早稲田大学大学院社会科学研究科
博士学位申請論文審査要旨
申 請 学 位 名 称 博士(学術)
申 請 者 氏 名 坂 本 進
専攻・研究指導 地球社会論専攻 社会思想研究指導
論 文 題 目 キリスト教と近代西洋政治思想
―平和と自由と民主主義の探求―
審査委員会設置期間 自 2007年 5月17日 至 2007年11月27日
受理年月日 2007年 5月17日
審査終了年月日 2007年11月27日
審査結果 合 格
審査委員
所 属 資 格 氏 名 主 任 審 査 員 社会科学総合学術院 教授 古賀 勝次郎 審 査 員 社会科学総合学術院 教授 厚見 恵一郎 審 査 員 社会科学総合学術院 専任講師 奥迫 元 審 査 員 社会科学総合学術院 教授 池田 雅之 審 査 員 政治経済学術院 教授 飯島 昇藏
博士(学術)学位申請論文審査要旨
坂本 進
『キリスト教と近代西洋政治思想
―平和と自由と民主主義の探求―』
[1] 本論文の主題
近代の西洋政治思想は、いうまでもなく、キリスト教と密接な関係を持ちながら展開されてき た。とりわけ、近代西洋の政治倫理は、キリスト教を抜きにしては語れないであろう。本論文は、
近代西洋の政治思想や政治倫理がキリスト教との関りの中で、いかに形成、展開されてきたかを追 求し、更に今日の西洋社会が直面している問題にどう向き合っていけばよいかを考察したものであ る。前者では特に、「平和」、「自由」、「民主主義」の三つの側面から追求され、後者では専ら
「世俗化」の問題が考察されている。平和、自由、民主主義の三つは、キリスト教と結びつけられ、
近代西洋が掲げ達成に向けて邁進してきたもので、今日、平和も自由も民主主義も一応達成された かに見える。だがある意味では、現在それらは厳しい試練に直面しているといわなければならない。
平和は束の間の平和で、自由も虚構の自由であり、民主主義も全体主義をすべて排除できるほど成 熟してはいないからである。けれどもそうした危機的状況も、より広い観点からいえば、キリスト 教の世俗化がもたらしたものだともいえる。キリスト教の世俗化は、キリスト教への信仰の希薄化、
キリスト教の上に築かれたヨーロッパ文化の衰退によるものと考えられる。そして今やこのキリス ト教の世俗化が西洋社会の隅々まで浸透していて、社会の無機質化を進めている。しかし本論文に よれば、西洋社会の底辺には、まだキリスト教が脈々と息づいている。それ故、いま一度、キリス ト教とその歴史を見直すことによって、西洋社会が現在陥っている危機的状態を乗り越えることは 不可能ではない。そのためには、中世のキリスト教まで遡らねばならず、その後のルターやカルヴ ァンなどのキリスト教を冷静かつ正確に把捉する必要がある。またそれは当然ながら、M・ウェー バーの近代化論にも分析のメスを入れなければならなくなる。かつてトレルチは、18世紀以降際 立ってきたキリスト教の衰退を前に、その危機的状況を直視し、キリスト教文化の見直しを通じて、
ヨーロッパの再生を試みたが、そうした試みは、その後も立場はそれぞれ違けれども、多くの知識 人たちによってなされてきた。本論文では、その中でも特に、ブルクハルト、マイネッケ、リンゼ イ、ニーバーやキュングなどが取り上げられ、それぞれのキリスト教観、政治倫理観が論じられて いる。本論文は、トレルチをはじめこれらの思想家がこれまで行ってきた試みの延長上に位置づけ られるものである。こうした試みは勿論、これまで日本においてもなされてきたが、扱っている対 象の広さと分析の鋭さにおいて、本論文は同種のこれまでの研究を大きく超えるものであり、本論 文の研究上の意義もそこに認められる。
[2] 本論文の構成
本論文の構成は以下の通りである。なお、本論文の分量が、1頁、40 字×30 字=1200 字で、全 404 頁(脚注を含む)、約 47 万字であることを申し添えておく。
目次 序論
第一部 キリスト教と平和の政治思想
第一章キリスト教的平和観の変遷 第一節 キリスト教的平和観の歴史
(一)旧約聖書に見る平和の概念
(二)新約聖書に見る平和の概念
(三)宗教改革者たちに見る平和の概念
(四)クウェーカー教徒に見る平和の概念
第二節 戦後のキリスト教団体等とヨーロッパ統合
第三節 キリスト教民主主義政党の政策綱領とヨーロッパ統合 第四節 「平和の思想」の制度化とヨーロッパ統合の課題 まとめ
第二章キリスト教的神秘主義と平和観 第一節 時代背景と歴史的位置づけ 第二節 人間的考察
第三節 思想の本質―神秘主義 第四節 平和思想
第五節 平和の根源 第六節 クザーヌス批判
第七節 キリスト教的平和観の解釈 まとめ
第三章キリスト教政治思想の系譜
第一節 第一次大戦前までのヨーロッパ統合理論
(一)クウェーカー教徒―ペンとベラーズのヨーロッパの平和的統一構想
(二)サン・ピエールのヨーロッパ永久平和構想
(三)ルソーのヨーロッパ統合理論
(四)カントの平和理論
第二節 両大戦及び大戦間のヨーロッパ統合理論
(一)クーデンホフ・カレルギーのパン・ヨーロッパ運動 第三節 第二次大戦後のヨーロッパ統合理論
(一)ドニ・ド・ルージュモンのヨーロッパ統合思想
(二)ヨーロッパ合衆国論(United Europe)
まとめ
第二部 キリスト教と自由の政治思想 第四章 キリスト教と自由
第一節 自由の意味するもの 第二節 自由と倫理
第三節 トレルチとニーバー―キリスト教的自由に関して まとめ
第五章 時代的危機の認識と歴史観
―その時代的危機の認識について―
第一節 キリスト教的終末論と歴史哲学 第二節 ブルクハルトの非科学的歴史論
第三節 ブルクハルト歴史観の基礎
(一)国家
(二)宗教
(三)文化
