(新宗連)⑷と連携して「蔵敷事件の真相」と いう小冊子を公開し、事件と立正佼成会とは関係がないことを社会に訴えた。  しかし、立正佼成会の教団危機は、これで終わらなかった。1954年(昭和29)にな ると、佼成会に入会したばかりの元『読売新聞』記者の白石重が、佼成会は法華経に 反した教えを喧伝し、姓名判断等の迷信行為を用い、信者から財物と労務を絞取して いるとして、東京地裁に立正佼成会の宗教法人解散命令を請求した。

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 そして、1955年(昭和30)12月には、和田堀第二土地区画整理組合の総会議事録の 著名および印章を偽造した容疑で、立正佼成会の幹部が警視庁に告訴されるという事 件が起こった。これは、「読売事件」の直接の契機となった事件であった。  「読売事件」とは、『読売新聞』が1956年(昭和31)の1月から4か月間に合わせて 40回以上の立正佼成会批判のキャンペーン記事を連載したことの佼成会的な言い方で あった。その時の『読売新聞』の記事は、信者の人権問題や土地区画整理問題など佼 成会の「叩けるところを(すべて)叩いた」⑸もので、総じて、立正佼成会を呪術色の 濃厚な「邪教」と決めつける記事であった。なお、「読売事件」の起こる直前(1955年 12月)の佼成会の教勢は36万世帯、「読売事件」の直後(1956年12月)の教勢は約30万 世帯であったから、この1年間でかなり教勢を減らしていることが分かる。  1956年3月、「読売事件」は国会にまで波及した。すなわち、この年の3∼4月に、 衆議院の法務・文教・社会労働の各委員会が、佼成会信者の人権問題を取り上げたの である。この時、4月の法務委員会に出頭を求められた庭野は、立正佼成会への誤解 を解こうと同会の教えや活動について丁寧に説明した。  当時の立正佼成会では、妙佼の霊能を布教の方便として活用した病気直しが盛んで あったから、『読売新聞』や国会の批判は、霊能による現世利益を重視する当時の佼成 会の布教方法への批判でもあった。  これに対して、庭野は、事件がようやく終息した同年5月に、「読売事件」を総括す る会員向けの「談話」を発表した。庭野は、そのなかで、『読売新聞』の報道には「攻 撃せんがための攻撃」であったところも多かったが、「二、三はこちらのゆき過ぎの点 があったのではないか」、「批判されるには、そこに何かの因があるのではないか」、「こ れは大いに反省、サンゲをしなければならない」、「(批判に対して)私どもはむしろ感 謝している次第です」⑹と述べている。  庭野の態度は、相手から瓦石を投げつけられても怒らず、却って相手に合掌礼拝し て「あなたも成仏します」と授記をなした法華経の常不軽菩薩の姿を連想させるもの であった。今回の『読売新聞』も、すべてを師として誰人からも学ぼうとする日敬に とっては、「私を高めてくれた菩薩」⑺であったに違いなかった。事実、庭野が「読売事 件」に触れる際には、決まって「読売菩薩」⑻という言葉を使った。  こうした庭野の謙虚な危機対応によって「読売事件」が終結したのも束の間、立正 佼成会は、今度は、内訌がらみの教団危機に見舞われた。1956年7月、先述した白石 重との佼成会解散命令請求をめぐる和解交渉で、庭野は、佼成会内部に設ける諮問委 員会の委員長に白石を充てることにした。しかし、これが8月に開かれた理事会を紛 糾させ、やがて、幹部たちが起こした「連判状事件」の導火線となった。  「読売事件」と白石の教団解散命令請求は、ともに、従来の佼成会のあり方(現世利 益重視の妙佼路線)の否定であり、長沼妙佼の抹殺を狙ったものであると佼成会の幹

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部たちに受けとめられていたから、「読売事件」への庭野の対応と「法敵白石」を委員 長に据える庭野の姿勢は、幹部たちにはとても受け入れ難いものであった。  1956年8月、11名の全幹部と125名の全支部長が蓮著した「連判誓約書」(連判状) が庭野の手元に提出された。庭野によると、「連判状」が出された背景には、庭野の危 機対応が軟弱であるという不満と、諮問委員会に外部者を登用することへの反発、そ れに、会長夫人への反感という3つの要因があった⑼という。  「連判状」の最後には、庭野日敬と長沼妙佼は一体であること、会長夫人の教団介入 は許さないこと、教団行事への外部の諮問委員の出席は支部長の総意によること、と いう3つの誓約事項があったが、これには庭野も署名捺印した。だが、続けて庭野の 手元に届けられた書面には、「妙佼先生を〈教祖〉とし、庭野先生を〈会長〉とする」⑽ という文言が記されていた。庭野は、即座にそれを拒否した。幹部たちは、庭野に拒 否されたら、妙佼を教祖として擁立して独立しようと千葉県船橋市に建物も用意して いたが、突然、妙佼が病気で倒れたため、この話は沙汰やみになった。  翌1957年9月に妙佼が死去し、妙佼路線を支持する幹部たちは中心を失ったが、庭 野は「連判状事件」を起こした幹部たちを決して咎めなかった。そのため、立正佼成 会は会長を中心にした結束を以前にも増して強め、庭野は余裕をもって佼成会を次の 段階に進める準備を始めた。  1958年(昭和33)1月、庭野は「真実顕現」を宣言し、立正佼成会は、今から、「方 便の時代」を脱し、法華経と根本仏教を教えの基本とし、久遠実成の本仏釈尊を本尊 とする「真実顕現の時代」に入ることを宣言した。これは、釈迦が「顕本」して久遠 実成を明かした法華経如来寿量品の経文に倣ったものと理解される。  こうして、佼成会は、「読売事件」(外部からの危機)と「連判状事件」(内部からの 危機)という二つの教団危機を乗り越え、さらに、これを梃子にした教団改革(教え の普遍化と組織の一元化)の歩みを始めた。1970年(昭和45)頃から始まった同会主 体の明るい社会づくり運動や WCRP(世界宗教者平和会議)の運動も、その延長線上 にある平和・社会活動である。  最後の事例は、創価学会である。創価学会は、1991年(平成3)に日蓮正宗(以下、 宗門ともいう)から「破門」されるまでは同宗の内棲宗教であったので、同会にとっ ては、それまでの日蓮正宗との対立葛藤が一つの教団危機であった。もう一つの同会 の教団危機はマスコミや政党等からの批判に由来していたが、その根源には同会が政 治進出によって宗教的な目的(国立戒壇⑾の建立)を果たそうとしたという事実が存在 していた。この他にも、1943年(昭和18)に起こった神宮大麻不拝事件(不敬罪と治 安維持法違反容疑で幹部多数が逮捕)が同会の教団危機に数えられるが、これは教団 前史(創価教育学会)時代のことなので、ここでは取り上げない。  1946年(昭和21)、戦後の創価学会は、出獄してきた戸田城聖(1900−1958)によっ

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て再建された。1951年(昭和26)5月、同会は戸田を第二代会長にして、「折伏と選挙 →広宣流布→国立戒建立→仏国土実現」と図式化できる戦後の創価学会運動の基本路 線を提示し、1956年(昭和31)から、文化部を拠点として、参議院に議員を送りだし た。  当時の戸田は「われらが政治に関心をもつゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経の 広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである」⑿と述べているが、 「都市下層」⒀の人々の現状打破のエネルギーを吸い上げて彼らに大義と希望を与える こともまた、同会の政治進出のもう一つの目的であったようである。  1958年(昭和33)4月、戸田が世を去った。この時の創価学会の公称会員世帯数は、 80万になっていた。1960年(昭和35)5月、池田大作(1928−)が同会の第三代会長 になった。この時、池田は、西の天理教と東の立正佼成会を折伏のターゲットにする ことや、戸田の七回忌(1964年)までに教勢を300万世帯にすることなどを約束した。  戸田の七回忌にあたる1964年に、創価学会の教勢は、公称400万世帯にまで達した。 この年の5月、池田は、今後は、政党(公明党)を作って衆議院にも進出することと、 「正本堂」を大石寺(日蓮正宗総本山)に寄進することを公表した。そして、翌65年 (昭和40)になると、宗門と創価学会は、「国立戒壇」論批判をかわすために、1972年 (昭和47)に完成予定の「正本堂」が事実上の戒壇であると位置づけた。  1967年(昭和42)の総選挙で公明党が衆議院に25議席を獲得した頃から、マスコミ や他党の創価学会の政教一致的体質への批判が激しさを増し、創価学会=公明党ブロ ックは、やがて、1969年(昭和44)の末から翌70年(昭和45)の春にかけて起こった 「言論出版妨害事件」(藤原弘達著『創価学会を斬る』の出版を公明党議員が妨害した とされる事件)に直面することになる。創価学会は、『創価学会を斬る』の出版を教団 危機として受け止めたのであろうが、実際には、それを止めようとしたことが同会の 教団危機となった。なお、この事件は、国会でも取り上げられた。  1970年5月、「言論出版妨害事件」が容易に終息しない状況を憂慮した池田は、あら ためて、対外的に「国立戒壇」論の放棄と「政教分離」(創価学会と公明党の理念的・ 人的な分離)を公表した。そして、公明党は、これを受けて、「王仏冥合の大理念」の 文言を綱領から削除した。また、この時、池田は、「政治進出は、戒壇建立のための手 段では絶対にない」⒁とも述べた。  その結果、半年にわたって続いた「言論出版妨害事件」は、ようやく終わった。そ の意味では、この事件をめぐる創価学会の危機対応は、一応の成功をみたといえよう が、「国立戒壇の建立だけが目的」であった筈の同会の政治進出が、世論の激しい攻撃 に遭うと、「戒壇建立のための手段では絶対にない」ものへと簡単に変わってしまうこ とが、はたして、教団危機克服の「成功」事例であるのかどうかが問われるのではあ るまいか。