第四節 ディスコルディア・コンコルスDiscordia concors 第五節 時代的危機の認識
まとめ
第六章 政治と政治倫理
―R・ニ―バ―とH・キュングに学ぶー 第一節 政治倫理のグロ―バル化
第二節 個人の道徳と社会の不道徳 第三節 国益とパワーポリティックス 第四節 国家理性について
第五節 統合ヨーロッパの倫理的基盤
(一)テクノクラートのヨーロッパか
(二)キリスト教ヨーロッパの復活は
(三)倫理基盤を持ったヨーロッパ まとめ
第七章 国益と国家理性 第一節 国家理性論について
第二節 キリスト教宗教倫理と国家理性
第三節 ヨーロッパ統合に潜む国益擁護と国家理性 まとめ
第三部 キリスト教と民主主義の政治思想 第八章 キリスト教と民主主義
トレルチとリンゼイの遺したもの まとめ
第九章 (半)直接民主主義と少数意見
―息づく宗教改革の伝統―
第一節 スイスの政治制度
(一)連邦制
(二)(半)直接民主主義
(三)武装永世中立
第二節 調和せる不調和―地方自治 ゲマインデースイス民主制の原細胞
第三節 スイス宗教改革におけるツヴィングリの功績
(一)ツヴィングリの思想
(二)ツヴィングリの功績
第四節 ヨーロッパ統合へのディレンマ まとめ
第十章 キリスト教とヨーロッパ精神の形成
―ヨーロッパ統合思想における政治倫理―
第一節 ヨーロッパ精神の形成
トレルチの「ヨーロッパ主義」、「文化総合」と現代的意味 第二節 プロテスタンティズムと政治倫理
(一)政治と倫理の役割
(二)「プロテスタンティズムの倫理」に関するトレルチとウェーバーの比較
(三)カルヴァン派とルター派の比較
第三節 プロテスタンティズムとデモクラシー 第四節 トレルチのキリスト教的自然法と機能論 まとめ
第十一章 民主主義政治思想の実践 第一節 欧州共同体における民主主義 第二節 補完性原理について
第三節 ヨーロッパ連邦論の探求
(一)連邦制度の歴史
(二)連邦主義の起源
(三)連邦主義の基本原理
(四)現代における連邦制度
(五)ヨーロッパにおける連邦制度
第四節 キリスト教的平和観とヨーロッパ統合の将来像 まとめ
第四部 キリスト教と世俗化
第十二章 現代世俗化社会とキリスト教政治倫理 第一節 現代ヨーロッパと世俗化現象
第二節 政教分離とライシテ
第三節 キリスト教政治倫理とヨーロッパ統合 第四節 欧州憲法条約の再検討
まとめ
第十三章 プロテスタンティズムの政治倫理と世俗化
―M.ウェーバーと現代ヨーロッパ―
第一節 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』がもたらしたもの 第二節 ウェーバーの宗教理論
第三節 エートスとクラトス
第四節 世俗化現象と現代ヨーロッパ まとめ
第十四章 プロテスタンティズムの倫理と脱世俗化
―過度の世俗化論への反省―
第一節 世俗化論の伝統的主張とその隘路
第二節 ウェーバーのプロテスタンティズム倫理の欠陥 第三節 宗教市場論
まとめ
第十五章 政治的アイデンティティの形成
―欧州政治統合の実現のために―
第一節 ヨーロッパ憲法制定の動き
(一)ヨーロッパ憲法の必要性
(二)ドイツ連邦におけるマーストリヒト判決(ブルンナー判決)
第二節 アイデンティティ・EU市民とヨーロッパの民主主義
(一)アイデンティティの意味するもの及びそのルーツ
(二)ヨーロッパの民主主義と市民権
(三)文化的アイデンティティと政治的アイデンティティ 第三節 キリスト教とヨーロッパ文化
(一)ヨーロッパはキリスト大陸―世俗化と色褪せたキリスト教国
(二)神話の意義―政治的神話と政治的アイデンティティ
(三)宗教の変容
第四節 アイデンティティと統合のパースペクティヴ
(一)ヨーロッパ魂―EUの法的地位
(二)アイデンティティと聖像論争Iconoclastic Debate
(三)アイデンティティとヨーロッパ連合―新しいヨーロッパの誕生 まとめ
補章 欧州憲法条約草案と神の記載 第一節 欧州統合と憲法条約
第二節 神の記載に関する問題―フランスのライシテ 第三節 欧州各国憲法と宗教条項―政教分離について 第四節 現代欧州とキリスト教
まとめ 結語
参考文献総括
欧州統合思想史年譜表
[3] 各章の概要
各章何れも、数多くの文献を渉猟し、入念に整理した上で簡潔にまとめられており、また独創的・
先駆的貢献が多々見られる。
第一部
第一部では、キリスト教と「平和」の関係が論じられている。西洋の政治思想には、「理性」に 基づいて政治思想を展開したギリシア思想と、天地万物の創造主としての「神」に基づいて、神の 似姿としての人間の創造を中心に政治思想を説いたヘブライ思想があるが、ここでは、後者におけ る平和観が扱われている。
第一章は、『旧約聖書』以降の多様なキリスト教的平和観の変遷を概観し、現代の平和運動な どと比較している。『旧約聖書』における平和は、時間を超越した終末/永遠の次元で万人にもた らされる状態、『新約聖書』の平和は神の平和、新しい人類の平和とされる。プロテスタントの平 和観は宗派によって異なるので、ここでは、ルター、カルヴァン、クウェーカー教徒の平和観が述 べられている。そして更に、第2次世界大戦後のキリスト教団体の平和運動やキリスト教民主主義
政党の政策綱領を扱い、キリスト教的平和観や社会教説がヨーロッパの統合にどのような貢献をし ているか、また今後いかに必要であるかを探っている。