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 1972年10月、大石寺に「正本堂」が完成した。しかし、「国立戒壇」論を放棄し、「正 本堂」を完成させた創価学会は、その直前から、「正本堂は戒壇ではない」、「戒壇は国 立戒壇であるべきだ」と主張する宗内の一部の在家講(妙信講、いまの冨士大石寺顕 正会)の批判に遭遇していた。結局、妙信講は1974年(昭和49)に宗門から解散処分 を受けたが、その過程で、宗門が妙信講と創価学会の対立を好機に教義裁定権を確立 しようとして画策したため、創価学会側に宗門への強い不信感が生じた。  こうして生まれた創価学会と宗門の葛藤は、やがて、在家教団と既成教団の構造的 な違いと内棲宗教の矛盾に根差した深刻な対立へと発展し、1991年の創価学会の「破 門」にまでいたるが、その間の過程については、別の拙稿⒂を参照されたい。  宗門と創価学会の間の対立葛藤は俗に「宗創戦争」といわれているが、両者の間で はこれまで2回の「戦争」が戦われた。  このうち、「第一次宗創戦争」は、1977年(昭和52)1月に始まった。仕掛けた側 は、創価学会であった。同会の池田は、この年の元旦勤行会で、創価学会は日蓮直結 の団体であり、在家であっても供養を受けることができ、その会館は「近代における 寺院」にあたり、そこにある本尊は宗門寺院のそれと同価値であると述べた。また、 その時、池田は、血脈の根本は「信心の血脈」で、宗門寺院は葬式等の儀式の場であ るとも述べた。  これは、これまで宗門を尊び、外護してきた創価学会の大胆な路線転換、すなわち、 明確な在家主義の宣言を意味していた。この新路線は「昭和52年路線」といわれ、以 後、同会は、その線に沿った改革を行ったが、これに対する宗門側の反発は予想以上 に強く、間もなく、法主や若手僧侶たちが「昭和52年路線」の撤回と反省を求めて立 ちあがり、両者の対立が激化していった。  結局、この「戦争」は、宗門の法主が創価学会に厳しい姿勢をみせたり、創価学会 側に造反者が出たり、さらには、同会会員の葬儀の執行を宗門の僧侶が拒否したりし たため、わずか1年で創価学会側が完敗し、「昭和52年路線」は頓挫した。なお、この 「第一次宗創戦争」は、1979年(昭和54)4月に、池田が宗門の法華講総講頭と創価学 会の会長を辞任し、名誉会長になったことで最終的に決着した。  このような教団危機は、創価学会が日蓮正宗の内棲宗教であったがために体験した 特殊な危機であり、一般の他の新宗教にはみられないものであったが、内棲宗教に起 因する教団危機は構造的な危機であるので、この危機は内棲宗教が独立するまで続く ことが予想された。  その予想通り、池田が名誉会長になってから6年後の1985年(昭和60)の初頭から、 創価学会は、「昭和52年路線」の復活を思わせる言動を再開し、再び、宗門と激しく対 立するようになった。1991年を迎えると、宗門が創価学会員の再折伏による寺院の檀 徒化を開始したのに対して、創価学会は僧侶も戒名も塔婆もいらない創価学会式の「友

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人葬」を開始して宗門に対抗した。これが、「第二次宗創戦争」であった。  その結果、創価学会は、同年11月28日に宗門から「破門」されたが、この日を同会 は「魂の独立記念日」として祝った。これは、今回の「第二次宗創戦争」が、創価学 会にとって「破門」覚悟のものであり、前回の轍を踏まないように周到に準備された 「戦争」でもあったことを意味している。  このようにして、二度の「戦争」(教団危機)を経て獲得した創価学会の在家主義的 な要素には、「友人葬」のほかに、法主が書写したものではない無開眼の独自本尊の授 与や、大石寺歴代貫主(法主)への法恩謝徳と五座三座および寿量品の長行等をやめ た勤行様式の採用、地域の祭礼等への参加の緩和などがある。  創価学会が「第二次宗創戦争」の危機を乗り越えられた背景には、衛星放送による 末端会員の直接的な掌握や、周到な準備などの要因もあるが、池田名誉会長のカリス マと卓抜なリーダーシップによったところが大きかった。

6.教団危機の型とその克服を可能にするもの

 まず、教団危機は、自らの挑戦によって招き寄せたものと、招かないのにもかかわ らず外部から来たものがある。前者は自教団の使命に従って敢えて危機を招来したも のであるから、危機克服ということも基本的にはありえない。大本やほんみちのよう な場合がそれである。それでも、両教団が現在でも存続していることは、これらの教 団の指導者のリーダーシップも関係していると思われるが、そこには、その問題とは 別に、果たして、宗教にとって、「危機とは何か」、また、「適応とは何か」、「それに成 功すとは何か」という根本的な問題が伏在しているのではないかと思われる。  後者の場合には、外部から到来した危機を何とかして克服し、環境世界に適応しよ うという姿勢が見受けられる。蓮門教、天理教、立正佼成会、創価学会など、大かた の新宗教の場合がそうである。しかし、この場合には、外部環境に適応しようとして も、それに「失敗」する場合と「成功」する場合の二つのケースが見受けられる。そ の失敗例が蓮門教であり、成功例が天理教、立正佼成会、創価学会である。  では、その際の失敗の要因は何であろうか。『蓮門教衰亡史』⒃の著者は、蓮門教が適 応に「失敗」した要因について、①組織的な弱さ、②教祖の後継者難、③宗教として の脆弱さ(深浅)の3つを要因にあげている。  これを、私流にいえば、蓮門教は「ご神水」のような現世利益を強調して教勢を伸 ばしたが、反面、そこには、①万人を対象とした世界救済を有効に説けなかったとい う教義的な普遍性の欠如、②教祖の生前に、教祖カリスマを継承可能で客観的な他の もの(後継者の位座や教義的に位置づけられた場所・儀礼など)のなかに転封する作 業(カリスマの制度化)の欠如、③発展する教団のライフ・ステージに即して外部環

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境への有効な対応をはかる複数の有能な幹部の欠如などがあった、ということになろ う。  要約すると、危機克服を可能にするものとしては、教団資源、外部環境への理解力、 自己組織化の能力等が重要であるということになる。  しかし、同じように「成功」したとしても、そのために、自教団の中核的な教えを 隠蔽、改編または放棄してしまっては、「成功」の意義が減退するであろう。とはい え、戦前期のように信教自由の体制がなく、国家による宗教公認制のもとでの教団維 持を図らなければならなかったという時代的な制約要因が途方もなく大きかったこと に留意が必要である。  では、最後に、そうした制約がなくなった戦後に「成功」した2つの教団の適応姿 勢の違いについて、みてみよう。

7.教団価値の表現としての危機への対処法

 昭和前期までのような官憲の強力な取り締りがなく、しかも教団側に一定の危機対 応能力があると考えられる場合の新宗教の適応姿勢の特徴は、その教団が常に信者に 教えている人生の危機に対処する基本的な心構えと方法を反映しているのではないか と考えられる。とすると、教団危機の克服方法の検討を通して、当該教団の中核的価 値の検出が可能になるのではないだろうか。以下、ここでは、立正佼成会と創価学会 の事例に限って、それを試みてみたい。  「読売事件」や「連判状事件」にみられたような立正佼成会の適応姿勢から抽出され る同会の中核的価値は、すべての現象や人々から宗教的な真理を学び、可能な限り周 囲と調和しようとする「調和型」(H 型)の価値のようである。他方、「言論出版妨害 問題」や「宗創戦争」にみられたような創価学会の危機対応から抽出される同会の中 核的価値は、生活上と信仰上の区別なく総ての出来事に挑戦して、その「戦い」に勝 利しようとする「勝利型」(V型)の価値のようである。これを裏付ける教団指導者の 言葉は数多くあるが、紙幅の関係で、その紹介は省略する。  しかし、両会とも、「仏性顕現」(立正佼成会)と「仏界涌現」(創価学会)という人 間に内在している本来善の顕在化とその開花を修行の眼目に据えている。同じような 生命主義的な救済観⒄に立ちながら、何故こうまで違った価値表現と危機対応になるの かという問題は、大変、興味深いが、これについての考察は他日を期すことにしたい。 (東洋大学名誉教授) 〈付記〉  本稿は、2006年(平成18)6月10日に開催された中央学術研究所の第15回講師研究