第二章は、クザーヌスを取り上げ、その形而上学と平和思想を論じている。クザーヌスは「知 ある無知」や「対立物の一致」など、独特な形而上学を展開するとともに、現代にも妥当するよう な平和論を唱えた。スコラ哲学の衰退という危機的状況の中で、クザーヌスは平和の理念・和合の 精神を説いた。即ち、人間は神の似姿としてその自由意志を働かせ、和合と同意を形成し、平和へ 向かって向上すべき存在であり、また、信仰と理性の一致は宗教と科学の一致を導くと論じた。更 に、クザーヌスの平和思想の特徴として、宗教的寛容性が指摘されている。勿論、このようなクザ ーヌスの平和思想に対しては批判もあり、ここでは、グロスナーの批判が取り上げられている。つ まり、クザーヌスの神学は汎神論的で、事物の根底を平和としているため、実践における真剣さに 欠ける、とグロスナーは批判する。これに対して、ヤスパースはクザ-ヌスの形而上学と平和思想 の価値を認める。
第三章は、キリスト教的政治思想史上、ヨーロッパ統合との関りにおいて、注目すべき平和論 を説いた思想家を取り上げ、その平和思想を歴史的に辿っている。第1次大戦前の思想家としては、
W・ペン、ベラーズ、ルソー、カントなどが取り上げられている。ペンは、平和の主はキリストで あると説いたが、その考えを引き継いだのがベラーズである。サン・ピエールは、キリスト教社会 連合構想を提示し、その『永久平和論』は、カントに継承された。第1次大戦前の思想家の中で最 も詳しく論じられているのはルソーの平和論である。ヨーロッパには、普遍性とともに特殊性があ り、画一的な法律の下で、打ち拉がれてはならないという考えが、ルソーの平和論の基礎にあった。
両大戦間の思想家としては、カレルギーが取り上げられ、そのパン・ヨーロッパ運動の土台にあっ た平和論が簡潔に述べられている。第2次大戦後の平和論としては、連邦主義論を説いたドニ・ド・
ルージュモン、ヨーロッパ合衆国論を唱えたW・ハルシュタイン、C・N・パーキンソン、A・H・
ハイネケンなどの議論が扱われている。このような西洋政治思想史上の平和論の概観から窺えるの は、キリスト教がヨ-ロッパ統合から、次第に沈黙するようになったことである。何故そういうこ とになったのか、その理由は第12章以下で考察されている。
第二部
第二部では、「自由」とキリスト教倫理について論じられている。西洋の政治思想史においては、
自由は既に2千年を遥かに超える歴史を持っている。自由は確かに、外部の拘束を受けないもので はあるけれども、また自らに比較を絶した倫理的拘束力を有している。そうした自由が西洋社会に おいては、長い間一つの絶対的規範として、人々の行為や精神の内面を規定してきた。それ故に西 洋社会の歴史は、自由の探求の歴史といっても過言ではない。
第四章では、先ず、クランストンの議論に拠りながら、自由の意味を考察している。クランス トンは特に、自由を能力とするものと、自由を理性の支配とするものとを、取り上げる。前者の代 表が、ロックやヒュームの自由で、後者の代表が、ライプニッツ、ルソー、アクトンなどの自由と して、それぞれを説明をしている。次に、自由と倫理の問題が扱われ、西洋の政治思想史上の自由 が、ベンサムを唯一の例外として殆どすべての思想が倫理的意味を有していたと論じられている。
ここでは特に、アウグスティヌスとトマス・アクィナスの自由意志説が扱われている。アウグステ ィヌスは、神に対する人間の責任を主張し、罪は自由意志によって起こると説く。トマスはこの考 えを継承するが、アウグスティヌス以上に、自由意志に対する恩寵先行性を強調する。最後に特に、
トレルチの議論を取り上げ、キリスト教的自由について論じている。トレルチは、キリスト教の復 活を思念しつつ、自由について深い考察を加えた。トレルチは自由として、自己表現の自由、精神
的自由、国家意思形成に対する個人意思の協力という政治的自由、の三つを掲げるが、その中でと りわけ問題にしたのは最後の政治的自由であった。そしてトレルチは、自由を発展史的に考察し、
イギリス的自由、フランス的自由、アメリカ的自由などと区別し、詳しく論じた。
第五章は、現代を危機の時代と捉えたブルクハルトの歴史観と文化的統一体論を取り上げる。
ルネサンス以降、西洋社会はひたすら自由を追求し、多くの成果を挙げてきた。それにも拘らず、
自由は現代社会の足枷となり危機的状況を作っている。ブルクハルトは、キリスト教的世界史の理 念から離れ、また神学的・形而上学的原理を想定せず、あくまで人間的立場を貫いて世界史を構成 した。そこには、現代を危機と捉える現代批判とキリスト教への不信があった。ブルクハルトは、
すべての歴史的事実に精神的側面を認め、世界を精神的連続体と規定する。世界史の統一性はこの 連続性に求められた。ブルクハルトの歴史観は、国家、宗教、文化の三つの領域から構成されてい る。国家論で注目されるのは、権力それ自体悪だとする考えである。また宗教は人間性の不壊の形 而上学的要求とされる。そして、文化は国家と宗教を批判するものとして把捉される。従ってブル クハルトの歴史観は、自由と権力の闘争の歴史であり、権力は自由を否定する文化の敵とするもの で、文化を強調するところにその著しい特徴があった。本来のヨーロッパの理念は、「調和せる不
調和」(Discordia concors)である、とブルクハルトはいう。このような考えは、ルター派の一致
をConcordia discorsと理解したスイスの一神学者から学んで、ブルクハルトは神学の槍を逆に向
け、歴史的肯定の論拠をConcordia discorsからDiscordia concorsを作り出したとされる。ヨーロ ッパ諸国が武力を誇り、歴史に内在する対立者の闘争から調和が生まれると歴史家が予言していた 時代に、ブルクハルトは危殆に瀕したヨーロッパの理念を擁護した。