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会の際の筆者の講演レジュメをもとに、それ加筆・修正して作成したものである。 注 ⑴  天理教が教派神道最後の独立教派として1908年(明治41)に公認されたあとの日 本では、新宗教が独立教派としては公認されず、非公認宗教として法的に不安定な 立場を余儀なくされていた。文部省宗教局では、1919年(大正8)の通牒以後、こ うした非公認の新宗教を類似宗教というようになった。 ⑵  既成教団に所属し、その宗教様式の核心部分を継承しつつも、既成教団の宗教様 式とは相対的に区別される宗教様式をもつ教団内の教団のこと。日蓮宗八品派内に あった本門佛立講や日蓮正宗内にあった創価学会が、その典型的な事例である。 ⑶ 松村吉太郎『松村吉太郎自伝 道の八十年』、養徳社、1950年。 ⑷  立正佼成会などの呼びかけで1951年(昭和26)に結成された日本の新宗教の連合 体のことであるが、昔の教派神道や創価学会などは加盟していない。信教の自由や 政教分離を守り、宗教協力による社会貢献をすすめる活動を展開している。 ⑸ 森岡清美『新宗教運動の展開過程』、創文社、1989年、161頁。 ⑹  庭野日敬『庭野日敬自伝−道を求めて七十年』、佼成出版社、1976年、278・279・ 280頁。 ⑺ 同上、まえがき。 ⑻ 同上、290頁。 ⑼ 同上、295−296頁参照。 ⑽ 同上、297頁。 ⑾  日蓮の説いた三大秘法のうちの一つに本門戒壇があって、その解釈のなかに「本 門戒壇は広宣流布の暁に国家意思の発動によって建てられる」というものがある。 近代以降になって、国柱会を創設した田中智学(1861−1939)が上記の意を汲んで 本門戒壇を国立戒壇と名付けた。戦後のある時期までの創価学会は、この国立戒壇 の建立を政治進出によって果たそうとした。 ⑿ 戸田城聖『巻頭言集』、創価学会、1960年、104頁。 ⒀  社会学者の鈴木広が1960年代初頭の福岡市の創価学会員を調査した結果、会員は 周辺農村部から大都市下層の中産階級や下級労働者へと下降移動した人々が多いこ とが分かり、この調査結果を「都市下層の宗教集団」という論文(東北社会学研究 会『社会学研究』22号、1963年、および、24・25合併号、1964年)にまとめた。以 後、「都市下層」は、この時期の創価学会員の階層的な特徴を端的に言い当てた言葉 として、有名になった。 ⒁ 1970年5月4日付『聖教新聞』に掲載された5月3日の池田大作の講演記事。 ⒂  「第一次宗創戦争」の始終については、拙稿「正当化の危機と教学革新」(森岡清

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美編著『近現代における「家」の変質と宗教』、新地書房、1986年)がある。また、 「第二次宗創戦争」の始終については、拙稿「内棲宗教の自立化と宗教様式の革新」 (沼義昭博士古希記念論文集編集委員会編『宗教と社会生活の諸相』、隆文館、1998 年)がある。なお、両論文は、『法華仏教研究』(法華仏教研究会)の第3号と第5 号(ともに2010年)に再録されている。 ⒃ 奥武則『蓮門教衰亡史−近代日本民衆宗教の行く末』、現代企画室、1988年。 ⒄  人間も自然もすべて根源的生命の現れであるから、たとえ人間が根源的生命と不 調和的な関係になっても、根源的生命と調和的な関係を回復しさえすれば、幸福な 状態に戻ることができるという楽観的な救済観のことを生命主義的救済観という。 このような救済観は、日本の新宗教に通底してみられる特徴的な救済観であるとさ れている。詳しくは、對馬路人・西山茂・島薗進・白水寛子「新宗教における生命 主義的救済観」(『思想』665号、岩波書店、1979年)を参照されたい。

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