第六章は、政治と政治倫理の問題を、20世紀の著名な神学者R・ニーバーとエキュメニズム運 動の指導者キュングの宗教観に依拠しながら考察している。宗教は社会を直接変革することはでき ないにせよ、社会に対して目を開かせることは可能であるから、社会問題に積極的に関るべきだと 考える点で、ニーバーとキュングは一致している。キリスト教には、人間は原罪を持ってこの世に 生まれてきたという考えがあるが、ニーバーの政治倫理はこの原罪を根底に置く。その原罪は人間 の原始性の残滓ではなく、自分に関心を持つ自我の普遍的傾向のことである。このような原罪が神 の本質と結びつき、罪とは神への不従順ということになる。またニーバーは、歴史の意味が曖昧な 聖書を独自に解釈して自らの歴史観を提示する。即ち、その曖昧さは歴史を通して働く神に応答す ることができる、という信仰によって克服可能であり、しかもその信仰は正義と結びついたもので なくてはならない、と。キュングはこうした考えを継承しつつ、更にそれを地球規模に拡大して議 論をする。つまり、現代政治はもはや地球規模の倫理への考察なくしては実現しえない、と。それ 故キュングは、モーゲンソーの国益を中核とする政治理論に異議を唱える。モーゲンソーの国益論 は専ら、権力と合理性の追求を目指すもので、政治倫理への考慮が希薄だというのである。
第七章は、前章の議論を受け、マキアヴェリとマイネッケの政治思想を通して国家と国家理性 について考察している。マイネッケによれば、近代における国家理性の概念はマキアヴェリに始ま る。またバーリンも、マキアヴェリの政治思考全体が国家理性に従った不断の思考だった、という。
だがマキアヴェリの国家理性の概念がどういうものだったかについては、様々な議論がある。ここ では、マイネッケ、バーリン、シュトラウス、クローチェなどの議論を取り上げているが、要する に、マキアヴェリの政治理論の根本は道徳を無視することではなく、政治の宗教的な道徳や普遍主 義からの解放と政治の自律性の確保とにあったとされる。またマイネッケに関しては、西洋文化共 同体論といったものが論じられている。即ちマイネッケは、ヨーロッパの共同感情―それは、ヨー ロッパの権力闘争に対するランケの評価の前提であり、中世のキリスト教世界が残したものーの再
生と、世界史的思考と生活感情への復帰を説き、こうした方法で世界を救うために国際協調体制の 必要性を訴えた。最後にこの章でも、トレルチの議論が言及されている。キリスト教倫理は国家を 超えて、道徳的思想はキリスト教倫理から国家に流れ込んでいく。国家はこの思想によって、政治 的な道徳性を補足し深めることができる。従って重要なことは、キリスト教倫理が政治倫理に対し てなす貢献である、と。
第三部
第三部は、ピューリタニズムにおける「民主主義」を検討し、民主主義の在り方を考察する。民 主主義はもとより古代ギリシア時代まで遡る。しかしまたキリスト教においては、民主主義は平和 の理念と一体をなしていてヨーロッパの政治文化を規定している。そうした意味でキリスト教と民 主主義の問題を考察することは大いに意味がある。
第八章は、トレルチとその影響を受けたA・D・リンゼイの民主主義論を検討している。トレ ルチの自由論を引き継いだのがニーバーとすれば、民主主義論を継承したのはリンゼイであった。
トレルチはルター派に属していたにも拘らず、ルター派にカトリシズムと同様、家父長主義の残滓 を認め、禁欲的プロテスタンティズムのカルヴィニズムを支持した。それ故、プロテスタント的民 主主義を基礎とする近代史の見方において一致する。トレルチはキリスト教の核心を人格性の理念 に認め、そこに近代の個人主義と民主主義の源泉を見る。リンゼイも民主主義論をキリスト教信仰 から始め、こう論ずる。人は皆神の前で子供であり、平等に貴い価値を持つ存在である、民主主義 は人々がこうした共通のものを持っていることの上に成り立つ、また民主主義は奉仕の精神であっ て、人々は民主主義社会で全体を生かすためには小我を没することを学ぶ、と。
第九章は、ツヴィングリの宗教改革を検証することによって、スイスにおける(半)直接民主 主義と少数意見の問題を考察している。ルターやカルヴァンの宗教改革が世界的規模でなされたの に対し、ツヴィングリのそれはかなり限定される。しかしスイスの宗教改革はツヴィングリによっ て演じられたといわれるように、ツヴィングリがスイスに残した足跡は大きい。ツヴィングリはは じめエラスムスのヒューマニズム思想の影響を受け、後年はルターに傾倒していくが、ルターとも 違った独自の宗教論を展開した。例えば、ルターにおいては言葉と霊とは結び付けられていたが、
ツヴィングリにあっては、言葉は霊のみが媒介するとされ、またキリストの身体は、パンの中にあ るのではなくパンの周りに集まった共同体ゲマインデの中にあるとされる。そして、ツヴィングリ にとってキリスト教的都市はキリスト教的ゲマインデであった。スイスで民主主義の原型となった のがゲマインデである。ここから(半)直接民主主義が育っていった。また、ツヴィングリの宗教 改革における貢献は、多数決原理に挑戦し少数派の意思を実現させようとしたことである。ツヴィ ングリの指導下にあったチューリッヒは盟約社団会議の上からの多数決を阻止しようとして、共同 体ゲマインデの住民の多数決による宗派を選択した。
第十章は、トレルチの生命統一体と自然法の議論を通して、ヨーロッパ精神の形成について論 じている。トレルチのヨーロッパ文化の生命統一体論は、マイネッケの西洋文化共同体論、ブルク ハルトの文化的統一体論に相当する。トレルチの中心にある思想は文化総合にあるが、それは家庭、
法、科学、芸術、宗教、経済などの諸価値からなり、ヨーロッパにおいてはその中心にキリスト教 がある。それがトレルチのいうヨーロッパ文化の生命統一体論である。次に、プロテスタンティズ ムの倫理に関して、トレルチとウェーバーが比較されている。両者の相違点の一つは、ウェーバー が合理性に近代西洋の本質を見るのに対し、トレルチは近代世界を成立させている合理化過程を無 条件に肯定しない点にある。最後に、トレルチのキリスト教的自然法について言及されている。キ リスト教にとって、自然法は外来分子の侵入だが、それはキリスト教の教義に適合せしめられ、社
会的・政治的プログラムの基礎となった、と。
第十一章は、キリスト教的視座から、ヨーロッパの民主主義、補完性原理、連邦主義を検証して いる。キリスト教的平和観が現代のヨーロッパに寄与しているものは、何よりも民主主義である。
民主主義の理念は、神の平和の統治が現実となる社会を望んだ預言者のメッセージに起源を持つ。
ヨーロッパ中世の都市において、市民意識や自治の精神、また団体精神が育まれた。それは教会で の信者たちの共同生活から生まれたもので、民主主義の原理となった。ヨーロッパはこの民主主義 の原理を継承して現在に到っている。補完性原理はマーストリヒト条約の中で、キリスト教の社会 教説として存在する唯一のものである。それはトマス・アクィナスの遺産であり、ローマ教皇ピオ 十一世の社会回勅『クァドラジェジモ・アンノ』に由来するといわれる。そしてその思想的枠組み を提供したのが社会科学者のグンドラッハであった。補完性原理は、国家に対する人格や、社会の 段階的秩序における下位の共同体の自由保障原理である。また同原理は、より小さな集団に各々の 意志決定権を保持することを保障していて、社会や地域文化の多様性を保つ可能性を残していて大 いに意義がある。しかし、EUにとって補完性原理がより重要性を帯びてくるのは今後であろうと いう。連邦主義も民主主義と同じく、キリスト教的平和観の顕現だといわれる。それはヨーロッパ 統合理論の究極の目標とされてきた。連邦的考え方は『旧約聖書』にその起源があり、人と神との 間の連携・契約を意味した。3千年も前、イスラエルに種族的連邦制度があったといわれる。中世 では7百年前に、スイスで連邦制の実験が行われた。近代的な連邦制度は、2百年前にアメリカで 導入された。欧州でも、第2次大戦後、ヨーロッパ連邦ないしヨーロッパ連合結成についての議論 が活発になされてきた。ここでは、ドニ・ド・ルージュモンの連邦主義理論や、連邦主義をめぐる 最小主義者と最大主義者、ハミルトニアンとプルドニアン、それぞれの間の論争を検討している。
第四部
第四部では、現代の西洋社会を襲っている「世俗化」の問題が総合的に考察されている。近代西 洋社会はプロテスタンティズム、とりわけカルヴァンの職業倫理によって形成発展してきたが、し かし他方、それが西洋社会の世俗化をもたらし、キリスト教を基盤に形成されてきた西洋社会の非 キリスト化を加速させているともいわれる。それを検証するため、ここでは特にウェーバーの議論 が取り上げられ、批判の俎上に載せられている。
第十二章では先ず、西洋社会における世俗化の原因について論じられている。これまで世俗化 の原因の説明には大別して四つある。1、人間の理性的自律説。これはP・バーガーの説で、人間 が近代的な理性の自律に基づいて伝統的宗教から自己を解放したため、世俗化が生じたとする説。
2、不信仰・信仰の生命の枯渇説。ゴーガルテンなどは、世俗化と世俗主義とを区別し、世俗化は キリスト教信仰の合法的結果で正当なものだが、信仰の生命が枯渇し死滅する時に世俗主義へ転落 する。3、利益社会の発達説。テンニースによれば、世俗化は社会が利益社会の段階に入り、宗教 の公共的妥当性が失われていく過程である。ウェーバーの近代化論もこの中で言及されている。4、
宗教の純化・再生の過程説。R・N・ベラーなどによれば、世俗化は必ずしも宗教の衰退ではなく、
宗教が他の社会制度から分化していく過程である。次にキリスト教と政教分離の問題が扱われてい る。政教分離の考えは、本来一神教の世界で生まれたもので、キリスト教の歴史と一体をなしてい る。即ち、それは神に属するものとシーザーに属するものとの区別に由来している。そのため、ヨ ーロッパ諸国では、これを憲法上に明記しているところが多い。しかし政教分離の原則は、現実に は第一義的には、信教の自由を保障するための制度である。それ故に政教分離原則の存在をもって しても、なおキリスト教信仰の政治への関わりと責任は免除されない。
第十三章は、専らウェーバーの宗教を論じた著書や論文を取り上げ、プロテスタンティズムの
倫理と世俗化の問題を考察している。ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精 神』において、資本主義的経済活動とプロテスタントの宗教信仰の間に親縁関係はないか、また、
企業家の精神とプロテスタンティズムの禁欲的な職業倫理の間に歴史的因果関係はないかを追求 した。前者については、カルヴィニズムを中心とする禁欲的プロテスタンティズムに見られたこと、
後者については、プロテスタンティズムの宗教倫理が近代資本主義の精神の母胎であること、をそ れぞれ明らかにした。これは近代資本主義の精神が、たまたまプロテスタント的倫理を備えていた ということだが、一方でウェーバーは逆に、資本主義の精神がプロテスタンティズムの倫理を具備 していたことも示し、更には資本主義を擁護するかのような議論をしている。このためウェーバー の議論はプロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神をもたらし、資本主義の発展を促したと解 釈される。しかしこれは、宗教的倫理によって経済的富の追求が肯定されたということであって、
経済的富の追求が今度は信仰の腐朽化、即ち世俗化をもたらすことになった。また資本主義の精神 の重要な要素は合理化だが、その合理化がまたキリスト教の世俗化を加速させることになった。も っとも、ウェーバーも将来の資本主義が「末人」のはびこる荒涼たる社会になるだろうことを予見 してはいたが。
第十四章は前章を受け、過度に世俗化が進んでいる現代社会への反省から、キリスト教を含め た宗教の意義とその見直しの必要性を検討している。先ずウェーバーとの関係で、ブレンターノと ゾンバルトの議論が取り上げられる。ブレンターノも近代資本主義発展に対するカルヴィニズムの 意義は認めたが、宗教と経済については、宗教倫理と資本主義が求める営利活動とは基本的に対立 関係にあると考え、ウェーバーとは反対の立場にあったとされる。ゾンバルトもカルヴィニズムに 資本主義の合理的営利の精神を導いた役割は認めるが、ゾンバルトがあくまで近代資本主義精神の 経済的合理性を主として経済的技術の賜物と見たのに対して、ウェーバーはその原因を、合理的生 活態度を持ち厳しい戒律の宗教人という新しい型の人々の出現に帰している点では、両者の間には 多少の違いが見られた。次にウェーバーの仮説を、プロテスタント社会と他の宗教的文化(特に、
カトリック社会)との比較を通して検証している。例えば経済倫理に関しては、プロテスタントは 他の宗派に劣後しているという結果が出ていて、ウェーバーの仮説は裏切られている。また、ウェ ーバーは科学技術への信念が宗教的信仰を衰退させていると説いたが、ノーリスやイングルハート は、宗教的衰退は科学知識や教育の普及を反映しないともいっており、この点でもウェーバーの仮 説は疑わしいという。最後に、近年議論されるようになった宗教市場論について言及されている。
これは、教会と国家を分かち、異なる宗派の崇拝や寛容の宗教的自由を保護する制度が存在する時 に、宗教への参加は極大化するというものだが、ここでは同議論に疑問が呈されている。
第十五章は、現在のヨーロッパに欠如している政治的アイデンティティの形成について考察し ている。ヨーロッパのアイデンティティはキリスト教を除いては論じ得ない。確かに中世以降、キ リスト教はヨーロッパのアイデンティティに深い影響を与えた。だが、キリスト教のヨーロッパ文 化的要素は必ずしも単純ではなかった。ルネッサンス・ヒューマニズムがヨーロッパにアイデンテ ィティを与えたことは間違いない。しかも今日、世俗化の進行とともに、キリスト教信者の数は年々 減少してきている。現代では当然、宗教はその機能と実質の両面で修正を余儀なくされている。し かし、宗教が文化とともに、アイデンティティの形成に大きな影響を与えることは変わりない。こ こではアドリアーンセンやH・R・ニーバー(R・ニーバーの弟)などの議論が検討されてはいる が、決定的な視座は与えてはいない。こうした中で、ヨーロッパの政治的アイデンティティはどう すれば形成されるのか。本論文は、ハーバーマスとともに、こういって締め括っている。「経済的 な期待だけでは、新にその名に値する政治的統合という遥かにリスクに富み、遥かに到達困難なプ
ロジェクトへ向かっての政治的支援を動かすことはできない。EUの経済的利益はそれが物質的利 益を超えて拡大する時においてのみ、EUの更なる建設のための議論として有用である。」
補章では、欧州憲法条約草案と神の記載についての意見が述べられている。
[4] 分析と評価
審査員から出された意見等を摘示すると以下の通りである。
第一部
序論 ベルジャーエフについては、序論だけでなく他の箇所でも取り上げられているが、近代の 自然観がキリスト教的自然観から導かれたというベルジャーエフの議論についての言及はない。近 代西洋の理解には近代的自然観の発生、形成の考察は欠かせないのではないか。
第一章.本論文全体の議論において、キリスト教的平和観は極めて大きいウェイトを占めている にも拘らず、その変遷の歴史、特に『旧約聖書』と『新約聖書』に見られる平和の概念、について の記述が少ないのは物足りない。しかし、『旧約聖書』の平和観と東洋の平和観について興味深い 比較がなされている。
第二章.クザーヌスの「対立物の一致」を可能にする神と、仏教にいう存在としての「無」とが 比較されるなど、比較思想という視点が見られ評価できる。クザーヌスの思想をめぐるグロスナー とヤスパースとの論争に関する議論もよく整理されていて理解しやすい。
第三章.キリスト教的政治思想の系譜ということであろうが、ホッブズの平和論についての記述 がない。しかしホッブズのような平和論も、西洋においては紛れもなく喧しく議論されてきたので あり、無視することはできない。ホッブズの大著『リヴァイアサン』の後半の宗教論において、宗 教的熱狂がいかに平和の実現にとって危険であるかが論じられていて、その現代的意義は失われて いない。
第二部
第四章.トレルチの自由論がニーバーによって継承されたという議論には説得力がある。ルタ ーの自由論は力のための力の称揚を行ったというのが、トレルチのルター観だとするボルンカムや トーマス・マンの議論は一面的だという批判は鋭い。トレルチの思想がドイツよりも英米などで注 目された、という議論を更に進めるならば、もっと面白い議論が出てくるかもしれない。クランス トンも国別に自由の特徴を分析しており、トレルチの自由論と比較したならば、あるいは興味深い 結果が導かれたかもしれない。
第五章.K・レーヴィットに拠りながらも、敬虔なカトリック教徒であるヴィーコの歴史哲学 に論及していて、議論に厚みを加えている。また、ヴィーコの歴史哲学を、僅かだが、ヘーゲルの それと比較し、両者の違いを明らかにしている点も見逃せない。もっと欲をいえば、ヴィーコのよ うな歴史観に立った場合、現代西洋社会の様々な問題はどのように捉えられるのか、そうした側面 からの議論も面白いのではないか。ブルクハルトの議論も要領よくまた適切にまとめられている。
ランケとブルクハルトとの比較は大変興味深いことなので、もっと詳しく議論してほしかった。「歴 史の危機」の時代には、現実から一歩退いて、自らを様々な運動の外に置き危機の過程を冷静に見 極めようとするブルクハルトのごとき人間が必要だという指摘には納得させられる。
第六章.キュングの議論に拠りつつ、モーゲンソーのナショナル・インタレスト論を専ら権力 と合理主義の追及に貫かれていると批判しているが、そうした側面からのみの批判でよいか。モー ゲンソーの根底には、「大きな悪」より「より小さな悪」を選択することが、道徳的行為の実践だ
という哲学があったし、またナショナル・インタレスト論は勢力均衡の維持による自他の共存を保 障するもので、それ故に道徳的尊厳性が付与されているともいわれる。
第七章.国家理性あるいはマキアヴェリ学説について、マイネッケ、バーリン、シュトラウス など多くの研究家の議論を取り上げ説明している点は評価できるが、どの説をここでは支持してい るのか、いま一つ判然としない。また前章では、キュングの議論によって、マキアヴェリの権力論 を、政治を超越した基礎を持つ道徳を抑圧するものであると批判しているが、七章ではこのキュン グの議論はどうなっているのか、もう少し説明してほしかった。マキアヴェリには古代ローマ思想 を継承したものと、古代や中世とは一線を画す思想とがあり、その点を理解して議論する必要があ ろう。例えば、徳を公的責務とみなしているのは前者であり、力としての秩序制度を重視するのは 後者である。しかし後者も、マキアヴェリの時代が政治共同体崩壊の時代だったことを考慮すれば ある程度納得できるのではないか。
第三部
第八章.トレルチの自由論がニーバーによって継承されたとする議論と同様、トレルチの民主主 義論がリンゼイによって継承されたとする議論にも説得力がある。しかし、リンゼイの民主主義の 議論は短く物足りない。近代民主主義の起源をピューリタンの「会衆」における経験に求めるリン ゼイの議論は、本論文の中でもっと生かせたのではないか。また、リンゼイの「社会の意志」と、
本論文でもしばしば顔を出すルソーの「一般意志」とどう違っているのか、といった点も議論して ほしかった。
第九章.ツヴィングリの宗教思想がスイスの(半)直接民主主義や少数意見についての考えにい かに大きな影響を及ぼしたか、ツヴィングリがどういう訳で「スイスの預言者」であったかが説得 力をもって議論されている。律法についてのルターとツヴィングリの見解の違い、抵抗権を特徴と するツヴィングリの国家教説などについても詳しい議論がほしかった。
第十章.プロテスタンティズムの倫理をめぐるトレルチとウエーバーとの比較、ルター派とカル ヴァン派との比較が、簡潔で適切になされている。トレルチの自然法理解は大変興味深い。このト レルチの議論をもっと深めていくと、ヘブライ思想とヘレニズム思想のそれぞれの特徴と重なり合 うところが、より鮮明に理解できるかもしれない。
第十一章。西洋社会の宗教離れの原因を作った一つとして、ニーチェの反キリスト思想が上げら れているが、その西洋社会に与えた衝撃の大きさを考えると、もっと詳しく論じられてもよかった のではないか。それに関連して、ダーウィンの進化論がキリスト教社会に与えた衝撃も非常に大き かったし、その影響は今日まで引き摺っている。進化論のキリスト教に与えた影響といった議論も 必要ではなかったか。最後に言及されているドストエフスキーは、現代文明の矛盾とキリスト教の 復興とは一体だといっているが、具体的にはどう議論しているのか、聞きたいところである。
第四部
第十二章。世俗化はキリスト教西洋社会に特有な現象とされ、東洋、日本おいては、世俗化は問題 にならないとし、ベラーの議論に言及されている。ベラーによると、徳川時代の日本では、倫理的 義務が第1次的地位を占め、宗教的行為は第2次的地位にあった。ベラーの議論はともかく、キリ スト教社会では宗教と倫理は分かち難く結合していたのに対し、東洋、特に儒教圏においては、宗 教と倫理は、ある程度だが、区別されてきたという事情がある。そう考えると、政教分離は一神教 のヨーロッパ精神文化圏で誕生したというここでの議論と結びついてくるのではないか。つまり、
キリスト教が一神教であるがゆえに宗教と倫理は不可分の関係にあるのではないだろうか。宗教と 文化の関係についてティリッヒやT・S・エリオットなどの議論に言及しているのは適切である。
特に、ティリッヒは本論文の文脈においても重要な位置を占めるものと思われる。従って、ティリ ッヒとR・ニーバーあるいはブルトマンとの思想的関係に論及すればもっと深い議論ができたので はないか。
第十三章。ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の議論は本論文の中で最 も異彩を放っていて面白い。終わりの方で、世俗化が進んでいる中で、宗教復権の動きについて論 じられているけれども、議論が短く惜しまれる。最後に、H・ラスキの「プロテスタンティズムは むしろ先に近代政治的自由主義と結びつくべきであった」,という主張を引いているが、本論の中 で取り上げ論じてもよかったのではないか。
第十四章。ウェーバーとブレンターノの比較、ウェーバーとゾンバルトとの比較、は簡潔で適切 になされている。ただ、ゾンバルトには厳しい近代合理主義批判があるので、それについても、で きれば本論文のコンテキストの中で、議論してほしかった。宗教市場論という近年の動きにも細心 の注意が払われていて評価できる。また、ノーリスやイングルハートなどの最新の文献が使われて いることも評価できる。
第十五章。H・R・ニーバーの宗教の多元化時代に照らすべきパラダイムは非常に興味深いが、
箇条書き的説明に終っていて惜しい。聖像論争につての議論ももっと詳しくやってもよかったので はないか。というのは、聖像論争はヘブライとギリシア遺産との対立であり、ヘブライズムとヘレ ニズムとの比較が求められ、本論文に厚みを加えるのではないだろうか。
全体
本論文は、大部な上に数多くの思想や思想家を取り上げ考察しているが、議論の大きな流れは明 瞭に読み取れる。近代の「平和」、「自由」、「民主主義」といった政治理念は、何れも宗教とし てのキリスト教あるいはキリスト教倫理と、密接不可分に形成され普及していったものであること、
しかしその後、現代社会で「世俗化」が進行したため、それらの政治理念は、窒息、腐敗、形骸化 し危機的状況に陥っている、社会が再び本来の平和、自由、民主主義を取り戻すには、世俗化を食 い止め克服する必要がある、というのがそれである。本論文はこのように、現代の深刻化する世俗 化への問題意識によって貫かれている。それはまた、今日の西洋社会の問題意識とも一致している。
例えば、現代西洋を代表する思想家、J・ハーバーマスやC・テイラーなどが、最近相次いで、世 俗化の問題について発言していることからも、それは窺える。ハーバーマスと現在のローマ教皇ラ ッツィンガーとの対話『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』(岩波書店、2007 年)は、日本でも話題 になっているし、テイラーの大著、A Secular Age(The Belknap Press of Harvard University Press、
2007)も世界の思想界に衝撃をもって迎えられている。ただし、この二著は本論文完成後に出版さ れていて、本論文では言及されていない。
本論文は以上のような問題意識によって展開されているので、議論は首尾一貫しているが、近代 の政治理念の形成・普及と世俗化の原因究明とが、共にプロテスタンティズムによって論じられて いて、カトリシズムへの論及が見られず、プロテスタンティズムの功罪だけで議論が進められてい る。審査委員会で最も議論されたのはこの問題であった。近代社会において、確かにプロテスタン ティズムは広く受け容れられていったが、しかし何故、中世ヨーロッパを支配していたカトリシズ ムはその支配力を維持できなくなったのか。この二つは同一問題の裏表のようなものであるから、
両者を同時に論じてもよい訳である。例えば、J・ロールズの「包括的教説」(comprehensive doctrine)
や「政治的リベラリズム」(political liberalism)といった用語を使えば、こう論ずることもで きよう。カトリシズムもプロテスタンティズムも包括的教説であるから、何れにせよ、近代の多元
的社会では、諸教説・思想と共存していくには政治的リベラリズムといったところで、折り合いを 付けなければならない。プロテスタンティズムの包括的教説の方が柔軟だったため、近代社会への 適応が比較的容易だったということだろう。一方、カトリシズムもプロテスタンティズムの挑戦を 受けたからこそ、他の教説・思想と共存していくことを学んだといえる。それが宗教戦争をともか くも終結させ、近代社会を諸教説・思想の共存可能な社会へと導いていったと考えることができる。
この問題と同様に、世俗化の原因は、プロテスタンティズムだけでなくカトリシズムにもあったと 思われるし、その他、近代の自然観や科学・技術の急速な発達などにも求められるのではないだろ うか。そういった側面からの考察があれば、本論文はより説得力を持ったものになったであろう。
それにも拘らず、本論文では、入念・精緻な考察に基づいて、太くて一貫した議論が展開されて いる。それは、トレルチ、ブルクハルト、マイネッケ、リンゼイ、ニーバー・・・と継承されてき た思想である。本論文の成果として最も高く評価されてよいのは、ウェーバーの思想との対比で、
これらの思想家を論じたところにあるといえる。しかし、これらの中で、繰り返し学ぶべきとして いるのはトレルチである。ウェーバーは「政治と倫理との峻別」を説いたが、トレルチは「政治と 倫理との妥協」を説いた。「宗教は精神生活の意味と目的に関るが、政治はそのための物質的基盤 に関る前提・準備段階である。宗教は政治の粗暴な要求に対し抵抗し影響を与え、政治を宗教や精 神生活に奉仕するもの」である、というのがトレルチの根本思想である。このトレルチの思想に共 鳴しつつ、それを導きの糸として,キリスト教と近代西洋政治思想との関係を歴史的に論じたのが、
本論文である。非常に大きなテーマを扱っているにも拘らず、本論文が思いの外スッキリした形で まとめられたのは、もとより考察対象が限定されたからではあるのだが、しかしそれは、トレルチ 思想の研究を通して、対象を見る目が鍛えられたからといってよい。本研究によって得られた知見 が、上述のように、現在世界的規模で行われている世俗化論議に、一石を投じ得るものと信じてい る。
以上を総合的に判断した結果、本論文が、「博士(学術)早稲田大学」の学位に値するものと認 める。
2007年11月27日
主任審査委員 早稲田大学社会科学総合学術院教授 経済学博士(早稲田大学) 古賀勝次郎 審 査 員 早稲田大学社会科学総合学術院教授 博士(政治学)早稲田大学 厚見恵一郎 審 査 員 早稲田大学政治経済学術院教授 Ph․D(政治学)シカゴ大学 飯島 昇蔵 審 査 員 早稲田大学社会科学総合学術院教授 池田 雅之
審 査 員 早稲田大学社会科学総合学術院専任講師 博士(政治学)早稲田大学 奥迫 元